異法人の夜-Foreigners night-

-Border Breaks-
第十九話「束の間の日々」
 五月二十五日、日曜日。
 梢と遥は十一時過ぎに朝月図書館へとやって来ていた。
 秋風市の中心部となる朝月町の図書館だけに、それなりの広さを持っている。
 蔵書数も十五万くらいはあるらしい。
 館内に入ると、あちこちで静かに読書をする人々の姿が見受けられる。
「わぁ、図書館って広い……」
「ま、秋風は無駄に土地が有り余ってるしな。一部に人口が密集しすぎて、その他の場所がまばらっつーかおざなりになってるけど」
「でもなんだか楽しみ。これだけ本があったら、毎日来てみたいな」
「俺は遠慮したいところだな。静かな場所で読書ってのは性に合わない」
 そんな場所に二人がやって来たのには理由がある。
 梢は学生らしく勉強会が目的だった。
 中間試験も近いため、そろそろ勉強しておかないと危ないのである。
 頭を使う作業が得意な吉崎和弥、学年首席の斎藤恭一などは問題ない。
 しかしスポーツ馬鹿の藤田四郎、そして天然馬鹿の倉凪梢にとっては一大事なのだ。
 そこで、四人が集まって勉強する、という習慣がいつからかついていたのである。
 そんな梢に遥がくっついて来たのは、社会勉強のようなものだった。
 まだ安心して外を歩けるような状態ではないので、遥はあまり外出をしない。
 だがそれでは、待遇は違えどあの研究所にいた頃と大差ない。
 そのことを気にかけた梢が、彼女をここまで引っ張ってきたのである。
 少しでも多くのものを彼女に見せてやりたかったから。
 梢は友人を探すため、遥は好奇心のために周囲をきょろきょろと見回していた。
 そんな二人の元へ、片手を上げながら吉崎がやって来た。
「よ、おはようさん。藤田らはもう来てるぜ」
「なんだ、もうあいつらも来てたのか」
「お前が時間に関していい加減なんだよ。って言うか、予定とかをもう少し覚えろ」
 ちなみに梢は今朝になって集合時間を忘れてしまったらしい。
 慌てて吉崎に電話をしたところ、彼は既に図書館にいるという。
 そこで遥を連れて、家を飛び出してきたのである。
「遥は藤田と斎藤とはまだ会ってなかったよな」
「うん。倉凪君から話は聞いてるけど……」
 そこで遥は困った顔をした。
 梢は学校での話を交えて、友人を面白可笑しく説明していたのである。
「おーっす、倉凪ぃ」
 そんなことをしているうちに、向こうからやって来た。
 短髪の快活そうな少年の藤田と、どことなく只者ではない雰囲気をかもし出している斎藤。
 彼らは梢に視線を向けた後、きょとんとした視線を遥に向けた。
「あれ、その子……まさか、お前の彼女っ!?」
「違うわ馬鹿たれ」
「そうか安心したぜ。お前にまで彼女が出来たら、俺は……っ」
「泣くなよ」
「微妙に哀れんだ目で俺を見るなっ! 主夫業に人生注ぎ込んでるお前と違って、俺は普通に恋もしたい年頃なんだっ!」
「分かるぜ藤田。倉凪はその辺分かってないっ!」
「お前まで乗るなっ! まるで俺がおかしいみたいじゃ――――」
 言いかけて、梢はしたたかに後頭部を叩かれた。
 気づけば吉崎や藤田も頭を抑えている。
 一人無事な斎藤が、やや落ちた眼鏡を指で持ち上げながら、
「図書館の中では静粛に。他のお客方の迷惑だ」
「す、すんません……」
 斎藤の正論に三人が揃って頭を下げる。
 妙に呼吸の合ったやり取りに、遥は思わず笑みを浮かべてしまった。
「初対面早々に彼らが馬鹿をして申し訳ない。いつものことなので、大目に見て貰えたら幸いだ」
「あ、いえいえ。話に聞いてた通りだったんで」
「ふむ。倉凪がどういう風に我らを紹介しているか気になるが……まぁいいか」
 斎藤は流れるような仕草でお辞儀をした。
「初めまして、僕は斎藤恭一。朝月学園高等部3-Aに所属している、しがない一学生です」
「あ……私は遥って言います。榊原さんのお家に厄介になってます」
「ど、同居? 羨ましい……!」
「ここで勝手に興奮してる馬鹿は放置しておくとして。……よろしくお願いします」
 斎藤は微笑みを浮かべながら手を差し伸べてきた。
 遥は最初その意味が分からなかったが、梢に後押しされて手を出す。
 すると、斎藤の方から握手を交わしてきた。
「んで、俺が藤田四郎。こいつらと同じく3-A。よろしくなっ、遥ちゃん」
「うん、よろしくお願いします」
 今度は遥の方から手を差し伸べてみた。
 藤田は恥ずかしかったのか、少し頬を掻きながら軽く触れた程度の握手をしてみせた。
 その様子を吉崎が面白そうに見ている。
「おー、藤田ぁ。意外にウブだねぇ」
「う、うっせぇ! こちとら行事以外で女の子と握手なんて、何年ぶりかなんだよっ」
「それはそれは、良かったなぁ」
「く、くっそぅ。毎朝美緒ちゃん背中に乗せて登校しやがって! このバカップルが!」
「あ、あほっ。そんなんじゃないですよ? 俺と美緒ちゃんはほら、兄妹的っつーか」
 どうやら攻守逆転したらしい。
 先ほどまで藤田をからかっていた吉崎が、一転追い詰められている。
 助け舟を出すつもりなのかどうかは知らないが、斎藤が大きく咳払いをした。
「コホン。藤田も吉崎も。今日は勉強会だということを忘れないように」
「すみませんでしたー!」
 またもや二人同時に頭を下げる。
 呼吸が合いすぎていると、傍から見る分には滑稽に見えた。
 遥がちらりと梢に視線を向けると、彼は肩を竦めてみせた。
「ま、こういう連中だ」
 まんざらでもない様子で、友人たちをそう評した。

「……ふむ、ではこの問題の答えは?」
「んー、これはこうなって……うん、二十五度じゃないかな」
「むぅ」
 勉強が始まってから一時間。
 梢たちの間で、小さなどよめきが起こりつつあった。
「遥さん、貴方は凄い」
 と、学年首席を走り続ける斎藤が遥を称賛している。
 梢たちはそれを信じられない、といった面持ちで見ている。
 当の遥はなぜそこまで褒められるのか分からない。
 分からないが、褒められて悪い気はしないので、とりあえず「えへへ」と笑っている。
「なぁ斎藤。お前がそこまで褒めるって……どれだけ凄いんだ?」
「今のは慶応の試験問題でな。僕でも答えるのに五分かかった」
「……今、遥五秒くらいで答えてなかったか?」
「ああ。だから凄いと言った」
 斎藤は真剣な表情で遥に解き方のコツを教わり始めている。
 遥はたどたどしく説明していた。
 分かりにくい説明だったが、そこは斎藤、きちんと理解しているようである。
 逆に梢と藤田は、未知の言語でも聞いているような顔をした。
 この二人は学校でも有名な馬鹿なのである。
「倉凪、あの二人の会話の内容、分かるか」
「分かると思うか? 言っとくが、成績はお前の方が上だぞ」
「五十歩百歩って感じだけどねぇ」
 吉崎は半眼で二人に視線を向けた。
 彼は分からない話はそもそも聞こうとしない。
 自分のペースでまったりと勉強を続けていた。
 ちなみに前回数学のテストでは、梢が十二点、藤田が十六点だった。
「ま、なんにせよ仲良くやれそうな感じで良かった。……いきなり勉強の会話で盛り上がるってのが、どうも俺には理解出来ないけど」
 梢はホッと胸を撫で下ろす。
 話せる相手が増える、友達が増える。
 それは遥にとって、とても大切なことだろうから。
「そして俺にとって大切な学力は伸びないのであった、まる」
 一人そんな風に締めくくる。
 そのときふと、前方に立つ大男の姿が目に入った。
 梢の正面に座る遥や斎藤らの後ろ。
 小説コーナーを前にして、じっと立っている男がいる。
 ……うわー、でかいな。二メートル越えてる?
 かなり体格のいい男で、筋骨隆々のたくましい身体つきであることが一目で分かる。
 なにやら険しい顔つきで本棚を凝視していた。
 おそらく何を借りるか悩んでいるのだろう。
 と、視線を感じたのか、男が梢の方を見た。
 ――――どくん。
「……え?」
 男の視線と共に生じた、微かな違和感。
 梢は自分の胸に手を当てて、ごくりと唾を飲み込んだ。
 ――――どくん。
 また、鼓動がした。
 男は相変わらずこちらを見ている。
 梢もまた、視線を逸らせずに男の方を見ていた。
 ――――どくん。
 ……うるさいな、大人しくしてろよ。
 鼓動は止まない。
 何故止まないのか。
 この鼓動は何を意味しているのか。
 異法人同士は、共鳴し合う。
「あ……」
 あの晩、赤根甲子郎という男が放った言葉。
 それを思い出し、梢は全身から冷や汗が出たような錯覚に襲われた。
 異法人。
 異法隊。
 目的は、遥。
「――っ」
 いつのまにか、男は目線を僅かに下げていた。
 その先には、斎藤と勉強話に華を咲かせている遥がいる。
 それに気づいたとき、梢は思わず椅子を蹴倒して立ち上がっていた。
 静寂の図書館に、突如異音が響き渡る。
「何してんだ、倉凪」
 隣の藤田が怪訝そうな表情で梢を見上げる。
 言われて、梢はようやく自分の行動に気づいた。
「あ、いや……ちょいとトイレに」
「そんなに必死そうな顔になるまで我慢すんなよな……」
 呆れ顔の藤田から視線を逸らし、梢は男の方を見る。
 だが、その姿はどこにも見当たらなかった。
 ……いない?
 改めて胸に手を当ててみる。
 すると、いつのまにかあの鼓動は治まっていた。
 一応周囲にも気配の網を伸ばしてみるが、こちらを窺うような存在は察知出来なかった。
 この時点においては、とりあえず危機は去ったようだった。
 遥の方を見ると、きょとんとした顔でこちらを見上げている。
 不思議そうに首を傾げながら、
「……トイレ、行かなくていいの?」
 安堵感のせいか、なんとなく頭をはたいてしまった。

 渋々トイレに行く少年の姿を、じっと見ている人影があった。
 それは先ほど梢が見た、大きな背丈の男。
 異法隊員である矢崎刃だった。
 彼は視線をトイレから逸らし、机の一角で談笑している少女へと向ける。
 彼女はやや戸惑いながらも、和気あいあいとした様子でいる。
 まるで極普通の、どこにでもいる少女のように。
「……ふむ」
 刃はあの晩、研究所内のカメラで二人の姿を確認している。
 だからこそすぐに気づいたのだった。
 もっともここで遭遇したのは本当に偶然だった。
 刃は時折、この図書館で本を借りる。
 戦いにまみれた生活を送ってきた刃にとって、数少ない趣味が読書だったのである。
 矢崎刃は考える。
 あの様子を見る限り、草野郎と呼ばれている少年は彼女に危害を加えてはいなさそうである。
 少なくとも少女は現状をそれなりに楽しんでいるようだった。
 無論、わずか数分見ただけなので判断材料としては弱い。
 もう一つ、柿澤が危惧している『彼女の力』。
 それが実際に危険なものかどうかは、刃にはまだ分からない。
 しかし、前々から思っていたことだが――――。
 ……あの二人を追う意味は、あまりないのではないだろうか。
 二人の姿を確認したとき、そんな気がした。
 彼らは何をするわけでもなく、普通に生きていたいだけなのではないかと。
 これは直感なので、結論とするにはまだ早いが。
 それに、刃を始めとして異法隊には別の問題がある。
 冬塚涼子を狙っているという機関の存在がそれだ。
 何が危険かも分からないようなこの任務より、明確に狙われている者がいるそちらの方が優先すべきことだろう。
 少なくとも刃はそう考えていた。
 簡単に言ってしまうと、彼はこの任務に乗り気ではなかった。
 無理に遂行せずとも、遂行の必要なしと判断出来る材料があればいい。
 今、楽しそうに笑っている少女。
 そんな彼女を、争いばかりの薄暗い世界へ無理に引き込むというのは……刃としては気が進まないのだった。
 ――――彼もまた、好き好んで異法隊に入ったわけではないのだから。
 トイレから出てきた少年が、少女の元へ戻る。
 まだ警戒しているのか、あちこちをきょろきょろと見て回っているようだった。
 そんな彼を、少女や周囲の友人たちがからかったりしていた。
 平和な光景だった。
 かつて彼が求めていたものが、そこにはあった。
 ……しばらくは、様子見といこう。
 彼女の力が危険ではなく。
 あの草野郎の少年が信用に足る存在であればいい。
 そうすれば、隊長にこの任務を終わらせるよう進言する。
 矢崎刃は、そう決めた。

 あの図書館に行った日以来、梢は妙な気配を感じるようになった。
 それは本当に些細なもので、赤根甲子郎のときのようなギラギラしたものはない。
 ただ、じっと監察されているような気がした。
 ……それはそれで不愉快だな。
 周囲には心配をかけまいと黙っているが、それとなく気配を探り返してみたりもする。
 そうして数日経ち……梢に分かったことは二つ。
 一つは、気配は常に同一のもの。
 そしてもう一つは、ずっと一つの気配しかないということ。
 誰かが単独でこちらを見張っているということになる。
 そうなると、やはり真っ先に思い当たるのは図書館で遭遇した巨漢だった。
 幸いなことに、こちらに仕掛けてくるつもりはないらしい。
 だからと言って、このまま見過ごしておけるものではなかった。
 ……ふん、気配の探りあいならこっちに分があるぜ。
 あの赤根甲子郎という奴に比べれば、今回の相手は気配を隠すのが下手なようだった。
 一般人には全く気づかれない程度だが、梢には分かる。
 はっきりと明言こそしないものの、榊原や吉崎も妙な気配には感づいているだろう。
 梢、吉崎、そして榊原は共通して『天我不敗流』という武術を学んでいる。
 この流派はどんな状況にも対応出来るようにと、様々な技法を取り込んでいた。
 その中には気配感知、及び気配遮断に関するものもある。
 故に梢は、この手のことに関してはそれなりに自信を持っていた。
「……どうしたの、倉凪君。さっきから変な顔して」
「――――あ?」
 不意に。
 横から声をかけられて、梢は意識を現実へと引き戻した。
 ここは台所。
 時刻は夕方で、梢は遥に料理作りを教えているのだった。
 美緒から借りた料理漫画がきっかけで興味を持ったらしい。
 遥は最近自主的に料理の練習をしたりしている。
 この間、梢がうっかり寝ていたときなどは、涼子にも教えてもらったとか。
 遥はきょとんとした顔で梢をじっと見ている。
 どうやら難しい顔つきをしてしまっていたようだ。
 梢は慌てて表情を作り変え、
「味噌汁は出来たな。それじゃ、次は魚の捌き方だ。いいか、まずはこうして――――」
 梢が丁重に教えると、遥は驚くべき速度で飲み込んでいく。
 これまで何もなかった人生、空っぽ故に色々なものがあっさり入っていくのだろう。
 真剣に魚と向き合う彼女を見ていると、自然と頬が緩くなる梢だった。
「あ、ご飯作ってるっ!」
 どこからともなく現れた美緒が台所を覗き込んでいた。
 あまり余裕のない遥に代わって梢が振り返り、
「お前は入ってくるなよ」
「えー、なんでさなんでさ。遥さんに料理教えて私は駄目だってのかー!」
「やかましい、この領域にお前が足を踏み入れることはオケラだって許さんのだ」
「ぶーぶー、くそぅ。吉崎さんとこ行って愚痴って来るもんねっ」
 捨て台詞を残して去る美緒。
 遥はようやく魚を捌き終わり、美緒が走り去った方を見た。
「ね、ねぇ。良かったの?」
「ああ。あいつは隙あればここに入り込んで食材を駄目にするからな」
「駄目にするって……それはあんまりなんじゃないかな」
「あんまりなのはあっちの方だっ。お前だって食ったろ、美緒の奴が作った殺人料理を!」
「うっ」
 ここにやって来てから少し経った頃。
 梢がいない隙に美緒は台所に入り込んで、遥に料理を振舞った。
 それは明らかに好意によるものなのだろうが――――。
「夕方にちょっと食べて、息を吹き返したのが翌日の夜。そんなのをまた食いたいのか?」
「それは……食べたくないです」
「俺は皆のためを思って、あいつを台所に近づけまいとしてるんだ」
 力強く拳を握って梢は力説した。
 遥は力なく笑って、料理を再開する。
 ……む、気配が消えたか。
 日も暮れようという頃になると、気配は決まって消えていく。
 そして翌日、学校へ辿り着く頃になると再び現れるのだった。
 ……まぁ無理に探し出すってのも危ないかもしれないし。でもこのまま放っておくわけにも……。
 近いうちに具体的な対策を立てる必要がありそうだな、と梢は嘆息した。
 こんな面倒な事態はさっさと終わらせたいのが正直なところなのである。
「えっと……これを、こう回して」
 慣れない手つきでガスコンロを操作する少女。
 その姿は、どこか昔の自分を思い起こさせた。

 その日、零次は一人でビルの屋上に立っていた。
 頭部は黒き悪魔のものとなっており、双眸は暗き輝きを有している。
 この状態になると、零次は視力や聴力が飛躍的に良くなる。
 下にいる人間の汗もはっきりと見えるし、心臓の鼓動さえもしっかりと聞くことが出来るのだった。
 そうして人々を監視することで、怪しげな人間がいないかどうかを調べる。
 そんな地道な作業からこそ、機関や草野郎の手掛かりが掴めるかもしれない。
 零次はそう信じて、ここ数日はこうしている。
「ん?」
 遠くから物凄い勢いで近づいてくる者がいる。
 あまりにも速過ぎる接近は、来訪者が誰であるかをよく物語っていた。
 確認するまでもない。
「霧島か」
 零次がそう呟くと同時、彼の背後に霧島が降り立った。
 なぜか、その腕に冬塚涼子を抱きかかえながら。
「……なぜ君がここにいる」
「いや、お前の様子を見たいからってんで連れてきた」
「お、俺の?」
「そ。お前の方で何か手掛かりがあるかなーってな」
「……そ、そうか」
 嬉しさ半分悲しさ半分といった微妙な顔つきで、零次はがっくりと肩を落とす。
 が、不意に面を上げ、
「ところで何故冬塚はさっきから黙っている?」
「さぁ? なんで?」
「……絶叫系とか駄目だって言えば理解してもらえるかしら」
 涼子は震える声を出しながら、鋭く霧島を睨みつける。
 零次と霧島はようやく合点がいったのか、顔を見合わせて困った風に笑った。
 普通の人間である涼子からすれば、ビルとビルの合間を飛び跳ねながら移動するというのはかなり恐いだろう。
 まして霧島は、移動速度もかなりのものなのである。
「ま、いいけど。にしても零次さん、なんでそんなヘルメットしてるわけ?」
「ヘルメットではないのだが……まぁいいか」
 夜の闇に紛れているせいで、涼子は零次の頭部が異質なものへと変貌したことに気づかなかったらしい。
 この辺りはライトも満足に届かないので無理はない。
 余計なことを言って恐がられてはたまらないので、零次は黙っていた。
「こちらは進展なしだ。何人か挙動不審な奴がいたが、ただのコソドロや酔っ払い、果ては夫婦喧嘩で家に帰りづらい中年だったりしたな」
「お前もロクなもんに鉢合わせねぇなぁ」
「最上級のろくでなしを探すんだ、その方が都合がよかろう?」
「はは、そいつぁ確かに」
 と、そこにもう一つの気配が近づいてきた。
 遠くからでも感じるこの強い気配は、零次の知る限りたった一人しか該当しない。
 次の瞬間、零次や霧島たちから少し離れた位置に、矢崎刃が現れた。
 彼は無言で霧島、そして驚いている涼子の姿を見る。
「……何かあったか?」
「いんや、別に。様子見に来たんだよ。……しっかし刃、お前相変わらず存在感つーか気配強すぎだな。すぐに気づいたぞ」
「そんなにか?」
「ああ。ま、お前は直接戦闘専門だからあんまし関係ねぇか」
 肩を竦める霧島と、僅かに表情を曇らせる刃。
 零次はそこに微かな違和感を覚えた。
 が、口に出して言うほどのものでもなく……その違和感はすぐに消える。
「刃、お前の方はどうだ。草野郎の捜索は」
「……"進展なし"だ」
「そうか。やれやれ、探し物というのはなかなか難しいものだな」
 零次はそう言いながら、頭部をこっそり元に戻した。
 あまり成果が上がらないと士気も段々下がってくるのか、零次の声には覇気がない。
 と、そこで涼子が鞄からいくつかの袋を取り出した。
「余計なお世話かもしれないけど、私も無関係ってわけじゃないし。……クッキー、食べる?」
 緊張した様子もなく、自然にそう言った。
 まるで、疲れた友人を元気付けるかのように。
「……ふむ、差し入れというわけか。ありがたく頂こう」
 実際、零次たちにとって涼子の差し入れはありがたかった。
 味もいいし、異常な日常に身を置いている彼らにとって、これは眩しいものでもある。
 普通の日常に暮らす、普通の少女が作ってくれたもの。
 それはどれだけ望んでも、今までの異法隊では手に入らないものだった。
 刃も涼子に頭を下げ、クッキーの入った包みを受け取っていた。
「いやはや、本当にありがたいねぇ。こんな、異常人な俺らのために作られたお菓子だぜ? これ、そんじょそこらの宝石よりも価値あるな」
「そこまでありがたがれると、なんだか素直に喜んでいいものかどうか……」
 霧島の言葉に涼子は苦笑。
 零次と刃は、じっくりと味わいながらクッキーを食べる。
 夜のビル街、その屋上。
 こんな場所にある、彼らだけの『普通』。
 それが今夜は、少しだけ優しくなったような気がした。