異法人の夜-Foreigners night-

-第一部-
第十七話「蛇の襲来」
 その日は、雨が降っていた。
 梅雨に入ったのだろう。
 じめじめとした空気が榊原邸を包み込み、雰囲気が重くなっている。
 梢たちは今日も学校に行かず、家の中でじっとしていた。
 怪我がまだ治っていないことと、零次の存在が気になっている。
 もし梢たちがいない隙に目を覚まし、遥を連れて行かれたら話にならないからである。
 がらり、と戸を開けて吉崎がやって来た。
 彼も学校を休み、榊原邸に常駐するようになっている。
「お前、学校行かなくていいのかよ」
「いいのいいの。それより大事件だぜ、大事件」
 繰り返し言う吉崎に眉をひそめ、梢は首をひねった。
「なんだよ、大事件って」
「異邦隊が突如赤間カンパニーから離れ、以後行方知れずだってよ」
 と、この場に零次が起きていたならば愕然とするようなことを言った。
 赤間カンパニーは異邦隊という、特異な力を持つだけの組織の保護者だった。
 異邦隊単体となっては、隊員たちを養うこともできない。
 赤間カンパニーはその力を欲し、異邦隊はその居場所を求めた。
 その関係が崩れ去った。
 すぐさま梢はそのことを亨にも話した。
 さすがに元異邦隊員である亨はそのことに驚いた。
 両目は大きく見開かれ、カタカタと歯を打ち鳴らす音が聞こえる。
「そんな、馬鹿なことが」
 青ざめた顔で、そう言うのがやっとだった。
 両者の関係の深さ、必要性を亨はよく言い聞かされて育っていた。
 それが、いきなり消滅した。
「信じられません。何が根拠なんですか、吉崎さん」
「ああ、また昨晩ハッキング仕掛けてみたんだよ。連中の動向分かるかと思って」
 ところが、異邦隊――赤間カンパニーの立場で言うのならば、特務課である――に関するデータが、一切合財失われていた。
 念のためにいろいろと探ってみたが、どこにも見当たらない。
 その代わり、赤間カンパニーの社長が極秘裏に殺害されていた、という記述を見つけた。
 この情報の詳細を閲覧して、吉崎は肝が震えるような思いだった。
 社長は、圧死した。
 室内で、何に押しつぶされることもなく。
 会議の最中だったらしい。

 各々の部門の責任者が当たり障りのない意見を述べた後、社長が立ち上がった。
 自分の意見を言うつもりだったのだろう。
 周囲を見回して、口を開こうとする寸前――ふと気になったように言った。
「おい、柿澤はどうした?」
 この手の会議には、柿澤源次郎も"特務課"の責任者として必ず参加しなければならない。
 ところが、その日に限って姿が見えなかった。
「先日、地下でなにやら揉め事があったようですからな。事後処理に忙しいのでしょう」
「はは、あの男、そのことで我らに何を言われるのか、ということを恐れているのでは」
 彼らは、柿澤を筆頭とした異邦隊を支配しているつもりでいた。
 だからこそ、このような発言は自然に飛び交い、誰もそれを咎めたりはしない。
 強大な力を持った相手を、手懐けている。
 そのことは彼らを、自らが力あるものであるかのように錯覚させ、優越感に浸らせるには十分な事実であった。
 保護してやっている。
 だから、連中が言うことを聞くのは当たり前だ。
 それが、赤間カンパニーの重役たちに共通した、異邦隊に対する意識の持ち方だった。
 なにしろ総責任者である社長自身、
「ならばこれをネタに脅してみるか? ふふ」
 などと言っている程だ。
 彼らは、異邦隊を相手に、人外の者を相手にうまく接していると思い切っていた。
 およそ人道に外れた行いをしようとも、相手は人間ではないのだから構わない、という考えも背景にある。
 それが、彼らの誤りだった。
「――あ?」
 ふと、社長は違和感を覚えた。
 自分の頭や肩などに、何かが圧し掛かってくるような感覚がした。
「なんだ?」
 肩になにかあるのか、と手を肩に置くと、今度はその手が肩にめり込んでいく。
 その様子が尋常ではないので、さすがに社長も怖くなったらしい。
「おい、なんだ、これは」
 周囲を見渡すと、誰もが似たような状態になっている。
 全身、何かに圧し掛かられているような感覚を覚えていた。
 もっとも、何も圧し掛かっていない。
 少なくとも、彼らの目には何も映らなかった。
「――ひ」
 とうとう、社長の手は肩の骨を砕いた。
 痛みに顔をしかめるものの、重圧は決して収まらない。
「あ、ア――」
 そして。
「ひぃ……あ、ア、ァ、あ、ああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁ!」
 頭がぐしゃりと潰れ、そこから不気味なモノがどろりと流れ落ちた。
 数分後、会議室に設置されたカメラにて惨状を見た監視員が駆けつけたとき。
 そこは真っ赤な花壇となっていた。

 赤間カンパニーの重役は皆殺しだった。
 事件の状態から、生き残った数少ない異邦隊を知る社員によって、犯行は異邦隊によるものだと判断された。
 数名の勇敢な社員が意を決して地下十階へ突入すると、そこには何も残されていなかった。
 異邦隊に宛がわれていた寮にも、誰もいない。
 赤間カンパニーの重役を皆殺しにし、その後行方知れずとなった。
 吉崎が言ったのは、そういうことである。
「でもそれなら、赤間カンパニーの沈黙はどうなります? 別にニュースとかにもなってないですよ?」
「こんな怪事件、素直に報道できるわけないだろ? 当然工作をした後、不幸な事故と見せかけて公表するさ。それに異邦隊については多分連中は言いたくても言えない。いわば赤間カンパニーの闇の部分だからな。公表なんてしても、信じてもらえないか信用落とすかの、どちらかだけだろうよ」
 吉崎の言うことは正しい。
 それだけに、亨は眉を険しくした。
「となると、異邦隊は……新しいスポンサーでも見つけたんでしょうか」
「そこは分からん。ただ言えるのは、赤間カンパニーはもう放っておいてもいいだろうってこと。そして、異邦隊の行方が分からないことだ」
「一見よさそうな話に見えて、その実限りなくよくない事態だな」
 赤間カンパニーは、もとから梢としてはどうでもいい。
 それよりも、現時点で"敵"と考えるべき相手がどこにいるのか分からないというのは、かなり怖い。
「しかし、僕らがあそこから脱出して二日。それまでは、そんな素振りまるでなかったのですが」
「お前が抜けたことが原因かもな」
 梢が何気なく呟いた一言に、亨は身体をさらに震わせた。
「こ、怖いこと言わないでくださいよ。零次にでも聞かれたらどうするんですか!?」
「多分お前がボコボコに殴られる」
「一昨日ので間に合ってますっ!」
 言いつつ、周囲に視線をせわしなく動かす。
 幸い零次はこの場にはいない。まだ眠っているのだろう。
 だが、魔力の回復の仕方からして、そろそろ目が覚めてもおかしくはなかった。
「けど、冗談抜きでそれぐらいしか思い浮かばんよな」
 と、吉崎が言った。
 異邦隊が行方不明になった原因が――である。
「えぇっ、ぼ、僕のせいですか?」
「厳密に言うなら、ちと違うだろうけどな」
 そう言って梢も吉崎の意見に賛同する形を見せた。
 長年の親友同士、なんとなく相手の考えが読めるのだろう。
「お前だけじゃなくて、刃。久坂。それから赤根だっけか。全部で六人いる強化能力者のうち、四人までが消えたことになるよな?」
 指折り数えて、梢は言った。
 正確に言うならば霧島直人も抜けて、残るは藤村亮介だけなのだが、話に大差はない。
 亨が頷くのを確認し、梢は続けた。
「カンパニーはお前らを保護する条件として、お前らにいろいろと仕事をさせてきた」
「ええ、そうです」
「ただ、仕事を任される人間はほとんどお前ら六人だったんじゃないか?」
 梢の見解に間違いはなかった。
 亨は内心、梢の賢さとは別の鋭さに驚嘆するばかりであった。
「その通りです、よく分かりましたね」
「身体能力が人間と変わらない奴と、普通の人間を凌駕する身体能力を持つ奴とだったら、普通は後者を選ぶ。万が一のことを考えれば、力押しでどうにかできるからな」
 その言葉に、過去のことを思い出したのか、亨の顔色が曇った。
 それを見た梢は、亨の肩を叩いた。
「気にするな、とは言わねぇが。その過去に引きずられないようにな」
「あ、はい」
 亨は勢いよく頷く。
 まさか梢に、励まされるとは思ってもいなかった。
 そのやり取りを隣で聞いていた吉崎は、無言で肩をすくめた。
 梢に対して何かを言おうとして、やめたらしい。
「で、そういった言わば仕事師たちがほとんど、消え去った。カンパニーとの関係は……」
「なるほど、悪化する可能性が高いですね」
「それに異邦隊としても我慢の限界だったんじゃねぇか? そんな風に道具として使われるなんて、いくら居場所が与えられるからってそう耐えれるもんじゃないだろ」
「確かに、異邦隊内にも不満の声は多かったです」
 もともと異邦隊は能力者の自立を目指し、創設された組織だ。
 だと言うのに、組織の子飼いの者としての生活が与えられるばかり。
 自立ではなく、従属のような形となっていた。
「とりわけ、零次なんかは」
 一般社会で生き抜くために学校へ行けなどという命令や、仕事の件など。
 それらを提案した赤間カンパニーに、零次は常々苛立ちを感じているようだった。
「しかし、厄介なことになったな」
「ああ、本来なら異邦隊さえどうにかすれば終わると思ってたんだが……」
「影も形もなくなってしまいましたからね」
 三人揃ってため息をつく。
 要するに、やることがなくなってしまったのである。
 が、ふとなにかを思い出したのか、梢はいきなり立ち上がって電話を取った。
 素早く、ある電話番号を押す。
 そして、そのまま受話器に耳を押し当て、その場に立ち続けていた。
「なるほど。兄貴に電話すんのか」
 梢の意図を察して、吉崎は頷いた。
 霧島ならば、なにかしら情報を与えてくれるかもしれない。
 なにしろ、わざわざ結界を用意してくれるぐらいだ。
 敵と言うよりは、味方寄りと考えるべきだろう。
 が。
 梢はすぐに受話器を置いた。
 繋がらなかった、ということは不機嫌そうな表情を見て分かる。
「電波が届かないところ云々だったらまだよかったんだけどな。使われてないってよ」
「排除したってことでしょうか、あの携帯を」
 亨たち異邦隊員には連絡を取り合うときのために携帯が支給される。
 それを身に着けているのは義務だった。
 携帯には発信機も取り付けられており、隊員の現在地が分かる。
 よってその行動はある程度監視下にあり、あまり好き勝手なことはできない、ということだった。
 そうした事情から、亨(と、梢が借りていた刃の携帯)は既に始末してある。
 零次の携帯も始末しておこうかと思ったが、あの訓練場での激闘で破壊されていた。
 その携帯が使用されていないということは、霧島もそれを破壊した可能性がある。
「それなら、兄貴はまだ信用できるってことかな」
 吉崎は嬉しそうに言った。
 梢と同じく彼もまた、霧島を実の兄同然に慕っていた。
 敵対関係ではなさそうだ、ということが分かったことが素直に嬉しいのである。
「けど、結局は振り出しだぜ。どうすんだよ、手の打ちようが――」
 と。
 そこまで言いかけたとき。

 ばちぃっ、と激しい音を立てて、榊原邸が闇に包まれた。

「――!」
 三人は咄嗟に庭先へと飛び出す。
 不思議なことに、辺りは闇に包まれているというのに、暗くはない。
 闇、と言うよりも漆黒のドームに覆われているような様だ。
「こいつぁ……」
「梢君!」
 と、部屋から飛び出してきたのだろう。
 遥が血相を変えて、梢たちの元へと走り寄ってきた。
 隣には美緒もいる。
 こちらは、事態がよく飲み込めていないらしく、せわしなく目を動かしていた。
「これ、一体……」
「分からねぇ。ただ、ヤバイぞ」
 本能的な部分で感じる、気味の悪さ。
 粘りつくような感覚を覚えさせる、不快な魔力の質。
 これは、つい先日も感じたことがある――。
 そのことに気づいて、梢は愕然とした。
 まさか、あの男がいきなり榊原邸に攻め込んでくるとは予想もしていなかったのである。
 あの男――本名は、梢も知らない。
 きっと、誰も知らない。
 ただ、あまりにも有名な通り名はあった。
 蛇の王、ザッハーク。
 抑えきれない不快感と怒りとが、梢の中からこみ上げてきた。
 刃をやられたことによる怒りは、そう簡単に消えはしない。
「ザッハーク……てめぇかッ!」
 何処かにいるはずの相手に、叫びをあげる。
 二人の人物が、その言葉に動揺した。
 亨と、遥だ。
「ざ、ザッハーク!?」
 亨の方は、怯えきった声を出した。
 ザッハークとは、異邦隊の中でも特に危険指定されている第一級犯罪者。
 外道の名を欲しいままにする、蛇の王。
 そんなものが、なぜこんなところに――という気分であった。
 梢からはまだ聞かされていなかったせいだろう。
 遥の方は、驚愕に身を震わせてはいるものの、亨のような怯え方はしなかった。
 ただ、顔色が真っ青に染まり、膝をがくりと曲げて地に倒れこんだ。
「ザッハーク」
 その名を確認するように、もう一度呟き。
 そして、梢の腕を取った。
「梢君、逃げて!」
「……なに?」
 突然の言葉に、梢は面食らった様子で遥を見た。
「アレと戦っちゃ駄目! 梢君じゃ、アレには勝てない――」
「遥? お前、あの野郎について何か知ってるのか」
「――面識は、ほとんどないがな」
 そこに。
 割り込んではいけない声が、割り込んできた。
「っ!」
 声のした方を向くと、そこに男はいた。
 年齢のいまいち分からない、不気味な顔立ち。
 それは紛れもなく、梢があの夜遭遇したザッハークだった。
「一昨昨日以来か。久しぶりって言うほどじゃねぇな」
「探したぞ、器」
 梢のことを完全に無視し、ザッハーークは遥に向き直った。
 遥は、へなへなと座り込んだまま動けずにいる。
 そんな遥を庇うように、美緒がザッハークの前に立ちはだかった。
「ばっ、倉凪、離れろ!」
「何言ってんの、ヤザキン。こいつなんでしょ、この変な状況の原因。あんた、早く家を元に戻しなさいよ!」
 大声でまくし立てる美緒を、ザッハークはつまらなさそうに一瞥した。
 やがて、
「失せろ、下等生物」
 その言葉と共に、美緒に向かって光弾が放たれた。
 一撃でも喰らえば、肉は飛び散り内臓は引き裂かれる。
 それが、美緒の眼前に迫った。
「黄金よ、盾となれ!」
 咄嗟に、亨が黄金の盾を創り上げ、美緒を庇う。
 が、
「ぬるい」
 光弾の威力はよほど凄まじかったのか、盾を消し飛ばして亨ごと美緒を後方まで吹き飛ばす。
「が――っ!」
「美緒、亨!」
 梢が咄嗟に二人に飛び掛ろうとしたとき、人影が現れて二人の身体を受け止めた。
 榊原だ。
「師匠!」
「……」
 榊原は黙ったまま、ザッハークを睨みすえる。
 ザッハークの方も榊原の存在を認めたのだろう。
 見下すような笑みを浮かべた。
「久しいな、下等の刑事。貴様も絡んでいたか」
「生憎と、お前がご所望してるのは俺の家族なんでな。さっさと帰れ糞野郎」
「そういうわけにもいかぬ」
 にたにたと、余裕のある表情を崩さないままザッハークは言った。
 ――いや、事実余裕なのだろう。
 この場でザッハークに敵うものなど、いない。
「契約者からその娘を連れてくるよう頼まれている。どうにも手駒が不足しているようでな」
「飼い犬ならぬ飼い蛇になったか。笛の音に合わせて曲芸でもしてろ」
「失敬な。私とかの契約者は同類よ。いや、ある意味では私が上か」
 くく、と楽しそうに笑う。
 その隙に、梢は遥を榊原の方に投げつけた。
「――!?」
 突然の行動に、遥や吉崎らは困惑した。
 が、梢が次に放った一言で、各々のすべきことは理解できた。

「遥を頼む!」

 その言葉を聞いて、真っ先に行動を起こしたのは吉崎と榊原の二人。
 榊原は遥と美緒を両手に抱え、即座に奥のほうへと駆け出す。
 向かう先には、普段あまり使われることのない車庫がある。
 吉崎もそれに続いた。
 倒れている亨を助け起こし、榊原たちとは別の方向に向かう。
 おそらくどこかに停められている吉崎のバイクの元へと向かったのだろう。
 残されたのは、梢とザッハークだけとなった。
「追わないのか?」
「貴様を始末しても、その間に奴らは逃げ切るであろうな」
 先ほどまでの笑みは消えている。
 かと言って、ザッハークが絶対的に有利であることに変わりはない。
 ただ、目的の邪魔をされて機嫌が悪くなっただけだろう。
「仕方ない。見たところ貴様さえ始末すれば、器を手に入れることは容易かろう。よってここで貴様を殺す」
「あのとき殺しとけば良かったって後悔させてやろうか」
 右腕の"翠玉の篭手"が浮かび上がる。
 しかし、それを見てもザッハークは何の反応も示さなかった。
 興味などないのだろう。
「さて、どう殺してくれようか」
 つい数分前までは平和だった庭。
 そこが、今や死闘の場へと変貌しようとしている。

 決して届かない理想とはどういうものだろうか。
 零次は暗い世界の中で、ぼんやりとそのことを考えていた。
 意識ははっきりしないし身体も動かない。
 深淵の海に潜り込んだまま流れていく。
 懐かしささえ感じながら、更なる深みへ己を潜らせる。
(――不思議だ。自分のことなのに、どこか他人のよう)
 自分を見ている自分がいる。
 と言うことは、闇の海に漂っているのは、自分ではない。
 アレは久坂零次ではない。
(それでは、アレはなんだ?)
 分からない。
 零次にはいくら考えても分からない。
 ただ確信できることは、自分こそが"久坂零次"であり、眼前に漂っているのは久坂零次の形をした別物だということだけ。
 焦点の定まらぬ瞳は、こちらを見ずに上方を向いていた。
 つられて零次も上を見た。
 そこは光に満ち溢れていた。
 海面のような境界の先がさぞかし明るい場所だと、零次は知った。
 今までは下を向いていただけ。
 下にあるのは、黒く重い虚無への扉。
 忌むべき世界が、そこに在る。
 そう、その光景は零次にとって馴染み深いものだった。
 いつも、零次はあちらを見ていた。
(自分たち、人ではない存在が本来いるべき場所だから)
 だと言うのに。
(なぜ、俺はあそこにいないのだろう)
 なぜ、こんな中途半端なところで漂っているのだろう。
「それは、俺がいるからだ」
 そこで初めて、眼前のソレは口を開いた。
 身体は上を向きながら、首だけを回し、ぎろりと零次を睨みすえる。
 その視線を受けたとき、零次は恐怖を感じた。
 目の前にいるソレが、自身を破滅させるものだと気づいたのだろう。
 思わず、分かりきったことを聞いてしまった。
「――――お前は、なんだ」
 その、意味などない問いかけにソレはいちいち頷き、
「俺は、久坂零次だ」
 久坂零次に向かって、そいつはそんなことを言った。

 倉凪梢の肉体は、未だ完全な回復を遂げてはいない。
 そのことをザッハークはよく理解している。
 実戦経験の差と言うものだろう。
 相手を見れば、それくらいのことは分かる。
 が、不調の相手をわざわざ逃がしてやるほど、ザッハークは優しくない。
 ニュース、新聞、雑誌。
 ありとあらゆる情報機関に紹介されているように、この男は残虐非道。
 分かりやすいほどの絶対悪として存在してきたし、本人もそのことを自覚している。
 自覚しているからこそ、この黒き沼の如き心を自ら抱いて歓喜する。
 異常者と言えばこのうえない異常者。
 倉凪梢や久坂零次さえも、この男と比べれば普通の人間と言える。
「この間のアレは、満足のいく殺し方ができなかった」
 刃のことを指しているのだろう。
 わざとらしく不快そうな顔つきをして、すぐにそれを引っ込める。
 変わりに出てきたのはこのうえない喜びの感情。
 それを隠そうともせず、歪んだ喜悦の顔を晒しだす。
「が、今日は邪魔も入るまい。どうやって殺そう。半年前には、三日かけて相手を嬲り殺しにしたこともあった。貴様は、どれだけ持つかな」
 梢は黙っていた。
 この男の言葉は虚言の類ではない。
 おそらく本当に実行したのだろう。
 胸糞が悪くなるし、すぐにでも殴りつけて黙らせたかった。
 しかし実際に黙っているのは梢自身だ。
 当たり前ではある。
 梢は完全にザッハークのプレッシャーに呑まれ、動きたくても動けずにいたのだ。
「四肢を断つか、五感を一つ一つ奪い取っていくか。ああ、しかしどれも駄目だな。――飽きた」
 思い出から現実へと引き戻され、ひどく残念そうな表情をする。
 そして、右腕を僅かに上げた。
 梢の方へ向けて、斜め下に突き出すような形で静止する。
「針串刺しでよかろう」
 その言葉が起動式となった。
 ザッハークの周囲、地面から薄紫の針がズブズブと突き出てきた。
 針はザッハークの周辺に円を作り上げながら、徐々に範囲を拡大していく。
「ちっ!」
 その針を一目見て、梢は咄嗟に飛び退く。
 すぐさま、梢の立っていた場所が針の軌道上に埋もれる。
 やがて針は、榊原邸の地を覆いつくす。
 見渡すばかりの薄紫。
 それは一種の花畑を連想させる。
 屋根の上に飛び乗りながら、梢は恐怖とも戦慄とも言えない感情で針を見る。
「なんだ、こりゃ」
 震える唇でかろうじて紡いだ言葉を、ザッハークは聞いたらしい。
 くく、と笑いを堪えきれない様子で梢の方を見る。
「なんだ小僧、分からんか。これは魔力で構成された針だ」
「そんなことは分かってる。問題なのは、そうじゃない」
 頭を振りながら、屋根から景色を一望する。
 信じられないものを目の当たりにしたような、絶望を感じる。
「その針一つ一つが、俺の"翠玉の篭手"並の武装ってのは、どういうことだ」
「どういうこともなにも、そういうことだ」
「んな訳あるか! 一本でそれだけ魔力を使って、これだけの針をどう用意する!?」
 針の一つ一つが、一人前の魔術師の全魔力と同程度の力を誇る。
 それを用いて、榊原邸の敷地を埋め尽くした。
 正確な数など数えられないが、ただ一つだけ分かったことがある。

 ザッハークは既に魔術師千人分の魔力を使っている。

「なんて悪い夢だ、こいつは冗談キツイぜ」
 そのうえ結界まで張っておきながら、ザッハークには微塵も疲れた様子が見当たらない。
 無限の魔力を持つ怪物。
 これではザッハークと言うより、ウロボロスといった方がいい。
「冗談などではないのだが」
 にやりと笑って、ザッハークは空いている左腕を振り上げる。
 梢は身構える。が、遅い。
 ザッハークが上げた腕を振り下ろすと、梢の眼前に巨大なモノが現れる。
 ――――それは蛇。
 大き過ぎて、結界の内側では全貌が明らかになりえない。
 ただ、その蛇は梢を喰らおうとしている。
 漆黒の闇へと続く口を大きく開き、そして一息に閉じる、
 梢は、蛇によってかき消された。
 その動作に家が耐えられず、亀裂が無数に走る。
 静かで、呆気ない幕切れ。
 一見そう見えたが、ザッハークは不満げに視線をあらぬ方向へとやった。
「今回も邪魔が入ったか。差し詰め本来の結界を張っていた者だろう」
「――ご名答」
 そこには、梢を片手で抱えた霧島直人がいた。

 対峙する視線。
 零次は眼前のソレを睨みすえながら、緊張感を高めていく。
 ソレが危険なものだと感じたのは、やはり自分のことだからか。
「身構えるな」
 ソレは語る。
「そして聞け。久坂零次という名の矛盾の監獄を」
 ソレは再び視線を光へと向ける。
「俺は、ずっとあちらを見ていた。下は見たくなかったし、見る必要もなかった」
「ならばお前は久坂零次ではない。俺が見てきたのは、眼下に広がる闇だ」
「そうだな。お前の方はそうだろう。だが俺は違う。俺は俺自身が既に闇であり、なおかつ希望を求めて光を見る。だからこそ、久坂零次という存在は矛盾だらけなのだ」
 ソレは、本当に憎々しげに吐き捨てる。
 その事実が許せない、ということがすぐに分かった。
「そしてお前はありもしない虚実の闇を見つめ続けた。お前が本当に見るべき闇は、この俺だと言うのに」
 そう言われて、零次の脳裏に浮かび上がるものがあった。
 カチカチと、歯を打ち鳴らしながら手に力を入れる。
 何をしようというわけではなく、ただ自然と力が入ってしまった。
 認めなければならなかった。
 眼前のソレは、紛れもなく久坂零次だということを。
「そう、俺もお前も久坂零次であることに変わりはない。違うのは、役割だ」
「罪と罰、か……」
 絶望的な響きを含めて、言葉を吐き出す。
 この場での言葉は今後の零次を形成する根本ともなりかねない。
 ただの一言も、慎重に告げる必要があった。
「お前という存在が罪を背負い、俺は罰を与える執行者。なんでもないところで己を分割し、自己を保とうとした」
「……お前の行動原理は"能力者は危険だから、一般人と隔離する"というところにあったな。だが、それは間違いだ。お前が家族を死なせた原因の一端は確かに能力者という、異質なものにある。しかしそれが理由の全てだとしたら、倉凪梢にも家族はいないことになる」
 そう。
 その例外をはっきりと知ったから、久坂零次はこう思うようになった。
 家族が死んだのは、何も自分だけのせいではない、と。
 その考えは自身を救いかけたが、足りなかった。
 そんな理由をつけて自分を正当化するなど、身勝手にも程がある。
 零次は、その考えを封じ込めていた。
「その考えも間違いではない。要するに、理由などと言うものは不確かで、曖昧。事後処理をする際に、納得の行くものを求めた結果に過ぎない」
 淡々と告げるソレは、零次よりも大人びている。
 悪をただ罰する立場にあった零次と、耐え難い罪を背負い続けたソレとの差。
 その差を感じて、零次は奇妙なこととはいえ、目の前のソレに申し訳ない思いがした。
「……すまん」
「気に病むな。自分自身に謝るなど、ナンセンスだろう」
「だが、俺はお前に全てを押し付けて逃げた」
「そうだな。俺は全てを背負った。だが、だからこそ言える言葉がある」
 相変わらず光を見上げながら、それは言った。
「俺たちはお互いに無意味な削り合いばかりをしてきた。この小さな"久坂零次"という監獄の中で。お前が悪しき輩を罰することも、俺が罪を背負いながらも涼子を始めとした光に憧れたことも、間違いではない。間違いは最初からただ一つ。――――久坂零次という監獄を作り上げてしまったことだ」

「……行ってしまいましたね」
「ああ」
 車の横をバイクで走りながら、吉崎は答えた。
 彼らは秋風市を抜けて、隣の町へと向かっている。
 そこには榊原の知人がおり、しばらくはそこで宿を取ることになるという。
 亨が言ったのは、霧島のことだった。
 あれからすぐに、彼らは榊原邸から脱出しようとした。
 だが、不思議なことにいくら走っても景色は変わらなかった。
 結界が張られていたせいである。
 黒きドーム状の結界の効果は二つ。
 外部からの断絶――つまり、中で何が行われているか一般人に知覚させないこと。
 そして、内部からの脱出を不可能とすること。
 その効果によって、無限回廊へと放り込まれた吉崎たちだったが、突如その結界に穴が開いた。
 好機を逃すことなく、榊原は車を一気に突き進めた。
 吉崎たちもそれに続こうとし、一瞬だけその姿を見た。
 早く逃げろと、目線で合図を送ってくる男の姿を。

「また貴様か」
 顔馴染みなのか、ザッハークはその姿を視界に納めると、不機嫌そうに顔を歪めた。
 ――――霧島直人。
 元榊原の一番弟子にして、元異邦隊員。
 そのどちらの肩書きも捨てた彼を、どう言えばいいのか。
 ただ、彼は一人の男としてザッハークの前に立っている。
「七ヶ月振りか。今回はより慎重になったな」
 探すのに手間取ったぞ、と言いながら霧島は梢を降ろした。
 それと同時に、榊原邸を埋め尽くしていた針の山がしゅん、と音を立てて消える。
「貴様の顔なぞ見たくはなかったのだがな」
「それはお互い様だ。今日で最後にしたいところだぜ」
「……おい」
 状況が分からず、梢はそんな声をあげることしかできなかった。
 その声で梢の存在を思い出したのか、霧島は梢を見た。
「悪いな、詳しいことを説明してる暇はない」
「……そうかよ」
「おう、ただ俺はあのカス野郎の敵だ。今はお前と協力できる」
「なら話は早いな」
 そう。
 それだけを聞ければ、梢は十分だった。
 霧島には霧島の道があり。
 梢には梢の道がある。
 それが今、ザッハークという巨悪を前にして交わった。
 そのことを、頼もしく思わずにどう思えと言うのか。
「正直ありがたい。俺だけじゃ、あの野郎に勝てる気がしなかった」
「おお、久々に弟分に頼られたよ。嬉しいね」
 ニッ、と笑って霧島は再びザッハークを睨みすえた。
 そこに一切の迷いはなく。
 ただ勝利を求める心があった。

 闇の波に乗りながら、霧島と梢は疾走する。
 ザッハークへの距離は五メートルほど。
 超人である彼らにとっては、その程度の距離など一瞬で失せるものに過ぎない。
 無論、それは迎え撃つザッハークにしても同じこと。
 それぐらいの動きは、よく見える。
「魔斧!」
 呪文と共に、ザッハークの右手に斧が握られる。
 それもやはり薄紫。
 獰猛な輝きに満ちたその斧を相手に叩きつけようとして――
「天脚ッ!」
 背後からの、槍のように鋭い一撃で吹き飛ばされる。
「がッ……」
 吹き飛ばされる先には、まだ梢がいる。
 梢がザッハークへと到達する前に、霧島は背後へ回りこみ、ザッハークを梢の方へと蹴り飛ばしたのだ。
「ッ……!」
 好機と見て突き出される梢の拳を、ザッハークは盾で防ぐ。
 そしてそのまま、
「遮断!」
 盾が、ザッハークを覆う鎧となる。
 その前に梢が、背後に霧島が着地する。
 今ザッハークが纏った鎧は、普通の魔術師五百人分の魔力を以って作られている。
 信じられない程強固な魔の鎧。
 それを打ち砕く術など、梢は持ち合わせてはいない。
 が。
「我掌」
 霧島は右手を開いて、ザッハークに突き出す。
 その瞬間、音もなく静かに魔の鎧は消え去った。
 連撃を恐れたのだろう。
 鎧が砕かれた瞬間、ザッハークは素早く飛びのいていた。
 ここまで、梢と霧島がザッハークに突撃してから五秒と経っていない。
(なんて速さ――)
 着地してから体勢を整えるまでに、霧島とザッハークは第二の攻防を行った。
 それを目の当たりにし、梢は戦慄する。
 レベルが違う、と。
 ザッハークは、先ほど出現させた大蛇の上に乗っていた。
 あれだけの攻防をしておきながら、別段息は乱れていない。
 ただ背中からの一撃は効いたのか、少しさすっているようだった。
「やはり貴様の相手は面倒だな。その速さ、対応が実にし難い」
「その割には元気じゃねぇか」
「たわけ。私は幾多もの修羅場を潜り抜けてきた。痛みにいちいち惑わされたりはせぬ」
 倉凪梢と、霧島直人。
 二人を前にしてなお、ザッハークには余裕があるようだった。

「久坂零次は、監獄か」
「そうだ。進むことも退くことも許さない、無の監獄」
 ソレは、忌々しそうに手を伸ばした。
 光に向けて放たれた腕は途中で何かに遮られ、断ち切られていた。
「――っ」
「問題ない。慌てるな」
 零次は自らの腕が切断される様を見て息を呑んだ。
 が、実際に切られたソレは落ち着いたまま、あっさりと腕を復元した。
「"これ"は俺が出ることを許さない。咎人を外に出す監獄などないからな。だがお前は別だ」
「俺は、別……?」
「そうだ。お前は出ることができる。しかし"鍵"はまだ手にしていないから、俺を解放することはできない」
 それは零次にとって、残念なことだった。
 目の前にいるのは紛れもなく自分自身。
 それも、自分自身が背負うべきだったものを代わりに背負ってくれた者。
 そんな相手を、このままこんなところに繋ぎとめておきたくはなかった。
「なに、鍵はいつか手に入る。お前自身がその気になったからな」
「なに……?」
「考えてみろ。向いている方向はまだ違うが、俺とお前がこうして対話している。それは冬塚涼子と倉凪梢がキッカケとなり、お前が自身と深く向き合おうとしたが故の結果だ」
 確かに、今まで見向きもしなかったどころか、認識すらしていなかった罪。
 その存在を呼び起こしたのは光の象徴たる涼子と、可能性を示した倉凪梢という男に他ならない。
「俺はまだ出れない。しかしお前とこうして話せたことは大きな収穫だ。だがもう時間がない。最後に一つだけ、アドバイスをやろう」
 ちらりと、わずかに光から零次へと視線を移して、ソレは言った。
「――――お前自身が本当に闇であろうと、あの光にはお前の居場所が確かにある」
 告げられ、周囲がより暗くなっていく。
 かすかに声が聞こえた。
「冬塚……」
 それはどちらの言葉だったのだろう。
 黒き夢に呑まれるような感覚を覚えて、零次は手を伸ばした。
 ――――――かすかに見えた、光へと。

 榊原邸は未だ闇の中。
 霧島は姿も見せず、ザッハークに肉薄していた。
 梢には、霧島が線にしか見えない。
 正確に言うならばそれは霧島ではなく、彼の軌跡に過ぎない。
 それをようやく視認することが、今の梢には限界だった。
 出番がない。
 まるで一流のスポーツ選手たちの中で、一人だけ素人でいる気分だった。
 梢も隙を見ながらザッハークへと攻撃を加えてはいるが、どれほど役に立っているかは分からない。
 見せつけられる。
 自分がいかに無力であるかを。
 もし、この二人のような実力者から、たった一人で遥を守らなければいけないのだとしたら。
 それは、子供の強がりにしかならない。
 それでも。
(それでも、簡単に諦められることじゃねぇよな……!)
 何度目かの攻撃が、ザッハークに弾き返される。
 無駄だった。
 それでも、続けるしかない。
 他に選択肢など、思いつかないのだから――。
 弾き返された勢いで、家に身体が突っ込んでいく。
 我が身を止めることもできず外壁を突き破り、そこでようやく梢は止まった。
「っ……あ、ぐ……」
 身体中が痛かった。
 どうすればいいのだろうか。
 霧島は善戦しているが、ザッハークはまだまだ余裕がありそうだった。
 加えてその能力も完全に未知のものである。
 無限に沸いてくる魔力を以って戦うあの男には、持久戦を挑んではいけない。
 霧島と組んで、一気に倒すべきだ。
 しかし、今の梢がパートナーでは、それはおそらく成功しない。
 何か手を打たねばならない。
 と。
「随分と、物騒な場面に出くわしたな」
 どこかで聞いたような声が、どこかで聞いたような台詞を告げた。
「――――」
 梢は咄嗟に振り返る。
 そこには、眠っていたはずの久坂零次が立っていた。