沈む前に

 王都アグスティ。
 そこを王都と呼ぶことは、もはや正確ではないのかもしれない。
 しかし、アグストリアに住まう人々はあくまでその都市を王都と呼んだ。
 アグストリアとグランベルの戦争が停戦に持ち込まれて、二週間が経過した。
 戦争によって悪化した治安はシグルド軍によって回復しつつあった。
 もともと悪政に喘ぎ苦しんでいた民が多かったため、民衆からの反応はさほど悪いものではない。
 しかし侵略されたという意識はあるため、決して良好とも言えなかった。
 が、それはあくまで内面の話。
 表面上は不気味なほど静かに、そして変化もないまま時が流れている。

「――――エルト兄様……」
 暖かな光がすぐそばにあるにも関わらず、少女はそれに手を伸ばそうとしない。
 ただベッドの上で身を伏せ、虚ろな声を上げるのみ。
「ラケシス様」
 付き添う騎士の声も彼女には届かない。
 そして、こんなときにかけるべき言葉も、その青髪の騎士にはなかった。
「私が、私のせいで……?」
 はっきりとした意思もなく、茫洋たる様子で彷徨うばかり。
 父亡き今、唯一の家族でもあり、敬愛していた兄。
 その兄との決別は、他人には理解しがたいほどに彼女の心を疲弊させていた……。

 オイフェはその日、執務を終えて自室へと戻ろうとしていた。
 窓から見える陽は沈みかけており、紅い光と夕闇によって二分された風景があった。
 町並は全て夕闇に包まれており、無人の廃墟を思わせる。
 それはオイフェが侵略した側だから感じるものなのかもしれない。
「……いけない。少し疲れてるのかな」
 ヴェルダンとの戦いと違って、今回の戦争はひどく後味の悪い終わり方になった。
 戦争の最中は戦うことで気を紛らわせていたが、それが終わると、内側に溜まっていた陰が表面へと溢れ出てくる。
 それはオイフェに限ったことではなく、シグルド軍全体――特に指揮者たるシグルド――が、そういった沈鬱な空気を帯び始めてきている。
 中にはそうした空気を察して、明るく振舞ったりしてくれる者もいた。
 おかげで最初の一週間よりは、大分まともな空気に戻ったといえる。
「今日は早く休もう。明日も忙しいし、こういうとき健康崩したら大変だ」
 風景に見とれていた為に止まっていた足を、もう一度動かし始める。
 そこで、妙な音を聞いた。
「――――笛?」
 オイフェにとてはあまり縁のない音色。
 確かにそれは、笛の音だった。
「レヴィン様かな」
 この戦争の最中に仲間となった吟遊詩人――実は北国シレジアの王子だが――を思い浮かべる。
 彼は軍内の空気を敏感に察して、よく景気付けに笛を吹いたりしてくれる。
 本人曰く独学らしいが、なかなかの腕前で、とても独学とは思えなかった。
 少し興味が沸いてきたので、部屋には戻らずに笛の音を辿ることにした。
「確かこっちの方から……」
 ここ二週間で少しだけ歩きなれた道を行く。
 少しずつ、笛の音に近づいてきた。
「バルコニーかな」
 さらに進む。
 やがて、バルコニーへと辿り着いた。
「――――」
 銀色の風が舞う。
 一瞬、そう錯覚してしまうような光景があった。
 長い銀色の髪が風によって波のように揺れ動く。
 オイフェは最初ディアドラかと思ったが、その人物はディアドラよりも小柄だった。
 誰だろう。
 心当たりがあるような、ないような、そんな曖昧な感覚。
 それは、その人物がオイフェを振り向くことで霧散した。
「……? ああ、確かオイフェ殿でしたか」
 神秘的な雰囲気を作り上げていた張本人は、極普通の言葉を投げかけてきた。
「えーと、ティール殿……?」
「はい。貴方とは軽く顔をあわせた程度でしたね。改めて、ご挨拶申し上げます」
「いえ、こちらこそ」
 相手に合わせて軽く頭を下げたオイフェだったが、内心既にこの場を去ることを考えている。
 なにしろ今、彼は“侵略者の憂鬱”を感じているのである。
 そんなときに侵略された側の人間とは、あまり顔を合わせたくはない。
 ティールという男は、アグストリア連合内ノディオン王国の人間だった。
 シグルドの親友たるエルトシャンの近くにいたということから、立場としてはオイフェに似ている。
 二人は挨拶したきり、口を利かない。
 オイフェは話しかけづらさ故に沈黙しているのだが、ティールの方はそういったことをあまり気にしていないようだった。
「笛の音」
「え?」
「笛の音を辿って、こちらに来られたのですね」
 まるで見透かしたようなことを言う。
 もっとも、当たっている以上、本当に見透かしているのだろうが。
「え、ええ。そうです」
「いい曲ですよね。レヴィン様に教えてもらいました」
 ティールは再び笛を吹き始めた。
 それは少し寂しく、懐かしく、そして温かい旋律。
 聞く者の心に浸透していくような、透き通った音色。
 オイフェは適当に受け答えをして、この場を切り上げるつもりだった。
 しかし思いのほか曲に聞き惚れて、身動きがとれずにいる。
 ……やがてティールが演奏を終えたとき、オイフェは自然と拍手を送っていた。
「お見事です」
「ありがとうございます」
 そのとき、はじめてティールは微笑を浮かべた。
 それまでの機械のような無表情さからは想像も出来ないほど、その笑みは自然なものだった。
「なんという曲なのですか?」
「はて、曲名は聞きませんでした。ただ、遠く切り離された家族の歌だと。……そう聞きました」
「家族――」
 オイフェは聡明なだけに、ティールの言葉に含まれているものを即座に察した。
 それはおそらく、主君たるエルトシャンとラケシスのこと。
 もしくは父親と別離したティール自身のこと。
 あるいは、その両方か。
「……家族が切り離されるのは、やはり辛いですか」
「普通に離れただけなら大したことはありませんよ」
 それは肯定なのか、否定なのか。
 ティールは微笑でそれをはぐらかしているようでもあった。
「オイフェ殿」
 夕闇に染められながら、ティールはオイフェに向き直った。
 その眼すらも、闇に呑まれて色が見えない。
「――――この景色は、お好きですか」
 遠く遠く、沈み行く日常の風景。
 何を思ってティールがそんなことを聞いたのかは分からない。
 だからオイフェは、とりあえず素直に答えることにした。
「好きですよ」
 沈み行く景色。
 終焉を間近に迎える在り方は、他の何者にも侵されない美しさがあるように思える。
 ……だが。
「――ですが、夜明け前の景色の方が好きです」
 ティールは軽く、小首を傾げた。
「なぜですか? どちらも似たようなものだと思いますが」
「沈み行く景色は寂しいですから。これから始まると考えると、夜明け前の方が好きです」
「……なるほど」
 夕闇が取り払われていく。
 オイフェにも、再びティールの表情が見えてきた。
 ――口元は笑みを浮かべているが、眼は泣いているように見えた。
 しかし、それも一瞬のこと。
 オイフェが瞬きすると、嘘のように淡白な眼へと変わってしまった。
「私も、同じですよ。夜明け前は好きです」
 にこりと、眼を細めて微笑を作る。
 どこかぎこちない、作り物の笑みだった。
「……ただし、夕暮れ時は大嫌いです」

 翌日、オイフェは通りかかったフィンに起こされた。
 なぜ、と思う間もなく自分の状態を理解する。
 時刻はまだ夜明け前。
 オイフェはバルコニーのテーブルに突っ伏して眠ってしまっていたのだった。
「こんなところで寝ていると風邪を引くぞ」
「ん……フィンか。おはよう」
 身を起こしたとき、かけられていた毛布が落ちた。
「……ティール殿が用意してくれたのかな」
「なんだ、ティール殿と一緒だったのか?」
「ああ、昨日少し話をしていて……その後いつのまにか眠ってしまったみたいだ」
 やけに頭が痛む。
 最近は睡眠不足もたたって、思わぬときに寝入ってしまうこともあった。
「だけど誰かと一緒のときにそんなことになるとはなぁ」
「今日は少し休んだ方がいいんじゃないか? 顔色もかなり悪いぞ」
「そうなのか……?」
 鏡もないのでよく分からない。
「しかしティール殿、無事立ち直られたか。結構なことだ」
「立ち直る?」
「ああ。彼は主君たるエルトシャン殿に切り捨てられた形になる。ラケシス様と同様、当初は大分塞ぎこんでいるようだったぞ」
「そういえば、そのラケシス様は……」
「駄目だ。まだ塞ぎこんでいる」
 ラケシスは現在シグルド軍に所属している。
 兄であるエルトシャンとは立場の違いから、同じ場所にはいられなくなったのだ。
 下手をすれば敵味方に分かれて、戦わねばならなくなる。
 辛くないはずがなかった。
「特にラケシス様はエルトシャン殿と大変仲の良い兄妹だったらしいからな」
「そっか」
 アグストリアはグランベルとの戦争によって、内部をズタズタにされている。
 エルトシャンとラケシスのように、引き裂かれた者同士というのも大勢いるのである。
「なんとか元気づけられたらいいんだが」
「フィンがそういうことを言うとは意外だなぁ」
「余計なお世話だ。だが本当にどうにかしたい。あそこまで落ち込まれると、こちらまで気が滅入る」
「ふむ、確かに……」
 アグストリアを二分化したのはシャガール王だが、侵略者たるグランベルを招き寄せたのは現在シグルド軍に滞在しているノディオンの人間がほとんどである。
 自国を救うためとはいえ、自らが招き寄せた事態に混乱したり、落ち込んだりする者も多い。
 ノディオン王たるエルトシャンが王と言う立場を捨て、騎士としてシャガールを守ることになったのも国民としては辛いことだった。
「そういえば、ティール殿が昨日何か言っていたような」
「何か?」
「ラケシス様のことで。落ち込んでいるようだから、花でもあげるべきかどうか、とか」
「花か……」
 アグストリアでは花を好む女性が多いという。
 それがラケシスに当てはまらない、とはいえない。
 しかし。
「普通の花をあげたところで喜ぶ状態とも思えんが」
「いや、普通の花じゃないよ。確か……」
 昨日の記憶が段々鮮明になっていく。
 寝起きだったので頭の回転が鈍くなっていたが、ようやく正常に働き始めてきたらしい。
「そうだ、確かどんな花か描いてもらったんだ」
 そう言って、懐から花の絵が描かれた紙片を取り出す。
 フィンはそれを受け取ると、小さく頷いた。
「これか。……オイフェ、少し借りてもいいかな」
「いいよ。シグルド様やキュアン様にも外出届は出しておくよ」
「助かる。どの辺りにあるのかは分かるか?」
「ノディオン近郊だと言っていたけど」
 助かる、と重ねて言ってフィンは駆け足で去っていった。
「なんだかんだで、ラケシス様のこと心配なんじゃないか……」
 不器用なところがあるため、そういったことは表面に出さない。
 だが、フィンは誰よりもラケシスのことを案じている。
 オイフェにはそんな気がした。

 馬を走らせ、フィンはノディオンへと辿り着いた。
 紙片を頼りに、人々に聞いて回る。
 しかし、聞いても花の正体、在りかはまるで分からなかった。
「まいったな……」
 一人で探すにはノディオン近郊は広い。
 この紙片以外にも、もう少し具体的な手がかりが欲しいところだった。
 陽も暮れてきたため、とりあえず宿をとることにした。
 すると夜になって意外な訪問客が現れたのである。
「フィン殿、変わりないようだな」
 そう言ってフィンの部屋へと入ってきたのは、今回の戦乱においてフィンと共にラケシスの護衛を務めた三人の騎士の一人だった。
 ……なのだが、その三人の騎士というのは三つ子である。
 そのため、フィンは最初やって来たのが三人の中の誰かよく分からなかった。
「ええと、イーヴ殿か……?」
「正解。よく分かったな」
 顔立ちや髪型まで同じなため、付き合いがよほど深くないと違いは分からない。
 正直フィンが言い当てたのは、ただの偶然である。
「町で花について聞きまわっている青髪の騎士がいると聞いてな。もしや貴殿ではないかと思って来てみたのだ」
「勘がいいな……だが助かる。明日にでも城に伺おうと思っていたところだ」
 と、フィンは紙片を見せてこれまでの経緯を話した。
 ラケシスを励ますための花探し。
 イーヴなら協力してくれるだろうし、ラケシスに近いところにいたことから有力な情報を持っていると思ったのである。
 イーヴは紙片をまじまじと見つめ、やがて何か思い当たったのか、小さく頷いた。
「これを書いたのは?」
「ティール殿だが」
「ならば心当たりがある。明日にでも、案内しよう」

『思い出の花なんですよ、これは』
 あの夜の記憶がよみがえる。
 オイフェはチェスを打ちながら、あのときの会話を思い起こした。
『思い出?』
『ええ、ノディオン近郊にある森にしか咲かない大変珍しい花でして。ある日、エルトシャン様がその噂を聞きつけて、ラケシス様と私、それにイーヴ殿といった親しい者たちを集めて探索に出かけたんです』
『それはまた、大規模ですね』
『そうでもないですよ。私もイーヴ殿も当時は単に貴族の子だっただけですし。子供同士の探検と言った方が正解です』
 対座するシグルドが難しそうな顔つきをする。
「オイフェ、クイーンの身動きが取れない」
「シグルド様はクイーンを最初に動かしすぎるんですよ。だから迷子になりやすいんです」
 敵地という、見も知らぬ土地に迷い込んで。
 どこにでもいけるはずのクイーンは、いつしかどこにも行けなくなっていく。
『そしたらそこでラケシス様が迷子になってしまいまして。昼過ぎになってはぐれたのだと気づき、皆大慌てしてましたよ』
『まぁ一国の姫ですからね……何かあったら一大事でしょう』
『それはそうなんですけどね――――』
 オイフェは盤上を見て眉をひそめた。
 本来、もっとも大事にしなければならないキングが、まるでクイーンを返せとばかりに敵地に突っ込んできているのである。
「シグルド様、やり直した方がいいんじゃないですか」
「いや、これでいい」
「……そうですか?」
「ああ。キングがクイーンを助けに行くなど、馬鹿げてると思うか?」
「普通に考えたら馬鹿馬鹿しいですよ」
 だが。
『――――困ったのはその後なんです。国の捜索隊に頼めばいいものを、エルトシャン様は我々が止めるのも聞かずにラケシス様を探しに行かれたんです』
『お一人で、ですか?』
『ええ。普通に考えたら馬鹿馬鹿しいですよ。一国の王子が、一国の姫を助けるために単身見知らぬ地へと……おとぎ話じゃないんですから』
『……その割には嬉しそうですね?』
『大事に至りませんでしたし。結局エルトシャン様はラケシス様を見つけられて戻ってこられました。そのとき、ラケシス様が手にしていた花が、これなんですよ』
『へぇ、なんでラケシス様はその花を持っていたんでしょうね?』
『それは――――』

「周囲は薄暗い森だったのに、その花だけは不思議な光を放っていたからだ、と」
 先導するイーヴは、懐かしそうに周囲を眺めていた。
 ここは森の中。
 もっとも、話の頃とは違い、今では大分小さな森となっていた。
「実際は、前日に降った雨の雫が少し光って見えただけなんだが。子供はそういうところを過剰に見ることがあるからな」
 フィンはイーヴの言葉に頷くのみで、声は出さない。
 やがて二人は、ラケシスが迷い込んだという場所までやって来た。
 周囲の木々とは明らかに違う、大樹とでも呼ぶべきもの。
 その根元に、わずかに咲いている花があった。
「これだ……」
「この辺りでは珍しい種類でな。なぜかここでしか見つけられないんだ」
 今はラケシスが見たような光はない。
 ただ、白く、小さく、力強い花があるだけだった。
 イーヴはそれを丁重に引き抜いて、フィンに差し出した。
「ラケシス様に届けて欲しい。この花には、思い入れがあるようだからな」

 フィンがアグスティへ戻る頃には、既に陽が暮れ始めていた。
 あまり遅くならないうちにラケシスにこの花を渡したい。
 そのためフィンは急ぎ足で彼女の部屋へと向かった。
「……ラケシス様、よろしいでしょうか?」
 部屋から出ているとは考えにくい。
 だがノックをしても、部屋の中からの反応はなかった。
 十回ほど同じことを繰り返し、フィンは意を決して部屋に入ることにした。
「失礼します」
 やや緊張しながら入室する。
 が、その緊張も程なく霧散していった。
「……寝ているのか」
 ラケシスはベッドの中で横になっていた。
 それはまるで重症患者が病に伏せているようでもあり……
「痛ましいな」
 普段は快活な性格なだけに、こういう姿を見せられるとひどく心配になる。
 空の花瓶に、取ってきた花を入れて窓際に置く。
 そのまま数分程ラケシスの様子を見ていたが、なかなか起きる気配はない。
「今日は、そろそろ失礼するか」
 そう思って部屋から出ようとしたところで、ラケシスは目を覚ました。
 うっすらと目を開きながら、
「……フィン?」
「はい。ここにおりますが」
「そう……」
 生気のない声を漏らし、ラケシスは何気なく窓際を見た。
 そして、そこに置かれた花を見つけた。
「――――」
 驚きに目を見開かせ、ラケシスは震える手で花を取った。
「これは……フィンが?」
「はい。ラケシス様が元気になられれば、と思いまして」
 ラケシスはそっと、花を胸に押し当てた。
 そのまま、花を抱きしめるようにして愛でている。
 まるで我が子を愛でる、母のようでもあった。
「……フィンは、この花の花言葉、知ってる?」
「花言葉、ですか? ……申し訳ありません、そういったことには疎いもので」
「だと思った」
 くすりと笑う。
 フィンはやや顔をしかめたが、それでも安心した。
 ラケシスが笑っているところを見るのは、本当に久々だったからだ。
「本当の花言葉はね、私も知らないの」
「……人のこと、言えないではありませんか」
「そうね。でも、私たちがつけた花言葉ならあるわ」
 あの日。
 エルトシャンを待ちながら、一人暗い森にいたラケシスを支えた花。
 やがてエルトシャンがラケシスを助け出し、森の出口に着いたときのことだった。
『花言葉でも、つけてみませんか』
 誰かは忘れたが、誰かがそう言った。
「子供の戯言なんだろうけどね。でも、私迷わずこの言葉をつけると決めたの」
「それは、なんでしょうか」
 ラケシスは花を見つめて、こう言った。
「――――『貴方の支えに』」
 ふわりと、窓から風が入り込んできた。
 その外には夕暮れの風景が広がっている。
 そして、どこからか小さな笛の音が聞こえてきたのだった。