異法人の夜-Foreigners night-

-第二部-
第十五話「倉凪梢」
 近い。少しずつ近づいてくる。
 偶然ではない。互いに相手を探しているのだ。そして、隠れようともしていない。
 匂い。気配。その他にも、言葉にならない多くのものが、二人を引き合わせようとしていた。
 ああ、急がなければ。
 身体中が軋む。一歩進む度に、信じがたい痛みが走る。
 片腕はなく、片足も膝下が欠けてしまった。傷口を無理矢理埋めて、偽物の手足を作りながら進む。
 この痛みがあるうちは、まだ大丈夫。まだ、生きているという証拠だ。
 だが、少しずつ薄れてきている。
 気を抜けば意識を失ってしまいそうで。
 そうなれば、もう起き上がれないだろうと、そんな確信がある。
 だから、一歩ずつ進んでいく。
 どれくらい進んだだろう。
 十歩か。百歩か。
 まだだ。
 まだ、もう少し――――。

 足取りが軽い。軽過ぎて、滑ってしまいそうだった。
 早く進まねばと思う一方で、気持ちは重い。
 前方を歩く小さな背中を見つめて、遥は溜息をついた。
 郁奈のおかげで、彼女は飛鳥井冷夏の結界から出ることが出来た。今は、冬の寒空の下を歩いている。
 深夜一時過ぎ。市街地を抜け、二人は無言で歩き続けていた。
 しかし、住宅街をも抜ける頃になると、遥は堪え切れなくなった。
「……郁奈ちゃん」
「郁奈でいいわ」
「じゃあ、郁奈」
「何かしら」
「こっちに、いるの?」
「ええ、多分」
 自分たちが向かう先に、怪しげな気配はない。そちらに梢がいるのかどうか、遥には今一つ自信がなかった。
「私は嫌になるほど土門荒野と向き合ってきた。だから分かる。ほんの僅かだけど、あっちから私の大嫌いな匂いがするもの」
「……そもそも、郁奈はなんで一緒に?」
 結界から出してくれたのは嬉しいが、ここまで同道することになるとは思っていなかった。こんな時間にこんな子供を連れまわすのは、やはり気が引ける。
「今戻ったら、冷に怒られるもの」
「それはそうかもしれないけど。だったら私のこと、最初から放っておけばよかったんじゃ……」
「そうね。でも何だか腹が立ったんだもの。何かしなきゃ、やってられないわ」
 ぷんすかと肩をいからせて歩くさまは、年相応だ。それだけに、遥はこの子の正体が分からなくなる。あの結界を無造作に解いたのだ。身内だから冷夏の結界構造を把握していたのかもしれないが、それにしても末恐ろしい気がする。
「遥は北欧神話って知ってる?」
「北欧神話? まあ、人並みには知ってるけど」
 突然振られた話題に、遥は首を捻った。
「でもそれが、何か関係あるの?」
「運命の三女神という姉妹がいるの。長女ウルズは過去を、次女ヴェルダンデは現在を、末の妹は――未来を司る」
「それが?」
「似てるわね。式泉運命の三姉妹。長女は過去を夢で見る。次女は現在を繋げる」
「……」
 突然父親の名前を出されても、遥にはぴんとこない。記憶にもなく、写真すらないのだから、どんな人だったのか、ほとんど分からない。長姉の優香にしてもそうだ。こちらは写真でなら見たことはあるが、遥はついに会えずじまいだったのである。
「私は貴方の姉じゃないけど、過去が見えるのよ」
 不意に郁奈が振り返った。暗くてその表情はよく見えない。
「貴方が辿ってきた痛ましい過去も、お兄ちゃんが体験した沢山の辛いことも、私は誰に聞くまでもなく知ってるの」
「……」
「土門荒野をどうにかしようとして、でも出来なくて、絶望の淵に落とされる人たちの姿も、何度も見た。数えるのが馬鹿らしいくらいね」
「……」
「でも、皆どうにかしようと頑張ってる。自分一人で『そんなの無理だ』と思ってるのが馬鹿らしくなる。でも、それでも結局はどうにもならないと思ってる」
「だから、踏ん切りをつけたいのか」
「人の心を読まないでほしいわ。……でもまあ、そんなところ」
 どうにもならないのか、どうにかなるのか。その目で確かめたいのだろう。こういう場合、ただ黙って待つのは辛い。
 遥は遠方の空を見上げた。
 また雪が降ってきている。
 せっかくやんだのに。
 今度もまた、積もりそうな雪だ。

 見たことのない景色だった。
 眼下に広がるのは、秋風市の北側にある山脈だろう。
 彼方には町が見える。
 大事な思い出が沢山詰まった町。今も大切な人々がいるであろう町が見えた。
 思えば遠くへ来たものだ。
 あの日、父に対して誓ってからどれほどの距離を歩いてきただろう。
 最後がこういう場所なのは――悪い気はしない。
 秋風山脈の頂点とも言える開けた大地。
 そこに倉凪梢は立っていた。
 夜風が身体に染みる。それが今はありがたい。
「よう」
 正面の男が声をかけてきた。
 見たことはない。しかし不思議と懐かしい雰囲気。
 虎のような顔つきをしている。こちらと同じように、その男にも片腕と片足がない。
「はじめまして、って言うべきかね」
「久しぶり、でもいいんじゃねえの。お前はまだ赤ん坊だったが、前にも一度会ってるんだぜ」
「まあ、どうでもいいか」
「そうだな。どうでもいいか」
 互いに失笑する。
 もう時間もないのに、くだらないことで時間を使ってしまった。
 そう。感傷は必要ない。同情も必要もない。
 ここに至る道程は違えど――ここまで来た以上、二人の立場は同じだ。
 やるべきことも同じ。たった一つしかない。
「じゃあ、やろうか兄弟」
 言ったのはどちらだろう。
 二人は、一斉に駆け出した。

 ざわりと、肌が震えた。
 恐怖でもない。嫌悪感でもない。ただ、何か震えてしまうものが身体を突き抜けていったような感じがした。
 涼子のマンションの屋上で、当てもなく町を眺めていた。その矢先のことだ。
「これは……」
 忘れるはずもない。
 梢の力を感じる。土門荒野の禍々しい力ではない。危うい程の真っ正直さを感じさせる力だ。誰かとぶつかっているのだろうか。相手の方からも、似たようなものを感じる。
 しかし、その力はいつにも増して強力で、澄んでいるような感じがして。
 ……まるで、燃え尽きる寸前の――。
 不安に駆られて、零次は翼を大きくはためかせた。
「倉凪。お前は……!」

「梢君……!」
 それに気づかない遥ではなかった。
 自分たちの向かう遥か先。そこから、会いたい人の力を感じる。
「待ちなさい」
 駆け出そうとした遥を郁奈が制止する。
「あなたの足じゃ追いきれないわ」
「けど」
「ちょっと待ってて。本当はあんまり使いたくないんだけど……」
 そう言って、郁奈は遥の手のひらを掴んだ。途端、何か身体が軽くなったような感じがする。
「……ふぅ。これで、多分追えるようになるわ。今、貴方は異法人並の速さで動けるようになってるはずだから」
「今のは、魔術?」
「そんなこと気にしてる場合じゃないでしょ。早く行った方がいいと思うわ」
 確かにそうだ。今は一刻も早く梢のところに行かなければ。
「私は疲れたからここまで。あとは勝手に頑張ってね」
 本当に疲れたようだ。げんなりとした表情で、投げやりにひらひらと手を振る。
「……うん。正直よく分からないことだらけだけど、ありがとう。郁奈」
 郁奈は答えず、踵を返した。
 遥も振り返り、走り出す。郁奈の言った通り、自分でも信じられないくらい速い。
 これなら間に合うかもしれない。
 ……梢君に会うんだ。
 どうするかなんて理屈はもういい。
 ただ、ただ会いたかった。

 涼子はぼんやりと空を眺めていた。
 街の灯は消え失せて、その分だけ星がよく見える。その星々が舞い降りてくるかのように、再び雪が降り始めている。
「……」
 涼子は一人だった。周囲に人の気配はない。満天の星空の下、世界には自分一人しかいないのではと思ってしまう。
 遠くで何かが輝くのが見えた。
 流れ星などではあるまい。
 あれは――。

 全身が火になったように熱い。意識が蒸発してしまいそうだ。
 防ぐことなど考えていなかった。力の限り殴り合う。それだけだ。
「シャァッ!」
 気合一閃。草薙の拳が梢の肩を打ち砕く。その隙に、梢の渾身の蹴りが樵の腕をへし折った。しかし、そんな損傷はすぐに塞がれた。
 骨が砕ければ草木を骨替わりに埋込み、皮が削げれば岩でそれを覆い隠す。
 始まって十分も経たないうちに、二人の身体は見るべくもない有様となった。
 片や岩の中に人の顔が生えているような格好。片や木が人間の形に彫られたかのような格好。
「……ふん。思ってたよりは根性あるじゃ――ねえかッ!」
 手を休めることなく、草薙樵が吠える。一撃が重い。土門荒野の力もあるのかもしれないが、零次以上の力強さだ。
 梢も負けてはいない。防御をかなぐり捨てて、樵の首を掴みかかる。しかしそこはもう岩のようになっていて、折ることは出来そうにない。
「無駄だ」
「知るかよ!」
 首根っこを掴んだまま、梢は樵を思い切り放り投げた。山間を飛び越え、そのまま視界の彼方へと吹き飛んでいく。その姿を追いながら、梢は吠えた。
「てめえに恨みはねえが、てめえにだけは死んでもらう……!」
「家族を置き捨てて! 自分の命も投げ捨てて! それで俺を殺すか!」
 ひゃはは、と樵が哄笑する。同時に、谷底から岩の槍が飛翔してきた。一つや二つではない。雨あられの如き数だ。
「ああ、死んでもらう! そして最後に俺がくたばれば、すべて終わりだ!」
 無数の岩槍を振り払う。何箇所か身体が貫かれた。
「馬鹿くせえ。親から貰った一つっきりの命を、他人のために使って捨てるなんざ、不孝の極みだこの糞野郎!」
「それがっ!」
 こちらに向かって飛んできた樵の顔面に一撃をやりながら、叫ぶ。
「それが俺の生き方だ! 親が知るか! 周りがどう思おうが、何を言おうが知ったこっちゃねえ! 俺が周りに幸せでいてもらいたいだけだ!」
 続けざまに、胸、腹へと叩き込む。
 地面に激突する。
「だから馬鹿だってんだ!」
 血反吐を吐き散らしながら、樵が起き上がる。嘲笑う。
「てめえは神か仏か英雄か!? てめえのその自分勝手な覚悟が、却って周りを苦しめてるんだよ!」
 身体のど真ん中をぶち抜くような一撃が来た。耐えきれずに後方の崖に激突する。
「お笑い種だぜ兄弟よ。てめえは結局、誰も幸せになんかしちゃいねえ!」
「知るか!」
 体制を立て直し、また互いに殴り合う。技術も何もない。本能そのままの、子供の喧嘩よりなお野蛮な戦いだ。
「俺は神でも仏でも英雄でもねえッ! 俺が死んであいつらがどう思うか? それは分かるさ。分かるが――そこから先までは知らねぇ!」
「確かに知りようはないだろうけどな、気に入らねえ!」
 上下左右が分からなくなる。ただ一つ、相手の姿だけはしっかりと見えた。
「自分の命は自分の為に使うもんだ。その責任もテメエで背負うもんだ! てめえは自分の命を人に捧げて、その死の責任を押し付けようとしてるようにしか見えねぇ!」
「だったらお前は違うのかよ!」
「違うな! 俺はどこまでも俺のために生きる。我侭に、傍若無人に、自分の気に入った奴は助け、気に入らない奴はぶちのめす。ましてやこの命、どうして他人のために浪費するものか!」
 呵々と笑い、吠え、怒り狂いながら、草薙樵は爆ぜるように身体を動かす。
「ああ、俺もやろうとしていることはてめえと同じよ。けどな、てめえみたいな辛気臭い理由じゃねえ。こいつは勝負よ。俺とてめえと、土門荒野とかいうクソッタレとの!」
「勝負だぁ?」
「そうだ。てめえは悔しくないのか。腹ァ立たないのか。こんな大仰な名前をした、ろくに正体も分からん奴に俺たちの命は喰われようとしてるんだぜ? 許せるか? 許せるはずはねえよな。俺は許せねえ」
 確かに、理不尽な話だった。だが、どうにもならない。手の施しようがないのだ。
「だから俺は決めた。こんなのに喰い殺されるぐらいなら、そうなる前に俺ごとこいつを叩き潰してやりゃあいいってなあ!」
 顔面が揺れて、視界が半分になった。目がやられたのか。
「まずはてめえをぶちのめして土門荒野を一つにする。その上で俺が奴を始末すりゃあ、この勝負は俺の勝ちよ!」
「――勝ち負けなんざどうでもいい!」
 背中から生やした植物の腕で、樵の両脚をへし折る。
「お前一人の意地に付き合う道理はねえ! とっととくたばれ、この自己中が!」
「くたばるのはてめえだ偽善者。俺の命を、てめえの理想なんぞのためにくれてやる義理はない!」
 掠れた声で叫ぶ。
「邪魔なんだよ――――お前はっ!」

 長かった。
 二人の攻防は長く、止むことなく続いた。
 零次でさえ、追いかけるのに精一杯だった。気づけば、地平線の彼方から陽の光が顔を覗かせている。
 零次だけではない。遥も、亨も、飛鳥井も、古賀里も、皆がこの二人の戦いに気づいていながら、止めることも出来ず、一晩中追いかけ回していた。
 不思議な情景だった。
 飽くことなく続く攻防は醜悪そのものだ。もはや戦闘という言葉で表現出来るようなものではない。
 時折聞こえていた二人の咆哮も今は止み、その動きも少しずつ鈍くなってきていた。
 ……止めないと。
 この戦いを止めないと。そして二人を引き離して、対策を立てないと。
 先程までならともかく、今なら零次でも割り込める。昨日の疲れは取れていないが、それでも梢を連れて逃げるくらいなら出来る。
 なのに。
 身体が動かない。
 周囲にいるはずの冷夏や夕観たちも、動く様子がない。
 誰もが、醜悪なだけの二人の戦いに呑まれてしまっていた。
 ……。
 土門荒野の気配はない。今、あの二人は自分の意志で戦っている。
 気力を振り絞り、身体をボロ雑巾のようにして、一緒に過ごしてきた大事な人々を置き捨てて、たった一人、己の意志一つで命を燃やしている。
 そこに理屈や理念などはない。ただ、己の意地を貫き通そうとしているだけだ。
 合理的ではない。傍迷惑だ。そんなことは、無意味なのに。
 ……なぜ、俺は泣いている?
 倉凪梢と初めて出会ったのは、いつだったろう。
 最初は敵同士で、しかも梢は零次よりずっと弱かった。それでも梢は零次に挑み続けたのだ。そして遥を救い、零次に己を認めさせた。
 いつも誰かのことを気にかけていた。そんな梢の周りには、多くの人が集まった。いつしか零次も、その人々の中に入っていた。
 中心にいるのは、梢だった。
 皆、梢の周りで笑っていた。
 ――空でぶつかりあった二人の影が、朝陽に呑まれる。
 眩しさに閉じた目を開けたとき、二つの影はそれぞれ放物線を描きながら、別々の方向に消えていった。

 遥は弾かれたように駆け出した。無論、行く先は梢の落ちていった方である。
 郁奈のおかげで身軽になった身体ですら、遅く感じる。
 早く行かないと。そうしないと、もう会えなくなる。
 吐く息の白さですら鬱陶しい。雪に足を取られる。無造作に伸びている木の枝で、身体を何度も切ってしまった。
 ……はやく。はやく!
 転んでは起き上がり、梢がいるであろう方向を目指す。
 一歩。
 もう一歩。
 遥が最初に梢と会ったのも、こんな雪の森の中だ。
 忘れもしない。生まれ持った力がいささか特殊だったせいで、研究者の実験材料として扱われていた遥。
 そんな彼女を、最初に人間として見てくれたのが梢だった。
 遥が人生で最初に嬉しいと感じたのは、彼に出会ったときのこと。次に嬉しかったのは、出会った翌日、約束通り彼がまた自分に会いに来てくれたこと。
 最初に悲しかったのは、遥を研究者たちの手から逃そうとして、梢が大怪我を負ってしまったこと。次に悲しかったのは、その翌日、約束の時間になっても梢が来てくれなかったこと。
 人生で一番嬉しかったのは、数年の時を経て、偶然であるにせよ、大きくなった彼が自分を助けに来てくれたこと。二番目に嬉しかったのは、家族を得られたこと。
 人生で一番悲しかったのは昨日。梢がいなくなってしまったこと――。
 ……嫌だ、嫌だ!
 張り裂けそうな思いを抱えて、遥は走った。

 相手が見えなくなって。
 自分を支えていた何かが、ふっと消えたような気がして。
 どことも知れない山林の中に突っ込んで、身体が跳ねて。
 目の前が、真っ白になった。
 ……まだ。
 まだ、樵を倒していない。倒して、土門荒野を手に入れて、そのあとでなければ。
 死ぬに、死ねない。
 ……動けよ。
 脳がいくら動いても、身体は動かず、視界は相変わらず真っ白なままだった。
 あらゆる感覚が失せていた。
 既に自分の命が燃え尽きたような気がして、ぞっとして、その感覚で、まだ生きているということに気づいた。
 白いのは雪と、空と、自分の吐く息だった。
 ……。
 朝陽が昇りつつあるのだろう。冷たいの風景の中に、輝きが入り乱れていた。
 輝きの一つ一つが、人の顔になっていく。
 両親に妹。
 学校の友人たち。
 町の人々。
 兄貴分と相棒。
 今の家族。
 ……助けたい。
 守りたい。いくらそう願っても、意識と身体が繋がらない。
 ……皆。
 そのとき、ゆらりと人影が近づいてくるのが見えた。
 全身に包帯を巻きつけた、異様な風体の持ち主だ。地獄からの迎え。そんなことを考えてしまう。
 側まで来た包帯人間と目が合う。こちらを見下ろすその眼差しは、どこか悲しげなようにも見えた。
「……誰だ」
 掠れた声をあげるのが精一杯だった。
「お前じゃ、ない……。あいつは、どこだ」
 梢の問い掛けに、そいつは答えなかった。ただ、じっとこちらを見下ろしている。
 その手には、歪な形の黒い剣が握られていた。
「……もう、いいだろう」
 相手の声は、どこかで聞いたことのあるものだった。だが、誰の声か。もう耳も半ば機能しなくなっているから、よく分からなかった。
「倉凪梢。あとは、俺に任せろ」
 その声は、とても辛そうだった。
「もう、一人で抱え込むな。自分一人で、なんとかしようとするな」
 否定の言葉が、出ない。
 誰かを助けようとばかりして、誰かに頼ろうとしなかった。その結果、こうして自分は何も果たせぬまま、朽ちようとしている。
「あとは俺がやる。必ず皆を助ける。土門荒野などに、皆を殺させはしない」
「……駄目、だ」
 それでも、梢は意地を張った。
 否。ここにいるのは、もう倉凪梢ではなく、その意地だった。梢の命はとっくに尽きている。ただ、これまで貫き続けてきた意地だけが残っていた。
 それも、じきに尽きる。
 駄目と言おうが何と言おうが、もう自分には何も出来ない。
 それでも。
「顔も見せないような……奴に……任せられるか」
 意地だけで、梢は上半身を起こした。感覚は相変わらずないままだ。自分が身を起こしたことすら、もう梢は気づいていなかった。
 ただ、最後まで歩みを止めまいとする意地だけが、彼の身体を動かした。
「……そうか」
 そんな梢を見て、相手は深い溜息をついた。
「なら、見せよう」
 梢の意地に応える。
 そんな相手に梢は、感謝した。
 するすると、顔中を覆っていた包帯が解かれていく。
 ますます白くなっていく視界の中。
 包帯の中に隠されていた顔を見て――梢の眼差しが揺れた。



 しんしんと、雪が降り積もる。



 嬉しいことも悲しいことも、全部覆い尽くしてしまうような雪が。



 雪が――――。





 走って。
 走って。
 走り抜けて。
 遥は辿り着いた。
 探し続けていた人のところに、辿り着いた。
「――――」
 そして、見た。
 黒い剣を手にした包帯男。
 その剣先からしたたる赤黒いモノ。
 それから。
 それから……。
「……梢君」
 遥の呟きに反応したのは、呼びかけた相手ではない。
 包帯男が踵を返し、雪の中に消えていく。
 残されたのは。
「――遥!」
 零次の声が聞こえた。そして、彼もまた言葉を失った。
「梢君」
 操り人形のような歩き方で、遥は足を進めた。
「梢君……」
 呼びかけても返事はない。
 遥は倒れ込むようにして、その上に覆い被さった。
「ねえ、梢君」
 雪のせいだろうか、とても冷たい。
「ねえ」
 なぜ、そんな満足げな顔をしているのか。
「ねえってば」
 いい夢でも、見ているのだろうか。
「起きてよ、梢君」
 楽しい夢なのだろうか。
「……」
 遥の力を使っても、夢は見えなかった。
 梢の中には、何もなかった。
 空っぽだった。
「ねえ、起きてよ――――梢君」
 雪が降る。
 何もかもを覆い隠そうと、雪が降る。
 冷たい朝陽が、二人を照らしていた。