異法人の夜-Foreigners night-

-Border Breaks-
第二十四話「翼の記憶」
 それは突然の侵略だった。
 零次が借りている部屋に、強化人間たちが襲撃してきたのである。
 無論、強化人間などは零次の相手ではない。
 すぐさま撃退しようとし、実際に何体か倒したところで異変が起きた。
 強化人間たちは、零次に背を向け逃げ出したのである。
 零次としては、これを逃がす訳にはいかない。
 強化人間などという怪物を町中に放すことは論外だ。
 それに、彼らの後を追っていけば研究機関のアジトを突き止められる可能性がある。
 機関を潰せば、涼子の安全がより確かなものとなる。
 そう考え、零次はすぐさま後を追った。
 ところが途中、不意に強化人間たちは姿を消した。
 住宅街で曲がり角を進んだときのことだ。
 周囲に気を配ったが、それらしき者の動きも見えない。
 ……見失ったか。
 落胆と悔しさの念を浮かべながら、零次は歯軋りをした。
 そのとき、近くで生じた大きな揺れを感知した。
 地震の類ではなく、人為的に引き起こされたであろう揺れ。
 こんな芸当が出来るのは、零次が知る中では矢崎刃以外にいない。
 そして、彼が能力を駆使しているということは、難敵と遭遇している可能性を物語る。
 現状において刃を苦戦させるような相手など、異法隊のメンバーを除けば一人しかいない。
 ……放っておく訳にもいかんな。刃が敗れるとは思わんが、念のためだ。
 そうして、彼は辿り着いた。
 待ち受けていたのは、予想外の光景。
 矢崎刃は地に伏し、その側には草野郎が立っている。
 少し離れたところには銃を手にした男が座り込んでおり、周囲にはなぜか機関の強化人間たちが倒れていた。
 分からない。
 なぜ刃が敗れているのかも分からないし、銃の男が何者かも分からない。
 ましてや、強化人間たちがなぜここにいるのかなどは、分かるはずもない。
 ……落ち着け。
 自分自身にぴしゃりと言い聞かせ、現状を分析する。
 真実は後で追究すればいい、今必要なのは事実だ。
 銃を手にした男は見たところ魔力がほとんど残っていない。しばらく放っておいても問題はないはずだ。
 強化人間たちはまだ潜伏しているかもしれない。連中ならば、例の少女――遥を追っていてもおかしくはない。
 実力的には問題ないが、間違っても連中に少女を渡してはならない。
 そんなことになるぐらいなら、草野郎の元に置いておいた方が百倍はましだ。
 そして、草野郎。
 刃に勝ったのは確かなようだ。おそらく銃の男と協力してやったのだろう。
 しかし、左腕がだらりとしているところを見る限り、相当の痛手を受けているようだった。
 魔力はまだ残っているかもしれないが、戦闘続行は不可能だろう。
 零次は乗っていた木から飛び降り、真っ直ぐに刃の元へ向かう。
 腹部と背中に大きなダメージを負っているようだが、命に別状はないようだ。
 彼の安全を確認し、零次は相手に向き直る。
 草野郎は、敵意を剥き出しにして睨みつけてきた。
「一応聞いておくぜ……何しに来やがった?」
「愚問だな。以前も言ったはずだ、我らは隊長の命に従うまで」
「ち、やっぱ遥狙いか……!」
「いや、それだけではない」
 倒れている刃をちらりと見て、零次は険しい表情を浮かべる。
「貴様も放置しておくわけにはいかなくなった。別段過小評価していたつもりはなかったが、こうして刃を倒すほどの実力者になっているとは。それだけの力を野に放っておくのは危険すぎる」
「……あんだと?」
「――――件の少女と草野郎、両名を異法隊員として確保する。従わねば実力行使に出る」
 異法人の力は野放しにしておいていいものではない。
 普通の人間に危害が及ばぬうちに、檻の中――異法隊へと入れなくてはならない。
 完全に私情を消し、仕事と割り切る。
 零次の言葉には、有無を言わせぬ迫力があった。
 だが、草野郎は零次に向かって右腕を突き出した。
「どうせここがバレちまったんだから名乗っておくか。……草野郎じゃねぇ、俺は倉凪梢だ」
「我が名は久坂零次」
 相手の名乗りに応じると、きょとんとした表情が返ってきた。
 どうやら零次が名乗り返すとは思っていなかったらしい。
 にやりと笑って、 
「……はん、名乗られたら名乗り返す、ぐらいは出来るじゃねぇか」
「忠告も可能だ。その怪我で俺とやりあうなど無駄だ。大人しくしろ」
「悪いが俺は馬鹿なんでね。――――そんな忠告、受けつけねぇんだよっ!」
 草野郎――倉凪梢が、凄まじい速度で駆け出してきた。

 梢の一撃を、相手は軽々と受け止めた。
 拳を掴まれる。
 振り放せない。
 とんでもない握力だった。
「前よりは幾分鋭さが増したな」
 零次はそう言って、梢を掴んだ手を振り上げる。
 梢の身体が少しだけ宙に浮く。
 そこを、空いた腕で打撃を放つ。
 左肩狙い。
 刃との戦いで怪我を負った箇所を、零次は瞬時に見抜いて仕掛けてきた。
 回避する余裕もなく、梢は左足を上げて防御するしかなかった。
 が、膝頭に当たった一撃は想像以上に重い。
「ぐっ……」
「――――だが、まだ甘い」
 零次は腕を振り回し、梢の身体を投げ飛ばす。
 抵抗することも出来ないまま、梢は地面を転がり続けるはめになった。
 刃との戦闘で負ったダメージが大きすぎる。
 元々零次との間には実力差があったのだ。
 こんな状態で戦って、まともな戦いになどなるはずがない。
 少なくとも、肉弾戦ならば。
「だらああぁぁぁぁっ!」
 梢の叫びが中庭に轟く。
 と同時、地中から無数の草木が現れた。
 種類、形とまばらなそれらは、しかし統率された動きで零次を補足しにかかる。
「ふん、打撃戦では敵わんと見たか。だが、この程度!」
 自らへと収束してくる植物。
 それを前にして、零次は一気に力を解き放つ。
「第一解放arm、第二解放leg……第三解放――――head!」
 一瞬のうちに零次の腕、脚、そして頭が変化する。
 黒き憎悪、無念、後悔、絶望……それらを内包した悪魔の片鱗が姿を現す。
 刃のような、無言で威圧をかけてくるようなものではない。
 敵意を剥き出しにし、歯向かうものは徹底的に叩き潰すような存在。
 それが、零次の内に潜む悪魔であり――――久坂零次の力。
「チ、本領発揮か悪魔野郎……!」
 零次が腕振るう。
 その度に架空の草木は粉砕され、幻のように消えていく。
 梢が創り出す植物は、鋼鉄を遥かに上回る強度。
 それを容易く打ち砕くのは、異形の悪魔だからこそ出来る業。
 だが梢も、ここで攻撃を休めるわけにはいかない。
 肉弾戦の続行はもはや不可能。
 となれば、植物を次々と生み出し相手を押し潰すしかないのだ。
 とうに魔力は限界に近づきつつあったが、それでも梢は一気に畳みかける。
 判断するだけの余裕は、もうどこにもない。
 後は、出来る限りの力を以って敵を打ち砕くのみ――――!
「くっ」
 零次の口から苦悶の声が漏れた。
 一つ一つなら取るに足らない草木でも、数が桁違いだった。
 ダメージを受けている訳ではないが、次第に包囲網が完成しつつあることを悟る。
 このままでは押し潰される。
 跳躍して逃げようものなら、足を蔦に絡め取られ、地に叩き落されるだろう。
 さらに、創り出される植物の強度が次第に増してきていた。
 仕掛けがあるのか、それとも最後の力を振り絞っているのか――次第に、植物の破壊が困難になっていく。
「だが貴様とて刃との戦いで魔力は消耗しているはず……! 耐え切れば俺の勝ちだ」
「ああ、だから根競べと行こうぜぇ? さっき吉崎がかっこいい真似してくれたもんだから、俺も負けられねぇしなぁ……!」
「ぐ、ぬ――――!」
 状況的に追い詰められているのは、梢の方である。
 この方法でさえ後一分も持ちそうにないし、零次を撃退したところで他に強化人間がいるかもしれない。
 彼にとって究極目的である遥の守護――――否、彼女を含む『日常の守護』の達成は困難だ。
 これだけ派手に暴れれば、いかに榊原家の敷地が広くとも、隣家の人々が気づきかねない。
 今後も日常の中に身を置くつもりなら、自殺行為としか言えない暴走である。
 それは後先を考えない蛮行とも言えるものだったが、
「おおぉぉ!」
 かつて軽々と退けられた相手を苦戦させているのは、まさにその蛮行だった。
「ぐぅぅぅ……!」
 零次が苦悶の声を上げる。
 梢はそれを聞いて、胸中に微かな希望を抱いた。
 だがそれは甘い。
 梢はかつてその目で見ているはずだった。
 しかし、失念していた。
 久坂零次には、まだ出してない手があるということを。
 そして零次があげる苦悶の声は、そのことに起因するものだと。
「――また、出させるのか」
 不意に。
 何の前触れもなく、雰囲気が変わった。
 否、変わったのではなく広がったのだ。
 零次の周囲から漏れていた負の空気が、一気に広がったのである。
 彼の背から生じる、とても冷たい風に運ばれて。
 そのとき梢は咄嗟に思い出した。
 あの異形の姿、その極みとも言うべき部位。
 本来の人間には決して存在しないであろうモノ。
「っ……させるかタコが!」
 残り数十秒と言わず、全魔力を一瞬で解き放つ。
 まるで竜のような造形をした木が、零次を喰らおうと突撃する。
 しかし、遅い。
「……第四解放――――wing」
 風が、吹いた。
 零次目掛けて殺到していた植物が、風の刃によって切り刻まれる。
 風は、零次の背中から発生していた。
 彼の背中に生えた、黒き翼から発生していた。
 木竜が彼へ迫る。
 だが零次はそれを一瞥し、翼をかすかに広げただけだった。
「散れ」
 刹那、木竜は無数の破片と化し、淡く消え去ってしまった。
「ちっ……最悪だ」
 梢は地に膝をつきながら、どうにか身体を起こしていた。
 どうやら今の攻撃で完全に消耗しつくしたらしい。
 その表情からは、戦闘続行の意志すら見えなくなっていた。
 まだ戦うという思いはあっても、身体がもはや言うことを聞かない。
 それに加えて、眼前には翼を広げた悪魔がいる。
 以前の戦いでの言動から、零次は翼を解放することを嫌っている、ということは梢にも想像がついた。
 故に、今再びそれを解放させた梢に対し、零次は明確な敵意を持っていることだろう。
 零次は身体をゆっくりと、梢の方に向ける。
 そして一歩踏み出そうとして――――、
「――――あ」
 唐突に、空っぽな顔になった。
 零次の視線の先。
 そこにいたのは、一人の少女。
 冬塚、涼子だった。

 止めるどころの話ではない。
 倉凪梢と久坂零次の戦いは、近づくことすら出来そうになかった。
 迂闊に近寄れば、死んでしまうかもしれない。
「っ……ってそうじゃないでしょ! いつまで突っ立ってるのよ私は!」
 やれることはある。
 凄まじい激闘を避けるようにして、涼子はまず吉崎の元へと駆け寄った。
 ずぶ濡れになることなど、この際気にしていられない。
 彼は、案の定涼子の姿を見て驚愕の表情を浮かべた。
「ふ、冬塚ちゃん! なんだって出てきたんだ、大人しく隠れてなきゃ……」
「すみません、ちょっと訳あり」
 短く言って、涼子は吉崎に肩を貸した。
「こんなとこいたら危ないし、さっさと避難しますよ!」
「あ、ああ……悪い、マジで動けない」
「う、結構重いですね」
 涼子は力がある方ではない。
 同学年の女子と比べても、力作業は苦手なのである。
 ぐったりとした男性を運ぶのは、かなりの重労働だ。
「簡潔に言うとですね、私も他人事じゃないんです」
「え?」
「あそこで転がってる変なのいるじゃないですか。強化人間。あれに狙われまして、そこをあの人たちに助けてもらったんです」
 激戦地帯からやや外れたところに倒れている刃を見る。
 あちらまで回収しにいくのは難しそうだった。
 吉崎が息を呑む音が聞こえた。
「冬塚ちゃんが……? えっと、あいつらに?」
「ええ、ですからこれ、出来れば止められないかな、とか思ってたんですけど」
「……まぁ今となっちゃ無理か」
 吉崎は苦々しげに梢と零次の戦いを見ている。
 今のところ、梢が猛攻撃をしているようだった。
「だけど、俺が調べた限りじゃ……あいつら、異法隊ってのは赤間カンパニーって会社の犬で、ろくでもない連中だと思ってたけど」
「そういう面もありますけど、誰も喜んでやってないみたいです」
「でも有無を言わさず遥ちゃんをとっ捕まえようとしてる」
「……」
「その辺りの事情は?」
「はっきりとは聞かされてませんでした。でも薄々気づきましたけど」
 吉崎を縁側まで運ぶ。
 まだまだお互いに確認したいことは山ほどあったが、この状況ではのんびりと話し込むわけにもいかない。
 だから、涼子は必要最低限のことだけを言った。
「私、先輩のことは信頼してます。だから遥さんは、こっちにいた方がいいと思うんです」
 異法隊は、分からない。
 零次や霧島、それに先ほどの矢崎刃を見る限り、彼らは個人としては信用できる。
 だがそれが異法隊という"組織"になると、まだ涼子は信じられなかった。
 吉崎は苦笑して、
「ありがとさん。……そっちの事情も後で聞かせてもらいたいもんだけど――――」
 そのとき、空気が一変した。
 梢が創り上げた植物の大群は一瞬にして葬られ、異形と化した久坂零次が姿を現す。
 ――――ドクン。
「……え?」
 中から出てきた久坂零次。
 そう、出てきたのは間違いなく久坂零次だ。
 確か新学期早々に出会って、奇妙なことを言われた。
 今度会ったら、そのことを聞こうと思って、
 ――――違う、それは出会いではなく"再会"だ。
 久坂零次の姿は異常だった。
 両腕両足はいつもよりもずっと筋肉で盛り上がっており、頭部に至っては面影こそあれ、人間にはありえない黒色である。
 だが、なによりもおかしいのは背中に見えるモノだ。
 吉崎も目を丸くしている。
 さすがにあんなのは予想外だろう。
 零次の背中には――黒き翼がある。
 ……私はあれを知っている?
 不意に、何の根拠もなく、そんな考えが脳裏をよぎる。
 それと同時に、凄まじい頭痛が彼女を襲った。
 思わず近くの柱に身を預け、片手で頭を押さえ込む。
 だが視線だけは零次から外れない。
 ――――ドクン。
 涼子の中にいる誰かが叫ぶ。
 私はあれを知っていると。
 閉ざされた記憶の扉の向こうから、必死になって叫んでいる。
 何度も何度も扉を叩き、必死にそれをこじ開けようとして。
 頭が痛い。
 気が狂いそうだった。
 零次の姿が異常なだけではない。
 あの姿は、涼子の記憶をひどく揺さぶる。
「冬塚ちゃん……大丈夫か!?」
 吉崎の声に答える余裕はない。
 歯を食いしばり、両目を大きく開いて、全身に力を込めて身体を支える。
 単に思い出せないという不快だけではない。
 もっと別の何かが、涼子の中でざわめきつつある。
 零次と最初に会ったのはいつだろう。
 今年の新学期、ではない。
 そのとき確か、彼は。
 ……七年前。七年前に、私はアレに……?
 知っている。
 自分はアレを知っていると、知識ではなく記憶が叫んでいる。
 そのとき……零次の視線が涼子に向けられた。
 ――――ドクン。
 そして、ガチリと何かが鳴った。
「あ――――」
 それは零次の声だったか、涼子の声だったか。
 果たして現在のものなのか、七年前のものなのか。
 ――――――刹那、涼子の眼前に鋭い爪が振り下ろされる。
「いやあぁぁぁぁぁっ!」
 叫びながら腕を振る。
 何度も何度も腕を振る。
 だが、爪の一撃はなかった。
「冬塚ちゃん、冬塚……! しっかりしろ! おい!」
 吉崎に肩を揺さぶられるも、涼子は目を閉じて腕を振り回すだけだった。
 いつまで経っても振り下ろされない爪の幻影が、絶え間なく彼女を襲い続ける。
 何かが見えたのだ。
 それは微かに開き、またすぐに閉じた記憶の扉から漏れた光景。
 過去において、実際に起きたことだった。

 梢は困惑していた。
 涼子がこんなところに出てきていることも要因の一つだったが、それ以上におかしいのは零次である。
 圧倒的有利な立場にありながら、零次は涼子を見た途端ぴたりと動きを止めてしまった。
 涼子は両手で頭を抑えながら、苦しそうに呻いている。
 そんな彼女を前にして、零次は呆然とした表情を浮かべていた。
 空っぽの顔だった。
「……ふ、ゆ……つか?」
 その声は震えていた。
 まるで何かを恐れているようだった。
 この場において最強と言ってもいい男が、まるで子供のように怯えている。
「思い、出したのか……」
 これまでの言動からは想像もつかないような、弱気な声だった。
「なぜ、ここに……こんなところで……!」
 零次の周囲に風が吹き荒れる。
 静かな言葉とは裏腹に、内心は穏やかではないらしい。
 だが怒りのやり場がないのか、翼から生じる風は、ただ彼の周囲で暴れまわるだけだった。
 零次に構っている余裕もなければ、理由もない。
 梢は言うことをきかない身体に鞭を打ち、錯乱状態の涼子の元へと向かう。
 が、それが零次の眼に止まったらしい。
「おおおぉぉぉぉっ!」
 向けられたのは敵意ではなく、殺意。
 暗き双眸に憎悪の炎が宿るのを、梢は確かに見た。
 重い一撃が、愚直なまでに真っ直ぐに叩き込まれる。
 動きが単純すぎるため、梢はどうにか防御した。
 が、戦闘続行が不可能な状態では、ただそれだけでも致命打になりかねない。
 踏ん張ることすら出来ず、梢は吉崎たちの元へと吹き飛ばされる。
 梢が突っ込んできた衝撃からか、涼子と吉崎は気を失ったらしい。
「くそっ、訳分からんねぇな……!」
 久坂零次のことと言い、冬塚涼子と言い、事情がまるで分からない。
 そんな苛立ちを込めた声が、つい梢の口から漏れた。
 梢にはもはや抗うほどの実力はない。
 どうにか植物を創りだそうと試みるが、その辺りにあるような雑草が一本出来ただけだった。
「絶体絶命ってやつかよ……」
 力なき声で呟く。
 先ほどの一撃で頭を打ったのか、視界がぼやけてくる。
 眼前に久坂零次が迫りつつあるのを見ながら、梢の意識は闇へと落ちていった。

 こんなはずではなかった。
 理解出来ないことがたくさんある。
 なぜ、冬塚涼子がこんなところにいるのか。
 そして、なぜよりによってこの姿を見られてしまったのか。
 七年前に彼女を傷つけた、悪魔としての姿を。
 黒き翼を持つ、異形の悪魔。
 自分が異法人という存在である以上に、零次はこの姿を嫌っていた。
 少なくとも、こんな姿になる力でなければ、もう少しまともに生きてこれたはずなのだから。
 敵を振り払うための腕。
 素早く駆け抜ける足。
 身を守るための胴体。
 視力聴力を増幅させる頭部。
 それらを解放することはあっても、翼だけは滅多にしない。
 この翼は悪魔であることの証明であり、なによりも忌避すべきものだった。
 目立つのだ。
 あまりに印象が強すぎて、悪い意味で覚えられてしまうことが多い。
 それはそうだろう、翼が生えたときの零次は、他の生物にはない造形をしている。
 鳥類でもないくせに翼を持つ。
 人の形をしているくせに、翼を持つ。
 ありえない造形故に、人はそれを覚える。
 だから涼子には見せたくなかった。
 見せればきっと彼女は思い出してしまうから。
 全てを失った、七年前の記憶を取り戻してしまうから。
 きっと、彼を拒絶してしまうから。
 なぜこうなってしまったのか。
 零次は再度考え、一人の男に気づいた。
 倉凪梢。
 この男が翼を解放させる要因となった。
 そして、彼女がここにいたのもこの男が関わっていることなのだろう。
 ……こいつさえ、いなければ……!
 自分でも醜悪と思えるような感情が膨れ上がっていく。
 零次は梢の前に立ちながら、拳に力を込めた。
 右腕を大きく振り上げる。
 手加減などするつもりはない。
 一撃で、叩き潰す。
 相手に戦う力が残されていないことなど関係ない。
 叩き潰さねば気がすまないのだ。
「貴様さえ、いなければ……!」
 憎悪が込められた言葉と共に、右腕が振り下ろされる。
 しかし、それが梢に届くことはなかった。

「――――――ちょいと格好悪いぜ、零次」

 横からそんな声が聞こえた。
 それと同時、零次は不意に蹴り飛ばされる。
「っ……!?」
 数歩下がったところで踏みとどまり、零次は自分を攻撃した相手を睨み据える。
「どういうつもりだ、霧島……!」
 どこかで戦闘をしてきたのか、霧島の格好は多少薄汚れていた。
 彼は零次と梢たちとの間にゆっくりと立つ。
 まるで、零次の手から三人を守ろうとしているようだった。
 それが零次には気に入らない。
「その男が草野郎だ。……まさかそいつに手を貸すつもりじゃないだろうな」
「そんなこと言ってる場合じゃねぇんだよ、馬鹿たれ」
 意外に鋭い叱責が飛んでくる。
 零次は出鼻をくじかれ、ますます顔をしかめた。
 だが霧島は彼を無視して、梢の方を向く。
「気絶か。こっちもこっちで大変だったみたいだな」
「どういうつもりだと聞いている、霧島。答えろ!」
「……さらわれたんだよ」
 霧島にしては苦々しげな声。
 零次は一瞬何のことかと思い、しかしすぐに結論へと辿り着く。
 霧島は頷き、
「――――遥が、機関にさらわれたんだ」
 確認するように、もう一度告げた。