異法人の夜-Foreigners night-

-第二部-
第二十一話「憎悪」
 遥はこれまで、人を憎むことがなかった。
 好き嫌いはあっても、強い怒りを人にぶつけることはなかった。
 自分を道具として扱い、地獄のような日々を与え続けた機関の研究員に対しても、当時は諦観ばかりがあり、今となっては昔のこととしか考えられない。
 ニ年前の大敵ザッハークにしても、恐怖の対象であって、恨むべき相手ではなかった。
 憎しみ方が分からない。
 勝手が分からないことに臨むとき、大抵の場合、人は慎重になるか大胆になる。
 このときの遥は、明らかに後者であった。
 爆発寸前の激情を無理矢理憎悪という箱に押し詰めて、火薬庫の如きその感情をぶつける対象を求めるような――危うい状態だった。
 生まれて初めて、憎悪の対象が出来て。
 それを視界に入れた瞬間――彼女は起爆した。

「……糸?」
 広大な校庭を包み込まんとする、遠大な網目状の糸。
 それを眼にした零次の反応は鈍かった。
 冷夏たち飛鳥井の人間の魔術だと思ったのである。
 彼はまだ――遥が何を得て、何をしようとしているのか、まるで把握していなかった。ゆえに、反応が一瞬遅れる。
 最初に動いたのは無現だった。彼は頭上に広がる網目を認めると、すぐさま腰を落として剣を脇に構えた。
 更に冷夏が険しい顔で鉄扇を頭上に掲げたことで、零次はこの糸が、この場にいる人間にとって想定外のものであると気づく。
 ……あの糸には触れない方がいい。
 魔術に関する知識はあまりない零次だが、迂闊に切りに行くことの危なさは理解している。力押しではなく搦手で来るのが魔術の基本。
 そういうものは、相手にしないに限る。
 誰もが同じことを考えて、糸から逃れようと駆け出した瞬間。
 無現は一人、構えた剣で、広大な糸を一刀両断した。
 後先を考えていないような無謀な行為に、全員が一瞬身をすくませる。
 その直後、断ち切られた糸は霧へと変じ、あっという間もなく周囲を覆い尽くした。
 ……くそ、厄介な!
 霧状の魔術は扱いにくい反面、広範囲に効果をもたらすという意味では格別な魔術形態である。避けることが難しい。それは冷夏の魔術が実証済みである。
「息を止めなさい!」
 冷夏の言葉に応じて、零次も口を閉じた。毒性のあるものだったら、吸い込んだ時点でアウトだ。その気になれば十分程度息を止めることは出来るが、それは平常時でのことである。この状態では、そこまで持たない。
 ……いったい誰が?
 その疑問に応えるかのように――霧の中から、人影が現れた。
 零次は最初、それが誰か分からなかった。
 見慣れた姿のはずなのに、別人のように見えた。
 それは、あまりにその表情が彼女にそぐわないものだったからだろう。
 彼女がそんな顔をするなど、夢にも思ったことがなかったからだろう。
 怒り。
 怨み。
 憤り。
 いつも笑うか泣くか喜ぶかしていた彼女の面影は――どこにもなかった。
「……遥?」
 思わず口を開き、その名を呼んだ。
 だが、彼女は零次のことなど一顧だにせず、ゆらりと歩を進める。その視線はただ一人、無現に注がれていた。
「無現――」
 幽鬼のような顔つきで、じっとりと湿った声を搾り出す。
「お前が……無現か」
 無現は答えない。静かに剣を納め、黙ったまま遥に対峙している。
 風もないのに、ぶるりと背筋が震えた。
 霧が、徐々に人の形になっていく。やがてそれらは、無数の遥へと変じた。
「無現」
 幻覚の遥たちが、異口同音に告げる。
「――死ね」
 その声が、やけに強く耳に残った。

 無現は言葉を発さない。遥の問い掛けに応じれば、それだけで自分の正体は彼女に看破されてしまうだろう。正体を看破されることは、彼のような紛い物にとって死活問題である。比喩でも何でもなく、完全にその正体を晒されれば、無現という存在は消滅せざるを得ない。
 いずれ消滅するのは分かっている。自分があくまでそういうイレギュラー的な存在であることは充分に理解していた。
 だから彼は、遥に対して剣を構えた。
 死ねと言われて、少し心がぐらついたが、それしきのことで止まるほど、自分の存在を軽く見るつもりはない。
 そんな無現を見て、遥は腰をやや落としながら走り出した。
 余裕なく、油断なく、隙もなく、そしてなによりためらいがない。
 その表情、その動きにあるのはただひたすら、無現に対する憎悪のみ。
 おまけにそれが、四方八方にいるように見える。
 ……これでは処理しきれん!
 無現は大きく左腕を開き、そこから突風を発生させた。風が霧を運び、天へと昇っていく。それに合わせて幻覚の遥たちも消えていった。
 その、消えていく幻覚たちの合間に、無現は見た。
 ただ一人、走り出さず、こちらに手を突き出して立っている遥の姿を。
 ……あれが本物!
 気づくのと同時に、その本物の手から、凝縮された高密度の魔力が放たれた。
 手加減なしの砲撃。信じがたいことだが、その威力は先程の樵の一撃にも匹敵するものだった。
 ……防御は無理!
 刹那の判断で、無現は宙へと飛び出した。
 眼下を通り過ぎた砲撃は、そのまま朝月大学の建物に直撃し、ごっそりと壁を削って貫通した。
 しかも、それで終わりではなかった。
 宙に逃げたこちらに向かって、すかさず第二砲撃を構えたのだ。
 普通の魔術師ならありえない。あれほど威力のある一撃を放った直後は、魔力の練り直しだけで数秒はかかる。それ以前に、並の術者の場合あの一撃で魔力が空になっていてもおかしくないはずなのだ。
 なぜ、と考えるまもなく第二撃が放たれた。
 冗談のような話だが、第一撃よりも速度・威力共に上回っている。
 ……ちぃっ!
 内心臍を噛むような思いで、無現は咄嗟に黒の剣を抜刀した。
 漆黒の魔砲と剣とがぶつかり合う。無現は押し流す形で、どうにか砲撃を逸らした。
 ……この流れはまずい!
 魔力は活力。何かを成そうという人の意志の力とも言える。遥の並々ならぬ憎悪の力が、本来素人同然の魔術師でしかない彼女の力を飛躍的に高めているに違いない。
 また、零次たちは知らないが、無現は以前までと比べて弱体化していた。先日、目的を達成するためとは言え、真泉未了に自分の正体を明かしたからだ。正体を知られれば知られるほど、無現の力は弱まっていく。
 それに加えて、樵の一撃だった。
 傍から見ていると無現の圧勝のように見えた戦いも、実際は相当際どいものだったのである。一撃喰らえばそれで終わりというような、綱渡り同然の戦いだった。
 樵の放つ一発一発は、確実に無現の体力を削り取っていたのである。特に最後の一撃は重く、それを防ぐために無現は剣の力の大半を使ってしまっていた。
 ……このままいけば、遥に敗れる可能性が高い。
 それは、誰のためにもならない。
 ゆえに無現は遥から視線を逸らし――吹っ飛んでいった樵の元へと飛翔する。
 ……樵にトドメを刺し、土門荒野の始末をつける!
 例えどんなに怨まれようと、それを果たすのが自分の存在意義。
 そう信じて空を駆ける無現を、横合いから別の砲撃が襲った。

 ……夕観たちが動いたか。
 砲撃が直撃して落ちる無現を見ながら、遥は駆け出そうとした。
「遥!」
 無現を殺すなら、今が千載一遇の好機。にも関わらず、その声で足が止まったのは、なぜなのか。自分でもよく分からなかった。
「……零次か」
 振り返る。そこには、零次だけでなく、冷夏や天夜たちの姿もあった。
 零次は、何か傷つけられた少女のような顔をしている。
「遥、お前は……」
「榊原遥」
 何か言いかけた零次を遮り、冷夏が前に出てきた。
 彼女は横目で零次を制すると、こちらを切れ長の双眸で見据えてくる。
「今すぐ私たちに投降しなさい」
「……」
「あなたは今、自分で思っているより遥かに危険な状態にある」
「危険、ね」
 ふん、と鼻を鳴らす。
「別にそちらに危害を加えるつもりはない。私はただあれを殺すだけ。邪魔をするならこっちにも考えはあるが」
「……危険と言ったのは、それ以外の意味もあります。その力のことです」
 力。
 確かに、遥は異常な量の魔力を発している。使っても使ってもなお尽きない。それほどの魔力が、全身から溢れ出していた。
「今のあなたの力は、おそらく無現に対する憎悪が形となって現れたもの。それはときに平時とは比較にならないほどの力を発揮しますが……その分、命そのものを削ることにも繋がるのです」
「だから?」
「その力は納めようとしても、簡単に納められるものではありません。仮に無現を倒したところで、元に戻る保証はない――」
「要するに、このまま放っておくと死に至るとでも言いたいのか」
「私は実際に、そういう状態になって命を落とした人間を知っている」
 冷夏の言葉に、周囲が息を呑んだ。
 確かに、今遥が発している魔力は、出そうとして出しているわけではない。放っておいても次々と湧き出てくるものだ。
 遥の命そのものが、憎悪によって力へと形を変えている。
 だが、そんなリスクのことなど、遥にとっては些事だった。
「話はそれだけか。なら私はもう行く」
「……死は怖くないと?」
「怖いとか怖くないとかじゃない。どうでもいい。生きようが死のうが――」
 言いながら、遥は踵を返す。
「彼には、もう会えないんだ」
 その視線の先には――真泉未了と上泉景綱が立っていた。

 撃墜された無現は、己の現状をよく把握していた。
 ……今のは古賀里夕観か。
 単純な破壊力は遥の砲撃に劣るが、破壊を専門とする古賀里一門の出身だけあって、彼女の砲撃には付随効果がある。
 魔力破壊。
 物理的な破壊力を代償に、術者が身にまとう魔力を粉砕する性質を持つ。
 無現が撃墜されたのも、飛翔のための風を作っていた魔力を粉砕されたのが原因だ。もっとも、古賀里夕観は素人ではない。物理的な破壊力も、それなりに残している。
 厄介なのは、彼女が超遠距離型の術者だということだ。狙撃手なのである。近距離から中距離までの攻撃方法が中心の無限としては、やりにくい相手だった。
 ゆえに――これも無視する。
 視線の先には、崩れ落ちたままの樵がいる。まだ息はある。一刻も早く始末しなければならなかった。
 立ち上がり、駆け出す。悪夢のようなここ数日の出来事を、これで終わりにする。
「させねーよ」
 声とともに、脇から飛び込んできた人影。フィストだ。
「どんな理由があろうと、ダチは殺させねぇ!」
 高速で放たれる拳。フィストが放つ一撃にも、夕観の砲撃と似た効果があることを無現は知っている。
 触れるのは得策ではない。夕観にやられた直後だから、フィストを撃退するほどの魔力も練られない。かと言って、フィストに時間をかけては、あの状態の遥がやって来る。
 最短かつ最小の力で、フィストを退けなければならない。
 フィストが繰り出した拳をギリギリのところで避け、無現は思い切り校庭の地面を抉りながら蹴り上げた。
 フィストを土砂が襲う。
 視界を守るため、フィストは両手で顔を防御した。
 その下っ腹に、無現は拳を撃ち込んだ。

 未了と陰綱を目にして、遥の表情はより険しくなった。
「あなたはもう休みなさい、遥」
 未了の声を聞いただけで、心が波打つ。憎悪の情が揺れ動く。
 それは決して鎮静に向かう動き方ではなく、むしろ――。
「失せろ。殺すぞ」
 冷夏や零次たちに向けたものより、数段険のある声だった。
「今更出てきて母親面か? ふざけるなよ」
 遥の思いがけない言葉に、背後にいた零次たちが息を呑むのが分かった。
「私が邪魔なら力づくで止めればいい。少なくとも――私はそのつもりだ」
 溢れ出る魔力を、力一杯放出する。
 方向性もなく、目的もなく、ただの悪意でしかない魔力が辺り一帯を包み込んだ。
 あまりに毒のある悪意に、その場にいた全員が動きを止める。
 否。
 その中でただ一人、未了だけは動じることなく一歩を進めた。
「陰綱、無現の支援を」
「は、しかし」
「あなたではあの子相手に全力を出せないでしょう。それに、私たちの目的は土門荒野の復活阻止。あなたは私の護衛である前に、土門荒野に挑む同志です。それを忘れないように」
 陰綱は気遣わしげに未了と遥を交互に見た。やがて「御免」と言い残し、無現たちがいる方へと駆けて行く。
「冷夏さんも、お願いできますか」
「……承知しました。皆、行きますよ」
 陰綱の後を追うように、皆が走っていく。残ったのは、遥と未了。
 それに――。
「あなたは行かないのですか」
 未了が、遥の背後にいる誰かに語りかける。遥には、それが誰であるか、すぐに分かった。
「……土門荒野の復活は阻止すべきだが、それは飛鳥井冷夏たちに任せてもいい。しかしこれは家族の問題だ。家族は放っておけない」
 零次の声。困惑の色を帯びながらも、力強い響きのある声だった。
 それが、却って疎ましい。
「家族は放っておけない? どの口がそれを言うんだ、零次」
 久坂君と、どこか一歩遠慮した呼び方をしていた。だが、今はその必要も感じない。
「その家族を――彼を見殺しにしたのはどこの誰だ」
「……」
「私は彼を追いかけた。追いつけないかもしれないと思いながらも、ずっと走って追いかけたんだ。彼を助けるために」
 だが、零次は違う。
「お前は、彼に追いつけた。なのにそれをしなかった。土壇場でお前は、彼を助けるのを諦めたんだろうが!」
 どんな理由があろうと――零次は彼を見捨てたのだ。
「同じように私のことなんか放っておけばいい。目障りだ!」
 零次は何も言い返さない。初めて受ける遥からの痛罵に、黙って耐えている。
 耐えて、この場に踏みとどまろうとしている。
「あなたが私や彼をどう思おうと自由です」
 前にいる未了の全身から、淡い魔力が湧き上がる。
「私は十九年前、あなたを捨てた。今更どうこう言うつもりはありません。許してもらえないことも重々承知しています。ですが、この件に関してはあなたを止める。無現の邪魔をさせるわけにはいきません」
 それに、と未了は静かに魔力を展開させていく。
「無現を殺せば、あなたは絶対に後悔する。そんなものを、あなたに背負わせるわけにはいかない」
「知ったような口を叩くな!」
 怒りが自然と行動に繋がった。
 遥は咆哮と同時に駆け出し、右手を未了に向かって突き出す。その掌から、先程無現に放ったのと同等の魔砲が放たれた。あまりの威力と衝撃に、突風が巻き起こる。
 至近距離から放たれた砲撃は、狙い通り未了の右肩に直撃した。遥はその隙に脇を走り抜けようとしたが、行く手に零次が回り込もうとしている。
「止まれ、遥!」
「邪魔をするなッ!」
 指先から魔力の糸を放ち、零次の足元に絡めようとする。だがそれよりも速く、零次はこちらに踏み込んで、肩を抑えてきた。
「止まれ! いいから話を聞いてくれ!」
「お前の話なんかどうでもいい!」
 掴まれた両肩から、こちらの憎悪をダイレクトに零次の精神へと流し込んだ。そのせいで一瞬零次の動きが硬直する。
「離せ!」
 零次の腕を振りほどき、再び駆け出そうとする遥。しかし、そんな彼女の視界に飛び込んできたのは、荒れ果てた荒野の風景だった。
 ……なんだ、ここは!?
 一瞬にして目に見える風景がごっそり入れ替わる。未知の経験に、遥の足は止まった。
「泉家の秘技の一つです。私の心情風景を具現化した結界を創り出しました」
 右肩が抉れた状態のまま、未了が言った。痛みに顔をしかめてはいるが、その表情にはまだ余裕が見える。
「心を形にする。それだけのもので、複雑な特殊効果なんかはありませんが……結界としては強力です。私を殺さない限り、外にはもう出れませんよ」
「だったら殺すぞ、クソババア」
 両手の指十本全てに魔力を凝縮させて、未了に向ける。先程までの魔砲を十発同時に放つ。これで寿命が何年縮もうが、知ったことではない。
「やめろ、遥!」
「うるさい」
 再びこちらを抑えにかかろうとした零次にも、片手を向ける。
「馬鹿の一つ覚えみたいにやめろやめろとうるさいんだよ」
「だったら止めるなって言うのか! お前、そんなことするような奴じゃなかっただろうが!」
「お前に私の何が分かる」
 じろりと睨みつける。零次は心底辛そうな顔をしていた。だが、同情する気はない。
「私が辛いとき、いつも側にいてくれたのは彼だった。困ったとき、いつも声をかけてくれたのも彼だった。私をあの地獄から助けてくれたのも彼だった。私が私でいられるのは、全部彼のおかげだったんだ。それを殺した奴がいるんだぞ! ふざけるなよ、零次、お前は何で平気なんだ! なんで邪魔をする! なんであんな奴を庇ってるんだ!」
 押えきれない激情が次々と口から飛び出す。今まで口にしたことがないような罵詈雑言が、嘘みたいにすらすらと出てきた。
 そんな遥に、零次も、未了も何も言い返さない。それが余計に苛立ちを加速させる。
 ……ここで話してても時間の無駄だ。
 こうしている間に、外で無現たちがどうなっているのか。もしこのまま無現に逃げられでもしたら、死んでも死にきれない。
「……五秒数える。結界を解いて、私の前から消えろ。でなければ、撃つ」
 言いながらも、指先に魔力をどんどん流し込む。この状態で撃てばどれほどの威力になるのか、遥自身も想像がつかなくなっていた。
「五」
 零次は動かない。
「四」
 未了も動じた様子はなかった。
「三」
 自分の歯ぎしりが、いやによく聞こえる。
「ニ」
 ずきりと胸に痛みが走った。それを振り払うかのように、遥は声を張り上げる。
「一!」
 そして。
「――零」
 未了の創り出した結界が、音を立てて砕け散った。