異法人の夜-Foreigners night-

-Border Breaks-
第十八話「省みる心」
 遠い昔。
 いつ頃のことだったか。
 確か、七年前。
 そう、七年前のあの出来事よりも少し後のこと。
 遥の部屋には、月が見える窓が一つ。
 それ以外には何もなかった。
 一日のうち、この部屋を出られるのは数回だけ。
 用を足すときと、入浴のときぐらい。
 無論彼女に対する警戒は厳しいままで、トイレにしろ浴場にしろひどく狭い。
 無機質な白い壁と、小さな窓。
 ただそこにいるだけで圧迫感を抱かずにはいられない、そんな場所だった。
 ある日。
 彼女が狭い浴槽に身を沈めていると、外から何かが聞こえてきた。
「……?」
 なんだろう、と彼女は身を出した。
 声は窓の外から聞こえてくる。
 少女の背丈からするとやや高いが、浴槽に足をかければ届かないこともない。
 幸いこうしたところまでは監視されていないらしく、彼女の行動を妨害する者は現れなかった。
「みぃ……」
 それは遥が聞いたことのない声だった。
 彼女は人間以外の言葉を聞いたことがない。
 動物の鳴き声など、これまで耳にしたことがなかった。
 だから彼女は、その声に期待と恐怖を感じた。
 物音を立てないように極力気をつけながら、彼女はそっと窓から外を見る。
 窓のすぐ側まで木の枝が伸びているらしい。
 その枝の先端、つまり窓のすぐ側に何かがいた。
「……?」
「みぃ……」
 彼女には到底分からなかったが、それは猫だった。
 たった一匹の、とても小さな子猫。
 遥は子猫に、窓の鉄格子からそろりと手を差し出した。
 彼女にとってはまるで未知の生物だったが……不思議と、愛しく思えたのだ。
「……おいで」
 差し伸べた手に、遥はどれだけの期待を込めていただろう。
 何もない日々。
 変わらない日常。
 以前の彼女ならば、それに耐えることもできただろう。
 ――――だが彼女は、出会いと別れを知ってしまった。
 たった一人の少年によって。
 今まであまりにも平坦だった彼女の人生が、波打ち始めてしまった。
 そうなってしまっては、何もないこの孤独には耐えられない。
 一人だと寂しい。
 一人だと辛い。
 だから、友達が欲しかった。
 例えそれが、何であろうとも。
 だが猫は遥の濡れた手を嫌ったのか、奥へと引っ込んでしまう。
 遥がさらに手を差し伸べれば、更に身を引いていく。
「ま、待って……」
 精一杯足を伸ばしながら、彼女は渾身の力を込めて手を出した。
「一緒に、私と一緒に……」
 あと一歩で猫まで届きそうになった。
 刹那、子猫は引っ込み損ねたのか木の枝から落ちてしまう。
「あっ」
 遥は慌てて落ちた子猫に手を差し伸べようとした。
 しかし届くはずもなく、彼女自身が足を滑らせ、浴槽へ落ちてしまう。
 一気に全身が湯に浸される感覚と、強く身体を打ちつけた感覚が順にやって来た。
 抗うことも出来ず、そのまま意識は薄れていく。
 異常を察して浴場に入ってきた研究員たちが口々に何かを言っているが、遥にはよく聞こえない。
 ただ、落ちた子猫のことが心配だった。
 ……怪我、してないかな。
 そんなことを考えながら、彼女の意識は闇に呑まれていく。
 深い喪失感と絶望、そして諦めが彩る闇の中へと。

 ――――別に友達と呼び合える程のものでなくても良かった。
 ただ、誰かに一緒にいて欲しかった。
「……ん」
 浴槽から這い出るような、そんな感覚と共に……遥は少しずつ瞼を開けていった。
 やがて完全に見開かれた瞳が映し出したのは、白い研究所などではなく、茜色の空。
 不思議な温かさを、膝元に感じた。
「あ、猫……」
 今は知ったその名を呟く。
 どうやら遥は榊原邸の縁側で寝ていたらしい。
 その膝元に、いつのまにか猫がやって来て、一緒に眠りこけていたようだった。
「あはは、君のせいかな。あの夢を見たのは」
 猫はまだ目覚めない。
 遥は動くに動けない状況の中で、左右を見渡した。
 榊原邸はとても静かで、人の気配を感じさせない。
 だからと言って無人ではなかった。
 縁側から見える道場。
 そこから倉凪梢がひょっこりと姿を現した。
「よ。ぐっすり寝てたみたいだな」
 彼は既にあの晩負った怪我を完治させている。
 幸町曰く大した怪我ではなかったとのことで、数日で治ってしまった。
 それでも普通の人間なら、回復までに時間がかかっていただろうが。
「また訓練?」
「ああ、毎日身体鍛えないと落ち着かねぇし。お前こそ随分深い眠りだったけど、どうしたんだ?」
「夢、見てたの。……昔の夢」
 気持ち良さそうに眠る猫を撫でながら、遥は沈み行く空を見上げた。
 今日は雲がなく、空がとてもすっきりしていた。
 梢はタオルで汗を拭きながら遥の隣に座る。
 二人並んで縁側に座ると、なんだかこそばゆい気がした。
 隣に誰かがいて、同じ風景を見る。
 昔も、そんな相手がいた。
「私ね、倉凪君と会う前に……ずっと前に、一人友達がいたんだ」
「友達?」
「うん。あの研究所、年中あそこに押し込められてたわけじゃなくてね。たまに別の、もっと小さな施設に移されたこともあったの」
 遥は研究員たちの指示に従って車に押し込められただけなので、どこをどう行ったかは覚えていない。
 それは緑に囲まれた森の中で、あまりあの研究所と変わらないように見えた。
 けれどそこで、彼女は一人の少年と出会った。
「出会ったきっかけはもうよく覚えてないけど……色々教えてくれた。今の私がいるのは、その男の子のおかげなんだ」
「どういうことだ?」
「私、何も知らなかったから」
 遥は恥ずかしそうに笑った。
 その意味がよく分からないのか、梢は首を傾げている。
 最初から何もない環境にあるだけの人。
 それを当たり前のこととして受け入れる人。
 果たしてそんな人間が、その環境から出たいと思うだろうか。
 千年前の人間がテレビなど欲しがらないのと同じように。
 当たり前の外にあるものを望むことは希少だ。
 けれど、もし千年前の人間がテレビを知ったらどう思うだろうか。
 最初はありえないものとして認識し、それを恐れるかもしれない。
 だがその利便性を理解出来たならば?
 全員がそうとは限らないが――――それを望む者も多く出るのではないか。
 つまりはそういうこと。
 何もなかった少女は、ある少年と出会って様々な楽しみを知ってしまった。
 誰かと共に話す喜び、誰かと共に駆け回る喜び、それが満ち溢れている世界。
 当たり前の外にある楽しさ。
 それを知っていたから、遥は――――アタリマエという現状を出たいと願うようになった。
 これは、ただそれだけの話。
 上手く説明するのは難しそうだから、梢には黙っておいた。
「要するに……私はその男の子が好きなんだな、ってこと」
「そっか。そいつぁ幸せ者だな」
「倉凪君のことも、好きだよ?」
「はは、ありがとよ。俺も幸せ全開、そいじゃ夕飯でも作ろうかねー!」
 軽く笑いながら、梢は台所へと去って行った。
 遥は少し肩を落としながら、膝の上で眠る猫を撫でた。
 ……遥の奴は異性に向かって『好き』って言う意味が分かってないんだろうなぁ、とか思われてるのかな。
 彼女はそれなりに緊張して言ったのだが、あっさり受け流されてしまうとやるせないものがある。
「私、まだまだ分かってないのかなぁ?」
 猫は問いかけには答えず、相変わらず寝転がっている。
 結局猫が起きるまで、遥はこの場から動けずにいた。

 薄暗い森の中。
 かすかに差し込む光が銃身を照らし出す。
 まだ昼中だというのに、そこは夜の雰囲気をかもし出していた。
 そんな森で、光が一筋。
 銃口から放たれた弾丸は、もはや弾を呼べるようなものではなかった。
 光が周囲を切り裂く線となり、何処へと伸びきっていく。
 そして、それがやがて消える。
「ふぃ……これ、確かに半端じゃねぇな」
 と、光を放った銃を手にした男が呟く。
 左右に流した髪が汗で若干濡れていた。
「だが使い慣れてきただろう」
 近くにあった切り株に腰を下ろした榊原が、家では吸わない煙草を手に言った。
 煙草の煙が宙へと霧散し、消えていく。
 それを眺めながら吉崎はその場にへたり込んだ。
「使い慣れたのはいいけど……こんなんじゃ、身が持たないっすよ」
「馬鹿抜かせ。お前何発撃った」
「十五発」
「そんだけ撃てれば御の字だ。しかも十五発全て高威力。上手く威力調節すれば、五十発はいけるかもしれないぞ」
「……それって凄いんすか?」
「普通の人間は、お前が撃った威力なら……せいぜい三発が限度だ」
 魔銃の原動力となるのは、使用者の身に秘められた魔力。
 魔力は活力と言い換えることも出来、使い果たすとまともに動くことすら出来なくなる。
 吉崎はただの一般人だが、魔力の貯蔵量はそこそこらしい。
 梢でさえ嫌な顔をする天我不敗流の訓練に耐えたことが活力を引き伸ばし、魔力の増幅に繋がったのかもしれない。
 ただし吉崎は魔術師でもなんでもない為、魔力のコントロールというものがまるで出来ていない。
 そのせいか、放たれる弾丸は無駄に高威力となり、魔力の消費も大きくなってしまう。
「……まだ『ヴィリ』の固有能力を教えるには早いか」
「みたいっすね。ただドンパチやればいいってもんでもなさそうだし」
 赤い銃を掲げながら吉崎は溜息をついた。
 起き上がることすら難しいのか、腕以外はぴくりとも動かない。
「遥ちゃんの方はどんな感じ?」
「あいつは魔力量もコントロールも半端じゃない。平均的な魔術師よりも上だろう。が……」
「が?」
「それだけだ。魔銃の扱いという点だけならお前の数倍上だが、実戦ならお前の数倍役に立たん」
 榊原の評価は常に正確だった。
 彼がそう言うのであれば、まずその判断を信用してもいいだろう。
「ふーん、でも遥ちゃんって、やっぱそっちの方面じゃ凄いのか」
「そのようだ。あの研究機関も伊達や酔狂で捕らえていたわけではない……どういった出自なんだかな」
 遥は自分が囚われていた理由など、さして考えたこともないだろう。
 気づけばそういう状況だった、という認識しかない。
「師匠、もしかしてその辺り探ってんの?」
「仕事のついでだ。人身売買問題が騒がれて県警も動き出してる。俺もしばらくはそっちの捜査だから、機会があればあいつのことを調べておこうと思ってな」
 梢などはあまり気にしていないようだが、遥は元の素性が分からない。
 もしかしたら家族がどこかにいるかもしれないのだ。
 榊原はその辺りのことを気にしており、捜査の中で何か手掛かりがないかと密かに期待している。
「お前の方はどうなんだ、赤間の手掛かりは掴めそうなのか?」
「無理無理。いくら俺でもあんな化け物じみたとこは探れないっすよ。……それに多分、異法人とかいう連中のとこには繋がらない気がするんすよね。ああいった連中を子飼いにしてるなんざシークレットオブシークレット。外から繋げる端末にゃそんな情報入れませんて」
「やはり無理か」
 梢が乗り込んできたおかげで赤間と異法隊の関係性は見えてきた。
 赤根と戦った際に得た情報で、異法人という概念を知った。
 だが肝心な『敵組織の全容』はいまいち見えてこない。
「研究機関に異法隊。……なんつーか、大変っすね」
「だがどうにかせねばなるまい。梢ではないが、俺も遥を見ていると痛々しく思えてくる」
「……ま、頑張っていきましょうや。さっさと解決出来るように」
 まだ使い慣れない赤い銃。
 それをそっと胸にあてながら、吉崎は達観した笑みを浮かべた。

「俺の故郷?」
 深夜、零次は亨と共に学校の様子を伺っていた。
 犯人は犯行現場に戻る、ということを期待しているわけではないが――――何かあるかもしれないと、あちこちを見て回っている。
 その最中に、ふと亨が零次に尋ねたのである。
「ええ、故郷です」
「……聞いてどうする?」
「いや、どんなものなのかなって」
「意味のない問いかけだな」
「意味のある問いかけじゃないとしちゃ駄目なんですか?」
 心底不思議そうに亨は言った。
 零次はそれに答えず、黙って周囲を見回っている。
 亨は面倒くさそうに草むらをかき分けたりしながら、再度尋ねた。
「僕には故郷ってのがないから、よく分からないんですよ」
「ここがそうではないのか? お前は俺と違い、ずっとここにいただろう」
「町で暮らしてるって思ったことはありませんよ。『異法隊の中で暮らしてる』って感じです。どっちも故郷という気はしませんけどね」
 矢崎亨、そして兄の刃。
 彼ら兄弟は現在の異法隊員の中では藤村に次ぐ古株だった。
 零次が家族を失って異法隊へと加わったときには、既に兄弟揃って柿澤源次郎の庇護を受けていた。
「気づけば兄さんと二人でどっかの町を歩いてました。んで、気づけば異法隊に入ってました。……どっちもなんていうか、落ち着けないんですよね。肩身狭いし生きてくにはキツイし。故郷って、そんなヘビィなものじゃないと思うんですよ」
 子供二人での放浪。
 そして、赤間の子飼いとして労働を要求される異法隊。
 確かにどちらも楽なものではない。
 心の拠り所にするには、あまりにも荒れ果てている気がした。
「まぁそこを愚痴っても仕方ないんで、異法隊内の雰囲気変えようと粉骨砕身で頑張っちゃってるわけですが」
「……その第一歩が俺との会話か?」
 零次は苦笑する。
 なるほど、確かに組織の仕事仲間という関係は落ち着きにくいものがある。
 それをせめて、同じ組織の"友人"にしようと言うのだろう。
 改めて考えると、零次は亨を友人だと思ったことはない。
 年が近いからかよく一緒に行動するし、仕事で命を預けあったことも何度かある。
 少々頼りないという欠点はあるが、気軽に付き合える仲ではあった。
 だがそれは、あくまで『仲間』としてのことだ。
 亨だけではない。
 刃も霧島も藤村も赤根も。
 皆、仲間ではあるが友人とは違う気がした。
 零次にとって、友人というのはたった一人。
 七年前に出会った、あの――――。
「……零次? どうしたんですか、急にぼーっとして」
「――――」
 亨に問いかけられ、零次ははっと顔を上げた。
 ……少し、意識を過去へ向けすぎたか。
 浮き上がりかけた思考を振り払うように目を閉じ、頭を振る。
「……なんでもない。それで、なんだったか」
「故郷の話でしたよ、確か。で、零次にとって故郷ってどんな感じなんですか?」
「故郷、か」
 零次もあまり自分の故郷を覚えているわけではない。
 彼もある意味では亨と同じような境遇なのである。
 物心ついた頃には、母親と妹が側にいた。
 何度も引越しを繰り返し、家と呼べるほど馴染める場所は存在しなかった。
『南の方へ行くのよ』
 どこかへ引越しする度に、母がそう言っていた。
 だから北国の生まれなのかもしれない。
 零次にとっての故郷とは、場所のことではない。
 どこへ行っても零次は力を制御しきれず、悪魔として人々から恐れられ、罵られた。
 いかに人外の力を有する異法人と言えど、当時の零次はまだ一桁の子供である。
 周囲が自分に向けてくる明確な悪意には、到底耐えられるものではなかった。
 それは零次個人に限らず、彼の家族にまで及んだ。
 彼よりも更に幼い妹。
 彼よりもずっと大変だったであろう母。
 零次が一番辛かったのは、二人が自分のせいで傷つくことだった。
『お兄ちゃんのせいじゃないよ』
 あどけなさを残す顔に青痣を作りながら、妹はいつも笑っていた。
 それを見るのが辛くて、零次は二人をどうにか守ろうとした。
 辛くても自分を決して見捨てなかった母。
 いつも気丈だった妹。
 どこかという場所ではなく。
 家族という人々。
 それが零次の故郷だった。
「――――亨、故郷とはな。安心出来、守ってやりたいと思えるもののことだ」
 長い沈黙の末に、零次はそれだけを亨に言った。
 必要以上に過去を語る露悪趣味はないし、その結末はあまりに救いがない。
 ここで亨に話したところで仕方がない。
 だが、亨はすぐさま切り返してきた。
「零次には、あるんですか? その、守りたいと思えるもの」
「……」
 零次にとって守りたいと思うもの。
 それは既に失われたものだった。
 母や妹は既にこの世の人ではない。
 まだ"彼女"は生きているが、しかし――――。
「……なぜ、急にそんな話を聞きたいと思ったんだ?」
 思考を逸らすため、零次は逆に質問し返した。
 亨は深い意味を込めて話していたわけではないらしく、特に気にもしない様子で答えた。
「いや、最近兄さんがよくそんなことを言ってくるんですよ」
「刃が?」
「ええ、なんか昔のこととか、故郷のこととか。よく聞かれるんで、零次に聞いてみようかと」
 きょろきょろと周囲を見ながら亨は何の気なしに呟く。
 だがそれは零次からすると、やや奇妙なことだった。
 ……刃が、か?
 黙々と異法隊の任務をこなし、弟を醜い世界から守り続けてきた男。
 常に前だけを見て、迷いも悩みも断ち切って静かに進む。
 それが矢崎刃という男だった。
 そんな彼が、過去の話をするようになった。
「何か心境の変化でもあったのか……?」
 いつのまにか亨はずっと先へ進んでしまっていた。
 零次の問いかけに応えるのは、やけに肌寒い夜風だけ。
 微かに抱いた違和感。
 不思議とそれは、零次の胸の内から消えないまま残るのであった。

 夜遅く、町の明かりもほとんど消え去った頃。
 涼子は一人、テーブルの上にぶち撒けられた資料と格闘していた。
 秋風市付近で過去に起こったこと、それを知るための資料である。
 どこからともなく霧島が持ってきたもので、その数は日に日に増えていた。
「……でも収穫は未だになし、か」
 ふぅ、と一息ついて涼子は身体を伸ばした。
 そのまま後ろへと倒れこみ、白い天井を眺め上げる。
 八島優香という人物の過去。
 それを調べるのは、一介の高校生である涼子にとって大仕事だった。
 やはり個人で調べるには限界がある。
 何から何まで話すわけにはいかないが、適当に理由をつけて榊原に協力してもらうのが一番だろう。
 もっとも、親戚筋に話を聞いてみても誰も知らなかったぐらいだ。
 あまり過度の期待はすべきではないだろう。
「そう言えば、私って冬塚の家の子じゃないのよね……」
 ぼんやりとした意識で、テレビの上にある写真を見た。
 そこに写る両親が、実は本当の両親ではなかった。
 そんな事実を思い出してもあまり驚かないのは、以前その話を聞いたことがあったからなのか。
 ……そういうことにしとこう。でないと、私が薄情みたい。
 親戚筋では誰も知らない事実のようだった。
 元々冬塚夫妻はあまり親戚と頻繁に会っていたわけではない。
 故に夫妻の仕事、涼子が実子ではないこと、そうした事情は親戚に伝わっていない。
 それとなく探りを入れてみても、返ってくるのは曖昧な言葉ばかりだった。
 涼子を引き取ってくれた叔父夫妻も例外ではない。
「ま、それが悪いこととは言わないけど。今の私にとってはちょっと困るかな」
 と、そこで玄関のドアが開いた。
 合鍵を預けてあるのは今のところ霧島だけである。
 涼子の想像通り、入ってきたのは霧島だった。
 特に何を持っているわけでもないのだが、何か雰囲気が妙だった。
「そんな神妙な顔で、どうかしたの?」
「ん、ああ……嬢ちゃんの方はどうだ、俺の資料役に立ってるか?」
「今のところは駄目ね」
「また『夢』を見たりはしないのか?」
「昨日雪崩で死ぬ夢なら見たけど」
 スキー場で一人滑っていたところを、音もなく迫り来る雪崩に襲撃される夢だった。
 息苦しさのあまり夜中に目を覚まし、そのせいで今日一日瞼が重い。
「で、霧島さんの方はどうかした? さっきは微妙に話を逸らそうとしてたみたいだけど」
「んー、実はさっきまで、嬢ちゃんを連れ攫ったあの研究員とお話してたんだけどよ」
 言われて、涼子は露骨に嫌そうな表情を浮かべた。
 拉致された挙句顔面を何度も殴られたという、ここ最近では最悪の記憶が浮かび上がってきてしまうのである。
 あの研究員は、はっきり言ってゴキブリよりも嫌いな存在だった。
「……で、何か言ってたの?」
「ああ。冬塚夫妻と八島優香について、洗いざらいゲロさせてきた」
 それによると。
 冬塚夫妻は魔術と呼ばれる力を研究していたという。
 魔術とは、普通の人間でも訓練すれば多少は使える力のことだ。
 異法人を目指す者にとってあまり有益な研究対象ではない。
 強力な魔術師は異法人さえも凌駕する力を有するが、そこに辿り着くために必要なものは『才能』である。
 あるいは魔術名門の出身という家柄か。
 どちらにせよ、確実かつ迅速に異法人を凌駕する術を探したい研究者にとって、魔術はあまりに面倒な代物なのだった。
 ところが、冬塚夫妻の研究していた魔術はどうも普通のものではないらしい……という説が出てきた。
 その説を唱えたのは、研究機関の裏にいる『スポンサー』だという。
 スポンサーは研究者たちにこう語った。
『冬塚夫妻の研究内容は異法人にとって大きな脅威だったのだ。何故そう思うか分かるかね? それは――――夫妻を殺害したのが、異法人だからだよ』
 夫妻の研究内容は、強大な力を持つ異法人さえも怯えるものだった。
 その脅威を取り除くために、ある異法人が夫妻を殺害し――――研究内容を闇へと葬り去った、というのだ。
 スポンサーの話が本当ならば、夫妻の研究内容は機関にとって死ぬほど欲しいものだろう。
 故に、その手掛かりを得ようと涼子が狙われたのだ。
「つまり、私があいつらに狙われたのはその『スポンサー』って奴のせいなの?」
「そういうことだな」
「正体分からない? 今猛烈にぶちのめしたい気分なんだけど」
「気持ちは分かるが、残念ながら正体不明だ。つーか分かってたらとっととスポンサーを吐かせてここいらの連中一掃してるよ」
「それもそっか」
 やはり機関の方をどうにかするのはまだ難しそうだった。
 涼子はそう結論付けると、改めて両親の顔を思い浮かべる。
 魔術などという訳の分からないものを調べていたという、父と母。
 それでも涼子の中で、両親の印象が劇的に変わるようなことはなかった。
 ……何してようと、お父さんはお父さんでお母さんはお母さん。
 涼子にとっては良い父であり良い母だった。
 彼女の中でそれは真実なのだ。
 と、そこで涼子はあるものが欠けていることに気づいた。
「そういえば八島優香……姉さんのことは言ってなかったの?」
 確かあの男は『八島優香』の存在もかなり重要視しているようだった。
 彼らにとって八島優香とは、どんな意味を持つ存在だったのだろうか。
「八島優香は、どうもその正体がいまいち分からなくてな。あいつらもよく知らないんだそうだ」
「何それ。あれだけ意味ありげに言ってたくせに?」
「意味はあるんだろう、正体は不明だが。……だからこそ連中は今も八島優香を欲してた」
「その意味ってのはなんなの?」
 八島優香という存在。
 それが意味するものは。
 霧島は何度か咳払いをした後、厳かに告げる。
「冬塚夫妻の協力者。――――そして、異法人を超越するカードだと」
 場が静まる。
 涼子も霧島も言葉を発さず、黙って相手の顔をじっと見ていた。
 ……カード、ね。
 嫌な言い回しだと思った。
 なんとなく、家族を汚されたような気分になる。
 霧島が考えた言葉ではないだろう。
 おそらく彼は、聞きだした言葉を口にしただけに過ぎない。
 事実、彼も不快そうだった。
 やはり、あの研究員――――そして研究機関は、好きになれそうになかった。
「これが奴から聞き出せた情報だ。これ以上は、自分たちでどうにかするしかねぇ」
「うん、分かった。……参考にしとく」
「参考?」
「だってその情報、真実とは限らないし。証拠も何もないし、あいつらが勘違いしてるだけかもしれないでしょ?」
 目の前に落ちてきた情報をそのまま鵜呑みにしては、とんだ勘違いをしてしまう可能性もある。
 とりあえず確実そうなことだけを覚えておくべきだと思った。
「重要なのは、あいつらが"その情報を信じて"私を狙ってること。そして、奴らにその情報を与えたのはスポンサーという存在だってこと」
「……なるほど。確かに今俺たちが信じてよさそうなのはそこだけか」
 おみそれしやした、と霧島は肩を竦めてみせた。
 涼子はそれに同じ動作で応えると、また資料に没頭し始めた。