異法人の夜-Foreigners night-

-Border Breaks-
第三話「閉塞の環境」
「怪しげな研究施設?」
 始業式の翌日、倉凪梢と吉崎和弥は並んで歩いていた。
 時刻は夕暮れ。
 学校帰りに梢が買い物をしていたところ、榊原の屋敷へ向かう吉崎とばったり会ったのだった。
 吉崎は奇妙な情報を持ち込んできた。
「最近噂になってるだろ? 人身売買だの謎の研究だの」
「ああ、なんか最近そういう噂、よく流れてるよな」
 今日も学校で何度か耳にした。
 人身売買などは、最近様々な番組で持ち上げられてきている。
 あらゆる場所で、あらゆる人が被害にあっている。
 性別年齢国籍問わず、ブローカーに騙されたり、力ずくで支配されたりしている人々がいる。
 そういった話は単なる噂では済まなくなってきているのだった。
 もっとも、この地を守る警察官である榊原からは――――取り立ててそういった話は聞いていない。
 つまり、警察としては「秋風市は大丈夫だ」と見ているということだ。
 だから人身売買問題は、この町の人々からすれば現実性を伴わない噂話にしかならない。
「……秋風市の東の郊外、そこに無茶苦茶怪しい建築物があるんだってよ」
「東の方って言うと、三嶋教習所のある方か」
「そ。あそこら辺の森に変な建物があるらしいんだよ。結構昔からあるんだけど、人が出入りするのは誰も見たことがない。そのくせ、夜になると明かりがついてたりするらしい。トドメに、建物と外を遮断する巨大な壁。小さな城塞都市って感じだそうだぜ?」
「ふぅん。妙な話だな。今夜にでもちと様子見てくるか。もしヤバイことやってるような連中なら潰してくる」
「お前ならそう言うと思った。あ、ちなみに俺は行かないから」
 念を押すように、吉崎は人差し指を立てながら言った。
 吉崎は梢の相棒である。
 夜な夜な町に繰り出しては、悪党とでも言うべき輩を退治したり、難事件などを裏から解決したりしているのが梢。
 対する吉崎は情報収集などを中心とした梢のアシスタント。
 今のように事件の兆し、きな臭い存在などを発見しては梢に報告するのが吉崎の役割だった。
 適材適所。
 梢はそうした細々とした作業は実に苦手だった。
 逆に吉崎は、梢と違って普通の人間。
 故に凶悪な犯罪者などが相手だと、危険なのである。
「当たり前だろ、むしろ俺はいつも来るなと言ってるだろうが」
「うわっ、なんか言い方冷たい。それが小学校以来の親友に対する台詞? あの日結婚しようって言ったのは嘘だったのっ!?」
「気色悪い事実を捏造してるんじゃねぇっ! あまり他の奴を巻き込みたくないだけだ!」
「はいはい、分かってるって」
 にやにやと笑いながら、吉崎は両手で梢を牽制する。
 そのまま後ろへ歩いていく。
 ここが二人の分かれ道だった。
「んじゃ、あんま無理すんなよー」
「へいへい。明日にでも、適当に報告してやっからよ」
「うむ。万一やられたら俺がアイスの棒でお墓を作ってやる」
「……そいつぁ御免だ」
 梢はげんなりした様子で笑うのだった。

「郊外の研究機関へ襲撃を仕掛ける」
 薄暗く、どこか閉鎖的な匂いを漂わせている部屋。
 本棚などがいくつも設置されているが、図書館ともまた異とする空気を生み出している。
 そして狭い。
 普通の部屋でさえ息苦しくなりそうな大きさだ。
 独特の雰囲気を漂わせているこの部屋に、今は五人の人間がいる。
「久坂零次、霧島直人、矢崎刃、矢崎亨。君たち四人にこの任務を任せる」
 告げる男は、老練な政治家を思わせる雰囲気を身にまとっていた。
 まだ四十代半ばながら、その生涯において人並外れた経験を積んでいる。
 なにせ、異法人と呼ばれる超常の存在を束ね続けてきたのだから。
 男の名は柿澤源次郎。
 異法人の集団である異法隊、日本秋風支部の長である。
 久坂零次にとっては上司にあたり、同時に育ての親ともいえる人物だった。
「質問があります」
 一番後ろ、もっともドアに近い場所に立っている若者がそっと挙手した。
 年は零次と同じくらいだが、やや童顔。
 温厚そうな顔立ちをしているが、少々頼りない印象がある。
 そんな彼も零次と同じで尋常ならざる力を有する――――異法人だった。
「なんだね、亨」
「目的はなんでしょうか」
「奪還だ」
 両手を組んで、顔に押し当てる。
 普段から険しい顔立ちの柿澤がそうした動作をすると、異様に厳粛な雰囲気を生み出す。
「その研究所は人身売買問題をはじめとして様々な問題が見受けられる。町でも噂になっており、近々警察が動き出すという話もある」
「だとしたら警察に任せておけばいいのでは?」
「いや、そういうわけにもいかん。奪還と言っただろう」
 亨の疑問を一蹴し、柿澤は今回の任務の本題を切り出した。
「研究所に乗り込み、一人の能力者を連れ出すこと。それが今回の任務だ」
「能力者? 異法人とはまた、別のですか?」
 普通は持ち得ない謎の力を有する人を能力者と呼ぶ。
 異法人とはその中の一種に過ぎない。
「そうだ。彼女は分類不能の能力者。警察に身柄を引き渡し、そこから誤って妙な輩の元へ送られると大変なことになるかもしれん」
 告げて、柿澤は亨を見た。
 分かったかね、という視線に亨は頷く。
 ……分類不能の能力者か。
 零次は横で話を聞きながら、どんな能力だろうかと想像をめぐらせる。
 ……あまり危険な能力でなければいいのだが。……俺のように。
 異法にしろそれ以外の能力にしろ、発生過程が異なるだけで、もたらす結果はさして変わらないことが多い。
 そのため細かい分類を気にせず『能力者』という呼称しか使わない者もいる。
 分類不能と言っても、危険な能力とは限らないのだった。
 零次は一応柿澤に尋ねてみた。
「……どんな能力の持ち主かは分かりますか?」
「あまり確実な情報ではないため、能力に関してはまだ何とも言えん。しかし、事実だとするならば、利用する者次第では大変危険な力になるかもしれない」
 だからこそ、こうしてわざわざ命令を下した。
 特定の誰かを保護するというのは、零次たちにとっても初めての任務になる。
「……というわけだ。刃、霧島。君たちはどうかね」
 柿澤は視線を二人に向ける。
 異法隊内でも最大の巨体を有する矢崎刃は、弟である亨とは全く似ていなかった。
 がっしりと引き締まった肉体には無駄な肉がない。
 亨が小さな犬だとするなら、刃は寡黙なる巨象といったところだ。
 彼は口を開くことなく、ただ静かに頷くのみ。
 もう一人、長身痩躯の男――――霧島直人はへらへらとした顔で、
「ま、女の子と聞いたら助けないわけにはいかないな。変な輩に引き取られたら……そりゃもう大変だっ」
 柿澤は霧島を無視し、
「零次、真面目に頼むぞ」
「了解しました」
「おいなんで無視するんだそこ!」
 抗議の声さえ無視し、柿澤は思い出したように告げた。
 今回、彼らが奪還すべき少女のことを。
「その少女の名は――――遥という」

 たん、たん、と音を立てながら梢は森を疾走する。
 時刻は深夜。
 夜の森は静寂に包まれ、梢の存在を咎める者などどこにもいない。
 こんな風景の中に身を置くと、考えたくなることがある。
 気分は爽快だ。
 普通に生活しているだけなら絶対に味わえないような快感がここにある。
 吉崎のバイクに乗って思い切り走り回るのもいいが、これはこれでいいものがある。
 自分だからこそ味わえる、爽快感。
 それは、同時にどうしようもない孤独。
 こんな真似ができる自分が異常なのだと実感する。
 そのことを考えながら、梢は不意に動きを止めた。
 場所は高い壁の真上。
 垂直十メートルくらいの壁を駆け上ったのである。
 ……普通じゃねぇよなぁ。
 たんっ、と上から飛び降りる。
 そして眼前に、白い建物が現れた。
「さてと、どうやって入るかね」
 梢の見るところ、研究施設は広大でありながら、隙がまるでない。
 至るところにセキュリティシステムが設置されているようだった。
 あまりに多く設置されているため、その方面にさほど詳しくない梢でさえ気づいてしまうほどだ。
「こりゃ、大怪盗でもなきゃ潜り抜けるのは無理だな」
 生憎と梢にはそんな芸当は出来そうにない。
 梢が持っているのはあくまでステータスであって、テクニックではない。
 そうした技術や知識などは普通の人間と同じように学ばなければ会得できない。
「仕方ねぇ」
 だから、梢は自分が持っているものを有効活用しようとした。
「――――正面突破といくか」
 獰猛な笑みが、薄暗き世界の中に浮かび上がった。

 警報音が鳴り響く。
 珍しいことだった。
 いつも静かで、音らしき音さえ響かせないこの施設。
 その静寂に終焉が訪れた。
「……?」
 ケースの中に収納されたまま、彼女はぼんやりと天井を見上げた。
 いつもは真っ白な天井が、今は赤く染まっている。
 点滅する世界の中、彼女は静かに自らを封じるケースの蓋を押し上げようとした。
 だが動かない。
 少女一人の非力な力で外せるほど、この扉は軽くない。
「……」
 少女は手を元に戻した。
 そこに諦めの感情はない。
 むしろ、感情というものは彼女にほとんど存在しなかった。
 今手を伸ばしたのは、ほんの感傷に過ぎない。
 けれど、その感傷によって彼女は気づかされた。
 ――――まだ、外に出たいんだ。
 自分自身に尋ねるように、か細い声で彼女は告げた。
 その声を聞く者はいない。
 しかし、彼女は気づいている。
 直感と言ってもいい。
 ――――もうすぐ誰かがここに来る。

 それは、人間がいかに無力かを思い知らされる光景だった。
 たった一人の男、それもまだ高校生に過ぎない少年に――――あらゆるセキュリティシステムは破壊されていく。
 その光景をモニタ越しに見て、研究員たちは恐怖におののいた。
「な、なんだこいつは!」
「まさか、こいつ異法人……」
 その場にいる研究員たちは様々な表情を浮かべている。
 だが一様に恐怖を感じている。
「だから私はやめようと言ったんだ! いつか絶対こうなるって!」
「今更何を言う。どのみちこうでもしなければ、我々はいつしか奴らに屈服せざるを得んのだぞ!?」
「言い争いはいい。とにかく例のサンプルを連れ出して、早々に引き上げるべきだ」
 恐怖に取り付かれると、人間は統率が取れなくなる。
 そのせいで、この警備室内には大混乱が発生していた。
 ただ自分の意見を喚くだけ。
 そうすることで、恐怖を紛らわせようとしていた。
 が、それだけで現実が変わるわけがない。
 腹の底に沈むような音と共に扉が開かれる。
 ここの扉は自動扉だ。
 開く際に、このような音が立つことはまずない。
 普通に開けたのであれば、だ。
 全員の視線がそちらに向けられる。
 そこにいた。
 つい先ほどまでモニタ越しに見ていた存在が、はっきりとした形で眼前に現れる。
「――――見つけたぜ」
 にたりと、凶悪な笑みを浮かべて――研究員たちにはそう見えた――人類を超越した存在は、一歩ずつ研究員たちに歩み寄ってきた。
 ――――殺される。
 誰もがそう思った。
 ここに来た以上、自分たちのしていたことを知ってのことだろう。
 ならば、この男が自分たちを見逃すはずがない。
「うわぁぁっ!」
 その恐怖に競り負けて発狂した一人の研究員が、よりにもよってその男に向けて、隠し持っていた銃を撃った。
 大きく鋭い銃声が響き渡る。
 顔面に直撃したのか、男は顔を仰け反らせた。
 そのまま動かない。
 ……まさか、やったのか?
 一抹の期待が過ぎる。
 誰もが、眼前の化け物が死ぬことを期待していた。
 だがそれでも。
「……痛ってぇな」
 不機嫌そうな言葉と共に、男は顔を元に戻した。
 額の辺りが微妙に焦げているように見える。
「一歩間違って眼球撃たれてたらえらいことになってたぞ。何考えてんだ人に拳銃ぶっ放すなんてよ」
 苛立たしげに、額をさすりながら男――梢は研究員に食って掛かった。
 が、梢に胸倉を掴まれた研究員は恐怖のあまり既に気絶していた。
「って聞いてないのかよ! あぁちくしょう」
 ギロリと周囲を睨みつける。
 研究員一同は竦み上がるばかりで、動くことができない。
「……妙なセキュリティシステムはあるわ、拳銃でぶっ放すわ。こいつはもう様子見じゃ済まされないよな? ここは何だ? 聞かせてもらいたいんだけどよ」
 拒否する者はいなかった。

「はい、お客さんがたどちらまで? ああ、郊外の研究所ですか。あいあい了解、速さが自慢の当タクシー、三分で到着してみせましょう」
「いつからタクシー運転手になった、霧島」
「今日は急ぐわけじゃないんですから安全運転でお願いしま……どわっぷ!」
 無粋なツッコミを入れる零次と亨に機嫌を損ねた霧島車が発進する。
 いつも急発進するため、一緒に乗っている身としては嫌なものがある。
「ハハハ、俺が安全運転なんてできると思っているのかジェフ」
「誰がジェフですかっ!」
「お前だお前。刃はボブで零次はジャックって感じだからな。ちなみに俺はジョニーだ」
 各人のイメージだけで勝手に英名を名づける霧島。
 彼はどんなときでもこんな調子である。
 そんなハイテンションでありながら、車の運転技術は異常なまでに達者だった。
 荒っぽいくせに、今まで事故を一度も起こしたことがないのだから不思議である。
 零次たち四人でチームを組むときは彼がだいたい運転役となっていた。
「で、研究所に到着したらどうするつもりだ?」
 霧島が、誰にとは言わず問いかけてくる。
 遥という少女を保護しろ、と言っただけ。
 つまり、それ以外にどうするかはお前たちに任せる……ということだ。
「念のために俺が先行して様子を見てこよう」
 小さく挙手し、零次が言った。
 刃も頷くことで、その案に同意を示した。
 ただ少しだけ付け加える。
「彼の研究所は広いらしい。俺も行こう」
 普段滅多に口を開かないこの男が語る言葉には、有無を言わせない力強さがある。
 決して強引さは感じさせないが、相手は自然と頷いてしまうのだ。
「じゃ俺は車で待機。亨は……ゲームでもしてろ」
「なんですかそれはっ!?」
 からからと笑う霧島を睨みつけて、亨は頬を膨らませた。
 いちいち霧島の言葉にツッコミを入れているせいで、彼は霧島といるだけで疲労を感じるようになってしまった。
 適当に聞き流せばもう少し楽だろうに、と零次は考えている。
 もっとも零次も霧島に対するツッコミは頻繁に行っているので、あまり人のことは言えないが。
 そんなことをしている間に、零次と刃は車から降りた。
「え?」
「なにが『え?』だよ。とっくに着いてるぞ、速さが自慢の霧島タクシーをなめるな」
「ぐっ……気づけなかった」
 言われて、亨は頭を抱えた。
 霧島が相手ではどうにも敵わないのであった。

「なんだ、これは」
「……」
 研究所に足を踏み入れた零次は、その異常にすぐさま気づいた。
 と言うよりも気づかざるを得ない。
 あちこちで破壊されているセキュリティシステム。
 また、何台かではあるが警備用の、対人兵器のようなものまでが不様な姿で転がっている。
 そんなものが置いてある時点でこの研究所は異常なのだが、零次たちはそれを知ってここにきた。
 問題なのは、それらが全て破壊されているということ。
「……別口か」
 短く漏れた刃の呟きに、零次は焦りを覚えた。
「とにかく中の様子を見に行こう。思ったよりも危険な任務になるかもしれない」
「ああ」
 既に荒廃しつつある研究所。
 より深き闇の中へ、零次と刃は足を踏み入れた。
 その向こうに、出会いが待っている。

 先ほどまで鳴り響いていた警報音が途絶え、嘘のように静まった研究所。
 暗く、先の見えない通路の中を梢は苛立たしげに、だが足早に進んでいた。
 チカッ、となにかが光る。
 侵入者用に設置された監視カメラのような機械から、閃光が梢目掛けて放たれる。
 だが梢は避けもせずにまともに受けた。
 右肩が焼けるように熱い。
 どうやらそこに直撃したみたいだな、と他人事のように梢は考える。
 考えながらも、手加減無用の一撃を機械にくれてやることは忘れない。
 コンクリートの壁までへこませて、機械は沈黙した。
 一撃を喰らわせた拳が少しだけ痛い。
『わ、我々は能力者を作り上げるための材料を得るために、あるルートから人間を買っていた』
 先ほどの研究員たちの声が、脳裏で反芻する。
 その都度梢は歯を噛み砕かんばかりに食いしばった。
『それと、もう一つ……能力者の研究のため、一人サンプルを飼っている』
 そこまで聞いて、我慢できなくなりその研究員を殴り飛ばした。
 コンクリートでさえ粉砕する梢の一撃を喰らって無事にすむとは思いにくいが、殺さない程度の手加減はしておいた。
 もっとも、数日は目覚めないかもしれないが。
「誰にも理解されない、どころじゃない……サンプルだと? 実験材料だと?」
 そして、梢はその部屋の前までやって来た。
「サンプル保管室、ね」
 そう書かれたプレートを、全力で叩き潰す。
「……ふざけんじゃねぇよ」
 誰に言うわけでもなく。
 ただその言葉は、深淵の闇へと掻き消えていく。
 そのまま梢はドアを強引に蹴破り。
 中の部屋からは、温かさを欠片も感じさせない光が溢れていた。
 中に入ることを躊躇う。
 梢はこの光に、なにか嫌悪感のようなものを覚えていた。
 だがそれでも、進むしかない。
「あんな話聞かされて、放っておけるか」
 その言葉で自分を後押しして、倉凪梢はその部屋へと足を踏み入れた。

 世界が歪む。
 形を成さず、変形し続ける世界。
 確固たるものはどこにもなく。
 見えるものが、歪み続けていた。
 だが。
 そんな世界で、彼女は見つけた。
 確固たるモノを。
 自らを封印していたケースが開放される。
 意図的に作り出された気味の悪い空気が消えて、若干まともな空気が胸に入り込んでくる。
 それだけで十分楽になれた。
 そして、目の前には、一人の男がいた。
 まだ少年と言ってもいい。
 目つきは鋭く、悪いと言ってもいい。
 それを除けば割合整った顔立ちをしている。
 彼女は、彼を見上げた。
 彼は、彼女をじっと見詰めた。
「――――大丈夫か?」
 そんな、有り触れた普通の言葉。
 だが――――。
「……うん」
 それと共に差し出された彼の手を取った瞬間――――彼女の世界は一変した。

 ケースの中に無理矢理閉じ込められていた少女。
 梢の手を取って立ち上がった彼女は、どこかぼんやりとしていた。
 腰まで真っ直ぐ伸びた黒髪、穏やかそうな顔立ち。
 なんとなく着物などを着せれば似合いそうな、日本的美人ともいえる少女だった。
 この部屋に突入するまでに抱いていた憤りが、この少女を見た瞬間に霧散していくのを梢ははっきりと感じていた。
 ……なにがサンプルなもんか。
 今、梢の目の前にいる少女。
 彼女はサンプルなんかではない。
 人間ではないかもしれないが、それでもサンプルなどと呼んでいいものではないはずだ。
「え、と」
 無垢な子供のような、純粋さを持った瞳で少女は梢を見つめた。
 まるで全てを透き通すかのような綺麗な目だな、と思ってから、梢はいつのまにか彼女の眼に魅入られていたことに気づいた。
 なんとなく照れ臭くなって鼻を掻く。
「俺は倉凪梢だ。お前は?」
「……」
 少女は相変わらずぼんやりとした調子で梢を見つめている。
 まるでそこに意思というものが欠如しているかのようでもあり、梢は少し心配になってきた。
「なぁ、聞いてる?」
「……」
「お、おーい」
「……」
 少女は眉一つ動かさない。
 こういった女の子に見つめられるという状況を梢は最初照れ臭く思っていた。
 だがあまりにも反応がないと、照れ臭さを感じるよりも心配になってくる。
 まるで、人形を相手にしているような――。
「本当に大丈夫か?」
 そう言って、少女の肩に手を伸ばそうとした瞬間――――。
 きゅぅ。
 などと、かわいらしい音が聞こえてきた。
 梢が発した音ではない。
 というか梢はこんなかわいらしい音を発する真似などできない。
 数多の機械も沈黙している今、音の発生源は彼女しか考えられない。
 よく見ると、いつのまにか少女はお腹に手を当てていた。
 心なしか顔も紅潮している。
「……腹減ったのか?」
 この状況下で、我ながら間抜けな質問だと思いつつ、梢は尋ねる。
「う、うん」
 先ほどまでとは違い、返って来たのはまともな返事だった。
 虚ろだった雰囲気も今では消え去り、少し穏やかだが普通の少女、といった風になっていた。
 目に意思という輝きが宿り、何もかも透き通すような印象は見受けられない。
 ただ純粋さだけではそこから失われず、壊してはいけない大切なもの、という印象があった。
「えっと……私、遥」
「はるか? 遥か彼方の遥か?」
「うん」
 素直に頷く様は、そこらにいる普通の女の子と変わらないように思える。
 梢はこの少女が、自分と同じく人外の力を有する存在なのかどうか分からなくなってきた。
「お前、なんでここにいるんだ?」
 思い切って直球勝負を仕掛けてみた。
 が、これは失敗だった。
 遥の顔が見る見るうちに暗くなっていったのである。
「言いたくないなら別に言わなくていい。何も」
「ううん、そうじゃなくて……私、昔からここにいたから」
 内心、いらぬ質問をしたと後悔する。
 物心着いた頃から、今のような状況だった。
 それが何を意味しているかは、あの研究員たちの態度を見れば自ずと分かると言うものだ。
 誰からも理解されず。
 何の選択肢も与えられないまま。
 なぜ生きるのかも、曖昧で。
 それはどこか――――遠い日の自分を連想させる。
「なぁ、ここ出たいか?」
 だから、そんな質問を梢がするのは当然のことだった。
 偶然やって来た場所で、偶然出会った少女。
 このまま放っておくことなど、自分にはとても出来ないと思わせる少女。
 ここから、助け出したいと思った。
 この少女に可能性を与えてやりたかった。
「外に行くの?」
「ああ」
 力強く頷く梢に、遥は少し逡巡して。
「うおっ?」
 そっと梢の手を握った。
「冷たいね」
「そ、そうか」
「でも大きくて、とても暖かい」
 言っていることは矛盾している気がしたが、梢は顔を紅潮させるばかりでなすがままになっていた。
 妹などで年下の女性には免疫が出来ている梢だったが、同年代や年上の女性には弱い。
 やがて遥は梢の手をそっと離した。
 不思議なことに、遥の手が離れた瞬間に梢は手が暖かくなっていくような気がした。
「出ても、いいのかな?」
 不意に、遥がか細い声で尋ねた。
 それはあまりにも自信のなさそうな声。
「私、出てもいいのかな」
「いいんじゃねぇか。それとも、ここにいたいのか?」
「……」
「お前さ、さっきから、笑わないよな」
「え……?」
 言われるまでその事実に気づかなかったのだろう。
 遥は自分の顔に手を当てて、驚き目を見開く。
「お前、ここにいて笑ったことあるか? 連中に好き勝手にされて、笑ったことあるか?」
「……」
「多分ねぇよ。ここは、あまりにも俺たちにとって、優しくない」
 道具としてしか扱われない場所。
 何も与えられない場所。
 そこはきっと、彼女にとって何もない。
「だったら出ようぜ。ここにいるよりかは、絶対良い」
「……私、出ていいのかな。もう、ここにいなくていいのかな」
 なおも自信のない声。
 彼女はここという場所に怯えているようだった。
 残るのも嫌、去るのも怖い。
 彼女にとって、この場所には良い思い出など何もなく。
 ただ道具として扱われる日々だけがあった。
 そんな彼女を助けたかった。
「――――ああ、出ていい。お前はもう、ここにいなくていい。自由だ、お前は人なんだから」
 おそらく、それが彼女に一番かけるべき言葉。
 梢はそう信じて、この言葉に万感の思いを込めた。
 月光が窓から差し込み、遥の顔を照らし出す。
 遥は静かに涙を流していた。
 本人も気づいていないのか、涙を拭おうともしない。
 呆然とした表情で、梢を見つめていた。
「いいの……?」
「ああ」
「本当に?」
「ああ」
「外……」
「楽しいぞ。いろんなことがある」
「うん……」
 そこで、ようやく遥は笑った。
 それは安堵の笑みか、期待の笑みか。
 それとも、意味などない、ただ自然に浮かび上がった笑みなのか。
 不覚にも、しばしその笑顔に梢は見惚れていた。