異法人の夜-Foreigners night-

-Border Breaks-
第五十話「歪みの原因」
 涼子と零次の視界に、鮮やかな茜色が飛び込んできた。
 既に時刻は夕方になっている。
 二人は森の中にある開けた場所に立っていた。
 すぐ側には頭を抱えている美緒、そして真剣な顔つきで立っている霧島がいた。
 おそらく、二人も藤村によってなんらかの過去を見せられたのだろう。
 そして、四人から少し離れたところにある、大きな木の下。
 そこに藤村亮介は、力なく座り込んでいた。
 ぐったりと頭を垂れており、素人目にも疲労困憊であることが分かるような有様だった。
「無理をするからだ、藤村」
 涼子と手を繋いだまま、零次は藤村に気遣うような声を投げかけた。
「あれだけの規模で力を行使すれば、お前にかかる負担は普段の数十倍。下手をすれば命さえ落としかねない、危険極まりない行為だった」
「……だが、答えは得たんだろう?」
 藤村はかすかに面を上げて、確かに繋がれている零次と涼子の手を見た。
 満足げに笑って、再び頭を垂らす。
 かすかに腕を持ち上げて、森の奥を指し示した。
「あっちだ。行け。……儀式は、まだ止められる」
「……」
「早くしろ。もうすぐ、始まる」
 振り絞るような声に催促されて、まず霧島が駆け出した。
 次いで美緒がその後を追う。
 零次も動こうとして涼子に視線を投げかけた。
「冬塚、行こう。今は進むときだ」
「ええ……」
 頷きつつ、涼子は藤村に物言いたそうな眼差しを向けた。
 なぜ柿澤の行動に協力しようと思ったのか。
 そして、その上でなぜ自分たちのことを後押しするようなことを言ったのか。
 藤村の行動は一見、一貫性がないように思える。
 しかし彼自身の態度を見ていると、何か深い理由があるような気がするのだった。
 藤村は頭を垂れているため、涼子の視線には気付かない。
 ただ二人がなかなか立ち去らないことを気配で察したのだろう。
「伝言を……頼む」
 面は上げないまま、そんなことを言った。
「伝言?」
「……"すみません"と"ありがとう"、そして――――"貴方にどうか安らかなる日々を"」
 自嘲しながら、藤村はゆっくりと告げた。
「これを……俺が認めた、全ての人へ伝えて欲しい」
 藤村が認めた全ての人。
 その中に自分や零次も含まれているような気がして、涼子は隣を見た。
 零次も同じようなことを考えていたらしく、涼子に物言いたげな視線を寄越している。
 涼子は零次に向かって頷き、そしてまた藤村に向かっても頷いた。
「ええ、分かったわ。ちゃんと伝えるから――」
 伝えるから、何なのだろう。
 続く言葉が思い浮かばず、涼子は口をつぐんだ。
 藤村が苦笑する気配が伝わった。
「早く」
 子供に言い聞かせるような声で、藤村は呟いた。
 それに突き動かされ、涼子は零次と共に踵を返して走り出す。
 涼子も零次も、相手にかける言葉がよく分からなかった。
 その分、互いに繋いだ手を強く握り締めていた。

 藤村亮介にとって、世界が始まったのは柿澤源次郎と出会った瞬間からだった。
 この名前も彼につけてもらったものである。昔、そんな名前の友人がいたらしい。
 それまで彼は、試験体0065号と呼ばれた。
 特別扱いだった。
 体外受精。遺伝子改良。魔術要素の注入。
 何から何まで最新技術で作られた、人体型魔術道具。
 それが、彼の幼年期の全てを表していた。
 不満だと思ったことはない。
 ただ、不満の意味すら知らなかっただけだった。
 当たり前のように物として生きていた日々。
 その終わりは、ゆっくりとやって来た。
 どこか別の場所に、リンクという者がいることが分かったらしい。
 研究所の人間たちはそれをとても羨んでいるようだった。
 どうもそのリンクというのは、自分よりも遥かに価値のある実験体らしい、ということは分かった。
 そして、その日から徐々に試験体0065号に対する態度が変わってきた。
 今まで通りの実験結果を出しても不満そうな顔をする。
 大人しく言うことを聞いていても「気の利かない奴だ」と言われる。
 では何かしようかと行動すると「勝手に動くな」と怒鳴られた。
 辛いと思ったことはない。
 ただ、辛さの意味すら知らなかっただけだった。
 そうして彼は「役立たず」あるいは「失敗作」へと落とされた。
 食事も満足に与えられず、衛生環境がまるでなってない部屋に押し込められるようになった。
 トイレも風呂もなく、やがてその部屋は異臭に包まれるようになっていった。
 興味を失ったか嫌悪感からか、研究員たちは彼の元を訪れなくなった。
 このまま数日放っておけば死ぬ。彼はそんな状態にあって、
 生きたいと願ったわけではない。
 生きる意味すら知らなかったのだから。
 ――――柿澤源次郎と出会った。
 彼が差し出した手を取った瞬間、藤村亮介は誕生した。
 そのまま、今日まで生きてきた。
 つい先日。
 自分と同じ境遇だったリンクという少女を生贄にし、世界を変えると聞かされるまで。
 ずっと変わらず、生きてきた。

「ぬん!」
 刃の豪腕が空を切る。
 彼が踏み込んだ一歩が地に亀裂を走らせる。
 そして、それと同時に側面から"五十本の指"が刃へと伸びてきた。
「はあぁっ!」
 その指を、亨は銀によって構成された剣で斬り飛ばした。
 振り上げられた剣の柄を捻り、標的の頭上へと叩き落す。
 剣は一瞬にして巨大なハンマーと化し、敵――――フリークを叩き潰した。
 ……違う!
 亨もそれに気付いたのだろう。
 素早く身を翻し、その場から離れる。
 刃も同じく、相手から一気に距離を取った。
 亨のハンマーによって叩き潰されたフリークは、どうということもない様子で瞬時に再生した。
 潰されたと見せかけて奇襲を仕掛けようとしていたのだろう。
 いたずらがばれたとき、不遜な子供が浮かべるような笑みが表れていた。
 亨が自分の背後に浮かぶ三つの球体を操作する。
 金・鉄・銅の三種は、それぞれ矢に変形した。
 三本の矢はそれぞれが高速かつ不規則な動きでフリークへと迫っていく。
 フリークはあえてその攻撃を受けた。
 三本の矢はフリークの身体に深く突き刺さる。否、埋め込まれていく。
 亨は自身が操る金属を遠隔操作することが出来る。
 だがフリークの身体に埋め込まれてしまった以上、思うように動かせなくなってしまう。
 フリークは攻撃を受けることで、亨の金属を捕獲した。
 無論、それぐらいは亨も読んでいた。
「――――爆ぜろ!」
 亨の叫びと同時、フリークが体内に埋め込んだ矢が一斉に爆散した。
 フリークの身体が内側からズタズタに引き裂かれる。
 並の人間、あるいは異法人でさえもこれほどのダメージを受けてはただでは済まない。
 フリークは生物としての限界を越えた再生能力を持っている。
 故に攻撃を避けるという必要性がない。
 その性質を利用することではじめて可能となる攻撃だった。
 もっとも。
「……やっぱり効果はありませんか」
 どれだけの攻撃を受けても、フリークはたちどころに再生してしまう。
 分子分解、あるいは原子分解レベルの攻撃でも加えない限り倒せないのだろうか、と刃は嫌な想像をした。
「兄さん、どう思う?」
 爆裂四散した状態から回復しつつあるフリークを睨みながら、亨は刃に問いかけた。
「もう随分と長時間戦ってる。それでもあいつの再生能力は全然衰える気配がない。底なしだ」
「……魔術、そしてコアが関係しているというが、とてもそうは思えんな」
 コアが破壊されない限り、フリークは何度でも蘇る。
 その能力は魔術が関係しているらしい、とフリークは赤根との会話で言っていた。
 それが本当だとしても、刃の中では二つの疑問が残る。
「奴から魔力が感じられん。それに、これだけ攻撃を加えても魔力切れを起こす気配がない」
 魔術要素が関わっているのであれば、必ずその力を使う際には魔力を消耗するはずである。
 しかしフリークの身体からは、そもそも一切の魔力が感じ取れない。
 刃たちから魔力を巧妙に隠しているのだとしても、全く疲労の気配がないのはおかしい。
 魔力とは活力でもある。精神のスタミナと言ってもいい。
 何度も、全身をズタズタに引き裂かれた状態から回復する、などということを繰り返していれば、そう時間もかからずにスタミナ切れが起きているだろう。
 仮にフリークが膨大な魔力を有していると仮定すると、今度は『そんなものを隠し切れるはずがない』という疑問が生じる。
 フリークの正体が、よく分からない。
「戸惑っているご様子だね」
 突然、頭上から声がした。
 眼前で再生しつつある奇形の物体から視線を外す。
 刃たちの真上、数メートルのところにフリークの首から上がぶら下がっていた。
「僕があの彼に話したことは聞いていたようだね。しかし、僕からは一切魔力が感じられない……これはどういうことだろう?」
 大袈裟に口を動かしながら、フリークの首はぼとりと二人の間に落ちた。
 碁盤状の地面に吸い込まれながら、気分の良さそうな声で続ける。
「疑問を抱くのはいいことだ。思考するには疑問がいる。進歩するには疑問がいる。前進するには進歩がいる。……君はつまり」
 最後まで言わせず、刃はその顔を踏み潰した。
 手応えはない。まるで豆腐を潰したようだった。
 気付けば目の前で行われている再生はほぼ終わっていた。
 顔だけ欠けたフリークの身体が起き上がる。
 それと同時に、首から顔がゆっくりと生え上がってきた。
「君らはつまり……未だ前進することを諦めていない」
「当然のことだ」
「だが、進むべき道が分からない。いくら進んでも先へ進めないという矛盾。それは肉体的、精神的な疲労になって表れてくる」
 確かにそうだった。
 疲労の色を見せないフリークと違い、刃や亨は徐々に疲弊しつつある。
 それに両者では条件が違う。
 フリークは、柿澤たちが"儀式"とやらを完遂させるまでの間、ここを守ればそれが勝ちである。
 対する刃たちは、この部屋を完全に制圧しなければならない。
 一刻も早く勝負を決めなければ、二重の意味で敗北を喫することになってしまうのだ。
「哀れで滑稽だね」
 フリークは小馬鹿にするような笑みで言った。
「さっきの彼にも聞いたけど、君らはどうして戦うのかな。柿澤の"儀式"が成功しても君たちには何の害もない。むしろあの"儀式"は、君たちにとって有益になるはずだよ?」
 全人類の無意識集合体に働きかけ、異法人などのような普通でない者への差別意識を取り除く。
 それが柿澤の儀式。
 確かに結果だけに着目すれば、悪い話ではない。
 矢崎兄弟は特異な力のせいで両親から捨てられた。
 零次だってその力による差別意識に苦しんでいた。
 梢も虐待される日々を過ごしていた。
 そんな者がいなくなる。未来の同胞たちが安全に暮らすことが出来る。
 魅力的な話だ。
 しかし。
「戯言だ」
 刃は短く切って捨てた。
「思想とはうつろうもの。急激な変化を起こしたとして、それはさほどの時もなく元に戻る。否、より悪化するかもしれん」
「その程度の話ではないよ? 人類の無意識――源泉を直接変えるんだ。常識が覆るんだよ」
「常識など百年経てば自然に変わる」
 刃は腰を低く落とし、左手を前に突き出し右手で拳を握り締めた。
「目先のことに惑わされ、一人の罪なき少女の命を奪う。そのような未来、俺は望まん」
「僕もです」
 亨が刃の横に並び立つ。
 真っ直ぐ伸びた黄金の槍を手に、厳しい眼差しをフリークに向ける。
「確かに僕は遥さんのことほとんど知りません。まともな状態で話したこともないですしね」
 槍がその場で鋭く音を立てる。
 いつでも相手に飛びかかれる体勢に構えた亨は、いつもより少しだけ頼もしく見えた。
 頭を振りながら、凛とした声をあげる。
「ですが、彼女には死んで欲しくない。そんなことをされるのは嫌なんです」
「それは君が保護されていた者だから言えることじゃないかな?」
 フリークは僅かに刃へ視線を向けて言った。
「君は自分たちのような存在がどんな生き方をしているのかを知らない。食事も寝床も兄が提供してくれた幼年期、その裏で兄がどれだけ辛苦を味わっていたかを知らない」
「ええ、僕は無知でした。いや、今も無知なままかもしれない。……だけど、それすら気付いてなかったわけじゃない」
 亨はフリークの言葉にすかさず反撃する。
 昔から口は回る弟だったが、今回はそれだけではなさそうだった。
 刃は、言葉の中に弟の成長――あるいはその兆し――を見たような気がした。
「だからこそ、頼るだけでは駄目だと思うんですよね。しかもその結果、誰かの命が失われて悲しむ人がいるんじゃ納得出来るはずがない。そんなことで得られる幸福は、例えそれが本物であろうとも僕にとっては無意味なんだ」
 亨の返答にフリークは片方の眉を大きく上げた。
「なるほど。お二人はどうあっても反対派というわけか。隊長に逆らってでも、反対すると。不義理なことですねぇ」
「不義理なものか」
 周囲を見渡す。
 陳列される無数の脳。
 奪われた命がひしめき合う部屋。
 これに手を貸していたことこそ不義理だろう。
「義理とは己の信ず道のこと。俺から言わせれば不義理は貴様や隊長の方だ。俺に隊長への義理を果たせと言うのであれば――――まずは貴様を討ち滅ぼす!」
 咆哮と共に、刃はフリークに突進をしかけた。
 拳は振るわず、肩から全身でフリークに体当たりをしかける。
 増大した衝撃に、フリークはまたしても粉砕される。
 その瞬間、刃は亨に向かって叫んだ。
「離れろ!」
 兄の指示に従って亨は一気に飛び退く。
 それを確認するのとほぼ同時に、刃は自らの両腕に魔力を集中させた。
「―――― 連鎖する衝撃(インパルス・チェイン) !」
 瞬間、フリークの破片が薄いドーム状のものに押し包められた。
 途端、中から絶叫がした。
 フリークの絶叫である。
 口が粉々になった後も、どこから出しているのか分からないが、絶叫は途絶えることなく続いた。
「に、兄さん……これは」
 亨が強張った顔を向けてきた。
 刃のこれは、亨にもまだ見せたことがない奥の手だった。
 赤根の無限爪舞がそうであるように、刃にも切り札の一つや二つはある。
「あのドームの中では、あらゆる衝撃が何十倍にもなる。さらに、それらは外に漏れることはない。ドーム内で反射を繰り返し、連鎖していく。動くものが完全になくなり、完全に静まるまで」
 最初に刃がした体当たりが生んだ衝撃。
 それを狭い空間内に閉じ込めることで増大させているのだ。
 少し違うが、例えるならドーム内で無数の弾丸が飛び回っているようなものである。
 しかもそれらの弾丸は、何かにぶつかる度に分裂していくのだ。
 普通の相手なら、そのような空間に押し込められて無事で済むはずがない。
 ドーム内は地獄と化していた。
 無論、そんな大技を放った刃自身も大きな疲労感に包まれていた。
 この技は魔力を大量に消耗するため、下手をするとその後、ほとんど行動することが出来なくなる。
 後先考えない状況でしか使えない、諸刃の剣なのだ。
「今のうちに行け」
 肩で息をしながら、刃はゆっくりと、しかし急かすような口調で言った。
「これで駄目なら、もう奴を倒す手段は思い浮かばん。ならばせめて、この部屋の機能を止める必要がある」
「……動力源を探し当てろってことだね」
 部屋というには大きすぎるこの空間。
 並べられたポッドの数は、一見しただけでも数える気をなくすほどのものだった。
 これらを一つ一つ破壊していたら時間切れになってしまう可能性が高い。
 ならば、どこかにある動力源を潰すしかない。
「でも、兄さんを置いてはいけない。赤根だって、早く助けなきゃ……」
「何を言っている」
 刃は汗だくになりながらも、亨の額を軽く小突いた。
 そして、優しい表情で言った。
「お前の助けなどいらん。お前も、俺の助けなどいるまい」
「……え?」
「この場は俺に任せろ。代わりに、俺は――――お前に任せる」
 刃の言葉に、亨は驚愕の色を表した。
 おそらくは、これが初めてだったからだろう。
 こんな場面で、兄に"任せる"と言われることが。
「行け、亨。期待している」
 やや強めに背中を叩く。
 亨はびくっとした様子で一瞬刃を見た。
 が、すぐに口元を引き締めて頷いた。
「……兄さん、ここは頼みます」
 そう言って、亨はフリークの脇を駆け抜けていった。
 すぐにその姿が見えなくなる。
 なんだか弟の巣立ちを見るような心境だった。
「やれやれ」
 刃はふらつきながらも、ドームの前に立つ。
 絶叫は既に止んでいた。
 ドームも少しずつ消えていく。
 中に残っているのは、文字通り塵となったフリークの残骸のみ。
 これだけの打撃を与えたのだ。
 刃としても、いい加減終わりを期待したかった。
 しかし、世の中そう甘くはないらしい。
 塵の一つ一つが、少しずつではあるが動き始めていた。
「しぶとい奴だ」
 迂闊に再生を妨害する気にはならなかった。
 フリークの欠片が体内へ侵入し、そこから攻撃でもしかけてきたら大変なことになるからである。
 ……しかし。
 刃の脳裏には、フリークのしぶとさに対する苛立ちの他に、もう一つ浮かぶものがあった。
 粉々に粉砕されても、なお再生するフリークの欠片。
 しかしその中には、取り立てて特徴のあるものは見当たらない。
 ……だとすると、コアとは一体なんだ?
 それが壊れない限り、フリークは何度でも再生する。
 今もこうして再生している以上、コアとやらは壊れていないのだろう。
 しかし全身のほとんどが塵にされているのに、無事だなんてことがあるのだろうか。
 ……まさか。
 見えないコア。
 全く感じられない魔力。
 口がなくなっても聞こえてきた絶叫。
 それらのキーワードが、刃の中である仮定を創りつつあった。

 完全に再生が終わったフリークは、さすがにもう笑ってはいなかった。
 先ほどの絶叫は本物だったらしい。
 あれだけ悲惨な状態から完全に回復したというのに、その表情は険しかった。
 まるで長年かけて構築した自説を一蹴された研究者のような顔だった。
「痛いなぁ……まったく、君も酷いことをする」
「驚きだな。貴様も痛みを感じるか」
 刃はフリークの再生能力に何か仕掛けがあると踏んでいる。
 が、今の時点でそれは仮説の域を出ない。証拠がないのだ。
 その証拠を引きずり出せるかどうか、それが勝敗の分かれ目である。
 もはやあまり力が残っていない。普通に戦い続けるのは難しかった。
 フリークは口元を引きつらせて、無理矢理の笑みを浮かべた。
「さすがに今のは効いたね。まさかあんな切り札を隠しているとは思わなかった。そこの彼もそうだが、君たちは皆そうなのかい?」
 フリークに促されて、刃は部屋の隅に寝かされている赤根を見た。
 傍目にも重傷であることが分かる。このまま放っておけば、間違いなく命を落とすだろう。出血量が多過ぎる。
 ……決着は早くつけねば。
 赤根は確かに愛想がなく捻くれており、異法隊内でも問題児だった。
 それでも仲間であることに変わりはない。
 異法隊の同僚、というだけではない。
 今の彼は、一個人としても刃たちと共に戦う道を選んだ仲間なのである。
 ……死なせるわけにはいかん。
 刃は用心深くフリークを観察した。
 見たところ怪我を負っている様子はない。
 先ほどまでと同じく、全くの無傷である。
 だがフリーク自身の表情から察するに、どうやら痛みは感じているらしい。
「切り札なら異法隊は誰でも持っている」
 つまり、先ほどの攻撃はそれまでのものと、何かが違っていたということだ。
「お前とて、何か隠し持っているだろう」
 フリークは反応を示さない。
 ただ静かにそこで立っている。
 痛みに顔をしかめたまま、刃に向き合う形で立っている。
 ……やはり妙だ。
 冷静に考えてみれば、おかしな話ではある。
 これほど無茶苦茶な再生能力を、魔術で行えるものなのだろうか。
 刃は魔術に関する知識はさほど持ち合わせていない。
 ただ、先日霧島からこんなことを言われていた。
『フリークって奴は身体変化能力を持ってるらしいが、その力は魔術じゃねぇな』
 なぜだと問う刃に、霧島は笑って答えた。
『簡単なことだ。魔術ってのは、分かりやすく言っちまえば"可能性"を意図的に引き出す技術だ。起こり得ることしか起こせないし、その可能性が低ければ低いほど発動し難くなる。ま、他にも色々と小難しい理屈はあるんだが……基本的に魔術は"人間の可能性の延長"だ。
 さて、そこで問題。普通に考えて人間が変幻自在に肉体を変化させることは出来ると思うか?』
『それは……』
『そう、答えは否だ。少なくとも、多少の肉体改造はあらかじめ行われてる。そうじゃなきゃ可能性は零……でないにしても、一には程遠い。魔術としては成立しない』
 もっとも、肉体改造と魔術を組み合わせて使っている可能性はある、と霧島は言っていた。
 だから刃も、赤根とフリークの話を聞いた直後はそう思っていた。
 しかしフリークからは一切の魔力を感知出来ない。
 おまけに、塵にされても復活するほどの再生能力を持っている。
 こんなことは、普通に考えてありえない。
 常識外れの世界に身を置いているからこそ、刃はその点を見落としていた。
 あるいは、あえて無視していたと言うべきだろうか。
 ……だが、これはおかしい。
 こんな可能性はあるのかと問われれば、刃は迷わず頭を振る。
 どんな超技術であろうと、恐ろしい魔術だろうと、こんなことは出来ない。
 ならば、考えられる結論は一つしかない。
 フリークの正体。
 それは――。
「っぐ……!」
 刃は片膝をついた。
 魔力がもうほとんど残っていない。
 魔力は活動力ともいえる大事な力である。
 なくなってしまえば、戦闘続行が不可能になるだけではなく、意識まで失ってしまう。
 敵を前にしての気絶は、ほぼ死を意味する。
「どうやら、力尽きるのは君の方が先みたいだな」
 フリークがゆっくりと刃の元へ歩いてくる。
 左手が小型のナイフのように変化していた。
 刃は密かに拳を握り締めた。
 フリークがこちらに攻撃をしかけてきたら、残された力を使って反撃するつもりだった。
 が、それを察したのだろう。
 フリークは途中で歩みを止めて、刃へと指を突き出した。
「念のためだ」
 刹那、フリークの爪が弾け飛んだ。
 銃弾と化した爪が五つ、刃の肩や背中へと突き刺さる。
「……っ!」
 肉が抉られる感触と共に、猛烈な痛みと熱さが刃に襲い掛かった。
 ……遠距離攻撃でトドメを刺すつもりか!
 刃は舌打ちして首を動かした。
 フリークに闇雲な攻撃をしても意味はない。
 刃の推測では、"カウンターでなければ"意味がないのだ。
 しかし、このままではその機会も得られない。
 ……どうすればいい。このままでは、奴の正体を見極められん……! 
 そのときだった。
 刃の視界に、あるものが飛び込んできた。
 それは研究者たちの脳を収納したポッドだった。
 ポッドのガラスを刃は見た。
 そこに――――奇妙な点があった。
「……く」
 思わず口元が吊り上がる。
 予期していなかったところに答えがあった。
 一生懸命解こうとしていた問題の答えを、横にいた友人が勝手に言ってしまったときのような虚しさと馬鹿らしさを感じる。
 それが、刃に似合わぬ皮肉げな笑みへと繋がった。
「くく……ははは。こいつは、馬鹿らしい」
 刃は自分でも気付かないうちに立ち上がっていた。
 その視線は正面に立つフリークではなく、ポッドの方に向けられている。
 フリークは不審そうな眼差しを向けてきた。
「矢崎刃。君は……気でも狂ったのか」
「否」
 一言で切って返す。
 その自信に満ち溢れた態度に、フリークはかすかに目を見開いた。
 そんな彼を見ないまま、刃はポッドを見ながら言った。
「これから正気に戻るところだ。……貴様を倒してな」
 言葉と同時に、刃は駆け出した。
 フリーク目掛けてではない。
 彼が目指しているのは、そのすぐ脇だった。
 視線はポッドのガラスに向けられたまま。
 刃の行動にフリークは驚愕し、咄嗟に自身もポッドを見た。
 そこには、二人の男が映っている。
 ポッドを凝視するフリークと――同じくそれを凝視しながら、そのフリーク目掛けて"正確に"肉薄する刃。
 ガラスに映ったフリークには、右腕の肘から先がなかった。
 先ほどまではあったのだろう。
 肘からはぼたぼたと血が垂れている。
 しかしその傷も、流れる血も、刃の前に立っているフリークにはない。
 その差が何を表しているのか。
 答えは簡単だった。
 刃の側に立つフリーク。
 そして、ガラスに映ったフリーク。
 両者は微妙にずれた場所で、全く同じように瞠目した。
「……まさかッ」
「消え去れ 幻覚(フリーク) ――――!」
 次の瞬間、刃の拳が"何もない空間"に炸裂する。
 それと同時に、"そのすぐ側で立っていた"フリークの身体が吹き飛んだ。

 ポッドの駆動音だけが、薄暗い空間に響き渡る。
 まるで怪物の腹の中にいるようだ、と刃は思った。
「……いつから、僕の力を見抜いていたんだ」
 仰向けに倒れたフリークは、どこにも傷を負っているようには見えない。
 だが、それは明らかに重傷を負っている者の声だった。
 刃はフリークのすぐ側に、いつも通りの鉄面皮で座っていた。
 彼は倒れているフリークではなく、その脇の、何もない空間を見ていた。
 そこに、本物のフリークが倒れている。
 しかし、その姿を直接見ることは出来ない。
歪みし認識(フリーク) ……僕に関するあらゆる認識を微妙に歪ませる。それこそが、 奇形(フリーク) の力。君の認識も歪んでいた。君に見えていたのは……いや、見えているのは……歪んだ認識の僕、幻覚の僕のはずだ」
 そう。
 塵になっても蘇る。
 首だけになっても話す。
 そんなもの、魔術や人の技術で出来る芸当ではない。
 人の身では到底到達し得ないだろう領域である。
 ならば、自分の前に立つフリークは実態を持たない何か。おそらくは幻覚か何かだろう――刃はそう踏んだのだ。
 もっとも、フリークの攻撃は幻覚ではない。
 実際刃もいくらかダメージを負ったし、赤根も酷い怪我を負わされた。
 見えているのは幻覚でも、すぐ側に攻撃をしてくる実体がいる。
 そう考えたから、刃は最初、カウンターを狙ったのである。
 攻撃された瞬間なら、正確に敵を捕捉出来ると思ったのだ。
 ただ、実際にはガラスを利用した。
 フリークの能力は直接的な認識のみが対象らしい。
 ガラスを通して間接的に見ることで、実体を見破ることが出来た。
 もっとも、この方法を発見出来たのは運が良かったからである。
 気付いていなかったなら、今こうして倒れているのは刃の方だっただろう。
連鎖する衝撃(インパルス・チェイン) を喰らっても貴様は再生してのけた。その辺りからだな」
「ほう。何がまずかったのかな?」
「いくらなんでもありえない。貴様はやり過ぎた。それだけだ」
「おやおや」
 フリークは苦笑する。
 傷一つない端正な顔が、残念そうに歪んだ。
「さすがに不自然か。塵からも再生する能力なんて、本当にあったらまさに敵なしだからねえ」
「貴様の力は――――解けることはないのか」
 刃は憐れむように言った。
 フリークは目を伏せて応えた。
「僕の力は恒久的なものだ。様々な制約があるし、自分の意思では好き勝手に出来ない。僕だってやり過ぎだとは思っていたんだけどねぇ」
「……」
 フリークは何気ない風を装って言ったが、刃はその中に潜む憂いを見逃さなかった。
 確かに使い方次第では強力な力だろう。
 誰も、フリークのことを正確に捉えることは出来ないのだから。
 声も幻覚のいる方から聞こえてくるし、魔力も感知出来ない。おそらくこれも認識が歪められているせいだろう。
 だがその力は、フリーク――牧島にとって惨いものでもある。
 誰にも――――本当の自分を見てもらえないのだから。

 どれぐらいそうしていただろう。
 刃は疲労、牧島は傷によってそれぞれ身動きを取れずにいた。
 ただし、刃は放っておけば回復する。
 牧島は、もう長くない。
「……最後に少し、昔話をしてもいいだろうか」
 刃は黙って頷いた。
 身体もろくに動かせない。
 今、刃に出来るのは牧島の話を聴くことぐらいだった。
「……昔。僕らの一家は、それなりに幸福に過ごしていた」
 牧島の一家は、決して裕福な方ではなかった。
 むしろ、ない金をどうにかやりくりして生活しているような状態だった。
 それでも親子三人、仲睦まじく暮らしていた。
「親父は偏屈だったし、母親は何かと口うるさかった。僕も、程よく生意気な子供だった。けど、三人ともそれなりに満たされていたと思うよ」
 どこにでもありふれた家庭だったのだろう。
 その在り方に、刃はかすかな羨望を抱いた。
 幼くして親に捨てられ、一人で弟を守り続けてきた刃にとって、平穏な家庭ほど羨ましいものはない。
「だが、十七年前。ある事件が起こった」
「十七年前……?」
「泉家の崩壊、という大事件だ」
 泉家。
 その単語を聞いて、刃の身体がかすかに震えた。
「僕も詳しいことは分からない。ただ、僕ら一家は運悪く、その事件に巻き込まれたのさ」
 牧島の家は町中ではなく郊外にあった。
 偏屈者の父親がそう望んだからだという。
 そして、その家の近くで――――泉家の崩壊という事件が起きた。
「後になって調べてみたんだけど、どうも僕の家のすぐ近くにあった村が泉家の里だったらしい。そこで事件が起きた」
 当日、突如大きな地震が何度も発生した。
 牧島一家は崖崩れを恐れ、家から出て避難場所へと移動しようとしていた。
 そのとき、一家の前に一人の男が現れた。
「正体は分からない。僕らは本当に、ただ巻き込まれただけだったんだ」
 男はけたたましく笑った後、牧島の母親を殺した。
 頭を掴んで何度も地面に叩きつけ、人間業とは思えない力で四肢を引き千切ったのだという。
「親父は抵抗しようとしてたけど、動けなかったんだ。男は母を叩きつける度に哄笑した。その度に大きな地震が起きてね。……今思えば、よく生き残れたものだ」
 男は母親を殺した後、牧島たちをも殺そうとしたらしい。
 ところが突然顔色を変えて、その場を立ち去ったのだという。
「本当に、災厄としか言いようがなかった。あれが何だったのかは分からない。今でも、泉家を崩壊させた奴だろうという推測ぐらいしか出来ないままだ」
「……」
「だが……そんな奴よりもずっと恐いものがあった。なんだと思う?」
 牧島の問いかけに、刃は答えなかった。
 牧島も答えを期待していたわけではない。
 そのまま続けた。
「それは、人の怨念だ」
 牧島とその父親は、その家を捨てて新しい土地での生活を始めた。
 だが、牧島の父親の心は、最愛の妻を殺した正体不明の男に対する憎しみで占められていた。
 なにかと物に当り散らすようになり、止めようとすると牧島までもが殴られた。
 憎悪ばかりが肥大化し、現実全てを疎ましく思うようになっていたのかもしれない。
 目つきは常にぎょろりとしており、嫌な汗を垂らし続け、異臭を全身から垂らし続ける。
 そんな父親を、牧島はなによりも恐ろしいと思った。
 そんなとき、どこから聞きつけたのか、機関が牧島父子の元にやって来た。
 異常な存在によって、理不尽な目にあった人々の集い。
 その存在を聞きつけて、牧島の父親は迷うことなく機関に参加することを決めた。
 牧島も父親に促される形で参加することになった。
「本当は、あまり乗り気じゃなかったんだけどね」
「何故だ? 母の仇を討ちたいとは思わなかったのか」
「思わないよ。父の姿を見ていると、どうにもそんな気分にはなれなかった」
「ならばお前は、なぜそのような力を……?」
 フリークの力は、異法人を始めとする異常な力を持つ者たちへの復讐心から生まれたものだろう。
 それを身に宿すぐらいだから、牧島は異法人らに対してかなりの恨みを抱いているのではないか、と刃は考えていた。
 しかし当人はさほど乗り気ではなかったという。
 ならば、なぜ牧島にこのような力が与えられたのか。
「適性があったからだ」
 牧島は静かに言った。
「他に理由はない」
 あまりに短すぎる言葉。
 しかし、そこには牧島の本心が見え隠れしていた。
「ある日。突然だった。父は僕に一方的に宣告した。『お前は我らの希望となる。光栄なことだと思え』……冗談じゃない。こんな力を得るために僕は実験動物として扱われるハメになった。信じられないほどの苦痛を味わった。しかし、反対なんて許されなかった。逃げ場はなかった。機関とは……妄執に囚われた人間の集団とは、そういうものだ」
 刃は機関の内情には詳しくない。
 しかし、その中で牧島がどんな立場だったのか、推察することは出来る。
 機関は秘密主義の狂人団体である。そんな彼らは、組織の意向に背く者を許しはしないだろう。
 仮に逃亡を図ったとしても、そう逃げ切れるものではない。機関としては、自分たちの所業を言い触らされては困るはずだ。
 だから、内情を知った者が逃亡した場合、草の根を掻き分けてでも追い、必ず始末しようとするに違いない。
「皮肉なものだね。僕はそういう状況になって、ようやく『異形の力を持つ連中が憎い』と思い始めた。僕がこんな目に合う、そのきっかけになった連中が憎い、とね。
 だけど、それと同時に……機関に対する憎悪も募っていった。僕を直接苦しめたのは奴らだからね」
 牧島にとっては、機関も異形の者も変わりはなかった。
 母親を殺し、全ての原因を作った異形の者。
 直接自分に苦痛を与え続ける機関。
 どちらも『敵』でしかなかった。
「本当は全てを滅ぼしてやりたい気分だった。世界全てが『敵』にしか見えなかった」
 そう言う牧島に対し、刃はかける言葉を持たなかった。
 この男には救いというものが全く見当たらない。
 異法人も機関も、それぞれ仲間を持っている。
 刃には亨や零次、霧島たちがいた。
 機関の研究員たちにも同志がいた。
 だが、牧島は独りだった。
 独りで両者の争いに挟まれ、歪みきってしまっていた。
「だけど、実際に全てを滅ぼすのなんて到底無理な話だ。それぐらいは、分かっている。だから僕は悩んでいた。狂気に蝕まれた僕は、これからどこに行けばいいのか。その答えを、ずっと探し続けていた。柿澤の計画に加担したのも、そのためさ。世界の変革、その中に僕の探している答えがあるかもしれない……そう思った」
 そして。
 結局は、何も見つけられないまま、狂気の産物はここで潰えることになった。
「……対立という構図が出来上がるとき、必ずそこには対立する両者以外の第三者がいる。もっともとばっちりを喰らう第三者が。……そんな連中はどうすればいいのだろうか。争いの原因、自らを苦しめる者たちを根絶やしにすれば良かったのか? それとも、対立の巻き添えを喰らいながら、ひたすらそれを耐え続ければ良かったのか? ――――否、そんなのはどちらも無理だ」
 牧島の声は、少しずつ小さくなっていった。
 もう力がほとんど残されていないのだろう。
 それでも彼は、血を吐くように、切実な思いを込めて、刃に問いかけた。
「教えてくれ、異法人。悪いのは誰だ? 歪んでいるのは何だ? 僕は……どうすれば良かったのだ……?」
 刃は答えない。
 その問いかけに対する答えを、まだ見つけ出せていないから。
 牧島は、その言葉を最後に、静かに息を引き取った。
 刃の目に映る牧島の死に顔には、最後まで人を小馬鹿にしたような笑みが張り付いていた。
 しかし、ガラスに映る牧島の顔は、茫洋としたものだった。
 様々な感情がぶつかり合って歪みきった場合、こんな顔になるのだろう。
「……いつか、お前の問いかけへの答えを……見つけたいと、思う」
 刃はじっと、その死に顔を眺めていた。
 そして、思い出したように携帯をポケットから取り出した。
 地上で待機している榊原に連絡を取れば、赤根を連れ出してくれるだろう。
 刃はここで休んでいれば大丈夫だが、赤根はそうもいかない。早急に医者に診せる必要がある。
 その旨を榊原に連絡すると、刃は重い溜息をついた。
「さて……あいつは、上手くやっているだろうか」
 奥へと向かった弟。
 果たして彼は、今どんな状況にいるのだろうか。
 そのことを案じながら、刃は静かに目を閉じた。

 秋風市北部にある山々の一角に、周囲の風景から浮いた建物があった。
 遠き平安時代、一人の風変わりな貴族が密かに建てたものである。
 それは長き時に渡り人目に晒されることなく、その存在を隠し続けていた。
 この建築物の存在が再び知られたのは、明治・大正を通り越して昭和の世だった。
 当然知る人もいなかったこの建物は手入れもされておらず、朽ち果てる一歩前だった。
「そうして放置されかけていたのを、紆余曲折を経て貴様が買い取ったというわけか」
 建物の中で、ザッハークが一人目を細めた。
「この地からは強力な幻脈を感じる。おそらく、その風変わりな貴族とやらは魔術師か何かだったのであろうな」
 建物自体は大きいものではない。庵程度のものだった。
 特別歴史的価値を感じさせるものでもない、平安時代の建築物としては極々普通のものである。
 ただ、中は高密度の魔力素が充満している。
 建物の中心点からそれは湧き出していた。
 当初は赤間カンパニーで"儀式"を決行する予定だった。
 しかしそれが不可能となったため、止むを得ず『予備用』として用意しておいたこの地に来ていたのである。
 屋根の中心からは、一本の十字架が突き出されていた。
 そこに、遥が磔にされていた。
 意識はなく、ぐったりと頭を垂れている。
 カンパニー地下にいたときのようなボロ布衣装ではなく、なにやら複雑な紋様が描かれた白のローブを着せられていた。
 ちなみにザッハークはただお喋りに興じているわけではない。
 この"儀式"を行うためには大量の魔力を必要とする。
 そのため、先ほどから彼は湧き出てくる魔力素を魔力へと変換する作業に追われていた。
 変換された魔力はザッハークの周囲に溜められていく。
 普通の魔術師ならば貯蔵出来る魔力量には限界があるが、ザッハークにはそれがない。
 そのため、彼の周囲には異常な空気が漂い始めている。
 これが"儀式"のための動力となる。
 遥は魔力を"源泉"へと通すためのリンク・ケーブル。
 カンパニーの地下でフリークが守っている無数の脳は、ケーブルの範囲を拡張させるための補助装置。
 そして、それらを起動させるのが柿澤源次郎である。
 彼はまず庵の周囲に魔方陣を描き、そこにザッハークが用意した魔力を注入した。
 その後も入念な準備を続けている。魔力の流れを操作したり、起動のための補助魔術を幾重にも仕掛けたり。
 全人類の無意識へとアクセスする大儀式である。そう簡単に出来るものではない。
 柿澤はザッハークに返答しない。
 ザッハークもまたそれを期待しているわけではない。
 両者は互いに、相手のことを仲間だなどと思っていないからだ。
 柿澤は世界を変えたいと強く願った。
 それは面白そうだとザッハークが興味を示した。
 そうして手を組んだ。それだけのことである。
 もう随分と長い付き合いになるが、柿澤にはザッハークのことがどうしても理解出来ない。
 ……おそらく奴の方も同様に思っているだろう。
 享楽に身を任せるザッハークと、理想のために全てを投げ捨てた柿澤。
 そんな両者が手を組み、同じようなことをやっているのは皮肉としか言いようがない。
 柿澤は自らの指から流れ落ちる血で、魔方陣の一角に魔術文字を書き加えた。
 その意味するところは『どうか届きたまえ』。
 実際にそれを口に出してみたい気分だった。
 残してきた藤村を心配する心は、柿澤の中には全くなかった。
 彼が無情なわけではない。持てる意識の大半を"儀式"に集中させているからである。
 何が何でも"儀式"を成功させなければならない。そのために全身全霊を賭すことだけが、今の自分に唯一残されている道。
 柿澤はほとんど本気でそう思いこんでいた。
 そんなとき、何者かが接近してくる気配を感じた。
 同時に庵の中からザッハークの声が聞こえてくる。
「どうやら奴ら、お出ましのようだぞ」
 柿澤は揺れる心を押さえつけながら、気配のする方へと歩き出した。
 かつて彼が渇望して、それでも手に入らなかったもの。
 それを携え、今、もっとも会いたくない者たちがやって来る。

 ある程度近づけば、すぐに相手の居場所は分かった。
 ザッハークがなにやら結界を張っているようだったが、それでも隠し切れないほどの大魔力を感じ取ることが出来る。
 涼子、それに美緒でさえ分かるほどの異常な魔力。それが発する異質な空気が、周囲を汚染しつくそうとしているようだった。
「美緒、それに嬢ちゃん」
 ある程度近づくと、先頭を走っていた霧島が立ち止まった。
「二人はここから引き返せ。理由はいちいち言わなくても分かるだろ」
 霧島は振り返らないまま言った。
 二人の反論を聞くつもりはないらしい。
「それよりも、ここから引き返して他の連中に連絡を取ってくれ。出来ればその後、そいつらの道案内もしてくれると助かる」
「霧島さん、でも」
「零次、行くぞ」
 涼子の言葉を完膚なきまでに無視して、霧島は零次に声をかけた。
 零次は涼子を見て、やや躊躇うように繋いでいた手を離した。
「零次さん……」
「ここから先は思いや感情よりも、力が物を言う」
 零次もまた、霧島と同じ意見らしい。
 その言葉には、来て欲しくないという言外の思いが込められている。
「君の姉は必ず救い出してみせる。隊長も説得してみせる。だから君は、待っていて欲しい」
「……」
「頼む」
 そう言い残して、零次は涼子の返答を待たずに駆け出した。
 霧島もそれに並んで走り出す。
 二人を見送る涼子の肩を、美緒が叩いた。
「涼子ちゃん、行こう」
 美緒も悔しそうな顔をしていた。
 あの先にあるのは地獄だ。それは涼子や美緒にだって分かる。
 そんなところに親しい人だけを行かせて、安心出来るはずがない。
「私たちは、私たちの出来ることをしよう」
 いつになく真剣な、そして毅然とした声だった。
 それを聞いて、涼子は今更のように気付いた。
 美緒とて平凡で平穏な日々を過ごしてきたわけではない。
 自分を庇って兄が虐待され続ける環境の中に生きてきた。
 そんな彼女が、柿澤の目的を聞いてどう思ったのか。
 そして、なぜこうしてこの場に立っているのか。
 心のどこかでは、自分ばかりが大変な目に合っているような気がしていた。
 それは違う。
 美緒も、きっと色々な思いを抱えてここまで来たのだろう。
 涼子が知ることのない、美緒だけの物語を通して。
 だからこそ――涼子は、美緒の言葉に頭を振った。
「私は、行かなくちゃ」
「……なんで? 危ないんだよ?」
「知ってる。それでも、私が行って伝えなきゃいけないことがあるから」
 美緒と涼子では、ここに立っている目的が違う。
 だから、出来ること、やるべきことも違ってくる。
 美緒もその辺りはきちんと理解しているようだった。
 どこか呆れたような笑みを浮かべ、頭を掻いた。
「ん、分かった。涼子ちゃんがそう言うのなら私は止めないさ」
「ごめん」
「違い違う、そこでごめんなんて言ったら遺言みたいじゃん。死亡フラグ立っちゃうよ?」
 わざとおどけて、明るくそんなことを言う。
 涼子もつられて笑う。とても笑ってられる状況ではないにも関わらず。
「じゃ、どう言えばいいのよ?」
「――――ありがと。それだけ言ってくれれば私は満足だよ」
 美緒は口元で笑いながらも、真摯な眼差しを向けてきた。
 涼子はそれに対し、穏やかに笑って答えた。
「……うん。ホントにありがと」
 二人は自然に右手をパァンと打ち合わせた。
 お互い相手に向けて、やや不自然なぐらい満面の笑みを向けた。
 そして、二人はそれぞれ進むべき道を駆け出した。
 方向は違う。
 けれど、共に心は前進することだけを考えていた。