異法人の夜-Foreigners night-

-Border Breaks-
第四十一話「非情事態」
「……繋がった!」
 美緒がそう叫んだのは、朝月町をとっくに出た頃のことだった。
 追ってくる魔獣の数は減らず、むしろ増えているような気配さえある。
 危機は未だに去っていない。
 そんな状況だから、梢たちに連絡を取れたのは幸いそのものだった。
「もしもし、お兄ちゃん!?」
『美緒か? 今そっちはどうなってる!』
「変なのに追われてる。バイクで逃げてて、異法隊の人が時間稼いでくれてて」
 極度の緊張状態にあるせいか、上手く言葉が出てこない。
 真っ暗な闇の中、よく分からない化け物から当てもなく逃げ続けなければならない恐怖は、並々ならぬものがある。
 美緒の声は若干涙ぐんでいた。
『落ち着け。……今どの辺にいる?』
「わ、分かんないよぅ」
「――――浅黄山の方だ。住宅街にはぶつからないよう、例の工場地帯に向かって走行中」
 吉崎が口を挟む。
 どうやら梢の声は聞こえているらしい。
『あそこか、了解。こっちもちと手間取ったが、三人とも無事だ。刃を家に向かわせて、俺と兄貴でそっちに行く。……それまで死ぬなよ!』
「う、うん。早く来てね……!」
 普段の美緒からは想像も付かないくらい、弱々しい返答だった。
 だが、元々美緒はこういう性格だった。
 色々なものに怯え、梢の背中にずっと隠れているような女の子だった。
「大丈夫、美緒ちゃん?」
 通話を切った美緒に、涼子が心配そうな声をかける。
 美緒は青ざめた表情で頷いてみせた。
 涼子の方も顔色はよくない。
 こうした事態に慣れていない一般人としては、当然の反応である。
 ただ一人、吉崎だけが比較的冷静だった。
 そこに美緒は少しだけ寂しさに似たものを覚える。
 吉崎はこうした事態に慣れている。
 日常のすぐ裏にある、異形の世界に。
 それは間違いなく、兄・倉凪梢の影響だった。
 梢は自分自身の力を、誰かを助けるために振るってきた。
 最近で言えば、遥を助けたり、通り魔を捕まえたりしたことがそれに当たる。
 そうしたことを始めたのはもう何年も前だった。
 自発的に夜の町を見回ったり、誰かの噂を聞いたりしては動き回っていた。
 一人でそんな無茶をするな、と周囲は止めた。
 それでも梢は止めなかった。
 困っている人がいて、その人を自分が助けられるなら、助けない理由はない。そう言い張ったのである。
 やがて榊原も美緒も折れた。
 榊原は事件解決を何度か手伝ってもらったことがあり、美緒は昔から兄には世話になりっ放しだったため、あまり強く反対出来なかったからである。
 ところが、これに吉崎だけは最後まで反対した。
 挙句、
『お前が止めないってんなら、俺も付き合せてもらうぜ。お前が無茶しないように見張ってやる。それに、俺が一緒ならお前もさほど無茶はしないだろ?』
 梢に対する二重の抑止力として、自分も付き合うことを決めた。
 二人は親友であり、あらゆる意味で対等の関係だった。
 お互い相手に遠慮することがなく、無理にその意見を押し退けることも出来ない。
 梢は渋々それを受け入れ、吉崎は梢と共に、影から町を守ることを始めた。
 そうして何年か経ち。
 同じ"一般人"なのに、吉崎は美緒たちとは少し違う場所にいた。
 そのことが美緒には嬉しくもあり、寂しくもあり、なにより危ういような気がした。
 吉崎と梢が強い友情で結ばれているのは嬉しい。
 梢は色々なところで無茶をする人だから、理解者がいないと破滅してしまいそうなところがある。
 そんな梢に、吉崎は良く付き合ってくれていると思う。
 しかし、それでも吉崎は普通の人間なのだ。
 こんな異常な事態を前にして冷静でいる吉崎を見ると、どこか不安になる。
 ……ねぇ、危ないんだよ。分かってる?
 そう、問いかけたくなるのだった。
「……ちっ」
 と、吉崎が舌打ちした。
 美緒は何事か不安になって、吉崎により強くしがみついた。
「どうしたの……?」
「何か、でかい気配が追ってくる」
 そう告げる吉崎の声は、これまでにないくらい震えていた。
「多分……あいつだ」
「――――ッ!」
 涼子が背後で息を呑む。
 あいつとはザッハークのことだろう。
 そいつが追ってきたということは、生死はともかくとして、久坂零次が敗れたことを意味する。
 涼子にとっては自分の命が危険に晒されることもあって、二重の衝撃になったはずである。
「れ、零次さんは……」
「分からない。確認するだけの余裕はねぇな」
 非情とも取れる言葉だった。
 しかし、事実戻って零次の生死を確認することなど出来るはずもない。
 今はとにかく、梢たちがやって来るまで逃げ続けるしかない。
「こいつに乗ってりゃ、そうそう追いつかれはしないはずだ……!」
 前方に、廃れた工場地帯が現れる。
 三人は一気にそこへ突っ込んだ。

 梢たちは急いで山中を降りていた。
 時間がない。
 急がなければ、犠牲が出る。
 三人の格好は酷いものだった。
 だが怪我は負っていない。
 屍の欠片を引きつけて一気に潰す、という霧島の作戦が功を成したのである。
 その際に発生した土砂崩れに巻き込まれて、あちこち汚れてしまったが。
「もしもし、赤根か? お前は無事なんだな!?」
 木々の間を潜り抜けながら、霧島が携帯に向かって大声をかける。
「何? ……くそ、どうなってんだ!? ああ、いいか、お前は動くな! 様子をしっかり見てろ!」
 そう言って通話を切る。
 その尋常ならざる様子に、梢と刃が首を傾げた。
「どうしたんだよ、赤根は」
「あいつはカンパニー前に向かった。……そこに、千体を超える強化人間が集結してるらしい」
「せ、千体!?」
 馬鹿な、と梢は叫んだ。
 一体どこからそんな数の強化人間が出てきたというのか。
「おそらくスポンサーだか契約者だかが秋風市にある機関の戦力を集結させたんだ。一気に異法隊を叩き潰すためにな」
「その連中がカンパニーの方に来たってことは、家に来たのはザッハークって野郎の方か」
「ああ。最悪の展開だ、ギアを上げる必要があるな」
 そう言うと、霧島は自らの力を発動させた。
 相手にかかる負担を考慮しつつ、出来る限り効果を引き出すように。
「――――モルト・ヴィヴァーチェ!」
 叫びと共に、周囲の風景の流れが遅くなっていく。
 梢たちの移動速度、及び速度感覚が倍加したのである。
 自分たちが速くなったと言うよりは、周囲が遅くなったような感覚。
 その中を、三人は急いで駆け抜けた。

「くそ……野郎、どんな方法で追って来てやがる!? どんどん迫ってくるぞ」
 吉崎は一瞬たりとも速度を緩めたりはしていない。
 おそらく二三〇km.は出ているだろう、そんな速度だった。
 この速度で走ること自体が異常だというのに、それにどんどん接近して来る相手というのは一体何なのか。
「……吉崎先輩!」
 後方を監視していた涼子が、悲鳴じみた声を上げる。
 吉崎は確認する余裕などなかったが、背後から感じる敵意がぐんと増したことは分かった。
「奴か!?」
「はい、その……飛んでます!」
「……おいおいおいおいおい。そこまで無茶苦茶な奴、俺も見たことないぞ!」
 ミラーにちらりと視線を向ける。
 確かに後方の上空を漂う、不気味な魔力の塊があった。
 暗くて分かりにくいが、中心部に人影らしきものが見える。
「ちいっ、もうこんなに……」
 このままでは追いつかれる。
 早急に手を打たねば、梢たちがこちらへやって来る前に三人とも殺されてしまう。
 それだけは、絶対に避けなければならない。
 ……俺としても、こんなんで死ぬなんざ御免だからな!
 高速で飛翔してくる相手を撒くには、どうすればいいか。
 この辺りにあるものを思い浮かべながら、吉崎は頭をフル回転させた。
 梢に付き合ってあちこち動き回ったおかげで、秋風市のマップは全て頭に叩き込まれている。
 だからこそ、視界の自由が利かない闇の中を、ここまで逃げ回ることが出来たのだ。
 しかし、空を飛ぶ相手に有利な地形というのは、あまり思い浮かばない。
 そもそもそんな輩を相手にしたことがないのだから、無理もなかった。
 実際に悩んでいたのは一瞬に過ぎなかった。
 だが、その一瞬を突かれた。
「――――吉崎さんっ!?」
 美緒が絶叫する。
 吉崎も瞠目していた。
 後方に浮かんでいた巨大な魔力の密集地帯。
 そこから、ナイフ状となった魔力が雨のような勢いで放たれたのである。
「ぐおおおおおおぉぉぉっ!」
 直線状を走っていては確実に被害が出る。
 吉崎は即座にハンドルを切り、直角に曲がってみせた。
 僅かに遅れて、吉崎たちが走っていた道路に薄紫のナイフが数十本突き刺さる。
 三人は完全に絶句していた。
 これだけの速度で走っていながら直角を曲がりきった吉崎のテクニックも、三人の頭の中にはないも同然だった。
 吉崎にしがみつく美緒の手が震えていた。
 直に死の恐怖を突きつけられたのだ。無理もない。
 だからか、吉崎は叫んだ。
 自分たちを鼓舞するように。
「はっ、やれるもんならやってみろよ! 簡単にはやられねぇっ!」
「ほう。大した虚勢だ」
「――――!?」
 今度こそ、三人は絶句した。
 曲がりきった道の先。
 そこに、先ほどまで後方にいたはずの相手がいたからである。
 ザッハークだった。
 多少衣服が汚れているが、特に怪我を負っているようには見えない。
「……野郎ッ!」
 吉崎は迷わなかった。
 今更進行方向を変える暇はない。
 かと言って、避けることも出来ない。
 まともにぶつかったら、こちらの足が止まってしまう。
 ならば手段は一つだけ。
 左腕に力を込めてハンドルを握りながら、吉崎は腰からヴィリを引き抜いて、迷わず照準をザッハークに合わせた。
 相手が生き物だとは考えなかった。
 ただの障害として認識し、それを払い除けるために力を振るう。
「おおおぉぉぉぉッ!」
 引き金を降ろす。
 光が一線、まさに文字通りの速さでザッハークに放たれた。
 その後を追うように、吉崎たちを乗せたバイクが突っ込んでいく。
 激突は、なかった。
 光の眩しさを抜けた先には、延々と広がる夜の闇。
 ザッハークの姿はない。
 だが、吉崎は既に感じ取っている。
 ザッハークがまだすぐ側にいることを。
「面白い人間だな、貴様」
 ――――声は、すぐ横からした。
 背後の美緒が「ひっ」と声を上げる。
 驚くのも無理はない。
 ザッハークは吉崎たちと並行する形で、すぐ側にある建物の壁を走っていたのだから。
 速すぎる。
 ザッハークが梢と同じ異法人だとしても、基本性能が段違いだとしか思えない。
 吉崎の速度について来れる異法人など、それこそ速さに特化した霧島直人ぐらいのはずだった。
 それを、この男は平然とやっている。
 その事実こそが、何よりも恐かった。
 吉崎にとってこのバイクは、長年足として使ってきた自慢の愛機である。
 これに乗っていれば梢よりも速く駆け抜けることが出来る。
 その自信が、今あっさりと砕かれた。
「人間にしては図太い神経の持ち主だ。そして大した自信を持っているようでもあり、それが決して過信とは言えぬ程度の技量は持ち合わせておる」
 言いながら、ザッハークはナイフを数本創り上げる。
 両手の指にそれらを挟みながら、大きく腕を振り上げた。
 超高速で移動しているとは思えないほど、優雅な仕草である。
「だが残念だ。――――それでも貴様は、ただの人間に過ぎん」
 至近距離から、計八本のナイフが放たれる。
 二本はバイクへ。残りの六本はそれぞれ三人目掛けて飛んでくる。
 吉崎は咄嗟にハンドルを手放し、涼子と美緒を抱きかかえて飛び降りた。
 時速二〇〇㎞を超える場所から放り出され、三人は勢いよく地面に激突した。
 女子二人を庇って下になったため、吉崎の背中に強い衝撃が走る。
 しかし、ここで痛がっている場合ではない。
 吉崎は転がり落ちた勢いを殺さず、むしろ利用して立ち上がった。
 立ち上がりの動作も勢い良く。そのまま、二人を引き起こして駆け抜ける。
 バイクがなくなった以上、後はどうにかして持ち堪えるしかない。
 近くにあった廃屋に、窓から飛び込む。
 背中の痛みのせいで、集中して気配を探ることが出来ない。
 ……今、奴はどこだ!?
「っ!」
 涼子が息を呑んで、自分たちが入ってきた窓の方を見る。
 そこから、ザッハークの双眸が中を覗き込んでいる。
「これでチェックメェトだ諸君。贖罪の悪魔は地に伏し、復讐者は間に合わず、かくして過去は蛇の腹へと収まる。否、未来と言うべきか。まぁなんにせよ――――」
 蛇の王は、気づけば室内へと入り込んでいた。
 目を逸らしたりはしていなかったはずなのに、いつのまにか動いていた。
 動いていたことを認識出来なかった。
 それだけ、格が違う。
「――――七年に渡る因果も、これで終わりだ」
 ザッハークはゆっくりと、人差し指を涼子へ向ける。
 まるで拳銃を撃とうとしているかのようだった。
「……どうせ殺すんだったら、聞かせて欲しいわね」
 涼子が恐怖を押し殺した声を上げる。
 ザッハークは無表情のまま、しかし眉だけをぴくりと動かした。
「七年前に私が契約者ってのを見たって言うなら……なんで今日まで私は"生かされてた"のかしら?」
「貴様の記憶が封じられていることは契約者の知るところでもあった。故に、だろう。……しかし、奴は単に貴様に同情していたのやもしれぬな。貴様の記憶が戻りそうな現状においてさえ、奴は私を制止した」
「ってことは、これはあんたの独断専行?」
「無論。奴は我が契約者だがマスターではない。制止を素直に聞き入れる道理などないわ」
「……零次さんや遥さんはどうしたの?」
 これまでの問いかけよりも若干強い口調で、涼子はザッハークに問う。
「リンクは"フリーク"に預けた。今頃実験がてら、異法隊本部を強襲していることだろう。……久坂零次は、さてどうしたかな」
「……ッ!」
 ニヤリと笑ったザッハークに対し、涼子はヴェーを振り上げた。
 その表情に浮かんでいるのは怒りだった。
 零次にしろ遥にしろ、涼子には特別親しかった記憶などない。
 それでも凄まじいほどに怒りが湧き上がってきた。
 記憶などという形ではない、もっと別の何かから出てきた怒りである。
 効かない、などとは考えなかった。
 理屈を全て省いた感情の一撃が放たれる。
 それがザッハークへと達する前に、
「……え?」
 気づけば――――涼子の胸にナイフが一本、突き刺さっていた。
 吉崎も美緒も、反応出来なかった。
 気づいたときには既に終わっていた。
 過程が知覚出来ず、結果だけを突きつけられた。
「りょ、涼子ッ!?」
 美緒が絶叫しながら、慌ててその側へと駆け寄る。
 あまりに動転しているせいか、普段と違って呼び捨てになっていた。
 涼子は最初に膝を曲げ――――それからゆっくりと崩れ落ちた。
 遅れて、じわりとナイフが刺さった場所から血が滲み出てくる。
「涼子、涼子、涼子……!」
 美緒は涼子の身体を抱きかかえ、その名を呼び続ける。
 しかし、涼子は呆然とした表情のままぴくりともしない。
「やだ、なんで!? ねぇ、涼子、涼子ぉ!」
「――――五月蝿いゴミだ」
 囁きと共に、美緒目掛けてナイフが放たれる。
 それを、今度は吉崎が止めた。
 ヴィリの銃身で弾き飛ばした。
「……てめぇ」
「憤るか人間。つまらぬことよ。たかだか一人死んだ程度で何を怒る」
 黒く濁った目を細めながら、ザッハークはにやにやと笑う。
「今貴様がいるのは異形の世界だ。生き死になど些細な世界だ。我ら異法人はそれだけの力がある。……貴様は知らなかったのか?」
 蔑みの視線で、吉崎を射抜く。
「――――貴様の接してきた異法人共とて、その気になればいつでもああすることが出来たのだ」
 くい、と顎で倒れた涼子を示す。
 泣き叫ぶ美緒。
 動かなくなった涼子。
 あの光景を、梢が作れると言われた。
 そこが、吉崎の我慢の限界だった。
「一緒にするなよ」
 痛みと恐怖で熱くなっていた心が、急速に冷えていくのを感じる。
 はっきりとザッハークの顔を睨み据えながら、右手にヴィリを構える。
「倉凪はてめぇとは違う。他の連中だって違う。俺はここ数ヶ月で色んな異法人ってのを見てきたが、てめぇみたいに性根の腐った奴は見てないぜ」
「……ほう?」
 吉崎の急変振りに興味が湧いたのか、ザッハークはわざとらしく両目を大きく開いた。
「倉凪も兄貴も、異法隊の連中も……自ら進んで誰かを傷つけようとする奴はいなかった」
 誰も彼もが、傷つけられて。
 その痛みを知っているからこそ、強大な力を持ちながら、それを無闇に振るうことをしなかった。
「あいつらにあんな真似は出来ねぇよ。力の有る無しじゃねぇ。あんな酷ぇ真似、出来るもんか」
「それは奴らが狂っているだけのことよ。異常な存在として生命を与えられながら、矮小に生き続けるなど愚かしいにも程がある。腰を低くし、周囲に合わせ、世界に媚びへつらう……それは人間のすることだ。我ら異法人のすべきことではない」
「勝手に決めつけるな。異法人? 人間? くだらねぇ、笑わせるなよ」
 美緒の泣き声は止まない。
 吉崎は歯を食い縛りながら、ザッハークの眼を見た。
 両者の視線が交わる。
 片や濁りきって本心の見えぬ、狩人の眼。
 片や強い怒りを剥き出しにした、人間の眼。
「んなこと気にしてる方がよほど小さいぜ。それは単にてめぇの主張だろ。俺はそいつが気に入らない。てめぇがしたこと含めてな」
「だったらどうするのかね、人間」
「人間じゃねぇ」
 吉崎は銃口をザッハークに向けて、静かに告げる。
「吉崎和弥。倉凪梢の相棒にして、無謀にも今からお前に挑む男の名前だ」
「……」
 その宣告に、ザッハークは意外にも――しばし呆然としていた。
 だが吉崎の眼を見て、それが冗談ではないと知ったらしい。
「ク……ククク……ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!」
 さぞ愉快気に笑う。
 しかし、それは決して嘲笑ではなかった。
 ザッハークは心底喜んでいる。
 これは相手を嘲笑うものではなく、喜悦を表す声なのだった。
「未だ、嘗て! ただの人間の分際で、この我に挑もうとする馬鹿は見たことがない! だがいいぞ、貴様の眼は本気のようだ! 先ほどの久坂零次と言い、今日は実に"真の異常者"と縁がある! 屈折が常であるこの世界において、なんと真っ直ぐな意思を持つ輩だ! 我は歓迎しよう、勇者よ! さぁ、存分に我を楽しませるがいい――――!」
 両手を大きく広げ、高らかに笑う蛇の魔王。
 立ち向かうは、ただの人間、吉崎和弥。
「言われるまでも……」
 駆ける。
 全てにおいて相手は自分と桁違いである。
 最悪なのは、背中を見せること。
 出来ることは、そうしないことぐらいだった。
「――――ねぇッ!」
 飛び込みながら、相手の眉間目掛けて一発を撃つ。 
 薄暗い廃屋が、眩しい光に満たされた。

 吉崎は、人間にしては強い。
 梢でさえ根を上げそうになった榊原の訓練にも耐え抜いた精神力を持ち、運動神経も相当なものだった。
 時速二〇〇㎞を超えるバイクを自在に扱ってみせたのも、鍛え抜かれた身体能力ゆえである。
 潜った修羅場も割とある。
 だからこそ、自分以上の相手と戦う術にも長けていた。
 吉崎が放った弾丸は大した威力を持っていなかった。
 そのかわり、広範囲を狙うよう弾丸を大きめにして撃った。
 それぐらいのことが出来る程度には、この魔銃を扱えるようになっている。
 ザッハークは避けるまでもないと、それを敢えて喰らう。
 なぜそうするのか。
 余裕があるからだった。
 相手の方が全てにおいて勝っているのだから、それは当然のことと言えるだろう。
 ……だが、こっちには"劣っているという利点"がある……!
 即ち、余裕につけ込むこと。
 何度も出来ることではない。
 一度で仕留めなければ、相手はもう余裕など持とうとはせず、全力で叩き潰しに来るだろう。
 吉崎が放った弾丸は眩い光を発した。
 この弾丸は、相手を倒すために出したものではない。
 光を発し、一瞬でもいいから自分の姿を相手に映さぬようにするために出したものである。
 決め手はただ一撃。
 それで終わらせられなければ、吉崎たちに次はない。
 もとより勝てる確率などないに等しい。
 滑り込む。
 ザッハークの懐へ、一気に迫る。
 重心を低くし、真下からザッハークの喉を狙う。
 倒す、などという生半可な覚悟では勝てるはずもない。
 殺すつもりの一撃を打ち放った。
「たわけ――――!」
 光の中から、ザッハークの双眸が吉崎を捉える。
 こちらの動きなどお見通しということらしい。
 それでも吉崎は止まらず、喉元を抉るように右手を振り上げた。
 それを、掴まれる。
 喉に達する寸前のところで、ザッハークの左手に阻まれる。
 掴まれると同時、右手の感覚が消え失せそうになるぐらいの痛みが走った。
 だが、吉崎の表情は苦悶を浮かべはしなかった。
 絶叫する一歩手前で踏み止まりつつ、なお闘志を秘めた顔。
 それを見て、ザッハークの表情が微かに歪む。
 刹那、吉崎は左手に持ち直していたヴィリを、ザッハークの脇腹に押し当てた。
 押し当てると同時に、ありったけの魔力を注ぎ込んで引き金を降ろす。
「決め手はこれだッ!」
 赤い閃光がザッハークを貫く。
 その衝撃で、両者は互いに吹き飛んだ。
「……ぁっ!?」
 強烈な痛みを発する右手を抑えながら、ゴロゴロと転がり回る。
 気づけば、美緒たちのすぐ側に到達していた。
「吉崎さんっ!?」
 美緒が更なる悲鳴を上げる。
 吉崎はそれを制し、顎で廃屋の出口を指し示した。
 出口はザッハークが吹っ飛んだ方向とは逆にある。
「今なら逃げれる。一人で逃げろ……!」
「や、やだ! 涼子が、それに吉崎さんがぁっ!」
「いいから言うことを聞くんだ! 美緒ちゃんまで死んだら、倉凪や師匠がどんだけ悲しむと思ってる……!」
 世界中が敵だらけだったからこそ、倉凪梢は自分の周囲を大切にしている。
 ずっと守り続けていた美緒のことは、特に大切に思っているはずだった。
 そんな彼女が死んでしまったら、梢はまず立ち直れないだろう。
「大丈夫、俺も後を追って……」
「――――そんな余裕があるのか?」
「……っ!」
 闇の向こうから、ザッハークの声が聞こえた。
 微かに巻き起こっている煙の中から、ゆっくりとその姿を現す。
 少し汚れが増えた程度。
 後は、大して変わっていなかった。
 倒せるとは思っていなかったが、ろくにダメージを負わせることも出来なかったらしい。
 これでは、美緒が逃げるための時間を稼ぐことも出来ない。
「それにその女を逃がそうとしても無駄だ。外は既に囲んでいる」
 ザッハークが指を鳴らすと、廃屋の周囲から不気味な唸り声が呼応してきた。
 頭の中からすっかり抜け落ちていたが、まだ魔獣たちもいるらしい。
 闇に紛れて、奇妙な気配をいくつか探ることが出来た。
 無駄と分かりつつ応戦しようとして、吉崎はヴィリを持とうとした。
 が、上手く右手が動かない。
 視線を下ろすと、そこには奇妙な形になった自分の手があった。
 先ほど止められたときに握り潰されていたらしい。
「わずか一瞬であったが、大した度胸だった。褒めておこう」
 ザッハークは魔力を収束させて、一本の剣を創り出した。
 人間を一振りで真っ二つに出来そうなくらい、巨大な剣だった。
「では、そろそろ終わりとしよう」
 慈悲なき宣告と共に、死を呼ぶ大剣が振るわれる。
 吉崎と美緒をまとめて叩き斬るべく放たれた、抜刀に似た一撃。
 感傷を与える暇すらなく、黒色の刃は二人の眼前に迫った。
 刹那――――二人を守るかのように、一つの影が飛び込んできた。
 後方にある出口から飛び込んできたのだろう。
 吉崎と美緒の間を一瞬で駆け抜けたその影は、右腕の篭手を持って大剣に挑む。
「――――お兄ちゃん!?」
 美緒の叫びとほぼ同時、梢の篭手とザッハークの大剣が衝突する。
 互いに魔力で構成された擬似物質同士。
 その衝突は、即ち魔力と魔力の勝負。
 翠玉と薄紫の魔力がほとばしる。
 しかし、それは一瞬のことだった。
 梢とザッハークでは、所有している魔力の桁が違う。
 剣は梢の腕半ばにまで達した。
「ぐ……さ、せ、る、かぁぁぁぁっ!」
 決死の形相で、梢は大剣ごと自分の腕を振り回す。
 ザッハークの手元から剣が離れた。
 同時に梢の右腕から鮮血が走る。
 苦悶の表情を浮かべながら、梢は右腕を押さえた。
 それでも吉崎たちの方へ顔を向け、
「……悪い、遅くなった」
「遅いんだよ、相棒」
 二人は全く同時に言葉を発した。

 突然乱入してきた相手に、ザッハークは好奇の視線を向ける。
「貴様が草の使い手……そしてとうとう現れたな、復讐者」
 気づけば、もう一人。
 霧島直人が、美緒と涼子の側に現れていた。
 倒れている涼子を痛ましげに見ながら、美緒を抱き寄せて頭を撫でていた。
 が、ザッハークに呼ばれると、殺意を込めた視線をそちらに向ける。
「また俺の家族に手を出したな、ザッハーク――――!」
 怒りを隠そうともせず、鬼のような形相を浮かべる。
 吉崎はかつて、そんな霧島の姿を見たことがなかった。
 それだけで人を殺せそうな視線を受けて、ザッハークは可笑しげに笑っている。
「たわけ。そうしている間に、また一人犠牲が出るぞ」
 ザッハークが腕を振り上げる。
 途端、梢の腕にめり込んでいた大剣が不気味な光を発した。
 不吉を感じさせる、悪意の光。
 梢は剣を抜こうとしていたようだが、半ば以上まで入り込んでいるせいか取れない。
「倉凪!」
 吉崎が思わず声を上げる。
 梢は一瞬だけ吉崎や美緒の方を見ると、
「ちっ!」
 彼らから遠ざかるように、廃屋の外へと跳躍した。
 刹那、
「――――爆ぜろ」
 無慈悲な言葉。
 それに従い――――大剣は梢の右腕もろとも爆砕した。
 あまりに唐突に、吹き飛んだ。
 立ち込める煙が自分のところに達するまで、吉崎たちは動けずにいた。
 梢の悲鳴さえ聞こえない。
 突然すぎる出来事だった。
 やがて、霧島が叫んだ。
「貴……様アアァァァァ!」
 呆然とする吉崎の耳に、霧島の激昂が聞こえた。
 だがその姿は確認出来ない。
 ザッハークもいつのまにか消えていた。
 ただ、二人の気配だけは近くに感じる。
 凄まじい殺意と敵意が、一瞬のうちに幾度も激突する。
 しかし、そんなことはどうでもよかった。
「倉凪ぃっ!」
 爆発の影響で煙が発生し、その姿がよく見えない。
 痛む身体に鞭打って、吉崎は無我夢中で梢が跳んで行った方へと動いていた。
 美緒も涼子を抱きかかえながら吉崎の後を追う。
「……っ」
 梢は廃屋のすぐ外に倒れていた。
 その姿を見た瞬間、吉崎は思わず口元に手を当てた。
 吐き気がする。
 凄惨としか言いようがない光景だった。
「よ、吉崎さん……?」
「来るな」
 吐き気を堪えながら、そう言うのが精一杯だった。
 今の梢を美緒に見せる訳にはいかない。
 あまりに惨い姿だからである。
 だが、美緒は見てしまった。
 吉崎の視線の先に倒れている兄の姿を。
 至近距離から爆発を喰らい、全身が焼け爛れている。
 そして――――
「お兄ちゃん……右手が……!」
 爆心地となった、梢の右腕。
 吉崎と美緒を救うために振るったその腕。
 これまで色々な人のために振るってきた、大事な腕が。
「い、いや……もう、嫌だよぉぉ!」
 動かぬ涼子に泣きすがりながら、美緒が絶叫する。
 倉凪梢の右腕は――――跡形もなく消し飛ばされていた。