長き時を経て

第7話
 眼下に広がる戦場の雰囲気にラケシスは圧倒されていた。
 これまで彼女は戦とはほとんど関わりのない場所で生きてきた。
 突然身近に戦場の雰囲気を浴びせかけられ、彼女は恐怖心を抱いている。
「これが、戦い」
 震える声で呟く。
 彼女の言葉は戦場の怒号に掻き消されて、誰の耳にも届かなかった。
 状況は彼女たちにとって有利になりつつある。
 シグルド軍の到着によって、ノディオン軍の数の不利は解決した。
 それでもハイライン軍はしぶとくノディオンへの侵略を試みる。
 ハイライン軍指揮官のエリオットは無能者だった。
 既に劣勢になりつつあるというのに、引き際をわきまえず無謀な突撃を繰り返す。
 ラケシス自身は後に知ったのだが、このときエリオットは「せめて敗北するならラケシスだけでも連れ攫って来い」と兵たちに命じていたらしい。
 エリオットはラケシスに以前から求婚を申し込んでいたのだが、その都度断わられ続けていた。
 今回の侵略の目的はノディオンを手中に収めるというよりも、ラケシスを手に入れることだったのだろう。
 ラケシスは震える身体を抱きしめている。
 恐怖は収まらない。
 人の死が、殺し合いがすぐそこで行われている。
 彼女にとってそれは非日常としか言いようのないものだった。
「……?」
 ふと、彼女は視線を止めた。
 町へ侵入しようとするハイライン軍を必死に押し止めている部隊。
 そのなかに、青髪の若者がいた。
 なぜかその若者から目が離せない。
 戦場の熱気に包まれながら、彼女はどこか薄ら寒いものを感じていた。

 ハイライン軍は壊滅した。
 シグルドたちはエリオットを討ち、そのままハイライン城へと攻め込み、エリオットの父でありハイライン国王であるボルドーをも打ち倒した。
 彼らは甘く見ていた。
 おそらくボルドーはシグルド軍の援軍までは予想していただろう。
 だが、その援軍の戦力を見誤った。
 シグルド軍の兵力は既にヴェルダン戦の頃の比ではない。
 軍全体の訓練も進み、ジャムカやアイラなどの有能な指揮官も得た。
 対するハイライン軍は有能な指揮官がいない。
 ボルドーは平凡な男であり、エリオットは愚劣だった。
 ただ1人、フィリップと呼ばれた将軍がそれなりの人物だったが、これもシグルド軍の前には虚しく散った。
 現在シグルドたちはハイライン城で、簡単な事後処理を行っている。
 今後の方針がもっとも重要な鍵だった。

 急ごしらえの執務室にて、シグルドとラケシスは対面した。
 ラケシスはまず今回の件についての例を述べた。
「シグルド様、助けに来て下さって本当にありがとうございます。もしも援軍がなければどうなっていたことか……」
「いや、ラケシスが無事でなによりだ。だが……エルトシャンはまだ?」
 その問いかけにラケシスは表情を暗くした。
 彼女の様子から状況を悟ったシグルドは「分かった」と頷いた。
 ラケシスはきっと表情を硬くすると、シグルドに一歩詰め寄る。
「シグルド様、私は兄を助け出したいのです。どうか、どうか力をお貸しください」
 鬼気迫るその言い方だった。
 が、シグルドは物怖じしない。
 エルトシャンを助け出したいのは彼も同じである。
 ラケシスの心境を察して、シグルドは力強く頷いた。
 ちらりと、隣に控えるオイフェに視線をやる。
 オイフェは頷き、ラケシスに現在の状況を伝えた。
「グランベル王も今回の事態はご存知です。グランベル側としては、シャガール王と彼に従うもの――ノディオンを除くアグストリア諸国――がグランベルに敵対したと見なしています」
「……」
「さらにイムカ王をシャガールが暗殺した、という噂も。……王は和平派であるエルトシャン王の救出をシグルド様に命じられました」
「それは本当なのですね?」
「ええ。僕らのもとに先ほど本国からの使いが来ましたから」
「……エルトシャンは必ず助け出す、私に任せてもらえないだろうか」
 シグルドはラケシスをじっと見た。
 その目には偽りの色はなく、ただ純粋ななにかがあった。
「分かりました」
 ラケシスは頷く。
 そのことにシグルドがほっとし、胸をなでおろした瞬間。
「――では私も同行させてもらいます」
 不意打ちのような一言が放たれた。

「それで結局シグルド様は?」
「ラケシス姫の同行を一応は認めたよ」
 大きな溜息をつきながらも、剣を振る手は休めない。
 オイフェはフィンとともに稽古に励んでいた。
「そこでフィン、シグルド様から貴方へ頼みたいことがあるようだけど」
「私に、か?」
「ええ。ラケシス姫の護衛をしろ、と」
「――――」
 その新たな命に、フィンは明らかな不満の色を表した。
 手を止めて、オイフェを睨む。
「私はキュアン様とエスリン様の護衛のためにここにいるのだが。ラケシス姫のためにいるのではない」
「そのキュアン様からの推薦みたいだけど?」
 ぶん、と風を切る音。
 疲れてきたのか、その音の周期は徐々に長くなりつつあった。
「だが納得できない」
「騎士たる者、主君の命には絶対に従う」
 先ほどよりも大振り。
 握力が弱まってきたのか、剣を持つ手が危なっかしい。
 そこが限界とみたのか、オイフェは剣を振る手を止めた。
「戦局は変わりつつある。ヴェルダン戦のような単純なものじゃない」
「それが……?」
「僕らも、望むような役割ばかりが与えられるような状況ではないということだよ」
 オイフェにとってそれは最初からそうだった。
 彼はこのような相談役として来たかったのではなく、騎士として来たかった。
 フィンはこの時期になってようやくそうなっただけだ、とオイフェは思う。
 それに、これはフィンにとって必要なことだとオイフェは思っている。
 フィンという騎士は実直であり、誠実である。
 それは彼の美点なのだが、それ故にと言うべきか――視野が狭いという欠点がある。
 いつまでもキュアンという1人の主人の下にいるのではなく、時には別の視点というものを知った方がいい。
 おそらくはキュアンも同様の考えなのだろう。
 だからこそ、ラケシス王女の護衛をフィンに命じたのだ。
 それに親友の妹であるラケシス姫の護衛を任されるということは、それだけキュアンの信頼も厚いということ。
 フィンにとっても、別に不名誉な話ではない。
 ただフィンは少し不安なのだろう。
 これまではずっとキュアンという存在を追ってきただけ。
 その道標から突然離れなければならないということは、非常に不安にさせられるはずだった。
 そこへ。
「おや」
「む?」
 休憩している男2人の元へ、金髪の姫が現れた。
 王族という割には活発そうな印象の娘である。
「あら?」
 意図的にここへやって来たわけではないらしい。
 彼女の方も、2人の姿を認めると少し驚いているようだった。
「フィン殿とオイフェ殿ですね? 私はノディオン王エルトシャンの妹ラケシスと申します」
 と、丁重な仕草で言った。
 オイフェやフィンもその雰囲気に流されて、丁重に返答する。
 するとラケシスはフィンの顔をちらりと覗き見た。
「……私の顔に、なにか?」
「あ、ごめんなさい。どこかで見覚えがあるような気がしたものだから」
「先ほどの戦をご覧になられていたのでは?」
 フィンの方は彼女に見覚えがない。
 彼女がフィンを見る機会があるとすれば、それは先ほどの戦場くらいものだろう。
 だがラケシスは静かに頭を振った。
「私、確かに先ほどの戦場で貴方を見ていましたけど……でも、そのときよりも前に。どこかで私たち会わなかったかしら?」
「申し訳ありませんが、私は覚えておりません。ただキュアン様に従いノディオンに来たことは何度かありますので。そのときに見かけられたのでしょう」
「そう……そうかもしれないわね、ごめんなさい。いきなりおかしなことを聞いて」
「いえ。私は構いません」
 そんな2人の会話を聞きながら、オイフェは内心苦笑していた。
 堅物の騎士と、おてんばな姫。
 お互い相性があまり良くなさそうなのだが、実際は割とうまくいきそうだった。
 軽く2人に会釈してオイフェはその場を去る。
 身体を動かしすぎたのか、かなり疲労している。
 最近はあまり休んでいなかったので、そろそろ一休みしたいところだった。

「そう、貴方が私の護衛に……」
 事情を聞かされたラケシスは、じろじろとフィンを見た。
 その仕草にフィンが怪訝そうな顔をすると、ラケシスは顔を赤くして引き下がった。
 自分の行いが、はしたないと気づいたらしい。
「た、頼りにしていいのかしら?」
 フィンはまだ見習い騎士である。
 その肩書きだけで考えるなら、自分の護衛役としては非常に不安だった。
 だが、あの戦場で勇猛果敢に戦うフ姿は、ラケシスにはとても逞しいものに思えた。
 彼女には、フィンという騎士を知る要素がまだ少なかったのである。
 フィンは俯いたまま黙っている。
 どう答えるべきか、自分でもよく分からない。
 正直に言うならば、キュアンの下から引き剥がされた感もあり、不安である。
 それでも彼は、任されたからには全力で彼女の護衛を行うつもりだった。
 だが意思だけでは意味がない。
 果たして結果がついてくるのかどうか、どうにも分からないのである。
 沈黙は長い一瞬だった。
「ラケシス様」
 フィンはその蒼き相貌をラケシスへと向ける。
 あまりに真っ直ぐで、裏のないその眼を見たとき、ラケシスはフィンのことが少しだけ分かった気がした。
「私はまだ未熟者です。自分の力を信じきることができません。それでも騎士として――貴女のことは、命をかけてお守りしましょう」
 それが今言える精一杯の言葉だった。
 正直者の騎士、フィン。
 彼は虚勢を張ることすらせず、ただ己の本心を相手に伝えることを選んだ。
 そこには一点の曇りもなく。
 淡い誇りと、確かな力強さがあった。
 だからラケシスは、彼という騎士を受け入れた。
「少しだけ不安ですけど……貴方が護衛についてくれること、とても頼もしく思えます」
「そう言っていただけると、幸いです」
 フィンは頷く。
 その表情はどこまでも真面目なものだった。

 ラケシスと共にハイライン城へと渡ってきたティールは、宛がわれた部屋の中で横になっていた。
 無理矢理動かし続けた反動か、今ではろくに身体が言うことを聞かなくなっていた。
 顔色は真っ青になり、今にも死にそうな有様である。
 その彼の部屋が、控えめに叩かれた。
「どうぞ」
 掠れる声で告げると同時に扉が開いた。
 その先に立っていたのはラケシスと――初めて見る若者だった。
 年はだいたいラケシスと同じくらいだろうか。
 真面目そうな表情の騎士だった。
「ラケシス様……? そちらのお方は」
「彼はフィン。キュアン様直属の騎士見習いで、私の護衛をお願いすることになったの」
「ご、護衛ですか。よろしくお願いします。ラケシス様は何分こういう方ですので」
 ティールがそう言うと、ラケシスは見る見るうちに不機嫌そうな顔をした。
 フィンはどうしたものかと困っている様子だったが、とりあえず無難に自己紹介をした。
「ティール、言葉の意味がよく分からないのだけど」
「私もよく分かりません。ラケシス様、シグルド様に同行の許可を求めたそうですね」
「ええ、それがなにか?」
「貴女がそんなことをする必要は、ないんですけれどねぇ……」
 周囲にほとんど人がいないからか、2人の口調には他人行儀なところがない。
 フィンとグレイド、キュアンとシグルドのようだった。
 が、いちいち詮索しても仕方ないことだ、とフィンは直立不動のままラケシスの背後に控える。
 と、不意にティールがフィンの方を見た。
「フィン殿」
 真っ青な顔の中に埋もれた、優しげで確かな相貌。
 それがなにかを物語ろうとフィンの方を見て――――。
 閉じた。
「……いろいろと大変でしょうが、私からもよろしくお願いします。くれぐれもラケシス様が無茶しないように」
「ちょっ、ティール?」
「分かりました。ティール殿もお大事に」
「ふぃ、フィン殿! 貴方もなぜそこで頷くのですか」
「ラケシス様。ティール殿は具合があまりよくないようです。そろそろ出た方が」
 フィンの声色はあくまでも静かで、確かなものだった。
 おかげでラケシスも我を取り戻し、ティールに向き直る。
「……貴方には無茶をさせてしまってごめんなさい。早くよくなることを祈っています」
「ありがとうございます」
 ティールが頷いたことを確認すると、ラケシスは静かに退室した。
 残されたのは夕闇に包まれた部屋と、その中で横たわるティールのみ。
「ラケシス様は、フィン殿……いや、シグルド様に任せておけば大丈夫そうですね」
 窓の外を見る。
 陽が沈み、闇の時間が訪れる。
 そのことを実感すると、ティールは胸が痛くなるのを実感した。
 昔からのことなので、今更驚いたりはしない。
 ただ気がかりなのは、主君であるエルトシャンと、父ヒミルのことだった。
 消息が全く伝わらず、捕らえられたということしか分からない。
 今頃どうなっているのか、不安で仕方がなかった。
「私は私で、やるべきことをすべきなのかもしれませんね……」
 真っ青になったティールの表情。
 その中で、眼の色だけが不思議と輝きを失わずにいた。