異法人の夜-Foreigners night-

-Border Breaks-
第十七話「始まりの夢」
 榊原家の台所。
 普段は倉凪梢の縄張りとなっている場所に、今は二人の少女が並んで立っている。
「そうそう、そこで少し塩胡椒を振りかけてください。ええ、そのくらいです」
「これだけでいいのかな……」
「大丈夫です。あんまりかけ過ぎると大変なことになりますよ」
 遥がフライパンで野菜炒めを作る。
 その間に涼子は味噌汁の味加減を確認していた。
 やや味が濃いので、少し水を足して薄める。
 同時に魚の焼き具合もチェックする。もう少し時間が必要と判断。
 遥の意向により、涼子は料理に手を出さない。
 こうしてサポートに徹しているのである。
「でも遥さん、心配するほど下手じゃないですよ。充分料理出来てるじゃないですか」
「うぅ、そうかなぁ……まだ一人だと心細くて」
 ちなみに現在、榊原家の料理担当者である梢は深い眠りに落ちている。
 怪我をしているのに午前中家事で無理をしたため、昼食を取った後力尽きたらしい。
 いかにも彼らしいと、涼子は内心微笑んだ。
 それにしても、この作業は楽しい。
 最近は梢に教わることもほとんどなくなっていたため、涼子は普段一人で料理をしている。
 だから、こんな風に誰かと台所に立つのは久しぶりになる。
 一人で作って一人で食べる料理と言うのはなんとも味気ないものがある。
 誰かと一緒に作り、誰かが自分の料理を美味しいと言ってくれる。
 やはり料理の醍醐味はそこにあるのだろう、と涼子は思っていた。
「冬塚さんは、誰に料理教えてもらったの?」
「基本はうちの両親からですかね。そこから先は、今ぐーすか寝てる人とかに」
「そうなんだ。羨ましいなぁ……私は両親から料理教わるなんてこと、なかったから」
 遥は少し寂しげに、羨望の眼差しを送ってくる。
 涼子は思い出す。
 確か遥の両親は、既に亡くなっているということを。
 両親が亡くなるということの大変さを、涼子は知っている。
 失ったときのことは忘れてしまったが、その後の孤独感は今も忘れていない。
 例え叔父夫妻がどれだけ温かく接してくれても、彼らは親戚であって家族ではなかった。
 家族になろうと手を差し伸べられても、素直にそれを受け取ることが出来なかった。
 涼子の中で家族とは、あの家で共に過ごした者だけを指す。
 だから。
 もういないんだと、何度も自覚しては泣いた。
 だが、そんな彼女に今の明るさをくれた人たちがいた。
 彼らと共にいるならば、この女性も大丈夫だろう。
 胸中涼子はそんなことを考えていた。
 思いは自然と過去へ遡る。
 幼い頃、学校で初めて調理実習をやった帰り。
 こっそり卵を買って、母の眼を盗んで目玉焼きを大量に作った。
 両親にはこってりと絞られたが、作った目玉焼きはちゃんと全部食べてくれた。
 それから母に料理を学んで。
 両親は仕事が忙しく、家を空けることが多い。
 いたとしても書斎にこもっていることがほとんどだったので、料理は涼子の担当になった。
 どれほど遅くなっても両親は涼子の料理を食べて、翌朝には美味しかったよと言ってくれた。
 だから涼子はどんどん料理にはまっていって。
 そして、七年前も。
 ――――――姉と、一緒に。
「……っ!?」
 不意に。
 眼前で料理をする遥の姿に、何かが重なった。
 乱れる映像が今の現実と重なり合って、ぴたりと合うような感覚。
 遥は動いていないのに、今この場にいる遥は動いていないのに。
 なぜか映像の中にいた人物は、こちらを振り返った。
 とても穏やかな笑み。
 見るものに安心感を与える笑み。
 だからこそ、涼子は怖くなった。
 映像に映る女性が怖いわけではない。
 そもそもが正体不明の、この映像自体が不気味そのものだった。
 こんな記憶は涼子の中にはない。
 失われたはずの記憶。
 消えたはずの記憶。
 ……なに、コレ?
 その中で、女性は口を開いた。
 声は聞こえない。
 だが、何を言っているのかは不思議と分かる。
『……ちょっと味見してみる?』
 その笑みは、紛れもなく"姉"のものだった。
 母のものとはまた少し違う、涼子にとっては馴染みのないもので、
「――――ちょっと味見してみてくれないかな?」
 不意に、声が聞こえた。
 それははっきりと耳に伝わる音。
 正体不明の映像から発せられる言葉ではなく、今この場にいる遥の言葉だった。
 だが映像はまだ残っている。
 現実に侵食するように、続いている。
「……冬塚さん?」
 涼子の反応がないため、遥はキャベツを切る手を止めて振り返った。
 その仕草。
 さらさらと流れる黒髪。
 そして、穏やかな雰囲気。
 ――――――それが不気味なまでに、映像の女性と重なって見えた。

 料理が完成したのを見計らって、涼子は早々に榊原家を後にした。
 あんな映像を見たせいか、後半は遥の顔を直視出来なかった。
 ……変に思われてなければいいけど。
 タルトもきちんと渡したし、梢たちによろしくとも言っておいた。
 遥は一緒にどうかと涼子を夕食に誘ってくれたが、それは辞退しておいた。
 あの映像を……幻影を見てから、明らかに自分が落ち着きをなくしていることに気づいたからだ。
 胸に手を当てると、まるでハードな運動直後のような。激しい鼓動が伝わってくる。
 ……あれは、何だったの?
 家に真っ直ぐ帰り、テレビの上にある写真立てを手に取る。
 その中に写っている女性は、やはり先ほど映像で見た女性――――涼子の姉、八島優香だった。
 真っ先に思いついたのは、無意識に行われた記憶の捏造。
 遥は優香と外見も似ているし、年齢も七年前の優香に近い。
 だから写真立てにある優香を、あの場に持ってきて架空の記憶をでっち上げた。
 七年前のことを意識している現状なら充分考えられること。
 そしてもう一つの可能性は――――あれが紛れもなく、七年前の記憶だということ。
 人の記憶ほど曖昧なものはない。
 あの映像の正否を判断するのは不可能だった。
 写真立てを置き、そのまま大の字になって倒れこむ。
 脱力しきって倒れこんだため、少し頭を打ち付けてしまった。
「おいおい、どうした。大丈夫か、今すげぇ音したぞ」
 玄関の扉が開く音が聞こえ、同時に霧島の姿が目に入る。
 タルトを受け取りに来たのか、久坂零次の姿もあった。
 涼子は慌てて起き上がり、彼らを招き入れる。
「大丈夫大丈夫。ちょっと足滑らせただけだから」
「そうか? ならいいけど」
「うんうん、平気平気。……あ、零次さんも座って座って」
「あ、ああ」
 どこかそわそわしながら座る零次を見ているうちに、涼子の心も多少落ち着いてきた。
 落ち着かないときは自分より落ち着いてない人間を見るのがいいようである。
 ……今は気にしても仕方ないし。後でじっくり考えよう。
 気持ちを切り替えようと意識し、とりあえずもてなしのために立ち上がる。
 こういうときはじっとしているよりも動いた方がいい。
 食器棚から客人用のカップを取り出し、
「二人は何派?」
「俺はコーヒー。豆多めの苦いやつ」
「その、俺は。……茶を」
「分かりました。えっと、零次さん熱いのと冷たいのはどっちが?」
「冷え冷えで頼む」
 てきぱきと用意し、クッキーと一緒にテーブルに出す。
 ちなみに涼子自身は紅茶。
 落ち着きたいときは紅茶がいいというのが父の口癖だったからだ。

 三人はテーブルで向かい合ったまま沈黙している。
 友人関係にあるわけではないのだから、あまり共通の話題がない。
 特に零次とは、学校でのことがあって気まずかった。
「……?」
 気まずい沈黙。
 その中で、涼子は何者かに足を軽く蹴られた。
 なんだと思っていると、もう一発。
 零次は他に見るものがないのか、カップの方を凝視していた。
 となると、犯人は一人しかいない。
 その犯人――霧島の方を見ると、顎で零次を示していた。
 とりあえず謝っとけ、という合図のようだ。
 ……だからって蹴らなくてもいいじゃない、ったく。
 胸中で文句を言いながらも、涼子は正面に座る零次の顔を見据えた。
「あの、零次さん」
「む?」
 零次も面を上げ、涼子へと視線を向ける。
 見方によっては見合いのようでもあったが、お互い目が据わっているため緊張感が充満していた。
 涼子は緊張のせいで。
 零次のは元々だった。
 意を決するために、ごくりと喉を鳴らす。
「……学校では、すみませんでした」
 テーブルに手をついて、勢いよく頭を下げる。
 そのため零次の表情は分からなかった。
 長い沈黙。
 思わず涼子が顔を上げそうになったとき、頭上から零次の声が届いた。
「――――――ふむ。そんなことか」
 その声は、零次という人物に似合わないほどあっけらかんとしていた。
 涼子は零次の人柄を詳しく知っているわけではないが、それでも予想外だった。
 拍子抜けだった。
 顔を上げると、零次は相変わらずむっつり顔でそこにいた。
 だが怒っているわけではないらしい。
「俺は気にしていない。こちらにも失言があったことだし、俺からも詫びさせてもらう。すまなかった」
「あ、えと……うん」
 お互い詫びあう。
 それで終わりだった。
「……昔と一緒だな」
 ぽつりと、そんな呟きが零次から漏れた。
「昔?」
「ああ、いや。……なんでもない」
 零次は微かに頭を振る。
 涼子にはその意味が分からず、きょとんとした表情を浮かべることしか出来なかった。

 それからすぐに零次は戻っていった。
 やらなければならないことがあると疲れた顔で言われては、引き止めるわけにはいかない。
 玄関のドアを開けるとき、タルトの入った袋を掲げて、
「……その、感謝する。明日にでもこの弁当箱は返すことにしよう」
 少し照れた風に言う彼は、真面目なときと表情こそ変わらないものの、全く別人のようだった。
 そんな零次を見送った涼子を待っていたのは、テレビの上にある写真立てを凝視する男の姿。
「何してんの霧島さん?」
「いや、なんか幸せそうな家族だなぁと思ってよ」
 写真を元の場所に戻しながら、霧島はどっしりと座り込んだ。
 涼子は台所に立ち、夕飯作りを開始する。
 フライパンで野菜を炒めながら、涼子はふと今日のことを思い出した。
「そういえば霧島さん、七年前のことなんだけど」
「ああ、何か思い出したのか?」
「んー、微妙。それが確かな記憶かどうか、あんまり自信なくて」
「記憶に自信なんて持っても仕方ないだろ。なんだ、姉さんのことでも思い出したか」
「それに近い。今日、タルト持ってった家あったでしょ」
「榊原家だったな……確か。そこで何かあったのか?」
「姉さんと似てる人に会ったの」
 台所に立ちながら思い出す。
 先ほど榊原家の台所で一緒に夕食を作った人のことを。
 顔立ち、髪型が似ているのは写真でも確認済み。
 だが、涼子は彼女が台所に立つところを見て感じたのだ。
「――――この人は姉さんに似てるなって。まぁ、それだけの話なんだけど」
 あの遥という女性は姉と何の関わりもない。
 他人の空似というやつだろう。
 しかし、それによって過去を幻視したのは重要なことだ。
「……姉さん、どんな人だったんだ?」
「優しそうな人だったよ」
 束の間の光景に見た姉の姿。
 それはとても優しく、包み込んでくれそうな存在感があった。
 けれど、同時に。
「何か――――儚い感じもしたかな」
「……さよか」
 それきり、霧島は何も言わなかった。
 涼子も料理に集中し、会話は途絶える。
 やがて野菜炒めが完成し、味噌汁も用意出来た。
「霧島さん、また食べてく?」
 そう言って振り返ったときには、既に霧島の姿はなかった。
「……どうしたんだろ」
 どこかに行くなら一言断わってから行けばいいのに。
 そう思いながら、涼子は一人で夕食を食べた。
 先ほどまで零次や霧島がいたからか――――この部屋が、少し広く感じた。

 ……夢を見ている。
 ある日突然、両親が見知らぬ女性を連れて来ていた。
 学校から帰ったら、いきなりいた。
 リビングで両親と共に談笑していたらしい。
 涼子は玄関から勢いよく駆け込んできて、そこで止まった。
 彼女は呆然と立っている涼子の前で腰を落とし、目線の高さを合わせてからにっこりと微笑んだ。
『……八島優香です。あなたの名前、教えてくれる?』
 その笑顔はとても優しいもので、涼子は思わず見入ってしまった。
 慣れない自己紹介を口にする。
『冬塚涼子……です』
『涼子ちゃん。うん、良い名前だね』
 彼女はそう言って褒めてくれた。
 そのときはとても嬉しかった。
 しかし、次に父が放った言葉が、涼子を戸惑わせた。
『今日から、彼女が涼子のお姉さんだ』
『……え?』
 あまりに突然の宣告だった。
 父があまりにも当たり前のように言うから、涼子は最初言葉の意味を理解しかねた。
 そこに、母の温かい声が飛んでくる。
『優香さんはね、涼子のお姉ちゃんなの』
 二度目でようやく涼子にも言葉の意味が届いた。
 だがそんな結論を言われても訳が分からない。
『なんで?』
 優香の笑顔を見たときに感じた温かさは、徐々に涼子の中から薄れていった。
 戸惑いを前面に出して両親に説明を求める。
 両親は言おうか言うまいかといった様子で、顔を見合わせる。
 その動作だけでも涼子は何か不安になった。
 横にいた優香がそっと肩に手を置いたのも、なんとなく不安を増大させた。
 やがて母が頷き、父が頷いた。
『涼子、ちょっと座りなさい』
『……私、別に悪いことしてない』
『怒るわけじゃないんだ。ちょっと、大事な話があるんだ』
 両親の真剣な眼差しに逃げ場をなくし、涼子は大人しく椅子に座った。
 それに合わせて優香も隣の席に腰を下ろす。
 正面に座る両親の顔が、いつになく怖かった。
 父が一度大きく咳払いをした。
 一つ一つの言葉を噛み締めるように、ゆっくりと告げる。
『実はな、涼子――――お前は、私たち夫婦と血の繋がった子じゃないんだ』
 言われた瞬間、頭の中が麻痺した。
 目の前の父が何を言っているのかは分かる。
 分かるが、それを理性が受け付けない。
 そんな涼子にお構いなく、父の声は続く。
『昔、父さんたちの知人が事故で亡くなってな。二人子供がいたんだが、親類もいないから私たちが育てることにしたんだ』
『……』
『そのときはまだ経済的に苦しくてな……本当は二人とも引き取りたかったんだが、やむなく別々の家庭で育てることにしたんだ。家と、八島さんの家で』
『……』
『でも八島さんの方もちょっと大変になってな。家は少し余裕があるから、優香さんを家で引き取ることにしたんだよ』
 涼子の意思を無視して、父の告げる事実が次々と頭へ流れ込んでいく。
 両親と自分が赤の他人だったという事実が。
 涼子は両親が大好きだった。
 他の子たちに少しからかわれるくらい、両親が大好きだった。
 それが否定された気がして。
 今日まで築き上げてきた『家族』が否定された気がして。
『だから、優香さんは涼子にとって本当のお姉さんなん……』
『――――嘘だっ!』
 椅子を蹴って立ち上がり、涼子は一目散に逃げ出した。
 両親が止める声が聞こえるが、そんなものは無視した。
 すぐさま自分の部屋へ駆け込み鍵を閉める。
 追ってきた母がドアを叩く音が聞こえた。
『……涼子。開けて。ちゃんと最後までお父さんの話、聞こう?』
『嫌だ』
『涼子』
『お父さんとお母さんはお父さんとお母さんなんだから! 私にお姉ちゃんなんていないんだから!』
『涼子……っ!』
『――――あんな人嫌い! いらない! 嘘つくお父さんもお母さんも嫌い!』
 ベッドに潜り込みながら、これまでの日常を守るために叫ぶ。
 それが相手を傷つける言葉だと分かっていても、止められなかった。
 母の困惑した声が聞こえるたびに胸が痛んだ。
 やがて、ドアの向こうで別の声が聞こえた。
『……涼子ちゃん。ごめんね。びっくりさせちゃったね』
『っ……知らない! そう思うなら早く出てってよ! 家は三人でいいんだから!』
『――――ごめんね』
 謝罪の声は震えていた。
 母の声が聞こえたときとは、また別の痛みが胸に走る。
 だがそのときの涼子には、まだ扉の向こう側を見る勇気はなかった。
 ……これは最初の夢。
 七年前、その始まりを告げる夢だった。

 目が覚めると、霧島の顔が間近にあった。
「……ってうわぁっ!?」
 突然のことに驚き、反射的に身を起こす。
 霧島は涼子の頭を避けて数歩後退した。
 そんな彼を警戒心剥き出しで凝視し、
「な、何してんのよッ!?」
「いや待て誤解だぞ嬢ちゃん俺は成熟した女性がいいんであって嬢ちゃんのような発展途上系は興味ねぇっつうかいや待てそれ投げんの禁止ー!」
「誰が発展途上系かーッ!」
 手にした時計やらリモコンを次々と投げつける。
 そうこうしているうちに、少しずつ落ち着いてきた。
「はぁっ……はぁっ……」
「ど、どうどう……落ち着いたか嬢ちゃん」
「私ゃ牛馬じゃないわよ、全く」
 半眼で男を睨みつけながら、涼子は布団の中に身を隠す。
「で、人の寝顔見て何してたのよ」
「だから誤解だって。嬢ちゃん、すげぇ声でうなされてたから様子見に着たんだぞ?」
「……そうなの?」
「そうだって。出てけーって何回も叫ぶから、何者かが侵入したのかと思ったぞ」
「――――」
 霧島の言葉が、夢の中の自分と重なった。
 ……出て行け。
 夢の中での自分は、確かにそう言っていた。
 八島優香に対して。
 実の姉に対して。
 それを思い出して、涼子は口元に手を押さえた。
 気分が悪かった。
 あんなことを言ってしまった過去の自分が、どうにも情けなくて。
「どうした、なんか気分でも悪いのか?」
「そういうわけじゃ、ない」
 頭を振って、頭の中にあるもやもやとしたものを取り除く。
 この不快に浸るのはよくない。
「……七年前の夢でも見たのか?」
「ん、そうみたい。正直昔の自分にうんざりしてる」
「そうか。ま、誰だって昔の自分なんざうんざりするもんだ。それよりも今は、記憶が戻りつつあることを喜ぼうや」
 涼子が投げ散らかしたものを片付けながら、霧島は気楽にそんなことを言った。
 ……そっか、そういえばそうなのよね。
 自分が狙われる原因となっているであろう七年前。
 その記憶が戻るということは、今の涼子にとって悪いことではない。
 両親に関する情報の少なさからいきなりつまずいたが、思わぬところから思い出し始めた。
 遥。
 姉と似た雰囲気を持つ榊原家の客人。
 彼女のことを思い浮かべようとすると、不思議と姉のことが思い浮かぶようだった。
 勝手な話だが、どうやら自分は彼女を姉と混同しつつあるらしい――そう思って、胸中で苦笑する。
 夢の中でのことを、もう一度思い出す。
 そこで涼子は、ふと気になる点を見つけた。
「……そういえば、なんで姉さんは家に来たんだろう」
「ん?」
「いや、優香姉さんが冬塚家に来なければならなかった理由。八島家は、一体どうなったのかなって」
 両親の話が本当なら、優香と八島家に血の繋がりはない。
 かと言って、それまで育てていた娘をいきなり他所へ放り出すというのは妙な気がした。
 何か、それなりの事情があったのではないか。
 それに涼子は八島家という名称に聞き覚えがない。
 姉妹をそれぞれ引き取ったこと、そして両親の口振りからして冬塚家とはそれなりに関わりがあったはずだ。
 にも関わらず表立った交流は見受けられなかった。
 姉妹が引き合わされたのもあの日が初めてだし、涼子は八島家の人間など見たこともない。
 そこにも何か、あるような気がする。
「……」
 ――――調べてみる価値はありそうだった。

 まだ朝も早い駅前のビル街。
 そこにある某社ビルの屋上に、三人の人影を見ることが出来る。
 久坂零次、矢崎兄弟だった。
 まだ朝も早く、風が少し肌寒い。
 零次と亨は既に学生服に着替えており、刃は地味な色合いのジャンパーなどを着込んでいる。
「彼女の方は特に問題はない。霧島がついている以上危険はないだろう」
「ですね。昨日のタルトのお礼も兼ねて、今度僕も挨拶に行きましょうかね。……まぁ今はそんなことを言っている場合じゃありませんけど」
 そう言って亨は懐からあるものを取り出した。
 それは、無残にも破壊された携帯電話。
 零次たちにも見覚えがある。
 これは赤根甲子郎が使っていたものだ。
「これは昨日、僕が発信機を頼りに朝月学園の校庭で発見したものです。赤根は一昨日に最後の定期連絡を入れてから、何者かと交戦。その際にこれが壊れたものだと思われます」
「お前が赤根を見失った後のことだな」
「ええ、多分状況から察するに草野郎ですかね。僕はよく知りませんけど、強化人間とかはあんまり強くないんでしょう?」
「いや、あれも強いだろう……普通に考えればだが。まぁ赤根が強化人間に遅れを取るとは思えんし、草野郎だとは思うが」
 現在この町で異法隊と敵対しているのは、研究機関と草野郎のみ。
 直接対決で敗れたとなると、草野郎と考えた方が自然だった。
「それで」
 零次は表情を暗くしながら言った。
「――――赤根の行方は知れたか?」
 赤根甲子郎。
 草野郎と交戦し、おそらくは敗北したであろう異法隊員。
 彼は今、忽然と姿を消していた。
 残されたのは壊れた携帯のみ。
 そこから『敗北』という結果は予想出来たが、詳しい経緯は皆目検討がつかない。
「まだ分かりません。赤根に関わりがあるところを今度の休日調べてみるつもりですが」
「草野郎に拉致されたとなると、そこから探るのも難しいな」
「そもそも相手が草野郎かどうかの確証もないですし。とりあえず隊長は、引き続き草野郎及び少女の捜索をせよって言ってました」
「それしかないか」
 異法隊日本支部は少人数の組織だ。
 零次、矢崎兄弟、霧島、赤根、藤村、柿澤。
 総勢七人という、組織とも呼べないような人数で構成されている。
 そのうちの一人が行方知れずになったというのは、単純に戦力が七分の一減ったということだ。
「赤根の行方がつかめないのは痛いな」
「ですねぇ。まったく面倒な任務ですよ」
 軽く溜息をつく亨の背後。
 そこに立つ刃は、先ほどから本を読んでいた。
 零次の視線に気づいたのか、ぱたんと本を閉じて面を上げる。
「刃、『狐火』の連中はどうだった? 他に類似施設があるかどうか、知っていそうだったか」
「具体的なことは不明だ。どうやら連中は……横の繋がりは薄いらしい」
 あの晩捕らえた研究者たちを尋問したところ、彼らは『スポンサー』という存在を中心に活動しているらしい。
 いくつかの類似機関が存在していることは知っていたが、具体的に他所がどんなところかは分からない。
 研究費用、各研究機関間の連絡は全てスポンサーを通して行われていたという。
「手の込んだことだ」
「でも、背後に何者かがいるということが分かっただけでも良しとすべきでしょう」
 完全にバラバラなわけではなく、何者かによって結びついている。
 ならば、結び付けている何者かを突き止めれば、この地区の研究機関を一網打尽に出来るかもしれない。
 そうなれば、冬塚涼子の身に危険が及ぶこともなくなるだろう。
「――――分かった。すまんが俺はそちらの方を優先して調査したいと思う」
「構いませんよ。愛する女性のためならエンヤコラァ~……ごめんなさい冗談です睨まないで握りつぶさないでぇぇ!」
 朝焼けに染まる空。
 亨の絶叫が、ビル街に響き渡った。