異法人の夜-Foreigners night-

-Border Breaks-
第三十二話「開かれた扉」
 かつて、実の兄のように慕った男。
 七年前の冬、突然姿を消した男。
 その名は霧島直人という。
『まずは赤根を助けてくれたことの礼を言っとく。今のそいつは俺の協力者だからな』
 再会の言葉は、淡々としていた。
 昔と比べると声にキレがない。
「……あんた、何してんだ?」
 何を聞けばいいのか分からず、梢は戸惑いながら言った。
『何、お前と似たようなことさ。冬塚の嬢ちゃんから何か聞いてないのか?』
 言われて、梢は涼子との会話を思い出した。
 霧島は誰かと約束したのだ。遥と涼子の二人を守る、と。
「ってことは、あんたも遥を捜してるのか?」
『そうだ。そのために赤根に協力してもらってる』
「だったら……なんで一緒に捜さないんだ? なんで単独行動をとってるんだよ」
 目的が一緒だというなら、わざわざ別行動をとる必要はない。
「俺らに気兼ねしてんのか? そんなん、俺たち誰も気にしてないぞ」
『……七年前のことか。気兼ねなんかしちゃいねぇよ。俺がそんなこと気にかける性格じゃないってお前なら分かってるだろ』
 そうだった。
 霧島直人は、自分の信じたことならば、人のことなど気にもかけずに突き進む。
 そんな彼だからこそ、梢や美緒、吉崎は憧れていた。
 そこに、余人には理解しがたい『強さ』を感じたからだ。
「……ああ、そうだったな。あんた、昔から自分勝手の唯我独尊野郎だった」
 しかし、そうなると疑問が残る。
「だったら、なんで一緒に……」
『信用出来ないんでね』
 きっぱりと言い切られた。
 少しも言いよどむことなく、霧島は断言する。
『お前ら個々の人格を疑ってる訳じゃねぇよ。お前も嬢ちゃんも刃も亨も赤根だって、普通に付き合ってくなら充分以上に信じられる相手だ。
 だがな、この状況じゃ話は別だ。遥を救出し、平穏無事な生活を与えてやるのが俺の目的――約束だ。
 刃たちは所属している組織――異法隊が信用ならない。遥に平穏を与えるとは思えない。お前だって、そう思ってたから連中に遥を渡すまいと奮戦してたんだろ。
 そして、お前は実力的に信用できない。いや――――信頼できないって言った方がいいか』
 梢の思考を上回る速さで、一気に言われた。
 霧島の言葉を整理しようと思いつつ、梢は最後に言われたことに反論する。
「俺が足手まといだってことか」
『ああ、そうだ。お前だけじゃない、刃も亨も力不足だ』
「……は?」
 梢は思わず、素っ頓狂な声を上げた。
 霧島の言ったことがどうにも理解できなかったからだ。
 自分だけならともかく、なぜ刃や亨も駄目なのか。
 亨はよく分からないが、刃の強さは半端なものではない。
 直接戦ったからよく分かる。
 刃は強い。
 彼が戦力外通告されるような相手など、梢には想像もつかない。
『そんな認識だから駄目だってんだよ』
 霧島は、少しだけ苛立った声を上げる。
『別にお前とか刃が弱いって言ってるわけじゃない。むしろ充分以上に強いだろうさ。だが、遥を連れ攫った連中の中には、それよりも強い奴がいる』
「何を馬鹿言ってんだ。あんな連中、大したことない」
 慢心したわけではない。
 しかし、実際強化人間程度では梢たちの相手にはならなかった。
『連中なら、な』
 苦々しげな声。
 電話の向こうで、霧島が顔を歪めているような気がした。
『だが連中には用心棒とも言える奴がいる。それが蛇王――――ザッハークと呼ばれる男だ』
 ザッハーク。
 その名前は先ほど聞いた。
 赤根を追跡していた魔力生物を創り出したのが、その男らしい。
 涼子の姉の家族を殺した男でもあり、霧島が己の敵とする相手でもある。
 しかし、それ以外のことは知らない。
「なんだよ、そいつはそんなに強いのか」
『お前が戦えば絶対に殺される』
 だから絶対に戦うな、と霧島は言う。
「……それじゃ、遥を助けに行くなってことじゃねぇか」
『ああ。……行くな』
 霧島は語気を強めた。
 それが本題なのだと、梢にはすぐに分かった。
 霧島の昔からの癖なのだ。
 普段は軽々しい口調で話すくせに、本当に伝えたいことを話すときは声の中に必死さが見え隠れする。
 ……ち、こういうところは変わってないのか。
 なぜか、それが梢には苦々しかった。
「それで俺がはいそうですかって言うと思ったのか? 俺がそんな性格じゃないってことは」
『――――分かってる。だからお前も納得がいくようにしてやるさ』
 霧島は梢が言おうとしていることを察したようだった。
 七年間離れていたとはいえ、あちらも梢たちのことを忘れていたわけではないらしい。
『赤根がなんで追われてたか分かるか?』
「なんだよそれ、そんなこと今はどうでもいいじゃねぇか」
『どうでもよくねぇよ。赤根は遥の居場所を突き止めたんだからな』
「――――は?」
 突然の言葉に、梢は側に立つ赤根を見た。
 赤根は訝しげな表情で梢を睨み返す。
「あんだよ」
「……お前、遥の居場所知ってるのか」
 受話器を持ちつつ、空いた手で赤根の肩を掴む。
 両目は大きく見開き、口はわなわなと動いていた。
「知ってるのか」
「……」
「……知ってるのかって聞いてんだよ」
 沈黙する赤根に苛立ちながら、梢は意識を受話器に戻した。
『無駄だ。俺以外には口割るなって言ってある。赤根は筋通す奴だからな。俺が許可しなきゃ言わないだろ』
「許可しろ、今すぐだ!」
 遥の居場所を知る者が目の前にいる。
 そいつの口を割らせれば、このまま彼女を救いに向かうことも出来るのだ。
 梢の心は大きく揺れ動いた。
 一秒たりとも待つことなど出来そうにない。
 しかし、霧島は癪に障るほど静かな声で告げる。
『駄目だ。言ったろ、お前じゃ行ってもザッハークに殺されるだけだって』
「ふざけんな! あんた、遥を助けたくないのかよ!?」
『助けるさ。だがお前みたいな半端者が来ると邪魔なんだよ。足手まといなうえに殺されて終わりだ。お前が死んだら、遥だって悲しむだろうが』
「俺のことはどうだっていいんだよ、今だって遥がどんな目にあってるか……!」
『お前が助けられなかったら無意味だって言ってるんだよ』
「助けてやるさ、命に代えても!」
『だったらそれを証明してもらおうじゃねぇか』
 挑むような口調。
 霧島が何かを仕掛けてくるつもりだと、梢は察した。
「証明って、どうすんだよ」
『俺はこの七年間、ザッハークと何度も戦った。結論から言うと、奴は俺と互角以上だ』
「……つまり、あんたを倒せばザッハークって野郎もぶっ飛ばせるって訳だな」
『少なくとも合格レベルではあるってことだ』
 つまり、霧島は戦えと言っているのだ。
 遥を助けるためには、ザッハークという男をどうにかしなければならない。
 そいつを相手にするだけの実力があるかどうかを、俺を倒すことで証明しろ……霧島が言っているのはそういうことだ。
『俺としても早く遥を助ける必要がある。だからこれからすぐ、赤根と二人だけで裏山道場に来い』
 裏山道場。
 それは梢にとって、馴染み深い場所だった。
『俺に勝てたら、お前だけは一緒に連れて行ってやる。刃と亨は連れてくるな』
「なんでだよ」
 同盟を結んだ以上、二人に隠れて行動するのは気が引けた。
 特に刃は、個人としては遥が梢たちの元にいることに賛成してくれている。
『だが刃は義理堅い奴だ。恩義ある異法隊の命令なら、内心どう思うかはともかく、お前の敵になる可能性もある』
 確かに、今回の同盟は元々そういうものだった。
 遥を研究機関から取り戻す、という一点においてのみの同盟。
 遥を助けた後は、再び敵同士になる可能性もある。
「けど、そうはならないかもしれない」
『異法隊隊長・柿澤源次郎を前に、そうやって楽観するのは危険だ』
「だがよ……」
『それが嫌なら黙って赤根を手放せ。赤根を吐かせてお前らが行くつもりなら――――俺も強硬手段に出るがな』
 刹那、梢の背筋がぶるりと震えた。
 一気に血の気が引いて、思わず携帯を落としてしまう。
 涼子が何事かという目で梢を見たが、そんなことを気にしている余裕はなかった。
 すぐさま後ろを振り返る。
 無論、そこには誰もいない。
 しかし、先ほど感じたのは敵意だった。
 まるで背後にナイフを突きつけられたかのような錯覚を抱いたのである。
 ……見てる。
 今更、そんなことに気づいた。
 赤根を助けた礼を言っていたのだから当然だ。
 霧島は今、梢たちのことをどこかで見ているのだ。
 そして敵意を送りつけてきた。
 限りなく殺気に近い敵意を、だ。
 震える手で携帯を掴み、耳元に押し当てる。
『悪い。少し脅しすぎたな』
 欠片も悪いと思っていなさそうな声だった。
『だけど、これでちったぁ頭冷えたろ。これでビビるぐらいなら、ザッハークの相手なんか務まらないぜ』
「……いいさ。分かった、一人で行ってやる」
『すぐに来い。赤根以外は連れてくるな。遥のためだ』
「――――ああ。絶対ぶっ飛ばしてやる」
 電話が切れた。
 梢は携帯を赤根に返し、刃たちに向き直る。
「悪い、こいつの身柄、俺が預かってもいいか?」
 赤根の肩を叩きながら言うと、亨が不服そうな表情を浮かべた。
「困りますよ。行方不明になってたとは言え、赤根は異法隊員。隊長のとこに連れてかないと僕怒られるんですけど」
「そこをなんとか頼む」
「霧島に何か言われたんですか? まったく、あの人も連絡寄越さず何やってんだか……」
 呆れ顔で嘆息する亨。
 しかし、その隣で刃は首を振った。
「亨。……霧島は既に異法隊の人間ではない」
 その言葉に驚いたのは、亨と涼子だけだった。
 梢は霧島の発言から、およそ察していた。
 異法隊のことを信用出来ないと公言したぐらいだ。
 既に脱隊していてもなんら不思議ではない。
 赤根もおそらく、霧島本人から事情を聞いていたのだろう。
「俺がここに来たのも、そのことをお前に伝えようとしたからだ」
「な、なんで……」
「辞表が届けられたそうだ」
「……いくら霧島でも無謀だよ」
 異法隊を抜ける、という行為が信じられないのか、亨は呆然としていた。
「……本当に勝手なのは、誰だろうな」
 刃がぼそりと呟く。
 誰もが勝手に動いている。
 それぞれの目的が対立したり、一致したり。
 以前は梢と異法隊は対立していたが、今は一応目的が一致している。
 おそらく、霧島も同じなのだろう。
 利害が一致した、あるいは目的の為になったから異法隊に入った。
 しかし、もうその必要はなくなったのかもしれない。
「――――行け、倉凪梢」
 刃は亨の頭を抑えながら言った。
「赤根に関しては同盟の規約外だ。お前がどうしようと、俺には関係ない」
「に、兄さん! 僕は怒られるんだけど!? あの、任務失敗報告すると隊長凄く恐いんだよ!」
「一緒に怒られてやる。今は見逃せ」
 そう言いながら、刃は亨の頭をさらに押さえつけた。
 亨は不服そうに嘆息しながら、しかし結局は了承した。
「悪い、助かる。……あと刃、あんたには頼みがあるんだ」
「なんだ」
「冬塚を頼む。冬塚の過去、七年前……それが今回の事件と関係してるかもしれない。これからそれを探りに行くつもりだったんだが……」
「分かった。護衛は任せろ」
 刃は力強く頷いた。
 これで貸し二つだな、と梢は内心頭を下げる。
 涼子は何か言いたそうな顔で梢の方を見ていた。
「先輩。霧島さんは……」
「任せとけ。いろいろと聞き出してくる。お前も、なんか有力な情報手に入れて来いよ?」
 梢は涼子を安心させるために不敵な笑みを浮かべた。
 それを見て、涼子の表情から不安が消えていく。
「……分かりました、了解です」
 梢と涼子は拳と拳を打ち合わせる。
 話したいことはたくさんある。
 確認したいこともたくさんある。
 しかし、今は語るべきときではない。
 互いが目指すものが微妙に絡み合う予感を胸にして、二人はそれぞれの目指す場所へ向かった。

 涼子は矢崎兄弟に簡単な経緯を話した。
 七年前のこと、それを霧島と二人で調べていたこと。
 今まで話していなかったことが後ろめたくもあったが、一緒に過去へ向かう以上話しておいた方がいいと思ったのだ。
 刃は黙って頷いていたが、亨は不思議そうな顔をした。
「あの。それって、なんで僕らに今まで黙ってたんですか?」
「え、えっと……」
 涼子は言葉に詰まる。
 隠し事というのは、隠していたことがばれるより、その理由を問い詰められる方がきつい。
「零次さんがなんか反対しそうだったから……あんまり大っぴらに言う訳にもいかなかったし」
「ははぁ。確かに零次、七年前とか冬塚さんのことになると態度変えますもんね」
 亨は年齢が近く、学校が同じということで零次と接する機会が多い。
 異法隊の中で、一番久坂零次に近い人物とも言える。
 涼子は少し気になった。
「態度変えるって、どんな風に?」
「いやぁ、凄く不機嫌になるんですよ。その話題は振るな! って感じです」
「……そう、なんだ」
 落ち込んだ声の涼子。
 亨は若干慌てたように付け足した。
「あの、でもそれって冬塚さんのこと嫌ってる訳じゃないと思うんですよ。むしろ大事にしてると思うんです」
「なんで?」
「え、えーと……」
 今度は亨が言葉に詰まった。
 刃が助け舟を出すように口を開く。
「零次にとって、君は傷つけてしまった宝物なのだろう」
「た、宝ですか?」
 真顔で言われて、涼子は顔を真っ赤にした。
 しかし、その表情はすぐに沈んでしまう。
「私、姉さんのことは色々と思い出したんです。でも零次さんのことは、まだ思い出せなくて……」
 何か知らないですか?
 そんな意味を込めた視線を二人に送る。
 しかし、矢崎兄弟は揃って頭を振った。
「零次は過去を滅多に語らない人ですからねぇ。僕らも知りません」
「すまんな」
「いえ。当事者のくせに忘れてる私が一番悪いんです」
 異法隊の二人なら、零次のことを何か知っているかもしれない。
 そう期待したが、収穫はあまりなかった。
 涼子は意識を家族のことへ切りかえる。
「今から行くのはどこなんですか?」
「私の父さんと母さんの研究室。一度だけ連れて行ってもらえたの、七年前の事件が起きる少し前に」
「そこに、冬塚さんが狙われる理由が……あるいはそれに関わる何かがあるんですね」
「ええ。それはもしかしたら、遥さんや霧島さんも関係してることかもしれない」
 かみ合わないパズルを埋めるためのピース。
 それを手に入れるために、涼子は秋風市の図書館へ向かう。
「でも図書館って研究室になりそうなところありましたっけ? 僕や兄さんもよく行きますけど、そんなもの見かけたことありませんよ」
「うん。隠し部屋になってるみたいだったから……普通に利用する人にはまず分からないと思う」
 言っている間に図書館が見えてきた。
 刃がぽつりと呟く。
「あの二人を最初に見たのも、ここだったな」
「梢さんと遥さん? 友達に囲まれて楽しそうにやってたんだっけ」
 いいなぁ、と亨は羨むような声を上げる。
「僕なんて友達いませんしねぇ。異法隊の方針として、あんまり一般人と関わるなってのがあるせいなんですけど……堅苦しいもんです」
 どこか寂しそうに呟く亨。
 涼子はその表情を、どこかで見たような気がした。
 ……あれは、どこだっけ。
 雪景色。
 白銀に包まれた公園の中、一人で立つ男の子。
 あれは確か――――。
「まぁ一人、厄介なのに絡まれてますけどね。あれ、冬塚さんの友達でしたっけ」
 亨の声によって、涼子の感覚は現在へと引き戻された。
「え、誰?」
「倉凪美緒っていうんですよ。なんか梢さんと苗字が同じなんで嫌な予感がするんですが……」
「ああ、美緒ちゃん。私の友達で、先輩の妹だよ」
「そ、そうですか……なるべく顔を合わせないようにしないとな」
 そう言う亨の表情からは、先ほどのような寂しさは消えていた。
 その代わり若干怯えのようなものが見え隠れしているのが少しだけ可笑しかったが。
「お喋りはそこまでだ」
 刃が図書館への入り口に立ち、二人を振り返る。
「倉凪は今を切り開こうとしている。ならば、我らは過去を暴かねばならない」
「……はい。行きましょう!」
 涼子は気持ちを引き締めて、図書館へと足を踏み入れる。
 この先にあるであろう答えに、期待と不安を抱きながら。

 図書館の中はいつもと変わらない。
 そこそこ人の姿も見えるし、特に異常があるようには見えない。
「どこにあるんですか、その研究室は」
「私もちょっと記憶に自信ないんだけど、確かこっちの方に」
 先ほど思い出したばかりの記憶を頼りに、涼子は図書館の奥へ向かう。
 この図書館は二階建てになっている。
 一階は比較的読まれやすい本があり、二階は専門的な本が置かれている。
 二階へ向かうには階段を使うしかない。
 さほど利用客がいないのか、階段は図書館の奥の方に置かれている。
 涼子たちはその階段の元へとやって来た。
 しかし涼子の目的地は二階ではない。
「あれ、冬塚さん。そっちは二階じゃなくて……」
 亨が制止の声を上げる。
 涼子が向かおうとしていたのは『関係者以外立ち入り禁止』と書かれた、地下への階段だったからだ。
 しかし涼子は迷うことなく『立ち入り禁止』の看板を越え、地下へと向かっていく。
 刃は黙って、亨はぶつぶつと文句を言いながら彼女の後を追う。
「はぁ……後で図書館の人に見つかっても知りませんよぉ」
「嫌なら帰るか?」
「冗談。一人で帰ったら隊長に殺されますよぅ」
 情けない声を上げる亨。
 どうも柿澤隊長という人は任務の失敗には厳しいらしい。
 階段を降り始めてすぐ、鉄の扉が三人の行く手を阻んだ。
「あれ? 鍵穴とかないんじゃないですか、この扉」
「ええ、そうみたいね」
 取っ手も見当たらず、押しても引いても動かない。
 涼子は頭に人差し指を当てて記憶を掘り起こそうとする。
 ……あのとき、どうやって父さんたちは入ったんだっけ。
 記憶は曖昧なものだ。
 ついさっきまで忘れていた、それも七年前のものである。
 思い出そうとしても、どこか靄がかかっている。
「壊すか?」
 刃が拳をかざした。
 しかし涼子は頭を振る。
 下手をすれば扉の向こう側に被害が出るかもしれない。
 それに、破壊したときの音が図書館にいる人々に聞こえてしまう可能性もある。
 軽く叩いてみる。
 なかなか分厚い扉のようだった。
 無駄と分かっていながらも、数十秒間扉を押し続ける。
 しかし、悲しいほどに変化はない。
「あ、あの……足音近づいてきてませんか?」
 亨が怯えるような声を出す。
 不法侵入をしているのだから、見つかるとまずい。
 どうすればいいか、涼子は少し悩んだ。
「何をしているのかな?」
 階段の上の方から、若い男の声が聞こえてきた。
 亨が「あちゃあ」と言いたそうな表情を浮かべる。
 刃は拳を握り締めた。場合によっては黙らせるつもりなのだろう。
 だが、声には聞き覚えがあった。
 暗がりの中へ、光を背にして一人の男が現れる。
 その姿を見て、涼子と刃は息を呑んだ。
 見覚えがある男だったからだ。
「何をしているのかな? こんなところで止まっている場合ではないよ」
 眼鏡をかけた、人当たりの良さそうな青年。
「幸町、先生……?」
 ついこの間、榊原屋敷で見かけた医者。
 正式な医師免許を持っているわけではないが、腕は立つという。
 しかし、涼子はそれ以外彼のことを何も知らなかった。
 なぜ彼がこんなところに来ているのかも、まるで見当がつかない。
「なぜお前がここにいる?」
 警戒心を露わにし、幸町に問いかけたのは刃だった。
 幸町は変わらぬ微笑を浮かべながら、両手を上げる。
「敵意を抱かれると近寄りにくいな。僕はその扉を開けに来たのに」
 そう言いながらも、幸町は刃の横を通り抜け、涼子と並ぶように扉の前に立った。
「直人の話を聞いてね。そのうち君がここに来るんじゃないかと思っていたけど……予想以上に早かったね」
 幸町は手にいくつかの紙を持っていた。
 一つを扉の中央部、左右の分かれ目に貼りつける。
 さらに、手際よく残り四つの紙をつけていく。
 丁度五紡星の形に貼りつけられた紙と紙を結ぶように、今度はぬらぬらとした液体で線を引く。
 すると、紙と線が淡い光を放ちだした。
「この技術……魔術ですか?」
 亨が驚嘆したような声を上げる。
 刃や亨のような異法という才能ではなく、人が創り上げてきた技術。
 それが魔術である。
 涼子も実際に魔術というものを見るのは始めてだった。
 両親が研究していたのは、この魔術に関わることらしい。
 だからと言って、涼子は魔術に触れたことなど一度もない。
「僕は魔術師と言えるほど魔術をかじってるわけじゃない。ただ扱いに慣れてるだけなんだ」
 宙で指を動かしながら、幸町はそんなことを言った。
「この前倉凪君に施した包帯は奈良塚と呼ばれる、魔術の名門から貰ったものだ。他にも、僕の診療所には奈良塚から買ったものとかが沢山あってねぇ」
 けど、と彼は微かに頭を振る。
「僕が魔術に触れるきっかけになったのは、八島優香さんだった」
「……え?」
 思わぬところで、家族の名が出た。
 涼子はうろたえながらも、その言葉の意味が気になってしまう。
 そんな彼女の視線に気づいたのか、幸町はゆっくりと続きを語った。
「僕と直人は昔からの友達でねぇ。腐れ縁って言った方がいいのかな。丁度倉凪君と吉崎君みたいなものだったのかもしれない。
 ある日、直人が僕らに女の子を紹介してね。それが八島優香さん……君のお姉さんだったんだ」
「霧島さんが、姉さんを……」
「二人はとても仲が良くてねぇ。見てるこっちが恥ずかしいぐらいだったよ。でも直人は優香さんに多くの友達を作りたかったみたいでね。僕を含め、他にも何人かで集まって遊ぶことが多かった」
 幸町の手は速度をあげていく。
 やがて両手を使い、宙に模様を描くような動作を始めた。
「八島さんは魔術の家系に連なる身だったらしくてね。何度かトラブルにも巻き込まれた。そのうち、僕も魔術に触れていくことになって」
 そこで幸町の言葉が止まる。
 五紡星の光が次第に力を増していくのが分かった。
「……けど七年前、全てが壊れたんだ」
 その言葉と同時、光の強さが頂点に達する。
 涼子が、刃たちが思わず目を閉じる中、幸町の声だけが聞こえた。
「霧島は過去の悲劇とたった独りで戦っている。僕は、ここを守るという名目を得て過去と戦うことを諦めた」
 重い扉が開く音がする。
 涼子たちが目を開けると、開いた扉の中央に幸町が立っている。
 彼はうやうやしく頭を下げ、
「冬塚研究室へようこそ。管理人代理、幸町孝也――――過去と向き合う君たちを、歓迎しよう」