異法人の夜-Foreigners night-

-Border Breaks-
第三十九話「彼の本心」
 榊原邸は異様な光に包まれていた。
 見る者に嫌悪感を抱かせる薄紫の魔力が、ドーム状になって屋敷を覆っているのである。
 それを創り上げた者が、今榊原邸の庭先に降り立った。
「愚かしきは常人という名の 小人(しょうじん) どもよ。ついこの前攻められたばかりだと言うのに、相も変らぬ様子で留まり続けておるわ」
 蛇面の男。
 大きく開かれた双眸は、獲物を狩る者の気配を漂わせる。
 後ろに流した髪が、炎のようにゆらめく。
 男は一個の伝説だった。
 幾度となく死線を越え、幾度となく戦場を駆け抜けた。
 際限なく人を殺し、無限の恐怖を撒き散らした。
 存在そのものが地獄と言っても差し支えない、生きた最厄の伝説。
 身に纏いし魔力は、並の魔術師百人分以上。
 赤いTシャツに茶のパンツ。
 その上から深緑のコートを着こなす男は、つまらなそうに榊原邸の屋根を見上げた。
「そのうえ、相手はこのような雑兵か」
「雑兵で申し訳ありませんね」
 屋根から、白銀の槍を構えた少年が飛び降りてくる。
 矢崎亨だった。
 彼は榊原邸で寝ずの番をしていたのである。
 真っ先に男の侵入に気づいたのは彼だった。
 亨は緊張した面持ちで男を睨む。
 内心怯えているのが容易に分かる表情だった。
 それでも、この場を譲る気はないらしい。
「異端にして異端、異法の中の違法者――――ザッハーク。まさか、貴方とやり合うはめになるとは思いませんでしたよ」
「貴様が退くなら逃がしてやろう。雑魚に興味はない」
「もし僕が退いたら、ここで何をする気ですか?」
「知れたこと。……殺戮だ」
 ジロリと、ザッハークは捕食者の目を輝かせる。
 ぞっとするような光だった。
 しかし、それを前にして亨は勇気を奮い立たせる。
 歯を食いしばりながらも、槍の穂先をザッハークに向ける。
「だったら、通す訳にはいきません。この先には、僕の数少ない腐れ仲間もいますからね」
「友愛のために命を捨てるか。滑稽だな」
 言いながら、ザッハークは右手を掲げた。
 彼の周囲に漂う尋常ならざる量の魔力が凝縮されていき、形となる。
 魔力を自身の意識した物質へと変える。
 その性質は、梢の"翠玉の篭手"と似ていた。
 が、規模がまるで違う。
 梢が一人の戦士だとするなら、ザッハークの力はそれだけで一個の軍勢と言える。
 凝縮された魔力は、どす黒い槍となった。
 もっとも、亨の槍とは比べ物にならない力を秘めている。
「こ、こりゃあ……マジで覚悟決めないといけませんねぇ」
「――――矢崎!」
 屋敷の方から吉崎の声が飛んできた。
 亨はザッハークを睨みつけたまま、
「吉崎さんは二人を連れて早く逃げてください! ここは僕が食い止めます!」
「……分かった!」
 ドタドタと、吉崎が走り去っていく音がした。
 ザッハークは余裕のつもりか、それを笑って見逃している。
「無駄なことを。逃げ場などどこにもありはしない」
「そんなこと……やってみなくちゃ分かりませんよ」
「やらずとも分かる」
 ザッハークがそう言うやいなや、亨の肩口から鮮血がほとばしった。
 激痛に顔を歪めた亨は、数瞬遅れて自分が槍で刺されたのだと気づく。
 亨とて、異法隊に身を置く以上相応の訓練を積んでいる。
 ライフルやマシンガンの銃弾を見切ることぐらいは充分可能な実力者である。
 それでも、まともに反応することさえ出来なかった。
 片手で軽々と巨大な槍を振るいながら、ザッハークは心底つまらなそうに言う。
「それとも貴様は――――不可能を打ち破るほど、自身が異常存在であると抜かすか?」
 直後、亨の心臓目掛けて槍が放たれた。

 吉崎は涼子たちを引き連れて裏口へと向かった。
 正面から出るよりは、そちらの方が安全だと思ったのである。
 裏庭に植えられている木々の陰に身を潜ませながら、誰もいないことを確認する。
 梢や霧島ほどではないが、吉崎も気配感知力を持っている。
 天我不敗流の訓練、その成果である。
「よし、誰もいない。一気に抜けよう」
「でも吉崎先輩、あの薄紫のは……」
 涼子は榊原家を覆い包む、不気味な魔力を指し示した。
 見ているだけで背筋が凍えてくる。
 魔術師ではない涼子にも、あれは何か危険なものに見える。
 吉崎は少しだけ言葉に詰まった。
 が、頭を振りながらバイクにまたがる。
「んなこと気にしてもどうしようもない。これは賭けだよ冬塚ちゃん。ここに残ってれば俺たちは殺される。あの魔力の壁をどうすればいいのかも、よく分からない。だったら……」
 涼子と美緒の手を引っ張り、無理矢理バイクに乗せる。
 既に走行準備は整っている。
 免許を取る前から自分で改造し続けてきた自慢の愛機である。
 三人乗りだろうと、そこらのバイクよりはずっと早く走ることが出来る。
 普段はその力を抑えているが、今はその必要もない。
「だったら……突っ込むしかねぇさ。ん、他に選択肢はないだろ?」
「……そうですね。やるしかないです」
「私も、覚悟は出来てるよ!」
 力強く頷く二人を見ながら、吉崎は不敵な面構えを見せた。
 バイクに乗るときが、彼にとっては一番誇らしい気分になる。
 ……このバイクと一つになった俺なら――異法人よりも速く駆け抜けられる!
 その自信が、今の吉崎を普段の彼とは別人のように仕立て上げている。
「倉凪、台詞借りるぜ」
 細かいことを気にする必要はない。
 最初から全速力で駆け抜ける。
 それだけでいい。
「――――突破する!」
 下半身に力を入れながら、バイクは一気に駆け出した。
 裏門に、一秒とかからず到達する。
 何が起きるのかと、三人は一斉に歯を食い縛る。
 刹那、三人の眼前で景色が歪む。
「……っ!?」
 不気味な泥に包まれたような感覚が、吉崎たちに襲いかかった。

「――――、――っ」
 一方的な状況だった。
 矢崎亨は口から溢れる血を拭いもせず、必死にザッハークの槍をさばいている。
 互いに獲物を打ち合わせること数合。
 亨はじりじりと後退していき、呼吸も乱れつつあった。
 先ほど放たれた心臓への一撃も避け切れなかった。
 心臓そのものには達しなかったが、少し胸を打たれている。
 対するザッハークは、構えすら取っていない。
 直立したまま、右腕だけを動かして亨を翻弄している。
 槍の動きは速い。撃ち出された銃弾の如き速度である。
 両者の打ち合いを肉眼で見るのは、相当の手練でなければ難しい。
 しかし、形勢に関しては素人が見ても明らかだった。
 このままいけば、後数秒もしないうちに亨は死ぬ。
 そのことを誰よりも分かっているのは亨だった。
 彼は牽制――と言うには必死すぎる一撃を放ち、素早くザッハークから距離を取った。
 亨の力は、五種類の金属を変幻自在に操るものである。
 その性質上、こうして金属を武器にして戦うことも多い。
 特に剣、槍の扱いに関してはそれなりに自信もある。
 しかし、ザッハークはいかにも面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「それが貴様の覚悟か? 生ぬるいにも程がある」
「……凡人にとっては精一杯の抵抗、なんですけどねぇ」
「凡人。並。――――私がもっとも嫌いな言葉だ」
 ザッハークは忌々しそうに吐き捨てる。
 亨は肩で息をしながら、苦し紛れに問いかけた。
「だいたい、なんで貴方みたいなのが機関なんかと手を結んでるんですか。連中こそ、貴方が嫌う凡人の集まりでしょう」
「ふん。奴らそのものは凡人だが、その狂気はそれなりに心地よかった。もっとも、手を組んでいたつもりなど毛頭ないが」
「やっぱり、遥さんを手に入れるための駒に使ったんですか」
「その通りだ。あの娘を入手することこそ、我が契約者の計画に必須なのだ」
 思ったよりベラベラ喋る、と亨は意外に思った。
 有無を言わさず相手を殺しにかかるようなイメージを抱いていたが、実は雄弁家なのかもしれない。
「契約者……それが、貴方の属する組織の長ですか」
「長?」
 と、ここでザッハークはさもおかしそうに、声を立てて笑った。
「冗談がきついぞ、金属使い。なるほど、奴は長だが私にとっては契約者でしかない」
「……?」
 つまり、ザッハークとその契約者は対等関係にあるということだろうか。
 亨がそんな風に考えていると、ザッハークは両目を大きく開いた。
 ぞっとする。
 視線が心臓を掴み取った、と表現したくなるような恐ろしさだった。
「くだらん問答はここまでだ。契約者はあの女を殺すなと言ったが、奴らしくもない。冬塚涼子を生かすことは百害あって一利なしだ。――――この場で必ず殺す」
「っ……」
 亨は若干緩んでいた覚悟を、再び引き締めた。
 ……切り替えが凄まじいですね。雄弁家と思えば、今度は殺戮者のそれだ。
 吉崎らが既に逃げてくれていると祈りたい。
 ところが、そんな亨の内心を読み取ったのか、ザッハークは静かに告げた。
「期待するだけ無駄だ。我が結界は"異界"一歩手前。出るも入るも――――創造者たる私の許可がなければ不可能だ」
 刹那、榊原邸を包む結界が一斉に発光する。
 そして――少し離れた場所に、吉崎たちが現れた。

 それは突然の出来事だった。
 吉崎たちも、亨にも訳が分からない。
 ただ一人、ザッハークだけがその事態を把握していた。
「だから言ったであろう? 逃げられはせぬ、と」
 涼子はその声を聞いて身を竦ませた。
 藤村のおかげで、その男がザッハークだということは分かる。
 姉の家族を皆殺しにし、自分の両親を殺害し、姉を死に至らしめた男。
 涼子にとっては憎い仇である。
 しかしザッハークを前にして涼子が感じたのは、怒りや憎しみではなく恐怖だった。
 今まで出会った異法人たちにはなかったものが、ザッハークにはある。
 それは涼子に対する、明確な殺意だった。
 ザッハークは涼子に視線を向ける。
 それだけで、心臓が止まるかと思った。
「久々だな、式泉の娘。もっとも、貴様は覚えていないやもしれぬが」
「……っ」
 確かに、久々だろう。
 涼子はザッハークの声に、聞き覚えがある。
 間違いなく、彼女はザッハークと以前にも遭遇したことがあった。
 それはきっと、七年前の"あの日"なのだろう。
「あんたが……皆を殺したのね」
「そんなところだ。八島家、冬塚家を襲撃したのはこの私、もっとも冬塚夫妻の処刑は契約者の仕業だが……些細なことだな」
「……っ」
 些細なことだと、一言で片付けられた。
 その瞬間、涼子の中に燃え盛るような怒りが湧き上がってくる。
 先ほどまで心を締め付けていた恐怖が弾け飛び、彼女は激昂した。
「ふざけるな! あんたは私の家族を奪った。それを……そんな一言で片付けるなぁっ!」
 衝動に身を任せ、ポケットから魔銃『ヴェー』を取り出す。
 扱い方は既に吉崎から教わっていた。
 渾身の力を込め、ザッハークを睨み据えながら引き金を降ろす。
 一陣の光が夜の闇を突き抜ける。
 それは真っ直ぐにザッハークへと至り、そして、
「――――脆弱也」
 その一声で、光は消し飛んだ。
 涼子は呆然とする。
 全身から力が抜け、銃を持つ手が自然と落ちた。
 そんな彼女を見て、ザッハークは双眸を歪ませる。
「良い目だ。絶望を潜ませている。……そうだな、弱者たる貴様らにはそうした目が良く似合う」
 誰も言い返すことが出来なかった。
 吉崎と美緒は非力な身を怨むように歯軋りをしている。
 亨は全身に傷を負っており、立っているのがやっとだった。
 そんな中、亨がどうにか口を開いた。
「なんだって冬塚さんを殺そうとするんですか!? 弱者なんて言うくらいなら、放っておいてもいいじゃないですか!」
「否。その女は殺す。それは絶対だ」
 そう言いながら、ザッハークは一歩ずつ涼子たちの元へと近づいていく。
 亨はそれを止めようとするが、足が思うように動いてくれなかった。
「最初は研究者どもを利用して殺すつもりだった。が、今思えばそれが良くなかったのかもしれぬ。やはり私に策謀は不向きらしい」
「……それって、五月の」
 涼子が始めて異常と遭遇した夜。
 研究者たちに拉致されて、異法隊に助けられたときのことに違いなかった。
 ザッハークは頷かなかったが、否定もしなかった。
「私は研究者どもにスポンサーの意向を伝える役割だったからな、奴らを動かすのは容易いことだった。冬塚家の事件への関心は元々高かったから、それに乗じた噂を流せばすぐに動いた。あとは奴らから貴様の身柄を引き取り、そのまま殺すつもりだった」
 だが、異法隊が助けに入ったおかげで計画は失敗した。
 おまけに霧島直人が涼子の護衛についた。
 そのため、涼子を殺害する計画は一時的に閉ざされた。
「已むを得まいと放置しておくことにしたが、やはり強引な手段を使ってでも殺すべきであった。今日まで貴様を生かしたこと、それは致命的だ」
「どういう意味よ……!? あんたに殺されなきゃいけない理由なんか、知らないわよ!」
「今はな。だが、直に思い出すであろう。故に早急に殺さねばならん」
 ザッハークは足を止め、涼子たちの方へ右手を伸ばした。
 無論届く距離ではない。
 しかし、その動きに涼子は危険を感じた。
「……我らの目的は機関などとは違う。『世界の変革』が我が契約者の悲願であり、その計画にかつて八島優香を必要とし、今はリンクなる女を必要としている。契約者は私と違って実に臆病で慎重な男だが、稀代の鬼謀の士でもある。決して表舞台に出ることなく、自分の正体を誰にも掴ませず、常に陰で動いてきた。だが、奴は一度だけ過ちを犯した」
 そして、ザッハークは言った。
 なぜ涼子を殺さねばならないのか。
 その理由を。
「七年前――――貴様に顔を見られたのだ」
 刹那、ザッハークの指から、五つの魔弾が放たれた。

 ――――例えば。
 家族以外の全てが敵だとしたら、人は『家』から出るだろうか。
 少なくとも、彼は出なかった。
 出れば攻撃された。
 気味の悪いものを見るような目。
 あからさまに彼を避けようとする態度。
 ひどいものになると、石を投げられたり殴られたり、なんて場合もあった。
 だから、彼には友達がいなかった。
 欲しくなかったわけではない。
 窓の外から見える光景には、同年代の子供たちが一緒になって遊ぶ姿が見えた。
 それを見る度に羨ましくなって、見られていると気づいた子供たちが逃げることで傷ついた。
 だから、いつしか彼は見るのもやめた
 求めることを諦めた。
 唯一無二の味方である家族を守ろうと、そう思った。
 けれど、その家族もいなくなった。
 彼のせいで、苦しんで死んだ。
 そのとき、彼は――――本当に、ひとりぼっちになった。
 世界はこんなにも広いのに、彼の居場所はどこにもない。
 途方に暮れた彼は、母と妹が眠る山を降りて放浪した。
 助けてくれる者など、誰もいなかった。
 敵は沢山いた。
 その日の糧を得るために盗みを働いた。
 追いかけられた。殴られた。嫌われた。憎まれた。
 それでも、期待した。
 こんなに広い世界なのだから、きっとどこかに自分の味方がいる。
 その人に会ったときに嫌われないようにと、彼は自らの力を振るうことを封じた。
 暴力を、憎しみを、哀しみを、全部自分の中に閉じ込めた。
 そうしていれば、いつか味方に会えるかもしれないと期待しながら。
 そんな彼の前に、一人の男が現れた。
『君は、何かを失くした目をしている』
 とても哀しい目をした男は、そっと彼を抱き上げた。
 誰かに触れられること自体が久々だったせいか、不思議と男からは暖かさを感じた。
『我々の元に来るがいい。そこには、君と同じような人々がいる。まだ数は少ないが、君の同志がいるんだ』
『……同志って、なんですか?』
『仲間、ということだ』
『友達、とは違いますか』
 その問いに、男は表情を曇らせた。
『……友達とは、違うな。我々はこの世界において閉ざされた存在だ。異質はあくまで異質。異質同士が交わることが出来れば、それは――――きっと異質ではなくなる』
『そうなることは、出来ませんか』
『分からない』
 男は頭を振る。
『少なくとも、私には出来なかった。私が悪いのか運が悪いのか……それは分からないがね。だから、せめて居場所だけでも手に入れないと……』
 その後の言葉は難しくてよく意味が分からなかった。
 ただ、男が言わんとすることは理解出来た。
 友達を作ることは出来ない。
 ただ、誰にも嫌われない居場所を作ることは出来る。
 だったらそれでいいや、と。
 疲れきった彼は、男に対して頷いた。
 それが、彼と柿澤源次郎の出会い。
 久坂零次の矛盾、その始まりだった。

 久坂零次がこの町を訪れたのは、異法隊に入隊して間もなくのことだった。
 もっとも、その頃は今と違って組織としての活動はさほど行われていない。
 現在の隊員たちも、当時は年少だったため、赤間カンパニーもさほど無茶を言ってこなかったからである。
 零次は他の隊員たちと、このとき始めて顔を合わせた。
 既に入隊していたのは藤村と矢崎兄弟である。赤根と霧島はまだいなかった。
 始めて会ったとき、零次は彼らに親しみを抱けなかった。
 無理もない。
 お互い、長く辛い生活を送ってきた身である。
 同じ境遇だからと親近感を抱くよりも、疑心暗鬼のようなものに囚われることの方が自然だった。
 だから、簡単な挨拶を済ませると、定期連絡と食事の席以外では、彼らとは顔を合わせなかった。
 ずっと部屋で一人。
 以前と変わらない生活。
 新しい場所にやって来たから、彼を攻撃する人間はいない。
 それでも、いつまた同じことになるか知れたものではない。
 だから彼は、極力行動することをやめた。
 一人きり。
 誰にも迷惑をかけず、誰にも嫌われることなく生きていく。
 それが最善だと信じた。
 信じなければ――――辛すぎた。
 いつしか感覚は薄れていった。
 空腹なのかどうか。
 今は何月何日なのか。
 最後に声を出したのはいつのことか。
 そんな生活を続けているうちに、気づけば冬になっていた。
 雪が降っていたから、冬だということに気づいた。
 寝転びながら、窓の外に訪れた劇的な変化をじっと見ていた。
 降りしきる雪には、あまり良い思い出がない。
 凍えるような雪山の中で、彼は母親と妹を失っている。
 だから雪など、見るのも嫌だった。
 少なくとも、自分ではそう思っていた。
 だが、気づいたら彼は部屋の外に出ていた。
 コートも着ず、手袋もマフラーも着けずに外に出た。
 雪を見ると、家族のことを思い出す。
 もしかしたら、彼は幻想を抱いていたのかもしれない。
 あのときと同じような雪景色。
 この中を歩いていけば、いつしか母と妹がいる場所に辿り着けるかもしれない、と。
 行く当てもなく、彼は一人歩き出した。

 そうして辿り着いたのは、町外れにある寂れた公園。
 人家から離れすぎた場所にあったこの公園は、遊び場としては失格だった。
 だが、零次にとっては好都合だった。
 ここなら誰かがやって来る心配もない。
 誰かと会うのは恐かった。
 ほとんどの人間が敵で、そうではない人間はどうでもいい存在だった。
 だから彼は一人でいたかった。
 そのくせ、常に誰かを求めていた。
 公園に通い始めて三日経つ頃、彼はあることに気づいた。
 その公園には砂場と滑り台、それに一人乗りブランコがあるだけだった。
 他に目を引くものはない。
 だからだろう。
 公園の隅っこに作られた雪ダルマは、とても目立った。
『昨日は……なかったよな』
 雪ダルマはお世辞にも良い出来とは言えなかった。
 特に目がいただけない。
 小さな石を埋め込んであるだけの、乱暴な作りだった。
 それは小さなこと。
 放っておけば、それで終わりになるようなこと。
 だが、零次は動いた。
 もっと大きな石を探し、それに絵の具で色をつけて目玉らしくした。
 それを小さな石の代わりに埋め込んだ。
 出来上がった雪ダルマは、顔さえ知らない誰かと零次の合作である。
 一緒に作ったわけではないが、二人で完成させたものであることに違いはない。
 零次は、今までにない喜びを感じていた。
 彼は上機嫌で部屋に戻った。
 ……また明日行ったら、あの雪ダルマ作った人に会えるかな。
 まだ会ったこともないのに、零次はその人物に妙な親近感を抱いていた。
 もしかしたら友達になれるだろうか、などと期待したりもした。
 そして翌日、彼は再び公園に向かった。
『……誰もいないのか』
 少し期待外れだった。
 仕方なしに、昨日の雪ダルマを覗き込む。
 しばらく見ていると、今度は別の場所も変えてみたくなってきた。
 昨日と同じように実行しようと、彼は材料を持って戻ってきた。
 ところが、その付け替え作業をしているとき、彼は誤って雪ダルマを壊してしまった。
 彼は焦った。
 どうすればいいかを必死に考えようとした。
 だが、その暇はなかった。
 彼が雪ダルマを壊して間もなく、一人の少女が公園を訪れたのである。
 彼女は零次と、その前に崩れた雪ダルマの残骸を交互に見た。
 次第に顔色が赤くなっていく。
『……貴方がやったの?』
 怒気を含んだ声で尋ねられ、零次は正直に頷いた。
 零次の中で、昨夜抱いていた期待は一気に消えうせた。
 その分、後悔が勢いよく流れ込んできた。
 ……やっぱり駄目だったんだ。
 もし零次が普通の人間だったら、雪ダルマもここまで酷いことにはならなかっただろう。
 少し崩れた、程度で済むはずだった。
 だが、そうはならなかった。
 悪意を持って粉々に砕いた、としか思えないような有様になってしまった。
 零次は失意を募らせながら、小さな声で呟いた。
『ごめん。……俺は、ここにいちゃいけないんだね』
 それは何度も繰り返された諦め。
 居場所を求め続け、その都度失敗してしまう哀しい少年の呟きだった。
 次の瞬間には飛んで来るであろう罵声に身構えながら、零次は歯を食い縛った。
 しかし、少女から罵声が放たれることはなかった。
 彼女は深く溜息をつくと、何も言わずに公園から出て行ってしまった。
 その足取りは弱々しい。
 彼女の後姿に、零次は何か自分と同じものを感じた。
 居場所を失くして彷徨っている、迷子のように見えたのだ。
 少女の姿が完全に視界から消えうせたとき、零次の胸に苦い後悔の念が湧いてきた。
 よく分からないが、彼女を放っておいたら駄目だと思った。
 根拠はないが、確信はあった。
 そのとき、零次は全ての恐怖を取り払い、無我夢中で彼女を追いかけた。
 降りしきる雪の中。
 母と妹の幻影ではなく、名も知らぬ少女を追いかけた。
 すぐに追いついた。
 だが、少女の背中にどうやって声をかければいいか分からない。
 彼女は零次に気づいているのかいないのか、どんどん前へと歩いていってしまう。
 何か言わなきゃ、と思いつつ、何を言えばいいのかがはっきりしない。
 迷いに迷った挙句、零次は奇妙なことを口走ってしまった。
『ねぇ、明日も公園に来る?』
 少女は足を止めた。
 しかし、振り返ろうとはしない。
『俺は明日もいるよ。多分、明後日も、その次も、ずっと』
 自分でも何を言っているのか、訳が分からなかった。
 頭の中が込み入りすぎて、真っ白になってしまっている。
 伝えたいことが素直に出てこない。
 ついには耐え切れなくなって、
『それじゃっ』
 と、強引に話を打ち切ってしまった。
 踵を返して一目散に逃げ出す。
 そのとき、少女が少しだけこちらを振り返ったような気がした。
 逃げ戻った先は公園。
 誰もいない一人きりの遊び場。
 雪の中に埋もれてしまいそうな、忘れられた場所。
 零次はベンチに座って、しばらく項垂れていた。
 最悪だった。
 みっともないうえに、意味不明だった。
 そんなことを考えているうちに、気づけば夕刻時。
 雪はもう降っていない。その代わり、真っ赤な夕陽が射し込んでいた。
 面を上げた零次の前にあったのは、彼が壊してしまった雪ダルマ。
 ……そうだ、直さなきゃ。
 別に許してもらいたかったわけではない。
 ただ、彼女に悪いことをしたと思ったから。
 謝るだけでは物足りなくて、安心出来なくて、だから直そうと思った。
 その日は材料が足りず、時間も遅くなってしまったので、雪ダルマの形だけを作った。
 続きは明日にしようと、零次は公園を後にした。
 そのとき、微かに誰かの視線を感じたような気がした。
 ――――そして翌朝。
 起きてすぐに公園に向かうと、そこには少女が一人立っていた。
 彼女は零次には気づいていないらしく、せかせかとした様子で雪ダルマの顔を作っていた。
 零次はどう声をかけたらいいか分からず、彼女の動きをじっと目で追うばかりだった。
 そう時間もかからないうちに、雪ダルマは再び完成した。
 少女は一息ついて振り返り、そのときようやく零次に気づいた。
『あ』
 と、間抜けな声をあげる。
 少女も零次も、相手に何を言うべきかがいまいち分からない。
 そのせいか、しばらく二人は互いに見詰め合うような形になっていた。
 次第に気恥ずかしさが出てきたのか、少女は少し顔を赤くして視線を逸らした。
 零次もなんとなく照れ臭くなって、彼女から視線を外す。
 互いに視線を逸らした先は、不恰好な雪ダルマだった。
『……ごめん』
 とりあえず、謝った。
 すると少女は口を尖らせ、
『謝るぐらいだったら、なんで壊すの?』
『うん……わざとじゃなかったんだ』
『……凄く壊れてたけど』
『俺、馬鹿力だから』
 そんな風に言う零次を、少女は疑わしげに見る。
 が、深く溜息をつくと、
『ま、いいけど。そんなに大事じゃなかったし。壊されて腹立ったのは事実だけどね』
『……そうなの? じゃ、なんで直してたの?』
『そ、それは、なんか半端に出来たのがあったから気になっただけだもん』
 なぜか少しムキになって言う少女。
 零次はそれを見て、少しだけおかしくなった。
 つい笑みがこぼれる。
 彼女はそんな零次を見て、ますます機嫌を悪くしたようだった。
 二人して、雪ダルマを見ながら沈黙する。
 どちらも動こうとせず、そのまま緩やかに時間が流れた。
『ねぇ』
 と、少女が息を大きく吐き出しながら言った。
『何してんの?』
『さぁ……』
『暇なの?』
『そうかも』
『それじゃあさ』
 彼女はやれやれ、と言いたげに肩を竦めながら、
『ちょっと付き合ってよ。私も暇なんだ』
 彼女にとっては、そう特別な言葉ではなかったのかもしれない。
 だが、零次は大きな衝撃を受けた。
 拒絶されてばかりだった自分に対し、誘いの手が差し伸べられたのである。
 今までになかったものが突然現れたとき、それがどんなに喜ばしいものであろうと、まず抱くのは疑念、あるいは警戒心である。
 零次もそうだった。
 素直に喜ぶことが出来ず、なぜ、と自問する。
 なぜ、この子はこんなことを言うのだろう。
 戸惑いながらそう考えていると、いきなり目の前に彼女の顔が現れた。
 慌てて飛び退く零次を、彼女は訝しげに見ている。
『どうしたの?』
『いや。俺なんかで、いいのか』
『いいわよ。えーと、ほら。ここで会ったも何かの縁っていうじゃない』
 機嫌は既に直っているらしく、彼女はどこか疲れたような笑みを見せた。
 それを見ると、なんとなく放っておけないような気になってくる。
『……分かった。どこか行くなら俺も付き合うよ』
 少し恐かったが、零次は少女の提案に乗ることにした。
 すると、彼女は零次に向かって手を差し伸べた。
 零次は呆然と、差し出された手を見る。
 意味が分からず、どうしていいか分からない。
『なんか変なの。さっきからぼーっとして。……握手握手』
『え、あ、ああ』
 握手などしたことがない。
 どうするかもよく知らない。
 しかし、それを言えば不審の目で見られるかもしれない。
 零次は窮して、彼女の真似をした。
 つまり、同じように手を差し出したのである。
 途端、差し出した手を力強く握り締められた。
『はい、よろしくね』
『あ、うん』
 これが握手なんだ、と感心してしまう。
 少女の手は、この寒空の下においてはとても暖かく感じられた。
『それじゃ、行こっ。最近むしゃくしゃしてたから、ぱーっと暴れてやるのよ』
 勇み足で駆け出す少女。
 零次は不安な面持ちでその後を追う。
 と、公園を出かけたところで少女が振り返った。
『ごめん。言い忘れてた』
『え?』
『名前。――――私、冬塚涼子。君は?』
『あ――――久坂零次』
『そう。んじゃ、改めてよろしくね』
 よろしくね。
 改めて考えてみると、そんな言葉をかけられたのも初めてだった。
 この少女とのやり取りは、零次にとって始めてのことばかりだった。
 だから、理解が追いつかない。
 だが、一つだけ胸中に浮かび上がった疑問があった。
 ……これが、友達なのか?
 そうなのかもしれない。
 まだそう呼ぶには早すぎるかもしれない。
 どちらにせよ、零次はそのことを彼女に問いかけようとは思わなかった。
 下手なことを言って終わらせるよりは、曖昧なままの方が良い。
 そう、思って。
 結局、あの事件が起きて別れ、七年経った今でも。
 その問いかけは、零次の中にしまわれ続けたままだった。
 ただ。
 彼女がどう思っていたかは知らないが。
 世界が全て敵だった少年に、始めて手を差し伸べたのが少女であるという事実は確かだった。
 そして、そんな少女のことを、少年がずっと友達だと思い続けていたことも、確かだった。
 始めてにして、唯一人の友達。
 かつて守り損ねた友達。
 傷つけてしまった友達。
 そんな彼女だからこそ。
 例え真実が言えず、嘘をつき続け、その結果嫌われることになろうとも。
 久坂零次にとって、何より大切なことは揺るがない。
 即ち――――。

 魔弾が放たれると同時に、榊原邸を覆い囲んでいた結界が打ち砕かれる。
 誰かがそのことに気づくよりも早く、それは涼子たちの眼前に、隕石の如き勢いで降ってきた。
 そして、彼女を害さんとする弾丸を、全て受け止めた。
 誰もが呆然としていた。
 あまりに唐突な登場を果たしたそれは、ゆっくりと涼子たちを振り返る。
 黒き翼を生やした異形の戦士。
 それに対し、涼子は暖かな懐かしさを感じた。
 この間見たときはとても恐かったのに。
 今の彼は、何よりも優しそうな風を纏っている。
「……無事か、良かった」
 心底安堵したような表情。
 それに対し、涼子はゆっくりと頷いて応えた。
 彼はそのまま視線をザッハークへと戻す。
 蛇の王は突然の乱入者を前に、嬉しそうな笑みを浮かべた。
「ほう――――脇役は違えどメインキャストはほぼ同じ。まさしく七年前の続きということか」
「かもしれん。……その面には見覚えがある。なるほど、貴様がザッハークだったか」
「左様。ようこそ、異法隊がエース……久坂零次」
 言葉と共に、ザッハークは魔槍を打ち消した。
 その代わりなのか、背後に魔力を凝縮させて、一匹の大蛇に変化させようとしている。
 零次は鋭い視線で敵を睨みつけたまま、背後の涼子たちに声をかけた。
「お前たちは今のうちに逃げろ。結界は俺が破壊した。今なら逃げられる。どこか安全な場所へ行け」
「……零次、さん」
「生きろ。今度こそ、俺はお前を守ってみせる」
 他の全てを投げ捨ててでも、たった一人の友達を死なせたくない。
 それこそが。
 それこそが……久坂零次にとっての、最優先事項。
「そして生き延びれたら――――そのときは真実を話そう」
 その結果、世界でただ一人の友達を失うかもしれない。
 それでも零次の覚悟は決まっていた。
 きっとそれでお終いになっても、振り返りはしないと。
「さあ、行け」
 零次に促され、吉崎がバイクのアクセルを踏んだ。
 動き出すバイクの上で、涼子はじっと零次を見つめる。
 言葉はなかった。
 きっと、生きてまた会えると信じているのだろう。
 少なくとも、零次はそう思っている。
 そして、三人の姿は見えなくなった。
 零次と対峙している以上、ザッハークもそう簡単には動けない。
「……また失敗か。あの女、何か強力な根源主か何かか。全く、こうまで上手くいかぬのは始めてのことよ」
「知ったことか。俺はお前を倒し、彼女を守る。今はそれ以外どうでもいい」
「クク、強力な意志の力を感じるな」
 ザッハークの背後で、大蛇となった魔力が大きく口を開いた。
「よかろう。――――貴様を我が敵として認めようではないか」
「ふん、それはこちらの台詞だ。手加減する余裕もなし、最初から全力でいかせてもらう」
 と、零次は隅にいた亨を見た。
「亨、お前もすぐに離れろ」
「零次、まさか貴方は……」
「ああ、そうだ」
 言葉と共に、零次を覆う黒き魔力が一斉に吹き出した。
 まるで火山が噴火したかのような勢いである。
 この力は、かつて彼女を傷つけたもの。
 しかし、それを使わなければ彼女を守れない。
 ならば躊躇うことはない。
「全ての責任と後悔を背負い――――この力を"全解放"するッ!」
 刹那、零次を覆っていた魔力が、一気に爆発した。