荒波の将軍

-足利尊氏-
緊張
 高氏は動かない。ただ、情報を集めている。
 鎌倉との戦における恩賞問題は、朝廷が行っている。高氏の元に集まっていた恩賞問題は、そのまま朝廷に流れたということだ。元々高氏自身にその権限はないから、さして気にはならない。現在、地域によっては北条の残党が動いていることもあり、沙汰はまだとなっている。
 後醍醐天皇の新政は記録所と恩賞方という二つの機関が中心となっていた。しかし、これらの機関は後醍醐方の公家たちで占められており、高氏やその党類は入っていなかった。ただ、一部例外として、楠木正成や名和長年といった悪党上がりの者が構成員に含まれている。
「帝の贔屓によるものよ」
 師直をはじめ、多くの武士たちはこの人事を笑い飛ばしていた。武士は所領こそ大事であり、朝廷の一部となって働くことに魅力は感じていない。噂の種にはなるが、それが直接不満になるわけではなかった。
 ただ、高氏や直義らが無視されたような格好になっていることは、噂になっていた。
「まあ、別に入りたいとも思わぬがな」
 後醍醐は、帝が発する臨時は万能であると定めた。その意図するところは天皇専制であり、すべての最終決定権は天皇が持つということでもある。恩賞方や記録所の仕事と言えば、その決定のための材料集めに過ぎない。その機関が公家たちで構成されているのは当然だろう。帝の手足としては、幕府方の武士よりも信頼がある。
「しかし、大塔宮様は困ったものです」
「何がだ?」
「足利は第二の北条になる恐れあり。そのように触れまわっておられるようです」
 大塔宮は、後醍醐から征夷大将軍に任命された後、ようやく京に戻ってきた。名誉職を与えて慰撫したというところだろう。ある意味では、高氏と似たような扱いを受けている。
「我らに対抗するつもりか」
「征夷大将軍も大塔宮様が望まれたと聞いております。帝はそれに乗り気ではなかった、とも」
 後醍醐の政治は、鎌倉政権の否定にあった。鎌倉が行ってきた所領に関する沙汰を誤りであるとし、次々とそれを正そうとしているという。名目上、その鎌倉の頂点とされてきた征夷大将軍という官職は、後醍醐にとって苦々しい響きであろう。
 大塔宮も武家政権否定派である以上、征夷大将軍というものは警戒していたはずだった。それを自ら所望したのは、父である帝が高氏にこれを授けるのではないか、という疑念があったからだろう。
「どうも、帝と大塔宮様の仲はうまくいっておらぬようだな」
「そのようなことを気にかけている場合ではありませぬ。新田勢のこともありますし、これ以上軽んじられていては足利の名に傷がつきますぞ」
 確かにそうであろう。鎌倉戦で大きな役割を果たしておきながら軽視され、それに抵抗せねば源氏の主流としての誇りが廃る。
「分かった。わしも御所へ出向いて、掛け合ってみることにしよう」

 相変わらず、重苦しい雰囲気だった。それでも、大分慣れてきた。
 高氏が恩賞のことを持ち出すと、廷臣たちの視線が卑しい者を見るようなものに変わった。それにも慣れた。
「足利殿は帝のなされように不満でもあるのか?」
「滅相もございませぬ。ただ、武士とは命を懸けて土地を得る者にございます。命懸けの戦が終わり、それでも恩賞が出ぬとあらば、不満を持つ者も多く出ましょう」
 後醍醐と直接問答をするわけではない。相手は、後醍醐の側近である。最初の一度以来、尊氏は帝の声を聞いていない。
 帝は、ただそこにいるだけである。
「もうよいであろう、下がりなされ」
 公家の言葉に高氏はちょっと頭を下げた。
 御所を歩きながら、高氏はわずかに見えた後醍醐の顔を思い出していた。何かを訴えかけてくるような目をしていた。表情は、必要以上に強張っていた。
「足利殿」
 ちょうど内裏から出ようとしたところで、後ろから呼び止められた。振り返ると、そこには意外な顔があった。
「貴方は、いつぞや我が屋敷に参られた……」
 そこに立っていたのは、かつて足利荘を訪れた、名も知れぬ男だった。長らく忘れていたが、顔を見てすぐに思い出した。
 男の表情からは、何も窺うことは出来なかった。こちらを軽んじているわけでもなく、心を開いているわけでもない。
「あのときは名乗りもせず無礼をした。私は北畠の宗玄というものだ」
 宗玄とは出家してから号したもので、名は親房という。後醍醐天皇の信頼厚く、吉田定房、万里小路宣房と共に「後の三房」と称された公家である。
 相手の意外な正体に驚いて頭を下げる高氏を、親房は「よい」と制した。
「いろいろと話したいこともあるが、今日は別の用事があって来た」
「用事でございますか?」
「うむ。明後日、もう一度御所に来てもらいたいのだ」
「明後日。はて、何かあるのでしょうか」
「帝がお主と語らいたいと仰せでな。余計な廷臣は同席せぬ」
 親房の物言いから、高氏はうっすらと帝の内心を知り得た気がした。
「では、誰が同席されるのでございましょう」
「私と大塔宮様だけよ。そちらも、よければ左馬頭殿を連れて来られるとよい」
 京の情勢を握る要人が一堂に会する、と言っても過言ではない面子だった。
 ちなみにこの時期、新田義貞はまだ鎌倉から上京してきていない。また、いかに戦功を立てたとは言え、楠木正成や赤松円心は出自が低い。そのため彼らは政局の中心にはいなかった。
「大塔宮様もお越しになられるのですか」
「不服か」
「いえ、ただ私は嫌われているようなので」
 不服ではないが、気は滅入る。それが顔に出ていたのか、親房は大きく溜息をついた。
「その心中を明かされたわけではないが、帝はおぬしらの不和を憂慮しておられる。此度我らを呼んだのも、おそらくはそのためであろう」
「承知しております」
「それに、おぬしのしたことにも原因はある」
 親房からは、以前会ったときよりも冷たい印象を受けた。彼が変わったのか、それとも自分が変わったのか、あるいは両方なのか。
「宗玄様、私は間違ったことをしたとは思っておりませぬ」
「そうであろう、私もそう思う。だが、大塔宮様とて間違っているわけではない。ともかく明後日だ。承知したな、足利殿」
 親房はそう言い残すと、急ぎ足で去ってしまった。何かに苛立っているようだった。

 この件は、他の公家たちには知らされていないようだった。秘密裏の会合ということらしい。
 庭先から日の光が差し込んでくる一方、室内には濃厚な影があった。その中に、一人の青年が座っている。
 高氏らがやって来たとき、青年はこちらを一瞥して、目を閉じた。それ以降、動きを見せない。おそらく、この青年が大塔宮なのだろう。がっしりした体格の持ち主で、一騎打ちでもすれば高氏は負けてしまいそうだった。
 隣の直義も、この場には緊張しているようだった。いつもに増して表情が硬い。
 どれほど時間が経っただろう。誰かが近づいてくる音がしたかと思うと、親房に連れられた帝が姿を見せた。
 一同が平伏する。その中を悠々と歩き、帝は上座に腰をおろした。
「皆、表を上げよ。伏せたままでは声がよう聞こえぬわ」
 威厳はあるが、重々しくはなかった。やはり、どこか武将のような印象がある声だ。
「此度そちたちを集めたのは、他でもない、そちたちの不和のことだ」
 高氏は後醍醐の言葉に頭を下げた。帝から直に指摘されては、萎縮するしかない。
「そちたちの不和によって、市中からは不安の声が出ていると聞く。それを放置することは出来ぬ」
「おそれながら」
 大塔宮が鋭い声を発した。後醍醐はかすかに眉を動かし、我が子に視線を向けた。
「私は鎌倉を打ち倒すための戦いを続けてきました。北条は倒れましたが、未だその戦いは終わっておりませぬ」
 大塔宮の険しい視線が高氏へと向けられる。
「各地では、まだ北条の生き残りが抵抗を続けております。また、鎌倉の残党は足利殿の下で健在。戦が終わったと安心するのは早計」
「鎌倉は倒れました」
 大塔宮の言葉を断ち切るように声を上げたのは、直義ではなく、高氏である。
「大塔宮様は私が鎌倉の兵を匿っていると思われているご様子」
「……違うと言うのか?」
「断じて違います。武士には、勝ち目がないと見れば相手に降参することが認められております。彼らはそうして降参しただけのこと。もはや鎌倉ではありませぬ」
 高氏と大塔宮の視線がぶつかり合う。別に口論するつもりはなかった。ただ、感情が揺れ動いている。
「しかし、なぜ足利殿がそれを認める。降参人どもはなぜ足利殿の下に集まる。帝の下に帰参するのが筋ではないか」
 鎌倉との戦の総大将は後醍醐天皇である。降参するのであれば天皇の下に行き、認められなければならない。大塔宮の主張は、確かに間違いではない。彼からすれば、帝の立場を高氏が横から奪ったように映るのだろう。
「鎌倉成立以降、武士は武士、宮方は宮方とされてきました。彼らが私の下に帰参したのは、足利の勢力ゆえです」
「その勢力が問題なのだ」
 大塔宮はかすかに迷ったが、結局口を開いた。
「率直に問う。足利殿、そなたは相模入道(北条高時)の後を継ぐつもりではないか」
 その言葉に直義が身を乗り出し、高氏は慌ててそれを制止した。親房は厳めしい顔のまま後醍醐を見ており、帝の視線はまっすぐ高氏へと向けられていた。
「……北条の後を継ぐことは、ありえませぬ」
 高氏は全員に言い聞かせるように、力を込めて言った。
「私が鎌倉の敗残兵を帰参させたのは太平の世を作るためでございます。降参を認めなければ彼らは抵抗せざるを得なくなり、彼らとの戦が続けば世は大いに乱れましょう」
「その点については私も同感でございます」
 後醍醐に向けて、親房が言う。
「今、仮に足利殿が北条の後を継ごうとしても、帝に逆らってまでこれに従おうとする者はおりますまい」
 親房の後を継ぐように、高氏が言葉を続けた。
「また、現在諸国の武士が京に集まってきておりますが、彼らは私の配下になったわけではありませぬ。彼らの目的は恩賞を得ること。恩賞をお与えになるのは御上でございます」
「恩賞を与える者に武士は従う、か」
「然り。逆に恩賞を与えなければ、武士――否、全ての人々は不満を抱くものなのです」
「うむ」
 後醍醐は一同を見渡して、ゆっくりと頷いた。
「高氏よ、またこのような機会を設けたいものだ。朕は武士というものに、そちという男に興味が湧いたわ」
「御上、それは……」
「護良よ、そちの心も分かっておる」
 後醍醐は姿勢を正す。一同も、自然と背筋を伸ばした。
「今は天下泰平こそ第一である。抵抗を続ける者は打ち払うべきだが、そのつもりがない者の降参は認める。また、全てを決するのは朕である。朕の認めぬ無用な争いは、決してしてはならぬぞ」
 その言葉に全員が平伏する。その日はそれで解散となった。
 大塔宮の表情は、終始険しいままであった。