草原の中で

 それはまだエルトシャンたちが平和に暮らしていた頃。
 アグストリア諸国の一つ、ノディオン王国。
 そこでは、日々人々が都市の発展を目指しながら、平和に暮らしていた。
 都市の中心には王城や貴族の屋敷がある。
 そこはノディオン内においては規格外なほど豪華な地区であった。
 その地区を取り囲むように、円状に町並が広がっている。
 町並の外側には、ノディオン王国の人々を守るべき城壁が備えられていた。
 そんな、城壁に密接した場所にある貴族の屋敷があった。
 周囲には町並すらなく、城壁内に用意された草原や林が少々あるだけだった。
「……ここって何もないわね」
 屋敷内のある部屋において。
 金髪の少女が窓から風景を眺めつつ、そんなことを言った。
 窓から入り込む風が心地よい夏の日のことである。
「草と木がありますよ」
「そういう問題じゃないと思うんだけど」
「それだけあれば充分でしょう。ラケシス様は他に何が欲しいのですか?」
「え、ええと……」
 ラケシスは返答に窮した様子で、眼前の少年を睨みつけた。
 だが少年はというと、ラケシスのことなどお構いなしに読書に没頭している。
 左右に積み重ねられた本と小柄な体格のせいで、少年は本の山に埋もれているように見えた。
「貴方って本当に可愛くないわね」
「可愛いと思われたがる男はそういないと思いますが」
「っ……屁理屈使いね、貴方は」
「それぐらいにしておけ、ラケシス」
 と、今度は横から声がかかった。
 彼女や少年の近くに、二人よりも年長の男性が座っている。
 彼もまた本を片手にしているが、少年と違ってとても絵になっている。
 男性は美しい顔立ちと王者たる威厳を兼ね備えているため、本など陰に隠れてしまうのである。
「今日はヒミル侯爵の招待で読書会に来たのだ」
「分かってます。でもここの本、難しくて分かりにくいわ」
「……ティール、ラケシスが好きそうな本はあるか?」
 男性に問われ、ティールと呼ばれた少年は本から顔を上げた。
 少し首を捻って考えていたが、やがて男性の上の方を指差した。
「エルトシャン様の後ろの棚、上から四段目あたりに恋愛小説と冒険小説があります」
 ラケシスはティールの方をちらりとだけ見て、それから早速その本を取り出してみた。
 しばらくの間は面白くなさそうな顔をしていたが、そのうち静かになった。

「エルトシャン様は、騎士物語が好きなのですね」
 ぽつりと、ティールが呟いた。
 時刻は正午過ぎ。
 三人は運ばれてきた紅茶と菓子を楽しんでいる。
「そうだな。特に黒騎士ヘズルと忠臣たちの物語はいつ読んでも感動する」
「兄様は本当に、ヘズルのお話が好きなのね」
「ああ、俺の理想の人だ。俺もヘズルのように生きてみたいものだ」
「……なら『アグストリア建国記』は読まれましたか?」
 ティールが問いかけた途端、エルトシャンは眉を潜めた。
「あれは面白くない。ヘズルもまるで人が変わってしまったかのようだ」
 同じ人物に関する本なのに、まるで異なる評価がくだる。
 それはきっと、エルトシャンが好きなのは『ヘズル』そのものではないから。
 彼が好きなのは、あくまで騎士としてのヘズルだけ。
「別にヘズルの人間性に変化があったわけではないでしょう。周囲の人々からの評価もそんなに変わってませんし。ただ彼を取り巻く環境が変わってきただけですよ」
「それは分かってるんだが……」
 分かっていても、解っていないのだろう。
 それがエルトシャンの本質だと思うと、ティールは少し心配になった。
 彼は騎士ではなく、王なのだから。
「そういうお前はどういう本を読むんだよ」
「私ですか? ここにある本なら全部読みましたが」
「……」
 この屋敷には、何百冊という本が眠っている。
 それを全部読むということの手間を考えると、エルトシャンもラケシスも頭が痛くなりそうだった。
 二人の沈黙に、ティールは少し慌てて付け足す。
「えと、好きなのは軍記と神話の物語ですね」
「なんとも噛み合うような、合わないような組み合わせね……」
「そうですか? どちらも想像力を刺激されますけど」
 例えば、とティールは何もない草原を指した。
「あそこで数万の軍勢がぶつかりあうんです。その背景とか、戦略とか、もし自分がそこにいたらどうしているだろうとか、色々と考えるんです。それだけで丸三日くらい費やしたこともありますよ」
「お前、それはおかしいだろ」
「でも最後のはすぐに想像つくわ」
 からかうようにラケシスが笑う。
「ティールが戦場にいても、逃げ惑うか押しのけられて慌てふためくかのどちらかよ」
 その言葉に「なるほど」とエルトシャンは笑う。
 逆にティールは面白くなさそうに膨れっ面になった。
「む。ラケシス様だって似たようなものだと思いますけどね」
「あら、私は戦場には立たないわ。アグストリアは今平和だし、近隣国家との関係も良好だもの」
「仮定の話ですよ、現実の問題を持ち込まないでください」
「まぁそうむくれるなティール。ラケシスはそういった話は苦手なんだろう」
 エルトシャンが仲裁に入り、ティールとラケシスはすごすごと引き下がる。
「だがそういったものを好むということは、お前は戦術家――軍師にでもなるつもりか?」
「さぁ……特に考えたことはないですけど」
「……お前な、人には散々小言しておいてそれか」
「でもですね。本当に……考えてもよく分からないんですよ。そういうこと」
 何かを表現したいという欲はあっても、何かになりたいという欲はない。
 ティールはその点、ひどくアンバランスだった。
(やれやれ。こいつは――)
 ティールはエルトシャンの本質を見抜き、心配したが。
 エルトシャンもまた、ティールの本質を見抜いている。
 例えるなら碇のない船。
 何をするわけでもなく、ただ海に出たいという漠然とした想いがあるだけ。
 根底となるものもなく、やがては海の藻屑へと消えていきそうな雰囲気。
 それがたまらなく――
(――危うい気がするな)
 長年付き合ってきたエルトシャンだからこそ感じる程度の不安が、そこにはあった。
「? どうしたんですかエルトシャン様。そんな怖い顔をして睨まないでください」
「あ、ああ……すまん。なんでもない」
「そうですか。それならいいですけど」
 さほど気にしていたわけではないのか、ティールはすぐに視線を草原へと向けた。
「……本当は罰当たりなんでしょうけどね、この草原が血で染まる様を想像するなんて」
「そうだな。この風景が永久に変わらないことを祈りたいものだ」
「それなら大丈夫よ」
 ラケシスは、少しばかり誇らしげに微笑んだ。
「エルト兄様が治める国ですもの。そんなことには、ならないわ」
 あまりに根拠のない言葉。
 それを大人たちが聞けば、内心苦々しげに首を振ったことだろう。
『王が誰であれ、国の行く末とはそう簡単なものではないのだ』
 しかし、そこにいたのはまだ純粋さを失っていない少年たちだった。
 だから彼らはラケシスの言葉に力強く頷いた。
「――そうだな。ずっと、そうありたいものだ」
 彼らが本当に求めていたのは、騎士の道でも王の道でも軍師としての道でもなく。
 ただ、そのときのような景色だったのかもしれなかった。
 ――――それはまだ、平和だった頃のこと。