異法人の夜-Foreigners night-

-第一部-
第十四話「本当の理想」
 期せずして、決断の瞬間は訪れた。
 知らせを受けて異邦隊の一室を訪れた亨は、ベッドで眠る梢の姿を見た。間違いなく本人だ。
「発見したときには重傷だった。今は治療を施して休ませている」
 柿澤はやって来た零次に確認の目線を送る。この場で梢の姿を見ている――と柿澤が知っている――のは、零次だけである。その零次は、こちらに意味ありげな視線を送りつつ、静かに頷いた。
「間違いありません。あの晩、遥という少女をさらった男です」
 頷き、柿澤は藤村を前に立たせた。
「よし、それでは藤村。頼む」
「分かりました」
 柿澤に促されて、藤村が梢の傍らに立つ。亨はごくりと息を呑み込んだ。このままでは、藤村の能力・メモリアルムービーによって、遥たちのことが明らかになってしまう。
 先延ばしにしていた答えを明らかにするときが来た。そう思ったとき、何かに気づいた零次が声を張り上げた。
「まずい――そいつは既に目覚めている!」
「っ!」
 言われた途端。
 身を引いた藤村の目の前から、倉凪梢の身体が飛び出してきた。
 避けきれず、梢にぶつかり藤村は床を転がりまわる。
 その隙に梢は藤村から離れ、そのまま勢いよく医務室から飛び出してしまった。
「くっ、追え!」
 柿澤は、慌てて零次たちに指示を出す。
 言われるまでもなく、零次たちは飛び出していた。

「よく気づいたな、さすがに頼もしいぜ、相棒」
 零次の隣を走りながら、霧島が嬉しそうに言う。
 相棒とは、ザッハーク討伐の件に関して言っているのだろう。
「誰が相棒だ。それよりもお前、気づいていて黙っていたのか?」
「その方が面白いことになりそうだったんでね」
 悪戯に成功した子供のような笑みを浮かべる。
 今の霧島は、心底嬉しそうだった。
「一つ聞いておく。あの男、七年前の事件とやらに関係があるのか?」
「何でだ?」
「飛び出してきたとき、お前の顔を見た瞬間だけ表情が変わった。お前の方もそうだ。何か関係があるんだろう」
 それは確信にも似た直感だった。
「バレてたか」
 霧島は、悪戯が見つかったときの子供のような表情を浮かべた。
「ザッハーク絡みではないな。昔の弟分ってとこだ」
「遥を連れ去ったのが、その弟分だということも気づいていたのか」
「ああ。それでいて報告しなかった。研究機関から遥を助け出すのには賛成だが、あいつのとことこことなら、あいつのとこに置いておいた方が遥の為にもなると思ったんでな」
 それは先ほども聞いた。悪びれた風もなく言うので、零次も霧島に対して怒気を向けにくい。
 彼は嘘はついていない。ただ、本当のことをいくつも隠しているだけだ。
「それで、お前は奴を逃がすつもりか」
「いや、俺だって立場ってもんは弁えてるさ。あいつに関しては何もしない。お前は?」
「無論、捕まえる。こういう状況になった以上、奴を捕え遥を異邦隊に迎え入れ、その上でザッハークを討つ。それがもっとも単純かつ分かりやすい方法だ」
「それで、その先はどうする?」
 疾走しつつ、霧島は零次に問う。
「……どういう意味だ」
「遥は過去に訳ありの子でな」
 霧島は少し話をそらす。
「今まで家族というものを知らずに育ってきた。ザッハークなんて野郎にも狙われてる」
「……」
「そんな子がよ、梢の手でようやく温かさってやつを知った。お前さんは、そいつを本当に奪えるか」
「必要があるならば。ザッハークの一件を抜きにしても、一般人の中に能力者が交われる筈がないんだ。その温かさとやらがいつまで続くか、分かったものではない」
 苦々しく告げる。零次としても個人の感情で、そんなことをしようとしているわけではない。むしろ、必要さえなければそんなことなどしない。
 霧島はさらに続けた。
「確かに、超えるべき課題は多い。本当の意味で能力者が一般社会に溶け込めるようになるには、それこそ気の遠くなるような時間が必要になるかもしれない。それでもな、今このときだって、変わらずお前の友達でいてくれる人もいるだろう」
「冬塚のことか」
「そうだ、お前は能力者。彼女は一般人。お前の理屈だと離れなきゃいけない相手だが……実際はどうだ」
 それを言われると、零次は辛い。
 理屈では確かに冬塚涼子とはあまり接触すべきではない。
 自分自身が例外を作ってしまっては話にならないからだ。
 しかし、昔馴染みということもあるせいか、彼女の方はちょくちょく零次のところへやって来る。
 別に迷惑ではない。感情としては。
 そう、冬塚涼子は様々な意味で零次の中にある"例外"であった。
 彼女の存在がなければ零次は一般人との接点を完全に失い、自らの思想により忠実になっていただろう。
 なぜならば、零次にとって彼女以外の一般人とは、ひどく曖昧なものだからだ。
 彼らと自分たちとの間には壁がある。それをずっと感じ続けてきたのだ。
 そんな相手と共に過ごしたいなどと、思うはずもない。
 冬塚涼子だけが、例外となっている。
 涼子という、力も何も持たない少女が、零次の苦悩の根源となっているのだ。
 難しいところである。
 倉凪梢と久坂零次は、実はかなり考え方が似ている。
 一般人と能力者の違いをありありと受け止め、そのうえで力なき人々を守ろうとしている。
 違うのはただ一点。

 その守り方である。

 梢は、家族や友人と共にいたいという感情の上で、自分なりの守り方を決めている。
 その守り方はひどく曖昧で、不完全なものではあるが、感情から作られたものだけに迷いがない。
 零次の場合は別である。
 彼にも、共にありたいという存在はある。いや、あったと言うべきか。
 かつては母や妹がそうであり、今は涼子がそうである。
 しかし、彼はそれらの存在が傷つく様を見てしまった。
 原因は自分にあるということを、嫌と言うほどに実感してしまった。
 故に彼の守り方とは、感情とは一切関係のないところで決定付けられている。
 胸の奥底にはまだ、昔のように涼子と共にいたいという思いがある。
 しかしその思いを押し殺し、合理的であろう理屈を掲げている。
 思いと理屈が反発しあい、迷いに迷って動くことが出来ない。
 それは決定的な矛盾を生みつつあった。
「……卒業するまでだ」
 だから、その場その場で矛盾をかき消すような言葉を用意する。
「同校にいる昔馴染みだ、無下に扱うことなどできん――卒業すれば、もう会うこともない」
 そうしなければ、自分が保てないのである。
 そのことを霧島はとっくに見抜いていた。
「なぁ、零次。お前、無理してるだろ」
「していない」
 零次は語気を強める。
 だが霧島にとっては、そんなことはさほど気にするべきものではない。
「……これは独り言だから、あまり気にせず流して欲しいんだが」
 と、突如そんなことを言い出した。
「昔々、と言ってもまぁ数年前のことなんだが。あるところに、一人の馬鹿な男がいた。そいつは、ある理想を持っていたんだ」
「理想?」
「気にするなって言ったろ、独り言だ。……んで、その理想ってのがえらく陳腐なもんでな。まぁ自分にとって大事な奴らを全部守ってやろうと考えていたわけだ」
 非常階段を駆け上りながら、霧島の言葉は続く。
「ところがその男は理想を守れなかった。そんな陳腐で、それぐらいならできるだろって感じの理想なのにな」
「……」
 それは、霧島自身のことを指しているのだろうか。
 尋ねるわけにもいかず、零次は黙って話を聞いていた。
「そのときようやく男は現実を知ったんだ。自分の周りにいる奴らを守るだけ。それすらもひどく難しいことなのだと」
 霧島の声が静かに響き渡る。
「なぁ零次」
 と、そこで再び霧島は零次に問いかける。
「お前の理想は、果たして実現できそうか」
「わからん」
「考えておいた方がいいと思うぜ、年寄りからの忠告だ」
「……そうだな、忠告は感謝するとしよう」
 確かに、今のままの考え方では限界があるのかもしれない。
 近いうちに自分を、自分が辿ってきた道を、一度振り返ってみるべきだろう。
 だが。
「だが、今は先にやることがあるな」
 非常階段を上りきり、一階までやって来た。
 今は、自分の理想を掲げた異邦隊の一員として、倉凪梢を捕らえねばならない。
 と言うよりも、零次は個人的にも梢との再戦を望んでいるのかもしれない。
 複雑な心境の持ち主である。

 零次たちは地下三階まで駆け上ってきた。
 非常階段はここで途切れている。
 一般社員が、異邦隊の専用エリアに入らないようにする為の処置である。
 外に出るには、この地下三階でIDカードを提示し、閉ざされた扉を開かねばならない。
 扉の強度は相当なもので、強化能力者でも破壊するのは難しい。
「エレベーターも地下三階で途切れている以上、奴はおそらく地下三階で立ち往生していることだろう」
「あいつなら無理矢理扉ぶっ壊してそうな気もするけどな」
「そうするにしても時間がかかるし、破壊音で奴の位置を探ることができる」
「なるほど」
 霧島は頷きながら、地下三階を見回している。
 この階は様々な施設があるので、広い。
「手分けして探すか」
「そうだな……お前より先に見つけねば」
「なんで」
「"何もしない"のだろう? 捕まえる気零のお前では、どうしようもあるまい」
 零次の回答に満足したのか、霧島はクックッと笑った。
「そうか、じゃ健闘を祈る」
「ああ」
 零次は霧島と別れ、駆け出し始めた。
 その後姿を見送りながら、霧島は首をかしげた。
「さて、何から始めようか。これはまたとない機会なんだが……」

 異邦隊員には戦闘訓練が義務付けられている。
 赤間カンパニーが、保護をする見返りとして様々な要求をしてくるせいだ。
 強化能力者に限らず、普通の能力者の人々も、よほどの不向きと判断されない限りは訓練をする。
 そうしなければ生き残れない。
 その訓練を行う場が地下三階にある。
 外観を一言で表すと、闘技場、である。
 強化能力者の戦闘訓練にも耐えられるよう、かなり広く作られている。
 そこに、零次はやって来た。
「……いないか」
 この場から何者かの気配を感じてやって来たのだが。
 改めて気配を探ってみても、何も感じない。
(気のせいだったか)
 あるいは、もう既にこの場を離れたか。
 とにかく、これ以上長居しても意味はなさそうだった。
 零次は出口へ向かおうとした。
 その刹那。
 ひゅおっ、とわずかに空気を裂くような音が聞こえた。
「っ――!」
 咄嗟に身を横に転がす。
 すると、自分が先ほどまで立っていた場所に何者かが勢いよく突っ込んでいた。
 派手な破壊音が響き渡り、巻き上げられた破片の中から、そいつは姿を現した。
「倉凪――!」
「ちっ!」
 初撃が失敗に終わったことへの不満からか、梢は舌打ちした。
 零次はその姿を睨みつけながら、体勢を整える。
「不意打ちとは姑息な真似をするな」
「本当は隠れてやり過ごすつもりだったんだがな。なんかお前の顔見たら攻撃したくなった」
「無茶苦茶な言い分だな」
「てめぇのよかマシだ」
 梢が言っているのは、遥のことだろう。
 零次もすぐにそれに気づいて、顔をしかめた。
「……今なら俺が隊長に頼んでやる。すぐ引き返し、遥という少女共々異邦隊へ入隊しろ」
「断る」
「あくまでも我々に敵対するつもりか」
「ああ、そうだ。お前らが遥をつけ狙うって言うならな」
 零次はその言い方に不快感を覚えた。
 しかし、今そんなことを言い争っていても仕方がない。
「一般人と能力者は相容れない。それが俺の持論だった」
 と、零次は己の胸中を語りだした。
 いちいち理屈をこねてもきりがないと見たのだろう。
 梢のような男には、本音をぶつけた方がいい。
「なぜなら俺は、俺が能力者であるせいで母と妹を死なせてしまったのだからな」
「……」
 その、突然の告白に梢は眼を大きく見開いた。
 さすがに驚いたらしい。
「さらに俺は能力者によって、力を持たない人間が苦しめられる様をずっと見てきた。知っているか? 冬塚涼子の家族を殺したのは能力者だということに」
「冬塚? 冬塚って、あの冬塚か」
「そうだ。そして俺はそのとき、彼女を守るべき立場にありながら守ることができなかった」
 異邦隊に入隊して間もない頃。
 一般人と能力者の間にある壁を、唯一感じさせなかった相手。
 その相手を守れなかった。
 自分と、同類の者から。
「俺は、家族や冬塚のような犠牲者をもう二度と出したくはない」
 それが零次の思考の原点。
 そのために選んだ方法は、正しいかどうか分からない。
 しかし、その思いだけは間違いなく本物だった。
「だから、一般人と能力者を隔離しようとしたわけか」
「そうだ」
「冬塚とは?」
「離れていた。俺などと一緒にいても、彼女にとって良いことにはならない」
「そうかよ」
 ぺっ、と梢は吐き捨てる。
「もう一度聞く。異邦隊に入隊するつもりはないか」
「ねぇよ」
 零次の話を聞いてもなお、梢は意見を変えなかった。
 今聞いた零次の過去に驚き、同情はしたとしても、絶対に同意はできない。
「俺はお前が嫌いだ。最初はなんでかよく分からなかったが、今ようやく理由が分かったぜ」
「なに?」
「要するにお前は諦めたんだろ。もう無理なんだ、って思い込んで、それがあたかも真理であるみたいに説きやがる」
「真理、とまでは言わん。だが一般人と能力者の隔離、それは最善の方法だ」
「それはお前の意見だ!」
 零次を指差し、梢はたまりかねたように叫ぶ。
「お前が勝手にそう思い込んで、一人隠居するとかなら別に止めやしない。だが、その意見を他人にまで押し付けるな!」
「押し付けではない! 必要なことだ!」
「それが押し付けだってんだよ……! なんでお前の意見に、俺が従わなきゃならねぇんだ!」
 そう言って、梢は右腕に"翠玉の篭手"を具現化する。
 零次の方も、右腕が黒く変色していた。
「俺や遥は、家族や友人といる道を選んだ。それを邪魔するなら叩きのめさせてもらう」
「そのような道を選んだところで何になる! 待つのは悲劇、そうでないとしても、お前のような例外がいれば下衆能力者共が調子づくだけだ!」
「そんなものやってみなけりゃ……」
 梢は構えた。
 その表情は赤く、怒りに満ちていた。
「分からないだろうがっ!」
 鋭い。
 かつて零次と対峙したときとは比べ物にならない速度だった。
 梢の拳が、零次の鳩尾に向かって迫る。
「くっ」
 右腕で梢の拳をどうにか弾き飛ばす。
 しかし既に梢は次の攻撃に入っていた。
「てめぇだって、そうだ!」
 がら空きとなった零次の右脇腹を、梢の拳が強襲する。
 左腕である。
 翠玉の篭手が装着されていない分破壊力はかなり落ちるが、当たらないよりはマシであろう。
 零次は身を引き、梢の連撃から逃れようとする。
 だが梢はそれを許さない。
 即座に蔦を具現化し、零次の足に絡ませた。
「くっ!」
 瞬時に蔦を引きちぎり、壁を蹴って勢いをつけながら梢に突撃する。
 だが、零次の行動は梢に見透かされていた。
 零次が梢に衝突する寸前、突如二人の間に草で覆われた壁が現れた。
 植物の楯、と言ったところだろう。
 零次の攻撃でその楯はあっさりと崩れ落ちた。
(……っ!)
 楯を突き破りながら零次は後悔したが、もう遅い。
「今なら……」
 障害物と衝突し、勢いの弱まった零次の背中に、梢がいる。
「今なら、冬塚を守ってやれるかもしれねぇだろうがっ!」
 ――――なにより。
 その言葉が、効いたのかもしれない。
 零次の中にある灰色の苦悩が、一瞬にして白く染め上げられ――
 怒りの一撃が、零次の背中に叩き込まれた。

 また、やり直せると言うのか。
 守れなかったんだ。
 俺は、母も妹も、そして冬塚も守れなかったんだ。
 異邦隊に入ってからは、全てうまくいっていた。
 冬塚たちのような、犠牲者など出していない。
 ――いや。
 そうじゃない。
 俺は、異邦隊に入り、能力者を取り締まることばかりをしてきた。
 ならば、俺はひょっとして……。

 "守る"ということから、逃げていただけではないのか……?

 俺は、誰かを守っていたのだろうか。
 誰とも接することなく、ただ一人自分にやるべきことを言い聞かせて。
 自分に言い聞かせていただけじゃないのか?
 側には"これでいい"と認めてくれるルールがあった。
 それに従うのは、楽なことだった。
 俺は、誰を守ったと言えるのだろう。
 いくつもの起こりえたかもしれない悲劇は、食い止めてきた。
 そのことを、自信を持って誰かに誇れるのか。
 そこに迷いはないのか。
 俺は、誰の笑顔を見てきた……?
 あれからずっと、何を見て生きてきたんだ。
 俺は、
 俺は――。

 眠りは一瞬。
 しかし、とても長い。
 零次は梢の一撃を喰らって倒れる寸前のところで、気がついた。
「俺、は」
 ひどく頭が痛かった。
 内側から染み渡るように広がる痛み。
 目の前にいる男を睨みつける。
 その顔が、まるで自分の顔に見えた。
「――一度駄目だったぐらいで守るのやめて、離れるなんざ最悪だ。守るんだったらとことん守り抜いて見せろよ」
「俺が離れ、能力者に厳粛な秩序を用意すれば……その必要はなくなる」
「そうか。じゃ能力者以外の奴からは守ってやらないんだな」
 挑発するような物言いに、零次は歯噛みする。
「何故そうなる」
「離れるんだろ。能力者をまとめるんだろ。なら能力者以外の奴……例えば危ないストーカーとかが冬塚を襲ったとしても、助けないってことだろ。離れるってことはよ」
「……」
 完全に盲点だった、としか言いようがない。
 これには、反論のしようがなかった。
「お前は能力者とそうでない奴、この二分化にこだわり過ぎなんじゃねぇか。そんなんじゃ自分の本当にやりたいことも、見失っちまうぞ」
「ならば、どうすることが正しいと……?」
「お前のことはよく知らんからどうにも言いようがない。ただ俺は、後悔せず自分に誇れるような道を選んでるつもりだ」
「……」
「お前がそこまで一般人と能力者を隔離する道を選ぶならどうにもならねぇな。ここでお前を叩きのめして俺は遥を守る」
 零次は、梢が羨ましかった。
 彼には迷いがない。悔いもない。
 本当にやりたいことをやっている。
 そんな感じがした。
(俺、も)
 自分の中にある、かすかな期待。
 それを呼び起こそうとする男。
 今、零次の中では彼の"理屈"と"期待"がかつてない衝突を起こしている。
 数年かけて養ってきた理屈とは、零次を包み込む監獄に近い。
 そしてその中に封じ込められた期待が、その檻を破壊しようともがき続けている。
 彼がしたいこととはなんだったのか。
 一般人と能力者の隔離?
 家族や友人、目に映る人々を守ること?
 いつのまにか、手段と目的が入れ替わり……とても遠回りをしてしまったのではないか。
「俺は」

 そう呟いた途端、胸の内側で何かが脈打ち始めた。

「っ――!」
 視界が黒く染まる。
 己の内側から、期待と共に余計なものまで目覚めようとしていた。
「……なんだ?」
 零次の様子がおかしい。
 そのことに気づき、梢は怪訝そうな表情を浮かべた。
「に、げろ」
 掠れた声で、どうにか零次は言った。
「逃げろだと? どういうことだ」
「逃げろ! 早く、しないと、死……」
 そこまで言って。
 零次の意識は、再び途絶えた。
 そして異変が始まった。
「……!」
 びくん、と零次の身体が震える。
 それだけの動作だというのに、梢は寒気を覚えた。
 やがて、異変は眼に見えて現れ始める。
 右腕だけではなく、左腕までもが黒く、変色してきた。
 いや、それだけではない。
 零次の背中に、禍々しい翼が生えてきたのだ。
 その有り様は、まるで神話に登場する悪魔の如く。
 邪気に満ちた魔力が、零次の身体を包み込んでいた。
「――悪魔」
 その威圧感は、ザッハークとも同等。
 ただ、あちらは正体の掴めない不気味さが色濃く現れていたが、こちらは純粋な恐怖を周囲に撒き散らすかのようである。
 零次と二度目に戦った夜に梢が感じた圧迫感を、遥かに凌いでいる。

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉっ!」

 異邦隊訓練所に、理性を失った悪魔の雄叫びが響き渡る。
 これから始まるのは、一方的な殺戮だ、と言わんばかりに。