異法人の夜-Foreigners night-

-第二部-
第十八話「閉幕にはまだ遠く」
 遥は変わろうとしている。
 これまで彼女は、自分の力を半ば恐れ、半ば忌避していた。必要になったとき、躊躇いながら使うのが関の山だった。
 不可視の共有。
 随分な力だと言えなくもない。心、魔力、意識――そうした無形のものは、ほぼその能力の対象になりえるのである。それらを好きに扱えるのだから、下手な異法人よりもたちが悪い。
 唯一の欠点は、自分自身も能力の対象に含まれてしまうことだった。
 例えるなら、津波を引き起こすようなものだ。一旦実行すれば絶大な効果を出すことができる。その代わり、自分自身も飲み込まれてしまう。
 それが、今は海水の中にあるもの一つ一つまで見通せるようになってきている。
 濁っていた海が澄み渡ってきたような感覚だ。
 だが、それは果たして幸せなことなのかどうか。
 暗い海の底、遥か遠い空。
 その真中に、一人きり。
 周囲には沢山のものがあって――誰もいない。
 そんな感覚の中に、遥はいた。
 遥は知らない。
 なぜ多くのものが見渡せるようになったのか。なぜ様々なものを掴めるようになったのか。なぜその力が進化しようとしているのか。
 今は誰も知らない。
 遥のこの変化が――事態にどのような影響を及ぼすのか。

 市街地の中にも、灯りのない場所はある。
 遥は夕観たちを連れて、薄暗いビルの一室にやって来ていた。
「ここは?」
「先々月にある会社が倒産して以来空いてるんだ。妙なものが出るという噂が立っているせいで、新たにここを借りようとする者はいない。管理人も気味悪がってろくに近寄らないから、潜伏場所としては都合がいいんじゃないか」
 出入口の扉はやや損壊しており、半開きの状態になっている。
「セキュリティも何もない状態だ、気兼ねなく使うといい」
「妙な場所知ってるんだな」
 フィストが感心してあちこちを見渡す。
「妙なものは仕掛けてないから安心しろ」
「ああ。分かってるよ」
 夕観はひらひらと手を振る。
「一旦手を組むと決めた以上疑ったりはしないよ。無意味だし疲れる。フィストもそうだから、そっちもつまらないことは気にしないで欲しいね」
「分かった」
 遥は小さく頷き、転がっていた椅子に腰をおろした。夕観はその正面に座り、フィストは脇で壁に寄りかかった。
「ところで、その出る奴ってのは何なんだ?」
「今はいない。……何でそんなことを聞く?」
「夕観に襲いかかるような奴なら、まずぶっ飛ばしておかないといけないからな」
 至極当然といった顔つきで言う。夕観の方は若干照れ臭そうな表情を浮かべていた。
 ……成程、確かにあれこれと考える必要はなさそうだ。
 遥はこの短時間で、二人の性格をおよそ掴んでいた。
 夕観は頭の回転こそ速いが、本質的には情誼を重んじるタイプのようだった。様々な理屈や可能性を脳裏に浮かべながら、平然とそれを蹴飛ばすようなところがある。
 フィストは、夕観を守ることこそ第一だと決めている節があり、逆にそれ以外のことに対しては淡白なようだった。鈍いのか鋭いのかはよく分からないが、あまり小難しく物事を考える性格ではない。
 共通して言えるのは、単純一直線、理屈は通用しない、ということだった。
 現状、遥と彼らが対立する理由もなく、禍根もない以上、あれこれ邪推する必要はなさそうだった。
 ……そう、私はあの男を殺すことだけを考えておけばいい。
 思考が沈む度、自分の瞳が暗く冷たくなっていくことに、遥自身は気付いていない。
 針の穴に糸を通すときのように、心が鋭く細くなっていく。
「早速だけど、ちょっと聞きたいことがあるの。いいかしらね」
「何?」
「その包帯男っていうのは、何者?」
 それは、遥にも分からなかった。
 彼女に限らず、今回の件に関わっている人々の中で、無現について正確な理解をしている者はほとんどいない。夕観やフィストに至っては、その存在すら知らなかった。
 郁奈や零次が、それを『無現』と呼んでいることも知らない。
 その目的については、想像すら出来ていなかった。
 それだけに、遥の中での『包帯男』像は至極単純なものである。
「私は二度見た。一度目は彼を殺そうとして――二度目は殺した」
 単純な印象が、遥の中から余計な思考を排除している。
「分かっているのは、黒い剣を使うということ。奴自身がどれほどの実力かは分からないが、剣の方はまともに喰らえば……」
 思い出す。
 一度目のとき、彼目がけて剣から放たれた衝撃波は、大地を穿ち、森林を荒野へと変貌させた。
「まともに喰らえば、跡形もなく消し飛びかねない」
 夕観とフィストの顔が強張る。
「黒い剣……ね」
「何か心当たりが?」
「あると言えばあるけど、私たちの知ってるのは包帯男じゃないわね」
「零次のことか」
 飛鳥井の陣営に捕まったとき、経過報告を耳にしたことを思い出した。あのときは土門荒野が発症しかけて大騒ぎになったが、漆黒の剣を使った二人の手により、事態は収拾されたのだと。
「もし、包帯野郎の剣もあれと同じくらいの威力なら、消し飛ぶってのは誇張でも何でもないわね。……それで、勝算はあるの?」
「ある」
 遥はそっと右手を前に出した。陽炎のような魔力が揺れ動いている。
「私の力については先刻話した通り。つまり、相手の身体的能力・武器の威力等は一切関係がない。触れてしまえば、それでこちらの勝ちだ」
「そもそも触れることすら出来ないんじゃないのか? 異法人なんだろ、多分」
 もっともな疑問をフィストが口にする。
「状況から見てまず間違いない。私が彼のところに着いたとき、既に土門荒野は消えていた。もし奴が異法人じゃないなら、彼の中にあった土門荒野はそのとき一番近くにいた異法人――零次の方に行っていたはず」
 しかし、零次はそんな素振りは見せていなかった。ならば、他に考えられる候補はいない。
「だが、身体能力の差を埋める方法はいくつかある。勝算があるという点では、何ら変わらない。それに、君ら二人と組んで勝算そのものもいくらか上がった」
 もっとも、と遥は続ける。
「奴が異法人だというのは私の推測だ。私は十中八九そうだと思ってるが、もし違っていたらさっさと手を切ってくれて構わない」
「そうなったら、あんた一人で奴に挑むの?」
「ああ。もう決めたことだからな」
 絶対に殺す。
 どこまでも追いかけて、喉笛を噛みちぎってやる。

「これで十件目か」
 駅近くの市街地一高いビル。そこの屋上から町を見下ろしながら、零次は呟いた。
『僕が報告したのは八件ですが』
「藤田たちからも二件連絡をもらってな。……どうも隠れるつもりはないらしいな」
 電話の相手は亨だった。今日に入って既に三度目の通話である。
『飛鳥井陣営では頭を抱えてますよ。基本的に魔術師は秘密主義ですからね』
「異邦隊も似たようなものだったろ。……というか、こう目立たれると普通に厄介だ」
 話題に上がっているのは、草薙のことだった。
 彼は全身ほとんど岩だらけという異形の姿ながら、何度も町中で目撃されている。一般人の間でも妙な噂として広まりつつある状態だ。
『彼は満身創痍の状態ですからね。あれこれ考える余裕もなく、闇雲に無現を探し回ってるんじゃないかって意見が多いですよ』
「無現を探してるという点は同感だが、闇雲かどうかは少し疑わしいな」
『というと?』
「倉凪や草薙の様子を見る限り、土門荒野は寄生した宿主の力を増大させる。手がつけられないくらいにな。……手負いとは言え、そんな状態の奴を目撃出来るものか? その点が少し疑わしい」
『……目撃情報が多過ぎる、ということですか?』
「目に入ったとしても、速過ぎてきちんと視認することは難しいと思うんだが」
『疲れていて休んでいたところを目撃された、とは考えられないかな』
「考えられる。だが、それは何か違う気がするんだよな……。勘としか言いようがないんだが」
『零次が勘ですか。珍しいですね』
「明日はまた雪が降るかもな」
 話しながらも、零次は絶えず周囲に視線を走らせていた。
 その顔は人間の顔ではない。悪魔のものだ。
 悪魔の『頭部』を解放することで、零次は視覚や聴覚を飛躍的に高めることが出来る。昼夜問わず、遥か彼方まで見渡せる。
「……無現を誘い出そうとしてるとは考えられないか?」
『僕らの方が先に食いつきますよ』
「そしたら、来る奴を全部叩きのめせばいい。……残された時間があまりないんだ、それぐらいは考えそうな気がしないか」
『ああ、はい。……零次、ちょっとこっちの方でも検討してみます。今呼び出しがかかったので切りますね』
「分かった」
 通話を切り、聴覚を広域に広げる。
 町中の人々が漏らす不安の声が、あちこちから聞こえてきた。
 数が多過ぎて個別に聞き分けることは出来ないが、全体の中に漂う不安定な色は伝わってくる。
 かれこれ数時間、ずっとそうやって町を眺め続けていたせいか、少し眼が疲れてきた。
 ……今のところ大きな変化もないし、一旦家に戻るか。
 不眠不休で無理をしては、いざというとき満足に動けない。樵も無現も、万全の状態で臨まなければならない相手だ。
 捜索を一時やめようと、頭部を元に戻して、
 ――廃墟となった町並が目の前に広がった。
「な……っ!?」
 驚きのあまり目をこすって見るが、眼前の光景に変化はない。
 奇妙なことに、もう寄るだというのに周囲が真っ白になっていた。白と言っても明るいわけではない。町並を描いた紙が古ぼけたらこんな風になる。そんな白さだ。
「なんだ、これは」
 幻にしては、生々しい感じがする。かと言って、現実と言うにはあまりに異様。
 こんな光景を、零次は数日前にも見ていた。涼子と最後に会った、あの学校の食堂でのことだ。
 あのときはノイズ混じりの光景の中、顔の分からない男の姿があった。
 しかし、あれは白昼夢のようなもので、一瞬のことだった。今回のものは違う。
 探るように周囲を注視する。しかし、変化はない。
 ……なんなんだ、これは。
 屋上の端に駆け寄り、町並を見下ろす。
 どこにも人の姿がない。このビル以外の建物は、瓦礫の山と化していた。
「近いうちに」
 不意に、背後から声が聞こえてきた。
 振り返り、零次は硬直する。
 そこにいたのは、零次自身だったからだ。
 それも一人ではない。何人、何十人もの零次が、揃ってこちらを見ている。
「この町はこうなる」
「守ろうとしても」
「守りきれない」
「俺は倉凪のようには出来なかった」
「足掻いても足掻いても」
「皆死んでいく」
「何もかもを守ろうとするから」
「出来ないことをやろうとするな」
「たった一人でいい」
「お前が守れるのはそれだけだ」
「本当に守りたいのは誰だ」
「お前は何のために、誰のために足掻いている……?」
 無数の声を浴びせかけられて、零次は絶句した。
 ……なんなんだ、これは!?
 気づけば、立っていたのは屋上ではなく、小さな公園だった。
 周囲の町並は普段通りだ。廃墟ではない。
「ここは」
 忘れるはずがない。
 零次と涼子が、初めて出会った場所だ。
 公園では、見知らぬ子供たちが遊んでいる。その側では、知らない大人たちが談笑している。公園沿いの道を、知らない人たちが通り過ぎていく。
「命がけで町を守っても」
 いつの間にか、自分の前にいた無数の久坂零次たちは、たった一人になっていた。
 彼は感情の見えてこない表情で、淡々と告げる。
「本当に守りたかった相手が、いなくなってしまったらどうする」
「どういう意味だ」
 訳の分からない状況に、零次は苛々していた。
「足掻いても無駄だというなら、俺は聞く耳持たん。俺は決めたんだ。この町を、皆を守るために死力を尽くすと」
「本心ではない」
「本心だ!」
 力強く腕を振るう。
 そこで、全ては元に戻った。
 零次は相変わらず高層ビルの屋上にいたし、町は多少の不安を抱えつつも、いつもとさほど変わらない光景を保っている。
「……」
 零次は無言で、屋上を後にした。

 さっきの幻覚がなんだったのか分からないまま、零次は足を急がせていた。
 行き先は涼子の家だ。いるかどうかは分からないが、どうも気になって仕方がない。
 この件と彼女は無関係のはずだった。今も、何らかの繋がりがあるという確証はない。それでも何か、一抹の不安が残る。
 ……涼子、どこにいる?
 携帯にかけても相変わらず音信不通のまま。
 零次は飛び込むように、涼子の家のドアを開けた。
「……」
 そこに、涼子はいなかった。
 代わりに、樵がいた。
「――なんだ、てめぇか」
 ベランダの窓が開いている。樵はそこから入ってきたのだろう。
「鍵が開いてたから、邪魔してるぜ」
「なぜ貴様がここにいる!」
 零次はつかつかと歩み寄り、樵の胸倉を掴み上げた。
 その手を軽く払いのけて、樵は怪訝そうな顔を浮かべる。
「おいおい、いきなりご挨拶だな。まあ分からなくもねぇけどよ……。ここには妙な気配がしたから来てみたってだけだ」
 樵は、その悲愴な現状とは裏腹に落ち着いていた。肩透かしを食らうような形でだが、零次も少し動揺を収めた。
「それで、お前は? ここに俺を始末しに来たって感じでもなさそうだな」
「ここに来た理由は違うが、貴様を見た以上放置も出来んな」
 落ち着きつつも、戦闘態勢に入る。
 どのみち樵はいつか倒さなくてはならない相手だ。その事実に変わりはない。
「ふん、やる気満々ってとこか。悪ぃが、こっちはそんなやる気ねぇんだがな。てめぇの方も、今すぐ俺をどうこうしても意味ないんじゃねぇか?」
 樵を討てば、彼の土門荒野は弱体化する可能性が高い。その代わり、どこへ行くのか予測がつかない。
 この場にいる零次に寄生する可能性が高そうだが、そのまま無現の中にいるであろう己の片割れに合流することも考えられる。
 そうなれば、多少弱まったとしても、土門荒野の復活だ。この町がどんな惨状に見舞われるか分からない。
 言うなれば、零次にとって樵は解除コードの分からない爆弾のようなものだった。
「……それより、あいつはどうした」
「あいつ? 倉凪のことか」
「ああ。いや、兄貴の方じゃねぇ。そっちが死んだのは――まあ、聞いた」
 心なしか、樵は残念そうな表情だった。自分の手で決着をつけられなかったのが悔しいのか、それ以外の思いがあるのかは、零次には分からない。
「美緒なら、助かった」
「さよか。そいつぁ良かったぜ」
「後遺症は残るらしいがな」
 敵意と嫌味を込めて言うと、樵は緩みかけていた顔を神妙なものに変えた。
「……悪かったたぁ思ってる」
「意識はあったのか。あのとき」
「ああ。身体の自由は効かなかったが、意識は残るもんなんだよ」
 だから、あいつをぶん殴ったときのことも覚えてるんだよ――と樵は言った。
「……ほれ」
 岩だらけの手で、樵が何かを放ってよこす。
 手に取ってみる。それはクレジットカードだった。
「これは……」
 聞こうとして顔をあげると、既に樵はベランダまで下がっていた。
「そいつぁ慰謝料代わりだ。結構入ってるから好きに使ってくれや。暗証番号は……」
「貴様、逃げる気かっ!」
 慌てて飛びかかろうとするも、樵がベランダを閉じたせいで足踏みをしてしまう。
「じゃあなっ!」
 零次がベランダのに出たとき、既に樵の姿は消えていた。
 ベランダの手すりには、暗証番号と思わしき数字が砂で書かれている。
 逸る気持ちを抑えながら、零次は携帯を手にした。

 飛鳥井の人々がアジトにしているホテルの前で、遥は身を潜めていた。
「連中、なかなか出てこないな」
 傍らにいるフィストが頭を掻きながらぼやいた。ちなみに夕観は、近くの建物の中からホテル内の動向を監視している。屋上にしなかったのは、目立つと遥が止めたからだ。
 標的はたった一人。飛鳥井冷夏だった。
「しかし、飛鳥井冷夏を抑えるのは至難の業だと思うぞ。あの女の周りには大抵、数人の手練が控えてる。一人に見えて、どこかしらに護衛がついてると見ていい」
「そんなことは百も承知だ。だが、飛鳥井冷夏に共有を仕掛けておけば、有益な情報がいつでも手に入る。それがなくては、奴を探すのは難しい」
「……魔術師ってのは力技が通用しねぇぞ。そういう意味じゃ異法人よりやりにくい」
「分かってる。心配なら夕観のところに戻ってろ。あれこれ言われたら気が散る」
「ってことは、この件についても勝算があるってことか」
 一応手は考えている。だが、それがうまくいくかどうかは五分五分だった。状況次第で出方を変えるつもりでもある。だから、フィストや夕観には何も話ていない。
「先日ここの魔術師から記憶を貰った。飛鳥井冷夏との繋がりは薄い奴だったから、彼女自身のことはよく分からない。ただ、飛鳥井陣営の行動規則は分かった。それが変わっていなければ、あと二時間――」
 時計を見る。ちょうど零時を過ぎたところだ。
 十二月十日。
「あと二時間で、動く」

 同じ頃。
「……嫌な空気ね」
 町の外れにある小高い丘で、涼子は呟いた。
 町も、自分も、嫌な何かに包まれている。
 その表情は、凛々しくもあり、痛々しくもあった。
 眼光は鋭く、強い意思の光を感じさせる。その一方で、頬は細くなり、目の下には隈があった。そして、ほんのりと泣き腫らしたような跡もある。
『早く終わらせる必要がある』
 どこからか聞こえてきた声に、彼女は表情を険しくした。
「言われるまでもないわ。もう、後戻りは出来ない。けど」
『俺に任せるのが不服か。君としては――まあ、納得出来ないだろうな』
「……」
『だが、俺に任せておかねばならないこと、君なら理解出来よう』
「ええ。分かってる」
『ならば、任せてもらいたい』
 どこかでばさりと、音がした。
『俺は、君のために戦うと決めたのだから』
 その声に対し――涼子は答えなかった。