祭りの中で

 それはまだシグルドたちが平和に暮らしていた頃。
 シアルフィ公国は、一年の中でもっとも賑やかな時期になっていた。
 収穫祭が行われるのである。
 そのためシアルフィ全体が、熱を帯びた騒ぎに包まれていた。
「賑やかだなぁ」
 自国内を歩きながら、オイフェは人々の中にあるエネルギーを感じ取っては感心するばかりだった。
 すれ違う人々の表情、動き方の一つ一つに異常な力がある。
 少し暑苦しく感じるほどだ。
「こういうとき、一緒になって盛り上がれない僕の方がおかしいのかな」
「そうだ! こういうときに盛り上がれないのは人生の三分の一は損してるぜ」
 背後からいきなり現れたのはアレクだった。
 彼はこういうお祭り事が好きな性質で、城方の準備を一生懸命やっている。
 普段は少しやる気がなさそうなところがあるが、イベントになると力を発揮するタイプなのだろう。
「オイフェはなんか子供なのに落ち着きすぎてるんだよな。むしろ落ち着いた大人になろうとしているってところか?」
「性格ですよ性格。それよりも準備の方はいいんですか?」
「ああ、お使いだ。これから城に戻って馬借りて、ユングヴィまでな」
「シアルフィにはないものを?」
「飾り付けに使う布とか。ユングヴィのリング卿が譲ってくれるってんで、俺はそれを受け取りに行くんだ」
 かなり上等なものらしい、とアレクはにこやかに笑いながら説明してくれた。
 オイフェはどんなものだろう、と想像してみたが、どうも上等な布というものが思い浮かばない。
「はは、まぁ実際見れば分かるだろ。それまでは楽しみに待ってな」
「そうですね、そうすることにします」
「で、お前はどこに行くんだ?」
「僕はこれからチェスの特訓です」
「……なんだそれ?」
「はぁ……それがちょっと困ったことになりまして」
 オイフェは、この祭りの明るさに似合わぬ暗さで語りだした。
 今回の祭りでは、催しものの一つとしてチェス大会が開かれる。
 貴族がよく行う遊戯ということで、それなりに反響があるだろうと思ってのことだった。
 そのことをシグルドは手紙で、友人であるキュアンやエルトシャンに知らせたらしい。
 ところが手紙を出してから、シグルドはあることに気づいてしまったのだ。
 ――――チェスとなると、エルトシャンに勝てない。
 士官学校時代、シグルドはキュアン、エルトシャンとよくチェスで勝負をした。
 しかし大概はエルトシャンの一人勝ち。
 たまに勝つこともあるが、それはエルトシャンがわざと負けている場合がほとんどだった(そのことにシグルドたちは気づいていない)。
 別に負けてもいいではないですか、とオイフェは言った。
 だがシグルドは根がどこか負けず嫌いらしい。
 難しい顔つきをして、どうにかエルトシャンに勝つ方法を考えていた。
 なにしろ自国での祭りなのだ。
 ここで負けることは、相当嫌なのだろう。
 そしてシグルドが導き出した結論が、オイフェに代役を頼むということなのだった。
 オイフェはシグルドよりも遥かに腕はいい。
 それはよくチェスに誘っているシグルド自身がよく知っている。
「つまり、チェス大会シアルフィ公国代表ってことか……」
「ええ。しかも相手がエルトシャン様ですからね……難しいですよ」
 エルトシャンとは直接打ったことはないが、話に聞く限りでは相当の実力者だろう。
 その実力者に勝つとなると、出来ることは全てしておかなければならない。
 もしもしくじれば、シグルドの面目丸つぶれである。
「で、これから特訓というわけです。とりあえずシアルフィ内で強そうな人を十人くらい見つけておきましたので、そちらへ」
「そ、そうか……まぁほどほどにな。別に負けてもシグルド様怒ったりはしないだろうし」
「叱責を受けるより、がっかりされる方がなんか嫌なんですよね……あの方の場合」
 ――――シグルドの良き人柄、たまに仇となる。
「祭りまであと十日ほどですか……換算すると二百四十時間。一万四千四百分……足りるかなぁ」
 ぶつぶつと呟きながら歩いていくオイフェを、アレクは戦慄にも似た思いで見送った。

 そして祭り当日。
 準備段階でじっくりと溜まっていた熱が一気に噴出し、シアルフィは凄まじい熱気に包まれていた。
 町人たちから貴族まで、あるいは他国の人々も一緒になって騒ぎ立てている。
 もっとも貧乏くじというものはある。
「はぁ」
 城門付近で溜息をつく大柄な男、アーダン。
 硬い、強い、遅いという三拍子がこのうえなく似合う男である。
 こういう祭りの日こそ、警備を厳重にしなければならない。
 そういった理由で、守備兵である彼は警備に駆りだされているのであった。
「いいよなぁ、アレクは女の子と一緒に歩いてたし、ノイッシュは武道大会で女の子たちに大人気だったみたいだし」
 そんな呟きを漏らしていると、また新たなどよめき声が響き渡った。
 チェス大会が行われている場所である。
「チェスか……チェスはまぁ、いいよなぁ」
 重騎士アーダン。
 いまいち祭りに溶け込めない男だった。

 チェス大会はこじんまりとした会場で行われている。
 なにしろ盤上の競技なので、あまり大勢の人が見ることが出来ないからだった。
 しかし各国の腕自慢たちが参加するため、一種独特の熱気が存在している。
 その中でも一際目立ったのは二人。
 一つ一つ堅実に駒を進め、無駄なく勝利を手にするエルトシャン。
 そして、気づかぬうちに相手をはめ込むという戦略重視のオイフェ。
 最後まで勝ち残ったこの二人の勝負には、参加者、観戦者たちが注目していた。
 が、こうなることはシグルドにとっては必須条件なのである。
 問題はここからだった。
「くそ、俺もフィンを連れてきていればな……」
 シグルドの隣で悔しそうにしているのはキュアンだった。
「フィンというと、お前が以前自慢していたチェスの打ち手か?」
「別にチェス専門ではないがな……訓練を頑張りすぎて、今は休暇中だ」
 キュアンは視線を盤上へと戻す。
 シグルドもそれにならって決勝戦の舞台を見た。
 まだ勝負は始まっていないため、盤上の駒は初期配置のままだ。
 対戦者同士は、既に席についている。
 お互いが緊張した表情で、相手のことを睨みすえていた。
(このオイフェという子供――――出来る)
 熟練した者同士だけが共有できる独特の雰囲気。
 それが、このオイフェという少年からは滲み出ていた。
「エルトシャン様……」
 オイフェはここ数日ばかりチェス尽くしの生活だった。
 朝起きてはチェスをして、昼食を食べてはチェスをして、寝る前にはチェスをした。
 今彼の思考には、チェスで勝つということしかないのである。
「――――お手柔らかに」
 底冷えするような声が、静かに会場に響き渡る。
 それほど大きい声ではなかったのだが、なぜかその場にいた者は誰一人として、この声を聞き逃すことはなかった。
「……こちらこそ」
 エルトシャンはオイフェから放たれる冷気にも似たものを受け流しつつ、口元に微笑を浮かべる。
 久々に面白い勝負が出来そうだということ。
 そして、このオイフェという少年がどれだけの実力者なのかを見極めてみたいということ。
 二つの欲求が、エルトシャンの心を躍らせる。
「――――では、はじめてください」
 厳粛なる審判の宣言。
 そして、かつてない勝負が始まった。

 一挙一動に緊張が伴う。
 それも並大抵のものではない。
 エルトシャンが、オイフェが動くたびに会場の全神経がそこへ向けられる。
 勝負が開始してから既に数十分。
 最初のうちは普通に打ち合っていた二人だったが、ある時期を境に長考することが多くなった。
 今では無駄な動きすら一切せず、腕のみが動くことを許されたかのように盤上を揺るがしていく。
 やがて、エルトシャンが口を開いた。
「ここまでとは、な。怖いものだ、どんな罠があるか知れたものではない」
「ふふ、それはこちらも同じです。こちらが張った罠を一つ一つ確実に潰し、しかもこちらが罠を張るよりも早く迫ってくる。このままでは危ないですね」
「だがこのままでは終わるまい。寸前で何かを仕掛けているのだろう?」
「……ふふ、それはどうでしょう」
 どうとも取れる、不気味な笑みを浮かべるオイフェ。
 対するエルトシャンは、頬に汗を流しながらも駒を進めた。
「今、どっちが優勢か分かるか?」
「多分エルト……だがオイフェが何か罠を張ってるんだとしたら……」
 シグルドたちも、冷や汗を流しつつ戦局を見守っている。
 が、形勢がいまいち分かりにくい。
 観戦客たちの目にも、どちらが優勢なのか検討がつきにくい。
 おそらくはそれを正しく理解しているのはこの二人だけだろう。
 まさに頂上対決と言うべきカードである。
 ……やがて、エルトシャンが両手を上げた。
「……これは分が悪い。俺の負けだ」
 その一言が発せられたのは、もう陽も暮れた頃のことだった。

 オイフェはさすがに疲れたのだろう。
 勝負の後自室に戻り、死んだように眠ってしまった。
「しかし、まいったな」
 シグルドたちはバルコニーへとやって来ていた。
 三人はそれぞれおワイングラスを片手にしつつ、シアルフィの夜景を楽しんでいる。
「オイフェといったか。彼は凄いな……名軍師とうたわれたスサール卿にも引けは取らないんじゃないか」
「そういうものか? 結局あれ、お前がわざと負けたんだろう?」
 キュアンはお見通しだとばかりにエルトシャンに言った。
 エルトシャンはというと、少し面白くなさそうな顔をした。
「集中力の限界だな。あの状態のまま、またどこかで彼とチェスを再開してみたいものだ」
「そうすれば勝つって?」
「断言は出来ん」
 そう言って、エルトシャンはシグルドを軽く小突いた。
「さて、それでは今度はお前たちと勝負するとしようか。私的なものだから、負けても問題あるまい」
「む、言ったなエルト。俺はオイフェにも十回中七回は勝ってる男だぞ」
「そうだな。いい加減エルトを負かしてみたいもんだ。今日は夜明かしで打つとしようか」
 陽は暮れて、夜の灯りが世界を包む。
 ――――それはまだ、平和だった頃のこと。