異法人の夜-Foreigners night-

-外伝-
秋風の吹く頃に
 1993年、秋。
 毎年恒例の学園祭が近づいてきている。
 そのため朝月学園全体が、一種異様な盛り上がりを見せていた。
「よくやるよなぁ」
 屋上からは校庭や中庭が見下ろせる。
 眼下で騒ぎ立てながら準備をする学生たちは、いつになく活気に満ち溢れていた。
 そんな光景を見ながら、静かに嘆息する男が一人。
「ったく、俺もあっちが良かったぜ」
「うだうだ言うなよ霧島。仕方ないじゃんか、ジャンケンで負けたんだから」
「やっかましいわ! お前があそこでチョキを出すとか言うから俺はパーを出したんだ! そしたらお前もパー出して、水無月の野郎の一人がちになったんだろがっ!?」
「それってお前が僕のこと信用してないのが悪いんじゃないっすか!?」
「結局お前パー出したんだから、素直にグー出さなくて正解だったんじゃねぇか」
「違うよ、あそこでお前がグー出してたら僕がパー、水無月がチョキであいこだったじゃん」
 不毛な言い争いを続ける男子生徒二名。
 彼らの手元には、学園祭で使うパネルなどが置かれている。
 傍らにはペンキ。
 つまり、彼らはペンキ塗りといういまいち面白みのない仕事を押し付けられたのだった。
「しかも中庭にスペース余ってないからってなんでうちのクラスだけ屋上なんだよ。やってられるかっ!」
「まぁまぁ落ち着きなよ、生徒会長に談判しても駄目だったんだし。クジで決まったものだからさ」
「そこをどうにか交渉するのが委員長の役目だろうが。大体お前談判とか言って、生徒会室入って三十秒で出てきただろ」
「だって生徒会長怖いんだぜ、熊を倒したって伝説があるんだ」
「このヘタレ委員長が……お前は熊に百回殺されても死なないサイボーグだろ」
「そ、そうなの!?」
「ああ、一年ほど前に孝也に改造させた。お前は栄えある改造人間第一号だ」
 言い争いが終わっても、会話は続く。
 生産性のない不毛なものだという点だけは変わらない。
「でも霧島。冗談抜きで寒くなってきたね」
「あー、そうだなぁ。今日はそろそろ切り上げるか?」
「そうだね。いやー、終わった終わったぁ!」
 嬉しそうに背を伸ばす委員長。
 そのとき強い風が吹いて、彼の身体を後ろへと押しやった。
 先にあるのは、ペンキの入れ物。
「あ」
「あ?」
 間抜けな声から一瞬遅れて、凄まじい惨状が屋上に広がることになった。

「ったく委員長め、おかげで俺まで一戸の旦那に怒られるハメになっちまったじゃねぇか」
 おまけに衣服にもペンキがこびりついてしまっている。
 こういうのはなかなか落ちないので、後々面倒なことになる。
 沈んだ気分を紛らわそう。
 そう思って、霧島は交差点手前のところで自動販売機に目をつけた。
 中にはお馴染みの飲み物がいくつかある他に、見慣れないものが一つあった。
『心臓直撃トロピリ辛』
 名前の時点で既に危険な匂いがぷんぷんする。
 しかし、こういうことに逆に燃えてしまうのが霧島直人という男だった。
「ふん、今すぐ飲み干してやるぜ」
 獲物を前にしたときのような表情を浮かべ、霧島は迷わず購入。
 ボタンを押すと、ジュースはすぐにゴトンと出てきた。
「……ゴトン?」
 ジュースにしてはやけに重々しい音だった。
 実際手にしてみると、やはり重い。
 おまけに名前もよく見ると、
「心臓直撃ドロピリ辛……さすがにこいつぁやばそうだな」
 ちなみに缶には、悶え苦しむ男女が印刷されていた。
 はっきり言って、普通は飲みたいと思わない。
「つまりこれは、俺みたいな物好きに対する挑戦状っ……!」
 一人で納得しつつ、缶を開ける。
 中からはなにやら生暖かいものが感じ取れた。
「……ええい、構うかっ!」
 意を決し、缶を口に近づけ――――
「――――危ないっ!」
 そんな声が聞こえた。
 すぐさま缶をゴミ箱へと放り捨て、声のした方を向く。
 そこには一匹の猫と、一台のトラック。
 そして猫を庇おうと飛び出した一人の少女が――。
「っ、ちいっ!」
 トラックはありえないほどの速さで突っ込んでくる。
 少女はありえないほどの速さで猫の元へ駆け出していく。
 猫はありえないほど無関心だ。
 だったら、霧島もまたありえないほどのことをしなければならない。
「――速度、」
 そのための力を霧島は有している。
 自身やその周囲のものの速度を、何倍にも高める異質の力。
「倍加――!」
 ……その瞬間、彼は風になった。

 一瞬の間にいくつものことが起こった。
 結果だけを言えば、被害はない。
 少女も猫も無事だったし、トラックもどこかに激突する前に止まった。
 そして霧島も当然、無傷だった。
 腕の中に少女を抱えながら、塀に寄りかかっている。
 かなりの勢いで激突したのだが、頑丈な身体だけあって無傷だった。
「おい、大丈夫か!?」
 トラックから慌てて運転手が駆け下りてきた。
 二人が無事だと分かると、慌てて頭を下げる。
「急いでたもんで、本当にすまん! 怪我ぁねぇか?」
「ああ、大丈夫大丈夫。けどオッサン、急いでるなら俺たちに謝ってないで行った方がいいんじゃねぇか?」
「い、いや、だがな……」
「俺たちはどっちも無傷だって。それに道路に飛び出したのはこっちだし。まぁ速度はもうちょい落としていった方がいいとは思うけどよ」
「あ、ああ……」
 その後、男は何回も頭を下げてからトラックで去っていった。
 少女はその間放心していたのか、ずっと動かない。
「おい、生きてるか? おーい」
 反応がないので、とりあえず顔をぺちぺちと叩いてみた。
 だが一向に動く気配がない。
 まるで魂が抜け出ているようだった。
「おーい、起きろ。っつか反応しろ。でないとアンナコトやコンナコトを公衆の面前でやっちまうぞー……それもいいかもしれねぇな」
「えっ、あっ……」
 霧島のただならぬ発言に身の危険を感じたのか、少女は慌てて起き上がり霧島から離れた。
「ええと、助けてくれてありがとうございます」
「いんやいんや、気にしないでおきたまえ。はっはっは」
「でもアンナコトやコンナコトはしないでくださいっ」
 道端のど真ん中で。
 少女は大声でそんなことをのたまった。
 周囲にいた、僅かな通行人の視線が霧島に集中する。
「聞きました奥さん、あの男の子、アンナコトをしようとしたらしいわよ?」
「最近の子は危ないわねぇ、私も気をつけなきゃ」
「ママー、あのお兄ちゃんどうしたの?」
「シッ、見ちゃいけません!」
 わざとくさいほどのリアクションだった。
「うおおおぉっ、俺はそんなんじゃねぇ! ただの冗談だ、JOKEだYO!」
 こういうとき必死に弁明しようとすると、逆効果になる。
 周囲の通行人たちはそれぞれ半目で霧島を見つつ、そそくさと去って行った。
「ああ、明日絶対学校で噂になるんだろうな……」
「……冗談だったんですか、すみませんでした」
 一番最初に本気にした少女だけが、素直に頭を下げてきた。
「ちくしょぉ……俺のキャラは、こんなんじゃないはずなのですよ!?」
「え、えと……」
「というわけで弁明にご協力ください! 君が手伝ってくれれば俺の汚名も挽回できよう!」
「汚名は返上するものですよ」
「オゥ、俺イングリッシュがヴェリービズィーだから」
 意味が分からなかった。
 少女はとりあえず訳の分からない言動は無視することにしたらしい。
 もう一度頭を下げて、
「えと、本当にすみませんでした。助けてもらったのに」
「さっきも言ったが気にするな。しかし、あんた変わってるな」
 と、霧島は少女が抱いている猫を指した。
「猫助けるために車に向かってアタック仕掛けるなんてよ。猫、好きなのか?」
「はい、猫は好きですよ。それにこの子……みー太は私の友達ですから」
「ふーん?」
 見たところ首輪も何もついていないし、野良猫のようだった。
 ということは、この少女の家の近くに住み着いている猫といったところか。
「でもよく野良猫の見分けなんてつくよな。俺だったら分からんぞ」
「えっと、それは……もう付き合いも長いですから」
「そういうもんかね?」
 霧島は首を傾げる。
 と、そこで五時を告げるチャイムが鳴った。
「あ、やべ」
「どうかしたんですか?」
「五時から知り合いのオッサンのとこで稽古する予定だったんだ。急がないと遅刻しちまう」
「そうですか。それではお気をつけて」
「ああ、あんたの方こそ、もう車には突っ込むなよ!」
 そう言って霧島は駆け出した。
 ……が、少女から程よく離れたところで振り返る。
「そうそう、あんた名前は? 俺は霧島直人って言うんだけどよ」
「あ――」
 そういえばまだ名前も言っていなかった。
 そのことに気づき、少女は慌てて大声で告げた。
「――――八島優香! 八島優香です!」

「学校の中でしか学ぶものがないという発想はおかしいと思いませんか諸君!」
「同感だ、僕たちはこの学び舎から解き放たれることで、新たな領域へと踏み込む必要がある!」
「僕はまぁどっちでも。でも面白そうだから賛成だー!」
 昼休み。
 朝月学園2-Dにおいて、三人の男たちが高らかに独立を宣言した。
「俺は自由のために!」
「僕は愛のために!」
「僕は野望のために!」
 手に手を重ね、一斉に気合を入れる。
「いざ行かん、自由の世界へー!」
 誰も止める者がいない。
 そのまま三人は教室から飛び出し、下駄箱を通過し、やがて校門から外に出た。
「よっしゃ、これで俺たちはもう自由だ!」
「へへ、まぁ昼休みの外出は暗黙のうちに了承されてるんだけどね」
「余計なこと言うなよ委員長。そこをこうして出てくるのが俺たちのやり方だろ」
「そうだね霧島っ!」
「……これで君が委員長に選ばれてる辺り、うちの規制も案外緩いもんだね」
 眼鏡の男、幸町孝也は学校を見ながら勝ち誇った笑みを浮かべている。
「まぁね。僕にかかれば寄生だってユルユルさ」
「なんかお前、アホな勘違いしてるだろ」
 霧島が呆れた様子で委員長を小突く。
 すると今度は幸町が霧島の脇腹を小突いた。
「まずい霧島。一戸の旦那が」
「げっ」
 玄関口からこちらを凝視する若い教師。
 一戸伝六、二十四歳。
 まだまだ若いものの、古風な考え方と妙な威厳から皆に『旦那』と呼ばれている男である。
 校則には無茶苦茶厳しい。
 昔の剣客のように佇みながら、竹刀を片手に持っている。
 あれで和服だったら完璧なのだが、そこは仕方なくジャージで妥協。
 それが霧島たちを凝視している。
「霧島直人、また貴様らか」
「いやちょっと待て、なんで俺が勝手に代表になってんだ!?」
 そう言って左右を見る。
 そこにいたはずの二人は、既に彼方へと逃げ出していた。
「生きてたらC地点で合流だ」
「了解ー」
「何が了解だお前らぁぁっ!?」
 二手に分かれているため、どちらかを追いかけることはできない。
 仕方なく霧島は、二人とは全く別のルートで逃げることにした。
「待て貴様らっ! 成敗してくれるわっ!」
 背後から一戸の声が聞こえた。
 当然待つはずもなく、むしろ霧島の速度は倍加した。

「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
 本来なら疲れるほどの距離でもなかったのだが、一戸の威圧感のせいでやたらと疲れた。
「必死に走ってきたからな……ここ何処だ?」
 全然見たことのない場所へと到着してしまった。
 そんなところに来たはずなのに、未だに一戸の気配はするのだが。
「くそっ、あの旦那人間かよ」
 霧島は気配を感じることに関しては並々ならぬ自信がある。
 自分の勘を信用するなら、危機はまだ去っていない。
「ってもどこに行けばいいのか……適当な店にでも入っておくか?」
 慌てて周囲を見渡す。
 しかしこの辺りは住宅街。
 すぐに入れそうな場所は思いつかない。
「……もしかして俺って結構ピンチ?」
 しかも遠くから「どこだ、霧島直人ぉ~!」という声が聞こえてきた。
 どうやら本格的に接近中らしい。
「くっそぅ、逃げるのは楽だけど戻るのが大変なことになりそうだしな……どうすりゃいいんだ」
 まさに追い詰められつつある状況。
 そこに、天使が現れた。
「あの、こっち!」
「へあ?」
 あまりに唐突な声だったため、かなり間抜けな返事になってしまった。
 それはともかく。
「こっちってどっちだ!?」
「ここ、ここ!」
 必死な様子の声。
 改めて周囲を見渡すと、塀の上からひょっこりと手だけが飛び出していた。
「そこか!」
 そうと確認すると、霧島は迷うことなく塀にまたがり、内側へと落下した。
「どわっ」
「きゃっ!?」
 勢いあまって、声をかけてくれた相手を下敷きにしてしまったらしい。
「っと、悪い悪い。すぐどく――」
 むに。
 どこうとした途端、何か柔らかいものを掴んだ。
「むむ?」
「……」
 何か嫌な予感がしつつ、何を掴んでいるのかを確認する。
 それは、男では発育しない部分だった。
 下敷きにしてしまった相手の顔を見る。
「おお、この間の」
「っ……」
 どーも、と頭を下げる霧島。
 途端、周囲一帯に響き渡る悲鳴が発せられた。

「あなたはエッチな人です!」
「いきなりそんな不名誉な」
「本当のことです!」
「悪かったって。わざとじゃないんだよ」
 あれから。
 八島優香との邂逅を果たした霧島は、とりあえず家へあげてもらった。
 しかし、その後はずっとこんな調子なのだった。
「それならすぐ手をどかしてください」
「やー、何故か手が固まっちゃってな。ほら、俺も年頃の男なわけだし、健全な反応ということで許していただきたいというか」
「いやです。許しませんっ!」
 相当怒らせてしまったらしい。
 無理ないことなのだが、ここまで謝っても怒りが収まらないとなると、霧島にはどうしようもなかった。
 とりあえず周囲を見渡す。
 と言っても、取り立てて変わったところのない普通の一軒屋だった。
「……あー、そういえばよく俺だと気づいたな」
「大声で呼ばれてました。何かに追いかけられてるようでしたし」
「なるほど、だから助けてくれたわけか。いやー、助かる」
「もう助けたので、用がないなら出て行ってください」
「あー、怒り心頭なところ申し訳ないんだが……」
 耳を澄ます。
『霧島ぁぁ、さっきの悲鳴はなんだぁぁ!』
 勘だけはやたらと鋭い一戸。
 既にあの悲鳴と霧島が関わっていることを嗅ぎつけたらしい。
「……本当、すんません。もうちょい置いてください」
 謝罪の意味も込めて、土下座した。
 優香はそんな霧島を胡散臭そうに眺めていたが、やがて嘆息しながら部屋から出て行く。
 どうやら、安全な状態になるまで残っていていいらしい。
「さ、サンキュー!」
 途端、優香はぴしゃりとふすまを閉じた。
「……」
 固まる霧島。
 そのままの姿勢で数十分が経過した。
「はっはっは、若人よ、もう少しレディに対する心配りを磨くべきだな」
「うおおっ!」
 静寂は、突如現れた謎の中年によって終焉を迎えた。
「だ、誰だオッサン。どこから入ってきた?」
「それはこっちの台詞だぞ、若人よ。とりあえず住居不法侵入で警察に連絡するから早く来たまえ」
「いや、ここの娘さんに入れてもらったんだけど」
「そんなん知ってるぞ若人。だって最初から見てたもんねー」
 なんだこの親父。
「だがまぁいきなりあれはまずいよなぁうん。そりゃ男として気持ちは分からなくもないが」
「お父さん、何を言ってるんですか」
 おかしな親父を止める救いの主が現れた。
 見たところ、この中年とさほど年は変わらないようだった。
 おそらくは奥さんなのだろう。
「だが妻よっ、この若人はあろうことは優香にアンナコトやソンナコトを……うおおっ、興奮してきたっ」
「娘で興奮する父親がおりましょうか。いたとしたら変態さんですよ」
「うおおおぉっ、俺はそんなんじゃない! ただの冗談だ、JOKEだYO!」
 必死に否定する中年。
(俺と同じようなこと言ってやがる……)
 ショックだった。
「……はぁ」
「ん、なんだ若人。お前のせいであらぬ疑いをかけられてちょっとショックだぞ」
「あんたのせいだろうがっ、つーか俺の方がショックだわ!」
「はいはい、それでどうしたね」
 なんだかとても腹の立つ態度だったが、霧島はなんとか抑えた。
「えーと、俺そろそろ帰りますんで」
「ああそうか。だが今から行っても五時間目の終わり際。もう少しゆっくりしてったらどうだ」
「そうですね。是非ゆっくりしていってください」
「いや、しかし――――」
 霧島はなおも断わろうとした。
 だが。
「せっかく、優香さんがお友達を連れてきたのですから。こんなこと、今までなかったんですよ」
 その言葉を聞いて、霧島は動きを止めた。
「……今まで、なかった?」
「ええ。優香さん、今まで人と関わるのを極端に避けてましたから」
「……」
 そんな風には見えなかったのだが。
 むしろ、さっき助けてもらったことを考えると、積極的な方だと思える。
「ま、あの子はちょっと訳ありだからな」
「その辺のお話、折角だから聞いていってもらえませんか」
 そこで霧島は気づいた。
 この夫婦は表面にこそ出さないが、霧島に何かを期待している。
 そして、彼らは痛々しいほどに必死なのだ。
「……聞くだけなら。どうせ今戻ってもタコ殴りにされるだけっすからね」
 そんな人を相手にすると、霧島はどうにも弱いところがあった。

 霧島は居間に案内され、茶菓子を用意してもらった。
 やがてお茶を飲み干したところで、夫婦は霧島の顔をじろじろと覗きこんできた。
「妻よ、やはり不安だ。こいつとてつもなく馬鹿っぽいうえにエロそうだぞ」
「帰る」
「冗談だよ冗談。それくらい分かりたまえ若人!」
「笑えない冗談は冗談と言わんっ!」
「あらあら、二人とも仲がいいんですね」
 にっこりと微笑む奥さん。
 霧島はやれやれと嘆息し、奥さんに向き直った。
「最初に言っておきますけど、俺と彼女は先日一回会ったばかりです。今日で会ったのは二回目。その程度の仲なので最初にそのことを確認していただきたい」
「はい、分かりました。でも、それだけのことでも凄いですよ」
「そうですか? 二度顔を合わせたくらいじゃ、顔見知りとも言いませんよ」
「何を言うかっ、顔知ってんだから顔見知りだろっ」
「お父さんは黙っていてください」
 中年は部屋の隅でいじけはじめた。
 当然霧島はそれを無視。
 奥さんも無視している辺り、いつもこんな調子なのだろう。
「でも優香さんに二度目なんてなかったんです。一度顔をあわせればそれっきり、見たことのある人が近づいてきたら逃げ出してしまうんですよ」
「それは重症ですな」
「ええ。だから優香さんが自分からあなたを招きいれたことは、本当に珍しいんです」
「なるほど。……人間嫌いか何かなんですか、彼女」
「そういうわけではないんです。ただ昔色々ありまして……」
「色々?」
「それは私からは言えないことです。優香さんに聞いてください」
 それきり、奥さんは沈黙した。
 まだ話が続くものだとばかり思っていた霧島は、半ば呆気に取られた形になる。
「あの、話は終わりですか?」
「ええそうです。私から言えるのはこんなところです」
「あまり多くを語りすぎると、我々が『優香と友達になってくれ』と強制することになってしまいかねんからな」
 いつのまにか復活した中年が霧島の隣に座り、来客用の(要するに霧島の)煎餅をかじりはじめる。
「強制って……俺はてっきりそういう流れだと思ってたんだが」
「俺たちは優香に関してお前が誤解しないように、あいつの状態を客観的に説明しただけだ。そのうえでどうするかは若人、お前の自由だ」
「自由って言われてもな……」
「すみません。このことも出来れば話さなければ良かったんでしょうけど……」
 折角巡ってきた機会。
 押し付けこそはしないが、夫婦は何もせずにこの機会を逃したくはなかったのだろう。
「気にしないでいいっすよ、俺も特に気にしないし。それに俺、彼女に嫌われてるみたいっすからね」
「そうだな。お前なんか優香と仲良くなるなんざ百万年早いわっ!」
「その頃には私たちまとめて死んでますよ、お父さん」
「俺は死なんぞ、愛する妻と娘を守るためなら!」
「……」
 この中年の勢いにはついていけそうにない。
「とまぁそういうわけだ。要するにうちの娘は人とコンタクトをほとんど取ったことがない。それだけのことだ」
「はぁ」
「よくよく整理してみろ。空気に流されてちょっとしんみりムードになってるやもしれんが、別に同情するべきところは特にない。これは娘の代わりに親がしたちょっとした自己紹介とでも言うべきものだな」
「そうですよ。人と接しようとしないのは優香さんの意思なんですから」
 言われてみればその通りだった。
 霧島は雰囲気や感情によって動く性質だから、流されかけていたのだが。
「別にこの後二度と優香と会わなかったとしても、俺たちは責めたりはしないぞ若人よ」
「誰と誰が仲良くするか、なんて誰にも強制できませんから」
 その通りだった。
「さて、それじゃそろそろ帰れ若人」
「ん、あ、ああ……そうだな、話も聞き終えたことだし」
 ここに残ったのは話を聞くためだけのこと。
 これは、街角で知り合った人たちとのちょっとしたお喋りに過ぎない。
 そのまま霧島は八島家を去った。
 また来てくださいね、という言葉はない。
 あくまで、八島家と霧島は他人なのだった。
「妙な気を使うよなぁ」
 去り際に、八島家を見上げる。
 ふと、二階の窓に人影が見えた気がした。

 翌日は土曜だったこともあって、授業は午前中に終わった。
 一戸とも遭遇しなかったことだし、学校での一日は成功。
「あとは、放課後だな」
 呟きながら、霧島は眼前の家を見上げた。
 表札に『八島』と書かれている、極普通の一軒家。
 似たような家は他にいくらでもあるだろうという、平凡極まりない家。
「……結局着ちまったな。別に同情とかしてるつもりじゃないんだが」
 ということは、もしやこれは恋なのか。
「二回会っただけだろうが、俺。時間に換算すれば三十分も話してないぞ」
「何してるんですか?」
「いや、ちょっと脳内で青春についてあれこれと哲学チックに思考していたり。気にしないでいただけるとありがたいというかなんというかこんにちは奥さん」
「はい、こんにちは」
 霧島の話し方もおかしいが、それに合わせる奥さんも少しおかしい。
「今日はどうなされたんですか?」
「いや、ちょっと娘さんの誤解を解いておきたいと思いまして。助平と認識されたままってのはちょっと嫌ですからね」
 自然な調子でそう言うが、その“表面上の理由”は昨日一晩使ってようやく思いついたものだったりする。
「娘さんはいますか?」
「今、ちょうど次郎と一緒に来ると思いますよ」
「次郎?」
 人と接することがほとんどないと言っていたが……八島夫妻と同じように、家族の一員か何かだろうか。
 あるいは昨日の中年の本名が次郎なのかもしれない。
 そこに思い至って、霧島はまだ夫妻の名前さえ知らないことに気づいた。
 本当に、あくまで他人として接していたのだろう。
 八島家に一歩を踏み込むかどうかの選択権はあくまで霧島にある。
 無理矢理引きずり込もうということをしない。
 けれど、おそらく踏み込んだ一歩をこの夫妻は受けいれてくれる。
 不思議とそんな気がした。
「あら、来ました。優香さん、お客さんですよ」
「あ、はい。……あ」
「ちっす」
 どう言葉をかけていいのか分からなかったので、とりあえず気さくに挨拶をしてみた。
 優香も昨日のように拒絶したりはしない。
 ただ少し警戒しているようだったが。
「なんというか、昨日は悪かった。助けてもらっておいてあれじゃあな」
「あ、私の方こそすみませんでした」
 謝る優香の足元には、まだ小さな子犬の姿があった。
「次郎の散歩に行くところなんですけど、歩きながらでいいですか?」
「ああ、それは構わない」
「それじゃ、行ってきます」
「はい、行ってらっしゃい」
 霧島と優香は奥さんに頭を下げて、住宅街を歩き始めた。

「毎日こうして散歩してるのか?」
「はい。次郎は活発な子ですから」
 特に何か変わったものがあるわけでもない。
 ただ話しながら歩くだけ。
 もっとも、二人ともどこか緊張しているようだったが。
「一つ、聞いていいか?」
「なんでしょうか」
「昨日、なんで助けてくれたんだ?」
 一度目の出会いは偶然だった。
 しかし二度目は、彼女が霧島を助けたからこそ起こったこと。
 人と接することがほとんどない少女が、一度会っただけの男をなぜ助けようとしたのか。
 それがどうしても分からなかった。
「……名前」
 ぽつりと、そんな言葉を漏らす。
「名前を知ってる人だったから。助けなきゃ……って思って」
「名前知ってるだけの人をいちいち助けてたら、キリがねぇと思うが」
「そうですか……? やっぱり、普通はもっと沢山の人の名前を知ってるんでしょうね」
「あ?」
「……私が名前を知ってるのは、家族とあなただけなんです」
「――――」
 思わず口が開いた。
「て、テレビとかに出てるのとか、学校のクラスメートとかいるだろ。いくらなんでも交友関係狭すぎないかそれは」
「テレビに出てくる人たちは、知り合いじゃないです。クラスメートは……いません」
「いない? そういやあんた、昨日も家にいたよな。普通なら学校だろ」
「あなたもいました」
「いや、俺のは色々と理由があるんだよ」
 要するにサボリである。
「中学には通っていました。でもその頃のクラスメートのことも、もう覚えてません」
「覚えてないって……あんた何歳だ」
「十八ですけど」
「俺より一つ年上かよ……っていうか、それじゃあ卒業してからまだ三年も経ってないじゃねぇか」
「薄情ですよね、やっぱり」
 自覚はあるのか、優香はしゅんとうなだれた。
 霧島は困ったように頭を掻いて、
「まぁ変わってるよな」
「そうですね」
 特に否定もしない。
 ただ頷いて、ゆっくりと歩き続ける。
「……おとぎ話をしても、いですか?」
「ん?」
「夢を見る女の子の話です」
「別にいいけど」
「はい。……あるところに、女の子がいました。女の子は沢山の友達に囲まれて幸せに暮らしていました」

 ――――女の子は毎晩夢を見ました。
 見るのはいつも、友達の夢です。
 夢の中で女の子は友達になって、女の子や他の友達と遊んだりしていました。
 女の子は、目の前にいる自分に戸惑いながらも、楽しい夢を見続けました。
 ある日。
 女の子は友達の一人と喧嘩をしました。
 家に帰ってから、女の子はとても後悔しました。
 友達に嫌われてないかどうか。
 とても怖かったのです。
 そして、その日も夢を見ました。
 それは喧嘩をした友達の夢。
 夢の中で友達は本当に怒っていて、女の子のことを心底憎んでいました。
 女の子は夢の中で何度も謝り続けました。
 翌日、女の子は友達と仲直りをしました。
 その日の夜。
 女の子は、またその友達の夢を見ました。
 仲直りするはずの夢。
 しかし、友達は本当は女の子を許していませんでした。
 そうしなければならないから、仕方なく女の子と仲直りをしただけだったのです。
 翌朝、女の子は友達に謝りました。
 ごめんなさい、ごめんなさいと何度も謝り続けました。
 友達は怪訝に思って、なんで謝るのかと尋ねました。
 女の子は、夢の話をしました。
 ――――次の日、女の子は一人で遊んでいました。
 夢の話をした途端、皆が女の子を気持ち悪く思うようになったのです。
 自分の思っていることが、全て筒抜けになってしまう。
 それはとても気分が悪くなることでした。
 それから、女の子は夢を見ることを恐れるようになりました。
 今までのような楽しい夢はなくなってしまい、代わりに皆が女の子を悪く言ったり、悪く思ったりする夢が始まりました。
 女の子は泣きました。
 泣いて、泣いて、それでも泣き足りなくて。
 ……いつのまにか、彼女は友達の顔を忘れていました。
 そして、女の子は苦しい夢から解放されたのでした――――。

「後味の悪い話だな」
「そうですね」
 真意はどこにあるのか。
 優香はただ、次郎の方だけを見て歩いている。
「女の子は、夢の話をしてしまったのが駄目だったんでしょうか。それとも、そんな夢を見てしまうことが駄目だったんでしょうか」
「色々あるさ、原因は。俺は、女の子が友達を受け入れられなかったのが駄目だったと思うがな」
「……受け入れる?」
「最初の喧嘩のときさ、本当は友達が許してないってことに気づいたとき。そのとき、謝ったりしないで、また仲直りしようと頑張ればよかったんだよ」
「でも、女の子が悪いんですよ?」
「そうなのか? 今の話じゃどっちが悪いなんて判断はできなかったけどな。ま、とりあえず――仲直りなんて言っても、したてのほやほやじゃ、まだまだお互い納得いかないものもあるだろ」
「……」
「そのときに『この子とならまた仲直りできるはずだ』……そう信じてれば、いちいち二回目の謝罪なんてしなかったと思うぜ」
「そうですか」
「そうですよ。自分の夢ばかり信用して、友達を信じれなかった。それが駄目だったんじゃねぇかな」
 霧島がそう結論づけたとき、八島家が視界内に入った。
「さて、もうすぐ家か。それじゃ俺は、そろそろ帰るわ」
「えっ……」
「今日は昨日の謝罪と、ああそうだ、礼がまだだったな」
 優香の手を取り、軽く握手を交わす。
「ありがとな。助かった」
「……はい」
「用件はそれだけだったんだよ。それなのに話し込んで悪かった」
「い、いえ……」
 躊躇うような声。
 それを無視するようにして、霧島は優香に背を向けた。
「あの、“霧島さん”……」
 ぽつりとこぼれた、その言葉。
 それを聞き遂げてから、霧島は振り返った。
「なんだ、覚えてるじゃねぇか、俺の名前」
「……え?」
「いや、今まで一度も呼ばないから、忘れられてるのかと思ったぞ。クラスメートの名前忘れちまうくらいだし」
 霧島は意地の悪い笑みを浮かべている。
「人の名前、忘れるなよ。それと、あんたの方が年上なんだから敬語も使わなくていい」
「え、えっと、それって……」
「――――んじゃな、また今度」
 戸惑い気味の優香を置いて、霧島は軽快な足取りで去って行った。
 彼が通り過ぎた場所に、涼しくて気持ちのいい秋風が吹く。
「……優香さん。また、お友達できそうですか?」
 いつのまにか側に来ていた母が、優香の肩にそっと手を置いた。
 優香は肯定とも否定とも取れないような、小さな動きをして、
「――できるのかな」
 誰かに答えを期待するような。
 そんな声が、秋風に乗って、夕暮れ空へと昇っていった。