異法人の夜-Foreigners night-

-第二部-
第十話「変貌」
 胸中に湧き上がる不安を抑えながら、零次は前を歩く遥の背を追っている。
 これまでは、並んで歩くか、零次が先を歩くのが当然だった。今から行くのは普通の場所ではない。危険な状況に陥る可能性が高い。それなのに、零次は遥の先を歩かない。なにか、恐ろしいのである。
「遥」
「何?」
「……」
 言葉が続かない。遥が纏っている空気が、明らかに変わっているからだ。
 ……倉凪が消えたことで、落ち込むのではと思っていたが。
 しかし、零次の予想に反して、遥は素早く行動を開始した。しかも、躊躇いというものが一切ない。その変化が、どこに向かうのか。それが、怖い。
「久坂君、なんだったら戻ってても良いよ」
「え?」
「さっきから落着きがないよ」
「む……」
 逆にたしなめられてしまう始末。零次は眉間にしわを寄せ、黙らざるを得なかった。
 確かに倉凪の身も心配である。しかしこうして目の前にすると、遥のことも気がかりだった。
 そんな零次の不安をよそに、気づけば眼前には例のビルがあった。遥は正面から堂々と乗り込んでいく。下手に目立たない場所から入ろうとすれば、却って向こうの警戒網に引っかかると考えたからだろう。零次は、そう判断した。
 ホテルそのものは、別段妙ないわくのある場所ではないとのことだった。魔術師同盟等が組織ぐるみで用意したアジトではない、ということである。向こうも、普段使っているアジトは使用しないように心がけているのだろうか。
 思考を巡らせる零次を置いて、遥はどんどん先へと進んでいく。受付の女性が一瞬不審そうな眼差しを向けてきたが、すぐに顔を背けた。堂々とした遥の態度に、宿泊客か何かと勘違いしたのだろう。
 そのまま遥はエレベーターの前まで進んでいった。あの男から読み取ったのだろうか、まるで馴染みの場所を歩くかのように、足取りに迷いがない。
 エレベーターが着いた。壁際に隠れて様子を見たが、誰かが乗っている様子はない。零次が頷き、二人はすぐさま乗り込んだ。
 飛鳥井らのアジトは、二十四階。今の時刻、冷夏は席を外して町に出ていることが多いとのことだった。と言うより、このアジトで待機しているのは極僅かな人数で、ほとんどの人間は外に出て、倉凪梢と草薙樵の探索・監視を行っているらしい。
 そこに、付け入る隙はある。
 ……アジトへの潜入。
 飛鳥井を撃破したところで意味はない。むしろ、大人数を要する彼らとまともに事を構えれば、零次や遥でも苦戦は必須。そこに古賀里らが介入してきた場合、余計に事がこじれることになる。
 目的は倉凪梢の居場所を知ること。
 アジトに潜入し、それを得ることが第一だった。
 エレベーターが、二十四階に着いた。
 扉が開く。瞬間、人の気配を察して零次は構えた。
 しかしそれより速く、電光石火の動きで遥は手を伸ばし、エレベーターの前にいた者に触れた。
「うっ……」
 エレベーターが完全に開くと同時に、かすかな呻き声を立てて男が倒れた。
「何をした?」
「私の過去を少し見せただけ」
 男の表情には、苦悶の色がありありと見えた。遥の過去と言えば、人間扱いもされず、実験体として筆舌に尽くしがたい苦痛を味わい続けてきた頃のことだろう。そんなものをいきなり流し込まれては、まともな人間では耐えられまい。
「……随分乱暴な手だな」
「久坂君だって、場合によっては叩きのめすつもりだったでしょ」
 だから同じだと言うのか。そんな反発をぐっと抑えて、零次は男をトイレの個室に隠した。もし無関係の宿泊客だったら本当に申し訳ないところだが、おそらくそれはない。この階にいる人間はすべて飛鳥井の関係者と見て良いだろう。
 そう考えると、息つく間も与えずに相手を無力化した遥の選択は、正しかったのかもしれない。
 ……いかん。あいつの変化に惑わされて、俺が混乱しているのか。
 頭を振って雑念を打ち払う。トイレから出ると、そこには無表情の遥が待っていた。
「待たせた」
「いいよ。それに丁度良かった」
「何?」
「来るよ」
 刹那、零次は直感的に翼を解放して遥を抱きかかえ、飛翔した。ホテルの通路内、その中で飛ぶ零次を追いかけるように、炎が迫ってくる。
「緋河か!」
 逃げながらも、零次は翼から生じる風を炎に叩きつけた。炎が押されるかと思いきや、あっさりと消える。視界が晴れた通路の向こう側には、天夜が苦々しそうな顔つきで立っていた。
「久しぶりだな緋河」
「……そのうち乗り込んでくるとは思ってたが、予想以上に早かったな」
「時間がないからね。それは、そっちも同じでしょう?」
 零次から離れて、遥が天夜と対峙する。久々の再会なのに、どちらの顔にも喜びは見られない。それが、零次には悲しかった。
「この狭い空間じゃ緋河君の力、存分には振るえないんじゃないかな」
「……どうかな。やろうと思えば、いろいろ手段はある」
「そのうち酸欠になって終わり。そうでなくとも、風を使える久坂君相手じゃ分が悪い」
 遥の指摘に天夜は舌打ちする。確かに、炎を操る彼の能力は強力な反面、こういう場所では使いづらいという弱点もある。あっさりと炎を打ち消したのは、そうした弱点を使い手の天夜自身が自覚しているからだろう。
「ま、対策はあるみたいだけど――」
 と、遥が思わぬことを言った。それは何かと尋ねるより速く、零次は背後の気配を感知した。
 振り返るまでもなく、その気配の主は分かる。
 なんだかんだで、長い付き合いをしてきたから。
 今朝まで、家族同然の間柄だったのだから。
 ゆっくりと振り返る。
 その先には、見慣れた彼の、知らない表情があった。
「亨――」
「……」
 亨は何も言わず、銀色の槍を構えた。
 その動揺の隙を突き、零次と遥の間に複数の人影が乱入してきた。部屋の中に潜んでいたらしい刺客は、まだ若い女二人だった。
 前の亨か、後ろの刺客か。迷いを見せる零次の視界に、一本の指が飛び込んできた。
 遥だ。険しい眼差しで、彼女の指は真っ直ぐに亨を指していた。
「そっちは任せる」
 そう言ったように聞こえた。
 刹那、零次の肩に銀の槍が突き刺さった。

 もう零次のことは振り返らず、遥は即座に真横の部屋に飛び込んだ。前後を挟まれたまま通路に残るのは自殺行為だ。
 もっとも。遥はこの状況を、さほど危機的なものとは捉えていなかったが――。
 飛び込んだ部屋は、ありふれたホテルの一室だった。扉から離れ、ベッド脇にあったクロゼットの前に身を屈めた。
 ……緋河君は脅威にならない。
 問題は他の二人の女だ。仲間打ちでも不用意に自らの力を教え合ったりはしないのだろう。先ほどの男から得た情報に、あの二人のことはなかった。
 などと考えている余裕はなさそうだった。急に遥の周囲のものが震え出したからだ。
「ふん」
 注視すると、震えているものが魔力で覆われていた。おそらく遠隔操作型の能力。それも、自動で動くタイプではなさそうだ。自動で標的を狙うタイプなら、既に遥目がけて一斉に攻撃を仕掛けてきているはずだ。
 ……動揺させて、こちらを炙り出すつもりか。
 ならばじっとしていた方が良い、とは思わなかった。遥は、躊躇うことなく震えているコップを掴み、思い切り窓に叩きつけた。
 触れたことで、こちらの居場所を掴んだのだろう。一斉に部屋中の小物が飛んでくる。だが、動きは単調だ。
 ……この程度の攻撃に意味はない!
 飛来してくるものに刃物の類はない。せいぜい気を逸らすことしか出来ない。ならば、別に本命があるということ――。
 背筋に寒気を感じて、遥は身を翻した。
 刹那、天井が崩落した。
 否、正確には――天井を突き破って、二つのベッドが落下してきた。
 その上には、先ほどの女二人と天夜の姿がある。
 ……意表を突いてきたな。
 部屋は狭い。落下してくる二つものベッドを避ける術はなかった。
 遥は、無表情。
 轟音が、ホテルに響き渡る。

 目の良い人が、たまたまホテルを見上げていたら、胆を潰したことだろう。今、その外壁を二人の人間が駆け上っていた。
 言わずもがな、零次と亨だ。
 亨が繰り出す攻撃を避け続けながら、零次は叫んだ。
「なぜ、なぜお前はこんなところにいる!」
 亨は答えない。ただ、鉄を強化した鎖を次々と投げかけてくる。危うく足をすくわれそうになり、零次は体勢を崩した。
 翼の力で体を支えているから、落下することはない。しかし、その一瞬の隙を逃す亨ではなかった。零次の両腕に鎖が絡みつき、そのままホテルの屋上へと投げ出される。
 起き上がりざまに鎖を引きちぎろうとした零次の胸元に、銀の槍が突き付けられた。
「お前……!」
「動かないでください」
 亨は険しい表情でこちらを見下ろしていた。鎖の締め付ける力が強くなる。零次は顔をしかめながら、なおも叫んだ。
「お前、どういうつもりだ!?」
「……」
 亨は険しい表情の中に、憂いを見せた。彼には、零次に対する敵意はない。幾度かの攻防で、殺気の類がないことは分かっている。
 にも関わらず――亨は本気だった。
 殺意はない。しかし、手加減はまったくしていない。それが、零次にはよく分かる。
 かつての零次なら理解出来なかっただろう。本気でやるなら殺すつもりで、そういう考えしかなかったからだ。だが、今の彼には、亨のことがよく分かる。
 そう。問いかけながら、その答えを既に零次は持っていた。
「言ったでしょう、僕は危険な賭けをするつもりはないと」
 吐き出すように、亨が言う。
「この町を――好きな人たちが大勢いるこの町を守りたい。それだけです」
「そのために、家族を見殺しにするのか」
「だったら零次は、どうするんですか」
「決まっている、倉凪を連れ戻して、土門荒野などというけったいなものから――」
「どうやって、梢さんを救うんですか」
「――」
 二の句が、継げなかった。
 どうやって救うか。その方法が、見当たらない。そんなことは、嫌になるくらい分かっている。分かっているのだ。
「救えもしないのに無理矢理梢さんを連れ戻して、一体何をするつもりですか。確かに救える可能性はあるかもしれない。しかし、それはとても小さな可能性だ」
「その小さな可能性に賭けるのは、悪いことなのか?」
「良し悪しで議論をすることじゃありません。ただ、下手をすればこの町が壊滅する。この町と、ここで暮らす大勢の命。それが失われる可能性があるってこと、分かっているんですか? 分かっていてなお、零次は梢さんを救う道を選ぶんですか?」
 亨の言葉には、怒りや憎悪というものがなかった。その代わり、揺るぎない何かがあった。その何かが、零次の前に大きく立ちはだかっている。
 ……俺は、本当に正しいことをしているのか?
 零次の中に、そんな疑念が湧き上がる。
 荒涼とした争いの日々から抜け出して得た、平穏な毎日。その象徴が、この町と、そこに暮らす多くの人々だった。それを掛け替えのないものと感じているのは、亨だけではない。零次も同じだ。彼らを失うことなど――考えたくもない。
 しかし、その一方で零次の脳裏には、ある冬の情景がある。
 自分が持つ異形の力。それを恐れる人々からの、悪意ある眼差し。迫害に負けて、人がいない場所へ行こうと、うつろな眼で語る母。
 使い古された山小屋で起居する日々。頼れる者も信じられる者もなくなって、どうすることも出来ず、ただ衰弱していく母。周囲全てを憎み、疑い、恐れ、弱っていく家族を前に何もしなかった自分。懸命にそんな家族を元気づけようとした妹。
 二人の死に縛られることはなくなった。だが、それを忘れることはなかった。忘れられるはずもなかった。家族を失う悲しさ。それに対し、何も出来なかったことへの後悔。
 だからこそ――今度は、諦めたくない。
「俺は……もう、家族を失いたくない」
 血の繋がりはない。付き合いも、せいぜい二年。
 仏頂面で、仕事が忙しいせいか、あまり家にいない父。
 口うるさくて色々と厳しい。気が合わずに喧嘩することも多い長男。
 どこかしら頼りなくて、それでいて時折妙に姉貴ぶって見せる長女。
 騒動ばかり巻き起こして、面倒をかける妹分。
 減らず口ばかり叩いて、全然反省する素振りも見せない弟分。
 どいつもこいつも、厄介なものだ。本気で喧嘩したこともあるし、細かい点では嫌なところもある。好きな点なんて、聞かれたところですぐには思い浮かばない。
 それでも、間違いなく彼らは家族だった。
 二度と失いたくないと思わせる相手だ。誰が欠けても――そんなのは嫌だった。
 しかし、今目の前に立ちはだかっているのも、その家族の一人だ。
 それが零次を迷わせる。
「そんなこと、言われるまでもない」
 そうだろう。亨も、好きで梢を見殺しにするというのではない。彼にとっても断腸の思いなはずだ。
 だが、亨はそれをおくびにも出さない。誰に何を言われようとも、貫かねばならないものがあるからだろう。
 長い付き合いだが、零次は初めて、彼に"恐怖"を感じていた。
「零次、この町に来て、あんたは変わった。前よりずっと人間らしくなった。優しくなった。周りの人間としっかり向き合える強さを持った。だが――」
 突き付けられた槍の形が、ハンマーへと変わっていく。
「感情的になり過ぎた。それでは、結局何も守れないッ!」
 ハンマーが、零次の脳天目がけて振り下ろされる。

 天井が崩壊し、轟音がホテルに響き渡る。階下では今頃大慌てだろう。何事かと誰かが様子を見に来るかもしれない。
「やり過ぎだ」
 天夜が側の女性にぼやいた。
「仕方ないだろ。あの女、正面からぶつかったらヤバそうだったし」
「……だからってなぁ。場合によってはこのホテルから引き払わなきゃいけなくなる。飛鳥井の連中はまだ良いにしても、他の連中は難癖つけてくるかもしれないぞ」
 部屋は酷いことになっていた。落下してきたベッドと天井によって、あちこちがぐしゃぐしゃに押し潰されている。粉塵が舞い散って息がしにくい。
「……無駄話より、拘束」
「ああ、そうだったな。……死んでなきゃ良いが」
 天夜たちがベッドから降りる。
 この期に及んでこちらの心配をしていた。
 ……やはり、彼は脅威にはならない。
 天夜がベッドの下を覗きこもうとした瞬間、三人の身体に何かが巻きついた。
「何っ!?」
 それは糸だった。魔力によって構成された、通常よりも遥かに頑丈な糸である。視認するのはほぼ不可能なくらいに細いが、強度は折り紙つきで、一トンの重さにも耐え得るという代物だ。
 もっとも、今天夜たちを縛っているのは、その出来損ないだ。細さも強度も、本来のものとは程遠い。現に、彼らは己の動きを封じているものが何か、すぐに気づいた。
 気づいたが、どうすることも出来ない。
 向こうが動けなくなったことを確認してから、遥はベッドの下からゆっくりと身体を出していった。
「遥さん、あんた……」
 天夜が驚愕半分、戸惑い半分といった表情を向けてくる。
 天夜は甘い。彼は、形の上ではこちらに敵対をしているが、その目的は、梢を討ち滅ぼすことで、この町を守ろうというものだ。その町の中には、当然遥や零次のことも含まれている。
 だから、彼はこちらを殺すことは出来ない。せいぜい動きを封じようとする程度のことしか出来ない。遥たちを殺してしまえば、それは自身の信念を踏みにじることになる。
 だが、生憎と彼の能力――炎の力――は戦闘に特化した力だ。殺すつもりで来られれば手も足も出ない。その反面、相手を拘束するなどという器用な真似は出来ない。
 それに、彼は遥のことを知っている。こちらの能力を知っていれば、接近戦は危険だと判断するのは当然だった。何せ、少しでも触れられれば、精神を乗っ取られる危険性があるのだから。
 逆に、離れて戦えばそう恐れるに足らない、と考えたのだろう。
 なにせ、遥は魔術師の家系の生まれとはいえ、きちんとした修業は積んでいない。周囲に本格的な魔術を教えられる人間もいない。せいぜい出来たとしても、魔力をそのまま相手に叩きつけるような、乱暴な真似しか出来ないはず、そう考えたのだろう。
 だが、違った。今の遥は、少なくとも五、六種類程度の魔術は使うことが出来る。
 この糸は、その一つだった。
 これらの魔術は、先程ホテルの居場所を盗み出した男から、ついでに、と読み取ったものだ。魔術は技術。相性や訓練等によって精度は大きく変わるが、やり方さえ分かれば使うことは出来る。ベッドを支え切れるかどうかだけは、やや危うい賭けだったが。
 そんな模倣の出来損ないでも、不意を突けば有効に使える。特に、今までの遥を知っている相手には。
 梢を殺そうという天夜に対し、遥は別段怒りや憎しみは抱いていない。ただ、相容れないと思っただけだ。
 身動きが取れなくなった天夜たちの元に、遥は無言で手を伸ばす。
 触れて、心を少し引っ掻きまわして、数日は立ち直れない程度のダメージを与える。それで終わりだった。
 そのとき――激震が走った。
 伸ばしかけていた手を止めて、遥は窓の外に目を向ける。
 天井やベッドが落下してきたときの衝撃など、生温い。今度の激震は、町全体を覆うほどのものだった。
「この揺れ……土門荒野か!?」
 天夜が押し殺したような声を上げる。そちらには一瞥もくれず、遥は即座に部屋から出た。通路に零次たちの姿はない。
 ……待っているだけ無駄か。
 そう判断すると、遥は急いで非常階段を駆け下り始めた。

 ハンマーが零次に叩きつけられる直前、その激震は起こった。
 亨は手を止め、視線を四方に這わす。
「これは、土門荒野か……?」
「だろうね」
 亨の言葉と同時に、零次を縛る鎖の数が増えた。相当の魔力を込めているのか、強度の方も並大抵のものではない。
「零次はそこで大人しくしててくれ。あんたは強い。なまじ、下手なことをされると事態がややこしくなる」
 亨は凄まじい形相で零次を睨みつけた。その表情は、不動明王が如きものだ。どことなく、亨の兄である刃に似ている。
「一つ言っておく。土門荒野がいつどのような形で復活するのか、今回のようなケースは初めてだから、誰にも正確なことは言えない。けど、最悪の場合、今この瞬間にでも復活するかもしれない」
「……」
「これが、復活の予兆かもしれない。瞬きをした途端、この町が灰燼に帰すかもしれないんだ。僕は、あんたのように呑気に構えていることは出来ない。……小心者だからね」
 そう言って、再びハンマーを振り上げる。
「嫌いたければ嫌ってもいい。憎みたければ憎めばいい。それでも、僕は譲らない」
 今度こそ、ハンマーが叩きつけられた。痛みはない。ただ、脳が酷く揺さぶられたのだろう。視界が混濁して、いくつもの妙な光景が見えた。
 榊原家の庭で、血まみれになった誰かを抱き起こす遥。
 瓦礫の町で、一人人形のように立ち尽くす梢。
 知らない化け物が、怒り狂う。
 よく分からないモノが、町を覆い尽くす。
 ――お兄ちゃんも知ってるんだよ、本当は。
 郁奈と名乗ったあの少女の言葉を思い出す。胸に突き刺さったまま、抜けない。
 ……もう嫌なんだ、家族を失くすのは。
 叫ぶ。しかし、誰もそれを聞いてくれない。
 梢は姿を隠し、遥は零次を置いて先へ先へと進んでいく。
 亨は別の道を行ってしまったし、美緒は力になってくれるかどうか分からない。
 ……涼子。
 心の底から頼れるであろう少女。彼女なら、こんなときどうするのだろう。
 どうにか、してくれるのだろうか――。
 激震が続く中、零次の意識は闇に呑まれた。