異法人の夜-Foreigners night-

-Border Breaks-
第ニ話「始まりの朝」
 倉凪梢の朝は早い。
 陽が昇る前に起きることはもはや習慣となっている。
「ふんふんふふん~」
 即興の鼻歌を奏でながら、彼は味噌汁を作っていた。
 豆腐と若布の組み合わせの、割合標準的な味噌汁である。
 鍋の中から良い匂いが漂ってくると、梢は軽く味見をした。
「よし、上出来だな」
 機嫌よくエプロンを外して、梢は火を止めた。
 朝食を作り終えたら、他にやることがある。
 料理をテーブルの上に並べた後、梢は専用のフライパンとおたまを持って二階へと上る。
 そのまま、ある部屋の前までやって来た。
 扉にはかわいらしい文字で『倉凪美緒』と書かれていた。
 が、梢にはそんなことはどうでもいい。
「美緒ー、朝だぞー」
 軽く呼んでみるが、周囲は相変わらず静かなままだった。
 部屋の中でも特に変化はおきていないらしい。
 だがそれは想定済みのことである。
 梢は、はぁ……と溜息をつくと、手にしたフライパンとおたまを掲げた。
 そして勢いよくその二つをぶつける。
 瞬間、周囲の空気が震えた。
「起きろマイシスター。起きないと近所迷惑だぞー!」
 音は更に高くなっていく。
 やかましいどころではなく、もはや公害のようなものだった。
 それが数十秒ほど続いた後、ようやく部屋の中で物音が聞こえた。
「お兄ちゃんがうるさいんでしょぉ……」
「起きないお前が悪い。さて毎度のごとく時計を見てみろ」
「どうせそろそろ起きないと遅刻するって言うんでしょ……」
「分かってるならさっさと起きる。飯が冷めてまずくなるぞ」
 はぁい、といかにも気だるそうな声を聞きながら、梢は再び一階に戻った。
 ゆっくりと居間に入る。
 そこでは既に吉崎和弥が朝食を貪り食っていた。
「おう、相変わらずお前の料理美味いなぁ!」
「相変わらずお前は図々しいなぁ」
「家族同然じゃないか俺らは」
「親しき仲にも礼儀あり。親の財布から子供が金盗んだら犯罪だぞ?」
「気にすんなって。ほら、ちゃんと俺の分も用意してくれてるじゃん」
「せめて家の住人が揃うまで待てよって言いたいんだっ!」
 梢が叫ぶとほぼ同時に、学生服を着込んだ少女が現れた。
 髪の色はどことなく梢に似た薄茶色。
 それ以外の部分はあまり似ておらず、やや小柄で猫を連想させる少女である。
 まだ眠いのか、両目は非常に薄く開けられていた。
「おはようございまふ」
「おう、お前もちゃっちゃと食え」
「美緒ちゃん、相変わらず朝に弱いんだな」
 目がほとんど線になっている美緒を見て、吉崎は笑った。
 美緒は頬を膨らませて――表情がそのままなので滑稽な顔になった――反論する。
「仕方ないじゃん……昔からこうだったんだし」
 ふらりふらりと危なげな足取りで席につき、ゆっくりと食事を食べ始める。
 梢も席に座って朝食を食べ始めた。
「いやー、しかし事件の後は決まって美味い飯が食えるんだ、いい仕事だよ」
「おまけに食費も浮いてるだろ。なんでウチがお前の食費まで出さなきゃいけないんだ。金払え」
「あいにくキャッシュは持ち歩かない主義なのだ」
 吉崎はふふんと鼻を鳴らし、なぜか得意げな笑みを浮かべた。
 ――――梢と吉崎の付き合いは長い。
 およそ十年ほど前に出会い、以降長いこと友人としてやってきている。
 一見やる気のなさそうな垂れ目と、それに反して頼もしげな眉が特徴的だった。
 おちゃらけた態度を取っているが軟派ではなく、内面はむしろ義理堅く、硬派な部類に入る。
 梢とは一番の友人同士だが、美緒や榊原とも家族同然の付き合いをしている。
 そのためか、平気で飯をたかりにくることも多いのだが。
「近々部屋を引き払ってこの家に住もうかと検討中だ。部屋代タダだし」
「来るな!」
「ははん、お前がどう言おうとこの家の主が承認すればそれでいいのだ」
 この家の主――――榊原幻。
 無愛想で口数が少なく、自他共に結構厳しい人だ。
 秋風市内でかつて権勢を誇っていた名家の末裔である。
 梢と美緒の父親、倉凪司郎と親しかったこともあり、両親亡き現在の倉凪兄妹の保護者となっている。
 同時に天我不敗流という格闘技の流派を継いでおり、梢や吉崎にとっては師匠にあたる。
 今頃は昨夜の通り魔に関する取調べやら事後調査やらに追われている頃だろう。
「そう言えば通り魔、捕まえたんだって?」
 少しずつ目が覚めてきたのか、美緒はゆっくりと瞼を開きつつあった。
 吉崎は納豆をかき混ぜながら、
「ああ、俺が分析、倉凪が実働、師匠が取り調べ。いつものように無事完了したよ」
「そっか、さすがだね。頭脳の吉崎さん、怪力のお兄ちゃん、権限のお義父さん。そして紅一点の私」
「悪の四天王じゃねぇかしかもポジション的に俺最初にやられる役だよなぁ!?」
 言われて、美緒は少し首を傾げた。
「力馬鹿、無鉄砲馬鹿、真性馬鹿。うん、全部条件当てはまってるじゃん」
「……」
 梢は無言で美緒の背後へ回り込み、左右から美緒の頭へと拳を押し付ける。
「あ、痛っ!? 痛い痛い痛い~!」
「寝ぼけてる分際で馬鹿馬鹿言うな馬鹿の妹! 俺と大して成績変わらないんだから、お前は『馬鹿の妹馬鹿』だ!」
「馬鹿って言った方が馬鹿だもんねっ!」
「要するに二人とも同レベルってことになるんじゃ……」
 吉崎の言葉に、二人は動きを止めた。
 ゆっくりとお互いを見詰め合ってから、
「あはは。何言ってんだ吉崎。俺、こいつよりは常識わきまえてるぞ?」
「あはは、そうだよ吉崎さん。少なくとも私、力馬鹿と無鉄砲馬鹿は当てはまらないよ?」
 一瞬の沈黙。
 その後、兄妹は互いの頬に手を伸ばし、朝から壮絶な戦いを繰り広げるのだった。

 近頃、秋風市の間でまことしやかに囁かれている噂がある。
 曰く、高層ビルの間を駆け巡る謎の人影。
 曰く、拳銃を持つ黒服たち。
 曰く、人身売買により得た人間を実験材料とする研究所。
 曰く、人の内臓を蛇のように形作って殺す殺人鬼。
 曰く――――。
『だから本当なのよ! 昨日私見たもの!』
 電話口の向こうから聞こえる友人の声に、涼子は耳を傾け続けている。
 ここは彼女の住むマンションの一室。
 白のテーブルと椅子があり、テーブルの上には彼女が作った朝食が乗っていた。
 美味しそうな貝の味噌汁が冷めるかどうか心配だったが、涼子は友人の話に付き合い続けている。
「つまり、噂の通り魔をぶっ飛ばした人がいると」
『そ、そうなの。私、襲われそうになったんだけどね!? いきなり現れて、もう凄い勢いで相手をぶっ飛ばしてさ!』
「まーまー、サチ、落ち着いて。朝から興奮してると後で疲れるわよ」
『うん、分かってる……でも凄いよ、噂は本当だったんだ』
 人間を越えた存在がいる。
 そんな噂話は涼子も何度か耳にしたことがある。
 しかし、最近の秋風市ではその手の話題はかなり多く、信憑性が薄いという印象が持たれやすい。
 ……人間を越えた存在、か。
 昔も一度、そんな噂話が流れた時期がある。
 それは七年前のこと。
 ちょうど涼子が、家族を失った頃のことだった。
 超人の行動を勢いよく話す友人に、ふと尋ねてみた。
「ねぇサチ? それ、どんな奴だった?」
『え、えっとね!? なんか目つきすっごく悪くて、ヤクザみたいだった!』
「……それ、そのまんまヤクザってことないわよね?」
『違うと思うよ。私たちと同じくらいの年だったもん! ちょっとパニックになってたし、薄暗かったからちょっと曖昧だけど』
「そっか。まぁサチが無事でなによりだわ」
 その後、軽く会話を交わして電話を終える。
 既に学校へ行く準備などは終えており、時間にはまだ余裕があった。
 ……そうだ、テレビで確認してみようかな。
 先ほどの電話によると、ここ最近町を騒がせていた通り魔は謎の少年にやられて、警察へ連れて行かれたらしい。
 もしそれが本当なら、ニュースか何かで取り上げられるはずだ。
 いくつかのチャンネルを切り替えていくと、ちょうどその話をしている局があった。
『――――昨夜未明。秋風市を騒がせていた連続通り魔殺人の犯人が逮捕されました』
 ニュースキャスターがはっきりと、事件の終了を口にした。
 さすがに謎の少年については語られない。
 単に逮捕されたという結果を口にしただけだった。
 ……解決したんだ。
 そのことに若干の安堵と嫉妬を覚えながら、涼子はテレビを打ち切った。
 解決する事件と、解決しないまま闇へ流されていく事件がある。
 それだけのことなのだが、やはり羨ましい。
 涼子は視線を、テレビの上に置かれた写真立てに移した。
 そこには四人の人間が写っている。
 既に失われた、涼子の家族たちが。
「こっちはまだだもんね……」
 写真をそっと撫でながら、涼子は小さく呟いた。
 写真の中の涼子は一番前に写っており、小生意気な顔をしてそっぽを向いている。
 家族があるという幸せを当然のものだと思い込んでいた、子供の頃。
 今となっては、全てが遠い過去のことだった。
 それも、失われた過去だ。
 一九九六年、十二月二十五日。
 その日、冬塚涼子は家族を一度に失った。
 涼子の家が火事にあい、その中で両親は死んだとされる。
 そして、姉が行方不明になったとも聞いていた。
 だが奇妙なことに、涼子は姉の存在などまるで覚えていない。
 こうして一緒に写っている写真がある以上、姉と面識があるのは確かである。
 しかし、この人物が姉だというのは人に聞かされた情報に過ぎない。
 涼子自身が直接姉と関わった記憶はないし、自分に姉がいるという実感などまるでないのだった。
 もっとはっきり言うならば――――涼子は、七年前の冬の記憶をごっそりと失っているのだった。
 七年前の秋までは覚えている。
 だが冬の記憶になると、途端に希薄化する。
 両親が火事で死亡し、涼子自身も重傷を負った。
 その後病院のベッドで目を覚ましたのが、記憶の再開だった。
 これは年月によって忘却したのとは訳が違う。
 事件直後も涼子は、二学期の最後にやった勉強の内容、友達との約束、借りた物に貸した物など、全てを忘れていた。
 無理に思い出そうとすると、激しい頭痛が襲い掛かってくる。
 その頃、超人の噂が流行った。
 両親の死に不可解な点があったことから、超人に殺されたのだという荒唐無稽な話も噂された。
 何も覚えていない涼子としては肯定も否定も出来ず、当たり前のように聞き流すしかなかった。
 だがそのうち、別の噂も流れた。
 一つは、涼子の記憶を超人が奪ったのではないかという噂。
 根拠も何もなく、当時漫画で『記憶をいじる』能力者の話があったことから流れた話だった。
 だが、涼子からすればその噂は薄気味悪いものだった。
 両親だけでなく、自分まで何かされたのではないかという不安。
 それは、もしかしたら自分も殺されるのではないかという恐怖にも――――僅かながら、繋がっている。
 もう一つの噂は、超人の正体が涼子の姉ではないかというもの。
 両親ははっきりと死体が発見され、涼子も重傷を負った。
 そんな中、彼女の姉だけが行方不明となっている。
 この姉が、事件の少し前から冬塚家に滞在していたことも噂に拍車をかけた。
 曰く、冬塚夫妻を殺すために潜入したのではないか。
 無論この噂も根拠などはない。
 姉の人柄すら覚えていない涼子としては、やや不気味に思う程度だった。
 少なくとも、写真の中では優しそうな女性なのだが。
 結局のところ、七年前に両親が死んだという事実以外に判明していることは何もない。
 犯人も不明、姉の行方も不明、涼子の記憶も未だに戻らない。
 当事者であるにも関わらず、他人と同じ程度の情報しか持たない涼子にとっては――――あまり現実感の伴わない出来事だった。
 知りたいと思うことはある。
 だが、その術を彼女は持たない。
 故に放っておくより他なかった。
 今の涼子には、超人など関係ない。
「……よし」
 洗面所で髪をとかし、両手で頬を叩いて気合を入れる。
 と同時に、玄関のインターホンが鳴った。
「涼子ちゃーん、がっこ行こー!」
 呼びかけてくるのは、長い付き合いになる親友。
「今行くー!」
 用意しておいた鞄を手に、涼子は玄関の扉を開けた。
 眩しい朝の光と共に、一人の少女が視界に現れる。
「おはよ、今日は下に二人余計なのいるけどいい?」
「んなこと言っちゃ駄目でしょ美緒ちゃん。んじゃ、行こっか」
 友人と二人、心地よい空気の中を駆け抜ける。
 普通の日々。
 平穏な日常。
 ――――――それに違和感を抱きながら、涼子は七年間生きてきた。

 この町を去ったのは七年前。
 それだけの時を経て、この地に戻ってきたのはどういう運命なのだろうか。
 久坂零次は下校準備をしつつ、そんなことを考えていた。
 始業式ということもあって、この日は授業が行われなかった。
 零次は転校生としての挨拶をさせられたが、それ以外のことは特に覚えていない。
 このまま残っていても面倒なので、さっさと帰ることにした。
 彼が最初に秋風市に来たのも七年前。
 戻ってきてからの期間を含めても、あまりこの町で過ごした時間は長くない。
 彼にとってこの町は、そのほとんどがある少女との思い出によって占められている。
「彼女は今頃どうしているのだろうな……」
 階段を降りながら、零次は思い出の中に身を投じる。
 幼かった自分と少女が、雪の中を駆け回る思い出だ。
 白い粉雪が降り注ぐ中を飽きもせず走り続ける二人。
 笑ったり怒ったり、ときには少し泣いたこともあった日々。
 それを壊してしまったのは、零次自身だった。
 人に拒絶され続けた彼を、ようやく受け入れてくれた彼女。
 そんな彼女を壊してしまった。
 幸いにも一命は取り留めたようだが、その後彼女がどうしているかは知らない。
 ……こんな力さえなければな。
 人を凌駕する力。
 銃弾すら無意味となる脅威の身体能力に、固有の『異法』を有する存在。
 それを零次たちは異法人と呼ぶ。
 普通の人間には出来ないことを軽々とやってのける力を、話だけ聞く人々は羨ましがるだろう。
 しかし実際にそんな力を持ってしまえば、自分の居場所を見失ってしまう。
 その不幸は本人だけでなく、時には家族にも降りかかることがあるのだ。
 ……しかし、俺はこうして力を持っている。そのことは決定されたことであり、嘆いても進展はない。
 故に最善の方法を探す。
 この力を持っても問題ないような方法を。
 誰も傷つけず、誰も傷つかずに済むような方法を。
 春風が吹いた。
 暖かな風だなと思い、地へ向けていた顔を上げる。
 そして目の前、校門のところに立つ少女に気づいた。
「――――」
 誰かを待っているのか、退屈そうに空を見上げている少女を見て零次は絶句する。
 ……まさか。
 不意に相手も気づいたのか、きょとんとした表情でこちらを向いた。
 どことなく利発そうな顔立ち、バランスの取れた身体つき。
 なにより、髪を束ねるリボンに見覚えがあった。
「……どうかしましたか?」
 立ち尽くす零次を怪訝そうに見ながら、彼女は問いかけてきた。
 その声にも聞き覚えがある。
「冬塚、涼子……か?」
 思わず言葉が漏れる。
 彼女はますます不思議そうな顔をして、
「はい、私は冬塚ですけど。――――――何か御用でしょうか?」

 涼子は目の前に立つ男子生徒をじっと見ている。
 用事があって尋ねてきたようにも見えないし、ナンパとかの類でもなさそうだった。
「あの、生徒会関係でしょうか?」
「……生徒会?」
「あ、いえ……違うならいいんですけど」
 涼子は高等部生徒会の会長を務めている。
 学校内での揉め事や、近隣で当校生徒が関わった問題の解決などのために、生徒から相談されることはよくあった。
 だが、そうしたものではないらしい。
 ……あれ?
 不意に、何か言いよどむような彼の姿をどこかで見たような気がした。
 あれはいつのことだったか。
 思い出そうとしても、思い出せない。
 小学校の同級生とは違う。
 中学校の同級生とも違う。
 高校に入ってからの同級生とも、無論違う。
 それなのに、涼子は彼とどこかで会っているような気がした。
「……もしかして、どこかで会ったことありますか?」
 覚えてないという失礼を承知で尋ねてみた。
 すると相手の男性は表情を強張らせ、涼子の目を見てきた。
「やはり、覚えていないのか」
「え?」
「……いや。覚えていないのならば十全だ」
 男の言葉はよく分からない。
 ただ一つ分かったことは、
「あの。それって、やっぱり会ったことあるってことですよね?」
「……」
 男は顔をしかめた。
 ……忘れてたこと怒ってるのかな?
 そう解釈した涼子は慌てて頭に手を当てた。
「ち、ちょっと待ってくださいね。今思い出しますから」
「いや、それは……」
「すぐに思い出しますから!」
 頭の中を、様々な人物が通り抜けていく。
 記憶にある人物から、アルバムなどにある人物にまで。
 だが、どれほどの人数が駆け抜けようとも、眼前の男性に該当しそうな人物は思い浮かばなかった。
 ……うわマズイなぁ。
 人の顔を覚えるのは得意だったはずなのに、まるで思い出せない。
 全くどうでもいいような人のことは次々と思い出せるにも関わらず、だ。
 やがて諦めようとしたとき、涼子の中である考えが浮かび上がった。
 それは消去法によるものであり、正直確率は低い。
 だが、試しに言ってみることにした。
「あの……七年前の冬に会ったんでしたっけ?」
 その言葉に、男が息を呑んだ。
 戸惑いの視線を涼子に向けてくる。
「……思い出したのか?」
「あ、いや。思い出したというか、その、なんとなくですけど」
 まさか唯一覚えてないのがその頃だから、なんて変な理由は言えない。
 曖昧な言葉で濁すと、男は射るような視線を向けてきた。
 ――――ぞわりと、背中が震えた。
 全身の神経が凍りつくような感覚。
 それは言葉に言い換えれば、恐怖と表現すべきものだった。
「思い出したわけではないんだな?」
「……あ、その」
 舌がうまく回らない。
 それどころか、指すらろくに動かせなくなっていた。
 まるで、突然異界へと放り込まれたような気分。
 一刻も早くここから出たいと、そう思った瞬間。
「――――覚えていないのならばそれでいい。思い出す必要もない」
 男は少しだけ満足そうに頷いた。
 途端、張り詰めていた薄ら寒い空気が消え去っていく。
 涼子は足から力が抜け、思わず倒れそうになったところをどうにか耐えた。
 気づけば男は既に涼子に背を向け、さっさと歩き去ろうとしていた。
 ……何、今の?
 恐怖のせいか、心臓の鼓動がいつもより激しい。
 ずきりと痛む頭を抱え、涼子はじっと男の背中を睨みつけていた。
 結局何者かも分からない。
 しかし、妙に気になることを言っていた。
「覚えてないなら、いい……?」
 男は七年前に会ったかと尋ねてから、表情を変えた。
 そこから察するに、七年前の冬に会った人物のはず。
 それが、覚えていないことを安堵するような言葉を残していった。
「……何なのよ。七年前、何があったっていうわけ?」
 空白の季節。
 覚えのない姉がいた季節。
 家族が失われた季節。
 そこで、何があったというのか。
「――――涼子ちゃん?」
「っ!?」
 いきなり肩を叩かれたことで緊張が弾けた。
 身体を捻り、肩を叩いた人物の顔を確認して――――。
「どしたの涼子ちゃん。何かあった?」
 そこにいたのは、涼子が先ほどから待っていた友人、倉凪美緒だった。
 訳の分からない、正体不明の男などではない。
 そのことに安堵の息を吐き出し、涼子は頭を振った。
「な、なんでもない。それより用事終わった?」
「終わったよ。んじゃ、早く帰ろっか」
 いつもと変わらない友人の声に安心しながら、涼子は歩みを進める。
 先ほどの気味悪い出来事を忘れようと、彼女はいつもより余計に喋った。
 美緒の方は元々お喋りなため、会話は弾んでいく。
 ……なんでもない、なんでもない。
 さっきの恐怖は自分がおかしくなったから感じたものだ。
 そう言い聞かせながら、涼子は必死に話し続けた。
 男――――久坂零次との"再会"が、自分に何をもたらすのかも知らぬままに。