異法人の夜-Foreigners night-

-Border Breaks-
第十話「自由の選択」
 思わぬ痛手を受けた。
 夜道、梢は住宅街をゆっくりと歩いている。
 悲鳴を上げる身体を引きずるようにして、榊原屋敷を目指している。
 人と遭遇しなかったのは幸いだった。
 今の姿を見られ、悲鳴でも上げられたらたまらない。
 なにしろ全身が血まみれだった。
 不良同士の喧嘩でもこうはならないだろう、という程の有様である。
 ……頭切れたのと、背中の古傷にたたったのがまずったなぁ。
 身体の方は散々なのだが、梢は不思議なほど落ち着いていた。
 ……赤間カンパニーが黒だって分かっただけでもいいか。連中のはっきりとした正体とか、細かいことは分からないけど……あー、あと平和的解決が望めそうにもないのはちと痛かったな、うん。
 その辺は後々吉崎にでも調べてもらうしかない。
 本当なら自分で全部やりたいところだが、情報調査に関しては吉崎の専門分野だ。
 それにしても、と梢は思う。
「……俺、どうやって助かったんだっけ?」
 その辺りの記憶がすっぽりと抜け落ちてしまっている。
 覚えているのは、屋上であの悪魔に叩き落されたところ。
 そして梢は、いつのまにか下水道で倒れていたのだった。
 状況から考えて、また負けたのだということは分かる。
 しかし、あの高さから叩き落されてなぜこの程度の怪我で済んだのかがよく分からない。
 いかに梢が頑丈といえど、下手をすれば死んでいてもおかしくなかったというのに。
「痛っ」
 不意に背中に痛みが走る。
 燃えるような熱さと共に、激痛が梢の背中を駆け回る。
 どうやら下水道に落下したときに、派手に打ち付けたらしい。
 ……あー、くそ。
 榊原屋敷が見えてきた。
 いつもなら三十秒とかからない道のりが、今はやけに遠く感じる。
 焼けるような痛みが背中から流れてきた。
 ……少し、眠くなってきた、な。
 景色が霞む。
 後少しで家に着くというのに。
 じゅ、と焦げるような匂いがした……ような気がした。
 背中が熱い。痛い。痛くて熱い。
 ――――そこで梢の意識は、途絶えた。

 熱い。
 けれど、決してそのことを口にしたりはしなかった。
 言葉に出せば、口を開いてしまえば、そこから覚悟まで溢れ出てしまいそうだったから。
 下では幼い妹が、怯えた眼差しをこちらに向けていた。
 ……大丈夫だ。
 心の中で呟く。
 妹にこの言葉が伝わっていることを祈りながら。
『――――っ! ――――っ!?』
 何か叫び声が聞こえる。
 叫び声と共に、背中に痛みが走る。
 このときの理由はなんだったか。
 確か、近所の人が新しいバッグを買ったのに、自分の旦那は買ってくれないとか……そんな理由だった気がする。
 背後に立つ親戚のおばさんは、きっと凄まじい形相をしているだろう。
 それを妹に見せたくなかったから、彼女の顔を覆い隠した。
『だいたい、あんたらの面倒なんか見なけりゃね、私だってあれぐらいの物――――!』
 熱い。
 痛い。
 当たり前だ。
 さっきまで料理に使っていたフライパンで殴られれば、熱くて痛いに決まっている。
 既に何度殴られたかは覚えていない。
 着ていた服はボロボロになり、剥き出しの背中は凄いことになっているだろう。
 幸い背中は見えないから、気持ち悪いものは見なくてすみそうだった。
『あんたみたいな化け物、なんで引き取っちまったか知ってる!? 周囲がうるせーのよ! 自分たちだってあんたら捨てたくせにさぁ! 人がこんなもんいらないって言ったら、ひどいとか言うし! 訳分かんないわよ! あいつらも! あんたも!』
 化け物と言われることに抵抗はなかった。
 事実、自分は人と違うのだから。
 そんなことは分かっていた。
 それでも、人として生きたかった。
『あんたみたいなのはさっさとくたばっちまえばいいのよ! ええ? なんなら殺してあげようか、あんた化け物なんだから殺しても殺"人"罪にはならないわよねぇ?』
『……それは嫌だ』
 それまで黙って殴られていた少年は、そこで初めて口を開いた。
『守るって決めた奴がいるから……まだ、死ねない』
 少年は、痛みに顔を歪めながらも……優しい笑みを妹に向ける。
『大丈夫だ。……俺が、守ってやるからな』
 そこで夢は終わり。
 なんてことはない。
 かつてあったことを再現した、ただそれだけの夢だった。

 目を覚ますと、頭の下に柔らかな感触。
 視線の先には、心配そうな少女の顔。
「……梢君」
「――――名前で呼ぶなって言ってんだろ」
 ここ数日、何度か交わした会話。
 それに安らぎを感じつつ身を起こそうとして、両肩を遥に押さえられた。
「ひどい怪我だったんだから。まだ動いちゃ駄目」
「今、何時だ?」
「十時半」
「飯、ちゃんと食ったか?」
「……ん」
「なんだよ食ってないのかよ。ま、美緒は作れないしな……お前なら出来るかな。今度教えてやるよ」
「いいよ。それより……今はゆっくり休んで」
 大丈夫だ、と喉まで出かかった言葉を飲み込む。
 眼前の少女が、泣きそうな顔をしていたから。
「おいおい、大丈夫か? そんな顔、するもんじゃねぇぞ」
「……」
「遥?」
「ごめんなさい」
 不意の謝罪だった。
 何のことだか分からず、梢は眉をひそめる。
「いや、いきなりごめんなさいって言われてもよ。何で謝るんだ?」
「見ちゃったから」
「は?」
「――――夢を」
 その言葉に、梢はさっきまで見ていた夢を思い出す。
 昔の夢。
 意識を失う寸前、背中の痛みが駆け回っていたせいであんな夢を見たのだろう。
 倉凪兄妹の両親が亡くなってから、榊原に引き取られるまで。
 その間、様々なことがあった。
 半端な年齢の子供など厄介者に過ぎず、親戚の間をたらい回しにされ続けた。
 加えて梢は、その頃から自身の異能を発現させつつあった。
 気味悪がられ、避けられ、忌み嫌われ、虐待され。
 それでも馬鹿みたいに、幼い妹を守ることばかり考えていた頃。
 遥がなぜそんなものを見たのか、梢にはすぐに分かった。
「……なるほど。それがお前の力か」
 遥も梢と同じ、人にあらざる力を持つ者。
「――――触れた対象の内面を知りえる力。……あの人たちは、『リンク・トゥ・ハート』って言ってた」
 そこまで言うと、遥は悲しそうな顔を浮かべた。
「勝手に覗き見て、ごめんなさい。……こんな能力、気持ち悪いよね」
「……いや、そんなことはないと思うぞ」
「そうかな? こうしてる今も、私は倉凪君の心を覗き見てるようなものなんだよ?」
 例えば、と彼女は続ける。
「この怪我。……私のせいなんだよね」
「いや、違うぞ」
「……」
 即答する梢に、遥は少し驚いたようだった。
 何を言うべきか迷っているのだろう。
 小さな唇は、開いては閉じ、開いては閉じの繰り返しだった。
「……うん、倉凪君は本当にそう思ってるみたいだね。でも、原因は私にあると思う。少なくとも、私はそう思う」
 遥を助けた際に、彼女を狙う謎の男と戦った。
 遥を平穏な生活に送るために、男と話をつけに向かった。
 そして、失敗し――――こんな怪我を負った。
「違うだろ。連中は勝手にお前を追いかけて、俺は勝手に連中と話しつけに行った。お前のせいじゃない」
「……不思議だね。倉凪君は、本気でそう思ってるんだから」
 困ったなぁ、と遥は笑う。
「何度か実験で人の心を見たことはあったけど……倉凪君は、暖かいね」
「そうか?」
「うん。不思議なくらい。……もしかしたら、これが普通なのかな?」
 普通を知らない少女。
 その姿は、どこか昔の自分を思い起こさせた。
 榊原家に来て、誰にも殴られない生活に歓喜した。
 吉崎という友人を得て、一緒に遊ぶ度に嬉しさで泣きそうになった。
 無愛想だが、肝心なところではちゃんと守ってくれる榊原に感謝した。
 ……だから。もし自分と同じような人がいたら、助けてやりたいと思っていた。
「……そっか。だから私を助けてくれたんだね」
「まーな。っつーか、本当に思ってること全部分かるんだな」
「うん。全部分かっちゃう。私自身が知りたくないと思っても、強い意志は流れ込んでくる」
「俺の意志はそれだけすげぇってことだな」
「あはは……そうだね。そうかもね」
 遥はどこか不安そうな表情になる。
 まるで迷子になった子供のような顔で、
「倉凪君。……離れない?」
「……あ、何でだ」
「だって、こうしてると……全部分かっちゃうよ?」
 今、梢は膝枕をされている。
 触れれば相手の内面を読み取る、という遥の能力が常時発動しているのだ。
「こうしてて、怖くない?」
「……いや。どっちかって言うと気持ちいい。なんか楽だ」
 大きな欠伸をしながら、梢はそんなことを言った。
 と同時に、眠気が襲い掛かってくる。
「まだ疲れてるのかな……ぐあ、眠」
「そう? それじゃ、休んだ方がいいよ」
「んー……でもこのままだと、お前足疲れるだろ」
「平気だよ。せめてもの恩返しと思って欲しいな」
「……馬鹿。恩返しされるようなこと、俺は……しちゃ、い……ね……」
 少しずつ意識が落ちていく。
 先ほどのものとは違う、心地よい眠りへの誘い。
 その中で、梢は確かに聞いた。
「――――ありがとう」

「……眠ったかい?」
「うん」
 膝の上で眠る梢を見ながら、遥は後ろから聞こえてきた声に答えた。
 ドアが開かれ、部屋に吉崎が入ってくる。
「吉崎君。ありがとう」
「え?」
「倉凪君をここまで運んでくれて。……なんとなく、倉凪君は素直にお礼言わなさそうだから。私から代わりに」
「……それも、力で分かったことかい?」
 吉崎は淡々としていた。
 対する遥は、どこか辛そうな顔を浮かべている。
「悪いけど俺は倉凪程楽観視することは出来ないよ。既に二回、倉凪は君を狙う連中と交戦し、敗れてる。しかも相手は複数くさいし、組織が背景にある可能性もある。いくら倉凪でも、一人じゃ無理だ」
「やっぱり私、出て行った方がいいかな」
「……」
 吉崎は答えない。
 喉に物が詰まったような顔のまま、彼は背を向ける。
 部屋の出入り口のところに立ち、
「少なくとも、そいつは君がここにいることを望むと思うよ。状況がどんな絶望的になろうとも。……そいつだけじゃないか。多分美緒ちゃんも、師匠も同じだ。この家の連中は、皆揃ってお人好しだからね」
「……そうだね。ついこの前会ったばかりの私にも、こんなに親切にしてくれる」
 頭や身体を包帯だらけにした梢を見る。
 こんな怪我だらけになっても、彼は遥を責めようとしなかった。
 遥のせいだとすら思わなかった。
 逆に、遥を助けたことを……誇らしく思っていた。
「何事もなければ、それで良かった。けど、君を狙ってる連中は多分かなりやばい。倉凪だけでどうにかするのは難しい」
「うん」
「俺や美緒ちゃんなんかじゃ、きっと話にもならない」
「うん」
 吉崎の言葉はひどく遅かった。
 傷つき倒れた梢を見つけてから、今このときまで。
 ずっと何を言うべきか悩んでいたのだろう。
 そして、口にしたくない結論に辿り着いたのだろう。
「……吉崎君も、お人好しだね」
「……え?」
「だって、お人好しな皆のために。きっと誰も口に出来ないことを、言おうとしてる」
「――――」
 吉崎は思わず振り返り、遥を見た。
 そんな彼に、遥は飛び切りの笑顔を見せ付ける。
 心配ないよ、と言わんばかりに。
「私は普通が何なのかほとんど分からなかったし、倉凪君が見せたかったものが何かも理解出来てないと思う。……それでも、倉凪君に助けられて嬉しかった。この家に来れて、嬉しかった。短い間だったけど、楽しかった。――――倉凪君に、そう伝えて欲しいな」
 膝から梢をそっと降ろす。
 相変わらず深い眠りに落ちているのか、梢は全く動かなかった。
 遥はそっと立ち上がり、吉崎の横を通り抜けた。
「それから、ごめんなさい」
 その言葉にどんな意味があるのか。
 それは、言った遥でさえも理解出来ていない。
 ただ、言わずにはいられなかった。
 吉崎は答えない。
 ちらりと見えた彼の後姿は、微動だにしなかった。
 それを確認すると、遥は静かに玄関へと向かう。
 夕方痛めた足が歩みを遅くさせて、それが少し嫌だった。
 誰もいない玄関。
 出かけるには遅すぎる時刻。
 それでも、遥は不自然さを感じたりはしなかった。
 出かけるのではなく、出て行くのだから。
「――――お邪魔しました」
 口にしてから、まさにその通りだと思った。
 結局、助けられ、迷惑をかけ、それだけだった。
 そのことが、少しだけ寂しかった。

 夢を見ている。
 かつては現実だった夢。
 それは決して心地よい夢ではなかった。
 人間扱いされたことなどない。
 しかし憎悪を浴びせられたこともなかった。
 情念を持って彼女に接する者は皆無。
 言うなれば彼女は道具に過ぎなかった。
 いつも白い部屋に一人きり。
 何もない部屋から見えるのは、遠い夜空に浮かぶ月。
 それが遥の世界だった。
『私、なんでここにいるの?』
『お外には何があるの?』
『あなたたちは、誰?』
 問いかけは常に虚しい。
 やがて、彼らは自分に対する情愛を持っていないことに気づいた。
 普通の子供ならば、親に愛され、友達と駆け回っているような頃。
 ただただ、小さな窓から見える月を眺めていた。
 悲しいと思ったことはない。
 そう思うだけの材料すらなく、彼女にとってはそれが当たり前だった。
「お月様」
 ある日、月を見上げながら呟いた。
「なんでお月様はお空にいるの? お空は広いの? なんで形が変わるのかな?」
 問いかけに答えるはずはない。
 月はあまりにも遠すぎて、あまりにも彼女とは違いすぎた。
 彼女の周囲にいる人間も、同じだった。
 悲しいと思ったことはない。
「私もお月様と同じところに行きたいな」
 それは彼女の唯一の願望。
 停滞した自分自身という存在からの解放。
 彼女を照らしてくれる分、周囲の人間よりは月の方が暖かく見えた。
 だから人ではなく、月に頼んでみた。
 ただそれだけのこと。
 返事は、なかった。
 月はあまりに遠く、彼女とは違いすぎたから。

 目が覚めると、どこからか怒鳴り声が聞こえてきた。
 というよりは、その声のせいで目が覚めたといった方がいいだろう。
「……あれ?」
 昨日寝るときにあった感触がない。
 周囲を見渡すが、どこにも彼女の姿はなかった。
 ……夢のことを聞こうと思ったんだけどな。
 二度目の夢。
 梢にとっては覚えのない出来事。
 しかし、荒唐無稽な創作とも違うような現実感。
 あれは、遥の夢だったのではないだろうか。
 夢の出来事に思いを馳せていると、次第に意識がはっきりとしてきた。
 怒鳴り声の内容も段々明確になって来た。
 どうやら美緒が誰かに向かって怒鳴り散らしているらしい。
「あんだよ朝っぱらから……」
 口にして、梢は自分の言葉のおかしさに気づいた。
 ……あれ、美緒が朝っぱらから?
 おかしい。
 そんなこと、滅多にない。
 時間を見るとまだ六時前だった。
 やはりおかしい。
 ――――――こんな時間に、美緒がなぜ起きている?
 怒鳴り声も、よく聞けば尋常ならざる様子だった。
「なんで!? なんで……そんなことしたの!」
「……ああするのが一番だと思ったんだよ」
「ふざけないでよ! 吉崎さんが、そんなこと言う人なんて思わなかった!」
 どうやら吉崎と口論しているらしい。
 否、口論と言うには一方的な気がした。
「遥さんの境遇は分かってるでしょ!? 右も左も分からないんだよ?! それなのに、なんでそんなこと言えるのさッ!」
 ……遥?
 その名前が出てきたことに何か強い不安感が湧き上がって、
「――――――遥さん追い出すなんて、何考えてんのさッ!」
 その言葉を聞くと同時。
 梢の身体は跳ね上がり、瞬時に隣の部屋へと飛び込んだ。
 突如開いたドアに口論していた二人が視線を向ける。
 が、それより速く梢は吉崎に飛びかかっていた。
 あっという間に彼を押し倒し、馬乗りになって襟首を掴み上げる。
「……おい、寝起きの俺にも分かるように説明してくれよ」
「く、倉凪……!」
 吉崎は苦しそうな顔を浮かべながらも、決して屈さぬ瞳で梢を睨み返した。
「彼女自身に、何か落ち度があったわけじゃないさ……」
「だったら何で、追い出した?」
「彼女を狙う連中が、問題なんだよ……!」
 鬼のような形相で吉崎を睨む梢。
 だが吉崎も、それに負けじと凄まじい表情を浮かべた。
「相手はかなりヤバイ組織で、しかもお前はその中のたった一人に二回も負けてるだろうが! どうするつもりなんだよ、解決出来る見込みなんてねーじゃねぇかっ! 下手すりゃ彼女やお前だけじゃねぇ……美緒ちゃんや師匠まで巻き込まれるかもしれないんだぞ!? 感情論言ってんじゃねぇぞ、文句あるんだったら解決法並べてみろよっ!」
「――――見込みならある」
 声だけは静かに、だが凄味を利かせて梢が語る。
「別に負けたっていい。勝つのは目的でもなんでもねぇ。要するに、連中に遥を諦めさせればいいだけのことだ」
「……簡単に言うじゃないの。なら、どうやって諦めさせるんだよ」
「こっちが諦めなければそれでいいだろ。何があっても連中なんかには遥は任せられない。お前の言うことが事実なら尚更だ。やっと手に入れた先の自由が、そんな危険なところであってたまるかよ」
「それが感情論だって言ってんだよ。大体、諦めないってどんだけ曖昧なんだよ。お前、連中が諦めるまで彼女を守り続ける気かよ!?」
「遥だけじゃねぇ。守れるものは、全部まとめて守る」
 それは本気の言葉だった。
 遥でなくとも分かるくらい、倉凪梢は本気でそんな言葉を吐いていた。
 実行可能かどうか、ではない。
 可能性があるなら全身全霊でそれを行う。
 それが倉凪梢だった。
「――――大丈夫だ、なんとかなる」
 吉崎や美緒にとっては聞きなれた言葉。
 不思議と、本当になんとかなりそうな気がしそうな響きがある言葉だった。
「……お前、本当に無茶し過ぎだっての」
「悪いな、それが俺だ」
「全然悪いとも思ってねぇだろ。……ああくそ、ったくちくしょうが!」
 強引に梢を押しのけ、吉崎は身を起こす。
 鋭い視線の倉凪兄妹を前にして、彼は苛立たしげに髪をかきむしった。
「……彼女の行き先は知らない。赤間カンパニーに行ったのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。でもそんなに遠くには行ってないだろ」
 どっしりと腰を下ろして、投げやりに語る。
「言っとくけど、俺だって彼女が嫌いだって訳じゃない。好き好んでこんなことしたんじゃない」
「分かってるよ。お前なりに悩んで考え出した結論なんだろ」
「ああ。……お前とは違う結論だったみたいだけどな」
「止めるなよ」
「止めねーよ」
 それを聞いて、梢はすぐさま部屋から飛び出した。
 あの日、研究所の中で初めて会ったときの無機質な表情。
 なんとなく、この家から出てしまえば――――彼女がまたあんな顔をしそうで嫌だった。
 ずっと独りだった少女。
 そこに救いの手を差し伸べておきながら、こんな形で追い出される。
 それは、とても残酷なことだと思った。
 理不尽な現状が腹立たしかった。
 妙な力を持って生まれたせいで、人として扱われなかった。
 ようやく救われたと思ったら、今度は危険な連中に狙われて。
 彼女は何もしてないのに、周囲が次々と彼女に不幸を送り込んでいるように見えた。
 きっと、彼女は出口のない迷路に閉じ込められているようなものなのだろう。
 だったら。
「――――誰かが、出口を作ってやらねぇとな」

 独り。
 遥は一人、公園のベンチに座って空を見上げていた。
 その表情は渇ききった砂漠のように、虚無の色を深めている。
 そこにいるのは、榊原家にいた遥ではない。
 あの研究所にいた頃の、哀れな実験材料だった。
 ……これからどうしようかな。
 榊原家を除けば、行けるところなどない。
 赤間カンパニーというところが自分を狙っているなら行ってみようか、とも思ったが……場所が分からなかった。
 だから彼女は、偶然見つけた公園で休んでいた。
 痛めた足に手を当てながら、じっと空を見上げている。
 雲が流れる。
 風が吹き、葉が舞い散る。
 その中で、遥だけが変わらない。
 ……結局、私はどこにも行けないし、何も変わらない。
 研究材料としての意味すら失くした今となっては、生きる意味さえなかった。
 死ぬ理由もなかったから、ただここでじっとしている。
 吉崎のことは怨んでなどいない。
 どちらかというと、羨ましかった。
 彼は汚れ役になることで、梢や美緒を守った。
 遥がこれ以上榊原家に滞在していたら、梢はまた怪我をするかもしれない。
 最悪、命さえ落としかねない。
 相手が危険だということは、遥も彼から聞いている。
 あの研究所を壊滅させた、梢と同等の力を持つ者たちの集団。
 確かに適うはずなどないと思う。
 だから、彼の判断は適切なものだ。
 おそらく梢や美緒は、彼に対し怒りをぶつけるだろう。
 ……二人とも、お人好しだから。
 けれど、吉崎は後悔しないだろう。
 どんなに罵られようと、彼は二人を守ったのだから。
 そこまでして守ろうと思うものがあるのは、羨ましかった。
 遥には何もない。
 友達もいないし、家族もいないし、味方も敵もいない。
 対等の存在がいない。
 いるのは、彼女を利用しようとする者だけ。
 必要なのは遥の力であって、彼女自身は必要とされていない。
 彼女自身はあまり好きじゃない『リンク・トゥ・ハート』。
 この力こそが彼女にとって唯一の存在意義であり、同時に災厄の元でもある。
 ……こんな力いらないと思ったことはある。でも、これがなくなったら……私は本当に、何もなくなってしまう。誰からも……必要とされなくなる。
 そこから導き出される結論。
 それは――――結局、彼女に『普通の生活』など無理なのだということ。
 異常な力を持ちながら日常に溶け込むのは異質であり、異常を肯定して生きるのは異端。
 彼女の希望は、そこが終点だった。
 救われない、とは思わない。
 それが当たり前だったから。
「……あれ?」
 だったら。
 なぜ、今。
 ……私は泣いてるんだろう。
 空が霞む。
 目からこぼれた雫が頬を伝って流れ落ちる。
 胸の奥に、何かがこみ上げてくる。
 ……私は、その結論を否定したいのかな。
 例えば。
 日常の中で、楽しそうに暮らす――――あの少年のようになりたかったのか。
 なぜ彼は良くて自分は駄目なのか。
 もしかしたら、自分も彼のようになれるのではないか。
 そんな希望は、昨夜捨てたと思っていたのに。
 ……まだ、どこかで期待してるのかな。
 それは駄目だと自分に言い聞かせる。
 そんな期待をしては、榊原家の人々に迷惑をかけるだけだった。
 ……独りで充分。独りで充分、独りで充分独りで充分独りで充分――――!
 目を瞑って、一人心の中で繰り返す。
 涙を流しながら、孤独であることを必死に肯定しようとする。
 それは、
「……なんて痛々しい顔してんだよ、お前」
「――――――」
 不意に、正面から声が聞こえてきた。
 それはどこかで待ち望んでいた声。
 今、必死に否定しようと思いながらも……待ち望み続けた声だった。
 目を開ける。
 そこに、倉凪梢が立っていた。

 一人涙を流す少女に、梢はそっと手を差し伸べる。
 それはあの日の出来事を、もう一度やり直しているようだった。
 あの晩と違い、梢の背にあるのは月ではなく太陽。
 閉鎖された場所ではなく、開かれた場所。
「ほれ、帰るぞ」
「……」
 差し伸べられた手をじっと見つめながらも、遥は手を出さない。
 梢もそこからは動かない。
 無理矢理連れ帰るつもりはなかった。
「あそこに帰りたかったらこの手を取れ。俺は受け入れる。美緒や師匠もきっと受け入れるだろう。吉崎の奴も、お前が嫌いな訳じゃない。状況が解決すれば、あいつだって文句は言わない」
「無理、だよ」
 震える声で、遥は否定する。
 解決など出来ないと。
「だって梢君そんなに怪我してる。私がいなければ、そんな怪我しなくて済んだのに! 次はもっと酷い怪我かもしれないんだよ!?」
「お前のせいじゃねぇって言っただろ。それに、俺は自分の意志でお前を助けたんだ。今こんな形でお前を見捨てるぐらいなら、最初の日にそうしてるさ。……俺はいくつかある選択肢の中からこの道を選んだ。けどお前はどうだ?」
「……私?」
「選択肢なんかなかっただろ。どうすることも出来ないまま、周囲に束縛されて生きてきたんだろ。もしここで俺の手を取らなかったら、多分これからもずっとそうだ」
「……」
「だから俺は、お前に自由への選択肢をやりたかった。お前が嫌ならそれでいい。だけど、お前あのとき俺の手を取っただろ。自由が欲しいと思ったから、俺の手を取ったんだろ!? 今は違うのか、自由なんかいらないって思ってるのか、あの家の生活はそんなに嫌だったかよ!」
「そんなことないッ!」
 朝の公園に響き渡る絶叫。
 木々で休んでいた鳥たちが驚いて飛び去っていく。
「私だって自由になりたいよッ! もっとあの家にいたかったよ! でも無理なんだもん、誰かが私を狙ってるなら……梢君たちに迷惑かけちゃうかもしれないじゃない! 誰かが傷ついて、それで得る自由なんか……」
「甘いんだよ、お前は。自由ってのは簡単に手に入るもんじゃねぇ。自分だけじゃ絶対手に入らないって言っても過言じゃねぇ。だから俺は手を差し伸べた。誰かが傷つくのが嫌だ? んな半端な気持ちで、俺の手を取ったのかよお前は!」
「……っ!」
「俺は知ってる。誰にも頼れず、自力だけで生きていくことの辛さを。自分だけで生きるってのはな、ほとんど何も選べないと同義だ。そんなとき、俺たちの場合は師匠が助けてくれた。俺たち兄妹を引き取る際には随分苦労したらしいけど、俺は申し訳ないとは思わない。ただ――――感謝してる」
 今すぐ彼女の手を取って連れ帰りたい。
 その衝動を抑えながら、梢はたたみかけるように言う。
「俺はお前を助けたいと思った。妙な力のせいで可能性を全部潰されたお前に、可能性を作ってやろうと思ったんだ! こんな怪我なんざどうだっていいと思えるぐらいの覚悟でな。お前はどうなんだ? 俺が『この程度の怪我』をしただけで、望み続けたものを手放すのかよ!」
「わ、私……」
 遥が何かを言いかけて、口を閉ざす。
 そこで梢は声を和らげて、
「……お前が選べ。この手を取るかどうか。――――俺としては、取って欲しい」
 それ以上言うことはなかった。
 梢は黙ったまま動かない。
 遥はじっとその手を見つめていた。

 誰からも差し伸べられることのなかった手。
 何も与えられなかった彼女が、初めて貰ったもの。
 それは掛け替えのない可能性だった。
 取りたい、という思い。
 取っては駄目、という考え。
 その二つがぶつかり合い、次第に磨り減っていく。
 どうすればいいのか分からない。
 どんな選択をしようとも、眼前の少年はそれを受け入れるだろう。
 だからこそ、選び取ることが怖かった。
『それでは、本日の実験を行う』
 薄ら寒いほどの、平坦な声。
『リンク・トゥ・ハート。余計な思考は直ちに停止せよ』
 送られるのは問いかけではなく、決定事項だけ。
 それに抗う術もなく、彼女は従って生きるしかなかった。
 だからこそ。
『――――ああ、出ていい。お前はもう、ここにいなくていい。自由だ、お前は人なんだから』
 あの晩、初めて許された。
 考えることを。
 選び取ることを。
 本当に、嬉しかった。
『……お前が選べ。この手を取るかどうか。――――俺としては、取って欲しい』
 だからこそ、辛い。
 選ぶことがこんなにも辛いことだとは、思わなかった。
 全てを諦め、誰かの望むままに生きればもうこんな辛さは味わうこともない。
 それはある意味、心地よいだろう。
 けどそれは――――生きることの意味を、投げ出すことのように思えた。
「私……自由が欲しい」
 ぽつりと呟く。
 だが、彼女はまだ手を動かさない。
「辛くても苦しくてもみっともなくても意地汚くても。……私、自由になりたい。自由に……なりたいよ」
「だったら手を取れ。俺はもう差し出した。これ以上は出来ない」
「……」
「お前がこの手を取ることに意味がある。片方が勝手に決めることじゃない。これは俺とお前が二人で決めることなんだからな」
 梢の声に後押しされるように、遥の手がそっと動く。
 やがて――――二人の手が重なった。
「……約束だ。俺はお前のために、お前の自由を勝ち取ることを誓う」
「私は……何も出来ない」
「だったら出来ることを探せ。そんで、いつか俺が困ってたら……そのとき助けてくれればいい」
「……」
「それが、友達ってもんだ」
「友達……?」
「ああ。俺は他人と約束なんかしねぇよ。――――お前は俺の友達だ」
 そう言って梢は笑う。
 そう言われて、遥は泣いた。

「やれやれ、俺は完璧悪役だなー」
 公園の外。
 そこで吉崎和弥は、困った風に頭をかいた。
「ったく、解決の見通しも全然ないままだってのに」
 けれど、悪い気はしない。
 彼女に自由が与えられるなら、与えてやりたいと思う。
「嘆くよりは成果を出せってか。……やれやれ」
 二人には顔を見せないまま、吉崎は自宅へ向かう。
 赤間カンパニーに関する情報を少しでも多く仕入れ、梢に知らせる。
 今の彼に出来ることといったら、それぐらいしかない。
「ったく。……お前がその気なら、俺も一肌脱ぐとしますかねぇ!」