荒波の将軍

-足利尊氏-
義貞挙兵
 京において、六波羅探題は大きく分けて二つの役割を持っていた。
 一つは、近畿地方を中心とする鎌倉政権の統治代行である。当時九州の博多にあった鎮西探題を西の鎌倉とするなら、六波羅は中央の鎌倉と言うべき機関だった。
 もう一つは、朝廷の監視である。鎌倉前期に起きた承久の乱以降、鎌倉は朝廷との軍事衝突を仮定し、常にこれを監視し続けてきた。実際、後醍醐天皇の討幕計画は二度も六波羅探題によって防がれている。これを潰したということは、朝廷が鎌倉から"自由"になったということでもある。
「しかし、騒然としておるなあ」
 高氏は、京に群がる人々を見て、そうぼやいた。呑気そうに見えるが、内心はそれどころではない。
「兄上、こちらにおりましたか」
「次郎か」
 背後から聞こえた次郎の声に、高氏は振り返らないまま応えた。
 ここは京の外れにある屋敷だった。そこから、ずっと東の方を眺め続けていたのである。
「鎌倉のことが気になりますか」
「そうだな。一刻も早く向かいたいものだ」
「それなら、早々に戦後処理を行わねばなりますまい」
 高氏は現在、六波羅との戦いに集まった武士たちの沙汰を行っていた。六波羅を滅ぼして二日経った、五月九日のことである。
 沙汰とは、働きに応じてどのような処遇を与えるか、ということである。これを上手くこなせなければ不公平だと武士の支持を失うことになるから、指導者という立場の高氏からすれば、戦そのものよりも扱いが難しい。さっさと終わらせて鎌倉に行く、ということは許されない。
「しかし困ったものだ。論功行賞など後回しにして、早々に鎌倉へ攻めようという者はおらぬのかのう」
 六波羅探題を討つまでは勢いに乗っていたのに、この一事でそれが削がれてしまった。敵よりも味方の方が高氏を止めることになったのは、ある種皮肉である。
 高氏としては、二重の意味で東に向かいたかった。勢いに乗じねば鎌倉を討つことは難しいだろうし、なにより人質に取られている妻子の安否も気にかかる。
「まあ、仕方ありますまい。我ら足利や朝廷は打倒鎌倉こそが第一ですが、他の者どもはそうではありませぬから」
「朝廷とて勢いを失っておるではないか」
 後醍醐は近々こちらに戻ってくることだろうが、まだ到着はしていない。楠木正成や大塔宮は、これを出迎える準備をしている。在京の公家たちは、既に鎌倉に勝ったつもりでいるようだった。伝え聞くだけでも微笑を洩らさずにはいられないような有様だという。
「強気になるだけの要因はありますからな」
「それも分かるが」
 楠木正成や大塔宮と戦っていた鎌倉の武士たちは、高氏と同様に寝返るか、領地へ戻るかした。鎌倉側の被害はそれほど出ていないが、統一感は大分失われているようだった。鎌倉の命に応じるような武士がどれほどいることか。公家たちが浮かれるのも、無理もない。
「しかし、まだ京付近を制したに過ぎん。東国武士がどう動くか……」
「兄上は心配症ですな」
「背負うものがある。わし一人ならどうとでもなるが、他人のことを背負うとなれば話は別だ。責任ある立場とは辛いものよ」
 そう冗談めかしく言って、高氏は仕事に戻ることにした。次郎もその後に続く。
 しかし、このとき彼らはまだ知らなかった。東国の方で、大きな動きが起こりつつあることを。
 それは高氏が起こした波とは別の、しかし決して無関係とは言えない、大きな波であった。

 高氏が育った足利荘の近くに、新田荘と呼ばれる地があった。足利荘に流れ着いた高氏らの祖先、源義国が開拓した土地である。
 義国はまず先に足利荘の開拓に取り掛かり、これが一段落すると、足利氏の祖先となる次男義康に与えた。その後義国は新田荘の開拓に乗り出し、こちらは長男の義重に継がせた。この義重も、義康同様、地名から新田義重と呼ばれる。新田氏の始まりであった。
 しかし、長男の血筋でありながら、新田氏は鎌倉からさほどの扱いを受けていない。鎌倉の初代将軍である頼朝が挙兵した際、足利氏は早くからこれに従っていたのに対し、新田氏は従うことを躊躇ったからである。新田氏は鎌倉から不興を買ってしまい、それが高氏たちの時代まで尾を引いているのだった。
 これに輪をかけて悲惨なのは、全ての新田氏が鎌倉から冷遇されていたわけではないということである。なぜ悲惨なのかと言えば、冷遇されていたのは新田宗家であり、分家である山名氏や里見氏は早くから頼朝の元に馳せ参じていたため、それなりの扱いを受けていたのだった。これでは宗家の面目丸つぶれである。
 遡れば足利氏と同じ血筋であり、長男であるだけ優遇されてもおかしくない新田宗家だったが、こちらは無位無官だったという。足利氏の高氏はと言えば、若くして従五位に昇り詰めていた。
 そんな苦境に立たされていた新田宗家、このときは新田義貞という男が当主であった。
「鎌倉の支配にはもう耐えられぬわ」
 義貞のこうした思いは、高氏の比ではなかった。高氏のような重責は義貞にはなかったが、その日食うのにも困る切実さは、義貞の方にしかない。高氏は現状維持さえすれば良かったが、義貞は日々生き残るための苦心をせねばならなかった。
 先の年、義貞は楠木正成の籠る城を攻める鎌倉軍に加わっている。しかし、鎌倉の命令を無視して途中で帰国してしまった。このときの義貞の真意についてはいくつかの説があるが、まず軍費の不足が考えられる。短期間の戦ならともかく、楠木正成は長期に渡る籠城戦を挑んできたのだ。城攻めは、攻める側の人数に限りが出てくる。そのため鎌倉軍は暇を持て余す者たちも相当いたという。
「このように無為な戦には付き合えぬ」
 と義貞が思ったとしても、当然である。裕福な武士は退屈しのぎに宴会でもしていたのだろうが、義貞にはそのような余裕はない。長く戦場にいれば軍費は消耗するし、地元の農作も滞ってしまう。それに、この戦いでは恩賞などほとんど期待も出来ない。義貞が戦場を放棄する理由はいくらでもあった。他にも義貞のような武将はいたかもしれない。
 この頃、つまり楠木正成討伐に出向いていた頃、義貞は大塔宮と何らかの形で接触した。直接会うことも、不可能ではなかっただろう。義貞は鎌倉から、さほど重要視されていなかった。
 接触は、大塔宮からの書簡で始まった。鎌倉打倒のために、共に闘って欲しい、という内容である。大塔宮や後醍醐はこの類の運動は活発に行っており、遠い九州にまで影響を及ぼしていたから、義貞がこれを受け取ることは珍しいことではない。
 ただ、義貞の中には源氏の主流としての血が流れていた。今は足利氏に主導権を奪われているが、本来は新田氏の方が多少格は上のはずである、と思っていた。
 そこで、義貞は大塔宮への返書をしたためた。源氏の武士として、是非一度お目にかかりたい、と。
 大塔宮はこれに快く応じた。元から絶望的な戦いをしているからか、この皇子は非常に積極的な行動家だった。
 二人の会談は河内のどこかで行われたと思われる。
 そこで義貞はこう言った。
「某は鎌倉討伐のために挙兵致したく思います。しかし、悔しいことに、我が新田に従う者はほとんどおりませぬ」
「それで、そなたは私に如何にせよと申す」
「是非とも、鎌倉攻めの総指揮権を某にお与えくださりませ」
 義貞は賭けに出たのである。鎌倉を倒して新田氏を盛り立てようとする野心もあった。しかし、それだけではない。もはや鎌倉の支配下では生きることすら難しい、という状況になりつつあったのである。
 闇雲に決起したところで勝ち目はない、と考えている点では義貞も高氏と一緒だった。ただ、高氏が足利氏の保全を考えていたのに対し、義貞は新田氏の、まさに生死を賭けていたのである。
「分かった」
 少し考えて、大塔宮は義貞の求めに応じた。ただし、大塔宮にも東国武士の支配権はない。だから、今後東国武士に送る書簡に、新田氏と共に闘うべし、と付け加えた程度である。
 それでも効果はある、と両者は考えていた。この時代は実力も勿論必要だが、血筋もまた重要視されていたのである。新田氏はこの点、足利氏と同等もしくはそれ以上の家系だった。それに、大塔宮は朝廷軍の将軍とも言える人物である。鎌倉から朝廷に寝返ろうとする武士がいたら、大塔宮の言葉は無視出来ないであろう。
 こうした一連のやり取りを終えて、義貞は新田荘に戻っていた。
「兄者、いよいよだな」
 河内でのことを思い返していた義貞は、弟の義助の声で我に返った。
「うむ。ここで我ら新田氏の命運が決まる。敗れれば皆で死のうぞ」
 言葉は悲痛なものだったが、義貞の声に恐れは混じっていない。武人として恥ずかしくない戦をしたいという思いだけがある。
「では行くか、義助。足利に遅れを取ることは出来ぬぞ」
 このとき、五月八日。高氏が丹波篠村で反旗を翻したとの報告は、既に東国にも届いていた。これより前、高氏の妻登子とその子千寿王は鎌倉を脱出したと聞く。
 しかし六波羅の壊滅は六日のことだから、まだ東国にその報は届いていなかった。義貞の決起は心細いものだったのである。
 従ったのは一五〇騎だったという。対する鎌倉には、まだ数万の兵が残っていた。