異法人の夜-Foreigners night-

-Border Breaks-
第四十九話「繋いだ手」
 日中、駅付近の市街地は人が多い。
 赤間カンパニーのビル周辺にも、出入りするサラリーマンたちの姿があった。
 ビルの正面には噴水があり、涼子たちはそこからカンパニーを見上げていた。
「今のところ特に目立った動きはないわね」
「ああ、気配も感じられないな。もっとも、異法隊本拠地は地下深くだ。誰かいたとしても、さすがにこっからじゃ感知出来ねぇ」
「どうするの?」
「赤根からの連絡待ち……と言いたいところだが時間が惜しい」
 霧島は時計を見た。
 彼らがここに到着してから、まだ数分も経っていない。
 だが霧島は不安なようだった。
 今このときにでも、柿澤たちによって儀式が行われている可能性はあるのだ。
「俺は市中の探索に出る。状況的に秋風市から出てるとは思いにくいし、もしかしたら何か見つかるかもしれないからな」
 人類全ての無意識などというものに接続する、大掛かりな儀式。
 そんなものを遂行するには、相当の準備をしなければならない。
 柿澤は異法隊隊長としての仕事のため、私用で秋風市から離れたことはなかった。わざわざ遠方に出向いてそんな仕掛けを施すとは思いにくい。ザッハークを使えばそれも不可能ではないが、あまり良い方法ではない。多くの敵を持つザッハークに、秘密裏に進めるべき作業を任せるのはリスクが高すぎる。計画が露呈する可能性が高いからだ。
 それに、現在秋風市周囲の都市にはザッハークの敵といえる者たちが多数集まっている。
 秋風市から出ようとすれば、その時点で一騒動起きているはずだった。
 これは霧島の情報操作の成果である。彼はザッハークを敵視している組織、知人などに片っ端から情報を送ったのである。
「直兄、私たちは?」
 美緒が疑問の声を上げた。
 涼子と美緒は霧島と共に行動する手筈になっている。
 だが霧島が本気で動くことになったら、涼子たちはおろか刃や亨でさえも追いきれないだろう。
「お前たちはここに残ってろ。何かあったらきちんと連絡するからよ」
「うん、分かった」
「……聞き分けのいいお前を見てると、なんだか妙な気分になるよなぁ」
 霧島は顔をほころばせた。
 張り詰められた空気が和らぎ、一同の顔にかすかな微笑が浮かび上がる。
 もっとも、美緒だけは膨れっ面だった。
「ぬぬぅ。ヤザキン、今笑ったなぁっ!」
「え、僕かよ!? 他の皆だって笑ってたじゃないか!」
「ヤザキンの笑い方がなんかむかつくのっ!」
「横暴だ、この猛獣女!」
「騒ぐな阿呆」
 言い合いを始めかけた二人の脳天に、榊原の鉄拳が振り下ろされた。
 まともに喰らって二人は揃って頭を抱える。
「うちの弟が申し訳ない」
 刃も珍しく、いたずらっぽい表情でそんなことを言っていた。
 涼子はその光景を、どことなく懐かしい気分で見ていた。
「嬢ちゃん」
 と、霧島が小声で話しかけてきた。
「ヴェーは持ってるな」
「うん、使い方も覚えてるわ」
「気をしっかり持てよ」
 頭をポンポンと叩かれる。
「どんな理想を掲げようと敵は敵だ。どっちが正しいとか間違ってるとか、そんなことを悩むのは戦いの前か後にしろ。戦うと決めたなら、戦う目的を貫き通せ」
「え、いや」
「昨日隊長と会ってから、覇気がなくなってたからな」
 霧島の言うように、昨日から涼子の気分はどこか沈みがちだった。
 涼子にとって、たった一人残された肉親が遥だった。
 そのことに気付いてから、坂道を転げ落ちるような勢いで涼子は動いた。
 だが下り坂が終わり、柿澤という上り坂が目の前に現れて、涼子の勢いは止められてしまった。
 そこから動き出すには、自分で坂を上るだけの力と意思が必要となる。
 霧島は涼子の頭からそっと手を離し、踵を返す。
「義兄からの忠告さ。ありがたく受け取ってくれ」
「……うん」
 戦う理由ならある。
 実感は薄いが、きちんと涼子の胸の内に生き続けている。
 残されたたった一人の家族を助けたい。
 それはまだ現実感を伴わない感情だけの目的だった。
 だが、譲ることは出来ない。
 その思いは、決して偽りのものではないのだから。
「霧島さん、ありがとう」
 涼子の呟きに、霧島は背を向けたまま片手をあげて応えた。
 そして、そのまま歩き出そうと一歩踏み出す。
 そのとき、電話の音が鳴り響いた。

 泥に塗れた半生だった。
 血に塗れた半生だった。
 赤根甲子郎は薄っすらとした意識の中で、そんなことを思い出していた。
 物心ついたとき、彼は路上で生活していた。
 ゴミを漁って糧を得た。
 盗むことで糧を得た。
 知識は路上仲間の物知り親父から得たし、戦い方は日々の闘争で知ることが出来た。
 そんな自分の住む世界が、普通の人間のものとは違う場所にあることも知った。
 異法人と人間の違い、ではない。
 もっとシンプルな、貧富の差だった。
 赤根は自分の家族を知らない。
 それでもどんなものかは想像がつく。
 自分が路上に放り捨てられていたことを考えると、金か人格、あるいはその両方が貧しかったのだろう。
 路上仲間たちは富める者たちを羨むと同時に憎んでいた。
 自分たちが飢えているのを知りながら、綺麗な服を着て目の前を素通りする人間たち。
 自分たちのことをいない者として扱い裕福な者たち。
 うぜぇ。
 むかつく。
 ぶっ殺してやる。
 ――ケッ、くだらねぇ。
 口先だけで吼える仲間たちを、赤根は冷ややかな目で見ていた。
 彼は一つの信念を持っていた。
 それは、気恥ずかしくて陳腐すぎる、他人にはとてもではないが言えそうにないものだった。
 けれど、それだけは絶対に失くすまいと誓ったものでもあった。
「終わりかな。脆いねぇ」
 耳障りな声で、赤根の意識が現実に引き戻された。
 ここは異法隊隊長である柿澤の専用部屋。
 そこには大量の脳が保管され、綺麗に並べられていた。
 総数はいくつか見当もつかないが、最悪五桁を突破しているかもしれない。
 物が物なので、あまり冷静に数えてみる気にはなれなかったが。
 今、彼は仰向けに倒れていた。
 左右には脳が保管されたポッドが並んでおり、何か見られているような気がして落ち着かない。
 赤根の異法は己の爪を自在に操る、というものだった。
 しかし、敵はその身体の全てが変幻自在である。
 赤根がいくら爪で切り裂いても、次の瞬間には何事もなく元に戻ってしまう。
 あらゆる物理攻撃が無効化される相手に対し、赤根は無力だった。
「ふむ」
 その敵――フリークは、何かを試すような顔つきで手を赤根の方に突き出した。
 次の瞬間、フリークの爪だけが伸びて、赤根の両足に突き刺さる。
「……っ!」
「なんだ、真似事なら僕にでも出来るものだな」
 痛みに顔を歪める赤根と、それを全く無視して嬉しそうな表情を浮かべるフリーク。
 それが、この二人の実力差だった。
 フリークは爪を引き抜き、付着した血をぺろりと舐める。
「良い味だね。泥臭い、けれど気持ちの良い味だ」
「てめぇは、なんなんだ……!」
 フリークの呟きを無視して、赤根は掠れた声をあげた。
「ここにあるのが、研究者の脳なら……てめぇは、なんだってそんなもんを守ってやがる……!?」
「うん?」
 フリークは、心底不思議そうに首を傾げた。
「何かおかしいかな?」
「おかしいに、決まってる、だろうが!」
 叫ぶと同時に、痛みを堪えて起き上がる。
 立っているだけで全身が痛む。意識もふらふらとしていた。
「大体てめぇはなんなんだ。柿澤隊長とザッハークに仲間を皆殺しにされて、それで平気な顔して奴らと手を組むなんざ、正気とは思えねぇ」
「ん、ああ。それが不思議なのか」
 フリークの同胞たちは、柿澤の目的を叶える為に殺された。
 その結果が、この光景である。
 それを見て何とも思わないフリークの神経は異常としか思えなかった。
 しかもフリークは、柿澤に頼まれてこの場所を守っているらしい。
「俺には、とてもじゃねぇが理解出来ねぇな」
「そうかい。でもねぇ、そんなに不思議なことじゃないんだよ」
「何?」
「君は感じたことはないかな。仲間、同胞、友人……そんなものは全て幻に過ぎない、と」
「……」
 ないと言えば嘘になる。
 路上生活を営んでいた時代、路上仲間は状況次第ですぐ敵になった。
 一つきりのパンを得るために、えぐいやり方で友人を蹴落とす連中を沢山見てきた。
「僕にとって、機関の連中は大して大事なものじゃなかった。この中のどれかに含まれているであろう、僕の父を含めてね」
「ケッ、だから平気だと?」
「そうだけど。それ以上の理由がいるのかい?」
 赤根は答えなかった。
 何かを言ったところで無駄だろう。
 この奇形には届くまい。
「大体彼らは既に死んでいる。今更大事にするよりは、有効活用した方がいいだろう。柿澤源次郎の儀式による世界の改変。それを実行するには、これらが必要だ。必要である以上、守らねば成らない」
「それだけかよ」
「……ならば逆に聞こう。君はどうして僕らの邪魔をするんだい? 君にはその理由なんてないだろう」
 確かに、赤根は今回の事件に関してはほとんど部外者だった。
 事態の中心にいるのは冬塚涼子や霧島直人、それにリンクと呼ばれたあの少女。
 それに割と近い位置にいるのが、久坂零次や倉凪梢たちである。
 赤根は中心からは程遠い。異法隊に属していたということだけが僅かな繋がりだった。
「何か目的があるようにも見えない。柿澤らと違う理想を追っているわけでもない。さて、君は何を思ってここにいるんだろうね。これでも好奇心が強くてね、元・研究者だし。リンクがいればいいんだけど、今はいない。教えて欲しいな、君の心を」
「ケッ、気色悪い笑い方するんじゃねぇよ。軟体生物が」
 赤根はフリークに向かって毒づくと、苛立たしげに唾を吐き捨てた。
「俺がここにいる理由? そんなもん、てめぇには分からないだろうよ」
 理想だろうと何であろうと、そのために他者を犠牲にする連中には理解出来ないだろう。
 日々を生きるだけで精一杯だった、取るに足らない存在の心など。
 卑怯と言われようと、不様と罵られようと生きることに必死だった者のことなど。
 そんな境遇にあった者が美味い飯を食ったときの感動を、どうして理解出来るだろう。
 たった一度だけの、あの晩餐。苛立たしげな表面の裏に、赤根が何を思っていたかなど、誰にも分かるまい。
 そして――――それでいいのだと思う。
「問答するつもりはねぇ」
 赤根はそう言って両手を顔の前で交差させ、十の爪を繰り出した。
「くたばれ糞野郎……!」
 咆哮と同時、十の爪が赤根の指から離れる。
 赤根の手から離れた爪は宙を自在に飛び回る。
「ほう、分離状態でも操作出来るのか」
 そう呟くフリークの身体が、次々と切り刻まれていく。
 にも関わらず、その表情に苦痛の色はない。
「まだだッ!」
 宙を高速で飛び回る赤根の爪が、更に細かくなっていく。
 小さな花弁程度の大きさになった爪が、紙吹雪のようにフリークを覆いつくす。
「これが君の奥の手か」
「――――無限爪舞。絶えることなき刃、てめぇに耐えられるか……!」
 無数の爪がフリークに襲い掛かり、その身体が次第に削り取られていく。
 普通ならば、爪が飛び交う空間には鮮血がほとばしっていただろう。
 だがフリークは血液を有していないらしい。身体が少しずつ減っていくだけだった。
 攻撃をしている赤根の方が苦痛を感じているようだった。
 あちこちを切断され、首から上だけの状態になったフリークがせせら笑う。
「あまり無理はしない方がいいと思うよ。君、まだ本調子じゃないんだろう。それにダメージも深そうだ」
「うるせぇ!」
 赤根は爪をフリークの顔に集中させた。
 合計百を越える刃によって、フリークの微笑は粉微塵になる。
 それでも、フリークの気配は依然として消えていない。
 赤根は息を荒げながら、周囲に視線を向けた。
 フリークの残骸が散乱し、赤根の爪は力を失って地に落ちる。
 動くものはない。断続的にゴボゴボという音がポッドから聞こえてくるだけだった。
 やがて、フリークの気配が薄れて消えた。
「……やったか?」
 その瞬間。
 ――――突如、赤根の喉と胸が背後から串刺しにされた。
 悲鳴を上げることも出来なかった。
 瞬間的に衝撃が走り去り、身体が急速に冷え込んでいく。
 首を貫かれているから、後ろを見ることも出来ない。
「てめ、ぇ」
「あの程度では僕はやられないよ。コアを破壊されない限り、どんな形になろうとも蘇る」
 赤根の前に散らばっていたフリークの残骸が、ずるずると音を立てながら声のする方へと集まっていく。
 確認は出来なかったが、背後でフリークが元の形に戻りつつあるのは分かった。
「コア、だと?」
「ああ。それが残っていれば、どれだけ細かく切り刻まれようと、焼かれて灰になろうと、僕は必ず復活するのさ」
「ケッ。そこまでいくと、もう科学じゃねぇな」
「当然だよ。僕の力は魔術によるところが大きい。他の技術もいくらか取り入れてはいるがね」
「……そうかい」
 赤根は前のめりに倒れ伏した。
 身体はもう動かない。胸の辺りが空っぽになったような気がした。
「冥土の土産に、聞かせろ。隊長たちは、どこ行きやがった」
 カンパニーのビルには、それらしき人影は見当たらなかった。
 零次たちが見たという大量の強化人間、それを率いる遥もいない。
 ということは、儀式は別の場所で行われるということだ。
「生憎とそれは僕も知らない」
 肩を竦める気配がした。
 フリークは心底残念そうな声で言う。
「完全には信用されていないんでね。まぁ見当はつくけど」
「見当……?」
「柿澤らの儀式は相当大掛かりなものでね、かなり広い場所を必要とするらしい。加えて邪魔が入らないよう、あまり人目のつかない場所が望ましいだろう。そして柿澤・ザッハークの両名が儀式の準備をしやすかったであろう場所……これらの条件を合わせれば、答えは自ずと出てくる」
「……なるほど」
 赤根にも分かった。
 フリークが挙げた条件を兼ね備えている場所はそう多くない。
「よく分かった。礼を言うぜ」
 霞みゆく意識の中で、赤根は精一杯の皮肉を声に込めた。
 その物言いに引っかかりを感じたのだろう。フリークが怪訝そうに眉を潜める気配がした。
 そんなフリークにも見えるように、赤根はあるものをポケットから放り出した。
「――――」
 それを見て、フリークが息を呑んだ。
 投げ出されたのは携帯電話。
 通話中とあり、相手は霧島直人になっている。
 咄嗟にそれを拾い上げようとしたフリークの脳天に、銀の槍が突き刺さった。
 フリークにダメージはない。ただ、驚愕はあった。
「遅ぇんだよ……へっぽこ」
「これでも急いで来たんですけどね」
 赤根の軽口に応じる声は、矢崎亨のものだった。
 彼の周囲には、金・銅・鉄・錫の球体が浮かんでいる。
 フリークの脳天に刺さっていた槍も亨の手元に戻り、やがて他の金属に並んだ。
 亨は携帯を持っていた。
 フリークに見せ付けるように、画面を突き出す。
 そこには受信メールが表示されていた。
 差出人は赤根甲子郎。宛先は霧島、矢崎刃・亨、零次らである。
 内容は至極単純。
『隊長室フリーク 隊長と蛇、遥不在』
 急いで打ったのが丸分かりの簡潔な文章。
 それでも赤根には、フリークと遭遇してから携帯でメールを打つ余裕などなかったはずだ。
「いつのまに……」
 フリークは言いかけて気付いたらしい。
 赤根の口元がにやりと歪む。
「無限爪舞じゃ、てめぇを倒せない……んなこたぁ、分かってた。ありゃ、目くらましだ」
 視界を覆いつくすほどの爪。
 あれは攻撃のためのものではなく、フリークの意識をそちらへと向けさせるものだった。
 フリークは驚愕する。自分が出し抜かれるとは思っていなかった。
 さらに次の瞬間、彼は天井から降ってきた巨漢の一撃で、右半身を粉砕された。
 よろめくフリークを確認してから、亨が赤根の元に駆け寄った。
「大丈夫ですか、赤根……!」
「さぁな」
 赤根の身体からは、血が大量に失われていた。
 身体の中身が空っぽになったような錯覚を抱く。
 赤根は静かに目を閉じながら、自分が不思議と満足していることに気付いていた。
 幸せそうな奴らを引き摺り下ろそうとするのは、心が貧しい連中だ。
 そんな連中は気に入らない。相手を引き摺り下ろす前に、自分で這い上がろうとは思わないのか。
 俺は違う。そんな連中とは違う。そういう風に、なってやる。
 子供の頃に決めた、子供じみた誓い。
 今になってそんなものを思い出したのは、なぜなのだろう。
 いつしか荒みつつあった心も、ここ最近では落ち着きを取り戻していた。
 常に周囲と自分に不満をぶつけていた赤根も、ようやく満足出来ることを見つけたというのだろうか。
 それは、赤根自身にも分からない。
「あーあ」
 亨に抱えられながら、赤根は小さな声で呟いていた。
「また、美味い飯が食いてぇ、なぁ……」
 脳裏に浮かんだ情景にいたのは、赤根一人ではなかった。

 零次は戸惑っていた。
 柿澤やザッハークらの追跡をしていたはずなのに、いつのまにか奇妙な場所に迷い込んでいたのである。
 気配を悟られぬよう、充分過ぎる距離を取って尾行していた。
 柿澤がザッハークらから離れ、一人になるのを待つつもりだった。
 そこで、話をしようと思っていた。
 ……あの人が、冬塚の両親を殺し、姉を死に追いやった。
 それだけではない。
 涼子たちとの会話から察するに、柿澤源次郎の正体は――。
 ……俺の、父さん。
 父に関する記憶はほとんどない。
 物心つく頃にはもういなかった。
 母に尋ねても曖昧な答えしか返ってこなかった。
 ただ、父について聞かれたときの、妙に寂しそうな母の笑みだけが印象的だった。
 一日を生きることに必死だった幼年時代。
 涼子に対する罪の意識に駆られ、闘争に明け暮れていた少年時代。
 父のことを考えるゆとりなど、生活の中にはほとんどなかった。
 だから、あの晩の会話は不意打ちに近かった。
 しかし嬉しさはない。心苦しさばかりが募っていく。
 涼子の不幸の元凶は柿澤だった。
 零次も知らず知らずのうちに、彼の手伝いをしていたようなものである。
 ただでさえ彼女に対し負い目を感じていたというのに、柿澤のことまで出てくるとどうにもならない。
 とてもではないが、彼女の前に顔を出すことは出来なかった。
 ただ、零次は柿澤が自分の父であると確信したわけではない。
 だからまずは会って、そのことを問い質したかった。
 ついで儀式の中止を訴えようと思っていた。
 柿澤たちは深い森の中へ入っていった。
 零次もその後を追ってきていたのだが、どうやら見失ってしまったらしい。
 否。
「これは……違う」
 柿澤たちを見失う前後から、周囲の空気に変化が生じていた。
 決して嫌なものではない。ただ、優しい痛みを伴う懐かしき匂いがした。
 森をいくら進めども、柿澤たちに追いつく気配はない。
 見つかることを覚悟の上で思い切り疾走してみたが、それでも追いつけそうになかった。
 それどころか、周囲の風景にほとんど変化がない。
 唯一の変化は、徐々に視界に広がっていく白。
 夏場だったはずなのに、零次の周りは少しずつ雪によって埋められていった。
「――――隊長の邪魔をさせるわけにはいかない」
 不意に、どこからか声がした。
 聞こえたのではない。聴覚を通さず、直接脳に語りかけてくるような声だった。
 この声に零次は聞き覚えがある。
「藤村かッ!」
 零次の叫びに対し、頷くような気配がどこかからした。
 しかし、あくまで姿を見せるつもりはないらしい。
「零次。君の心は隊長に対する憤りと疑念とに満ち溢れている。それはもっともだと思うし、本来俺が文句を言える筋合いじゃない。――――だが今だけは駄目なんだ」
 森が開けてくる。
 すっかり冬の世界と化した森の先にあったのは、一つの家。
 紅蓮の炎に包まれる、零次にとっての罪悪の地。
 忌避する記憶を突きつけられ、零次の表情に怒りの色が浮かび上がってきた。
「お前、俺にこんなものを見せてどうするつもりだ……!」
「俺が見せているんじゃない。君の心が、それを思い描いているだけだ」
「俺が……?」
 顔をしかめながらも、零次は歯を食い縛った。
 さっきからずっと頭の中は涼子と柿澤のことで占められていた。
 そのことを自覚し、藤村に返す言葉がなくなってしまったのである。
「隊長が背負っているものは、とても重く汚く辛い。長年蓄積された犠牲を用いて、今ようやく一握りの成果を得ようとしている。自分の命と引き換えに」
 炎の家の前に、藤村が陽炎のように現れた。
「それだけの覚悟はあるか、零次。隊長に対して立ち向かう覚悟があるか、零次。もし君が本当に隊長を止めたいと願うなら、半端な心構えじゃいけない。……最低でも、自分のことを乗り越えなければ」
「俺に何をさせたい」
「この幻想に打ち勝て。これは俺の 思い出の映像劇(メモリアル・ムービー) が形にしているだけに過ぎない。生み出しているのは君自身だ。君が自らの罪と決着をつければ、こんなものはすぐに崩壊する。己の罪悪と向き合い、隊長や君が感じている境界線を突破するんだ。……その先に、隊長を止めるための答えがあるだろう」
 預言者のような言葉を、藤村は切に願うような口調で言った。
 声音には悲しみと悔やみの響きがある。
 零次の中で、藤村に対する敵意が和らいだ。
「藤村、お前は……」
「俺では隊長を止められない」
 零次の言葉を先読みして、藤村は静かに言った。
「俺には零次や隊長の抱えているもの――――異法人としての自分と、普通の人々としての他者の間にある境界を感じることが出来ない。俺は隊長の影にしかなれない。隣に並び立つ理解者になることは不可能なんだ」
「それは、お前が異法人ではないからか」
「……全く無関係とは言えない。けど、正しい答えでもない」
 藤村は柿澤の補助役として、異法隊内でも重要な存在だった。
 人当たりもよく、零次から見ても人格者だと思える青年である。
 そんな彼がなぜ柿澤の計画に加担しているのか。それが分からない。
「お喋りはこれまでだ。零次、君はそこを突破出来るかな」
 突破しようとしまいと構わない、とでも言いたげな口調だった。
 投げやりなのではない。どちらの結果をも受け入れる覚悟が、藤村の声からは感じ取れた。
 やがて藤村の気配は消えていった。
 残されたのは、七年前の光景と、今の零次だけ。
「……これを越えろというのであれば、越えてみせよう」
 中に待ち受けているであろう光景は、想像するだけで身を切り裂かれるようなものだ。
 それでも零次は、これ以上逃げないと決めた。
 自分勝手なことばかりをして彼女のことを正面から見ていなかった、過去の自分に決別するためにも。
 七年前から止まってしまった零次の中にある"何か"。それを、今一度動かすためにも。
「そして、貴方を止める。それが俺の責任であり償いであり――――決意なのだから」
 零次は扉を開けた。
 七年の時を経て、彼の前に蘇った惨劇の地獄。
 そこに、幼き日の自分が立っていた。

 あの日、何があったのか。
 零次もそれを完璧に把握しているわけではない。
 ただ、心配だった。ろくに頭を働かせることなく、感情と力だけで動いてしまった。
 最初は涼子が迎えに来る予定だった。
 零次は涼子の家に行ったことがないので、一人で行く自信がなかったのである。
 しかし、約束の時間になっても涼子は現れなかった。
 どうしたんだろう、と零次は心配した。
 時間にうるさく几帳面な涼子が、待ち合わせに遅れることはまずない。
 何かあったのだろうか、という不安が浮かんでくる。
 二人であちこちを歩き回ったときに、一回だけ涼子の家の前を通り過ぎたことがあった。
 なかなか現れない涼子に不安を感じた零次は、その記憶を頼りに町を歩いた。
 途中、異常に禍々しい力を感じ取った。
 気になってそれを追い、冬塚と書かれた表札の前に辿り着いて零次は愕然と目を開いた。
 背筋が凍りつくような力が、涼子の家から生じている。
 そのことに気付いた零次は、即座に玄関から突入した。鍵がかかっていないことで、余計不安になった。
 そして、家に入ってすぐに――――。
『いやあああぁあああああぁぁぁぁぁぁっ!』
 涼子の絶叫が、耳に飛び込んできたのだ。
 それに反応して一目散に走り出すかつての自分。
 今の零次は、その後を苦渋に満ちた表情で追っていく。
 この先、何が起きるのかを知っているからだ。
 七年の歳月を経ても、忘れることなど出来そうにない、鮮烈な記憶。
 零次はその部屋に足を踏み入れた。
 思わず口元に手を当てる。凄まじい吐き気がした。
 部屋の中央には、踏み潰された虫のようになった冬塚夫妻の姿があった。
 そのすぐ側に幼き涼子がいた。両親の無残な死体を見つけてしまい、狂乱している。
 幼き零次はそんな彼女と二つの遺体を前に、言葉を発することが出来ずにいた。
 幼き涼子の衝撃はどれほどのものだったか。
 楽しみにしていたクリスマスパーティ。
 ようやく仲良くなれた姉が不意に連れ去られ、両親は悲惨極まりない姿に成り果てている。
 小学生の精神には辛すぎる出来事だっただろう。
 彼女はずっと口から言葉を発し続けている。
 しかしそれが形になることはなかった。
 おそらく本人も、何を言っているのか分かっていないだろう。
 そんな涼子を、背後から狙う気配がした。
『涼子ちゃん、危ないっ!』
 幼き日の零次がそれに気付き、咄嗟に涼子を突き飛ばす。
 一瞬遅れて、涼子がいた地には薄紫の光によって構成された魔槍が突き刺さっていた。
 狂乱状態にある涼子は突き飛ばされたことにも気付いていない。
 抱えた頭を大きく振り回しながら、絶叫を繰り返すばかりだった。
 対する幼き零次は、槍が飛んできた方向に敵意の視線を向ける。
 そこから、フードを被った一人の男が現れた。
『ふん、なんだ小僧。我が魔槍を見切るとは、何者だ?』
 順序が逆になるが、今の零次はその声に聞き覚えがある。
 フードの男、それは間違いなくザッハークだった。
 噛み付かんばかりの勢いでザッハークを睨み、幼き零次は憤怒の声をあげた。
『お前が……お前がやったのか!?』
『ん?』
 零次が何を言っているのか分かりかねたのか、ザッハークは小首を傾げた。
 やがてつまらなそうに、
『その娘を殺そうとしたのは私だ。そこの二つも、まぁそんなところと言ってもいいだろう』
『お前……!』
 幼き零次の身体が、爆発寸前の闘気に包まれていた。
「やめろ」
 今の零次が叫ぶ。
 しかし当然、過去の住人たちに届くはずはない。
 これは零次の記憶を移しているだけ。起きたことを変えることなど、出来やしない。
『なぜ、こんなことをした!』
『必要だからだ。邪魔立てするなら貴様の排除も必要事項に加えるぞ』
『やってみろ、俺はお前なんかにやられたりしない!』
 若干ためらいながらも、幼き零次は高らかに叫んだ。
『俺は、普通の人間とは違うんだ!』
 かつて自分が放った言葉。
 それは、自分と涼子との間に決定的な違いがあることを表すものに他ならない。
 間違ったことは言っていない。しかし、零次は胸に苦しい思いを抱いた。
 感情の昂りから戦闘に入った幼い零次に、自身の力を制御する術はなかった。
 ザッハークが強敵であることを察し、次々と悪魔の力を解放していく。
 自分の力を抑えようとも思わなかった。力を振るうことに熱中していき、涼子がすぐ側にいることを忘れてしまっていたのである。
 ザッハークを相手に集中せざるを得なかった、という理由はある。
 それでも、守るべき人をそっちのけにし、闘争本能に踊らされていたことは、零次の落ち度である。少なくとも、今の零次はそう思っている。
 その点、守るということに関しては、零次よりも梢の方が上だった。
 幼き零次の容貌が、完全に悪魔のものへと変化していく。
 理性を失くした怪物は、蛇の化け物と戦いながら周囲を破壊していく。
 涼子が家族と共に過ごした家を、ためらうことなく壊し続ける。
「やめろ……!」
 泣き叫ぶ少女がすぐ側にいながら、力を振るうことしかしない。
 駆け寄ってやることもしない。助けてやることもしない。
「やめてくれ……! 何をしている、すぐそこに冬塚がいるんだ! 助けてやれ! 相手を倒すことなんかどうでもいい、すぐに彼女を連れてそこから逃げればいいだろうが……!」
 零次の懇願は届かない。
 やがて、その時が訪れた。
 泣き叫ぶ涼子の存在に気付き、それを疎ましく思ったのだろう。
 ザッハークに背を向けた悪魔が、泣き叫ぶ少女を切り裂いた。
「――――!」
 こうなると分かっていても、衝撃が消えるわけではない。
 胸に痛みが走る。見れば、記憶の中のザッハークも嘲笑を浮かべている。
 ――守るべき者を害するか。なかなかどうして、異端の悪魔ではないか。
 口には出さなかったが、ザッハークはそう言いそうな顔をした。
 そのとき、悪魔は、微かに反応を見せた。
 自分が何をしてしまったこと、その意味に気付いたのか。
 悪魔は涼子を切り裂いた直後に動きを止め、そのまま彼女を抱きかかえた。
 後悔。
 懺悔。
 そういった感情が、悪魔の表情から窺うことが出来た。
 そのとき、不意に一陣の風が吹いた。
 幼き零次が一瞬で吹き飛ばされる。
 吹き飛ばしたのは風となって現れた男。
「霧島――――」
 それは間違いなく霧島だった。
 ただし、零次の知っている彼よりもずっと若々しい。
 どことなく、梢に似ているような気がした。
『……』
 霧島は片手で零次を掴み上げると、近くの窓から外に放り投げた。
 かつての自分を視線だけで追い、しかし零次は動かなかった。
 目前で対峙する二人から目を離せない。
 憎悪に満ちた霧島の眼光を真っ向から受けながら、ザッハークは動じた風もなく新たな敵を見据えていた。
 そこが終着点だったらしい。
 炎の光景がフェードアウトしていき、今の零次は何もない闇の中に一人取り残されていた。
「藤村……俺にこんなものを見せてどうしろというんだ」
 力なくその場に膝をつき、零次は項垂れながら言った。
「起きたことは変えられない。どうすることも出来ない」
 それはなぜか。
 この罪は零次のものだ。
 自分の身勝手さで涼子を傷つけた。
 その事実は決して覆らないし、誤魔化すつもりもない。
「あれが俺の罪だ。切り捨てることなど、出来るはずがない」
「――――でも、縛られてるだけじゃ何も変わらないわ」
 闇の中、突然声が聞こえた。
 藤村の声でないことはすぐに分かった。
 零次がこの声を聞き間違えることなど、まずない。
 零次の正面に、一つの光が落ちてきた。
 とても小さい雪の結晶が放つ光。
 落ちきって弾けて、結晶は人の形になっていく。
 それが"彼女"の姿になったとき、零次は愕然と目を開いていた。
「冬塚……」
「言っておくけど、私は本物だからね」
 そんなことを付け足しながら、涼子は少し気まずそうに視線を下げた。

 赤根とフリークの会話を聞いた霧島は、山の方へ向かうと宣言した。
 そちらにはザッハーク、そして柿澤たちがいるだろう。
 そう考えた霧島は、涼子と美緒を置いていこうとした。
 これに二人は猛烈な異議を申し立て、無理矢理霧島を納得させた。
「やっぱりこいつら、全然素直に言うこと聞かねぇ」
 諦観の念が入り混じった表情で、霧島は二人を両脇に抱えて山へと移動した。
 そしてしらみ潰しに山を探索している途中、異様な力を霧島が嗅ぎつけた。
 そうして涼子は今、 思い出の映像劇(メモリアル・ムービー) の術中に囚われた零次の前に現れたのである。
 この辺りの空間全体に藤村の力が及んでいるのだろう。
 涼子もまた、七年前の悪夢を潜り抜けてこの無明の地へと辿り着いたのである。
 こんな形で零次に会うとは思っていなかった。
 不意打ちによる驚きと微妙な気まずさが、涼子の声をか細いものにした。
 それでも。
「私ね、全部思いだした」
 涼子の口は、勝手に動いていた。
「全部……」
「そう、全部。あの日のことも、零次さんと過ごした時間のことも」
 それを聞いて、零次は「そうか」と短い溜息をついた。
 そんな彼に、涼子はそっと手を差し伸べた。
 零次はきょとんとした顔で、差し出された手をじっと見ている。
「これは?」
 その問いかけに、涼子は自分の本心で返した。
「私は、零次さんと仲直りしたい」
「――――」
 零次の全身が小さく震えた。
 期待と恐れが入り混じったような視線が、涼子へと注がれる。
「駄目だ」
「なんで? やっぱり、私が酷いこと言ったから?」
 零次の事情も知らず、涼子は彼に対しきつい言葉を送ってしまった。
 貴方のことは信じられない、と。
 記憶が戻った今、涼子としてはそのことを強く後悔している。
 だが零次が首を振った理由は異なった。
「俺は、君に合わせる顔がない。君を傷つけ、自分のエゴで君から記憶を奪った。それに、君から家族を奪ったのは……」
「やっぱり、聞いてたんだ」
 あの晩、柿澤たちとの会話。
 霧島の予想通り、零次はあのとき近くで話を聞いていたらしい。
 だから、今こうして一人で柿澤の元へ乗り込もうとしていたのだ。
「君には迷惑ばかりかけている。いや、迷惑どころでは済まされない。俺は……君に救われておきながら、君を傷つけてばかりだ」
「そんなことない」
 涼子は強い口調で否定し、零次のすぐ前に踏み込んだ。
 屈強な戦士である零次が、涼子の接近にうろたえて一歩下がる。
 涼子はまた一歩踏み込んで、差し伸べた手を零次の胸元に突きつけた。
「私だって零次さんに救われたもの。姉さんとうまくいかなくて、家の中から自分の居場所が消えてしまったような気がした。そんなとき、私は零次さんと会って救われてたの」
「……嘘だ」
「嘘じゃないわ。零次さん、いっつも私に付き合ってくれてたし。私の話も真面目に聞いてくれてたじゃない。それに七年前もこの前も、私のこと守ってくれた」
「結果的には守れてない。七年前なんか、あれは……」
「結果なんかどうでもいいの!」
 涼子はむきになったように声を荒げた。
「零次さんのしてくれたこと――――私は、すっごく嬉しかった」
 それは嘘偽りのない本心だった。
 確かに零次に傷つけられたことは事実である。
 あのときのことは思い出すだけで恐くなる。
 だが、自分を守ろうとしてくれた零次の心はまた別である。
 それは、本当に、ただ嬉しかった。
「ねぇ、零次さん。これ、私の勘違いだったらすごく恥ずかしいんだけどさ」
「……なんだ?」
「七年前、確かに結果はああなっちゃったけどさ。……私たち、別に嫌い合ってなんかなかったよね?」
 零次は涼子を守ろうとして、過ぎた力に踊らされてしまった。
 涼子は何も出来ないままに、全てを失ってしまった。
 それでも。
 最後は不幸な結果になってしまったけど。
 二人は、あの日までずっと友達だった。
 零次は表情を二転三転させながら、やがて神妙に頷いた。
「当然だ。俺は、君に対する罪の意識こそあれ……嫌いであるはずがない。君は俺の友人になってくれた。嫌いな相手を命懸けで守るほど、俺は人が出来てない」
「私だってそう。命懸けで二度も守ろうとしてくれたんだもの。嫌いなわけない」
「だが、俺は君を……」
「ああもう、しつこいっ!」
 まだ陰鬱な声のままでいる零次に、涼子は頬を膨らませた。
「だからっ、私は零次さんと仲直りしたいって言ってるのっ!」
「な、仲直りと言われても」
 零次は戸惑いながら頭を振った。
「俺は、そんなことをしたことなどないから……よく分からない」
「……」
 そう言われて、涼子は一瞬大きく目を見開いた。
 零次の境遇を少しは理解したつもりになっていたが、まだまだ理解不足のようだった。
 自分に対して溜息を一つ。
 そして、空いていた左手で零次の腕を掴み、無理矢理自分の右手と握手させた。
 力強く握りながら、涼子は零次の顔を真っ直ぐ見据えて言った。
「仲直りっていうのはね。互いの非を認めて、一緒にごめんなさいするの」
「互いの非を認めて……」
「認めるってことは、許すってこと。なかったことにするんじゃなくて、それを承知で相手とまた手を繋ぐことなの」
 言いながらも、涼子は零次の手を精一杯握り締めた。
 簡単なことでは離さないぞ、という思いを込めながら。
「私は、貴方がしたことを許す」
「……冬塚」
「でも、もう今後はしないでくれると嬉しいかな。痛いのも忘れるのも、嫌だから」
「――ああ、誓う」
 零次は握手しているところに、もう一つ手を重ねた。
「命に賭けて誓う。もうこの手で君を傷つけることはしない。誤魔化しのために君の思い出を奪ったりしない」
「……うん」
「俺の方は許すまでもない。だがそれでも君が気にしていることがあるなら、俺は許そう」
「……ありがとう」
 そう言って、涼子もまた一つ手を重ねた。
「ごめんね」
「こちらこそ――――本当にすまなかった」
 その、短い謝罪の言葉。
 それが、七年の呪縛の終焉になった。
 藤村の力、 思い出の映像劇(メモリアル・ムービー) が作り上げた空間が崩壊していく。
 その中で離れぬように、二人は強く手を握り合っていた。
「行きましょう、零次さん。今を明日へと繋げるために」
「……ああ。これ以上の悲劇を繰り返さぬためにも」
 七年前は、二人の中で一つの決着を迎えた。
 止まっていた時が動き出し、急速に今へと引っ張られていくような感覚。
 二人を繋ぐ掌には、何物にも変えがたい温かさがあった。