異法人の夜-Foreigners night-

-Border Breaks-
第四十四話「した事の意味」
「……その話は、本当なんですか」
 幸町診療所の待合室で榊原から話を聞いた藤田たちは、揃って声をあげた。
 榊原が語った内容――――異法人、異法隊、ザッハーク。
 普通に考えれば、とてもではないが信じられる話ではない。
 そう、普通に考えるなら。
 だが、この状況である。
 吉崎が殺され、梢や涼子が重傷を負わされた今、彼らの保護者たる榊原がこんな嘘などつくはずがない。
 仮に嘘をつくとしても、もう少しましな嘘を考えつくだろう。
 この話が嘘だとしたら――――あまりに笑えない。
 榊原は肯定も否定もせず、黙って煙草を吸った。
 そんな彼の様子に苛立ち、藤田が腰を浮かせる。
「本当なんですか、その話は」
 先程よりも強い声。
 それに対し、榊原は顔をしかめて答えた。
「事実だ」
 極めて短い返答に、藤田も斎藤も続く言葉を失った。
 榊原が語ったことは、現実味が感じられない。
 二人は普通の世界に生きる普通の人間である。
 当然、梢や吉崎も自分たちと同じなのだと思っていた。
 しかし、実際は異なる。
 倉凪梢は人間ではなく、異法人と呼ばれる非日常の中にいるべき存在だった。
 その異法人同士の戦いによって、吉崎和弥は命を落とした。
 身近に感じていた友人たちが――――実はとても遠い場所にいた。
 そのことを知らされて、素直に受け入れられるはずがない。
 それを簡単に認めてしまえば、自分たちが描いていた友人像が、蜃気楼のように儚く消えてしまう。
 楽しかった日常が、偽りになってしまう。
 そんなのは、嫌だった。
「……俺、榊原さんの言うことは信じます」
 藤田は複雑そうな表情で言った。
「でも、その事実ってのを……受け入れる自信が、ありません」
「……」
 榊原は、今度は答えなかった。
 必要以上の言葉を極力省き、後は沈黙に徹している。
 それが榊原なりの思いやりだと察しながら、藤田は浮かせていた腰を下ろす。
 自分の拳を力強く掴みながら、
「ただ、そのザッハークってのが許せないって気持ちには変わりありません」
「僕も同感です。その話が事実だとしても、大人しくしているつもりはない」
 頑なな声音で告げる二人の少年。
 彼らに対し、榊原は嘆息で応える。
「……言っただけでは、理解出来ないか」
 その言葉の意味を、藤田たちはすぐに察した。
 異法人という存在がどれほどのものか。
 その戦いがどれだけ常識を逸脱したものであるか。
 実際にその目で見なければ、伝わらない。
「あいつらの仇を討ちたいか」
「はい」
「どうしてもか」
「はい」
 駄目と言うなら、こっちで勝手にやってやる。
 そう考えながら、藤田は榊原を睨みつけた。
 吉崎はいつも愉快な話題を持ってきては、周囲を笑顔で満たしていた。
 梢は凶悪そうな目つきに反して根は善人で、一緒にいるだけで気分が良くなる奴だった。
 そんな二人をあんな目に合わせた相手。
 それが異法人だろうが超人だろうが、許すつもりは毛頭なかった。
 ……ああ、そうだ。絶対とっ捕まえて、ぶっ飛ばしてやる……!
 身体が自分のものではなくなったかのように、熱かった。どこか浮いているような感覚である。
 じっとしてはいられない。動いて何かをしたい。
 マグマのように燃え盛る意思がそうやって急き立ててくるのを、藤田は自覚している。
「榊原さん、あんただってじっとしてるわけじゃないんだろ。そいつをどうにかしようとしてるんだろ? だったら、俺にも……俺たちにも手伝わせてくれよ!」
「駄目だ」
「……っ、なんでだよ!?」
 思わず藤田は、榊原に掴みかかっていた。
「友達の仇を取りたいってのがそんなに悪いのかよ! 異法人だかなんだか知らないけど、そんなのは俺には関係ない! 吉崎が殺されたんだぞ! 倉凪があんなんになったんだぞ!? あんたは動いてるんだろ、だったらなんで俺たちは駄目なんだッ!」
 今すぐにでも犯人を捕まえて殴り倒してやりたかった。
 それなのに、なぜこんなところで訳の分からない話を聞かなければならないのか。
 理不尽だった。
 そう思う心が、藤田の理性を激しく揺さぶっていた。
 榊原は黙って藤田の言葉を聞いた。
 口を挟む様子もなく、聞き流しているようでもなく、真摯に聞き続けていた。
 やがて藤田の言葉が止まる。
 その口から、今度は嗚咽が零れ落ちた。
 榊原はそれが止むまでじっと待ち続けていた。
 やがて、辺りが静けさを取り戻すと、いつになく優しい声で言った。
「――――すまないな」
 それは親の顔だった。
 自分の子供に、本気で案じてくれる友人がいることを喜んでいる、そんな顔。
 藤田も斎藤も、それを見て口をつぐんだ。
 榊原は表情を改めて、二人に向き合う。
「だが、それはやめてくれ。悪いことだとは言わんが、お前たちには別のことを頼みたい」
「別のこと?」
「そうだ。もしお前たちまでザッハークの手にかかれば、梢の奴はおそらくもう立ち直れなくなる」
「……」
 そのとき、すぐ隣の病室から梢の呻き声が聞こえてきた。
 言葉にならない、苦悶の声である。
 だがそれがどんな意味を秘めたものかは、説明されるまでもなく分かった。
「あいつが目を覚ましたとき、支えてやってくれ」
 そう言って、榊原は頭を下げた。
「お前たちは、ただ普通の友人としてあいつと接してきてくれた。これからも、そうしてやってくれ。友人として、あいつを支えてやってくれ。それが出来るのは、お前たちだけなんだ。……頼む」
 その言葉には真摯な響きが込められていた。
 藤田も斎藤も、梢の境遇は知っている。
 かつて両親が亡くなり、親戚の家を転々としていたこと。
 そのときに虐待される日々を過ごしていたこと。
 友達らしい友達もおらず、ずっと兄妹二人だけで過ごしていたこと。
 その原因は、今まで知らなかった。
 だが、今は知っている。
 自分が人間じゃないから。
 そんな理由で、様々な人間に否定され続けた日々。
 そのときの梢は、どんな気持ちでいたのか。
 そのような日々から解放され、新しい家族を得た。
 吉崎という親友を得た。
 そして少しして、藤田や斎藤とも出会った。
 梢はいつも、友人や周囲の人間を大切にしていた。
 決して表には出さないし、そのことを指摘するとむきになって否定していた。
 だから藤田も斎藤も、その裏で梢がどんな気持ちでいたかを考えたことはなかった。
 彼にとって、友人というものがいかに得難く、そして大切なものだったのか。
 その重みを、今になってようやく知った。
「……藤田」
 斎藤が神妙な顔つきで藤田の肩を叩いた。
 長年の付き合いである。
 彼が言いたいことは、藤田にも手に取るように分かった。
「分かってる」
 心は落ち着きを取り戻していた。
 まだザッハークとかいう犯人への怒りは収まっていない。
 それでも、自分たちの行動の軽率さを自覚し、抑える程度は出来るようになっている。
「榊原さん、分かりました。俺は……俺たちは、俺たちにしか出来ないことで、あいつを助けてやりたいと思います」
 しかし、それだけで気が済むはずがない。
 藤田は続けて、感情を押し殺しながら言った。
「その代わり……絶対、犯人を捕まえてください」
 それに対し、榊原は短く答えた。
「――――承知した」

 戦いにおいて数は重要である。
 いかな使い手と言えど、何十人という多勢を相手に一人で戦うのは無謀というものである。
 まして、相手の連携が絶妙なら尚更のことだ。
「おおおおぉぉッ!」
 零次は腰を落とし、眼前に群がる敵の胴体を薙ぎ払うように、黒く肥大化した腕を振るう。
 しかし相手は即座に反応、両腕で零次の攻撃を防御しながら一歩後ろに飛び退く。
 敵は強化人間。
 人としての可能性を奪われた代償として、虎や獅子をも越える力を得た者たちである。
 身体能力だけなら、零次たち異法人より僅かに劣る。
 決して弱いわけではないのだが、彼らは理性がなく、本能だけで襲い掛かってくる。
 そのため、冷静に対処すれば呆気なく倒せるものなのだ。
 しかし、今は違う。
 その双眸に理性の色は宿っていない。
 だが、彼らの行動は異様なまでに合理的だった。
 本能だけで動く獣には、到底不可能な動きである。
「零次、強化人間って……こんなに強かったんですか!?」
 強化人間との戦いはこれが始めての亨が叫ぶ。
「話に聞いてたより、ずっと手強いですよ……!」
「文句を垂れるな。俺にとっても予想外なのだ!」
 強化人間たちの動きには、おそろしいぐらい無駄がない。
 一体ずつ相手にする分ならさして気にならないが、数が多いと厄介極まりない。
「お互いの隙を完全にカバーしつつ、こちらの死角を的確についてくる。……こんな戦い方をする強化人間なぞ、俺とて聞いたことはない!」
 しかもここは赤間カンパニーの地下。
 お世辞にも広い場所とは言えない。
 そんなところで、隙なく迫ってくるチームワーク抜群の集団を相手に、どう戦えというのか。
 強引に突破するにしても、リスクが高すぎる。
 ……その原因は、おそらく遥だ。
 彼女は強化人間たちの後ろから、絶えずこちらの様子を観察している。
 虚ろな表情は、まるで機械のような冷たさを感じさせた。
 強化人間たちは彼女を守ることを第一としている節がある。
 先ほどの発言からして、彼女がこの連中の指揮官であることはまず間違いないだろう。
「しかし……どういうことだ。彼女は機関に囚われたはず。なぜ、ここで俺たちを襲撃する?」
「何か誤解してるってことないですか? ほら、梢さんと僕らが手を組んだのは遥さんがさらわれた後。僕らがもう敵じゃないって知らないんじゃないですか?」
「……その可能性も、なくはないが」
 単純にそうだとは考えにくい。
 零次たちの名前を彼女が知っていたこと、強化人間を何らかの手段で従えていること、先ほどの発言。
 今の遥は、不自然だらけだった。
 直接彼女と話したこともない零次だったが、何かが"違う"ということだけは断言出来る。
 ……それに、あの目。
 遥の双眸からは生気が消え失せている。
 冷たい無感情の瞳。
 それはガラスのように透明で、故に虚無を思い起こさせる。
 何かがあったことは、間違いない。
「……遥!」
 強化人間を薙ぎ倒しながら零次は叫んだ。
「我々は敵ではない! 既に異法隊はお前を保護することを倉凪梢に託している! 彼だけじゃない、他にも……お前の帰りを待ちわびている者が大勢いる!」
 無事かどうかも分からない涼子の姿が思い浮かぶ。
 早くこんなところから出て安否の確認をしたい。
 そう考えると、目の前で蝿のように動き回る強化人間たちに対し、苛立ちが募ってくる。
「俺たちの邪魔をするな! いや、一緒に来い! 倉凪梢が、待ってる!」
 いけ好かない男だが、遥が一番心を寄せているのは梢のはずだった。
 この名前を持ち出せば、何らかの反応が得られる。
 そう思って口にしたのである。
 が。
「……倉凪梢。――――認識不可能」
 遥は、機械的な口調でそう言った。
 零次も亨も、その様子に背筋が寒くなったような気がした。
「倉凪梢が、分からないと言うのか……?」
「不明。思考の必要なし、と判断します」
 言いながら、遥は手を零次たちの方へと向けた。
 静かに、そして簡潔に告げる。
「――突撃」
 刹那、雪崩のような勢いで強化人間たちが一斉に二人の元に殺到した。
 最前列の一体を倒したと思えば、次の列の強化人間が肩に噛み付いてくる。
 それを一瞬で振り落とすも、気づけば懐に鋭い蹴りが放たれていた。
 零次はどうにかそれを防いた。
 が、更なる追撃として放たれた、顔面への一撃までは防ぎきれなかった。
 怒涛の勢いである。
 いくら防いだところで、きりがない。
 尽きることのない連続攻撃が、零次と亨に襲い掛かった。
「ぐっ……!」
 疲労している状態では、とても耐えられそうにない。
 強化人間は訓練した異法人には幾分劣るが、それでも身体能力と凶暴性は獅子にも勝る。
 肉食恐竜が群れで襲い掛かってきたようなものである。
 万全の状態でなければ、制しきれるものではない。
 否、万全であっても厳しいかもしれない。
 腹を爪で裂かれ、腕の皮が食い千切られる。
 視界が醜悪な怪物たちによって満たされていく。
 ……くそ、こんなところで……!
 先ほどから腹に抱えていた苛立ちは、既に爆発寸前となっていた。
 身の内から溢れ出す黒き魔力が、零次の感情を直に表していた。
「邪魔を……」
 ずっと、脳裏に浮かぶのは涼子の姿だけだった。
 早く会いたい。会って、無事を確かめたい。
 それなのに。
 なぜ、彼女の姉がそれを邪魔するというのか。
 納得出来なかった。
「するなあぁっ!」
 不服と怒りの衝撃が、零次に群がっていた強化人間たちをまとめて弾き飛ばした。
 その好機に乗じる形で、零次は怒りに身を任せ、一直線に遥の元へと飛び込んだ。
 零次の来襲に、遥の表情が驚きによって僅かに歪む。
 そんな彼女を気絶させようと、零次は豪腕を振り上げた。
 しかし、その腕が遥に振り下ろされることはなかった。
 前触れなく、零次の腕に薄気味悪い触手がからみついたからである。
 触手は上階から伸びていた。
 零次はそれを引き千切ろうとしたが、予想以上に頑丈で、余計にからみつかれてしまった。
「なんだ、これは……!?」
「これとは酷い。彼女を傷つけようとしたのも酷い。つまり、君はとても酷いということだ」
 いきなり、触手が喋った。
 零次が驚愕に瞠目していると、触手はぼこぼこと音を立てながら変化していった。
 少しずつ集まり、人間の形へと変化していく。
 零次の腕から離れた触手は、十秒も立たないうちに人間の姿になっていた。
 その姿に、零次は見覚えがある。
「牧島……!」
「ほう、その名をご存知ですか」
 そう言って、研究者の姿になった奇形の怪物は、優雅に頭を下げた。
「しかし、今はフリークと名乗っている。間違えないように、よろしく頼みますよ」
 からかうような笑みを零次に向けてくる。
 気づけば、遥は牧島の背後に移動していた。
「……彼女に何をした」
「おやおや。隊長さんと同じことを聞くんですねぇ」
 牧島の言葉に、零次の顔が若干強張った。
「隊長、だと?」
「ええ。先日ここから立ち退いてもらいました。安心してください、多分死んではいないと思いますよ」
 零次は内心、かすかに安堵した。
 柿澤源次郎は簡単にくたばるような男ではない。
 死んだと断言されれば少々不安にもなったが、この様子なら無事と見て間違いはなさそうである。
 改めて、牧島の背後の少女について尋ねる。
「……もう一度問う。彼女に何をした」
「ふふふ、さあてなんでしょうねぇ」
「ふざけてないで答えろ」
 挑発的な牧島の態度に、零次が更に怒気を膨れさせる。
 そんな零次を見ながら、牧島はおかしそうに目元を歪めて冷酷に告げる。
「――――貴方が冬塚涼子にしたことと、同じことです」
 それを聞いて零次の苛立ちは、即座にかき消えた。
「何……?」
 じわりと、嫌な汗が浮かび上がる。
 どくんと、心臓の鼓動が全身に行き渡る。
「今、なんて言った……?」
「貴方が冬塚涼子にしたことと、同じことです。と、言ったのですよ」
 言いながら、牧島は遥の長い黒髪に手をかけた。
 さらさらと流れる黒髪を弄びながら、
「これは本来、リンクという存在でした」
 恍惚の滲み出るような声で、そう言った。
「その力を最大限に扱える状態こそ、これにとっては最高なのです。そのためには、余計な記憶は邪魔だった」
 ――――俺との記憶なんて、余計なものだから。
 いつか、そんなことを口にしたのを思い出す。
「だから、これのためを思って、私は余計なものを全て封じ込めました。本当なら消し去るのが最上だったんですが、それはどうも難しいらしく、断念せざるを得ませんでしたが」
「……やめろ」
「まあ私自身にそんな力はないので、他の者に頼んだのですがね。……おや、そんなところまで一緒ですねえ」
「やめろ……!」
 零次の制止を無視して、牧島は愉快げに語り続ける。
「楽しかったですよ、貴方の葛藤は。素晴らしいほどに滑稽だ。実は貴方が気絶している間に、リンクを使って見させてもらったんですがねぇ……これがたまらなく」
「――――黙れッ!」
 牧島の言葉を遮るように、零次は高速で拳を振るう。
 零次の黒き拳は、完全に牧島の腹を打ち抜いた。
 しかし、手応えがない。
 まるで水を殴っているかのような感触に、零次は寒気を感じた。
「私を殴っても仕方ないと思いますよ? お気の毒ですがねぇ」
 零次の拳は、牧島の腹に沈み込んでいた。
 ずぶずぶと音を立てて、牧島は零次の拳を体内に取り込もうとしていた。
「なんだ、これは……!?」
「言ったでしょう、我が名はフリークと」
 フリーク。
 奇形。
 それが何を意味するのかに気づき、しかし零次は自分の推測が信じられなかった。
「奇形……いや、それどころかこれは無形か……!?」
「その通り。百点満点を差し上げましょう」
 牧島は両手を広げ、満面の笑みを浮かべる。
 その表情が崩れ、別人の顔へと変化する。
 零次を見下ろしながら、牧島は先ほどまでとは違う声で言った。
「そう、我が名、そして我が力はフリーク。常の形に囚われぬ異形の存在。故に……私には傷や痛みという形も存在しない」
 ちっ、と零次は鋭く舌打ちした。
 拳をすぐさま引き抜いて、牧島から距離を取る。
 しかし、あまり離れることは出来なかった。
 周囲は元々広くないうえに、強化人間たちによって埋め尽くされている。
 逃げ場はどこにもない。
「さて……大人しく下に戻ってもらいたいんですがね」
「冗談じゃない。俺は、必ず戻る」
「そんなに心配ですか、冬塚涼子が」
 牧島がそう言った瞬間、零次は激しい頭痛に襲われた。
 脳に直接響くような、音ならざる音が聞こえてくる。
 それはたまらなく不快な音色をしており、零次の中へと入り込んでくるようだった。
「だけど、そんな心配はするだけ無駄です」
「どういう、意味だ」
「彼女は死んだ」
 あっさりと。
 世間話をするかのような気楽さで、牧島が言った。
 それと同時に、零次の中に何かが入り込んできた。
 脳裏に、ここではない、どこか別の場所の光景が浮かび上がる。
 そこにいたのは、涼子の命を狙っていた男――ザッハークだった。
『それで、結局そちらの首尾はどうだったのですか?』
『吉崎和弥という面白い小童がいた。一般人の分際で我が力をかなり持っていった、愉快な奴だ。まあ、死んだようだが』
『冬塚涼子はいかがでしたか?』
『抵抗されたのでな。――殺しておいた』
 その一言を耳にした途端、その光景は霧散していった。
 零次は呆然とした表情で牧島を見た。
「……なんだ、今のは」
「ただの事実ですよ」
「ふざけたことを抜かすなっ!」
 零次は力の限り吼えた。
 涼子の死を、頭の中から叩き出すように。
 信じたくなかった。
 ようやく全てを話そうと決めた少女が。
 初めて本気で守りたいと思った少女が。
 既にどこにもいないなどと、信じたくはなかった。
 雪の降る公園で遊んだ日々を思い出す。
 共に商店街を賭けた時間を覚えている。
 彼女と共にいた時間は、零次にとって希望そのものだった。
 だから、認めたくなかった。
 零次は咄嗟に踵を返し、亨の元に向かった。
 彼に群がっていた強化人間を蹴散らし、傷だらけになった亨を担ぎ上げる。
 そして、牧島を睨みつけた。
「これ以上貴様らの相手などしていられん。……俺は、確かめにいく」
「どうやって?」
 牧島の問いかけに、零次は天井を見上げた。
 そのままの姿勢で、頭部を除く全てを一斉に解放する。
 まだ疲労が残っている状態で、力の解放をしすぎるのは危険だった。
 だから控えていたのだが、今はそんなことを気にしていられる気分ではない。
 翼が発する風に乗り、身体をかすかに宙に浮かせる。
 そして、
「こうさせてもらう」
 次の瞬間、零次は天井をぶち抜いて、一直線に地上へと飛翔した。
 削岩機のように地を穿ち、迷うことなく上へと飛んでいく。
 全身に激しい痛みが走ったが、そんなことはどうでも良かった。
 ……冬塚!
 激しい後悔と焦燥だけが、零次の身体を突き動かす。
 やがて全身にかかる衝撃が消え失せ、満天の夜空が視界に現れた。
 周囲に人気がないのを幸いに、零次はそのままカンパニーの壁面ギリギリを昇っていく。
 屋上に達し、フェンスの上に身体を乗せる。
「零次……榊原の家に」
 亨が苦しげに顔を歪めながら言った。
「あそこなら、何か分かるはずです……」
「分かった」
 異法隊の本拠地が潰された今、零次たちが頼れるのはそこしかなかった。
 生きていれば他の面子も集まっているだろう。
 零次としては顔を出しにくい場所だったが、行かない訳にもいかない。
 零次は夜天に両翼を広げた。
 脳裏には涼子と、そして先ほど見た遥の姿があった。
 ……あれが、俺のしたことと同じか。
 苦々しい思いを噛み締め、彼は空を駆け始めた。

 天井に空いた穴を見つめ、牧島は困ったような笑みをもらした。
「やれやれ。逃げられてしまいましたか。困りましたねえ」
 しかし、言葉ほどには困っているように見えない。
 むしろ、この不意の事態を快く思っているようだった。
 久坂零次らを捕獲してきたのはザッハークである。
 なぜ殺さず生け捕りにしたのか、その理由は牧島には説明されていなかった。
 さり気なく聞いてみたが、上手い具合にはぐらかされてしまった。
 ならば、こうしてわざと逃がすことでザッハークのリアクションを見てみるのも悪くはない、と思ったのである。
 ……そう。もしかしたら彼らが"契約者"の正体を握る鍵かもしれない。
 ザッハークは牧島のことを契約者に話すと言っていたが、それを当てにするつもりは毛頭なかった。
 黙って待っているのは律義者、あるいは愚か者である。
 牧島はそのどちらにも該当しない。利口な卑怯者でありたいと思っている。
 自分の手で契約者とやらの正体を見破るつもりでいる。
 零次たちの脱走は能動的に仕向けたわけではない。
 しかし、利用出来そうなのでわざと逃がしたのである。
 遥ではなく、涼子の方へと意識を向けさせることで。
「そう……今、リンクを失うことは出来ませんからね」
 牧島は遥の髪を離し、そのまま彼女の横を通り過ぎた。
「リンク、強化人間たちを強制睡眠状態に移行。そのまま自身も待機状態に入りなさい。地下フロアから出ることは禁じます」
「……」
「……リンク?」
 反応がない。
 完全に支配下においた現状で、こんなことは初めてだった。
 何か異常でも発生したのかと振り返る。
 しかし、遥に異常らしき異常は見受けられなかった。
 繰り返し同じ命令を告げると、今度は素直に頷いた。
 だが牧島は安心出来ない。
 元々は研究者である。
 些細なこととは言え、引っかかりを感じたら放っておけない性質なのだった。
「……後ほどザッハークにでも診てもらいますかね」
 精神支配はザッハークの魔術によるものである。
 彼は今、契約者とやらのところに向かっていて不在だった。
 今すぐ遥の状態を調べることは出来ない。
 そのことにかすかな不快感を抱きつつ、牧島は上階へと戻っていく。
 一人残された遥の口から、小さな呟きがもれた。
 しかしそれを聞いた者は、誰もいなかった。

 赤間カンパニー近くに、小さな公園があった。
 子供が遊ぶような場所ではなく、景色を楽しむための地。
 時間帯によっては恋人たちが集う、駅前市街随一のデートスポットである。
 しかし草木も眠るこの時刻、その場所に集まっているのは恋人たちではなく、三人の男たちだった。
 霧島、刃、赤根である。
「……ケッ。どうやら自力で脱出したみてぇだな」
 榊原家の方へ飛び去る零次の気配を感じ取り、赤根が吐き捨てるように言った。
 彼らは今まさに、零次たちをどう助け出すかを話し合っていたのである。
「ならあっちは後回しでいいだろ。遥はどうなんだ?」
「地下だな。久坂の野郎が助け出してくれてりゃ話は早いんだが……」
 赤根も、霧島や梢ほどではないが気配を探ることに長けている。
 零次と共にあったのは亨の気配だけだった。
 遥はいない。
「……連中もあの小娘にゃご執心だからな。そう簡単に奪還出来るとは思わない方がいいぜ。統率された強化人間の群れってのが常に近くにいるようだし。俺ぁ直接見たから分かるが、あんなのとまともに戦えば俺らでも勝機は薄い」
「そんなにか」
「隊長も逃げるのが手一杯だったぐらいだ。洒落にならねえよ」
 赤根は強い口調で言って、首を振った。
 常なら率先して無謀とも言えるほど喧嘩の売り買いをする赤根が、こんな意見を出す。
 そのことで、霧島と刃も押し黙った。
 他にも赤根は様々な情報を持ち込んできていた。
 牧島の正体、彼とザッハークの関係、そして契約者なる存在など。
「よくそんなの調べられたな……」
「奴らの会話を盗み聞きしただけだ」
「見つかったりしなかったのか?」
「直接乗り込めばぶち殺されてたかもしれねえな。だが……」
 と、赤根は人差し指を立てて見せた。
 他の指には全て包帯が巻かれているが、そこだけほどけている。
 その指先から伸びた鋭い爪の先に、小さな黒い機械が結び付けられていた。
「爪に盗聴器取り付けて、奴らの部屋まで伸ばした。こうすりゃ万一見つかったとしても、爪切り落とすだけでいいしな」
 このやり方で、ザッハークと牧島の会話を聞いたのである。
「それよりどうすんだ。契約者にしろザッハークにしろ牧島……フリークにしろ、一筋縄でいく相手じゃねぇぞ。どれから潰すよ」
「……」
 赤根と刃の視線を受けて、霧島は言った。
「今は待つ」
 告げる声は苦しげだった。
 本当はすぐにでも助け出したいのに、それを無理に抑えているような声だった。
「遥の力……その正体もまだ分からん。迂闊には近づけない。けど、このままで終わりじゃないだろう。多分近いうちに、契約者って奴が遥と接触を試みるだろう。連中はどうも、遥を使って何かをするつもりらしいからな」
「その隙を狙うってか」
「ああ。それまでに、連中への対策を準備しておきたい。赤根、お前はもうしばらく奴らの動向を見張っててくれ」
 言って、霧島は刃の方を見た。
「刃も引き続き研究機関についての調査を頼む」
「……心得た」
 それぞれが頷いて、その場を飛び去っていく。
 一人残った霧島も、すぐさま榊原家の方へと向かって走り出した。
 まずは零次と亨に現状を説明する必要がある。
 そして、強大な三人の敵を打ち倒すための対策を考えなければならない。
 離れたところにそびえ立つカンパニーのビルを眺めながら、霧島は疾走する。
 ……待ってろ。優香との約束を守るためにも、必ず助けてやる。
 例えそれで自らの命が消えるとしても、構わない。
 投げやりになっているわけではない。
 ただ、残り少ない命をどう使うかと考えたとき、それぐらいしか思い浮かばないのだった。
 約束を果たすため、彼は生きている。
 そのために、彼は今夜道を一人、駆け抜けていった。