異法人の夜-Foreigners night-

-第二部-
エピローグ「続いていく」
 十二月十八日――土門荒野の事件が終結してから一週間経ったその日、遥は一人、飛鳥井の本拠地だったホテルにやって来ていた。
 エレベータから降りると、すぐに遥を呼び出した本人が姿を見せた。
「お待ちしておりました、遥様」
「陰綱、もう大丈夫なのか」
「はい。さほど傷は負いませんでしたので」
 決戦のとき、陰綱は土門荒野に真正面から挑んだ。討ち果たすところまではいかなかったが、土門荒野の動きを封じ込め、勝利に大きく貢献した。彼がいなければ、遥や零次の全力の一撃も当たらなかったに違いない。
 なお、そのとき陰綱は土門荒野もろとも遥と零次の一撃を喰らっている。しかし特殊な身体強化を施していたからか、さほど重い傷にはならなかったのだそうだ。
「あんな一撃受けて平然としてるなんて、ちょっと信じがたいな……」
「平然とはしておりません。肉体的損傷はありませんでしたが、未だに魔力の方が本調子に戻りません。細部の感覚も微妙な状態です」
「分かった分かった。一撃喰らわせた私があれこれ言う筋でもないしな。……それで、今日呼び出した用件は?」
 事件が終わってから、遥と零次は精魂尽き果てて、ずっと寝たきりの状態だった。今日もどうにか起きては来れたが、まだどこか熱っぽい。
「……とりあえず、こちらへ」
 陰綱に招かれて、大部屋のソファに腰を下ろす。周囲で人の動く気配がした。
「表向きの復興作業とは別に、我々の方でも事後処理がいろいろありまして。少し騒がしく感じるかもしれませんが……」
「ああ、それは別にいいんだ。それで、話したいことがあるって言ってたけど」
「ええ。遥様のことで」
「私の?」
「はい。今、あなたは小康状態にあります。しかし放っておいていいものでもない」
「……魔力が暴走したときのことか」
 白い髪の毛を摘む。事件が終わってから知り合いが何人か家まで尋ねてきたが、遥の変わり様に驚かぬ者はいなかった。
「あれは文字通り魂そのものを削る行為。体力や魔力と違って、削られた魂は――元に戻りません」
 それは、ある程度覚悟していた。
 どうなっても構わない。ただ怨みを晴らしたい。その一心だった。死んでもいいと思っていた。
 今は違う。生きていきたいと――前向きに考えられるようになってきている。それだけに陰綱の宣告は、遥の心に重くのしかかった。
「そして、今も遥様の魂は少しずつ失われています。放っておけば、命が縮まる一方となるでしょう」
「……自業自得だっていうのは分かってる。けど、抑える方法はないのかな」
 陰綱はふっと表情を柔らかくした。
 そして、スーツの内ポケットから名刺を取り出した。
「その名刺に書いてある場所に行ってみてください。信頼できる人間です。未了様の名前を出せば、悪いようにはしないでしょう」
「……ありがとう」
「いえ。某としても、遥様には生きて幸せになっていただきたいと思っておりますので」
 陰綱は本当にほっとしたのだろう。肩の力を抜いて、優しげな表情を浮かべる。
「……そういえば、あの人は?」
「未了様ですか」
「あ、ああ。うん」
 まだ、未了を母と呼ぶことはできなかった。自分のやったことを考えると、怖くて向き合うことができない。それに、今までほとんど顔を合わせずに生きてきた親子だ。実感が湧かないというのもある。
「未了様は今も各組織の者たちと協議中です。元々秋風市は飛鳥井の管轄として扱われておりましたが、今回の不始末を理由に、他の組織が乗り出してきておりまして」
「管轄なんてあるのか」
「ええ。表立って争うことはありませんが、どの組織も隙を見ては己の勢力を拡大しようと動いておりますよ。今回、土門荒野問題で飛鳥井の元に応援がほとんど駆けつけなかったのも、その辺りの思惑が絡んでいたからでしょう」
「……そうか」
 遥は、着ていた着物の裾に触れた。
 飛鳥井冷夏。ほとんど話すこともなかったが、彼女はどんな気持ちでこの問題に臨んでいたのか、少し気になった。
「未了様に会っていかれますか」
「いや……ごめん。正直、まだ面と向かって話せそうにない」
「……そうですか。無理強いはできませんね」
 陰綱は残念そうに眉尻を下げた。
「ああ、あとついでに聞いておきたいことがあるんだ」
 事件が終わってしばらくしてから、気づいたことがある。ここ数日、そのことが気になっていた。
「何でしょう」
「私の父さん――式泉運命は、なんで私たちにしたように異法人としての力を封じなかったんだろう。土門荒野ごと封じていれば、すべて解決したんじゃないのかな」
 遥にとって実父は遠い存在だった。何を考えていたのかなんて想像もつかない。
 ただ、陰綱は元々運命に従っていたらしいから、何か知っているのかもしれなかった。
 陰綱は目を閉じて、どこか懐かしむように言う。
「某も、同じように考えて、運命様に進言したことがあります」
「あ……そうなんだ」
「はい。しかし運命様によれば、土門荒野は意志を持ってるから、封印したところで元に戻ってしまうだろうと――そのように仰られておりました」
「意志を持つ、か」
 確かに、土門荒野の説明を聞いたとき、そんなことを言われたような記憶がある。
 実際に戦ったときの印象では、ただ暴れ狂うだけの存在でしかなかった。しかし考えてみれば、ただの『能力』という概念であれば、梢や樵をあんな風に突き動かして復活しようなどとはしなかっただろう。
「結局、土門荒野って何なんだろうな」
「それは某にも分かりません。ただ、獣ですら荒れ狂うのには理由がある。土門荒野があれだけの害悪を撒き散らすのにも――もしかしたら何か理由があるのかもしれません」
「理由か」
 それが分からなければ、根本的な解決にはならないのかもしれない。
 何か、やりきれない感じがした。
「……そういえば遥様、某からも確認しておきたいことがあるのですが」
「ん?」
「魔力の暴走以外で、何か身体の調子がおかしいということはありませんか」
「……いや、今のところはないけど。なんで?」
「あなたに施された封印のことです」
 遥たちを異法人から普通の人間へ――。そのために式泉運命が施した封印。
「運命様の友人三名が施した封印は絶対のものではありません。場合によっては解けることもありえるのです。そうなっては――いささかまずいので」
「まずい?」
「運命様がお嬢様方を異法人から普通の人間にしようとしたのは、土門荒野の問題もありますが、それ以上にお嬢様方の力が、そのままでは強力過ぎたからです。能力を持つ者を破滅させかねないほどに」
 それは、今回の騒動での涼子のことを考えると、なんとなく分かる。
 未来を予測する――というよりも、仮想的に未来を構築し、それを参照する力。それは魔術と呼ぶには法外過ぎる力だったし、零次や亨の異法と比べても規格外だった。
 遥の力とて似たようなものだ。一歩間違えば自我が崩壊する。危険極まりない能力なのである。
「……封印って、どういうものだったんだ?」
「某もあまり把握しておりませんが、運命様曰く、お嬢様方は固有の力を最低限使えるだけの状態にしておいた、とのことです。封印がやや弱まると能力が強力なものになっていき、更に封印が解けると異法人としての身体能力などが発現する。そして更に封印が解けると――能力の制御そのものが難しくなると」
「……第二段階かな。今のところ」
 昔は他人の心を読み取る程度のことしかできなかった。今では不可視の要素を共有することができるようになっている。
「封印については魔法使いたちに聞かねば詳細は分からないので、何とも言い難いのですが……あまり、力は使われない方がいいでしょう」
「ん。分かった。気をつけるよ」
 言って、遥は時計を見た。もうすぐ正午になる。
「そろそろ私は帰るよ。家で昼を作らないと」
「そうですか。榊原家の皆様方にも、宜しくお伝えください」
「ああ、分かった。ありがとう陰綱」
 立ち上がり、何歩か進む。そこで少し、足を止めた。
「……あの人にも宜しく言っておいてくれ。いつか、機会があれば……腹を割って話がしたいって」
 陰綱は、口元に穏やかな笑みを浮かべた。
「――承りました」
 冬の昼下がり。
 気温は冷たいが、陽射しは温かい。
 積もった雪が、少しだけ溶けていた。

 秋風市は、連続地震騒動によって打撃を受けた。
 騒動が収まってから一週間。都市の復興が始まり、少しずつ人々の生活は落ち着きつつあった。
 政府からの支援は元より、世界に名を知られる笹川グループから援助金が提供されたことが、復興を順調にした。
 とは言え、冬の寒さも相まって、まだ困っている人たちは多い。有志によるボランティアグループは、休む間もなく活動していた。
 特に、体力のある若者たちは忙しかった。
「はあ。やっと休める……」
 亨は肩をボキボキ鳴らしながら公園のベンチに腰掛けた。
 彼は、土門荒野との決戦におけるダメージが少なかったので、町の復興に手を貸していた。ある意味、これまで生きてきた中で、異法人の身体能力が一番役に立っているような気がする。
 こうして一生懸命動き続けて、誰かに感謝されて、そういうのも悪く無いと思えるようになって。
 ――それでも、このままじゃ駄目だよな。
 この先、自分は何をすべきなのか。亨はこの数日間、そのことを考え続けていた。
「おや、誰かと思えば」
「……ん?」
 どこかで聞いたような声がして、亨は面を上げた。
 そこに立っていたのは、古賀里夕観だった。
「珍しい顔ですね。……また会うことになるとは思いませんでしたよ」
「はは、そうでしょうね。私もちょっと野暮用があって来ただし」
 そう言って、夕観は手から下げていた袋から壺を少しだけ出した。
「樵とフィスト」
「……ああ、なるほど。故郷の方に?」
「ああ。この町も悪くはないけど、私らの場所じゃないしね。こいつらも、馴染みのある場所で眠る方がいいでしょ」
 そう言って、夕観は少しだけ寂しそうな表情を浮かべた。
「夕観さんは、これからどうするんですか?」
「ん? 私か。そうねぇ……特に決めてないわ。少し前は古賀里復興とかも考えてたけどね……今はやる気ないかな」
 壺をしまいながら、夕観は空を見上げた。
「特赦もらったとは言え、国内じゃいろいろやりにくくなったし、どこか海外にでも行こうかって考えてるぐらい」
「そうですか」
 それきり会話は途絶えた。
 もともと事件の最中、敵味方として出会った二人だ。会話が弾まないのも無理はない。亨はそう思っていた。
「何か悩んでるみたいね」
「……え?」
「よかったら相談に乗るけど。これも何かの縁ってことで」
 そう言って、夕観は袋を置いて、近場の自販機に行ってしまう。
「相談って。……というか、こんなもの置いてかないでほしいな……」
 言っているうちに夕観は熱々の缶コーヒーを持って戻って来た。
「ほれ、若者。お姉さんの奢りよ、遠慮せずに飲みな」
「はあ。いただきます」
 熱いのは苦手なので、ちびちび飲む。
 夕観は一気に飲んでいた。あいつの淹れてくれる味には程遠いわね、などと言っているが、何のことだろう。
 それから亨は、夕観に促される形で、ぽつぽつと悩みを話すはめになった。自分でも何に悩んでいるかよく分かっていないので、随分曖昧な言い回しになってしまった。
「よく分からないわねぇ」
 案の定、夕観には一刀両断された。まったく容赦がない。
「まあ、僕自身、よく分かってませんから」
「ふうん」
 夕観は缶コーヒーをゴミ箱に向かって放り投げる。スコンと小気味いい音を立てて、缶は中に入っていった。
「何に悩んでるか分からないときは、とにかく動いてみることよ」
「動いてみる……ですか」
「そう。一つのことだけやってても意味ないから、できるだけいろんな人間を見て、いろんなことをして、いろんな場所に行ってみる。そうしてるうちに、自分が何に悩んでるのかが見えてくる――あるいは悩みそのものがどうでもよく思えてきたりするものだわ」
「そういうものですかね」
「そういうものよ」
 言って、夕観は立ち上がった。
「頑張りなさいな、若者。立ち止まりさえしなければ、そのうち見えてくるものがあるはずだから」
「……そうですね。悩むだけじゃ意味ないですね。悩みながらでも――何かしていかないと、駄目ですよね」
 夕観に倣って、亨も缶コーヒーをゴミ箱に放り投げる。
 渇いた音を立てて、缶はゴミ箱の脇に転がっていった。
「うわっ」
 慌てて拾い、ゴミ箱に入れる。
「――」
 ふと周囲を見渡すと、もう辺りには誰もいなかった。

 町の復興には、当然警察も駆り出されていた。
 治安が悪化しないようパトロールを強化したり、市役所と連携して様々な手配を行ったりと、大忙しの状態だった。
 長い出張から戻ったばかりの榊原も、例外ではなかった。
 強行犯係に所属する彼は、町中をパトカーで廻っていた。トラブルが起きていたらすぐさま対処しなければならないので、こういうのも傍から見ているよりずっと大変だ。
「……ん?」
 駅に向かう道すがら、見覚えのある後姿があった。パトカーの窓を開けて、
「おい、緋河の小僧」
 声をかけると、相手が振り向いた。
「……ああ、榊原さんか」
 天夜だった。
 左腕に包帯を巻いている。土門荒野との決戦で負った傷だった。
 元から巻いていた右腕の包帯も厚みを増していた。限界以上に炎を放出したせいで、天夜自身も負傷してしまったらしい。
「他の連中と一緒に戻ったんじゃなかったのか?」
「いや、挨拶しておきたい人たちがいたもんで。その、事情とかは説明できませんでしたが……」
「ああ、それはしなくていい。余計なこと教えて混乱させても仕方ない」
 咥えていた煙草を灰皿に押し付ける。
「そうだ、礼を言っておくぞ」
「礼?」
「俺の娘を守ってくれたそうじゃないか」
「ああ。あれは――あの剣客のオッサンの謀ですよ」
「ん?」
「俺を前線に出して死なせると、緋河本家がうるさい。だから後方に回された。そういうことだと思います」
「ほう」
 榊原は感心した。そういう裏の事情も読み取っていたのかと。
 実は、榊原は数日前、緋河本家の面々と顔を合わせている。
 警察官以外にも、榊原は町の旧家の主という顔を持っている。榊原家は従来魔術や退魔の家柄とも関係を持っていたので、各方面に出向く機会が多かった。その中で、天夜の父や姉とも顔を合わせた。
 話をした限り、天夜の父も今の天夜と同じような意見だった。
『頼んだ覚えはないが、気を使われたようだ』
 そのことを天夜に話すと、彼は若干嫌そうな顔を浮かべた。
 そういえば前にこの町へ来たときも、家から飛び出して各地を放浪しているとか言っていた。もしかすると家族仲はあまり良くないのかもしれない。
「今回の件、上手くあの親父に振り回された気がするな……」
「まあ、結果として俺たちは助かったわけだ」
「……」
 榊原の言葉を素直に受け取れないのか、天夜は複雑そうな顔だった。
 梢を殺す。確かに、その目的を天夜が果たしていたら、榊原もこんなことは言えなかっただろう。だが結果として彼は梢を殺さなかったし、町を救うのに貢献してくれた。
「水に流して考えろよ。お前もこの町の英雄の一人なんだぜ」
「……俺はそんな大層なもんじゃないですよ」
「そうかね。若いうちは自惚れるくらいでちょうどいいもんだと思うが。……っと」
 携帯が鳴った。同僚からで、駅近くで若者たちが騒ぎを起こしているという。一人では対処できないから助けてくれ、というものだった。
「ったく、忙しいもんだ。……おう、それじゃあな、天夜」
「あ、はい。榊原さんも、お元気で」
「ああ」
 パトカーを発進させる。
 バックミラーに映る天夜の姿が、少しずつ小さくなっていった。

 ゆっくりとまぶたを開ける。
 身体のあちこちが軋むようだ。ひどく気怠い。
 辺りは薄暗くなっていた。見慣れた天井。身を起こすと、見慣れた部屋。
「……俺の部屋か」
 ゆっくりと身体を起こしながら、零次は窓の外を見た。
 陽は落ちて、しんしんと雪が降り積もっている。
 ふすまを開けて外に出る。
 あれから一週間。疲労感のあまりまともに動けなかった。とても長い一週間だったような気もするし、あっという間だったような気もする。
「ん?」
 庭の片隅に目を向ける。そこに、周囲に溶け込むようにして郁奈が立っていた。
「郁奈か。久しぶりかな」
「うん。お兄ちゃん、身体は大丈夫?」
「どうにか生きてる。それだけで恩の字だ」
 それだけで、十分にありがたい。こうして家に戻って来れたこと自体が、奇跡のようなものだ。
「ねえ、お兄ちゃん」
「……なんだ?」
「土門荒野は――どう?」
 二人の間でも、雪は振り続けている。
 降りしきる雪の中、こちらに心配そうな眼差しを向けてくる少女の姿は、何か幻想的なものに見える。
 零次は目を閉じて、微笑んだ。
「――静かなものだ」
 あのとき、決戦が終わって気を失う寸前。朽ち果てた土門荒野から、暖かな何かが零次の元にやって来た。
 零次は無性にほっとした。なぜかは分からない。ただ、とても安らかな気持ちのまま意識を失った。
 今も、不思議と怖くはない。
「暴れ疲れてぐっすり眠ってるんだろう。しばらくは放っておいても大丈夫だと思う」
「でも、このままにしてたら、いつかお兄ちゃんも……」
「そうだな。どうにかしないとな」
 言って、零次は郁奈を招き寄せた。彼女は少しだけ怯みがちに近寄ってきて、零次の側に腰を下ろす。
 縁側に二人して並んで座っていると、本当の兄妹のようだった。
「郁奈、聞かせてくれないか」
「……あのとき言ってたこと?」
「ああ。お前は、きっと俺たちとは別の、大きな事情を抱えてたんだろ? それは大丈夫なのか?」
「人のコト心配してる場合じゃないと思うんだけど……」
 郁奈は拗ねたような口調で言う。しかし本当は嬉しいのか、両脚をバタバタと動かしていた。こうして見ると、本当にただの子どもだ。
「お兄ちゃん、私のことどれくらい知ってる?」
「……霧島と優香さんの子だってこと。それから、君の名付け親が誰かってことくらいは知ってる」
「そっか。じゃ、お母さんの力は知ってる?」
「ああ――幸町先生から聞いたことがある。他人の過去を、夢で見ることができる、だったか」
「そうそう。その他人っていうのは、面識がなくても、多少の縁さえあればいいの」
 郁奈は少し間を空けて、
「私もその力、持ってるんだ」
「そうなのか」
「うん。その力で、今回の事件みたいなのを何回も見たの。だから、何がどんな風になるかっていうのは、なんとなく分かってたんだ」
「……なに?」
 それは少し、変だ。
 優香と同じ力なら、見ることができるのは他人の過去ではないのか。それなのに、なぜ未来に起きる土門荒野の事件を見ることができたのか。
「郁奈は、優香さんと違って未来が見えるのか?」
「ううん。お母さんと同じだよ」
「ということは、見たのは昔に土門荒野が現れたときのことか」
「それも違う。私が毎晩欠かさずに見てたのは、この町で起きる土門荒野の事件ばかり。経過は様々だけど、結末はほとんど同じ――」
 郁奈はそこで、こちらを見上げてきた。
「何でそんな夢を見ると思う?」
「……もしかして無現か? お前は無現のことも知ってただろう。未来から呼び出されたあいつの夢を見てた、とか」
「ううん。違うよ」
 僅かに目を逸らして、郁奈は言った。
「私はね、お兄ちゃんの夢を見てたの」
「――俺の?」
「そう。正確に言えば、お兄ちゃんの中にいる『悪魔』の夢――」
 はっとなって、零次は胸を抑えた。
 郁奈の言葉に、ひどく動揺している自分がいた。
「俺のこの『悪魔』について知ってるのか、郁奈。知ってるなら、教えてくれないか」
「いいの?」
「ああ。聞いておかないと駄目な気がする」
「……そうだね。言うことで、今からでも何かが変えられるかもしれない」
 郁奈はぽつぽつと、多くの――そして一人の男の物語を話し始めた。
 昔々。こことはまったく別の世界に、一人の少年がいた。
 少年には大切な人と、大切な家族がいた。しかし、ある日家族の一人が奇病にかかってから、少年は多くのものを失ってしまう。さらに、自分自身もその奇病にかかってしまった。
 それでも、少年は諦めなかった。
 大切だった人たちの分まで強く生きていこうと誓った。自らが抱えた病と戦って、絶対に生き抜いてみせようと、必死に駆け続けた。
 しかし、思いだけでどうにかなるわけではなかった。少年はやがて病に倒れ、最期のときを迎える。
 そのときになってもまだ、少年は諦めきれなかった。
 生き抜きたかった。皆を、大切な人たちを守りたかった。
 少年は息を引き取った。
 しかし、その意志は消えることをよしとせず、身体という殻を超え、世界という枠すら超えて、守りたかった人たちのいる世界へと渡っていった。
 渡った先で、少年の意志はその世界のその少年に宿った。
 今度こそ。この世界では、大切な人たちを守ろう。
 その意志は、長い旅の果てに朽ち果てて、壊れてしまっていたけれど――決して消えることなく、諦めることなく、長い長い旅を続けている。
「……それが、その『悪魔』の物語。気が狂いそうになるくらい絶望を浴び続けながら、それでもいつか希望を得ようと旅をする『悪魔』の物語よ」
「……」
 何も言葉が出てこなかった。
 郁奈が見ていた夢の持ち主。
『お兄ちゃんだって、本当は分かってるんだよ』
 郁奈の言葉。
 時折見た見知らぬ光景。
 幻の中で見た、無数の自分自身。
 ようやく――その意味が分かった。
「そうか」
 零次は小さく頷いた。
「郁奈が妙な言動で俺たちを煙に撒いてた理由が、ようやく分かった」
 どうやっても土門荒野の復活は阻止できない。
 その根拠。
 それは、零次たちにとって――この上なく残酷なものだった。
 絶対に助けられない。
 何度生まれ変わっても。
 百の世界を渡り続けても。
 絶対に――救えない。
 郁奈の抱えていた絶望感の一旦が、ようやく理解できた。
 零次はそっと郁奈の頭を撫でる。郁奈は不思議そうにこちらを見上げてきた。
「な、なんで頭撫でるの?」
「いや……一人でよくそんなものを抱えてたな、と。郁奈は郁奈で、頑張ってたんだな」
「……そんなことない。私はただ諦めてただけ。お兄ちゃんや遥と違って、何もしてないもの」
 そう言って、郁奈は零次の手を払いのけた。
「大丈夫だ」
 零次は立ち上がって、
「今までの『少年』が駄目でも、俺は上手くやる。病なんかに負けるつもりは毛頭ない」
 そう。
 百回やって失敗したなら、百一回目に成功すればいい。それだけのことだ。
 もちろん、思いだけですべて解決するほど世の中甘くはない。だが、思いがなければ何もできない。
「俺は大丈夫。ここから歩いていける。だから郁奈も、そんな悪夢のことは忘れて、今、自分が歩くべき道を探してみてくれ」
「私が、歩くべき道?」
「ああ。悪夢に縛られず、郁奈は郁奈の生きたいように生きればいい。多分、霧島たちもそう望んでるだろう」
 零次の言った意味が分かったのかどうか。
 郁奈はしばらくの間、ぼんやりと空を眺めていた。
「……うん。帰って孝也に相談してみる」
 頷き、雪の中をパタパタと駈け出していく。
「転ぶなよー」
「うん!」
 やがて少女の姿は、雪の向こう側へと消えていった。
 自分の進むべき道。
 これからどうしていくのか。
 事件は終わっても――まだ続いているものがたくさんある。
 休むのはこれくらいにして、そろそろ歩き出さなければならないだろう。
 道は、まだまだ――。

 二◯◯五年、十二月二十五日。
 復興の都市を盛り上げようと、町中がクリスマスの空気に包まれていた、その日。
 榊原家の門前では、榊原と、彼の子どもたち三人が立っていた。
「――よもや、三人揃って行くことになるとはな」
 榊原が、短い溜息をつく。
「ごめんね、義父さん」
 遥が申し訳なさそうに頭を下げた。
 彼女は、陰綱に紹介された場所に出向き、壊れかけた魂を修復することにした。
 これからも、きちんと生きていくために。
「どれくらいかかるか分からないけど、必ず帰ってくるから。美緒のこと、お願いね」
「分かってるよ。好きにやってこい。留守のことは任せろ」
 ぶっきらぼうな口調ながら、榊原は嬉しそうだった。遥がきちんと前向きに生きる姿勢を示したことが嬉しかったのだろう。
「大丈夫ですよ、遥さん。僕はときどき帰ってきますから」
 亨が胸を叩く。
 彼は熟考の末――異邦隊を再興することにした。
 以前の異邦隊とは異なる、自分なりの組織を作って、今回のようなケースにきちんと対応できる力を得たい。個の強さだけではなく、集団としての強さを持つ。皆がバラバラに動いていてはできなかったことも、まとまれば何とかなるかもしれない――そういう考えに至ったがゆえの旅立ちである。
 手始めに、兄と合流して中国にある異邦隊本部に向かう予定だそうだ。
「もしうまくいったら、零次と遥さんには是非参加してもらいますよ!」
 亨はそう息巻いているが、遥や零次からは、まだオーケーを貰えていない。今後の努力次第ということなのだろう。
「頑張れよ、亨。それに遥」
「いや、一番頑張らないといけないのはお前だろ」
「そうですよ零次。ちゃんと帰ってきてくださいよ!」
 零次は――自分の内側に眠る土門荒野をどうにかするための旅立ちだった。秋風市では手がかりがない。なら、広く世界を回ることで、解決の糸口を探した方がいい。そう考えたのである。
「分かってる。諦めるつもりはない。きっと戻ってくるさ」
 土門荒野。
 正体不明の――同居人。
 ただ倒すのではなく、きちんと向き合いたい。零次はそう考えていた。
 訳の分からない存在だった『悪魔』にも、かけがえのない意志があったように。土門荒野にも、何かがきっとあるのだと、そんな風に思うようになっていた。
「それじゃ、行ってくるよ。義父さん」
「俺も。いつか帰ってきます。榊原さん、お元気で」
「倉凪のこと、よろしくお願いしますね」
 榊原はただ笑って応えた。
 行けるところまで行けばいい。辛くなったら戻ってこい。
 そう言っているように見えた。

「――やれやれ。次も、骨が折れそうです」
 陰綱が珍しくぼやいた。その脇では、未了が暗い表情のまま、
「これが私たちの使命ですから。土門荒野は――放置しておけません」
 未了の表情は硬い。次もきっと辛い仕事になる。それでもやらなければ。そんな風に、不器用な考えを一人きりで抱え込んでいるのだろう。
 千年以上、ずっとそうしてきたのだろうか。
 だとしたら、その心の氷を溶かすのは並大抵ではないだろう――。
 そんな風に思った矢先、陰綱の視界の端に、小さな人影が飛び込んできた。車の窓から身を乗り出して、駅の方へ駆けていく人影を見送る。
「未了様」
「……」
 未了は答えなかった。
 かすかに溜息が聞こえた。
 なんだか少しだけ――優しい溜息に聞こえた。

 幸町が部屋に入ったとき、そこには誰もいなかった。
 ただ、彼女が使っていた机の上に、可愛らしい封筒が置いてあった。
「……やれやれ。父親似なんだか母親似なんだか、育ての親に似たんだか」
 封筒から手紙を取り出し、一読する。
「……ふぅ」
 読み終えた手紙を封筒の中に戻す。
「頼まれてるしなぁ。僕も行かないとまずいかねぇ」
 窓の外が明るい。
 外を見ると、ここ最近では珍しい――快晴だった。

 駅前まで来たところで、三人はそれぞれ向き合った。
「ここまでかな」
「そうだな。この辺りがいいだろう」
「ですね」
 遥は東に。
 亨は南に。
 零次は西に。
 一緒に歩くのは、ここまでだ。
「じゃ、行ってきます」
 兄に守られてばかりだった少年は、軽く手を上げて、そのまま人混みの中に姿を消す。
「それじゃ、俺も行く。――遥」
「ん?」
「またな」
「――うん。またな」
 互いに手を打ち合い、それぞれ歩き出す。
 自分だけの道を、一歩一歩進み始める。
 後ろで手を振って見送ってくれる、大切な人たちに見守られながら。
 嬉しいことも悲しいこともあるけれど。
 それでも人は、歩いていく。
 道はまだまだ続いているし――いつか自分が歩き疲れて止まってしまったとしても、その道を後から来る誰かが駆け抜けていくだろう。
 そうやって人々は続いていく。
 そうやって――人は生きていく。