異法人の夜-Foreigners night-

-Border Breaks-
第二十九話「彼女の境遇」
 その日も雨だった。
 六月に入り、本格的に梅雨が始まる。
 じめじめとした空気が現状に重なって、陰鬱な気分にさせられた。
「倉凪、大丈夫か?」
 休み時間。
 教室の窓際から外を眺めている梢に、藤田が声をかけてきた。
 そこで梢はようやく、ここが学校だということを思い出した。
 少し呆けていたらしい。
「大丈夫だ。心配いらねぇ」
 梢はそこから気楽な話へと繋げようとした。
 だが明るい話題がどうしても思い浮かばず、開きかけた口を閉ざす結果に終わってしまう。
 かえって逆効果だったらしい。藤田は余計心配そうな顔をした。
 側にいる斎藤を始めとして、教室にいるクラスメートたちも梢に心配そうな視線を向けてくる。
 よほど落ち込んでいるように見えたらしい。
 梢はもう一度意識を切り替えるようにして、微かに笑ってみせた。
「……で、どうした? まさか早弁でもしたから弁当よこせってか?」
「そんなんじゃねぇって。ったく」
 梢が軽口を叩くと、藤田は嘆息した。
「ほら、これ」
 彼は右手に持っていた袋を梢に渡した。
 かなり重い。何が入っているのかと覗いてみると、中身は大量の漫画だった。
「……? 貸してくれるなら借りとくけど、俺頼んだっけ?」
「馬鹿、お前にじゃない。この間図書館行ったとき、遥ちゃんに貸す約束したんだよ」
「――ああ」
 そういえば、そんなことを話していたような気がする。
 図書館に行ったとき、藤田が漫画の話を持ち出したのだ。
『ここは難しそうなもんばっかだからなぁ。遥ちゃんは漫画とかって読む?』
『美緒ちゃんに借りて、少しなら。藤田君も持ってるの?』
『ああ、人並には持ってるよ。俺の場合スポーツ漫画中心だけどね』
『へぇ……スポーツ漫画は読んだことないな。美緒ちゃんはバトルものが好きらしいから』
『読んだことないなら貸したげようか? どうせたくさんあるし』
『いいの? それなら、えっと……』
『今度倉凪に渡せばいいかな。おい倉凪、それでいいか?』
『ああ、いいぜ』
 そのとき梢は、軽く請け負った。
 藤田の漫画が遥の元に届くと、信じていた。
「どうせなら完結してるやつがいいと思ってな。貸し出し中のもあったからちょいと時間かかったけど、ようやく全巻揃ったんだぜ」
 貸すべき相手がもういないことなど、藤田は知らない。
 これを受け取るべき相手は、何処かへと連れ去られてしまった。
 梢は受け取るべきかどうか迷った。
 持ち帰ったところで、これを読むべき者はいないのだ。
 ならば、受け取ったところで仕方ない。
 断わろうと思い、梢は口を開きかけた。
 が、それを制するように、藤田が梢の隣に座った。
「本当、苦労したんだぜ。でもこれ、読んで欲しかったからな。ちゃんと渡しておいてくれ」
「あー……藤田?」
「俺が野球を始めるきっかけになったもんだ。お前も読んでたろ、小学生の頃」
「……いや、悪い。これは見覚えないな」
「だったらお前も読んでみてくれ。本当、良い話だからよ」
 そう言って、藤田は窓の外を向いた。
「漫画で始めたもんなのに、こんなに長続きする。割と馬鹿に出来ないよな、漫画って」
「そうかね。俺にはよく分からん」
「夢があるんだよ。こういうのにはさ」
 真面目な口調ではない。いつもと同じ、気楽な会話。
 しかし、この話は聞き逃してはいけないような気がした。
「漫画かって現実ではありえないことばっか起きるだろ。ご都合主義だの物理法則無視だの。ありえねーだなんだと文句があるのは分かる。でもよ、だからこそ夢っつーのがあるとは思わんか?」
「まぁ、そういう考え方もあるよな」
 現実ではありえないこと。
 それは夢ともいい、幻想ともいう。
「でもよ、夢ってのは現実では起こりえないかもしれないけど……現実を変えることは出来る。荒唐無稽な野球漫画が俺という現実を変えたんだからな」
「……」
「だから、遥ちゃんにも見てもらいたくてな。……良い漫画だぜ、夢も希望も、ついでにギャグもてんこもりだ」
「藤田、お前」
 梢はようやく気づいた。
 藤田は藤田なりに、遥のことを心配してくれたのだと。
 だが彼には、遥の境遇など教えていないはずだ。
 そのことに梢が首を傾げていると、藤田は苦笑した。
「――――遥ちゃん、なんか訳ありなんだろ?」
 え、と思わず声が漏れた。
 藤田は小声で言ったため、周囲のクラスメートには聞こえていないらしい。
「いくら馬鹿でかい榊原家っていったって、居候を簡単に抱え込むもんじゃない。話を聞いてると、遥ちゃん、一人で居候してるみたいだったしな。……なんかあるんだろ? お前のその怪我が関係あるかどうかは知らないけどさ」
 と、藤田は梢の左肩を指した。
 先日、刃と戦ったときに出来た負傷である。
 完治するまで一週間はかかるとされているため、当然まだ無理は出来ない。
 梢は戸惑いの視線を藤田に向けた。
 彼には、異法のことを隠している。
 それは彼が信用出来ないからではない。
 無論、知られることで拒絶される可能性はあり、そのことが恐くもある。
 だが一番恐いのは、彼を巻き込むことだった。
 藤田は今どき珍しいくらい、友人を大切にするタイプの人間だった。
 そんな彼が梢たちの現状を知れば、無理をしてでも友人たちを助けようとするかもしれない。
 吉崎が良い例である。
 梢としては、これ以上友人を危険な目に合わせたくはなかった。
 そんな梢の胸中を察したのか、藤田は笑って手を振った。
「言いたくないなら言わなくてもいい。ダチ相手でも隠し事の一つや二つはあるもんだ」
「……悪いな。俺、臆病だからよ」
「気にするなって。ま、それはともかく……ちゃんと渡しておいてくれよ。期限は特に決めないから」
「ああ、サンキュ」
 断わることは出来なかった。
 これは、遥と藤田の間に出来た縁である。
 何もなかった彼女にとっては、掛け替えのないものだ。
 梢が勝手に打ち消していいものではない。
「……倉凪」
 斎藤が二人に近づいてきた。
 手に、藤田のものと似た袋を持っている。
「これも届けておいてくれ。彼女に合うかどうかは分からないが」
 あまり感情を表さないまま、斎藤は梢に袋を渡した。
 中身はいくつかの音楽CDだった。
「音楽にもまた夢がある。彼女の境遇は分からないし、下手をすれば余計なお節介かもしれない。だが、これが少しでも役立てば幸いだ」
「……余計なお節介じゃねぇさ。最高だ」
 二人と遥を会わせて良かったと、このとき梢は心底思った。
 些細で弱々しい縁だが、それは確かに遥が生み出したものだ。
 ようやく始まった、彼女の物語、その幕開けの一つ。
 渡された二つの袋を、梢は大事そうに抱え込んだ。
 今すぐには届けられない。
 だが、なるべく早めに届けようと思う。
 沈んでいた気分が、少しだけ晴れた気がした。
「藤田、斎藤」
「ん?」
「なんだね?」
「――――ちゃんと届ける。あいつのことだから、いつかお返しがあるかもしれない」
 梢がそう言うと、二人は揃って微笑を浮かべた。
「楽しみにしてるぜ」
「期待するとしよう」
 少し離れたところで様子をうかがっていた吉崎も、ほっと一息ついていた。
 ……本当、良い友人に恵まれたぜ俺は。
 そのとき脳裏に浮かんだのは、零次や刃といった異法隊の面々。……そして、霧島直人だった。
 独立という孤独に向かう彼らは、どうなのだろう。
 そんなことを、考えた。

 榊原幻は一人、暗闇の中で眠っていた。
 ふと目が覚め、現状を再確認する。
 ……確か昨夜、光る石ころ追ってきてここに着いたんだっけか。
 入り口のドアを開けて、外に出た。
 時計を見ると、既に正午過ぎの時刻だ。
 署への連絡も何も行っていないことを思い出し、携帯の画面を見ると『圏外』である。
「まぁいいか。どうせ不良刑事だ」
 本当にどうでもよさそうに呟き、ここがどの辺りかを想像する。
 歩いてきた方向を考えるに、ここは秋風市北部にある山の一つらしい。
 道らしい道もなく、数時間歩いてようやく辿り着いた。
 普通の人間はまず訪れることのない秘境だろう。
 振り返り、自分が眠っていた建物を見た。
 ただの山小屋である。
 が、自然に囲まれたこの地において、この小屋はひどく異質に映る。
 ここ数年間は誰も訪れていないのだろう。
 小屋の中、そして出入り口の扉付近も埃だらけだった。
 もう一度中に入り、目を凝らして観察する。
 中にはテーブルと椅子が一つずつ。
 テーブルの上にはランプがあるが、まともに使えそうにはなかった。
 他には何もない。
 秘密の通路を隠していそうな本棚やタンスなども見当たらない。
 ……だがそれはおかしい。何もないのはありえない。
 あの研究機関と、光の石によって繋がっているのである。
 何もないはずがないのだ。
 ……あるいは、ここは既に役割を終えた場所なのか?
 念入りに調べてみるが、何も出てこない。
 ここに何か、遥や研究機関に関する資料があれば――そう思っていた。
 何時間もかけてやって来たのだ。無駄足にはしたくない。
 ……まさか。
 数十分考えて、榊原はある可能性に気づいた。
 木を隠すなら森の中、という言葉がある。
 何かを隠したいなら、それと同じものの中へ混ぜてしまえばいいのだ。
 それに加えて、その中に異質なものを置いておくとどうなるか。
 意識はそちらへと向けられ、森に紛れ込んだ木を探すどころではなくなる。
「もしそういうことなら、この小屋はフェイクか……?」
 扉を開け、小屋の周囲をぐるりと回る。
 すると、不自然なものが見つかった。
 小屋の裏側の方は木が密集しており、足を踏み入れにくい。
 そして、その裏側からしか見えないような位置に、煙突のようなものがあった。
 室内には煙突を必要とするようなものは、一切なかった。
 正面から見えないようにしている点といい、かなり臭い。
 やや警戒しつつ、榊原は煙突によじ登った。
 そう高いものではないが、木が邪魔して動きづらい。
「っと……これは」
 ようやく煙突の真上に辿り着く。
 屋根の上に腰掛けるような形となった。
 煙突には梯子がかけられている。
 ……この中だな。
 するすると、榊原は素早く降りていく。
 底に辿り着き、中を見渡す。
 無数の燭台に火が灯されており、外よりも明るさは上だった。
 だが相手を威圧するようなレンガ造り、地下という場所特有の空気もあって、外よりもずっと暗い場所だった。
「――ビンゴ」
 そしてそこには――無数の本が並べられていた。

『二〇〇二年 五月十日
 被験体リンクに薬物投与実験を行う。リンクの内側にある力の型を取るためである。
 実験は失敗。リンクが拒絶反応を起こす。今後一ヶ月は実験不可能との見通し。
 リンクの有効性は、もはや疑う余地がない。あれを量産すれば、我々の目的は果たされる。
 そのためにも、再度実験を行う必要性あり。リンクが早々に回復することを願う』
『二〇〇一年 四月四日
 被験体リンクに解×実験を行う。珍しく反抗の態度を見せたため、気絶させて実験を行った。
 リンクの力はどこから来るのか、それを知るための実験だった。
 しかし我々の期待は裏切られた。リンクの身体は普通の人間女性と変わらない。
 各器官を丹念に調べたが、我々の知識外のものは出てこなかった』
『二〇〇〇年 十月十一日
 被験体リンクの能力実験を行う。我々の内面を知られることは好ましくないので、実験用の人間を使う。
 結果は成功。恐ろしいほど的確に相手の内面を見抜いた。
 しかし、その後なぜか実験に使った人間の精神に異常が発生。数時間で廃人のような状態になる。
 なぜリンクの力で相手が廃人になったのか。あれの能力は、相手の内面を読むことにあるはずだ。
 ――――それとも、リンクの力には我らの知らぬ一面があるというのか』
 そこまで読み進めて、榊原は腰を椅子に落とした。
 ひどく不快だった。
 彼が探し当てた本は、あの研究所にいた研究者の記録である。
 それは、彼らが遥にしていた仕打ちの記録でもある。
 想像以上の惨たらしさだった。彼らは心の底から、遥を道具としてしか見ていない。
 いかなる大義名分があったとしても、榊原はそれを許容出来ないだろう。
 そして、彼女は今また同じような環境に連れ戻された。
 現在、遥がどんな仕打ちを受けているのか。
 そのことを考えると、榊原はやりきれない気持ちになった。
 梢や美緒を引き取ったときも、同じような気持ちだった。
 当たり前の幸せを得ることも出来ず、周囲の大人へ不信感と恐れを抱き、何を求めればいいのかも分からない。
 そんな子供を目の当たりにして以来、榊原はやり場のない怒りを抱き続けてきた。
「……もう少し、昔のを見てみるか」
 内容はひどいものだが、そこに遥を救うヒントがあるかもしれない。
 他の研究施設、遥の過去。この二つが特に重要だった。
 ぺらぺらとページをめくりながら、榊原はそれらしきキーワードを探し続ける。
 どれだけの時間が経っただろうか。
 榊原は数十冊目の本に、ようやくそれらしき文章を見つけた。
 それは今より十五年も前、一九八八年のものだった。
『長きに渡り停滞していた我々の研究に、ようやく一筋の光明が見えてきた。
 本日、ようやくこの施設にサンプルがやって来たのだ。
 売人は宵崎家である。連中の言を信ずるなら、これはあの泉家に連なる者らしい』
 泉家。
 榊原はその単語に聞き覚えがあった。
 魔術の名家である。
『飛鳥井、奈良塚、泉、古賀里。これらが日本を代表する魔術の名家であることは、我らも知っている。
 泉家は先年滅び、その残党が各地に散らばったと聞く。故に宵崎の情報は、今日まで信じられなかった。
 研究員たちもあまり気乗りはしていないようだった。
 異法人を凌駕するほどの魔術師も存在はするらしいが、その数は異法人よりも少ないと考えた方が良い。
 よほどの才覚に恵まれるか、相当長い歴史を積み重ねた家の生まれでなければ、魔術などさして力にならない。
 前者を発見することは容易ではないし、才覚に頼っていては我らの望む量産化が出来ない。
 後者の場合も問題がある。深い歴史を誇る魔術の家が、余所者である我々に技術提供などするはずがないのだ。
 以上の理由によって、我らは魔術という力に期待をしていなかったのである。
 だが、我らの疑念は一瞬にして晴れた。
 その娘は、泉家が得意とする精神感応の力を使ったのである。
 泉家は千年以上の歴史を持つ家だ。その技術の結晶が、我らの前に現れたのである。
 自らの喜びを確かめるために、我らは何度も娘に対し実験を行った。
 その全てが宵崎の言を事実とするものであり、我らの研究に新たな可能性を切り開くものだった』
 よほど興奮しながら書いたのか、その辺りは文章がやや汚い。
 更にページをめくると、遥についての情報が簡単に書かれていた。
『生まれは泉の分家である 式泉(しきずみ) 。父親は式泉 運命(さだめ) 。母親は不明。
 姉妹が二人いるらしいが、そちらは泉家崩壊後、市井に身を潜めてしまったらしい。発見は困難か。
 人間に限らず、対象の内面を読み取る力を持つ。力の発動条件は、対象との接触。
 名は遥。不要。今後、能力名をコードネームとして表記する。能力名は後日考案の予定』
 そこまで読み終えて、榊原は本を机の上に放り出した。
 遥の素性が分かったことは、大きな収穫である。
「やけに魔力の扱いが上手いと思ったら……そうか、泉の者だったのか」
 となると、彼女の力は異法ではなく魔術ということになる。
 梢たちのような身体能力がなく、異法人同士に発生する共鳴がなかったことも、これで説明がついた。
 だが現在の状況においては、あまり意味がない。
 彼女の帰るべき場所も十年以上前に滅びており、市井に隠れたという姉妹も見つけ出すのは至難の業だ。
 榊原は時計と室内を交互に見た。
 スポンサーという盟主以外に接点はないのか、他の施設の情報は全く見当たらない。
 ではスポンサーの情報はあるのかというと、それもまたない。
 その辺りにまだ裏がありそうだが、時間は既に深夜になっていた。
 飲まず食わずは問題ないが、梢たちの状況も気になる。
 このまま留まるか否かを考えて、結局榊原は一旦帰ることにした。

 身体が熱く、意識が曖昧になっていく。
 度重なる精神実験の後、窓すらない部屋に放り込まれ、遥は一人地に伏し喘いでいた。
 両足はまだ不自由で、歩くことは出来そうにない。
 おまけに猿ぐつわをさせられ、両手は縄できつく縛られていた。
 彼女に自由はほとんど与えられていなかった。
 実験の内容も、以前の研究所よりずっと乱暴なものになっていた。
 彼らの会話を聞く限り、何か期限のようなものがあるらしい。
 それに間に合わせようと必死になっているようだった。
 ……私は、なんなんだろう。
 人間扱いされるだけの価値がない道具なのか。
 それとも、普通の幸せを求められる人間なのか。
 梢たちは遥を人間として扱ってくれた。
 あの日々は遥としても本当に楽しいものだった。
 それだけに、なんだか梢たちのことが夢のように思えてしまう。
 過酷な現実から逃げるために見た、束の間の夢。
 そんな風に思えてしまうのだ。
 意識が薄れていく過程で、遥は様々なことを忘れ始めていた。
 公園で梢にかけてもらった言葉、何気ない贈り物、雨の日に図書館へ行ったこと。
 それらのことが、少しずつ記憶の底へと沈んでいく。
 梢の友人とは誰だったか。
 梢に何を買ってもらったのか。
 梢と一緒にどこへ行ったのか。
 梢が教えてくれたことはなんだったか――――。
 大切なはずだった思い出が遠ざかる。
 起きてから時間が経つにつれ、夢の内容を忘れてしまうのと似ている。
 ……嫌だ。忘れたくない……!
 あれが本当に夢だったとしても、遥はそれを忘れることを拒んだ。
 倉凪梢、美緒、吉崎和弥、榊原幻。
 彼らのことだけは、絶対に忘れてはならないと思った。
 彼女に自由はない。
 唯一あるとすれば、それは心の抗いのみだった。

 牧島はモニターで遥の様子を見ていた。
「なかなか粘るね。……早く人間らしい感情なんか捨てて欲しいものだけど」
「あれとて泉の者だ。精神攻撃には耐性があるのやもしれん」
 牧島の隣にはザッハークがいた。
 呻く遥の姿を面白そうに眺めている。
 遥が様々なことを忘れつつあるのは、ザッハークの手によるものだった。
 実験の中で、柿澤が涼子にかけたのと同質の魔術を遥にかけ続けているのである。
 ただしその条件は苛烈なものだった。
 涼子の場合、零次と出会った頃の記憶を全て封じられた。
 だが遥の場合――――"人としての全て"を封じられつつある。
 牧島やザッハークは、遥の知識や記憶などは一切求めていない。
 遥そのものが一個の機関として既に完成されている。機関が動きさえすればよく、余計な付属物は無用である。
 故に、ザッハークは彼女の記憶を全て奪うことにした。
「あとどれくらいで出来そうですか?」
「さてな。精神系魔術は得意分野ではない。少々時間がかかるやもしれん」
「なるべく急いでいただけると助かります。私は私で"フリーク"の完成を急ぎます」
 二人の男が視線を交し合い、含みのある笑みを浮かべた。
 画面の向こう側には、一人抗い続ける遥の姿があった。