木陰と本と

 それはまだキュアンたちが平和に暮らしていた頃。
 日頃トラキア王国との緊張状態が続くレンスター王国にも、平穏な時というものはある。
 なにしろ土地は豊かで、人々はゆとりある生活が送られる。
 統治者たるカルフ王も優れた人物だったから、国民は比較的のんびりと暮らしていた。
 そんな中、城の一室にて。
「……ない」
 蒼き騎士――フィンは、引き出しを何度も出し入れしながら呟いた。
「どうした、何か探しものか?」
 フィンの部屋に来て本を読んでいたグレイドが、訝しげな表情でフィンに尋ねた。
 だがフィンはよほど狼狽しているのか、グレイドの問いかけに答えもせず、あちこちを探している。
「おい聞いているのかフィン。何か探しものをしているんだったら手伝うが」
「……いや、探しものというか、借りている物なんだが」
「借り物を紛失しただと? 物の管理はしっかりとしておけ」
 小言を言いながらもグレイドは立ち上がり、フィンの真似をして引き出しの辺りを覗いてみる。
「で、何をなくしたんだ?」
「いや、それが」
「どうした貴様らしくもない。もっとはっきり言ったらどうだ」
 責めているような言葉だが、口調はそんなにひどいものではない。
 グレイドという男はいつもこんな調子なのである。
 だからそのことはフィンも気にしない。
 というより、いちいち気にしているだけの余裕がない。
 段々嫌な予感が確信になりつつある。
 そのことを自覚しながら、フィンは青ざめた表情で呟いた。
「……キュアン様からお借りした、恋愛小説だ」
 ――――――。
「フィン、俺はどうコメントすべきだろう」
「コメントなどいらん、それよりも早く見つけねば……今日までに返さねばならんのだ!」
「そ、そうか。それは何というタイトルなのだ?」
「『オシーンとニァヴの恋』というタイトルだ」
「分かった。状況が状況だ、俺も探すのを手伝おう」
「すまん、恩に着る」
 グレイドと握手をして感謝の意を表すと、二人はすぐに部屋を捜索した。
 だがどうしてもフィンの部屋からは出てこない。
「これはもう別の部屋を探した方がいいんじゃないか……?」
「そうだな、だが何処に落とした……?」
「心当たりがなければ、とりあえずお前が行った場所を探していくしかないな」
 気が遠くなりそうだ。
 フィンは心底げんなりした表情で、その事実を認めるのだった。

 ところが、本は意外にも早く見つかった。
 それはフィンがグレイドと別れて、中庭にやって来たときのこと。
「……ん?」
 一人の少女が木陰に座って、本を読んでいた。
 その本こそが、フィンの探していた本だったのである。
 しかしどう声をかけたものか。
 少女の表情は、頭にかぶっているフードのせいでよく見えない。
 だが食い入るように本を読んでいることは確かだろう。
 非常にゆっくりとしたペースでページがめくられているのが良い証拠だった。
(どうする?)
 基本的に女性とはあまり会話もしないフィンである。
 こういったとき、どういう風に声をかければ失礼にならないのか。
 それがいまいち分からず、どうも声をかけられない。
 結局、中途半端な距離から少女のことを見守るような形になってしまった。
 少女の背丈はフィンよりも低い。
 フードからこぼれる金色の髪がひどく綺麗だった。
 かなり可愛らしい少女なのだが、フィンはそちらに意識がいかない。
 どう声をかけたものかと、ずっと悩んでいるのである。
 そのうち、少女の方が先に気づいた。
「あら、この本貴方のなの?」
「……い、いえ」
 咄嗟に声をかけられたせいで緊張したのか、フィンは口ごもった。
 確かにフィンのものではないのだが、今必要なのである。
 そのことを言うべきなのに、不思議とフィンは言い出せない。
 少女はフィンの返答を聞くと、すぐに読書に戻ってしまった。
 持ち主でないのならば、特に用はないのである。
 ところが、フィンがまだその場に立っている。
 気になった少女は再び顔を上げた。
 少しばかり不機嫌そうに、
「何か用ですか? 私、今読書中なのですけど」
「いえ。その本なのですが……」
「あら、先ほど貴方は自分のものではないと仰られましたわ」
「そうです。私のものではありません。ただ、それは私が主君からお借りしたものでして」
 と言うと、少女は目をぱちくりとさせた。
 自分が手にしている本と、目の前の仏頂面を見比べている。
 よほどその組み合わせがありえないと思ったのか、少女は疑わしげにフィンを見た。
「本当かしら。貴方にはこの本、あまり似合わないと思うけど」
 随分とはっきりものを言う少女だった。
 普通なら相手が怒っているところだろう。
 だがフィンは、自分自身でもそう思っていたので深く頷いてしまった。
「私も同感です。主君に半ば無理矢理渡されたのですが、どうも内容が理解できません」
「……」
 少女としてもその返答は予想外だったのだろう。
 呆然とした様子でしばらくフィンのことを見ていたが、やがておかしそうにクスクスと笑い始めた。
「貴方、面白そうな人ね。私はラケシス。貴方は?」
「私はフィンと言います。キュアン様の元に仕える騎士見習いです」
「……ってことは、この本の持ち主って」
「キュアン様です」
 真面目な顔でフィンが言う。
 ラケシスはその表情がおかしかったのか、それともその事実がおかしかったのか。
 またもや音を立てて笑い始めた。
「キュアン様って、もっと堅苦しいイメージがあったのだけど。こんなものも読むのね」
「厳しい人ではありますが、堅苦しいかどうかは分かりません」
「そう……あ、とりあえずこの本は返しておくわ。借りたものは、きちんと持ち主の元へ返さないとね」
 ラケシスは口元に手を当てながら、もう片方の手で本を差し出してきた。
 おそらくまだ笑いが収まっていないのだろう。
「しかしいいのですか? 貴女はまだ読んでいる途中のようでしたが」
「いいわよ、今しか読めないわけでもないんだし」
 そう言って、半ば押し付けるような形で本を返された。
 なんとなく、キュアンに本を渡されたときと状況が似ている気がした。
「でも騎士見習いか……貴方、まだ大分若そうだけど。大変なのね」
「そうでもありません。望んでなったものですから」
「……そうなの?」
「ええ。国の中心たる君主を支えるこの役目は、誇りあるものだと思いますよ」
 国家は君主なくしてありえない。
 そして君主とは、多くの騎士たちと共にある。
 自分たちの生きている国家のために存在する誇り高き者。
 それが騎士であり、フィンはその騎士を目指しているのだった。
「だから日々精進し、少しでもキュアン様のお役に立たねばなりません。本来ならこうした娯楽小説を読むつもりはないのですが」
「私はいいものだと思うけど。騎士とて恋はするものでしょう?」
「それは一人前の騎士の場合でしょう。私はまだまだ半人前です。それに……」
「それに?」
「――――騎士は恋に殉ずるのではなく、忠義に殉ずるものだと思いますので」
 そこには迷い、悩みといったものが一切なかった。
 心の底からそう信じきっている――そうした者だけが発する言葉だった。
 それは、疑問すらないということなのか。
「それは、なんだか悲しい気がするわ」
「そうでしょうか……?」
「そうよ。私はそう思う。……なんとなく、キュアン様が貴方にこの本を貸した理由が分かる気がするわ」
 ……それきり、二人は沈黙した。

 やがて、遠くからグレイドの声が聞こえた。
 フィンのことを呼んでいるらしい。
 その声が聞こえるまで、二人は口も開かず、全く動きもしなかった。
「長話にお付き合いさせて、ごめんなさい」
 先にそう言ったのは、やはりラケシスだった。
 木陰から立ち上がると、汚れを軽く落としながら歩き始める。
 フィンはただ黙ってそれを見送った。
 ラケシスが、一度だけ振り返る。
「また機会があれば会いましょう。それじゃあね」
「……はい」
 慇懃な礼をして、フィンは彼女を今度こそ見送った。
 彼女もまた、それ以上振り返ることはしなかった。
 以後、数年の時が流れるまで二人は再会することはない。
 さらに二人がこの日出会ったことを思い出すのには、少しばかり時間が必要となる。
 ――――それはまだ、平和だった頃のこと。