荒波の将軍

-北条高時-
最後の得宗
 嘉元元年(一三〇三年)、鎌倉に一人の男子が誕生した。鎌倉政権の実質的支配者、北条貞時の子である。
 成寿丸と名付けられた少年は、台風の目で育てられた。彼自身の周囲は穏やかだったが、その外側には凄まじい光景がある。

 鎌倉政権は初期の頃こそ有力武士の連合政権であったが、次第に北条氏の支配下に置かれるようになった。それは他の有力武士――御家人たちが望んだものではない。反発の声は常にあった。
 北条氏の専制が強まったのは理由がある。鎌倉中期、日本に元が攻め込んできたからである。
 元の規模は圧倒的で、日本が太刀打ち出来るものではなかった。それでも戦うとなれば、戦闘要員である武士の力をまとめなければならない。まとめるためには指揮官が必要だった。
 しかし国の中心である朝廷は、軍事の専門家ではなかった。また、その専門家である武士は朝廷の支配を嫌って独自の政権を作っている。それが鎌倉であり、その中心には北条氏がいた。軍事組織の中心であれば、北条氏が指揮官となるのは当然のことであろう。
 運良く元の侵攻は防げた。しかしここで第二の問題が発生する。
 この時代の武士は傭兵に似ており、軍事行動は自己負担であった。その代わり、戦後は恩赦を求めてくる。恩赦とは土地である。しかし、外国に対する防衛戦では土地など得ているはずもない。
 ここで北条氏には二つの道があった。
 一つは、自分たちの所領を恩赦として分け与える道。
 もう一つは、自分たちの力を強化し、不満を持つ武士たちを押さえつける道。
 前者のメリットは、武士の不満を解消することが出来るということ。デメリットは、自分たちの所領が減ることである。所領が減れば、他の武士に実権を奪われる可能性もある。
 後者のメリットは、自分たちの支配体制を固めることが出来るということ。デメリットは、武士の不満を高めてしまうことであった。
 結果的に、北条氏は後者を選んだ。元がいつまた攻めてくるか分からず、そのときのために北条氏が中心であり続ける必要性を感じたのである。
 北条氏は名より実を取った。将軍という名ばかりの権力者にならず、執権という実際の権力者になった北条氏らしい、合理的な考え方であると言える。
 かくして北条氏の支配力は強まった。そして、御家人たちの不満は募るばかりであった。
 成寿丸の環境を台風の目と評したのは、そのためである。

 成寿丸は七歳のときに元服し、高時と名乗った。その二年後、父が死に北条本家を相続する。
 まだ幼少の身であるため、北条の一族家臣がその補佐をした。北条氏の立場は元との戦い以降難しいものになっていたから、周囲の者たちは事細かく高時に口出しをしたものと思われる。
「御家人たちは家来と思って接した方がよろしいでしょう。ただ、それをあからさまに言ってはなりませぬ」
 特に口うるさいのは長崎高綱であった。貞時の信頼が厚かった家臣で、彼に後事を託されたというのがこの男の誇りであるらしい。貞時の子である高時の教育を行うのも、高綱にとっては先代の指示の一つなのである。
 高時はこの男のことがあまり好きではなかった。ただでさえ周囲がうるさくて窮屈な思いをしているのである。特に口うるさい高綱は、高時が一番苦手とする相手だった。
「おぬしの声は蝉よりうるさい」
 と、常々高時は不満を口にするのだが、高綱は一歩も引かない。
「我慢なされ。そうでなければ、本家の主は務まりませぬぞ」
 北条氏の周囲には不満を持つ御家人たちがいる。また、北条氏内部でも隙あらば権力を得ようとする者が絶えなかった。おまけに京の朝廷への対応も行わねばならない。高綱の小言で弱音を吐いているようでは、どうにもならないであろう。
 そうした教育が年相応になってから行われたのであれば、問題はなかった。しかし高時は幼い頃にそれを受けた。貞時が早くに亡くなってしまったこと、北条氏の立場の難しさなどが理由である。これは、高時にとって不幸としか言いようがない。
 責任の重さを知らない身で周囲が口うるさくなれば、子供というのは逃げ道を探すものである。
 高時にとっての逃げ道は田楽であった。
 田楽は日本の伝統芸能の一つで、音楽と踊りで構成される見世物だった。平安の頃から貴族たちの楽しみとされてきたものであり、高時もこれに夢中になった。
「これは心地よい音じゃ」
 鎌倉を訪れた田楽一座を見て、高時は舞い上がった。一座に混ざって自分まで踊りかねない勢いである。
 これまで高時は常に窮屈な生活を強いられてきた。それも、良家の子弟にあるようなものではなく、もっと厳しいものだった。その口うるささから逃れようと、彼はいつも耳を塞ぎたい思いであった。
 しかし、田楽は違う。一座の者が奏でる音は高時に何かを強いるものではなく、心の奥底にある本能的な衝動を突き動かすものだった。
 踊りも激しい。好き勝手に、自由に動き回っているようである。あのように動いて誰にも咎められないのは、どういうことなのだろう。
「田楽は農民どもが作り出したのであったそうだな」
 一座を見終えた後、高時は高綱に言った。
「羨ましいのう。わしも農民に生まれたかった。あのように踊ってみたかったぞ」
 高綱は、それに対して何も言わなかった。

 高時は周囲から「得宗様」と呼ばれた。得宗とは北条本家及びその当主のことを指す。
 その得宗殿は、十四のときに執権に就任した。建前は将軍の補佐職だが、実際は鎌倉で最高位の役職と言ってもいい。
 執権職は北条氏の一族が就任することが多い。得宗はこれに就任せず、陰から執権を操ることも多かった。
 高時は得宗であり執権でもある。名実共に鎌倉最高の権力者になった。と言いたいところだが、実際は名ばかりであった。
「得宗様」
 そう言っていつも呼びかけてくるのは、長崎高綱改め長崎円喜だった。相変わらず口うるさい。
「相変わらずうるさいやつよ」
 高時は苦々しく思っていた。しかし、その言葉に込められた意味は、以前と少し違っている。
 さすがの高時も、執権に就任することで、得宗としての責任感を抱くようになっていたのである。
 これからは自分が得宗として鎌倉を支える。口には出さなかったが、高時はそう決意していた。
 ところが周囲は、そのような彼の変化に気づかない。周りにとって彼は相変わらず「頼りない若君」であり、事実その通りであった。決意だけで人は変われるものではない。
 この時期、高時がある程度周囲の声に耐えていれば、あるいは周囲が高時自身の意思を尊重すれば、また違った結果になったかもしれない。
 しかし、周囲は相変わらずやかましかった。また、高時もそのやかましさに辟易してしまった。
 高時が何かを口に出せば、周囲はそれに反対する。一も二もなく従ってくれることはまずない。少なくとも、高時はそう感じた。
 自分の言葉に反省するよりも、周囲のやかましさへの苛立ちが強い高時である。とうとう我慢出来なくなった。
「そのようにあれこれと言うのであれば、おぬしらがやればよかろう」
 そう言って匙を投げてしまったのである。要するに不貞腐れているのだった。
 それからの高時は、趣味に走った。
 田楽や闘犬が主なものである。彼が信用したのは、そうした趣味の話が合う仲間だった。
「得宗様、此度はどちらの犬が勝ちましょう」
「わしはあの大きいのが勝つと思うがのう」
「では某は、あのすばしっこそうなのを」
 側近たちと話すのはそのようなことばかりであった。
 そんな高時に対し、周囲の人々の反応は二つに分かれた。高時を見限って飾り物にしておく人と、あくまで高時にやかましくする人である。
 そのどちらも、高時は好まなかった。

「権力など虚しいものよ」
 そう言って高時が出家し、執権職を辞したのは二十四のときであった。在任十年でしかない。
 権力とは何であろう。最高権力者である将軍は飾り物に過ぎず、執権もまた飾り物でしかなくなった。得宗ですらそうである。
 奥州では北条氏の代官である安藤氏が内紛を起こし、それが悪化して鎌倉への反逆にまでなっていた。朝廷でも皇統が二つに分かれ、互いを出し抜こうと公家たちが暗闘を繰り広げている。
 高時の後の執権を巡って、北条氏内でも対立が起きていた。高時の子を押すのは円喜たちであり、それに対抗しているのは高時の弟泰家であった。
「馬鹿な奴らよ」
 権力など握ったところで、結局敵を作るだけである。その敵から必死になって権力を守ったところで何になるのであろう。それだけで一生が終わってしまうかもしれないではないか。
「道誉はどう思う」
「はて、それは」
 側近の一人、佐々木道誉に尋ねてみたが、戻ってきたのは曖昧な返事だった。
 高時は憂鬱な日々を過ごしていた。
 田楽や闘犬はよく見ているし、それは好きだった。
 しかし、そのすぐ側では権力闘争が繰り広げられている。近頃、田楽の見物中でも、そのことが頭から離れない。
「円喜を呼べ」
 ある日、高時は側近に命じた。執権職を巡る騒動が終わった後のことである。
 しかし側近は困り顔で戻って来た。
「円喜様は忙しくて今は来られぬそうでございます」
「なに」
 不意に、高時の中に怒りが湧き上がって来た。主君が命じても来ないとはどういうつもりであろう。
「近頃円喜とその子高資の専横が激しいとは聞いておった。しかし、わしの呼びかけを無視する程のものとは思わなんだぞ」
 そうした高時の様子を聞きつけたのだろう。数日経って、円喜が姿を現した。
「先日は、申し訳ござりませぬ」
「よいわ。それよりも円喜、そなたどういうつもりじゃ」
「どういう、とは」
「北条の一族すらも蔑ろにし、近頃では我が物顔で鎌倉中を動いておるそうではないか」
「それは誤解にございます」
 円喜は強い声で言った。高時は思わず怯んでしまった。円喜の声に対する苦手意識が、身体中に染みついている。
「某は得宗様の代わりに動いているに過ぎませぬ。北条家臣としての務めを果たしているに過ぎませぬ」
「では、わしの指示には従うと申すか」
「それが従うに足るものであれば」
 円喜の言葉は常に手厳しい。高時の指示など従うに足るものではない、と言われているような気がした。
「もうよい。下がれ」
 円喜は、その言葉には従った。

 そのうち、鎌倉を巡る情勢は悪化していった。
 鎌倉の存在に不満を持った後醍醐天皇が、鎌倉討伐を目論んでいることが分かったのである。
 天皇は軍事力をほとんど持たないから、その面での心配はない。ただ、天皇に恨まれているという一事が、高時の心を重くした。
 その脅えが、天皇への対応にも現れている。
 高時は釈明してきた天皇を赦し、鎌倉討伐計画に関わった天皇の側近への処罰も減刑した。討ち取ったのは計画に加担した武士たちがほとんどである。
「もう少し厳しくした方がよろしいかと」
 円喜はそう言ったが、高時はこれを退けた。円喜に対する反発もあるし、天皇への畏怖心もある。妙な話だが、高時は天皇を赦すことでその機嫌を取ろうとしたのである。
 だが、高時には周囲の状況が見えていなかった。むしろ見ることを避けていたのだから仕方ないのだが、彼は、その程度のことで事が解決すると信じ込んでいたのである。
 ゆえに、後醍醐天皇が再び鎌倉討伐計画を練っていると知ったとき、高時は全てを投げ出して逃げたい気持ちになった。
 計画はまたしても事前に漏れ、鎌倉は計画の主要人物を捕らえることに成功した。
「今度こそ厳罰に処すべきです」
 円喜は言った。後醍醐天皇の鎌倉に対する敵愾心は隠れもない。いずこかへ流さねば、また同じことが繰り返されるだけであろう。
「配流せよと申すか」
 高時は怖くなった。そんなことをすれば、いよいよ後醍醐は鎌倉を、そしてその代表のように思われている高時を恨むはずだった。
「此度も防げたのじゃ。帝も懲りたであろう。それで懲りぬとしても、また防げば良いだけじゃ」
 それだけの力が鎌倉にはある。高時はそう信じていたし、事実このときの鎌倉は強大な軍事力を保有していた。
「なりませぬ」
 円喜は一歩も引かなかった。前回のときと違い、妥協するつもりはないようだった。こうなると、結局高時が折れることになる。
 それでも高時は怖かった。天皇への畏怖心は武士であろうと持っている。鎌倉の頂点にいる高時でも、それは例外ではない。
「こうなれば」
 殺すしかない。
 円喜を、である。
 出来ればその子高資も殺しておきたい。
 そもそも円喜がいなければ、高時はもっと自分の意見を出せたはずであった。周囲の人々は皆彼を軽視したが、特に押さえつけてきたのは円喜である。
 彼が死ねば、高時の意見に異を唱える者も減るであろう。天皇への処分を軽くすることも容易になる。
 公然と殺すことは出来ない。円喜は罪を犯したわけではないし、そもそも自分の行動に周囲が賛同してくれる、という自信もない。
 暗殺することに決めた。
 計画は、側近たちと共に行う。

 しかし、暗殺計画は失敗した。
 側近の一人が恐れをなして、円喜に密告したからだった。
「得宗様」
 いつものような声で詰問してくる円喜に、高時は弁解するのが手一杯だった。
「わしはそのようなことは知らぬ。わしも、側近たちのことを把握しておるわけではないからのう」
 それは密告をした側近に対する皮肉でもあった。自分よりも円喜を選んだその側近は、憎んでも憎み足りない。
 円喜は黙って高時の言い訳を聞いていた。やがて小さく頷き、
「よく分かり申した」
 とだけ呟き、去って行った。
 去り際の円喜が口惜しそうな顔をしていたこと、以前と比べて随分肉が落ちたことに、高時は最後まで気づかなかった。

 暗殺が失敗してから、高時は何もしなくなった。全ては長崎円喜、高資親子に任せてある。
 後醍醐天皇は二度目の計画失敗の後に挙兵したが、あえなく敗れて隠岐に流された。円喜の意思である。
 しかし、それが起爆剤となったのか、各地で反鎌倉の気運が高まって来た。大小の土豪が決起し、鎌倉はこれを討伐することで追われていた。
 高時は、そうした鎌倉の危機にも無関心だった。鎌倉など自分のものではない。自分に出来ることなど何もない。ならば、憂うだけ無駄というものである。
「わしは何のために生まれてきたのであろうか」
 生まれてきてから、ずっと側には誰かがいた。その声で、高時の言葉はかき消された。何かしようとしても、それを認められたことはない。
 台風の目で生まれ育てば、誰だって周囲の暴風には触れたくない。目から出たいとも思わないし、荒れ狂う周囲の様子も見たいとは思わない。
 高時の生涯はそういうものであった。一人きりで、台風の目の中にいる。目を閉じ耳を塞ぎ、暴風を意識の外に置いている。
「足利殿、御謀反にございます!」
 その知らせを聞いて、高時は何かが終わるのを実感した。
 足利氏は北条氏に次ぐ有力な武士の一族である。その当主高氏には、高時が烏帽子親となり、高の一字をくれてやった。婚儀の手回しもしてやった。台風の目の中でも出来る、数少ない政治だった。それも、無意味なものとなった。
 足利の離反は大きい。しかし高時はその重要性よりも、何かしらの寂しさを抱いた。
 ただ、それに続く形でもたらされた知らせには驚愕した。
「新田殿、領地にて挙兵! 周囲の御家人たちも次々とこれに合流し、この鎌倉を目指しております!」
 新田氏はさほど大きな勢力を持つ武士ではなかった。高時がどれほど新田について知っていたかは分からない。
 ただ、鎌倉が攻められるという事態に、ようやく目が覚めた。
 台風が動きだし、目の部分にいた高時の身に、いきなり豪雨が降りかかって来たようなものだった。
「虚しいのう」
 意外にも、高時はうろたえなかった。
 昔と同じである。また、投げ出したくなった。
 周囲はうるさい。御家人たちには見限られた。帝には憎まれている。
「本当に――――嫌になるのう」

 新田軍の猛攻は凄まじく、鎌倉軍はもはや立ち直れない有様だった。
 高時は一族や家臣と共に館を離れ、東勝寺に逃れていた。
 集まった者の中には円喜もいる。この場を仕切っているのも、高時ではなく円喜だった。
「こうなれば、恥を残さず果てることが第一にございましょう」
 それに反対する者はいなかった。鎌倉滅亡はもはや必定である。後はどうするか、ということだった。
 結論は、自害、である。
 一通り語り終えて、円喜は高時の方を見た。
「まず、わしか」
 高時が尋ねると、円喜は頷いた。
 確かに鎌倉の代表は高時ということになっている。それも、名分だけのものだったが。
「こういうときばかり、わしを押し立てるか。嫌な奴じゃ」
 高時の皮肉に応じる者はいない。
 死ぬのは怖い。それでも、どのみち自分は助からないと思えば、いくらか気分が楽になる。
 刀を手にする。最初に斬るのが自分自身になろうとは思わなかったが、これもまた仕方ないことかもしれない。
 そう思っていた矢先――円喜が崩れ落ちた。
 腹には刀が突き刺さっている。刺したのは円喜の孫にあたる、まだ十五の少年だった。少年はすぐさま刀を引き抜き、それを自分の腹に刺した。円喜と重なり合うように崩れ落ちる。
「……なぜじゃ」
 言って、高時は気がついた。先ほど自分が口にした皮肉を、である。
「早とちりしおって。本当に長崎の者には、嫌な思いをさせられる」
 なぜか、涙が出てきた。
 最後の最後で、円喜もいなくなった。それが無性に悲しかった。
「――――寂しいのう」
 そう言って、高時は崩れ落ちた。
 享年三十一。最後まで、孤独な生涯であった。