異法人の夜-Foreigners night-

-Border Breaks-
第八話「野良犬対飼犬」
 異法隊はさほど人数が多いわけではない。
 そのため異法隊に与えられた専用の部屋というものは。必然的に寂しいものとなる。
 活気というものとは無縁の、薄暗い空間が自然とできるようになっているのだ。
 赤間カンパニー地下十階にある専用のトレーニングルームも同様であった。
 管理人はおらず、適当にマシンが置かれているだけ。
 設備は充実しているが、この部屋に入るだけでなにか薄ら寒いものを感じさせる。
「む」
 そして、どうしても他に誰がいるのか分かってしまう。
 異法隊はその少人数故に、隊員同士はほとんど顔見知りなのだった。
 零次もその例に漏れず、トレーニングルームに入った途端、先客がいることに気づいた。
「刃か、調子はどうだ」
「不調だ」
 刃はバーベルを両手に持ちながら、それだけを告げる。
 零次も口数は少ない方だが、刃は必要なこと以外全く話さない。
 そのため会話もすぐに途切れてしまう。
 零次はバーチャルルームに入った。
 そこでは赤間カンパニーの技術を用いて、擬似戦闘を行うことが出来る。
 対戦相手に関しては、大まかな設定ならできるため割合使う者も多い。
 さらに対戦成績が履歴として表示されるため、異法隊内の実力というものを計ることが出来るのだった。
 もちろん擬似戦闘なので、実際の実力に繋がるとは限らない。
 特にこの擬似戦闘では純粋な身体能力が問われるため、能力重視の隊員には不利なのである。
『一位:久坂零次/4584P――2002/12/23
 二位:矢崎刃/3987P――2003/1/21
 三位:赤根甲子郎/2634P――2003/2/4……』
 零次は相手のタイプを手早く決めていく。
『近接戦闘:格闘型――直情的、単純』
 相手の戦い方と簡単な性格を入力すれば、後は始まる。
 音もなく、零次の目の前にバーチャル映像が現れる。
 人としての輪郭が与えられただけの、出来の悪い人形のような映像だ。
 それでも零次には、その映像があの夜の敵に見える。
『――――お互い化け物同士。普通じゃないのが、むしろ普通だろ』
 眼前の映像がそんなことを言ったような気がした。
 身体全体が浮いたような感覚とともに映像の腹に零次の腕がめりこむ。
 合間を置かずに脇腹に刈り取るような蹴りが入る。
 ……普通ではないのが、普通か。
 反撃の拳を、首を捻って回避。
 そのままカウンターの一撃を顔面に叩き込む。
 ……ならば、俺は普通ということになるのか?
 少なくとも零次は、自分が化け物であることを自覚している。
 化け物として、化け物らしく力を振るう。
 それは確かに普通と言えるかもしれない。
 けれどそれは、やはり『普通』とは違うような気がした。
 相手の動きが徐々に早くなっていく。
 こちらに合わせて動きを変化させていく。
 機械に組み込まれたパターンに過ぎない。
 しかし、なぜか打ち倒せない。
 不思議と手強く思えた。
 ……異常である異常人など、やはり異常に過ぎん。かと言って、普通の世界に溶け込む異常人もまた異常だ。
 結局のところ。
 彼ら異法人は、普通になどなれない。
 ――――何度考えても、零次にはそんな結論しか思い浮かばなかった。
 空気を切り裂く、剛腕一閃。
 それが、避けられる。
「――――ッ!?」
 避けられたことと、眼前に迫る拳に零次は驚愕した。
 刹那、零次の鼻先から衝撃が走る。
「ぐっ!」
 引きずられるように、身体全体が後退する。
 相手の動きは単調。
 見切ることなど造作もない。
 それでも喰らった、この一撃はなんなのか。
 そのとき、時間がきた。
 映像は現れたときと同じく、音もなく消えた。
 勝ち逃げされたようで、気分が悪い。
 そのままむっつりと外に出た零次を見て、珍しく刃が声をかけてきた。
「不調か」
「……そのようだ」
 零次がそう答えたとき――。
『緊急警報、緊急警報』
 周囲が真っ赤に染まる。
 セキュリティシステムが発動し、警戒態勢に入ったのだ。
『異法隊各員に告ぐ、赤間カンパニー内に見慣れぬ男が侵入。社員数名に軽傷を負わせた後、逃走。直ちに捕らえよ』
 零次は眉を潜めた。
「そのようなことまで俺たちにやらせるのか。カンパニー内の警備員にでも任せておけばいいだろうに」
 カンパニーは名目上異法隊のスポンサーだが、実際は零次たちをいいように使っているだけだった。
 資金は得られるが、道具扱いされることを不服とする零次はあまりいい気分ではない。
 だが。
『繰り返す。侵入者を直ちに捕らえよ。なお――』
 少しだけ合間を空けて、アナウンスは告げる。
『侵入者は、諸君らの同類である』
 刹那、零次の脳裏にあの夜の男――――倉凪梢の姿が、浮かび上がった。

 感情的になりやすいところが欠点だとよく言われるし、自分でもそう思う。
 だが自覚したところで簡単に直せないからこそ、性格というものだ。
 とりあえず自分の馬鹿さ加減を慰めるためにそう考えながら、梢は逃走を続けていた。
 ……最初は順調だったんだけどなぁ。
 髪型を変えて、サングラスをかけながらビル内へ侵入。
 適当にうろつきながら社員たちの話を聞き、何かクサイところはないかと探っていたのだが……。
「見つけたぞ、こっちだ!」
 廊下の向こう側から警備員たちが迫り来る。
「ちっ、さすがは大企業……警備員も数揃えてやがるっ!」
 後方からも警備員たちが迫っていることを確認すると、梢は窓を開けてそこから飛び出た。
 普通ならばありえない行動に、警備員たちの動きが止まる。
 ……ここはだいたい三十階か、さすがに落ちたらちと痛いよなぁ。
 片手を窓のところにかけながら、梢は上を見た。
 頂点には、まだかなりの高さがある。
 ……全六十階だって言うからここは真ん中ら辺か。だったら、もうちょい上行ってみっか。
 身体を振り子のように動かしながら、梢は上空へと跳んだ。
 暗くなっていく町並を眼下におさめながら、梢は右腕に魔力を集中させる。
「――――グラス・クリエイション!」
 言葉とともに、エメラルドの魔力が昇華されて長い蔦が現れる。
 浮遊感の中、梢は右腕を上空へと突き出した。
 目標は屋上に見える金網。
「せあっ!」
 掛け声に呼応して蔦が屋上へと伸びていく。
 まるで自分自身の意思を持っているかのように。
 蔦は金網に絡まると、即座に縮んでいく。
 引っ張られるようにして、梢の身体も屋上へとたどり着いた。
 そこには、先客がいた。
 ――――どくん。
 夕闇に覆われた人影には見覚えがある。
 それを前にしたとき、梢は不思議な鼓動を聞いたような気がした。
「やっぱし、ビンゴか」
 言葉と共に降り立った梢の前に立つのは――――久坂零次だった。

「ただいまー」
 元気な声が玄関から聞こえてきた。
 居間で足を伸ばしていた遥は、慌てて出迎えようとして……居間の出口でこけた。
 盛大な音を立てて転ぶ遥の元へ駆け寄る音が一人分。
「だ、大丈夫遥さんっ?」
「ぁぅ……」
 少し足を捻ってしまったらしい。
 起き上がろうとすると、少し足が痛んだ。
「あーもう、お兄ちゃん!? ったく、いないの? どれ、それじゃ」
 と、美緒は遥に肩を貸して居間へと運ぶ。
 遥はぺたんと腰を下ろしてから恐縮した様子で、
「ごめんなさい」
「いいっていいって。それぐらいで謝らない謝らない!」
 実際さして気にしていないのだろう。
 美緒は軽く手を振りながら、遥の向かい側へと腰を下ろした。
「んー、それでどう? ちょっとはここの暮らしにも慣れた?」
「あ、うん。……まだ分からないことだらけでちょっと不安だけど、少しずつ分かってきたかも」
「そっか。ま、半年もすれば慣れると思うよ。私もここでの生活に慣れるまで時間かかったからなぁ」
「……そう言えば、美緒ちゃんや梢君は榊原さんの」
「うん、実の子じゃないよ」
 テーブルに置かれていた煎餅をかじりながら、美緒はさらりと言った。
「私はよく覚えてないんだけど、本当の両親は私たちが幼い頃に亡くなったんだって。それで、その後色々あって」
 そこで美緒は言葉を詰まらせた。
 心なしか表情も若干強張っている。
「……うん。色々あって、お義父さんに引き取られたの」
「そうなんだ……」
 何があったかは分からない。
 しかし、遥からすれば平穏な生活を送っているような彼女にも……何か、言い難い過去があったのだろう。
 大変だったんだろうな、と思う。
「でも私は運が良かった方かもしれないけどね」
「……え?」
「辛いときはお兄ちゃんがいたから。……一人じゃなかった。それだけでも、私は恵まれてたと思う」
 それは、ずっと一人きりだった遥に対する言葉なのか。
 美緒の言葉に含まれた意味が、遥にはよく分からなかった。
 同情されているのか。
 それとも……。
「あ、別に同情してるわけじゃないよ。遥さんがどんな思いをして、どんな風に育てられたか。それは私知らないし、理解出来るなんて思い上がりもないから」
 煎餅を飲み下しながら、美緒はにこやかに笑った。
「私はさ。お兄ちゃんみたいになりたいと思うわけよ」
「梢君みたいに……?」
「そう。普段はアレだけど、いざってときは誰かの側にいてあげられるような感じ」
「……」
「だからね。ええっとさ……うまく言えないんだけど」
 適切な言葉が思い浮かばないのだろう。
 しどろもどろになりながらも、美緒はどうにか口を開いた。
「つまり――――――何か困ったことがあったら、私に言って欲しいってこと。もう遥さんは一人じゃないんだから、いつでも私やお兄ちゃんを頼っていいんだからね!」
 美緒の言葉に、遥はぽかんと口を開けている。
 不思議だった。
 なぜ会って間もない自分に、こんな言葉をかけてくれるのか。
「倉凪君も美緒ちゃんも、不思議だね」
「……そ、そう? どっか変?」
「ううん。変じゃないよ。ただ、とても優しいなって」
 遥がそう言うと、美緒は顔を真っ赤にした。
 照れているらしく、視線が泳いでいる。
「そういうこと真顔で言われると、なんというか照れ臭いなー」
「そうかな?」
「うー、そういうもんなのだ。あー、なんだろねこれ、ドラマのワンシーン?」
 照れ隠しのつもりなのか、美緒の口からは次々と言葉が溢れ出てきた。
 そんな彼女がおかしくて、遥はつい口元に笑みを浮かべた。

 徐々に闇が世界を塗りつぶす時刻。
 春にしては肌寒い空気が、カンパニーの屋上を支配していた。
「……貴様か」
 右手に巻きつけた植物を見て、零次は相手の正体を判断したらしい。
「何をしに来た。どう返答したところで、ただで帰すつもりはないが」
「おっかねぇなぁ……俺は別にやり合いに来た訳じゃねぇ」
 言いながら、梢は植物を消した。
 そのまま両手をひらひらと振って、戦う意思がないことを表す。
「話だと?」
「そう。お前、遥を追ってるんだろ」
「……彼女をどうした」
「どうもしてねぇさ。今は元気にしてるし、俺も別に危害を加えるつもりじゃない」
「それを信用しろと言うのか? カンパニーの社員に手を出したそうだが」
 疑わしげに問う零次に対して、梢は困ったように頭を掻く。
 そのことを言われると、どうも分が悪い。
「そりゃまぁちと問題あったのは認めるけどよ、遥に関しちゃ信用してほしい」
「仮に信用するとして、どうしろと言うのだ」
 少しも信用していないような険しい態度で、零次は刺々しく言い返した。
 これは言ったところで無駄か、と思いながらも梢は一応口にする。
「――――あいつのことは、もう追わないで欲しい」
 途端、零次はますます眉をひそめた。
 視線の険しさはより鋭くなり、そのまま梢を射殺さんばかりである。
「ふざけるのは頭の中だけに留めておいて欲しいものだな。そのような戯言を聞き入れる理由はない」
「なら聞き返すがよ、なんでお前……いや、お前らと言った方がいいか? 遥を追う理由ってのはなんなんだよ」
「我らの隊長が彼女を必要としている。それ以外のことはよく知らん」
「なんだ、お前は下っ端か。なら話にならねぇな」
 チッ、と舌打ちする梢に、零次は怒りをあらわにした。
「下っ端とは言ってくれるな雑兵が。なんなら貴様を今ここで捕獲しても構わんぞ」
「へぇ、やるか? 俺の方もお前を倒して、隊長って奴を引きずり出さないといけなくなったからな……互いに理由はあるわけだ」
 言葉を紡ぐたびに、周囲の空気が変質していく。
 両者の体内にある魔力炉が活性化し、大気に溢れ出るほどの魔力が精製されていく。
 神経に寒気が直接伝わってくるような、そんな気がした。
「こんなクサレ会社の飼い犬に負けるわけにはいかねぇな」
「飼い犬とはよく言う――――ならば貴様は野良犬ということか……!」
 身体が跳ねる。
 異人同士の戦いが、始まった。

 梢の拳がマシンガンなら、零次の拳は大砲だ。
 スピードは梢の方が若干上。
 だが一撃の重みは零次の方が勝る。
「……しゃっ!」
 梢の一撃は速い。
 弾丸を思わせるその一撃は、しかし重さがない。
 零次はあえて避けずにそれを受けた。
「――効いてねぇっ!?」
「当然だ。貴様の一撃は軽過ぎる」
 梢の手首を掴み、そのまま投げ飛ばす。
 空中で身を捻って梢は綺麗に着地した。
「なんて硬い身体してやがるッ……反則だろそりゃ」
「反則ではない。ただ貴様の攻撃が俺に通じないという事実があるだけだ」
第一段階解放、arm。
 そして第二段階解放、body。
 既に零次の上半身は黒く変色している。
 服の上からでは見えなかったのだろうが、彼は既に臨戦態勢に入っていたのである。
 それは戦闘用の装備といってもいい。
 零次は重武装を身に纏う、不屈の大戦車であった。
 対する梢は何も身に着けていない。
 武器はせいぜい具現化させることができる草のみ。
 ナイフ片手に戦車に挑むようなものだった。
「実力差は分かっただろう。大人しく俺についてくるというのであれば、命の保証はしてやるが」
「へっ、誰かさんの言葉をそのまま返すぜ……それを信用しろってのか? 研究所の人間に手ぇ出した分際で」
「……何を言い出すかと思えば」
 くだらない。
 実にくだらないことだった。
「連中は俺たちの同族である遥という少女や、一般人にまで危害を加えていた愚人だ。貴様とて連中を叩きのめしていたではないか」
「かもなぁ。だけどやり方が胡散臭いっての、ああいう連中はそのまま警察にでも渡しておけばよかっただろうが」
 言いながらも、梢は身体を前方に走らせ始めた。
 お互い、悠長に話をするためにこの場にいるのではない。
 零次のリーチを計測して、射程距離ギリギリのところで勢いをそのままに跳んだ。
 落下する梢を待ち受けようとせず、零次はむしろ自分から飛び掛っていく。
 相手の腹が空いていた。
「……はっ!」
 そこに零次は強大な一撃を叩き込む。
 ところが梢はそれを予測していたのか、身体を捻ってそれを避けた。
 だけでなく、零次の腕をそのまま脇に挟み、逃さぬようがっちりと固めた。
「――ッ!」
 間接を狙っていたか……!?
 その疑念に零次の背筋が少しだけ寒くなった。
 いかに防御力を高めようとも、零次の身体構造は人間のそれと変わるわけではない。
 間接を攻撃されれば相応の痛みはあるし、下手をすれば骨を折られる可能性もあった。
 だが梢が考えていたのはそんなことではなかった。
 零次の腕を掴んで、下を見下ろす。
 視線の先は屋上ではなく、遥か下の地面に向けられていた。
「てめぇらはどうもキナ臭い……信用なんか、できるかよっ!」
 言葉とともに、梢は零次を放り投げた。
 それも六十階下の地面に向けて。
 ……これは――――!
 零次の中で赤信号が無数に点滅する。
 いくら人外の身体を有する零次とて、こんな高さから叩き落されては致命的だ。
 空気の壁が全身にぶち当たり、遥か下には人の影が無数に見える。
 このまま何もしなければ激突は必須だった。
 人は空を飛べない。
 故にこのような状況では落下以外の道はない。
 ――――もっとも、零次はただのヒトではなかった。
「第三段階、解放――」
 己の内側に眠る暴悪なる魂を解放する。
 腕。
 胴体。
 ――――それは一見すると"変身"のようだったが、正確に言うならば『侵食』である。
 零次という人の領域に、レイジという本物の化け物が侵食する。
 この腕は零次ではなくレイジのもの。
 この胴体は零次ではなくレイジのもの。
 そして、これから解放するものは――――レイジだけのモノ。
「顕現せよ、人ならざる証明よ。呪われし姿を衆目に晒すがいい……!」
 ……それは、突如として現れた。
 背中にある確かな感覚。
 そして普通の人間ならば絶対に体感し得ない感触。
 屋上から零次の方を凝視していた梢の双眸が、驚愕の色を以って見開かれる。
 その瞳に映るのは、蝙蝠を連想させる羽。
 否――それは羽というよりは、翼と形容すべきもの。
「……悪魔」
 梢の口から漏れた言葉。
 その言葉の通り、零次の背に生えたソレは――――。
 悪魔の翼とでも言うべき代物だった。

 人に翼はない。
 つまり翼とは人ならざるものの証明であり、異形を体現したものである。
 故に。
 この部位は久坂零次にとって、もっとも忌むべきものだった。
「解放させたな」
 零次の現状が、まず人間にはありえなかった。
 空中で静止しているのである。
 翼からは高密度の魔力が溢れ、周囲に強い風を発生させる。
 その風に乗る形で零次は宙に浮いているのだが……第三者には、翼によって空を飛んでいるようにしか見えないだろう。
「俺に、これを解放させたな」
 憤怒。
 零次の中にあるのはその感情のみだった。
「……なんだ、おまっ!?」
 風に乗って動いた零次の拳が、梢の顎にぶち当たる。
 ぼんやりとしていたせいか梢はまともにその一撃を喰らい、反対側の金網に激突した。
 梢が起き上がり、体勢を戻そうとする――が、遅い。
 零次は起き上がりかけた梢の脳天にかかとを叩き落し、さらに体勢を崩した梢の胸倉を掴みあげた。
「これは呪いの翼だ。人ならざるものの何よりの証明だ。それを、貴様は俺に解放させた」
「がッ……」
「――――今度は貴様が落ちろ」
 不必要なまでに力を込めて。
 ――――零次は梢を、屋上から叩き落した。

 落ちる。
 どうしようもないくらいに落ちる。
 梢には零次のような翼はない。
 飛行方法など微塵も持ち合わせていない。
 おまけに顎と脳天に喰らった打撃が効いているのか、意識がひどく混濁している。
 ……やべぇ。
 零次の怒りの理由を考える余裕などない。
 このまま落ちれば、さすがに梢もただでは済まない。
「なにか、しねぇと」
 だが時刻はまだ夕暮れ時。
 周囲には通行人たちの姿もある。
 誰もいなければ、以前のように草をクッションにして着地すればいい。
 しかしこの状況でそんなことをすれば大騒ぎになるのは必須だった。
 もっとも、普通ならば後のことなど考えずに自分の命を優先するものだが。
「くそっ……どこか、どこかにひっかけねぇと」
 右手にどうにか植物を具現させると、梢はビルに目掛けて草を伸ばそうとする。
 しかし意識が濁っているためか、どうにも身体がうまく動かない。
 地面への距離は段々と縮んでいく。
 身体は動かない。
 このまま激突すれば、良くて重傷、悪ければ即死。
 ――――それは、許せることなのか。
「許せねぇよなぁ」
 ――――こんなところで簡単に負けてしまうことは。
「……許せるもんじゃねぇ」
 まだ梢には、守らなければならない人たちがいる。
 守ろうと決めた人たちがいる。
「――うおおおおぉぉぉぉぉっ!」
 叫ぶ。
 現状を打破しろと、身体全体で咆哮をあげる。
 周囲の視線が、一瞬だけ梢に集中した。
 直後、赤間カンパニー本社ビルの目の前に、小さな穴が開いた。

 眼下で人々が騒いでいる。
 零次は屋上からそれを見下ろしていた。
 既に翼をはじめとする武装は解除している。
 しかし、その表情には不快感がありありと浮かんでいた。
「あの男は、何なんだ……」
「俺たちと同じ、規格外さ」
 いつのまに来ていたのか、零次の背後に影が一つ。
 夕闇に呑まれるようにして立つ、霧島直人だった。
「あの調子じゃ対象は逃げ出したみたいだな。地面に激突する寸前に何をしたのかは知らないが、もう探しても見つからんだろうよ」
「随分と嬉しそうに言うな、霧島」
「そりゃまぁな。気分爽快すっきり全開ってもんだぜ」
「っ!」
 零次は反射的に振り返り、霧島の胸倉を掴み上げる。
「任務を妨害され、一般人にも手を出され、挙句また逃亡を許したんだぞ!? なぜ、そうやって笑っていられる!」
「そりゃだって、任務に関しちゃ向こうはそんなんお構いなしだろうし」
 それに、と霧島は続ける。
「一般人ってのは赤間の社員だろ。様子変だったから吐かせたが、連中、俺らのこと家畜同然に言ってたらしいぜ」
「――――何?」
「俺らの悪口散々に言いまくってたんだとよ。ま、具体的な内容は聞かなかったが。大体察しはつく」
 つまり。
 倉凪梢は、わざわざ秘密裏に侵入しておきながら。
 ただそれだけのことに怒り、発見されてしまったということだ。
『やっぱし、ビンゴか』
 零次が現れたとき、半ば予想していたのはそういうことである。
 梢は社員たちの話を聞いているうちに、既にある程度のアタリはつけていたのだった。
『こんなクサレ会社の飼い犬に負けるわけにはいかねぇな』
 梢の言葉が脳裏に蘇る。
 零次は霧島から手を離し、金網を殴りつけた。
「飼い犬……くそ、飼い犬か」
「あん?」
「なんでもない」
 怪訝そうに眉を潜める霧島を制して、零次は屋上の扉を開いた。
「――――ただ、不調なだけだ」
 自分に言い聞かせるように呟き、零次は屋上の扉を閉じた。
 取り残された霧島は、屋上から地を見下ろしながらけたけたと笑う。
 面白くてたまらない。
 本当に、久々に気分爽快だった。
「ふふん、面白くなってきたじゃねぇか」
 眼下には喧騒が広がっていく。
 やがて町には宵闇が訪れようとしていた。