長き時を経て

第10話
「――――お前がヒミルの子、ティールか」
 父に連れられてノディオン城に来ていたティールは、庭先でいきなり声をかけられた。
 春の陽射しが温かい、そんな午後である。
 半ば眠りかけていたティールは最初、うまく反応できなかった。
「……誰ですか?」
「誰とは、また」
 困ったものだ、と声をかけてきた少年は笑った。
 途端、ティールの意識は急激に現実へと引き戻される。
「エ、エルトシャン様?」
「そうだ。眠っていたところを邪魔したようだな、すまん」
「とんでもありません、こちらこそ気づかずに申し訳ありませんでしたっ……!」
 慌てて頭を下げる。
 エルトシャンは実際気にしていなかったのか、それ以上は何も言わなかった。
「それよりもティール。暇だったのか」
「は、はい。父からは城から出るな、としか言われておりませんし」
「城の中は退屈だからな。やることがない」
「い、いえそのようなことは……」
「……今のは俺の意見だが?」
 ティールを面白そうに眺めながら、エルトシャンは口元を緩めた。
「来い、ティール」
「……は?」
「来いと行ったんだ。どうせ暇なんだろう? だったら城下にでも行こう」
「それはまずいのでは……」
「父上も“見聞を広めることは大事である”と以前俺に仰せられた。構うことはない」
 それが、エルトシャンとはじめて出会った日のこと。
 責任というものに縛られない、子どもの頃のことだった。

「……ん」
 まどろみの中、ゆっくりと意識が呼び戻されていく。
 薄暗い天井とかすかな光。
 やがてここが、昨晩たどり着いた宿の一室だと理解した。
 アグスティは王都だけあって広い。
 グランベルの王都バーハラと比べると劣るが、それでも大陸有数の都市である。
 この都市がこの形を成したのはさほど昔のことではない。
 イムカが領土発展を実現させた結果の一つだから、たかだか十数年前のことである。
 エルトシャンが幼い頃何度か足を運んだアグスティは今よりずっと劣っていたという。
「この町が」
 ……もうじき戦火に巻き込まれる。
 そのことを思うと、ティールは勿体ないという気持ちを抱く。
 あくまでティールは主君をノディオン王家と定めているから、間接的な主であるアグスティに対する忠誠心はさほどない。
 イムカ王のことは一人の人物として尊敬していたが、シャガールは愚物で強欲な男だと思っている。
 ラケシスや騎士団の一員であるイーヴたちにとってもその念は同様で、その体質はノディオン独自のものかもしれない。
 その原因は、ノディオン王家がヘズルの正当な後継者である――という自負心があるからか。
 ともかくティールにとってアグストリア王家はさして関心のないものである。
 だが王都アグスティという場所に関しては違う。
 国の中心であり、その繁栄振りは自国ノディオンとは比べ物にならない。
 人々は生き生きと活動しており、文化の成長も著しい。
 それが戦火によって害されることは、勿体ない。
「早くエルトシャン様を見つけないと……」
 シグルド軍とシャガールたちの戦闘を止める手段がないわけではない。
 両者の間に仲介人――エルトシャンを引き出せばいい。
 エルトシャン救出には、そういった意図もあった。
 身なりを整えて部屋から出ると、ちょうど宿の亭主がカウンターに立ったところだった。
 安宿を経営しているからか、非常に気さくで人柄もいい。
 こういった性格でもないと客がなかなか来ないのである。
 それでも念のため偽名で宿泊しているので、亭主はティールの名を知らない。
「おやエリルさん、もう出立ですか」
「ちょっとお散歩に。もしかしたら今日は帰らないかもしれません」
「分かりました。一応満室にならない限り、エリルさんの部屋は空けておきます」
「ありがとうございます。……あ、昨日のシチュー美味しかったですよ」
 素直な感想を述べて宿から出る。
 そこは小さな通りで、あまり人がいない。
 そこからさらに脇道へと入り、しばらく進むと王都内の貧民街に出る。
 臭気が漂う中、ティールは目的の場所まで真っ直ぐに足を進めた。
 やがて、古びた木造の建物にたどり着く。
 一応周囲に人がいないことを確認して、ティールはドアを二度叩いた。
 それに反応して、向こう側からもドアが三度叩かれる。
 “入っていい”という合図だった。
 確認してから扉をくぐると、薄暗い室内で一人の男が机に向かっていた。
 男の身なりは貧相だが、その身体つきは無駄が少なく、鋭い印象を周囲に与える。
「頼んでいた仕事は出来ましたか?」
「ちょっと待て」
「待ちきれません。そろそろ時間が足りなくなってきてるんです」
「待てと言ってるだろう。――今、アグスティ地下通路の図面を書いてるところだ」
 男の言葉を確認するためにティールは机の上を見た。
 そこにはかなり細かい図面が描かれている。
 男が侵入して確かめた、アグスティ城内の見取り図である。
「さすが忍び込むことが本職だと仕事が早い。貴方に頼んで正解だった」
「盗賊を雇う貴族様なんざ聞いたことねぇがな」
「アグスティと違い、ノディオンでは身分に寛容なので。私の父も元はただの流れ者です」
 盗賊の男と軽く会話をするうちに、図が完成した。
 男はティールにそれらを全て渡し、ティールは彼に多額の金を支払った。
「……うん? 当初の契約よりも額が多いぞ」
「仕事が早かったからサービスです」
「先ほど急かしていたのはそちらだろう。ま、いい。口止め料としては妥当だな」
 ばれていたか、と内心ティールは苦笑する。
「だが本当に一人で乗り込むつもりか。地下通路と言っても警備兵はいるし、俺でもかなり大変だった」
「大丈夫です。かくれんぼには自信がありますから」
 図面を貰った以上、長居は無用である。
 まだ朝は早く、夜などよりも警備が緩んでいる可能性があった。
 そろそろシグルド軍も動き出す頃だろう。
 急いでエルトシャンの元に向かわねばならなかった。
「ああ、そうだ」
 男が思い出したように言った。
「なにやら知らんが黒いローブの連中を見かけたぞ。あれは俺らより深い闇に生きる連中だ――気をつけな」
「ご忠告、感謝します」
 軽く会釈して、ティールは暗い部屋から出て行った。

 同時刻、ティールの予想していた通り、シグルド軍はようやくマッキリーから動き始めた。
 エバンス城に駐留していたアーダンたちをも呼び寄せ、アグスティに対する総攻撃を開始したのである。
 その軍勢の凄まじさは相当なもので、シグルド軍の進軍の音は近隣の村を驚愕と恐怖でおおった。
「なんだかここまでくると、怖いものを感じますね」
 シグルド軍の中枢、シグルドの隣を馬で追いながらオイフェはそんな不安を口にした。
「怖い?」
「僕たちがアグストリアでこれほどの大軍を動かしている。これは果たして正しいことなのか……そう思うと」
 強大な力を持つことは、軍隊にとっては必須事項だった。
 軍というものは、攻めるにしろ守るにしろ、戦うことが仕事である。
 故に力の強化はあって当然なのだが、そのことがオイフェには恐ろしく思えた。
「ここまでする必要が、あるんでしょうか」
「分からない。ハイライン、アンフォニーまでは良かったかもしれない。だが確かにマッキリー、そしてアグスティまで攻めるのは気が引ける」
 シグルドにとって、これは友であるエルトシャンを助けるための行為だ。
 しかし同時に、友の祖国を踏み荒らしていく行為でもある。
 ハイラインは自分から攻めてきたし、アンフォニーは攻められるだけの愚行を犯した。
 だがマッキリーはやや違う。
 マッキリー城主のクレメントは当初中立の態度を取っていた。
 日和見主義的なところのある男ではあったが、ハイラインのボルドーやアンフォニーのマクベスと比べればはるかにましな領主でもあった。
 彼が戦いに踏み切った原因はシグルド軍にある。
 ハイライン、アンフォニーと二つの城を陥落させられた。
 このまま放っておけばアグストリアは征服されてしまうのではないか――。
 その危機意識が、クレメントを開戦へと踏み切らせたのである。
 シグルドは当初講和を持ちかけたが、クレメントは応じなかった。
 既に城を二つも落としている相手に“害意がない”と思えと言う方が無茶である。
 結局講和を諦めたシグルド軍はマッキリーを攻め、即日これを陥落させた。
 だが城主クレメントは捕縛されるとき、
『やはり貴様らは、アグストリアを征服する気なのではないかッ……!』
 と、シグルドを罵倒した。
 シグルドたちからすれば、戦うことになった原因はクレメントにある。
 だがクレメントが戦おうとした原因がシグルドたちにあるということを考えると、多少滑稽な気がしなくもない。
 オイフェはそのことを考えると、そもそもどこからどこまでが正しかったのかが分からなくなる。
 ノディオンの要請に応じたのが間違いだったのか、それともアンフォニーを攻めたのが間違いだったのか。
 なにが正解でなにが不正解なのかが、混沌としてきている。
 そのことをシグルドに話すと、彼は少しだけ眉をひそめ、
「戦争とは不可解なものだ。奇妙な運命があるようにしか思えない」
 正しいと思って始めたことが、いつからか間違っていると感じるようになる。
 そんなことは、戦争に限らずどこにでもあることなのかもしれなかった。
「シグルド様、僕たちは……侵略者なのでしょうか」
「……」
 シグルドは答えなかった。
 彼にもその答えが分からなかったのである。
 シグルド軍は北上していく。
 しかしそれを動かしているのは、もはやシグルドではないのかもしれない。

「俺はな、ティール」
 ある日、いきなり現れた若き王子はそう切り出してきた。
「王になどなりたくはないのだ」
 いずれはノディオンを治めるべき王子が、突然そんなことを言い出したのである。
 木陰で涼んでいたティールは、涼しさを通り越して寒気を覚えた。
「エルトシャン様、何を言われるのですか」
「そう驚くなティール。なにも王族としての責務を放り出すと言っているわけではない」
「ではどういうことですか」
「在り方の問題だ。どうも俺は父上とは別種の人間であるらしい」
 はじめて会ったときから随分と時間が経つ。
 もうすぐ士官学校に入るため、バーハラに向かうというときのことだった。
 この頃になるとエルトシャンも王族としての自分というものを考えている。
 しかしどうも、玉座に座り人々に命令を下すという自分の姿を想像すると、
「滑稽に思えて仕方がないのだ」
 言いながらもまた想像したのだろう。
 エルトシャンはティールの前で、少しだけおかしそうに笑った。
「俺は王というよりも騎士だ」
 と、彼は言う。
 政治によって国を統治する王であるよりも、主君のために忠義を捧げつくす騎士の方が性に合うというのである。
「ノディオン王国は国である前に、全体がアグストリアという国家の家臣だ。それは俺にも言える……だから俺は完全な王にはなるまい。王になった俺の半分は、騎士というもので出来ているだろう」
「しかし私たちにとっては貴方が王なのです」
「分かっている。王としての責務を放棄するわけではないと言っただろう」
 言って、エルトシャンはティールの頭を軽く撫でた。
「父上とヒミルは互いに信頼しあうことでノディオンを発展させた。俺もお前のことを実の弟のように思っている――俺が王として足りない分は、お前やラケシスたちに補ってもらいたいものだ」
「な、なんとも過分なお言葉……責任重大ですね」
「そうでもない。皆でノディオンを、アグストリアを発展させるのだ。それだけのことだろう」
「はぁ、そういうものですか」
 どこか間の抜けた返事をしながらも、ティールの頭脳は既に動いていた。
 頭の中では、ノディオンを発展させるための計画がどんどん組みあがっていく。
 元来仕事というものが好きなのであり、栄達欲などは奇妙なほどになかった。
 王族に対しても、忠義を尽くし礼儀を守るものの、必要以上に取り入ろうとしない。
 対人関係において、広く浅く、というわけではないのだが……どこかしら爽やかな印象を人に与える。
 それがティールであった。
 だからこそエルトシャンも気に入ったのかもしれない。
「そのときは、俺の右腕としてより高い地位でも用意せねばならんな」
「ご冗談を。私は自分の仕事が出来れば結構です。地位のためにエルトシャン様の元にいるわけではありません」
 と、真顔で言う。
 ティールにとっての楽しみとは、エルトシャンの元でどのような仕事を出来るのかという一点にのみあった。
 それが数年前のことだった。

 見取り図は非常に役に立った。
 市販されている地図などよりもはるかに実用的である。
 これを書いた者の本職を考えると当然のことなのだが。
 中には警備兵の巡廻ルートまで書かれているものもあり、ティールはただ気配を殺しさえすればいい。
 やがて囚人たちが捕らわれている地下牢のエリアにたどり着いた。
 牢の中にはみすぼらしい姿の罪人たちが放り込まれており、そのまま朽ち果てたのか骨が転がっているところもあった。
 しばらく進んだところで、ティールは慌てて影に隠れた。
(……何故、ここにいる)
 そう思いながら、顔をそっと出して先にある獄を覗き見る。
 そこには、この国の支配者であるシャガール王がいた。
 ティールからすればエルトシャンの忠告を無視して開戦に踏み切った、救いがたい愚か者でしかない。顔を見るだけでも嫌な気分になるが、もっと嫌気がさしたのは、シャガール王の言葉だった。
「貴様の妹がグランベル軍を引き寄せたことで、今やアグストリアの半分は制圧されてしまった。だから我々はこれから連中に決戦を挑まねばならない」
 シャガールが向かっている牢の中にはエルトシャンがいるらしい。
 ティールは歯を噛み締めて会話を聞く。
「連中は我が物顔でアグストリアの都市を占領し、領民たちを苦しめている。こうとなれば戦うほかない」
「……」
「そのために貴公も、いざとなれば私を助けて欲しい。ノディオンの連中は駄目だ。だが貴公だけは違うと信じている」
 全身が震えた。
 寒気のためでも、怒りのためでもない。
 もっと奥深いところにある、抑えがたい衝動が湧き上がりつつあった。
「私は後悔しているのだ、貴公がわざわざアグスティまでやって来て発した言葉を一蹴したことに。謝らせてはもらえまいか」
「……陛下、私の方こそ、出すぎた真似をしたと思っています」
「そんなことはない。それよりも貴公には頼みたいことがある。敵の総大将、シグルドをどうにかして――」
 シャガールがそこまで言いかけたときだった。
 地下牢にまで及ぶ揺れが響き渡り、遠くからわっという声が聞こえてきたのである。
「し、シグルド軍が攻めてきたか……!」
 シャガールの顔色が目に見えて青くなっていく。
 彼としても追い詰められているのである。
「だ、誰か! 鍵を持ってこい、エルトシャンをすぐに出すのだ!」
 その声に反応する者はいない。
 シャガールは指揮官でありながら、誰にも告げずにここに来た。
 そのため側近の兵士の一人も、今は連れていない。
 鍵がないと言いながら、兵士を探しにいくシャガールの後姿をティールは細目で眺める。
(ここで倒してしまおうか)
 だが、それはエルトシャンの前ですべきことではないような気がした。
 シャガールがもう見えなくなった頃、ティールはようやく影から身を出し、エルトシャンのいる牢へと向かった。

「――――――」
 その牢を見た瞬間、ティールはシャガールを殺すべきだったと確信した。
 牢の中はそこらの罪人を収容するものと変わりがなく、それどころか中にいるエルトシャンは死んだように動かない。
 衣服もボロボロで、血痕まで見えた。
「……エルトシャン様」
「……?」
 掠れ声に反応して、エルトシャンが僅かに顔を上げる。
 そこにも傷を見つけて、ティールは視線を逸らしたくなった。
「ティールか」
 エルトシャンの声にも力がない。
 だが、どこかしら力強さを感じさせるものがある。
「何故、お前がここにいる?」
「エルトシャン様をお連れするためです」
「シグルドの使いか」
 先ほどのシャガールの話から、ティールの立場を推測したのだろう。
 が、これにティールは寂しげに笑って頭を振った。
「ノディオン家臣、ティールとして来たのです」
 ここまで来たのはシグルドのためではない。
 ノディオンと、ラケシス……そして彼自身が、エルトシャンに戻ってきて欲しいと思っているからだった。
 ティールは盗賊から予め借りていた鍵を使い、エルトシャンを牢から出した。
 さらに、ノディオンで使われる貴族用の服をその場でエルトシャンに渡した。
 戻ってくるとき、みすぼらしい姿を人々に晒させるわけにはいかないという配慮である。
 身体の傷を除いて、エルトシャンはティールたちにとって見覚えのある姿になった。
「シャガールが戻ってきます。急いでここを脱出しましょう」
 ティールがエルトシャンを先導しようと歩き出す。
 しかし、エルトシャンはそれに続かなかった。
「……エルトシャン様、どうなさいました?」
 足音が聞こえなかったのでティールは振り返った。
 そこにはエルトシャンが、沈痛な表情で立ち尽くしている。
 そして唐突に、こう言い出した。
「――――ティール、俺は行けない」

「――――行けない、ですか?」
「ああ……行けない」
 エルトシャンの言葉を、予想していなかったわけではない。
 彼の、アグストリア王家に対する忠誠心は他の誰よりも強い。
「先ほどシャガール陛下が俺に助けを求めに来た。シグルドたちから陛下を守れるのは、俺だけだ」
「助ける必要などあるのですか?」
 先ほどシャガールに対して抱いた薄暗い感情が、今度はエルトシャンに向けられる。
「シャガールはエルトシャン様の忠告を無視し、いたずらに戦乱を拡大させました。それどころかノディオンに対してあの振る舞い、エルトシャン様はどう思われているのですか」
 つい語気が荒くなる。
 それは怒っているからではない。
 ただティールは必死に、自分の内側から溢れ出てくるものを抑えようとしている。
「確かに陛下にも問題はあるかもしれない。だがあの御方は我らの主君なのだ」
「主君であることで、全てが許されるのですか。あのように自身の欲望だけで動き、民を貶める主など害悪以外の何物でもありません」
「ティール、言うな」
「エルトシャン様、どうかお戻りください。シャガールについていったところで、どうにもなりません」
「ティール……ッ!」
 エルトシャンの一喝に、ティールは言葉を止めた。
「……ティール、聞け。俺はシャガール陛下を助けに行く。これが、間違っているのか」
「間違っています。……貴方は騎士ではなく王だ。忠義を尽くすことよりも大切なことが、あるはずだ……!」
「ない」
 断言した。
 そこには鋼鉄の意志と、何者にも汚せぬ心があった。
「いつか言ったな、俺は完全な王にはなるまいと。半分は騎士で出来ているだろうと」
「そして言いました、王としての責務を放棄するわけではないと。今シャガールにつくということは、王としての責務を放棄するに等しい」
「ああ言った。だが今、もはや半分などと言っていられるときではない……どちらかを選ばねばならんのだ」
「ならば王であることをお選びください! シャガールは保身のためだけに貴方を欲しているだけ。ノディオンでは誰もが貴方の帰りを待っているのです!」
「それはできない」
 エルトシャンは、今度は笑わなかった。
 ただ静かに、告げる。
「俺はおそらく王ではなく、騎士に近い。しかし生まれた家によって王というものになった」
「……」
「他の諸侯も倒れたと聞く。今シャガール陛下を助けられるのは俺だけだ。ノディオンには――――お前たちがいる」
 そう言って、ティールの肩に手を置いた。
「ティール、俺はお前たちが羨ましい。俺は忠義を尽くすことにも、政治をすることにも躊躇い続けてきた。王となってからもずっと考え続けてきた。今、ようやく答えが出せたのだ」
 だから止めてくれるな、という。
 ――刹那、ティールはどうしようもない衝動に襲われた。
 感情の赴くままに、エルトシャンに掴みかかったのである。
 その目からは涙が溢れ、悲惨なまでに顔を崩していた。
 ティールは絶望していた。
 アグストリアの支配者にも、それに忠誠を誓う自身の主君にも。
 そしてなによりも、この状況に絶望していた。
「なぜ、なぜ分からないのですか!? 貴方の帰りをどれほどの人が待ち焦がれているか! 貴方の帰りを、どれほど待ち焦がれている人がいるのか!」
 名は挙げずとも、エルトシャンは誰のことか分かる。
 ……思い出すのは、強気でありながらもどこか寂しがりやな妹の顔。
 そのことを思うと、さすがにエルトシャンは胸が痛む。
「アグストリアなど我らにとってはどうでもいい、このまま滅んでも構わない! だが貴方が死ぬことには耐えられない! それがまだお分かりになりませんかっ!」
「……あまり大声を出すな、ティール」
 ティールを引き剥がして、エルトシャンは少し困ったように笑った。
「普段は大人しいくせに、こうなると聞かんな、お前は」
「エルトシャン様が分からず屋だからです。ラケシス様がここに来ていたら、私などの比ではありません」
「そうだな。お前たちは揃って頑固で……なだめるのにいつも苦労した」
 どこか昔を懐かしむようにエルトシャンは言った。
 あの頃は責任というものに縛られることはなかった。
 笑うことも泣くことも、自由にできた。
 だがいつからか、大人になった。
 責任というものを知った。
 立場というものを背負うようになった。
 そんな風に昔を懐かしみながら、
「ティール」
 え、と反応したとき。
 ……ティールは腹に、鈍い痛みを覚えた。
 なにかと思って見下ろせば、そこにはエルトシャンの拳が入っている。
「エルト、シャ……」
「……しばらくここで寝ていろ。戦いはそう長くは続くまい」
「さ……ま」
 細い身体が、何かを掴もうとして――そのまま崩れ落ちる。
「――――すまない。心より詫びる」
 それだけを言い残して、エルトシャンは地下牢から姿を消した。

 数時間後、シグルド軍の猛攻の前にアグスティは陥落した。
 その際にエルトシャンは負傷したシャガールを救出し、シグルドと対面した。
 シグルドは彼に「一年待って欲しい」と頼んだ。
 一年のうちに、アグストリアから引き上げられるよう尽力すると約束したのである。
 エルトシャンはこれを承諾した。
 緊迫した状況はなお続く。
 シグルドたちにとっても、エルトシャンにとっても辛い日々であった。