異法人の夜-Foreigners night-

-第二部-
断章「朽木のち」
 静かな夜だった。
 いつも通りの町並に、ここ数日の出来事を忘れてしまいそうになる。
 そこに、微かな違和感が生じた。
「……天夜君かい?」
「よく、分かったな」
 振り返ると、電柱の陰から天夜が顔を出した。その表情は暗い。彼のこんな顔を見るのは初めてだった。
「君らしくないな。そんな暗い顔でいちゃ、こっちまで辛気臭くなる」
「……じゃあ、明るく笑ってろってか」
「それも君らしくない」
「じゃあ、どうしろってんだよ。いや、そうじゃない。そんなこと言いに来たんじゃなくてな」
 頭を掻きながら頭を振る。まだ落ち着かないらしい。
「僕を励ましに来てくれたんだろう? けど心配ないよ。君こそ、今日は戻って休んだ方がいい」
「平気なのかよ」
「まだ、やることが残ってるからね」
 そう。この夜の巡回は、気を紛らわせるためにしているわけではない。
 町を土門荒野の脅威から守る。
 そのためには、一刻も早く草薙樵を見つけ出さなければならない。
 正確には把握出来ていないが、既に草薙の中で土門荒野が一つになっている可能性が高い。そんな状況にありながら、嘆き悲しんで事態を放り出すことは出来ない。
 町を救う。そのために榊原家から離れた。そのために梢を見捨てた。
 ここで投げ出したら、本当の意味で皆を裏切ったことになる。
「今はまだ、悔やむようなときじゃない。こうして関わった以上、土門荒野に関する事柄の責任は僕らにもある。最後まできっちりと、ケリをつけないと」
「あんた、思ってたよりしっかりしてるんだな」
「そんなことないさ。決めかねてるよ、終わった後のことを」
 病院に残した美緒に何と言って説明するのか。遥や零次に、どう向き合うか。
 この町に残るか否か。
 逃げることだけはすまいと、それだけは決めているが。
「先のことを考えるのが怖い。胸が痛い。頭も痛い。だから、今この瞬間の問題だけを考えてる。その方が楽なんだ。それだけのことだ」
 兄のように。梢のように。零次のように、強くなりたいと思っていたのに。
 強いということが何なのか、分からなくなってしまった。
「僕はしっかりなんかしてない。ただ、自分の弱さを知ってるだけだ」
 本当に、嫌になるくらい知っている。

 取調室に、二人の男が向き合っている。
 異様なのは、二人が容疑者と警察官ではなく、共に警察官であることだった。
「いきなり人を独房に叩き込むたァいい根性してやがる。てめぇら、警察内部にまで手を伸ばしてるとはな」
 不敵な眼差しで相手を睨んでいるのは、榊原幻だった。スーツはところどころ煤けていている。魔術師相手に大立ち回りをしたせいだ。
 今回の出張はそもそも臭かった。本庁時代に何度か会っただけの男から呼び出され、上辺だけ取り繕ったような理由をつけて、事件の捜査協力を命じられた。
 その事件も解決寸前というところで必ず失敗し、延々と日にちだけが過ぎている。
 秋風市のこともあり、榊原は急いでいた。そして、事件解決に地元の刑事たちは足手まといと判断し、単独で解決しようとして――。
「捜査担当と犯人グループがグルじゃあ解決するわけない。一般市民に危害を加えるわけでもないから、他の職員もそこまで本気にならない。最初からすべて狂言だったわけだ。俺ひとりのために、ご苦労なことだな」
「君はどう動くか予測出来ない。しかも異法人含むあの家の人間たちをまとめることが出来る。もし君によって彼らが団結し、我々に抵抗する姿勢を見せていたら……」
「御託はいい」
 説明しようとする男を、榊原は黙らせた。
「俺を前に、そんな説明をするってことは――あいつ、死んだんだろう?」
 相手は険しい顔つきで押し黙る。それが、すべてを物語っていた。
「そうか」
 本当に、死んだのか。
 黙って目の前の男を殴り倒す。
 そうして、取調室から出た。
 男の同胞たちが視線をちらりと向けてくる。だが、誰も何も言わない。
 止める様子もなかったので、ベランダに出た。
「死んじまったか。あの馬鹿」
 きっと自分から死に臨んだのだろう。皆に迷惑をかけるくらいなら、と。
 一度言い出したら聞かない奴だった。人に甘えることを知らない奴でもあった。
「どいつもこいつも、生き急ぎやがって」
 相棒。弟子たち。皆、いなくなっていく。
「馬鹿が」
 涙は出ない。
 まだ梢が死んだという実感がなかった。
 ただ、身体の中から何かが抜け落ちてしまったような虚しさはある。どこかで、こんな日が来ることを覚悟していたのかもしれない。
 誰かのために動くことを、本気で望んでいる奴だった。どんなに自分が苦労しようが、傷つこうが、助けようと思った相手を助けられればそれで良いと、本気で思っていた。
 そのことを他人から評価されるのは、嫌なようだった。誰かの手を借りることも、出来る限り控えるようにしていた。
 俺が皆を助けるんだと気負っていた。それは、歪んだ生き方だった。善意を押しつけ歩いた人生だった、とも言える。
 それを止めることが、榊原には出来なかった。
 実際、梢に救われた人は何人もいる。自然、彼の周囲には人が集まるようになった。良き理解者もいた。良き友もいた。恵まれた人間関係だったと思う。
 そうやって積み上げてきたものがある以上、とやかく言って、それを否定するのが憚られた。たとえ、その行く末に見えない不安を感じていたとしても。
 今になってみれば、それでも何か言っておくべきだったと思う。誰にも助けを求めず、誰のことをも助けようとする大馬鹿者に。
「今更、か」
 榊原は空を見上げた。
 満天の星空。その下のどこを探しても、その大馬鹿者はもういない。

 心から指の先まで、すべてが冷え切っている。
 自分が生きているのか死んでいるのかも、分からなかった。
 ……俺は。
 俺は誰で。
 私ハ誰デ。
 何をやろうとしているのか。
 何ヲヤロウトシテイタノカ。
「……っ。お……ろ」
 ああ、うるさイなァ。
「しょう。……り、まだ……な……」
 うるさい。
 …………。
 ……。
 結局、目が覚めた。
「お、やっとこさ起きたか」
「死ななかったようだな。悪運の強い奴だ」
 聞き慣れた減らず口が聞こえる。どうやら、まだ自分は生きているらしい。
 視界にこちらを覗き込む夕観とフィストの顔がある。
「言いたい放題だな、痛ゥ……」
 痛む頭に右手を当てて、すぐ違和感に気づいた。ざらりと、今までと違う感触がした。
 右手を見ると、肌色ではなく岩の色だった。
 身体の他の部位にも眼をやる。あちこちが、岩や土に作り替えられている。
「ああ、そうか」
 身体の表面も内蔵も、あの男と戦ったときにボロボロになった。だから、自分で作り替えたのだ。
 もちろん、まともな状態ではない。
「まるで、ゴーレムだな」
 胸や腹がずきずきと痛む。呼吸をするだけでむせ返りそうになる。じっとしていても、苦痛が絶え間なく襲いかかってくる。
「悪い。その身体、治せなかったよ」
「……ふん、お前の専門は『射抜いてぶっ壊す』ことだろうが。治療なんてデリケートなこと真似すんじゃねえ、怪我人が増えるぞコラ」
「そんなになってまで減らず口たァあんたも筋金入りだわね」
「それでこそコイツらしい」
「うっせ、フィスト。なんで、げほッ、ゆ、夕観をこんなとこまで……連れてきた」
「俺が夕観を? お前さては樵じゃなくて土門荒野か? 俺が連れられてきたに決まってるだろ」
「自慢気に言うことじゃ、ねえ」
 言ってから、またむせ返る。
 咳の中に砂利が混じっていた。気分が悪い。
「やれやれ。放っておいたら本格的にヤバそうだねえ。この町一番の医者は、飛鳥井んとこに持ってかれちまったし」
「医者だァ? 耄碌したかよ夕観。俺は行かねえぞ」
 反発するように身を起こす。
 周囲は薄暗かった。どこかの廃屋らしい。この状態の樵を担いで施設に入るのは無理だったのだろう。
「……駄目だ。あんたも分かってるだろ、そのままじゃ本当に死ぬよ」
「んなこたァ嫌になるくらい承知してら」
「死ななくて済むなら、そういう方法があるなら……」
「聞く耳持たねえ。お前らがやろうとしてることなんざ、俺にはお見通しだぜ。大方、土門荒野だけを上手い具合にぶっ壊す方法がある、てんだろ」
 夕観とフィストの表情が硬くなった。
「そこまで分かってて、なお聞く耳持たないってのか?」
「フィストよォ、お前、そんな都合の良い方法――どこのどいつに聞かされたよ」
 言われて、フィストは押し黙った。その表情には、強い懸念の色がある。
「本家の爺さんだよ」
 代わりに夕観が答えた。こちらは憮然とした面持ちである。
「あの糞爺の言うこと、信用出来るのか、お前は」
「してないさ。それに、私が教えられた術式は先頃完成したばかりの『試作品』さ。だから成功する保証なんてないと、爺さんも言ってた」
「そんなあやふやなもんに、俺はすがりたくないね。土門荒野は魂深くに根付いてるって代物だ。一歩間違えば俺ごと死んじまうわ」
「ああ。だから、あんたにやるつもりはなかった」
 けどね、と夕観は立ち上がる。苛立っているような、悔やんでいるような顔だ。
「倉凪梢は死んだ。つまり、あんたにゃもう時間がないんだ。やるしかないんだよ」
「……なんだ、死んだのかよ。あの野郎」
 一度会っただけの同胞。あるいは、兄弟、と言ってもいいかもしれない相手だった。あれほど激しい喧嘩はしたことがない。対等の相手として、言いたい放題、殴りたい放題の大喧嘩だった。
 途中で意識が吹っ飛んで今に至っているから、樵にすると、まだあの喧嘩は終わったような感じがしない。
 だが、もうあの男はいないのだ。
 だったら、泥土こねくりまわして無理矢理作ったこの拳、誰に向ければいいのか。
 ……決まってらァ。
「どけ、夕観。俺ァ行かなくちゃなんねぇ」
 言いながら、樵はゆっくりと身体を起こした。
 痛いし、軋む。おまけに動きは鈍いし、感覚もいつもと違う。
 だが動く。
 動けば、それで十分だ。
「……そんなに白夜様の術式は信用出来ないか」
 フィストがゆらりと立ち上がり、夕観の前に立つ。
「出来ないね。それに、てめぇら何か勘違いをしてるんじゃねえか」
「勘違い?」
「俺の中にいる土門荒野は相変わらずの半人前よ。でなけりゃ、とっくに奴さん面ァ出して暴れ始めてるだろうさ」
「……それは確かなのかい」
「まぁな。言葉で説明しろって言われても出来ないし、証拠もくそもないが、俺自身はそう見てる。つまり――どこぞの馬鹿が、あの野郎の土門荒野をかっぱらったってことだわな」
 つまり、相手はまだいるのだ。
 樵が土門荒野に負けないために、まず倒すべき相手が。
「俺はその馬鹿をボコりに行く。止めるなよ? 止めるつもりなら、まずお前らからボコるぜ」
「相変わらず頭悪い口振りだねぇ。あんたの脳味噌喧嘩一色か」
「あたぼうよ。人生ってな勝負だ。負けたら次は勝つ。勝ったら次も勝つ。正々堂々威風堂々と前に突き進む、俺にはそういう生き方しか出来ねぇのさ」
 芝居がかった言い方ではあるが、それは樵が本心から思っていることでもあった。
 初めから明確な終わりが見えてしまった人生。それを有意義に生きるために、子供の頃決めた、たった一つのルール。
 勝つ。
 それが、樵の生きる原動力だった。
 なぜそう考えたかは分からない。ただ、限りある人生なら明確な目標を立てた方が、より充実したものになると思い、自然と浮かんだのが『勝つ』ということだった。
「……本当に馬鹿だねぇ。まあ、知ってたさ。知ってたよ。けど、本当に馬鹿なんだねぇあんたは」
 呆れ顔で嘆息し――夕観とフィストは、樵に道を譲るかのように身を引いた。
「なんだ、やらねぇのか」
「あんたと喧嘩しても仕方ないからね。それにあんた、喧嘩の勝ち負け関係なくこっちの言うこと聞かないだろうし。だったら、好きにやらせるしかないだろ」
「ただし、こっちも好きにやらせてもらうがな」
 夕観の言葉をフィストが引き継ぐ。
「互いに勝手か」
「いつも通りだろ」
 出会ってから今日まで、夕観やフィストとはいつもそうやって過ごしてきた。
 遠慮も何もない間柄だけに、ぶつかることも何度かあった。それでも、どういう縁なのか、結局は上手い具合に納まってきた。
 良い友人たちだと思う。
 だから、最後までそのままの関係でいたかった。
「ああ、そうだな。いつも通り。俺たちはいつまで経っても成長しねぇ、くだらねえ馬鹿のままだ」
「私まで一緒にするんじゃないよ、この馬鹿二人が」
 そうやって吐き捨てる夕観は、笑っていた。
「じゃあ、先に行くぜ」
 残された時間はあまりない。こうして友人たちと一緒にいると、そのことを忘れてしまいそうだった。
「樵」
 歩き出した樵の背中に、夕観が声をかける。
「負けるんじゃないよ」
「……へっ。俺を誰だと思ってやがる」
 振り返ることはしない。
 ただ、親指を立てて応えた。

 飛鳥井の者たちがアジトにしているホテルの屋上に、郁奈はいた。
 その髪は、半ば以上が雪によって覆われている。
 寒い――はずだった。
 しかし、郁奈は寒さを忘れたかのように、ぼうっと眼下の町並を見下ろしている。
 いつもと同じ。日が昇り、人々が動き、やがて時が経ち、日が沈む。
 倉凪梢は死んだ。
 だが、この町は変わらない。今は、まだ。
 郁奈は未来を知っているわけではない。ただ、この町で起きるであろうことは分かる。今まで何度も何度も見続けてきたからだ。
 それは予言ではない。どちらかと言えば、役者も筋書きも舞台も決まりきった演劇を見ているような感覚に近い。だから何もかもが予想通りになるわけではない。
 それでも、町の崩壊は近い。
 土門荒野が目覚めた場合、秋風市は軽くとも五分の一が壊滅状態になる。もっとも悪いパターンとしては、市そのものが壊滅同然に陥ることもあった。
 郁奈が見てきたのは、そういう光景だ。
「結局……無駄、か」
 郁奈が見てきた光景の中でも、土門荒野という災厄を防ごうと、皆必死になっていた。だが、それが実を結んだ光景は見たことがない。
 前後が入れ替わる場合もあるが、大抵は最初に梢が死ぬ。次いで一日か二日程間を空けて、樵の方も死ぬ。その間に飛鳥井・古賀里・榊原の三者が揉めに揉めて、結局最後は土門荒野が復活してしまうというのがオチだ。
 今、梢が死んだ。順調に、劇は進んでいるようだ。
「――本当、嫌になる」
 そのとき、ドアが軋む音が聞こえた。
 視線を向けると、そこには一人の女性が立っていた。真っ白な衣装の中、艷やかな黒髪を腰元まで伸ばした少女。年の頃は十代後半程度にしか見えないその女性を、冷夏や飛鳥井の人々は『泉の姫』と呼んでいる。
「……邪魔をしましたか?」
「いいえ、別に」
「そうですか。では、失礼」
 言って、女は郁奈の隣に立つ。こちらの髪に降り積もっている雪に気がついて、それを優しく落としてくれた。
「気をつけないと、風邪を引いてしまいますよ」
「ありがとう。でも大丈夫よ」
「なら、いいのですが。……あなたは、飛鳥井の?」
「ええ。冷夏のところでお世話になってるわ」
「そうですか。では、私のことは……」
「ええ、聞いてるわ冷から。真泉未了……『泉家の姫君』とか『泉の始祖』って言われてるのよね」
 言うと、未了の目元に若干陰が漂った。
「あまり、そういう呼ばれ方は好ましくないのだけれど」
「そう。なら私は『御祖母様』とお呼びした方がいいのかしら」
 未了は表情を引き締めた。その顔はどう見ても少女のものだ。御祖母様、などと呼ばれるような年には見えない。
 しかし、未了はそれを否定しなかった。
「では、あなたが郁奈なのですね。飛鳥井の家にいるとは聞いてましたが」
「こんなところで会うとは思ってなかった、ということかしら」
「ええ。出来れば、もっと違う場で会いたかった」
 それについては同感だった。
 この町は、嫌な場所だ。嫌な場所になる、と言った方が正確だろうか。
「あの子に……遥に力を与えたのも、あなたですね」
「何のことかしら」
 駄目で元々、とぼけてみた。ごまかせるとは思っていない。
「今朝方の、倉凪梢と草薙樵の戦い。私たちでさえ追うのがやっとだったあの戦いに、素人同然のあの子までが着いて来た。あれは、あなたがあの子に『速さ』を与えたのでしょう?」
「でも、結局遥は届かなかった」
 期待はあまりしていなかった。だが、現実に自分のしたことが徒労に終わり、予定調和のように梢が死ぬと、やはり落胆してしまう。
「結局、土門荒野というものはどうにもならないものなのかしら」
「ええ。どうにもなりません」
「御祖母様がそう言うのなら、きっとそうなんでしょうね」
 郁奈もはっきりと知っているわけではないが、未了は千年以上生き続けてきたと言われている。その長き時の中で、彼女は幾度も土門荒野と出会ってきたと、冷夏は話した。
「でも、どうにもならないものをどうにかするために、御祖母様は来たのでしょう」
「被害を最小限に抑える。私に出来るのは、せいぜいそれだけです」
「前のときもそうだったの?」
「ええ。肝心のあの人を救うことは出来なかった。それどころか、私は最初に殺されてしまいましたから――陰綱と司郎に、すべてを任せることになってしまいました」
 いろいろ言われてますが、私は大した者ではないのです――そう言って未了は寂しげに笑ってみせた。
「郁奈。この町はこれから大変なことになる。だから、明日の朝、飛鳥井の本拠に戻りなさい。でなければ、命を落しかねない。私たちは、あなたの身を守る余裕がありませんから」
 どうやらそれが本題のようだった。
「ご忠告ありがとう、御祖母様。でも私は残らせてもらうわ」
「どうしてもですか」
「ええ。ここで逃げたら夢見が悪い。悪夢ばかり見て、そのうち壊れてしまう」
 悪夢のような光景を、否応なく夢で見る。物心ついてからずっとだ。
 眠る度に人が死ぬ。町が滅びる。そんな光景が、延々と続く。
 今でさえ、眠ることが怖い。睡眠恐怖症とでも言うべきか。郁奈の平均睡眠時間は二時間半程度。それが祟って、酷く体調を崩すことも珍しくない。
「御祖母様。私に『別の世界であった出来事を見る力』があるって言ったら、信じてくれるかしら」
「……見れるのですか?」
「否応なく、夢で見るの。こことは別の、でもとてもよく似た秋風市がある。でも、そこでも土門荒野の問題が起きて、結局は大勢の人が死ぬ。それを毎晩毎晩、私は見続けてきた。多分、これからもずっと」
 バリエーションが無駄に豊富なせいで、未だに慣れない。
「そんな悪夢が、今は現実として私の前に広がってる。ここで逃げてしまったら、これから続く悪夢とどう接していいか分からない」
 悪夢を防げないにしても、納得することで折り合いをつけたいのだ、と郁奈は言った。
「これが私の残る理由。信じてもらえたかしら」
「信じましょう。荒唐無稽な話ではありますが、今私たちの脅威となっている土門荒野も存在自体が荒唐無稽。それに、こうして話している私も荒唐無稽な存在です」
 千歳超えた性悪怪物婆ですよ、と自嘲するように未了は言った。
 そのときだった。どこに控えていたのか、陰綱が二人の間に入り込んできた。
「お二人とも、お気をつけを」
 そう言ってこちらを下がらせる。その視線は、夜空の一点に向けられている。
 そこにいたのは、黒い翼の包帯男。
「……無現」
 郁奈の声に応えるかのように、無現はふわりと屋上に降り立った。
「何用だ」
 短く陰綱が問いを発した。無現は静かにこちらを見据えて、口を開く。
「今、我が身の内には倉凪梢より奪いし土門荒野の半身がある」
 そう言って、無現は自分の胸を指し示した。陰綱も未了も表情は動かさないが、微かに動揺を見せる。
「目的はなんだ」
「協力を仰ぎに来た」
 無現は静かに告げる。
「土門荒野などというふざけた代物を、完全に抹殺する。協力していただきたい」