異法人の夜-Foreigners night-

-Border Breaks-
第二十五話「選べない道」
 少しだけ、時間を戻す。
 涼子が飛び出してからそう経たないうちに、遥がぼそりと呟いた。
「やっぱり、追わなくちゃ……」
「え?」
 一緒に隠れていた美緒が驚きの声をあげる。
 遥が何を言っているのか即座に理解したからだ。
「は、遥さん。駄目だよそれは」
「確かに倉凪君には怒られちゃうかもしれないけど、放っておけないよ」
 言いながら、遥は懐から蒼い銃を取り出した。
 榊原から貸し与えられた魔銃『ヴェー』。
 吉崎が持つ魔銃『ヴィリ』と対になる武装である。
「これがあるから、大丈夫」
 借り物の力に過ぎないと分かっていながら、遥はそう言った。
 外では十中八九異常が発生しているだろう。
 梢が出るなと言ったのだから、それが正解のはずだ。
 だが、それは自分の身を守ることだけを考えた場合の話である。
 ここでじっとしているのは、涼子を見捨てるのと同じことだ。
 遥には、それが正しいことだとはどうしても思えない。
 借り物と言えど、今の遥には力がある。
 その力があれば自分の身ぐらいは守れるし、涼子をここまで連れ戻すことも出来るかもしれない。
 ……出来るかもしれないなら、やらなきゃ!
 銃を握る手に力を込め、遥は口元を引き締めた。
「美緒ちゃんは隠れてて。冬塚さん見つけたらまた戻ってくるから」
「……」
「私が戻ってこなくても、絶対出ないでね」
「私も行く」
 美緒は小さな声で、しかしはっきりと言った。
 震える手で遥の服を掴んでいる。
「私は涼子ちゃんの親友なんだから。ここで自分だけ隠れてるなんて、そんな真似出来ない」
 遥は一瞬迷った。
 美緒を連れて行くのは危険である。
 だが美緒は遥を掴んで離さない。
 意地でも一緒に来るつもりなのだろう。
 遥は覚悟を決めた。
「……分かった。私が死んでも美緒ちゃんを守るよ。行こう」

 押入れから出た二人を待っていたのは、しんと静まり返った屋敷だった。
 広さの割に住人が少ないため、この屋敷はいつも静かである。
 だがこの静けさは、何か嫌なものを感じさせるものだった。
 人が暮らす場所ではなく、異形が潜む異界のような――――。
「っ……」
 遥は頭を抑えた。
 背中にしがみつく美緒が、心配そうな顔を向けてくる。
 大丈夫、という意味を込めて笑顔を返した。
 しかし、この雰囲気はひどく気持ちが悪い。
 まるで、あの研究所に連れ戻されたような気分だった。
 ようやく得られた日常に、彼女を追って非日常が足を踏み入れてきたかのように。
「あれ、コップ……涼子ちゃんが飲んだのかな」
 美緒がテーブルの上を指差す。
 確かにそこには、五つのコップがある。
 そのうちの一つは、先日梢が遥にプレゼントしてくれたものだ。
 涼子が飲んだのか、客人用のコップだけが空だった。
 それに倣って、遥も自分のコップの中身を一気に飲み干す。
 美緒も同様に飲み、二人は顔を見合わせてクスリと笑った。
 一瞬だけ、周囲の空気が日常のものに戻ったような気がした。
 一緒に顔を合わせて食事をする。
 それだけのことが、掛け替えのないことだった。
「……いやだなぁ。なんだか感傷に浸ってる――――」
 刹那、台所から何かが飛び出してきた。
 美緒は突然の物音に驚き、身体を竦めている。
 そんな彼女を守るように、遥は飛び出してきた相手の前に出た。
 榊原の言葉が脳裏をよぎる。
 彼がこの銃の使い方を、遥に説明したときのことだ。
『短期間でお前に格闘を教えることは出来ない。故にお前が戦うなら、そのやり方は一つだけだ』
 魔銃『ヴィリ』と『ヴェー』。
 二つの銃は、持ち主が敵と認識したものに自動で照準を合わせる。
 故に使い手がすべきことは、至極単純なことだけだ。
「遥さん!?」
 美緒の悲鳴と同時、遥の意識が叫ぶ。
 ……真っ直ぐ相手を見て、引き金を引く!
 銃がまるで意志を持ったかのように敵の方を向く。
 遥の視界に奇形の怪物が映る。
 その表情は狂気に歪んでいた。
 しっかり見るよう意識していたが、思わず視線が怪物の足元に逸れる。
「――――っ!」
 蒼き銃から光が一線。
 間にあったテーブルを砕き、光は怪物の下半身を消し飛ばした。
 さらに光は奥の台所に大穴を開け、外へと飛び出していく。
 吉崎のそれよりも、遥かに巨大な一撃だった。
 怪物の上半身が血を撒き散らしながら遥たちの頭上を越えていく。
 二人の背後にどさりと音を立て、残骸が崩れ落ちた。
 ……撃った、撃った、撃った撃った撃った――!
 相手は人間ではない
 それに襲いかかってきた敵だ。
 しかし、それでも何かを撃ったことに違いはない。
 遥は今、初めて自分の意思で攻撃をしたのだった。
「はあっ……はぁっ……!」
 最低の気分だった。
 相手がなんであれ、こんなことをして気分が良くなるはずがない。
 嘔吐感を必死に抑え、落ち着けるように胸を撫でる。
 美緒も青ざめた表情でこちらを見上げている。
 こちらの服を掴む腕が震えていた。
「……殺セ」
 背後から。
 聞きたくない声が、聞こえた。
 二人の心臓が跳ね上がる。
 お互いに硬直した顔を見合わせる。
 頷き合うことも出来ずに、ただ恐る恐る振り返る。
「……っ」
 そこには、上半身だけとなった怪物がいた。
 不自然に盛り上がった肩、凹凸の激しい首周りの筋肉、やけに細い胴体。
 おまけに肌の色は紫だった。
 顔の造りは、どことなく初老の男性を思わせる。
 しかし双眸は狂気に彩られ、焦点も定かではない。
 汚らしい唾液にまみれた口で、怪物はもう一度繰り返した。
「殺しテ、くれ……」
 それは懇願だった。
 自分の命を絶って欲しいという、聞き手にしてみればなんとも嫌な願い。
 遥は戸惑いと恐怖から動けなかった。
 殺そうと思えばすぐに殺せる。
 しかし、襲いかかられて反撃しただけで、あんなに気分が悪くなったのだ。
 これでもし相手を殺してしまえば、どうなるのか。
 否、放っておいても相手はそう間を置かずに死ぬ。
 ここで躊躇うのは、自分自身が臆病なだけだ、と言い聞かせる。
「おおおぉぉああああっ!」
 怪物が苦しそうにのたうちまわる。
 その度に、怪物の内臓らしきものが少しずつはみ出てきた。
 動け、と言い聞かせても、身体はそれに応えない。
 ふと、倉凪梢ならこの相手をどうするだろう、と考えた。
 ……分かんない。
 最後まで助けようとしそうな気もするし、見かねて楽にしてやるかもしれない。
 どうすればいいのかが、遥には分からなかった。
 ……選べないよ……。
 泣きたかったが、それだけは駄目だと意地で涙を抑え込む。
 美緒に問いかけることなど出来るはずもない。
 遥に出来るのは、残酷な二択だけだった。
「うぅ……」
 眼前の怪物は苦しみが増してきたのか、よりひどい声で叫ぶ。
 遥はゆっくりと銃を構える。
 はっきり撃とうと思ったわけではない。
 こんな光景を、一秒でも早く終わらせたいと思っただけだ。
 だが、指に力が入らない。
 選択の決断が出来ない。
 どちらにすればいいのだろう。
 どうすれば、また日常に帰れるだろうか。
「もう嫌だ……朝の、散歩……それだけだった」
 不意に、怪物の声が人間らしくなった。
 年老いた、ただの老人のような声。
 それを聞いて、遥の中で迷いが膨れ上がっていく。
 大きくなりすぎて、もはや思考が上手く働かなかった。
 そして、彼女は長い苦渋の時間を経て、決断を下した。
 怪物の額に銃口を向け、
「……ごめんなさい」
 喚く怪物を見据えて、引き金を引こうとした瞬間。
「――――おや、自我が戻っちゃいましたかね?」
 場違いに呑気な声が、聞こえてきた。
 同時、小さな音がしたかと思うと、怪物の頭部が消し飛んだ。
「……!」
 先ほどよりも強い恐怖、そして嫌悪感。
 遥は美緒を背に隠しながら、居間へ入り込んできた男を見た。
 線の細い優男だ。
 穏やかな笑みを浮かべているが、それは誰かに向けられているものではない。
 ただ自分が楽しいから笑っているような、そんな表情だった。
 手には小型の拳銃らしきものを持っている。
 おそらくはそれが、怪物の命を断ち切った武装だろう。
 男は遥を見て、一層笑みを深くした。
 優雅に一礼して名乗り上げる。
「――――私、牧島裕一と申します。……以後お見知りおきを」

 金属が鳴り合う音が響き合う。
 榊原邸の裏において、霧島直人は蛇面の男と対峙していた。
 双方とも、手にはそれぞれ獲物を持っている。
 蛇面の男は、複雑な模様が描かれた金属棒を。
 霧島直人の手には、武骨な造りの大型ナイフ。
 自身の能力だけでなく、武器まで持ち出す。
 それは異法人として、己の力にかけるリミッターを外した証だった。
 ナイフと金属棒が激し、火花を散らす。
 次の瞬間には、二人とも相手の間合いから脱している。
 一撃必殺を警戒した戦い方だった。
「……この事態、やっぱお前の仕業か」
 腰を落としながら、霧島が言った。
 まるで相手を知っているかのような口振りである。
 対する蛇面の男は、愉快そうに目を細めた。
「然り。貴様には分かるか、この結界が」
 言われて、霧島は背景がわずかに歪んだのを見た。
 普通の人間どころか異法人でも分からないような、巧妙に隠された結界。
 それ自体は何の実害もないものだ。
 内側と外側を遮断するだけの、他愛ないものである。
 だから内側でどれだけ大規模な戦闘が行われても、外側にいる近隣の住民は気づかない。
 だが、問題はそれだけではない。
「強化人間たちを隠したのもお前の仕業か」
「隠匿の魔術はそう難しいことではない」
「そりゃ対象が動かないもんだったりすればの話だ。あんな連中をあれだけの数隠し通すなんざ、化け物のやることだぜ」
「その程度出来ずして異法を名乗るなど、おこがましいであろう」
 ククク、と陰湿な笑みを浮かべる。
 この男は異法人であり、同時に魔術師でもある。
 生まれ着いての異法という才能を有し、さらにそこから魔術という技術を得た。
 蛇面の男は、どちらの面においても尋常ならざる力を持っている。
 隠匿の魔術は、言ってしまえば『そちらへ意識が向かないようにする』という技術である。
 魔術師が自分の隠れ家を用意する際には、出来るだけ意識の死角となるべき場所を選び、さらにこの魔術をかけることが多い。
 本来はそういったことに使う魔術を、蛇面の男は数十の生物にかけた。
 何十体もいれば『意識しないようにさせる』ことの難易度は格段に上がるし、ましてやそれらが動くとなれば、ほとんど不可能に近い。
 それを軽々とやってのけたこの男は、魔術師としても恐るべき実力を持っていることになる。
 しかし、今はその魔術も解けている。
 霧島が男と戦闘を始めてから、一気に強化人間たちの気配が現れたのだ。
 おそらく、直接戦闘に挑むためだろう。
 さすがに大規模な魔術を行使しながらの戦闘は不可能なようだった。
 強化人間たちは榊原屋敷の中へ入り込み、中をじっくりと探っている。
 だからか、霧島の表情には余裕がない。
 急がなければ、機関に遥を奪われてしまう。
 かと言って、蛇面の男は背中を見せていいような相手ではない。
 強化人間の気配をさらけ出すことを理解したうえで、蛇面の男は霧島の前にやって来ていた。
 となれば、相手の目的は一つしかない。
「はっ……いつもに比べるとどうも手抜きだと思ってたんだが、やっぱてめぇの目的は時間稼ぎか」
「然り。故に、私に背を向けるなどということはするなよ復讐者。失望して殺してしまうからな」
「ちっ……」
 霧島は理解している。
 蛇面の男は軽く言ったが、それが掛け値なしの本気だということを。
「誰が、てめぇ相手に、背中向けるって?」
 自身を鼓舞するように、凄絶な笑みを相手に向ける。
 自分自身の鼓動が早まっていくのを感じた。
 ――――モルト・ヴィヴァーチェ。
 自分自身の動きを数倍まで早めて、一気に決着をつけるしかない。
 更に腰を落とし、いつでも飛びかかれるように構えた。
 緊迫感が高まっていく。
 だが、そこで場違いな音が鳴った。
 蛇面の男の携帯である。
 男はそれを無視しようとしていたらしいが、数秒も待たずに電子的な声が勝手に出てきた。
 虚構に彩られた音が、簡潔な言葉として放たれる。
『撤退せよ、ザッハーク』
 機械的に告げて、一方的に通信は切られた。
 蛇面の男――――ザッハークは不快そうに顔をしかめる。
「これからが面白くなるところだったのだがな。まぁ、我が契約者が撤退せよと言うのだ。もはや私がここにいる意味はないのだろうよ」
 軽く地を蹴り、ザッハークは塀の上に飛び乗る。
「……おい、契約者ってのはなんだ。機関のスポンサーとやらと関係あるのか!?」
「答える必要はない。……それよりもいいのか? また、守れなくなるぞ」
 嘲笑を残して、ザッハークは結界の外へと消えていく。
 霧島は大きく舌打ちして、踵を返す。
「くそっ、間に合えよちくしょう……!」
 自らの能力を発動させ、せわしない様子で霧島は駆け出す。
 目指す先は分かっている。
 榊原屋敷、その居間近く。
 そこに、彼が守るべき対象がいるはずだった。

 逃げ場など最初からない。
 いつのまにか、周囲を全て囲まれていたからだ。
 牧島と名乗る男が現れた直後、一斉に異変が生じた。
 物音一つ立てずに、何体もの怪物が現れたのである。
 確認できるだけで十五体以上はいる。
 それらが全て、居間を包囲していた。
「美緒ちゃん、絶対離れないで……!」
 答えるように、美緒は掴むシャツを引っ張ってきた。
 返答があったことに安堵しながら、遥の視線は牧島から離れない。
 牧島は白衣を身に纏っていた。
 そして怪物たちを引き連れている。
 どう考えても、友好的な相手ではない。
 彼は嬉しそうに唇を吊り上げた。
「うん。資料で確認したのと一致するな。嬉しいよ、君と無事出会えてね」
「……」
「ふふ、警戒しないで欲しいなあ。僕は君を取りに着たんだ」
 両手を広げ、高々と言う。
 大仰な男の仕草に、遥はいちいち警戒心を反応させた。
 他の怪物と比べると、牧島は普通の人間に見える。
 だからこそ、異常なのだ。
 怪物たちに囲まれた中で平然としているのは、普通の人間ではありえない。
 では、怪物でもなく普通の人間でもないこの男は――――何者なのか。
 分かっているのは、自分たちが追い詰められているということだけ。
 ……倉凪君は大丈夫かな。吉崎君や、冬塚さんは。
 これだけの怪物が徘徊していたと考えると、あまりいい想像が出来ない。
 歯を食いしばりながら、遥は銃口を男に向けた。
「……帰ってください。でないと、撃ちます」
 遥の言葉がよほど意外だったのか、牧島はきょとんとした表情を浮かべた。
 とても不思議そうに遥を数秒見つめて、
「おかしいな。……道具のくせに、自分の意思を持っている」
 信じられない、と何度も呟く。
 左右に首を傾げながら、牧島は呆然とした顔で頭を掻いている。
 しばらくそうして、不意に彼は小型拳銃で遥の足を撃ち抜いた。
「――――あっ!?」
 突然の痛みに、遥の身体が崩れ落ちる。
 弾丸は左膝を貫通したらしく、上手い具合に立ち上がることが出来なかった。
 今まで体験したことのない激痛に、思わず声が漏れた。
「は、遥さん!」
 美緒が身体を揺すってくるが、答えるだけの余裕がない。
 頭を垂れながら両手で足を支える。
 そんな彼女の眼前に、牧島がやって来た。
 傍から見ると、牧島の前に遥が跪いているようだった。
「ふむ。心も感情もない道具だと聞いていたけれど……これはこれで楽しめそうだね」
 牧島はしゃがみこみ、遥の顔を覗きこむ。
 痛さのあまり、涙を流す少女の顔が見えた。
 それに満足したのか、牧島は笑みを浮かべた。
 無造作に拳銃を取り出し、もう片方の膝も撃ち抜く。
 声にならない悲鳴を上げて、遥が転げまわった。
 何が面白いのか、牧島はさらに追撃を試みようとする。
 が、そんな彼の前に人影が立ちはだかった。
 美緒だ。
 全身を恐怖に震わせながらも、憎悪の視線を持って牧島を睨み据えている。
「やめてよ……!」
「ん? なんで?」
 牧島は首を傾げながら、美緒の額に銃口を突きつけた。
 迷わず引き金を引くが、それよりも僅かに早く、遥が美緒を引きずり倒す。
 両膝を撃ち抜かれ、立ち上がることも出来ない。
 そんな状況にありながら、遥はしっかりと牧島を見ていた。
「この子は……普通の子なの……!」
「だから手を出すなと? でも邪魔だしなあ」
 クスクスと笑って、牧島は再び銃を美緒に向けた。
 だが引き金は引かず、遥の方に視線を移す。
「そうだね。……君が僕らについてきて、研究に全面協力をするなら彼女は解放しよう」
「研、究……」
「そうそう。君もよく知っているだろう? ずっとそういうところにいたんだから」
 言われて、遥は昔を思い出していた。
 自分の意思などなく、ただ言われるがままだった生活。
 全てのことが等しく無価値だった、孤独な日々。
 自分というものが存在しなかった、寂しい日々。
「さあ、どうする? 僕はどのみち君を連れて行くつもりだがね。今日はなかなか苦労して、ようやくここまで辿り着いたんだから」
 あんな日々に帰りたくはなかった。
 だが、今の状況ではそれ以外に道がない。
 意地を通して美緒を死なせるか、すんなりと諦めるか。
 ……選択肢なんて、ないなあ。
 胸中で嘆息し、彼女は声を絞り出した。
「――――――行きます」
 その答えに牧島は満足したようだった。
 彼は何度も頷いて、それから周囲の怪物たちに指示を出す。
「彼女を車へ押し込んでおけ。撤退する」
 牧島も長居する気はないのか、早々に居間から廊下へと出て行く。
 激痛の中、遥は自分の身体が持ち上げられるのを自覚した。
 地から足が離れ宙に浮いた瞬間、どうしようもない絶望感が訪れる。
 側にいた美緒に、作り笑顔を向けるのが精一杯だった。
「……あはは」
 笑うしか出来なかった。
 大丈夫とか、ごめんねとか、ありがとうとか、言うべきことはたくさんあったはずなのに。
 美緒は恐怖と戦いながらも立ち上がろうとしていた。
 遥を助けるつもりなのだろう。
 ……本当に、良い子だなぁ。
 美緒に限らず、この家の住人は皆良い人ばかりだった。
 せめて、そんな人たちを傷つけまいと思い、
「駄目」
 拒絶の言葉だけが、遥の口から漏れる。
 そこで遥の意識は途絶えた。

 そして彼女は去っていった。
 ようやく得られたであろう平穏を、わずかな時間で奪われて。
「……なんで?」
 荒れた台所、直視し難い怪物の残骸を前にして美緒が叫ぶ。
「なんで、こんな風になっちゃうのよ! 遥さんが何したってのよ!」
 怒り任せに地面を叩き続ける。
 自分のせいだ、という後悔の念も浮かび上がり、余計力が増していった。
 思い出すのは、過去の光景。
 普通じゃないという理由で、兄はよく虐待を受けていた。
 美緒のことを庇って、二人分の痛みを背負っていた。
 そんな彼を見て、美緒はいつも疑問に思っていた。
 ……なんでお兄ちゃんは悪いことしてないのに、ひどいことされるんだろう。
 分からなかった。
 兄はただ平穏に過ごしたいだけだったのに、なぜ苛められなければならないのか。
 そのことを疑問に思いながらも、美緒にはどうすることも出来なかった。
 だから、榊原家へ来たときは本当に嬉しかった。
 兄が、ようやく望んでいたものを得られたから。
 口では色々言いながらも、兄は本当に毎日を楽しそうに過ごしていた。
 榊原や美緒という家族、吉崎という親友、そして兄貴分である彼がいて――――。
 望んでも得られなかった日常を知っているから、美緒にはその価値が分かる。
 梢も同じだ。だから、同じような境遇にあった遥を助けた。
 遥も本当に嬉しそうだった。
 毎日を新鮮に過ごしているようだった。
 それを蹂躙された。
「……なんで、こんなことになるのよぉ!」
 何がいけないのだろう。
 遥が特別な力を持っているからか。
 それなら、梢が普通に過ごすことも許されないのだろうか。
 だとすればそれは、梢や遥と共に過ごした時間を否定されたことになる。
 悔しかった。
 どこの誰とも知らぬ相手に、何故そんなことをされなければならないのか。
 そして、何も出来ない自分にも死ぬほど腹が立った。
「馬鹿……! 馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿ぁぁぁぁ!」
 地面を殴る手の感覚が、そろそろ薄れてきた。
 皮が裂け、血が滲み出ている。
 それでも美緒はやめなかった。
「どうすりゃいいのよ! ちくしょう! ちくしょう……!」
 なおも拳を振り下ろそうとして――――誰かに掴まれた。
 驚いて顔を上げる。
 しかし、いつの間にか溢れていた涙のせいで、顔がよく分からない。
「……悪い」
 短い言葉。
 だがそれは、どこか懐かしい響きだった。
「あ……」
 一連の動作を止められたせいか、美緒の全身から力が抜けていく。
 やがて彼女は、地に突っ伏して泣き始めた。