異法人の夜-Foreigners night-

-第一部-
第七話「違和感」
 赤根甲子郎が敗れた。そのことはすぐさま零次の耳にも届いた。
 心中、複雑である。
 ――あの、赤根が。
 そう思うところもあるが、同時に
 ――やはりか。
 とも思った。
 零次は倉凪梢という男を、いまいち掴みきれないでいる。弱いかと思えば、意外と油断できない。しかし、強いとも言えない。
 ……よく分からない奴だが……。
 深夜の町。高層ビルの屋上から町を見下ろし、零次は嘆息した。
「面倒な敵であることには、違いないな」

 赤間カンパニーの集中医療室。その中央にあるベッドに、赤根甲子郎は寝かされていた。
 意識はまだ戻らない。
「これはまた、手酷くやられたものだ」
 無感動に告げる柿澤の手は、ベッドの脇にある医療装置を手早く操作している。
 先ほどから赤根の様子を見ていた亨は、
「赤根はどうでしょうか」
「もはや使い物にならんな」
 にべもなく柿澤は告げる。それを嘆く声は上がらなかった。
 赤根甲子郎は異邦隊の中でも嫌われ者である。普段から荒々しい言葉遣いで人に絡んだり、暴れ回ることが多々あった。
「隊長」
 と、そこで能力者の一人である藤村亮介が声を上げた。柿澤の側近のような人物で、その働きには柿澤も信頼を寄せている。礼儀正しく人当たりもいい。
 まさに赤根甲子郎とは対極にあるような、好青年であった。
「赤根をやった奴、見てみますか?」
「そうだな」
 柿澤が頷くと、藤村はゆっくりと赤根の元へと近づいていった。
 赤根の胸に手を乗せる。すると、そこから魔力が渦のようになって放出され始めた。
 その渦の中に、敵の姿が映し出される。
 相手の記憶から立体映像を作り出す、藤村亮介のメモリアルムービー。それが彼の能力である。
 ただしあくまで映像に出来るだけの能力であり、音声は流せない。
 映し出された梢の姿を見て、零次は目を見張った。
 ……なんだこれは。
 右腕の肘上までを覆っている、篭手。今までの戦いでは、このような武装はしていなかった。
 ……ふん、新兵器ということか、それとも手のうちを隠していたということか。
 細かい動きを見ていると、先日零次と戦ったときよりも成長してきている。下手に実戦経験を積ませると、厄介な相手になりそうな気がする。元々の基礎能力は悪くないのだ。
 だが、それでも零次には及ばない。赤根は戦闘よりも諜報を得意とするタイプだから、異法人の中では弱い方だ。彼に勝てたぐらいでは、零次には及ばない。
 矢崎刃は問答無用のパワーファイター。純粋な破壊力、防御力だけを言うならば、この中でも最強と言える。
 矢崎亨は少々戦い方に癖がある。それでも自分のペースに持ち込めば、それなりの実力を発揮する。
 霧島直人の実力は、零次は知らなかった。戦う姿を今まで見たことがなかったのである。しかし、能力を用いて戦えばかなりの実力を発揮するだろう、と零次は見ている。
 そして零次自身は、総合的な戦闘能力はこのメンバーの中でもトップクラス。故に彼は異邦隊のエースと呼ばれていた。
 今挙げた面子ならば、誰もが篭手の男に勝てるだろうと、零次は見ていた。
「――隊長?」
 訝しげな藤村の声に、零次は思考を中断した。
 見ると、柿澤の様子がおかしい。額に手を当てて、表情を歪めている。
「この、男は……」
「知り合い、ですか?」
 霧島が意外そうに尋ねる。それを柿澤は否定した。
「いいや。昔の知り合いに似ている気がしたが、別人だろう。若過ぎる」
「そうですか」
 そのやりとりはそれだけで終わった。
 しかし零次には、柿澤だけではなく霧島の様子もどこかおかしいように思えた。
 ……なんだ、この違和感は?
 問い詰めても答えは出ない。零次が思考に耽っている間に、柿澤も霧島もいつもと同じ調子に戻ってしまった。
「とりあえず、赤根が敗れたんだ。一応全員、より一層警戒を強めておけ。戦闘能力に不安のある者は誰かと組んで行動しろ」
「そうですね。それじゃ僕は兄さんと組むことにします」
 亨は単体での戦闘能力はそれなりだ。しかし兄である刃と組むことで真価を発揮することが出来る。矢崎兄弟のコンビネーションは、零次から見ても称賛に値するものだ。
 しかし、いつも通りの弟の提案に、刃は乗らなかった。
「俺は一人でいい」
「……へ?」
「お前も一人で動け」
「ちょ、どうしたのさ兄さん」
 狼狽した様子で、亨は尋ねた。だが、刃の返答は淡々としたものだった。
「俺は戦闘能力に不安はない」
 だから、誰かと組む必要はない。刃は、そう言っている。
 亨が何か言おうとしたとき、それを制するように霧島が手を挙げた。
「俺も一人でいい。というか、俺の場合は単独行動のほうが都合がいいからな」
 言いながら、零次にも視線を向けてくる。その目は、「お前も一人で大丈夫だろう?」と告げていた。
 やや躊躇いながらも、零次は手を挙げた。
「俺も一人で、十分だ」
「れ、零次まで……?」
 亨はますます狼狽した。今まで共にチームを組んでいた仲間たちが、次々と単独行動を取ることを主張している。うろたえるのも無理はない。
「亨。それなら俺と組むか?」
 その様子を見かねたのか、藤村が助け舟をだした。亨はいまいち納得しきれない様子であったが、渋々と頷く。
 そしてそのまま、気まずい雰囲気の中、一同は解散した。

 どうにも先ほどの刃の言動が気になった零次は、解散後に彼を探していた。町中を駆け巡り、やがて郊外にある空き地で、ようやく刃を見つけ出した。
「刃」
 歩く刃を呼び止め、零次はようやく追いつく。
「なぜ亨の提案を拒んだ?」
 気になっていたことを、尋ねる。すると刃は、意外なものを見たような表情で、僅かに微笑んで見せた。
「珍しいな」
「何がだ」
「お前から声をかけてくること。そしてそんなことをお前が聞いてくることが」
 言われて、零次は押し黙った。
 確かに今まで彼は極力人に干渉せず、干渉されずの姿勢を保っていた。そんな彼が、仲間とはいえ、矢崎兄弟のことに首を突っ込んでいる。珍しいことだった。
 星空の見えない夜空を見上げながら、刃は静かに言った。
「そうだな。お前が珍しく尋ねてきたのだ……俺も、珍しく語るとしよう」
 矢崎刃という男は常に寡黙。零次のように他人との間に壁を感じて黙り込んでしまうようなタイプではなく、いわば黙して語るタイプの男だった。
 そんな彼が珍しく語るという。しかも、少々言葉の中に遊び心さえ見え隠れしていた。表面上はつとめて冷静にしていたが、零次は少なからず驚いている。
「さして面白い話ではない」
 太く低い声が、静かに告げる。
「それでも、聞くか?」
 その問いに、零次は頷いた。
「少し、昔の話だ」

 あるところに、二人の兄弟がいた。
 兄はいつでも、弟を守りながら生きていた。
 それはなぜか。
 他に弟には、頼れる相手が一切いなかったからである。
 両親は二人を捨てた。異常な力を有する兄弟を、気味悪がったのである。
 幼くして兄弟は施設に預けられることになった。施設ではいつも、二人だった。
 他の子供たちとは遊ばない。いつでも、どこでも疎外される。兄はそのとき、そのことを知った。
 だからこそ、自分だけは弟についていてやろうと思った。弟は何も知らずに、育った。

 あくる日、施設に一人の男が現れた。
 名は柿澤源次郎。赤間カンパニーを利用することに成功していた彼は、その情報網を駆使して兄弟の存在を知った。
『私と共に来るといい。そこには同胞たちがいる』
 弟は訳も分からず、ただその男が優しそうだな、とだけ思った。だが兄は違った。
 自分たちと同じ境遇の者たちがいる。それを知ったとき、兄にあったのは警戒心だった。
 根拠はない。理由もない。
 ただ、見えない何かが彼に告げていた。
 ――危険だ、と。
 柿澤源次郎が危険、というわけではない。ただ、この男の示す道が、自分たちにとってひどく危ういもののような気がしたのである。
 事実、それは当たった。カンパニーは柿澤たち能力者を保護する代わりに、見返りを求めた。それは、一言で言うならば闘争である。
 訓練と戦いの日々が続いた。その中でも、兄は弟をひたすら守り続けた。
 様々な危険から。様々な敵から。
 弟は、常に兄の背中を見て育ってきた。

「亨は、俺に依存している」
 静かに、悔やむように刃は告げた。
 零次はただ、黙って聞いていた。
「思えば俺はあまりにも語ることを怠っていたのかもしれない。あいつを守ることだけに専念し過ぎ、あいつを育てるということをしていなかった」
 零次の前を歩き、刃は静かに告げる。その背中は、ひどく大きかった。
 ……これではきっと、前が見えないな。
 おそらく、亨の育ってきた環境はそういったものなのだろう。常に兄に守られてきた弟は、その背中しか知らない。その背中の先に何があるのかを、知らない。
「だから、少し距離を置いてみようとしたわけか」
「そうだ」
 振り向かないまま、刃は答えた。その表情は、零次には見えない。
 ふと、零次は自然と口を開いた。
「……俺にも昔妹がいた」
「ふむ」
「もし俺がお前と同じ境遇であれば、やはり同じようなことをしていただろう。難しいものだ、兄というものは」
 今も、妹が生きていれば。その光景を想像し、零次はすぐさまそれを打ち消した。悲しくなるだけだ。
「……なんにせよ、疑問は晴れた。刃、余計なことを聞いたな、すまない」
「気にするな。俺も、久々に話せて良かった」
 少しだけ振り向いたその表情は、笑っているようでもあった。
「では、そろそろ俺は帰るとする。明日も学校があるからな」
「そうか、では話を聞いてもらった礼に、一つ助言しよう」
 と、立ち去ろうとする零次に、刃は振り返って言った。
「あまり、異邦隊……いや。柿澤隊長に近づき過ぎるな」
「なに?」
 思わず、動きが止まる。
 零次は刃の顔を凝視した。冗談を言っている顔では、ない。
「……刃、何を言っている?」
「依存するな、ということだ」
 刃の口調は厳しいものだった。
「亨が俺に依存しているように、お前は異邦隊や隊長に依存している。俺にはそう見える」
「……手厳しい意見だな」
「お前は昔、理想があると言っていた。あの事件のせいか、それとも七年間の間に何かがあったのか。……ここに戻ってきたお前を見ていると、それが歪んでいるように見えるのでな」
 ここまでずばりと物を言われたのは久々だった。正直苛立ちはあったが、反論は出来ない。自分でも、そう思うところはある。
「その原因が異邦隊だと?」
「異邦隊もこの七年で少なからず変わった。お前が理想を叶えるに足るとした組織ではなくなっているのかもしれん。だとしたら、異邦隊という枠に縛られ過ぎるな、ということだ」
「……それだけか?」
「確実に言えるのはな。勘も含めて言うならば、近頃の隊長は様子がおかしい、とも思う」
 零次と同じような違和感を、刃も抱いているということなのだろうか。
「これはあくまで助言だ。信用に値しないと判断したならば忘れろ」
 そう告げて、刃はゆっくりとその場から歩み去った。
 残された零次は、ただ立ち尽くしていた。今の会話が、頭の中で反芻されている。
 近頃の違和感。それは、自分の理想と異邦隊の現状にあるずれなのか。それとも、隊長の様子が妙だからなのか。
 例えば今回の事件。本来、遥の救出という任務は赤間カンパニーから要請されたものではなく、異邦隊独自のものだった。同じ異能力者同士のことだから、それは別段不自然なことではない。
 異邦隊が唱えるのは能力者の自立と独立。そのために活動しているのだから、誰に言われずとも能力者の救出は行う。
 しかし、今回のように一度行方がつかめなくなった相手を追う、ということは今までなかった。せいぜい、もし見かけたら報告しろ、という程度のものだ。件の土門荒野やザッハークなどのように。
 それを考えると、わざわざ異法人全員を使ってまで、たった一人の能力者を追うというのはおかしい。
 ……遥という少女は、それほどまでに重要な存在なのか……?
 そんな疑問が過ぎる。しかし、遥の能力を零次は知らないため、そのことについてそれ以上考えることは出来なかった。
 ただ一つ、あることを思い出す。
 ……そう言えば、今回の作戦の最初の提唱者は、隊長だったな。
 そのことを思い出すと、さらに疑念が生じてくる。柿澤源次郎と、遥という少女には何かがあるのだろうか。
 ……先ほどの隊長の様子も気にかかる。
 言を濁していたうえに、誰も追及しなかったため、そのまま流れてしまったが、柿澤は梢の姿を見たとき明らかに様子がおかしかった。
 さらに言えばその際に感じた、霧島に対する違和感もある。刃の一言で、ぼろぼろと疑問が出てきた。
「何か……起きようとしているのか?」
 呟いて、空を見上げる。月は見えず、混沌の雲ばかりが空に広がる。
 先ほどまで吹いていた風も止み、どこか不気味な夜の空間が広がりつつあった。

「おっはよーございまーす!」
 能天気な声が、学園の一室に響き渡る。ここは生徒会室。一時限目すら始まっていないこの時刻、ここに来る人はほとんどいない。
 だから、倉凪梢はここでゆっくりと休もうと思っていた。最近は修行と、夜の巡廻で疲れが溜まっている。かと言って家で疲れたそぶりを見せるわけにもいかない。遥にあまり不審がられたくないからだ。
 故に梢は一人でゆっくり出来る場所を欲していた。そこで生徒会室にやって来て、こっそりと休んでいたのだが。
「なんでこんな朝に来るんだ?」
「あ、何ですか、その嫌そうな反応は」
「いや、あまりに後輩が生徒会活動に熱心なようなので先輩としては涙が出そうな感じなんだ」
 と、突然現れた冬塚涼子を軽くあしらう。
「ついでに言うとその後輩が先輩思いでゆっくりと俺を休ませてくれたりすると、俺としてはそりゃもう嬉しいんだが」
「何訳の分からないこと言ってるんですか。あ、春だからか……?」
「一人で変な納得するな」
 思案に耽る涼子を制して、梢は机の上に伸びた。だらしないことこのうえない。
「あぁ、この微妙な冷え冷え感がなんか気持ちいいなぁ」
「危ない人みたいですよ、先輩……」
 ジト目で見られたので、それをやめて今度は椅子の背もたれに全体重を預ける。途端、バランスを崩してコケた。
「……いてぇ」
「はぁ……」
 呻く梢に、嘆息する涼子。そこに、第三者である斎藤恭一が入ってきた。
「何やってるんだ、倉凪」
「寝ぼけてるみたいです」
「ふむ?」
 斎藤は、ふらふらとしている梢の後ろに回りこんで、いきなりその背中を強く打った。
「ぐおぉっ!?」
 途端、痛みで悶え苦しむ梢。なぜ普通の人間の攻撃にここまで苦しめられるのかは謎である。
「さ、斎藤……お前何すんだよ!」
「最近通信教育で習った気合の入れ方の方法だ。藤田には好評だったが」
「あの熱血青春馬鹿と一緒にするな」
 爽やかなスマイルを周囲に撒き散らしながら校庭を走り回る友人を思い浮かべて―――というよりも、視線を外に向けたら実際に走っていた―――梢はがっくりとうなだれた。
「で、こんな時間に何しにきたんだ?」
「逢引だ」
 空気が凍った。
 斎藤が真顔で言った言葉に、梢も涼子も硬直する。
 そんな二人を見て、斎藤は可笑しそうに口元に笑みを浮かべた。
「冗談だ。倉凪はともかく、何故冬塚まで驚いている?」
「いや、なんか斎藤さんが冗談言うなんて珍しいなーっていうか」
「つーか実際は何の用なんだ?」
 脱線しそうになったので、梢は再び尋ねた。すると涼子は呆れたような表情で梢を見た。
「昨日話しましたよ、二、三年の役員は今日の朝に集まるって」
「あれ、そうだっけ?」
「本当に、予定とかそういうものにはいい加減ですねー」
 これじゃ美緒ちゃんも大変だ、などと呟いて涼子は席につく。斎藤は書類をいくつかまとめる作業に入っていた。
「あ、そうだそうだ、先輩先輩」
「ん?」
「今度の土日、よろしくお願いしますね」
「何が」
「あれ、聞いてませんでしたか?」
「だから何がだ」
「お泊りですよ、お泊り」
 と、もしこの場に二人の関係を知らない者がいたら変に反応しそうなことを言った。一応補足しておくと、美緒が涼子と親友の間柄なのである。一人暮らしで暇だの寂しいだのと言って、よく榊原宅に遊びに来るのだ。
 何度か泊まったこともある。そうしたときには梢も暇つぶしに料理を教えてやったりしていた。一緒に暮らしているわけではないが、ある意味では二人目の妹みたいなものである。
「そうか、また遊びに来るのか。はっはっは、駄目だぞ、冬塚。遊んでばかりいちゃ」
「先輩にだけは言われたくないですよ」
「笑顔で言ったなこの野郎」
「私、野郎じゃないです」
 そんな馬鹿なやりとりをしている最中に、梢は重大な問題に気づき、動きを止めた。
「今度の土日?」
「そうですよ。あ、何か予定とかあったんですか?」
「まさか。俺が予定覚えてることなんてないし美緒が予定を忘れることもないだろう」
 あれでいて案外マメな性格だからな、と言って梢は席から立ち上がった。
「問題は遥だ。美緒、どう説明したんだ……?」
「遥さん?」
 小声で呟いただけのつもりだったが、涼子には聞こえてしまったらしい。
「ああ、美緒ちゃんから聞いたよ。大丈夫大丈夫、誰にも言わないから」
 涼子の言い方に、何か引っかかるものを覚えた。
「おい、冬塚。美緒はどんなふうに言ってた?」
「私のお義姉ちゃんだって。いや、まさか先輩が結婚してるとは思いませんでしたけど」
「してねーよっ!」
 力一杯否定する。
 その様子を見て、涼子と斎藤は笑っていた。
「じょ、冗談ですよ先輩。ははは」
「やはりお前はいじられキャラだな、見てて実に面白い」
 散々な言われようだった。梢は機嫌を損ねて、そっぽを向いてしまった。

 春にしてはまだ寒い風が吹く屋上。
「くっくっく。そりゃ災難だったなぁ」
 朝のことを吉崎に話し、いきなり笑われた。梢としてはますます面白くない。
「くそー、どいつもこいつも」
「怒っても仕方ないだろ。それよりも調子はどうなんだよ」
「ん、比較的良好。ただし連中はあれ以来見かけてないな」
 あれ以来、とは赤根甲子郎を倒したときのことである。それから一週間、梢は夜の町を歩き回ってみたが、それらしき相手とは全く遭遇していなかった。
「その分今は修行に打ち込んでるけどな。どうにか篭手を一秒程度で創れるようになった」
「強度は?」
「ちょっと物足りないな。本格的な戦いに使うならやっぱり最低十秒は魔力を練る時間が欲しい」
「そうか。まぁ俺は能力についてのアドバイスは出来ないから、お前自身に頑張ってもらうしかないわけだが」
「情報は?」
「解析進行率五十六%ってとこだ。あそこ、やけに厳重なプロテクト用意してるぜ」
 やれやれ、と手を挙げる。吉崎は吉崎でかなり無理をしているのか、目の下にクマが出来ていた。
「お互い、大変だな」
「ああ……ま、お前のほうは特に無理するなよ。お前が最初で最後の防衛線なんだからな」
 梢の肩を叩いて、吉崎は屋上から立ち去った。その足取りは重い。
「無理するな、ねえ」
 梢は苦笑した。多少の無理をしなければ、この事態はどうにもならないではないか。

 一方、零次は図書室の隅で考え事をしていた。図書室ならば静かだし、邪魔も入りにくい。他のどこよりも、集中するにはうってつけの場所である。
 あの夜、刃の発言以来零次はずっと悩んでいた。一体今、自分の周囲の状況はどうなっているのか。
 推測だらけになってしまうが、一応まとめておいたほうがいいだろう、と思ったのである。
 まず零次はここ最近違和感を覚えた人物を挙げた。
 柿澤源次郎。霧島直人。矢崎刃。この三名である。
 他の矢崎亨、藤村亮介、赤根甲子郎は対象外だ。ほとんどいつもと様子が同じだったため、現時点では不審なところはない。当然、零次自身もである。何か知っていれば、こんなことで悩むことはない。
 柿澤源次郎は、不審な点が多すぎて逆によく分からない。隊長という立場である以上、隊員である零次たちには隠し事も多いし、そんなものをいちいち詮索していてはきりがなくなってしまう。
 まず第一に遥の捜索を命じたこと。
 ……改めて考えると固有名詞まで持ち出されて保護の対象となったのは、遥という少女だけだな。
 そして、この動員数。藤村亮介は六人全員が作戦に参加することを「異常だ」と述べた。
 異法人が特定の作戦に参加すること自体が稀なのである。その点、今回の件は異例中の異例とさえ言える。
 次に、霧島直人。彼についても、零次はまるで分からなかった。
 どちらかと言うとよく喋るほうで、性格も明るく隊内ではそれなりに人付き合いも良い。その性格ゆえにあまり意識することはないのだが、霧島直人という男はそのほぼ全てが謎である。
 突如姿を見せなくなることもあり、その都度柿澤は「奴には別件を任せている」などと言っている。その点、柿澤とは何かしら繋がりがあるのではないかと零次は見ている。
 最後に、矢崎刃。あの夜の言葉が事実なら彼もまた知っていることは少ないと思われる。
 以上。
 ついでに付け加えるなら零次には例の男の正体を知るという目的もある。前途多難とはこういう状況の事を指すのだろうか、と苦笑した。
 その不意を突かれた。トントン、と肩を叩かれたので振り返る。
 その頬には人差し指がプスッと刺さっていた。
「……涼子、何の真似だ」
「えへへー、ごめんごめん」
 謝りながら隣に座る。その手にはいくつかの難しそうな本があった。
「よくそんなものを読む気になるな……」
「そう? 面白いよ」
 そう言われてしまうと、零次としては少々気になった。涼子が読んでいない本を示して、
「読んでみてもいいか?」
「うん、いいよ」
 手にとって読んでみると、全然面白くなかった。
 なにやら心理学系の本だということは分かるのだが、内容が全然把握できない。
 平均以上の学力は持ち合わせているのだが、涼子は桁が違いすぎた。
「分からん」
 悔しそうに呻いてみるも、まるで分からなかった。同じぐらい難しそうな本を、涼子は隣ですらすらと読んでいる。そんな涼子を見ると、零次は罪悪感に襲われる。
 かつて自分が冬塚涼子を守ってやれなかったという事実があり、そのために彼女は多くの者を失った。涼子はその際の記憶を失っている、と柿澤からは聞かされている。
 それが事実にしろそうでないにしろ、涼子という存在は零次にとってあまりに痛いものだった。
 それだけに大切なものでもある。
「ん、どうしたの?」
「……いや」
 そのことは今回の件には関わっていない。否、関わらせてはいけない。
 二度と、涼子や、死んだ母や妹のような存在を出してはならない。
 ……そうだな。今は余計なことを考える必要はない。ただ、あの男を見つければいいことだ。
 涼子から視線をそらしながら、零次は思考を打ち切った。