異法人の夜-Foreigners night-

-第二部-
第二十ニ話「無現」
 全身を襲った死の予感に、零次の身体は一瞬硬直した。
 死を忘れた者以外、どんな達人でも避けられないその隙に、
「零」
 遥は、未了目掛けて五指の魔砲を一斉に放った。
 零次が硬直から逃れたとき、五つ全ての砲撃が未了の身体を貫く――否、文字通り打ち砕いた。
 同時に、未了が生み出した結界が粉々になる。
 それを確認するやいなや、遥は零次に向けていた左の五指の魔力を、すべて己の拳に凝縮させた。
「遥、お前……!」
 言いかけた零次には目もくれず、
「――!」
 遥は、凝縮させた魔力を地に向けて放った。
 凄まじい爆音、波のように押し寄せる粉塵。その中で、零次は見た。
 叩きつけた魔力の反動を利用し、自ら砲弾となって飛翔する遥の姿を。
 行先は、無現たちがいる方向。
 ……まずい!
 両腕で視界を守りながら、零次はその後を追う。
 追いつけないと、半ば悟りながら。

 フィストが、無現の一撃を受けて吹き飛んで行く。瞬時に腹部を強化して致命傷は免れたようだが、踏ん張りは足りなかったようだ。
 彼の吹き飛んで行く方向に陰綱たちの姿を認めて、無現は踵を返した。視線の先にいるのは草薙樵。
 距離にして十メートルもない。意識はなく、身体も原型を保っていない。既に人間・草薙樵は死んでいると言っていい。
 だが、その内側にいる土門荒野は死んでいない。
 殺さねばならない。これで終わりにするために。
 無現の行動原理は、梢とも樵とも異なる。
 町を守るという使命感で動いたわけではない。そんな使命感は彼にはない。
 己を貫き通すために動いたわけではない。そもそも、無現に『自己』はない。
 飛鳥井冷夏のような執念があるわけでもなく、泉家の二人のように土門荒野との因縁があるわけでもない。
 強いて言えば、古賀里の二人に近い。
 誰かのため。
 ある、たった一人を守るためだけに――無現という存在はいる。
 だから、倉凪梢を殺すことも、草薙樵を殺すことも、無現は躊躇わない。
 踵を返すのと同時に、無現は抜剣し、己の持てる最高の速度で樵に飛びかかる。
 それで、すべてが終わる――はずだった。
 背中に、名状し難い何かを感じなければ。
 ……これは!?
 剣を地面に突き刺し、急停止する。
 そうして無現が見上げたのは、真っ直ぐこちらに飛んでくる遥の姿。
 その右腕には、見る者を震撼させる量の魔力。
 ……速い!
 地に突き刺した剣を抜いている暇もない。
 瞬時に無現は、己の両腕に全魔力を集中させた。
 ……受けるッ!
 遥の拳と無現の両腕が、激突した。

 辺り一帯が閃光に包まれる。
 遥が己の命を削ってまで繰り出した拳。
 それは無現に届いた。
 だが――貫くには至らなかった。
 遥の身体は、無現に激突することで止まった。
 無現は両腕で遥の拳を防いだまま、そこにいる。
 遥の足が地につくまでの一瞬。
 僅かな静寂が流れた。
 とん、と地に足がつく。
「接続」
 刹那、遥は拳を通して自分と無現の精神を接続させ、
「――喰らえ」
 自分の持てるありったけの怒りを、無現の精神に叩き込んだ。

 その攻防は、十秒にも満たない時間の中でのこと。
 零次が翼を生やし遥を追って、その姿を見つけたとき、既に事は終わっていた。
 陰綱たちに取り押さえられるフィスト。
 樵に向かって駆け出す冷夏や天夜。
 樵の前でうずくまる無現と、遥。
 ……相打ちか!?
 零次の脳裏に浮かんだのは、先程の冷夏の言葉。
 遥は命を削りながら、無現への復讐を成そうとしている。
 それは今、成ったのか。仮に成ったとしたら――遥はどうなる。
「遥!」
 呼びかけながら、彼女の元に向かう。
 零次の声が聞こえたのか、遥は僅かにこちらへ向けた。
 その表情は――。

 遥の能力は共有である。一方的にこちらの記憶や悪意を叩きつけたとしても、その直後には反動が生じる。今回のように全力で自分の憎悪を叩きつけた場合、当然ながら、反動もまた大きくなる。
 ゆえに、遥は見た。
 無現の記憶を。
 無現の正体を。
 無現の目的を。
 それは――あるはずのないモノであり、信じたくないモノでもあった。
「……嘘だ」
 がくんと、膝から力が抜ける。
「嘘だ」
 全身から力が抜けていく。
「嘘だ……!」
 いくら口にしても、その響きは虚しかった。
 遥の能力に間違いはない。直接脳に情報が来るから、見間違いや聞き間違いはありえない。
 復讐の一念だけで持っていた心が、足元から崩れていく。
 眼前には、片膝をつきながらも起き上がろうとしている無現がいる。遥のありったけの悪意を受け止めて、なお無現は立とうとしている。その全身に巻き付けられている包帯が、徐々に薄くなりつつあった。
「……まだだ」
 馴染みのある声が、無現の口から零れ落ちる。その目は、遥ではなく樵を見ていた。
「俺は、彼女のために」
 ふらふらになりながらも、黒の剣を杖代わりに立ち上がる。
「俺は――成さねば」
 剣を引き抜き、身体を引きずるように足を進める。
「終わらさねば……」
 遥には分かっている。
 無現は今、致命傷を負った。
 遥に己の正体を見破られたこと。それが、他のいかなる攻撃よりも彼に有効な――致命打だった。
 無現はじきに消える。
 遥の復讐は、成った。
 だが、こんな結末は――。
 遥の胸中を他所に、無現は樵の前に立ち、黒の剣を振り上げた。
「樵……!」
 フィストが何か叫ぶ以外、誰もが黙っていた。
「……これで、終わりだ」
 無現の呟きに、剣が呼応したのか、輝き出す。
 遥はどう動けばいいか、何を考えればいいのかも分からず、赤子のような表情でただ無現の剣を見つめた。
 空気の流れが止まる。
 剣が、振り下ろされた。

 振り下ろされた剣は、樵の身体に届かなかった。
 ゆらりと無造作に動いた樵の腕が、無現の剣を掴んだのである。
 ……?
 動かなくなった遥の背中を支えながら、零次は樵の様子がおかしいことに気づいた。
 樵の腕だけが別個の生物であるかのように動いたのである。とうに錆びついた機械が誤作動を起こしたかのような、不自然な動きだった。
「……私は」
 声が聞こえた。
「私ハ」
 ぴくぴくと、痙攣するように樵の口が動く。
「私は俺は私ハ私私私私私私私私私私私私私私俺私私」
 痙攣が広がるように、壊れた操り人形のような不自然さで、樵は少しずつ起き上がる。
「何かまずい……無現、逃げろ!」
 零次の叫びと同時に、樵の全身から血のような色の魔力が溢れ出す。
 樵のものとはまったく異質のもの。
 土門荒野。
「アアアアアアアアアアアァァァァォォォォォゥゥゥッ!」
 咆哮と共に血色の魔力が放たれる。触れただけで全身がピリピリと震えた。
 ……なんて暴力的な魔力だ!
 間近にいた零次は、もろにその波を受けた。動かない遥を庇うようにして翼を広げる。翼越しに、土門荒野の力の強大さがひしひしと伝わってくる。
 その翼に、何かが触れた。
 無現の包帯。
 振り返る。そこには、土門荒野の眼前で剣を突き立て、必死に踏ん張っている無現の姿があった。
「何をしている、無現! 早く――」
 逃げろ、という言葉は、最後まで出てこなかった。
 土門荒野の力に押されながら、少しずつ解けていく包帯。その中から垣間見えた小柄な後姿。
 髪が真っ白でも、両腕が真っ黒になっていても、見間違えるはずのない後姿だった。
 それは――。
「に、逃げろ……涼子!」
 ――冬塚涼子のものだった。

 始まりは、十二月二日。
 当初の予定よりも早くに大学の用事が終わり、梢の誕生会に出られそうになったので、早歩きで家に向かっていたとき。
 夕闇の小路で、涼子はその少女と出会った。
「こんにちは」
 真正面から挨拶されて、涼子は足を止めた。見覚えのない子どもだが、どうやら自分に声をかけてきたらしい。少し不思議に思いながら、少女の目線に合うよう腰を落とす。
「こんにちは。どうしたの?」
「あなたに会いに来たの。あなたには、早めに会っておかないといけないと思って」
「私に……? えっと、人間違いじゃないかな」
「ううん。私は冬塚涼子に会いに来たの」
 言われて、涼子はますます首をかしげた。自分の名前が出た以上、人違いではない。しかしどれだけ記憶を探っても少女の姿は出てこない。それに、会いに来たというなら、なぜこんな道端で待っていたのだろう。
「うーん、ごめんね。私、どこかであなたに会ったかな」
「いいえ、会うのは初めて。私はあなたを知ってるけど、あなたは私のことを知らない。だから涼子の反応はとても普通」
「そ、そうなんだ」
 どこか浮いた子だなぁ、と思いつつ、涼子は笑みを浮かべた。
「それで、あなたは?」
「郁奈」
「郁奈ちゃんか。……」
 ふと、その名前に聞き覚えがあるような気がした。あれは、確か零次に――。
「まあ、私のことはどうでもいいの。問題は、涼子の方」
「わ、私? 私がどうかしたの?」
「……あなたはそろそろ危機を自覚するようになる」
「危機?」
「そう。あなたの命を脅かす危機。この町全体を巻き込む、未曾有の危機。あなたは最初にそれに気づき、孤独な戦いを強いられることになる」
 子供特有のごっこ遊び――咄嗟に涼子はそう思った。そして、そう思われることを郁奈自身も承知していたのだろう。涼子が口を挟む前に、すかさず言葉を続けた。
「災害の異法、土門荒野」
「え……?」
「倉凪司郎が封じた恐ろしい獣が、じきに目覚める。その獣を巡って、魔術師や異法人たちの戦いが始まる。やがて獣は目覚め、この町は少なくない打撃を負うことになる」
「……」
 倉凪司郎や異法人という単語を聞いて、涼子はようやく、目の前の少女が『不思議ちゃん』ではないことに気づいた。
 ……この子は、本物だ。
 どういう伝手を経たのかは知らないが、何かしらの危険を察知して、警告しに来たのに違いない。
「……それを、なんで私に?」
「事態が既に始まりつつあることを知らないのは、榊原家の人たちくらい。あの人たちに私の言葉は、ちょっと毒が強すぎる」
 そこまで言うと、郁奈は踵を返す。
「あなたには、たった一人のパートナーが用意されている。彼はとても強く、そして多くの問題を抱えている。あなたを守ろうという意志は何にも負けないかもしれないけど、それだけにあなたとは気が合わないかもしれないわ」
「……」
「今日はもう帰った方がいいわ。今榊原家に行けば、この後の数日が辛くなるに違いないもの」
 郁奈の姿が消えてから、涼子はしばらくその場に立ち尽くしていた。
 どうすればいいのか迷いに迷って帰宅したのは、既に日も変わろうかという時間。
 そしてその夜、涼子は初めてそいつと出会った。

 無現。
 いろいろ考え込んだ果てに眠り込んだ先で、そいつは現れた。
 全身を包帯に包んだ黒の男。そいつは、涼子のよく知る声で語りかけてきた。
「はじめまして、我が主」
 夢の中だからか、こちらの言葉は言葉にならなかった。それでも相手には、こちらの言いたいことが伝わるらしい。
「ああ、私はあいつではない。ベースはあいつだが、別物と考えてもらって結構だ。君を守るためだけに生み出されたあいつの模倣品だよ」
 もっともこちらの方が性能は上だ、などとよく分からない意地を張る。
「言ってしまえば私は現象だ。君の力が引き起こした――君の父親の遺産が引き起こした現象。君の運命が死に向かい始めたとき、その流れを変えるために召喚された紛い物。それが私――現れるはずの無い模倣品なのだよ」
 そんなものを呼び出した覚えはないし、自覚もない。自分は普通の人間で、そんな力など持っていない。その反発を、無現は一蹴した。
「八島優香は他者の『過去』を夢で見た。遥は他者と己の『今』を共有出来る。そんな姉たちを持ちながら、君自身に何もない方が不自然――そうは思わなかったのか」
 無現がそこまで語ると、彼の記憶が涼子の中に流れ込んできた。
 土門荒野を巡る事件の顛末。
 榊原家の分裂。
 倉凪梢の死。
 遥の変貌。
 零次の絶望。
 草薙樵の終わり。
 土門荒野の復活。
 そして、自分の死。
「君は未来を召喚する力を持っている。今見せた私の記憶が、何よりの証拠。いつか訪れる君の死を予測し、その流れを打破出来る可能性を探し当てる。それが君の力。予測された未来を変えるための可能性。それが私だ」

 未来は未定であり、不安定である。
 未来を変えるために未来からやって来た無現は、存在そのものが矛盾に満ちている。
 ゆえに、その強大な力に比して、抱える制約もまた強大なものだった。
 未来の存在であることを知られてはならない。
 無現が『誰』であるかを知られてはならない。
 矛盾を無くしてはならない。
 このルールを守れなかったとき、無現は消滅する。それはそのまま涼子の死に繋がるとも言える。
 無現のような存在を呼ばなければ涼子が死ぬ。そういう状況でなければ、無現は現れないのだから。
 また、未来を変えることで涼子に対する危機感が薄らいだ場合も、無現の力は弱っていく。無現の――涼子の力の本質が、彼女の危機を回避することにあるためだ。
 その制約ゆえに、涼子は自分のことを誰にも話せなかった。
 話すことで事態が好転するなら、と何度か考えたが、とてもそんな風にはならなさそうだった。
 涼子が何か調べようとすると、それが無現に影響をもたらし、彼が持つ記憶――涼子の『これから』が脳に流れ込んできた。
 遠回りの予知能力だ。
 便利な反面、残酷極まりない能力でもあった。
 四日から五日にかけて、涼子は土門荒野について調査を行おうとした。梢を救う方法を探そうとした。
 その都度、無駄だという結末が最初に提示される。それでも諦めず粘り続けた。
 不眠不休で模索し続けた。それでも、解決方法は出てこなかった。
 絶望が約束された未来しか見えない予知能力は、地獄そのものだった。
 六日。救いを求めるように、皆に会いに行った。
 皆は、いつも通りだった。
 彼らが事件に巻き込まれつつあることを、涼子は知っている。
 本当は藁にでもすがりたいのに、こちらに余計な心配をかけさせまいとしていることも分かっていた。
 その心遣いが痛く、冷たく、優しいものだと――涼子は理解していた。
 だから、涼子はこのとき割り切った。
 一を捨てて多を取る方が正しいとは思わない。
 けれど、今はその方法を選ぼう、と。
 倉凪梢を殺してでも、零次や遥を守ろうと。
 無現という力を使って、救える人を一人でも多く救おうと。
 そう、割り切った。
 そのはずだった。

 けれど、実際はどうだろう。
 遥をいたずらに傷つけ、自分もこうして窮地に追い込まれている。土門荒野も復活しそうな勢いだ。
 無現の意志も、既に消えかけている。
『……逃げろ』
「逃げろ、涼子!」
 涼子は苦笑した。
 ……ここまで来て逃げられるわけないじゃない。
 この調子では、土門荒野の復活はもはや避けられそうにない。それは、誰のせいでもない。ただ皆の思いのすれ違いが続いて、こんな結末になってしまったのだろう。
 ……それでも、責任は取らないとね。
 無現として、この事件を引っ掻き回した責任は果たさねばならない。
 幸い、無現の力はまだ微かに残っている。出来ることは、まだあるのだ。
 目の前にいる土門荒野の力は圧倒的だ。無限の力が万全だったとしても、真正面からぶつかるには危険過ぎる相手である。
 それを相手に、無現の力の残り滓で勝負を挑む。
 無茶で、無謀で、無策。
 ……けど、やらなきゃ。
 涼子は僅かに顔を零次と遥の方に向けた。
 いろいろ話したいことはある。謝らなきゃいけないこともある。
 けれど、もう時間はない。
「零次、姉さん」
 だから。
 他の誰にも説明のしようがないことだけ、言っておこう。
「ごめん」
「……何を、何を言っている! 訳が分からない、早くそこから逃げろ!」
 土門荒野がゆらりと起き上がる気配がした。どうやら目の前に自分の半身が在ることに気づいたらしい。あちこちに放たれていた魔力が、徐々に涼子の元へ集中し始めている。
「二人に嫌われるようなこと沢山しちゃった。結局、先輩も美緒も、誰のことも助けられなかった」
「涼子、早く……」
『逃げてくれ……!』
 聞こえてくる声に、涼子は穏やかな笑みを返した。
「でも、私は好きだから」
 剣を力一杯握り締める。
「零次のことも姉さんのことも大好きだから。……ここは引かない」
『――!』
 無現の声が遠くなる。
 だが、その力はまだ残っている。
 やれることは、まだ残っている。
 樵に対し、正面から向き合う。
 最後の最後の悪あがき。
 涼子は、樵に突撃した。