異法人の夜-Foreigners night-

-Border Breaks-
第四十七話「罪と告白」
「あれ、零次どこかに行くんですか?」
 榊原家の玄関から出ようとする零次の背に、亨が声をかけた。
 零次は罰の悪そうな顔で振り返る。
「ここはどうも、居心地が悪い」
 先日、カンパニー地下にある異法隊支部から脱走して以来、零次はここで休養していた。
 脱走した直後に合流した霧島から、半ば強引に言い渡されたのである。
 彼は現在の状況を二人に説明すると、叩き込むようにこの家の中へと放り込んだ。
 家主の了解は取っておいたというが、家人不在のところを不法占拠しているようで、気まずいものを感じる。
 ここの家に住む者たちとは、顔をあわせていない。
 家主である榊原幻はいろいろと動き回っているらしく、帰ってこない。
 倉凪梢は右腕を失うほどの重傷で、涼子と共に幸町診療所。
 梢の妹である美緒もそれに付き添っている。
「勝手に出たらまずいですよ。僕らは留守を預かってる身でもあるんですから」
 そう。家人が誰もいない今、ここを守るのが二人の役目となっている。
 この家は既に敵に知られている場所だった。しかし、だからと言って捨てることの出来るものではない。
 いつしか帰ってくるであろう家人のために、ここを防衛する。そうしなければならないとは分かっているのだが。
「ここにいると、未だに敵地に来ているような気がして落ち着かない」
「……梢さんたちと敵対関係だったのは前のことじゃないですか」
「ああ。既に敵ではない。かと言って、信頼関係があるわけでもない」
 むしろ零次は涼子に多くの隠し事をし、遥がさらわれる原因の一端ともなってしまった。
 倉凪梢とはお互い嫌い合う仲でもある。
 ここは、零次にとってあまり落ち着ける場所ではないのだ。
「留守はお前に任せる。俺は少し周囲を見てくる」
 零次はやや声を上擦らせてそう言った。
 目がきょろきろと動き続けている。
「ははあ」
 亨がなにやら分かったような声をあげた。
「冬塚さんのことが気になるんですね?」
「いや、それは……」
 気にならないわけがない。
 フリークからは死んだと聞かされ、嘘か本当か確かめるために零次は決死の力で逃げ出してきた。
 その後、霧島から『まだ死んではいない』と聞かされたが、重傷であるらしい。
 霧島は涼子がいる診療所の場所を告げずに去ってしまったので、零次には彼女の元へ行く手段がなかった。
 生きているなら、まずは謝りたかった。
 記憶を奪うこと。その意味を、零次はあの遥を見て実感として知った。
 人の"今"は記憶の積み重ねで作られている。
 その記憶を奪うことは、その人が今まで積み重ねてきたものを崩す行為に他ならない。
 本人がそれを失うことを望んだのならともかく、零次は独断で涼子の記憶を封じてもらった。
 それが良いことなのだと自分に言い聞かせつつ、心のどこかでは引っかかりを感じていた。
 今ならはっきりと言える。それは間違いだったのだ、と。
 許してもらおうとは思わない。それでも、曖昧にしたままではあまりに不実。
 きちんと会って謝りたい。その思いが、今の零次の心を占めている。
「分かりました。ここは僕が守ります。零次は冬塚さんのところに行ってください」
「……いや、会いに行くとは言ってない。それに場所が分からないだろう」
「居場所を気にしてる時点で、会いたいって言ってるようなものですけど」
「うぐっ」
 図星をつかれ、零次はうろたえながら踵を返した。
 これ以上何かを言われる前にと、足早に榊原家の門から出る。
「とりあえず霧島に聞くか」
 確実に診療所の場所を知っているのは霧島である。
 こんなことをいちいち尋ねるのも気が引けるが、それでも零次は携帯電話をかけてみた。
 が、
「拒否された?」
 耳元に聞こえたのは、現在電話に出ることが出来ません、というメッセージだった。
 向こうが意図的に通話を回避したと見るべきだろう。
 零次からの電話だということは向こうにも伝わっているはずだが。
「忙しいのか……ん?」
 そのとき、零次の感覚が異法人の気配を捉えた。馴染みのある感覚である。おそらく霧島だろう。
 零次には梢や霧島ほどの気配察知能力はない。
 それゆえ、零次が察知出来る範囲はさほど広くない。
 つまり、相手は割と近くにいるということである。
「気配はあちらの方からか。一人ではないようだな」
 どこへ向かっているのだろうか。
 気配が進む先にあるのは――――。
「まさか、あそこか?」
 七年前、一度だけ零次も訪れたことのある場所。
 そこに気配は向かっているようだった。
「しかしなぜ今あの場所に……あそこにはもう、何もないはずだが」
 今は空き地になっている。
 零次も何度か見たことがあるからそれは間違いない。
「とにかく……俺も行ってみるか」
 電話で話せないなら、直接会ってみるしかない。
 零次は移動する気配を追い始めた。
 なぜか、自分でもよく分からないが――――気配を必死で隠しながら。

 六月も終わりに近づいて、七月に入ろうという時期。
 曇ってばかりいた空が少しずつ明るさを取り戻しつつあった日。
 晴れ渡る満天の夜空の下。
 冬塚涼子と霧島直人の前に、柿澤源次郎が姿を現した。
「……そちらは二人か」
 柿澤は異法隊本拠地にいた頃と変わらぬ、全身を黒で彩った服装だった。
 その後ろには、影のように藤村亮介が従っている。
 涼子と霧島は険しい視線を柿澤へと向けた。
 警戒、疑念、戸惑い――――それらを内包した眼差しを受けて、柿澤は目を伏せた。
 かすかな仕草ですら重々しい。
 一挙一動に厳かなものを感じさせる男だった。
「ここに来たということは……やはり貴方が」
「今更確認の必要もあるまい」
 涼子の言葉を一蹴し、柿澤は双眸を開いた。
「――――私が契約者。この事件、全ての黒幕だ」
 柿澤は弁解も言い訳もしなかった。
 はっきりと、自分が涼子たちの敵であると名乗った。
 あまりに堂々としたその態度に、涼子たちの方が圧された。
「いきなりそんなこと言われても、こっちとしちゃ意味が分からないんだけどな」
 霧島が涼子を守るようにして、一歩前に進み出た。
 柿澤は眉一つ動かさぬまま答えた。
「お前は半ば気づいていたのだろう。私が怪しいと。だから異法隊に入隊した。……違うか?」
「違わない。七年前の事件の際、付近にいて疑わしかったのはあんたぐらいだったからな。事件が起きた時期は秋風市を離れてたとか言ってたが、そのときあんたは単独行動だった。それなら、アリバイの成立ってわけにはいかないしな」
「それで、私の正体を見極めようと異法隊に入ったということだな」
「目的は他にもあるけどな。仮にあんたじゃなかったとしても、ああいうとこにいれば情報はいろいろと入ってくる。そこから七年前の足取りを掴もうと思ってた」
 しかし、霧島はなかなか柿澤の正体を掴めずにいた。
 異法隊の誰もが彼の過去、能力などを知らない。
 証拠となるものが何一つない。
 何かと探りを入れたりもしたが、上手い具合に避けられてしまうことがほとんどだった。
「それより、俺が聞きたいのは今のあんたの真意だ。そもそも、なぜこんな時期に正体を明かした」
 契約者――柿澤は、明日にザッハークらと何かをする予定がある。
 何かというのが具体的にはどういうことなのか、それはまだ分からない。
 だが重要なことであろうことは容易に察することが出来た。
 それなのに、その寸前になって柿澤は自らの正体を暴露した。
「彼女が、思い出したからだ」
 そう言って、柿澤は涼子のことを真っ直ぐに見据えた。
 眼光は鷹のように鋭く、しかし同時にどこか優しげな色を宿している。
「彼女の記憶を封じたのは私だ。もしそれが解けるようなことがあれば、こちらにもそのことが伝わるよう細工はしてある」
「それなら、なぜ私に正体を明かしたんですか?」
 柿澤にはその必要などなかった。
 にも関わらず――――七年前、この場所で、涼子たちに自らの正体を明かしてしまった。
 それも、致命的なところを。
「そもそも七年前、貴方が私の前で何も語らなければ……私の記憶が戻ろうと戻るまいと、問題なかった」
「確かにそうだ。計画上、全く余計な行動だった」
 だが、と柿澤は頭を振る。
「ああしたことを私は後悔していない」
「……」
 その返答に、涼子は押し黙った。
 柿澤の考えていることが全く分からない。
 代わりに霧島が口を開いた。
「……真実ってのを話してくれるんだよな? 俺はそいつを聞きに来た。どうもこの事件は複雑な上にまとまりがない。あんたなら、全てを知ってるのか」
「八割方。答えられる範囲でなら、お答えしよう」
「なら最初に、この事件の始まりを教えてくれ」
 霧島はやや含みを持たせたような言い方をした。
 この事件。それはいったい、何から何までを指しているのだろうか。
 その始まりというのは、いつのことを指しているのだろうか。
 柿澤の答えは明確だった。
「この地で異法隊支部を設立したとき、既に計画は始まっていた」
 柿澤はゆるりとした口調で、この事件の真実を語り始めた。

 事の起こりは、魔術の名家である泉家の崩壊だった。
 彼の一族は人の心に干渉する魔術を研究していた。
 魔術の家というのは秘密主義で、滅多なことでは外部に研究成果は漏らさない。
 だが大元が崩れれば、秘匿とされていた技術を手に入れる機会は出てくる。
 泉家の崩壊は涼子が生まれて間もない頃。およそ十七年前のことだった。
 柿澤は泉家の崩壊と、それによって散り散りになるであろう同家の技術に目をつけた。
 様々な人脈を駆使し、まず遥を見つけた。
 泉家の崩壊から四年後、今から十三年前……一九九〇年のことである。
 そのとき遥は既に研究機関の手に渡っていた。
 柿澤はそれを無理に奪おうとはせず、当時既に協力関係にあったザッハークを監視につけた。
 そして時は七年前に移る。
「一度、リンクが連れ去られそうになったことがあった。ザッハークがそれを阻止したが、遠距離からの監視ではいささか不安を感じるようになり、もう少し積極的に機関と接触を試みようとしたのだ」
「……スポンサー、ですか」
「幸い、私は資金面において恵まれていた」
 ザッハークを通しての接触は、想像以上に上手くいった。
 研究者たちは常に財政難に見舞われている。金をくれる相手を、喉から手が出るほどに欲していた。
 かと言って内容が内容である。資金提供をしてくれるような相手など滅多にいない。
 釣堀にいるような魚以上に、機関は金という餌に喰らいついてきた。
 ザッハークには、スポンサーの正体を赤間カンパニーであるかのように振舞え、と命じた。
 姿も声も見せず、常に第三者を通しての接触である。
 当たり前のように、機関は赤間カンパニーがスポンサーであると信じた。
 普通の人間なら、そもそも正体を明かさないスポンサーなど信用しないだろう。
 だが、彼らは普通ではなかった。
 異常な存在に傷つけられ、狂気を宿した者たちである。
 狂気という心は、そうした不自然さを映りにくくする。
「彼らは私の計画通りに動いてくれた」
 さして面白くもなさそうに、柿澤は低い声で言った。
「全国各地にある研究機関。私が知る全ての研究員たちを、この秋風市に集め……そして皆殺しにした。リンクを捕らえていた施設の連中も、君を連れ攫った連中も」
「それは、彼らが敵だから……ですか?」
 誘き寄せて皆殺しにする。
 柿澤がそうする理由など、他に思い当たらない。
 しかし、柿澤は小さく頭を振った。
「計画を達成するためには生贄が必要だった。彼らには、そのために犠牲になってもらった」
「世界を変革する……ザッハークは貴方の目的を、そのように言ってました」
「あのお喋りめが」
 顔をしかめて、柿澤は溜息をつく。
 涼子はその隙をつくようにして、半歩身を前に出した。
「貴方の狙いは研究機関を生贄とすること、そして遥さんを手に入れることだった。最初はそのために、異法隊を動かしたんですね」
「そうだ。ザッハークにやらせても良かったが、奴には敵が多い。あまり目立つ行動は取らせたくなかった」
「けど、そのザッハークが貴方にとって予想外の行動をした。……そうですね?」
 涼子が念を押すように問いかける。
 柿澤は鉄面日を保ちながらも、かすかに眉を下げた。
「あのスナックで君を見つけたときは、本当に驚いた」
 肯定することを隠そうとするような、曖昧な答えだった。
「貴方の計画には、私という存在は全く関わってなかった。そうなんですね?」
「……好きに捉えてくれて構わんよ」
 柿澤は話を逸らそうとするかのように、身体を僅かに横へと向けた。
「異法隊がリンクの保護に成功していたのなら、このようにややこしいことにはならなかった。隊員たちに知られぬように、私は彼女を使って計画を完遂していただろう。その後の対応策も考えていた」
「ところが最初の誤算……つまり、先輩が出てきた」
 異法隊が遥を保護に失敗した。
 それは柿澤にとって非常にまずい事態だった。
 彼の計画には、遥の存在が必要不可欠だった。
 万一彼女が何者かに害されてしまったら、それで彼の計画は失敗に終わるのである。
「さらに同時期、私という不確定要素まで出てきた。そこで貴方はザッハークを問い質したんですね」
「問い質したところで改まる奴ではないがな。幸い、君の側には霧島がいた。だから私はリンクの行方を追うことに専念した。……もっとも、フリークの方が先に見つけたようだが」
 フリークが遥を見つけたという情報をザッハークから聞いた柿澤は、やや危険な賭けに踏み出る。
 これまで表に出すことを極力避けていた、ザッハークという駒を投入したのである。
「結果としては成功だったか失敗だったか。リンクは手に入れられたが、お前に奴を見られた。おかげで今、あまりいい状況とは言えない。飛鳥井と奈良塚、そして南では神裂と御法が動き出している。間もなく北の狩り手にも情報が行くだろう。おかげで計画を早める必要が出てきた」
「俺は顔広いですからね。ザッハークの居場所を知りたがる連中は多いから、知り合い全部に教えときましたよ」
 ふん、と鼻を鳴らして霧島はかすかに笑った。
「そこであんたは急ぎ遥を手元に持って来ようとした。ザッハークはあんたの命を受け、施設の人間を皆殺しにして遥を連れ出した。だがここでも予想外のことが起きた」
「ザッハークはフリークを生かしておいた。そして、そのフリークに異法隊を攻めさせた。……つくづく扱いにくい奴だよ、あの男は」
「あんたもあんたでその襲撃を上手く利用してただろ。フリークに襲撃されたことによって、契約者じゃなさそうだって印象を周囲に与えさせた。それに、計画とやらを実行する際には邪魔であろう異法隊からも離れられる」
「それがザッハークの狙いだったらしい。問い詰めるまでもなく、私にもそれぐらいは分かったが……正気を疑う。事前に連絡ぐらいはしてもらいたいものだ」
 柿澤は心底うんざりしたのか、眉間にしわを寄せていた。
 そのとき、不意に霧島が殺気立った声をあげた。
「それで? 優香のことを狙ったのは、なんでなんだ?」
 霧島がもっとも聞きたいであろうこと。
 それは、柿澤らによって無残にも殺された最愛の人のことだった。
「そいつを聞かせてもらえないうちは、俺はあんたを帰さない」
 凄味を利かせる霧島に、涼子の方が怯えてしまった。
 その怒りを正面から受けながらも、柿澤は無表情のままでいる。
「最初、私は式泉運命の姉妹全てで実験を行うつもりだった」
 そう言って柿澤はわずかに涼子の方を見た。
「リンクを見つけたとき、彼女はまだ実験に耐えられるだけの身体ではなかった。故に、まずは八島優香を標的とした」
「……それで?」
「私は彼女を通して姉妹三人の力を知った。その結果、我が目的に使えそうなのがリンクのものだと判断した」
「それで、用済みになったから優香をあんな目に合わせたのか?」
 霧島が優香を見つけたとき、彼女は心身ともに衰弱しきっていた。
 最初は霧島のことも分からない有様だった。視力が、失われていたのである。
「式泉運命がどのような魔術式を自分の娘たちの中に構築したのか、それを知る必要があった。リンクは計画遂行に大事な駒、何かあってはまずい。故に――」
「優香で試したって言うのか」
「そうだ」
 柿澤がそう返した瞬間、涼子は隣に立つ霧島から、湯気のようなものが立ち昇るのを見た。
 昂る感情を表すかのように、霧島の魔力がゆらゆらと炎のように揺れているのだ。
 ……ここで戦う気!?
 霧島が内に宿した怒りが、涼子にもはっきりと伝わってくる。
 それでも、ここで戦うのはまずい。まだ人が寝入るには早い時間である。誰かに見られでもしたら、大変なことになる。
 しかし、そんな涼子の危惧はすぐに消えた。
 霧島の魔力があっという間に静けさを取り戻し、すぐにいつも通りになったからである。
「……自制したか。殴りかかってくるとばかり思っていたが」
「ふん、俺も大分落ち着いちまったってことだ。……七年経ったんだ、復讐心も薄れてくるってもんだ」
「ならば、なぜ動き続ける。全てを忘れ、どこかで大人しく生きるという道もあっただろう」
 柿澤はかすかに同情の念を込めて言った。
「貴様の身体は度重なるザッハークとの戦いで酷使され、既に限界を超しているだろう。残された時間は、そう多くはあるまい」
「え……?」
 柿澤の発言を受けて、涼子が戸惑いの視線を霧島に向けた。
 彼の身体が限界などと、そんな話は聞いていない。
 霧島は涼子に向けて、少しばかり罰の悪そうな表情を浮かべた。
 が、すぐに柿澤の方に向き直る。
「――よく分かったな」
「……っ」
 柿澤の言葉を肯定する霧島に対し、涼子は言葉を呑み込んだ。
 今はそんなことを話している場合ではない。
 しかし、せめてもの意思表示として、不服そうな視線を霧島に向けておく。
「そこまでして、貴様はなぜ戦う。復讐心以外で、何が貴様をそこまで駆り立てる」
「決まってるだろ。復讐心と違って、いつまでたっても薄れないものがある。そいつが俺を動かしてる」
 と、霧島は自分の胸を指し示した。
「それは――――優香への愛だ」
 恥じることなく。
 堂々とした態度で。
 誇りを持って、霧島はそう告げた。
「真実の愛は不滅なんだよ。昔はこんな言葉クセェクセェと思ってたが、今の俺はそういうクセェもので生き長らえてる。半端じゃない臭さだぜ? 七年経とうが百年経とうが千年経とうが、決して消えねぇ臭さだ」
 その言葉を聞いて、涼子はふと、姉が羨ましいと思った。
 優香の生涯は波乱に満ちて、非業の死を持って幕を下ろした。
 だが、これだけ愛されていたのだ。
 決して、不幸せなどではなかっただろう。
 柿澤は霧島の言葉を受け、表情を曇らせていた。
「愛、か」
 視線を上へと向けて、柿澤は小さく呟いた。
 星空がよく見える空。
 そこに、ここにはいない誰かを思い描いているような、そんな眼差しだった。
「貴方が動いた理由も、それなんじゃないんですか?」
 自然と、涼子は声を出していた。
 柿澤が夜空の中に誰を見出しているのか、なんとなく想像がついたからである。
「貴方は七年前、私の前でこう名乗りました」
 柿澤は咄嗟に涼子へと視線を戻した。
 その顔には、先ほどまでにはない緊張感が表れ出ている。
 それを真っ直ぐに受け止めながら、涼子は七年前、この場で受け取った告白を返す。
「我が現名は柿澤源次郎。そして、その真名は――――」
 次の言葉は、涼子と柿澤が同時に発した。
 柿澤源次郎などという偽りの名ではなく。
 異法隊隊長などという肩書きを持つ者でもなく。
 契約者などという、彼の一面しか表していない称号でもない。
 ただ一個の人間としての、彼の本当の名。
 それは。
「――――久坂源蔵」
 告げた瞬間、涼子には、周囲の空気が凍りついたような気がした。

 最初に口を開いたのは霧島だった。
「久坂、か。妙な偶然もあったもんだな」
 偶然などではないんだろう、と言いたげな様子だった。
 涼子も概ね、霧島と同じ気持ちである。
「偶然の一致……なんかではないと思います」
 涼子はつい先日まで忘れ去っていた、七年前の零次との思い出を脳裏に浮かばせた。
 彼の家族はもういない、という話を聞かされた。
 それから後、母と妹と一緒に雪山へ逃げたが、そこで二人は亡くなったという話も聞いた。
 当然のように、涼子は質問した。
『零次君の、お父さんは?』
 零次は首を傾げながら答えた。
『父さんは、ずっと前にどこかに行ったきりなんだ。顔もよく覚えてない』
 母と妹は死んだが、父親がどうなったのかは零次も知らなかった。
 だから、例えば。
 身近にいても、気づかなかった可能性は充分にある。
「貴方は……零次さんのお父さんなんですね」
「……」
 柿澤は口元をきつく結び、顔をより厳しいものにした。
 口に出して認めるつもりはないのだろう。
 しかし、その態度はなによりも雄弁に、涼子たちに真相を伝えた。
「零次さんは、大勢の人に迫害を受けたと言ってました。貴方の目的は、それらに対する復讐なんじゃないですか? 家族を奪った者への――――」
「……知った風な口を利かないでもらえるかな」
 丁寧な口調に凄味を利かせながら、柿澤は涼子の言葉を遮った。
「そんな馬鹿げた復讐があると、君は本気で思っているのか? 仮に私がそれを望んだとしても、誰を殺せばいい? 対象は大衆という責任者も定かではない有形無形の者たちだぞ」
「……そんな風に言うんだったら教えてください。貴方の動機、そして目的を。"私の家族"に手を出した以上、貴方はそれを私に話す義務があります」
 涼子も引き下がらず、柿澤を真っ向から睨み据えた。
 両者の視線がぶつかり合うこと数十秒。
 柿澤はそのままの状態で、静かに語り始めた。
「動機は単純だ。冬塚涼子、君とてここまで関わったのだからそろそろ気づいているだろう」
「何を、ですか?」
「我々のような存在が、この世界でどれほど生きることに苦労しているかを」
 それは分かる。
 涼子は普通の人間だから理解しきっているとまでは言えないが、彼らの立場や苦しみは間近で知った。
 周囲の人間にことごとく迫害された結果、家族を失い天涯孤独となった久坂零次。
 両親が亡くなって後、親戚筋をたらい回しにされ、そのとき虐待を受け続けた倉凪梢。
 両親に見捨てられ、流浪の身となった矢崎兄弟。
 涼子の知る、あるいは出会った異法人たちは、皆少なからずそういった過去を抱えている。
 彼らにとっては、世界が敵なのだ。逆に言えば、彼らは世界から敵として見られているようなものである。
「私はそんな現状を打破したいと願った。そのために家族の下を離れ、各地の異法人たちの様子を見て回った。だが結果は想像以上に悲惨だった。何十人もの人間に追い回される子供、気味悪いという理由で攻撃を受ける老婆、迫害に巻き込まれて家族を見放す者――――我ら異法人は全てそのように扱われてきた」
 現状打破の困難さを痛感した柿澤は、その方法を模索しながらも家族の元へ戻った。
「だが、戻った私を出迎えたのは妻と娘の死という現実だった。息子はどうにか生き延びていたが、心に深い傷を負っていた。生きることに疲れ果てた息子の姿を見たとき私は決意したよ。どんな手段を使おうと、無間地獄に落とされようとも、早急にこんな世界はなんとかせねばならないと」
 柿澤の声には、先ほどまでには感じなかった熱があった。
 出来るだけ感情を抑えようとしているものの、どうしても抑えきれないようだった。
 それだけのやるせなさ、現状に対する不満が、柿澤の中でくすぶり続けていたのだろう。
「……私はリンクの力と活用法を研究し、目的を達成する方法を確立した。あとは実戦が待つのみだ」
「遥さんの力を使って……何をするつもりなんですか?」
「世界を変える」
 柿澤は深い決意を込めた一言を放った。
「集合無意識というものを、君は知っているだろうか」
「……ユングが提唱した、人類全体に共通する無意識のことですか?」
 地域・国などの違いにも関わらず、人がイメージするものには一定の法則がある。
 そうした共通点は人類全体が共有する無意識の中から沸き上がってくるものだ、というもの。
 それがユングの集合無意識である。
「魔術師たちはそれを"認識集合体"、あるいは"幻想"と呼ぶ。人類全体の思想によって創られ、不可視の現象――神秘や人の心などに影響を与えるものだ」
「それが?」
「リンクの力を使って私はその幻想へとアクセスし、支配権を獲得する」
「……なんですって?」
 涼子は耳を疑った。
 人類全体の無意識に影響を与えるであろう概念。
 それを柿澤は支配すると言った。
 つまりそれは、
「貴方は、全人類の無意識……心を支配しようって言うの!?」
 隣の霧島も絶句していた。
 化け物を見るような目つきで、柿澤を見据えた。
「正気か隊長!?」
「私は至って正気だ。無論、それは簡単なことではない。リンクの力は他者と自分とで不可視の要素を共有するというもの。それだけでは、世界の"幻想"まで達することは出来ない」
 しかし、と柿澤は頭を振る。
「そのための準備は整った。"世界"を敵に回す覚悟もある」
「そんなことして……貴方はどうするつもりなんですか?」
 全人類の無意識を乗っ取る。
 それは柿澤が言うように、世界全てを敵に回す行為に等しい。
 そこまでして、彼はどうするつもりなのか。
「私の願いは単純だ。人々の無意識下にある、異法人への敵意。――――それをまとめて取り払う」
 だが、と柿澤は少し付け足した。
「どう手を尽くそうとも、世界を変革するなど禁忌である魔法に等しい行為。おそらく、事が成るか成らぬかのうちに、我らは滅びることになるだろう」
「それって、まさか……」
 そのとき涼子は、柿澤の中にかすかに芽生えた感情に気づいた。
 決死の覚悟の中に隠された、申し訳ないという感情に。
「――――我が計画が発動すれば、その瞬間に私とリンクの死は決定的なものとなろう」
 柿澤の計画が発動すれば、遥は死ぬ。
 その事実に、涼子はどうしようもない焦燥感を抱かずにはいられなかった。
「そんな……馬鹿なこと!」
「だが計画が成功すれば、零次たちのような者がいなくなるッ!」
 涼子の抗弁を、柿澤は一喝した。
 そこには、長きに渡る苦悩の果てに決断を下した重みがあった。
 涼子では反論など出来ないくらいの重さだった。
「我らの存在を否定する者たちがいなくなる! 君には分かるまい、我らはこの世界で"普通に暮らす"という当たり前のことさえ満足に出来ずにいる! その苦しみを、これから生まれてくるであろう後代の者たちにも味合わせろと言うのか!?」
「そ、それは……」
「確かに犠牲は出る! それでも、たった二人が死ぬことで、それとは比べ物にならないぐらいの者たちが救われるのだ!」
 そこにいたのは、鉄面皮を保ち続けていた柿澤源次郎ではなかった。
 彼は、傷つき虐げられてきた異法人たちの代弁者だった。
「私は既に多くの犠牲を出してきた。君からすれば私は悪逆非道の徒だろう。だが……どれほど君に怨まれようと、例え世界全てが私の業を非難したとしても、私は犠牲にしてきた者たちのため、立ち止まることは出来ない!」
「……だがそんなとき、"本当に予想外の要素"が出てきた」
 霧島が、涼子を庇うような姿勢を取りながら言った。
「それは――この嬢ちゃんだ。違うか?」
「……」
 柿澤は溢れ出ていた感情を押さえ込み、再び元の鉄面皮を作り上げた。
 しかしそこには、ほんの僅かだけ、逡巡があるようにも見えた。
「確かに俺らにとって、この世界はひどく生き難い。それでも、世界全てが俺たちを否定してるわけじゃない」
 そう言って霧島は、涼子の頭を乱暴に撫でた。
「家族だって理由だけで遥を助けようと異法隊に乗り込む。異法人を前にしても対等に接する。そして――――世界全てに見放されかけていたあんたの息子を救った」
「……」
「そんな嬢ちゃんを見て……あんたには迷いが生じたんだ。だが多くの犠牲を出した以上、もう後に退くことは出来ない。だから、自分のことを止めてくれる存在を期待した」
「……よく口が回る」
「だけど当たってるって自信はある。少なくとも、そう的外れなもんじゃねぇだろ」
 霧島の言う通りだとしたら、柿澤の行動にも納得がいく。
 柿澤が七年前、涼子に自分の真名を聞かせたのも。
 彼が涼子のことを殺そうとせず、今日まで生かし続けたのも。
 もう自分では止まれないから。
 自分以上に正しい答えを持つ者が、自分を止めてくれることを期待しての行動だったのかもしれない。
「……くだらぬ感傷だ」
 柿澤は踵を返しながら呟いた。
「君に真名を告げたのは気まぐれ。殺さなかったのは単にその必要性を感じなかったから。ただ、それだけのことだ」
 その背中は少しずつ離れていく。
 涼子は後を追おうとして、不意に気づいた。
 自分の身体が、一歩も動かないということに。
「ちっ……これがあんたの力か」
 霧島も涼子同様、動けずにいるらしい。
 柿澤は振り返ることなく、短い返答をよこした。
不可視の引き手(インビシブル・プレッシャー) 。引力を操る力だ」
「なるほど……力の方向性を調節して、身動き封じるなんてことも出来るわけか」
「この場で危害は加えない。ただ後をつけられても困るからな、今しばらく辛抱願いたい」
 そのまま去り行く柿澤の背中に、涼子は震える声をあげた。
「どうしても……やるんですか?」
 それに対し、柿澤は少しだけ振り返った。
「愛と同じく、飢えというのも満たされぬ限り衰えることはない。私は、多くの飢えと犠牲を背負っている。……もはや止まれぬよ」
 やがて柿澤の姿は、夜の闇へと消えていく。
「――――次に会ったときは、もはや容赦はしない」
 その言葉だけが、後に残った。

 柿澤の後ろに控えていた藤村は、少しだけその場に残っていた。
「藤村、お前はどうなんだ? 隊長に着いて行くのか」
「……ああ。俺は隊長に返しきれない御恩がある。命ある限り、何があろうと俺はあの人に着いて行くと決めた。だが……」
 藤村はそう言ったものの、表情には迷いの念が色濃く浮かび上がっている。
 彼はしばらく迷った後、涼子に向かって頭を下げた。
「冬塚さん、どうか……隊長を止めてください。きっとあの人も、このまま迎えるであろう結末は望んでないでしょうから」
「私は、でも……」
 柿澤が背負っているもの。
 その重みを感じて、涼子は弱気になっていた。
 涼子はあれだけの思いを持って行動したことなどない。
 柿澤の前に立っていると、自分なんかが文句を言っていいのかどうか不安になってしまう。
「冬塚さん。隊長の言っていることに臆する必要はありません。貴女にも、家族を守りたいという願いがある。隊長が何を背負っていようと、貴女が抵抗してはいけない理由にはなりません」
「……!」
 そうだった。
 涼子はいつのまにか、柿澤の気迫に負けて自分のことを見失っていた。
 柿澤がどれほど大義名分を掲げようと、そのために遥を犠牲することなど認められない。
 残された、たった一人の家族なのだから。
 それは涼子にだけ言えることではない。
 計画が遂行されれば、柿澤は自分も死ぬと言っていた。
 そんなことも、認めることは出来ない。
 彼だって――――零次にとっては、残された唯一の家族なのだから。
「ありがとう、藤村さん」
 涼子は礼を言った。
 頭も下げたいところだが、身動きの一切を封じられているため、それは出来なかった。
 藤村は疲労の色濃い表情に、かすかな笑みを見せた。
「……それでは。互いの健闘と、悔いのない結末をお祈りしています」
 そうして、藤村の姿も闇の中に消えていった。
 涼子たちが動けるようになったのは、その直後だった。

 その場に立ち会った四人全員が気づかなかった。
 互いに相手へと意識を集中させていたからだろう。
 少しばかり離れた家の屋根。
 そこに、五人目がいたことを。
 涼子たちが自由を取り戻したとき、既に五人目の影はそこから消え失せていた。