異法人の夜-Foreigners night-

-第二部-
第八話「その朝」
 長い夜が明けた。あまり眠れなかったような気がする。朝の寒さに、遥はゆっくりと瞼を上げた。
 昨日のことが頭から離れない。土門荒野の力の一端。それが怖かった。
 草薙樵は、既に大分土門荒野に浸食されつつある。梢は、どうなのだろう。今は平気そうにしているが、早くこの問題を解決しないと、手遅れになるのではないか――。
 事態は知れば知るほど絶望的になっていく。それでも諦めることなど、到底出来はしない。梢がいない生活など、遥には考えられなかった。
 だから悩んだ。誰かを救うために悩むのは悪いことじゃない。そうやって自分を励まして、夜遅くまで悩み抜いた。しかし妙案は浮かばない。自然、目覚めの気分も暗いものとなった。
 そのとき、部屋のドアをノックする音が聞こえてきた。目覚まし時計を見ると、まだ朝の四時半だ。この家は比較的皆早起きだが、こんな時間に誰かが部屋を訪ねてきたことなど、これまでにはなかった。
「はい」
「……俺だ」
 声は梢のものだった。遥は慌てて寝ぐせだらけの頭を手で直す。だが、梢はさすがに部屋に入ってくるような真似はしなかった。
「起しちまったなら悪い。ちょっと、話があってな。お前が良ければ、ちと散歩でもどうかと思ってよ。……嫌なら別にいいんだけど」
 梢にしては珍しく、控えめな提案だった。妙だとは思ったが、遥にしてみれば断る理由もない。着替えるから少し待ってて、と言うと、梢は簡単な返事をして去って行った。
 部屋を出ても人の気配はしない。まだ皆眠っているようだ。状況が状況だから、自分と同じように遅くまで悩んでいたのかもしれない。
「おう、悪いな」
 梢は玄関口にコート姿で立っていた。少し顔色を伺ってみたが、別段悪いところはなさそうだった。今のところ、まだそんなに症状は悪化していないのかもしれない。むしろ、心なしか普段より穏やかにも見える。
「こうして散歩するのも久しぶりだね」
 一面の雪を踏みしめながら、遥は梢に笑いかけた。この家の世話になり始めてからしばらくの間、彼女は悪意を持つ者に狙われる立場にあった。そのためほとんど家の中で過ごしていた。その反動か、そうしたゴタゴタが片付いてからしばらくは、落ち着きなくあちこちを歩き回っていたものだ。気づけば勝手に抜け出す彼女を心配して、時々梢や美緒たちが一緒についてくることもあった。
 ちょうど秋の半ば頃までの話だ。だから、こうして梢と二人、雪景色の中をあてもなく歩くのは初めてになるのかもしれない。
「おっ、雀だ。朝早くから元気にピーチク鳴いてやがるなぁ」
 梢が呑気に雀を指して笑う。その横顔に、遥は尋ねた。
「でも、何で久しぶりに散歩しようと思ったの?」
「ここんとこ忙しかったし、状況が状況だからピリピリしてるだろ? 特にお前。だからリラックスでもした方が良いと思ってよ」
「あ、私そんな風に見えた……?」
「気にするなよ。お前だけじゃない。俺も同じさ」
 その割に、梢は落ち着いている。今回もきっとどうにかなると確信しているのか。
「でも、それなら皆も呼ばなくて良かったの?」
「ぞろぞろと人数連れて散歩ってのも変だろ」
 梢は少しだけ歩調を強めて言った。
「それに、今日はお前と散歩したい気分だったんだよ」
 その言葉に、遥はかぁっと赤くなってしまった。梢がどんなつもりでそう言ったのかは知らない。ただ、遥にとっては何よりも嬉しい言葉だった。
 ただ、そうしてまごついている間にも梢はどんどん先へと進んでいってしまう。
「あ、待って!」
 慌ててそれを追いかける。梢は振り返ることなく、ただ少しだけ歩調を緩めた。

 住宅街を通り過ぎて、二人は学校の前までやって来た。朝月高校。梢も遥も、既にここを卒業している。遥はすぐ隣の朝月大学に通っているから見慣れた光景だが、梢にとっては懐かしいらしい。
「久しぶりに、ちょいと中に入ってみるか」
「ええっ、怒られるよ」
「大丈夫、見つかったら逃げるから」
 梢はひらちと門の上に跳躍し、そこから遥に手を差し伸べてくる。仕方ないなぁ、と遥もその手を受け取った。
 幸い宿直の先生に見つかることもなく、二人は教室までやって来ることが出来た。もっとも、鍵がかかっていたので中には入っていない。
 そこを通り過ぎて、体育館に向かう。たまたま片付け忘れたのが、ぼろぼろのバスケットボールが転がっていた。
「遥はバスケ得意だったよな」
 梢が投げて寄越したボールを受けて、遥はそのまま一本でシュートを決めた。のんびりした性格のせいで誤解されがちだが、遥は運動神経が良い。バスケでは、ゴール前でのシュート成功率が並外れていて、クラスの女子から「体育祭のときにいてくれれば」と惜しまれたのは、ちょっとした誇りだ。
 戻って来たボールを梢に放ると、彼は少し渋い顔つきになってそれを投げた。しかし力が強過ぎたのか、ボールは弾かれて明後日の方に転がってしまった。
「ちっ、外したか」
「またやってみたら?」
「いや、いいよ。次行こうぜ」
 梢はさして悔しがっているように見えなかった。昔からこういう器用なことは苦手だったのだ。入るはずない、と最初から分かってたのかもしれない。
 グラウンドを横切るとき、梢はほんの少しだけ目を細めた。
「どうかしたの?」
「ああ。――二年前のこと、思い出してた」
 言われて、遥も思い出した。二年前、遥を巡る一連の事件。その決着は、ここで着けられたのだ。そのとき遥は梢を庇って重傷を負っている。
「あのときはびっくりした」
「い、いやー。何かこう、身体が勝手に動いちゃって」
「ったく。お前は結構向こう見ずというか猪突猛進なとこがあるからな。ああいう無茶はもうするなよ?」
「梢君に言われたくないな、それは」
「あー、はいはい。どうせ一番の向こう見ずは俺ですよー」
 梢はおどけて答えた。だが、すぐに真顔に戻る。
「けど、本当に無茶はしないでくれ。俺は、お前に傷ついて欲しくなんかない」
「……う、うん」
 急に真顔になられて、遥は戸惑った。もしかしたら梢は、今回の件で遥が何か無茶をするのではないか、と疑っているのかもしれない。
「お前は生まれて十何年も、一生分の不幸を背負ってきたようなもんだ。だから、これからはうんと幸せにならなきゃ駄目だ。俺のことより、自分のことを心配しろ」
「だ、大丈夫だよ。私だって前より随分強くなったんだし……」
 言いかけて、遥は途中で止めた。いつの間にか、両の頬が梢に掴まれていた。
「反応出来てないじゃねーか。ったく、十年早いわ」
「ひゃ、ひゃなひへー!」
「うりうりうり」
 面白半分で梢は遥を頬を引っ張り回す。こちらも反撃を試みてはいるのだが、ことごとく避けられてしまっていた。
「しょ、梢君のいぢわる……」
「へっ、今更知ったか」
「む、昔から知ってたよっ!」
 ぶうたれるこちらの顔を見て、梢はげらげらと可笑しそうに笑った。あまりに可笑しそうなので、遥もつい釣られて笑ってしまう。
 時刻はもうじき五時になる。
「んじゃ、そろそろ最後のところに行こうか」
「……どこに行くか決めてあるの?」
 遥は首を傾げた。梢は先に立って歩きながら、良いところだとだけ言った。

 それは、町に接した山の中腹にある一戸神社だった。
 梢や遥の恩師である一戸の実家で、遥はここでときどき巫女のバイトもやっている。
「いつか教えてくれたろ。朝にここから町を望むと、その目覚めが良く分かる」
 そういえば、そんなことを言ったこともあった。朝早くにここへ掃除しにきたとき、なんとなく町並みを眺めていたらそんな感じがしたのだ。
 遠くの方――都市部から、始発の電車らしき音がかすかに聞こえてくる。住宅街でも、遠くへ出勤する人、朝の散歩やランニングをする人などの姿が見えたりした。
「良いよな、こういう風景」
「うん、そうだね」
 梢が嬉しそうに言うので、遥もなんとなく嬉しい気持ちになる。
「本当――最後に見れて、良かった」
 その直後に聞こえて来たのは、そんな言葉だった。
「……最後?」
 心の窓が開け放たれ、一気に寒気が押し寄せてきたようだった。とても、とても嫌な予感がして、遥はそれ以上のことを聞けない。
 梢は沈黙していた。
 どれほどの沈黙の後か――梢は遥の方に向き直った。その表情はあくまで穏やかだ。その穏やかさが、さっきまではあんなに落ち着かせてくれたその表情が――今、こちらの心をざわつかせる。
 その口が開きかけたとき、遥は慌てて先手を取った。
「そ、そっか。散歩の最後にって意味だよね。早とちりしちゃった、ごめんごめん」
「遥」
「それとも、もしかしてあれ? 以前言ってたけど、もうすぐ料理の修業でどこかに行くって言ってた、あの話?」
「違うよ、遥」
 言葉がうまく出ない。駄目だ。ここで言葉を止めたら、絶対に聞いてはいけないことを聞かなくてはならなくなる。それは絶対に駄目なのだ。理由なんかない。聞いたら壊れてしまう。この、楽しかった時間が。
 しどろもどろな言葉を繰り返す遥を、梢は優しげにじっと見ていた。
 馬鹿みたいだった。いくらその場凌ぎの言葉を紡いだところで、梢の中で何かが変わるわけでもない。
 薄々は感じていた。梢は自分よりも他の人間を大事にする。自分の命で誰かを救えるなら、間違いなく命を捨てるような人だ。遥も、そんな彼の思いやりに救われた一人だ。
 そんな彼が、自分の体内に爆弾を抱えていると知ればどうなるのか。
 昨日は榊原家の皆で、何となかると強く言い聞かせていた。言い聞かせなければ、彼がどうするかなんて、皆分かっていたのだ。
 だから、愚かしいと言われようと、傍から見れば滑稽であろうと、遥は言葉を紡いだ。一分でも一秒でも、彼を止めなければと思った。
 それでも――言葉は尽きる。言えることが頭に思い浮かばない。何を言えばいいのか分からない。頭の回転が悪い、そんな自分に腹が立つ。
 そんな遥の頭を優しく撫でながら、梢は静かに告げた。
「俺は――家を出るよ」
「――!」
 自分が咄嗟に何を言ったのか分からなかった。きっと、まともな言葉にはなっていなかったに違いない。ただ、梢は少しだけ困ったような顔をした。
「悪い。でも、多分そうするしかないと思う。昨日一晩寝ずに考えた結論だ」
「……だ! やだ……!」
 崩れ落ちそうになる膝。梢のシャツを掴む手。自分の身体全てが震えている。
「何で……!? これからだよっ! きっと皆で考えていけば、なんとかなる! 絶対になんとかなるよ!」
「今回はそうも言ってられんだろ」
 梢は町並みに視線を向ける。
「時間がない。下手すりゃ、この町全部が吹っ飛びかねない。それが大袈裟な表現じゃないってことは、昨日ので十分分かったろ」
「でも、まだ大丈夫でしょ? 何でそんなすぐに、諦めるの!?」
「だから、時間がないんだ。このままでいるのは、リスクが高過ぎる」
 信じられなかった。何で梢は、自分の命がかかっていることなのに、こうも冷静でいられるのか。
「死んじゃうんだよ!? 怖くないの!?」
「そりゃあ、お前――怖いさ」
 梢は自嘲気味に言った。
「でもな。怖いって、死ぬことだけが怖いわけじゃない。下手すりゃ俺のせいで多くの人が死ぬかもしれないんだぞ? お前や美緒だって、学校の皆だって、知り合いを何人も殺してしまうかもしれない。そのことも、俺は怖い。俺が、それこそ命張って助けたものですら……俺が壊してしまうかもしれない。そうなったら、俺の生きてきた意味って、どんなもんになるんだ?」
「私はっ」
 しゃっくりで声が途切れた。その拍子に、ずるずると力が抜けて、その場でへたり込んでしまう。
「私は……梢君のためなら、死んだっていい」
 俯きながら、弱々しい声を、精一杯出した。
 もう、引き止められる言葉は一つしか思い浮かばない。
「――好きだから」
 初めて会ったときから。
 一緒に暮らすようになってから。
 同じ学校に通うようになってから。
 別々の学校に分かれた後も。
 ずっとずっと溜めていた想いを――言った。
「家族としてじゃない。本当に、好きなの。好きだから、死んでほしくない。他の人なんか関係ない! 梢君がいなくなったら、私も生きてなんかいけない。ずっと、ずっと一緒にいたいの……!」
 エゴだ。
 我儘だ。
 こんなことを言ったら、嫌われてしまうのではないか。こんな醜い、独占的な自分を好きになってくれるはずがない。今までの関係だって、壊れてしまうに違いない。
 それが怖くて、今までずっと言えなかった。だが、今は違う。一度出てしまった言葉は戻らない。水と一緒だ。止めどなく流れ続ける。
 遥は怖くて顔を上げることが出来なかった。梢が今、どんな表情を浮かべているのか、見るのが怖い。
 ずっと側にあったものが消えてしまいそうで、指一本動かせずに震えていることしか出来ない。
 梢は、そんな遥の肩を掴んで、やんわりと引き寄せた。
 抱擁というには程遠い。それでも、彼の温かさは伝わってくる。冷たい手なんかじゃない。生きている温かさだ。
「知ってたよ」
 一瞬、頭が真っ白になった。
 思わず顔を上げようとした遥の頭を、梢は抱き締めた。
「いくら鈍感だって、さすがに気づく。ずっと、気づかない振りをしてただけだ」
「…………なん、で?」
 梢が息を呑むのが、分かった。
「――お前のそれは、恋じゃないから」
 否定の言葉。それに反論したかった。しかし、悲しさと、梢の温かさが、不思議とそれを許してくれない。
「自惚れを承知で言えば……お前をまともな人間にしたのは俺だ。辛いこととか、悲しいことばっかだったお前にとって、俺は唯一の救いになったんだろう。それが、長い間続き過ぎて、ちょっとおかしくなってるんだ」
「違う……」
「違わないさ。だって、相手がいなくなったら自分も生きていけないないんて、それはただの依存だ。恋ってのは、そういうもんじゃない。もっと互いが支え合えるような――尊いもののはずだ」
 遥の頭を抱きしめる力が強くなった。心なしか、梢も震えているような気がする。
「お前は、随分と成長した。これからもっともっと成長していくだろうな。辛いことも悲しいことも、勿論あるだろうさ。けど、嬉しいこととか楽しいこととかもいっぱいあるはずだ。そうして成長していけば……きっと、本当の恋に出会えるようになる」
 だから、と梢は短く続けた。
「俺はお前の想いに、応えるつもりはない」
 瞬間、視界が揺れた。
 涙のせいかとも思ったが、違う。
 何が起きたのか分からない。ただ、気が遠くなっていく。
 咄嗟に手を伸ばして、梢の髪に触れた。
「……元気でな」
 指先に雪が触れた。それきり、何も感じなくなった。

 気絶させた遥を背負って、榊原家に戻った。彼女の顔は見ていない。とても見れる気分じゃなかった。
 屋敷の門を潜ると、そこには零次が立っていた。
「……まさか、俺が気配に気づかないなんてな」
「遥を、どうした? いや……お前、何をするつもりだ」
 零次は、こういうときばかり察しが良い。梢が家を出ようとしていることを、すぐに見抜いたようだ。
「お前、昨晩は無駄に死ぬつもりなどないと言っていただろう。その言葉を忘れたか」
「忘れてない。無駄に、死ぬつもりはない」
 そう。一晩の間に考えはまとまっている。誰に何と言われようと、その考えを曲げるつもりはない。
「単に俺が死ぬだけじゃ意味がない。俺の中にいる土門荒野が、草薙の方に転移して復活するかもしれないからな。それじゃ駄目だ。俺は、諦めてない。皆を守ることをな」
「……草薙をその手で屠り、その後自分の始末をつけるつもりか」
「そういうことだ。多分、向こうも同じことを考えてるんじゃねえかな」
 それは直感だ。しかし、今の自分たちに、そう多くの選択肢は残されていない。当たらずとも遠からず、といったところだろう。
「このまま、出ていくつもりか」
「ああ。本当は遥を送り届けて、そのまま消えるつもりだったんだけどな。何でお前、今日に限って早起きなんだよ」
「……悪いが、行かせる気はない」
 こちらの問いを無視して、零次は静かに魔力を放出し始めた。いざとなれば、力ずくでも梢を抑えつけるつもりなのだろう。
「なぜ、そう簡単に自分の命を投げ出せる。まだ、可能性はあるだろう」
「さっき、遥にも同じことを言われたよ。だから同じように返すけど……別に俺は自分の命を粗末にしているつもりなんかない。ただ、時間がないだけだ」
「時間など一分、いや一秒! 可能性など1パーセントもあれば十分だッ!」
 吠える零次を見て、梢は内心嬉しくなった。二年前とまるで逆の状況だ。自分の無茶が彼に移ったのかもしれない。
「お前も変わったよな、零次。……皆のこと、頼むぜ?」
 梢が跳ぶ。零次がそれを押さえようと、真っ直ぐこちらに飛びかかってくる。
 その彼に向って、遥を投げつけた。
 咄嗟にそれを受け止めて、見る見るうちに顔を紅潮させていく。それを尻目に、梢は素早く屋敷から逃げ出していた。
「待てッ、貴様ァッ!」
 激昂した零次の声が、早朝の住宅街に響き渡る。
「彼女を、泣かせて、そのうえ投げつけるなどッ! どういう料簡だ!」
 遥を置いてきた分遅れていたが、零次は徐々に追いついて来ていた。怒りもあるだろうが、それ以上に必死なのだろう。
「お前はそんな男だったのか!? ええ、答えろよ倉凪梢!」
「さあな。そっちで勝手に解釈しろ」
 言って、梢は足を止めた。そのまま振り返り、追って来ていた零次に向かって正面から突っ込む。このまま逃げ続けても埒が明かない。
 零次もこちらの動きを呼んだのだろう。瞬間的に"翼"と"腕"を解放し、こちらに備える構えを見せた。ただし止まりはしない。真っ直ぐに突っ込んでくる。
 正面衝突のパワー勝負なら負けはないと見ているのだろう。
 ……普段ならな。
 刹那、梢の右腕が膨れ上がった。異常な量の魔力が一気にそこから噴き出し、梢の得意武装である"翠玉の篭手"が現れる。しかし、その形は禍々しく、そしてあまりに力強かった。
 零次の表情が驚愕に染まる。だが、もう遅い。
 屋根の上で両者が衝突した次の瞬間、零次の身体は数十メートル上空へと舞い上がっていた。梢が押し上げたのだ。
「言ったろ、時間がないって」
 数日前――おそらく草薙樵がこの近くに来た頃から、違和感はあった。妙に身体が疼いたり、落ち着かなくなることがあった。それが飛躍的に酷くなったのは、昨日の地震からだ。あのときの魔力を浴びたのが、おそらく引き金になったのだろう。
「今の俺に、お前じゃ勝てないよ」
「舐めるなッ!」
 翼から生じる風の力だろう。零次は空中で静止した。
「この程度で諦めるか? いや、諦めん! お前が諦めようとも、俺たちは決して諦めたりはしない!」
「熱いな。そういうのは嫌いじゃないが……」
 そのとき、二人の間に一本の槍が飛んできた。その槍を握りしめる少年と共に。
「亨!」
 零次が笑みを浮かべる。逆に梢は視線を鋭くした。ここで零次に加勢されては、面倒になる。今なら二人相手でも負ける気はしないが、撒くのが難しい。
 しかし――亨が取った行動は、二人の予期しないものだった。
「梢さん。……行ってください」
 そう言って亨は、梢に背を向けたまま、零次に向かって槍を構えた。
「なっ、どういうつもりだ、亨!」
 戸惑う零次に対して、亨の返答は冷やかだった。
「僕には、分の悪い賭けは出来ません」
 それで、十分に伝わった。亨もまた、昨晩のうちに決意を固めたのだろう。
「……すみません、梢さん。酷いと自分でも思います。けど、僕は……」
「言わんでいい。お前のせいじゃない」
「……本当にすみません」
 亨の肩は震えていた。もしかしたら、涙を堪えているのかもしれない。
「俺の方こそ、すまん。零次、亨」
 梢は顔を伏せた。これ以上、彼らを見ていられない。
「――遥と美緒を、頼む」
 そう言い残して、梢は一目散に駆け出した。後方で零次が何か叫んだ。しかし、それも無視して、がむしゃらに走り続けた。方角も何もかもがどうでもいい。誰もいない場所を目指した。
 どれだけ駆け続けたのだろう。梢はどこかの森の中で突っ伏していた。
「……最悪だ、俺」
 自分を守ってくれていた皆を傷つけて、裏切って、自分勝手に飛び出して。おそらく、もう亨も榊原家にはいられないだろう。それは彼の覚悟によるものだが、梢のせいでもある。自分のせいで、いろいろなものが無茶苦茶になっていく。
 だが、嘆いてばかりもいられない。最悪には最悪なりに、やるべきことがある。
「――行かないと」
 草薙樵を殺して自決する。そうすれば、土門荒野によってこの町が破壊されることもなくなるだろう。草薙には何の恨みもないが、殺すしかない。
「俺は……最後まで皆を守ることを、諦めたりしない。諦めちゃ、いけない」
 最悪の異法人は、一人ゆっくりと歩き出した。