異法人の夜-Foreigners night-

-Border Breaks-
第五十一話「意地と意志」
 結界を越える。
 群がる強化人間の残党を蹴散らす。
 一刻も早く先に進もうと、全身が動く。
 無数の残骸を飛び越え。
 幾多の出来事を通って。
 数多の思いを抱いて。
 零次と霧島は、ようやくそこに辿り着いた。
 正面には一件の古びた庵。
 しかし、そこからは禍々しい魔力が所狭しと溢れ出している。
 庵の上には、磔にされた一人の少女。
 そして、庵の前に立ちはだかるのは、二人の男。
「途中で感じた気配から察していたが……零次。まさか、君が来るとはな」
 柿澤は渋面を作って苦々しげに告げる。
 隣に立つザッハークは、薄笑いを浮かべて霧島を見ていた。
「こちらの方は予想通りか。七年に渡る戦い、終わらせるには丁度良い機会だ」
「そうだな。てめぇの命も終われば尚良しだ」
 霧島は軽口で応じると、零次の肩を軽く叩いた。
「俺は野郎を引きつける。隊長はお前に任せた」
「……一人で大丈夫か?」
 零次はザッハークと直接戦ったことがある。
 その経験から、霧島一人で大丈夫だろうか、という不安が生じた。
 それを霧島は笑い飛ばした。
「奴についてお前に心配される理由はねぇよ。あいつの強さを一番理解してるのは俺だ」
「……」
「だからお前は、全力で隊長にぶつかってこい。隊長の辛さを一番理解出来るのは、多分お前だ」
「……ああ。分かった」
 零次が頷くのを確認すると、霧島は満足そうな笑みを浮かべた。
 そして、そのまま一直線にザッハークの元に飛び込んだ。
 ザッハークは口を開けて哄笑しながら、後方へと大きく跳躍する。
 そのまま両者の姿は、庵の向こう側へと消えていった。
 残されたのは、零次と柿澤だけである。
「何か、言いたそうな顔をしているな」
 柿澤は探るような視線を零次に向けてきた。
 零次はそれを正面から見据えて言った。
「俺は、隊長が冬塚たちと話しているのを聞いていました」
「――――」
 柿澤の表情が硬化する。
 さすがにこの言葉は予想していなかったのだろう。
 口元がきつく結ばれ、双眸は徐々に鋭くなっていく。
「単独で我々を尾行していたから、もしやとは思っていたが……。そうか、ではお前はもう全てを知っているのだな」
「ええ。貴方が七年前に冬塚の家族を奪い、そして今また冬塚から大切なものを奪おうとしているということは」
 そう言って零次は遥のことを見上げた。
 涼子に残された、たった一人の姉。
 そして、柿澤や機関の人間によって、その生涯を狂わされた娘。
 ……待っていろ。望みの相手ではないかもしれんが、必ず助ける。
 必ず助けると約束したから。
 そのために、零次は今ここに立っている。
「……私を止めるか? お前は、どちらかといえば私の賛同者になってくれると思っていたが」
「確かに。俺は、貴方の理想には共感出来る」
 柿澤が目指している理想。
 その到達点は、ずっと零次が望んでいたものでもある。
 互いの違いを認め合いながらも、笑い合って過ごしていける世の中。
 自分の存在を卑下しなくてもいい、自分の力を嫌悪しなくてもいい世界。
 そう。
 それは。
 遠い日に夢見た、温かな家庭の光景。
 彼方に消えた、雪の結晶の如き淡い夢。
 決して届かなかった――――輝ける理想郷。
 柿澤もきっと、同じものを思い描いたのだろう。
「しかし、俺は貴方の理想を認めるわけにはいかない」
「なぜだ」
「道が違うからです」
 柿澤が通ろうとしている道は非道に他ならない。
 彼は道なき道を歩いていこうとしている。
 そうすることで、少しでも早く目指したものに辿り着こうとしている。
 けれど。
 それでは、道なき道を行く彼は、何を踏みつけて歩みを進めているのか。
「貴方が通ろうとしている道は、冬塚の苦しみで出来てる。俺は、こんな俺に希望をくれた友人が……」
 零次は一歩前に出た。
 柿澤に少しでも近づき、少しでも言葉を、そして思いを届けるために。
「こんな俺を許してくれた友人が――――貴方に踏みにじられることに、耐えられそうにない」
 例え、その道を行けば早く自らの理想に辿り着けるとしても。
 零次には、絶対に耐えられない。
「俺は彼女が踏み台になるような道を行きたくはない。俺は、彼女と共に自分の理想を、少しずつでもいいから描いていきたいんです」
「戯言を」
 柿澤は短く切って捨てた。
 その眼差しには、軽蔑の色が表れている。
「子供の理想論に耳を傾けるつもりはない。お前の言い分では、救われるのはお前だけだ。この世のあちこちで居場所を見失っている同胞たちは、決して救われることはない」
「そんなことはない、俺は冬塚に出会って救われた。可能性はある、希望はあるんだ。俺たちの未来には……絶望以外の何かが、確かにあるんだ!」
 零次の言葉を聞いて、柿澤は眩しそうに目を細めた。
 口元には微かな苦笑。それは皮肉を表しているのか、喜びを表しているのか。
 次の瞬間――――零次の全身に見えない力が圧しかかってきた。
「……っ」
 全方向から伝わってくる、見えざる力。
 その強さに、零次の本能が危険をありありと感じ取っていた。
「隊長、これは……!」
「昨晩の話を聞いていたなら分かるだろう」
「―――― 不可視の引き手(インビシブル・プレッシャー) ……」
「そう。我が異法にして、冬塚夫妻の命を奪った力だ」
 皮肉げに告げると、柿澤は踵を返した。
「隊長……どこに、行く……!」
「安心しろ。私は無益な殺生は好まん。お前は"儀式"が終わるまで、その場でじっとしていろ」
「っ、ぐっ、ふざけるな……!」
 零次は見えない力に押し潰されそうになりながらも、忌むべき自分の力を解放していく。
 腕、足、身体、頭――――その四つを解放し、力一杯前へと進もうとする。
 だが、それでも零次の身体は動かない。
 ……これが、隊長の力……!
 伊達に異法隊の日本支部を任されていたわけではない。
 零次たちの前で力を使ったことは一度もなかったが、それでも柿澤が桁外れの力を有していることはなんとなく察することが出来た。
 その実態が、ようやく明らかになった。
 予想以上、と言う他ない。
 柿澤はもがく零次に目もくれず、庵の屋根へと飛び移る。
 複雑な紋様の描かれたローブを着せられた遥の元へ、一歩一歩近づいていく。
 その背中は。
 なんだかとても遠いように思えて。
「やめろ……」
 零次の言葉に、柿澤は振り返らない。
 ただ、少しだけ歩みを止めた。
「"儀式"の準備は全て整っている。後は、私が起動させるだけだ」
「そんなことはやめてくれ、父さん――――!」
 届かない背中に対する不安感からか。
 零次は、自分でも知らないうちにそんなことを叫んでいた。
「……父さん、か」
 柿澤は背中を向けたまま、どこか寂しそうに呟いた。
「零次」
 不意に。
 柿澤の声が、隊長としてのものではなくなった。
 それは、まだ物心着く前。
 当たり前のように、家族皆で一緒に暮らしていたであろう頃に聞いたはずの声。
 その懐かしさに、そして、もう二度と聞けないだろうという漠然とした予感に、零次は思わず目を潤ませた。
 そこにいたのは柿澤源次郎という異法隊の隊長ではない。
 久坂源蔵という名の、弱き一人の父親だった。
「母さんと郁奈は、最期に何と言っていた?」
 こんなときに、なぜそんな問いかけをするのか。
 零次には痛いほど分かってしまった。
 "儀式"が始まってしまえば、事の成否に関わらず、柿澤と遥は確実に命を落とす。
 だから、最期にしておきたかったのだろう。
 零次を見つけ出してから、ずっと胸の内に秘めてきた問いかけを。
「そんなこと……急に言われて、思い出せるわけないだろう!?」
 嘘だった。
 零次は忘れたことなどない。
 母と妹が、あの雪山で自分に残した最後の言葉を。
 しかし、ここでそれを言ってしまえば、柿澤は迷うことなく"儀式"を実行してしまう。
 言わないこと。
 それが、零次に出来る精一杯の悪あがきだった。
 しかし、柿澤の決意は固かった。
「すまなかった」
 柿澤はそのままの姿勢で、零次に謝罪の言葉を投げかけた。
 そこには、もう父親としての姿はなかった。
「最後の最後で私も弱気を見せたようだ。忘れてくれ」
 零次の悪あがきなど、通用しなかった。
 久坂源蔵は柿澤源次郎として、"儀式"を決行することに全てを賭けている。
 そこには、いかなる意思の介入も許されない。
 柿澤は純粋過ぎるほどに必死なのだ。
 あまりに多くの者を踏み越えてきたから。
 そうした者たちのためにも、今まで歩んできた道が正しいことを立証しようとしている。
「父さん……!」
 零次が叫ぶ。
 しかし、柿澤は歩みを止めない。
 一歩。
 二歩。
 三歩。
 たったそれだけで、柿澤は遥の前に辿り着いた。
 彼の理想へと向かうための、最後の段に。
「……"儀式"を始める」
 柿澤がそう宣言すると、遥を中心にして、宙に魔方陣が浮かび上がった。
「っ、はぁぁ……う、くぅ……」
 意識を失っている遥が苦悶の声を漏らす。
 それを無視して、柿澤は口早に呪文を詠唱し続けていた。
 最初は赤だった魔方陣が、次第に青に変わっていく。
 遥の苦悶の声が、より大きなものになっていく。
 ……やるしかないのか。
 もはや他に手段はない。
 零次は、内に秘められた最後の力――翼を解放するため、背中に力を込めた。
 全ての力を解放したら、理性が消し飛んでしまう。
 遥を傷つけたり、柿澤を殺してしまう可能性もあった。
 零次としては、そんなことは絶対に避けたい。だから、全解放はやりたくはなかった。
 しかし、このままでは放っておいても二人は死ぬ。
 それならば、一か八か賭けてみるしかない。
 零次がそう決断した――――その瞬間だった。
「ぬ……!?」
 それに気付いたのは柿澤の方が早かった。
 彼は呪文詠唱を中断し、突如振り返って自らを守るように小型の結界を張った。
 それに一瞬遅れて――柿澤の元に、いくつもの魔弾が炸裂した。
 魔弾は全て結界に弾かれる。そして、その形を失わないまま射手の元へと戻っていく。
 蒼き魔銃を手にしたのは、ポニーテールをなびかせた利発そうな少女。
 零次に希望を与え、柿澤によって家族を奪われ、そして今、七年前の真実を取り戻し、ここまでやって来た少女。
 その名を、
「冬塚……!」
 ――――冬塚涼子という。

 見るからに禍々しい魔力。
 涼子の目にもはっきりと映るほど強大なそれは、忌むべき蛇の魔力を思い起こさせる。
 その中心にいるのは遥だった。随分と懐かしい気がする。
 その前に立ちはだかるのは柿澤源次郎。
 そして、
「なんで、君がここに……」
 非難するような眼差しを向けてくる、心配性の友人が一人。
 どうやら霧島とザッハークは奥の方で激戦を繰り広げているらしい。
 少し離れたところから、高密度の魔力がぶつかり合う気配がしていた。
 涼子は零次に向かって微笑みかけた。
「私、納得いかないことにはしつこい性質なの」
 そして笑みを引っ込め、視線を柿澤へと移す。
「だから、ここに来た。貴方を止めて、遥さんを取り戻すために」
「……君に何が出来る?」
 柿澤は、むしろ同情するように言った。
 涼子は異法人ではない。
 魔術師ですらない。泉家の出だけに素質はあるのかもしれないが、今はまだ普通の人間と変わらない。
 柿澤と戦う力など、ほとんど持ち合わせていない。
 彼女にあるのはたった一つ。
 遥がかつて使っていた水の魔銃ヴェー。
 それだけである。
 無謀だということは分かっている。
 それでも、涼子は引く気にはなれなかった。
 なぜか。
 理由はいろいろある。
 遥を助けたい。
 零次を放っておけない。
 ザッハークをぶっ飛ばしたい。
 柿澤源次郎に説教をしてやりたい。
 しかし、それらは建前に過ぎないのかもしれない、と涼子は自分で思っている。
 家族を奪われ、記憶を好き勝手にされ、命まで狙われて。
 そこまでされて、黙って引っ込んでいられるほど涼子はおとなしくない。
 要するに、根底にあるのはそんなシンプルナ感情なのだろう。
「出来ることなんて、いくらでもあるわ」
 涼子は銃を眼前に構えた。
 銃口は天へ。
 銃を握る手には、ありったけの力を注ぎこむ。
「私は――――それを証明するためにここに来た!」
 刹那、天に三発の魔弾が放たれる。
 それらはどれも、クリスタルブルーの輝きを放っていた。
 魔弾の姿はすぐに宙に溶けて消える。
 そして、次の瞬間には柿澤の頭上へと降りかかっていった。
「ぐっ!?」
 頭上に結界を張り魔弾を弾く柿澤。
 しかし魔弾は弾かれても消えることなく、高速で軌道を描いて柿澤を狙い始めた。
「確かに私は貴方みたいな理想を持ってない。自分の都合でしか戦ってない。それに、貴方たちに比べればホントに無力でしょうよ!」
 言いながら、涼子はもう三発魔弾を放った。
「でもね。……だからって、家族を見殺しに出来るわけないじゃない! そうなったら、足掻くに決まってるでしょうが!」
 涼子の額からは、汗が滲み出ていた。
 彼女は遥と違い、さほど魔力を持っているわけではない。
 何度も魔弾を放っていれば、すぐに限界に達してしまう。
 それに、涼子は今魔弾の遠隔操作も行っている。
 この動作は数回練習しただけなので、相当の集中力が必要だった。
 もっとも、たった数回練習しただけにしては、かなり精密に操作している。
 それも一種の才能なのだが、必死の涼子はそんなことに気付いていられない。
 ……これ以上無駄撃ちは出来ないわね。
 既に放たれている魔弾を上手く使うしかない。
 そう判断すると、涼子は柿澤が動くよりも早く、周囲の森に飛び込んだ。
 柿澤の 不可視の引き手(インビシブル・プレッシャー) は強力な力である。
 まともに立ち向かっては、ただの人間である涼子に勝ち目はない。
 姿を捕捉されないように立ち回り、細かい攻撃を仕掛けていくのが最良なのである。
「それで、隠れたつもりか……!」
 走る涼子の後を追うように、森の木々が次々と薙ぎ倒されていく。
 森ごと涼子を叩き潰そうというつもりらしい。
 ……くっ、まずいわね。
 梢や零次といった異法人ならともかく、涼子は普通の高校生だ。運動もあまり得意ではない。
 幹や枝などを避けながら森を走るというのは、かなり難しい。
 どうしても速度は遅くなってしまう。
 柿澤の攻撃は、すぐに涼子に追いつこうとしていた。
 後一歩。
 そのタイミングで、涼子は一気に後方へと飛び退いた。
 薙ぎ倒された木の間に身を潜ませると同時、涼子がいた場所に見えないハンマーが落ちてきた。
 そう表現するのが適切だろう。
 木はぐしゃりと変形しながら薙ぎ倒され、地面には深い窪みが出来ていた。
 おそらく地下からの引力を瞬間的に高めたに違いない。それも、かなりの強さで。
 ぞっとする。
 自分が今対峙している相手が、正真正銘の強者であることに。
 しかも、その強者は昨日の宣言通り、一切手加減するつもりはないらしい。
 ……まだ零次さんは動けないみたいね。
 自分の方に注意を向ければ、その分零次に対する意識も薄れる。
 そうすれば零次にかかる引力の強さも薄れ、動けるようになる――そう思っていたのだが。
 ……私への攻撃を見る限り、自動じゃなくて手動発動の力みたいだし。
 もう少し気を逸らさなければ駄目か、と涼子は結論づけた。
 と同時に意識を魔弾へと向ける。
 柿澤に弾き飛ばされた魔弾は若干弱まっていたが、まだ健在である。
 それらを柿澤の足元に向けて飛ばすと、涼子は自分自身も走り出した。
 出来るだけ零次から離れる形で移動する。
 薙ぎ倒された木の残骸を必死の速さで乗り越え、涼子は庵の正面から左手に駆け抜ける。
 その間、柿澤を引きつけていた魔弾はあっさり全滅していた。
 ……桁違いね。
 分かっていた。
 いくら魔銃を持ったところで、強化人間にすら適わない自分が、柿澤源次郎に太刀打ち出来るはずがない。
 柿澤は一瞬動きを止めたが、一秒もしないうちに涼子の方を見た。
 その表情からは、何の感情も見受けられない。
 涼子のことは、邪魔だから始末する、としか考えていないのだろう。
 ……だからって。
 そして、柿澤は飛翔した。
 自分自身に力を使うことで、爆発的な跳躍力を得たのである。
 迫り来る柿澤と、正面から目が合った。
 何者に対しても引かぬ修羅の目だった。
 言葉は届かず。
 力では遠く及ばず。
 しかし涼子は引かない。
 真正面から柿澤を睨み据える。
 意識を、迫り来る相手にのみ集中させる。
 ……引くつもりは、毛頭ないッ!
 柿澤と対等の意志を持って、涼子は手にした蒼銃を相手へ向けた。 
 迷うことなく、最大の力を持って魔弾を放つ。
 だが、柿澤は涼子の行動などお見通しだった。
 飛翔と共に、自身を小型の結界で覆っていたらしい。
 涼子の放った最高の魔弾は、あっさりと結界に弾き飛ばされた。
 次の瞬間、涼子の腹部に鉄球が直撃したかのような衝撃が走った。
 ……っ!?
 次いで足が地から離れ、空気の海に放り出されたような感覚。
 ……あ、ぐっ!
 そして最後に、身体の中心から全体へ一気に痛みが広がった。
 腹部を柿澤に殴られた。
 そんな単純なことを理解するよりも早く、涼子の眼前に太い木が迫る。
 何を考える暇もなかった。
 涼子の身体はそのまま一直線に木に向かう。
 だが、彼女が木に激突することはなかった。
 その直前、がっしりとした黒い腕が、彼女の身体をしっかりと抱きかかえたからだ。
「……すまない。助かった」
 驚きで思考が停止したままの涼子を抱きかかえて、黒い腕の持ち主はすぐさま跳躍する。
 そして涼子を庵の手前でそっと降ろすと、息をつく間もなく柿澤に向かって飛び掛る。
 その背中には、漆黒の翼が広がっていた。
 悪魔の如きその翼を見て、しかし涼子は別の感想を持った。
 まるで。
 ――――救いの天使のようだ、と。

 二人を除いて、景色だけが取り残されている。
 霧島直人とザッハークの戦いは常にそうだった。
 超高速戦闘。
 速度では霧島が上回る。
 しかしその直線的な軌道は、ザッハークの技によって打ち消される。
 ザッハークの攻撃は、霧島の速さに届かない。
 そうやって。
 この二人は、七年間ずっと戦い続けてきた。
「重畳であるぞ、復讐者――――!」
 四肢を総動員して霧島の攻撃を弾きながら、ザッハークは歓喜の声を上げた。
「貴様の命は着実に衰えている。されど貴様の速さと意志は、死の瞬間まで僅かたりとも衰えることはないと見える……!」
 ザッハークがそう口にする間だけでも、霧島は三十回以上の突撃を仕掛けた。
 確かに霧島の速さは衰えることを知らない。
 モルト・ヴィヴァーチェは、やろうと思えばどこまでも速度を倍増させることが出来る。
 少なくとも霧島は、この能力を使っていて限界を感じたことは一度もない。
 しかし、あまりに無茶な速度倍加は、霧島の身体に強大な負担をかける。
 今の霧島は、身体の限界を越えた状態で力を使いながら戦っている。
 命を削りながら、この宿敵との最終決戦に臨んでいるのだ。
 だが、それでも。
 互いに互いを知り尽くした相手だけに、決着は早々訪れない。
 霧島がどれだけ身体を酷使していても、いつもと同じでは意味がないのである。
 それはこの数分で痛感した。
 だから、霧島は動くのを止めた。
 ザッハークの正面に着地し、静かに腰を落とす。
 肩が大きく揺れており、顔色も大分悪くなっている。
 戦い抜くために行った、数度の人体改造。
 模造品だらけの偽作と化した身体では、心臓にかかる負担が半端ではない。
 呼吸する度に胸に激痛が走る。思い切り血反吐をぶちまけたくなるような気分だった。
「それで終わりではないだろう」
 動きを止めた霧島を、あくまでザッハークは強敵として見ていた。
 決して油断せず、しかし顔には狂喜の色を浮かべながら、静かに両の拳を握り締めている。
 その背後には、強大すぎる魔力の渦。
 この地の魔力素から精製されたとしても、多すぎる。
 吉崎とヴィリによって、ザッハークの魔力は大分減ったはずなのだが。
「てめぇ、その油ぎったような魔力はどっから持ってきやがった」
「これか。……ふむ、喰ろうただけだが」
 ザッハークはちらりと庵の方を見た。
 二人は森の中にいるため、庵の方がどうなっているか、正確なところは分からない。
 ただ、予期せぬ第三者が乱入したことは察していた。そして、それが誰なのかも。
「リンクの機能は"儀式"に全て注ぎ込むことになった。だからリンクの支配下にあった強化人間どもは不要となったのだ。それを有効利用した。それだけのこと」
 ザッハークは魔力の性質を自在に変化させることが出来る。
 自身の魔力そのものを武器にしたり、他者の魔力を強引に奪い取ったりすることが可能なのだ。
「ふん。連中の魔力を根こそぎ奪ったってわけか」
「"儀式"には大量の魔力が必要なのでな」
「あー、そうかい」
 霧島は右手にナイフを持つ。
 状態維持の加護を持つそのナイフは、刃こぼれすることなく、また錆びることもない。
 霧島はこのナイフを『 折れぬ心(ストレイト・ハート) 』と呼んでいる。
「……最後に一つ聞かせろ」
「なんだ」
「てめぇは、何を求めて隊長に手を貸した」
 霧島の問いに、ザッハークはぴくりと眉を動かした。
 そして、不快そうな眼差しで吐き捨てるように言う。
「今の世界を、貴様はどう思っている」
「……いきなりだな。そんなもん、深く考えたことなんざねーよ」
「私は我慢がならぬ。この腐りきった世が。霊長類を自称する愚物どもがはびこる世界がな」
 ザッハークは本気で怒りを感じているようだった。
 霧島ではなく、もっと他の何かを睨んでいる。
 隠し切れない殺意を抱きながら。
「個人のための結託。大義名分の正義と、そこから外れた悪。大多数の愚者が一人の賢者を抹殺し、己の責任一つ負えぬ小人が才ある大人を潰す。自らの意志だけが真実だと豪語し、他者の言を頭から否定する視野狭窄の者ども。優れた存在を大多数で潰し、進化の可能性を自ら閉ざし、勝手に自らの危機を招き、それに立ち向かいもせず享受もしない、半端者ばかりの腐りきった世界だ」
「はっ、意外だな。お前、厭世家だったのか」
「誰でもそうだ。特に、我らのような異能の者はその傾向が強い。……貴様とて、この世界に対し理不尽を感じたことは一度や二度ではあるまい」
「……」
 大衆に潰される少数。
 それは、そのまま人間と異法人の関係を表している。
 価値において、多数の愚者と一人の才人では比べ物にならない。
 しかし、力となると話は別である。いかに個が優れた力を持とうと、大衆の力には適わない。
 霧島だって世界中――否、日本中の人間が敵に回れば勝てないだろう。
 それは規格外とされているザッハークとて例外ではない。
 数というのは、それだけで力になる。
 だが、それは決して価値に繋がるわけではない。
「そんな世界を私は変える。そのために奴と契約を交わした。この腐った世を変えるために」
「……なるほどな」
 霧島は軽く頭を振る。
 そしてザッハークの双眸と、正面から対峙した。
「生憎、俺は面倒くさいことはすぐに忘れる性質なんだ。ちっとでも良いことがありゃあな。……だから、今の世界は捨てがたい。てめぇの説に同意は出来ない」
 そう言って。
 次の瞬間、霧島の姿は消えた。
 と同時。
 ザッハークの右腕の、肘から先が。
 前触れなく、斬り飛ばされた。
「――――ク」
 ザッハ-クはその事実に、満足そうな笑みを浮かべた。
 これが、宿敵の放った最後にして最高の攻撃だと察したからである。
 霧島の姿はない。
 移動する気配もない。
 それでも――すぐさま、今度は左足の膝下が切断された。
 バランスを崩したザッハークの右肩が、半ば以上切り裂かれる。
 そこでようやく、ザッハークは自身を魔力の鎧で覆った。
 ザッハークの反応が遅かったわけではない。
 霧島の姿が消えてからザッハークが防御を完成させるまで、一秒と経っていないのだ。
 霧島の速さは、ここに来て更に跳ね上がっている。
 もはやザッハークでさえ視認することの適わない、そんな領域に達しようとしていた。
 霧島は、世界がほとんど止まったように感じていた。
 ザッハークの動きでさえ、スローモーションに映る世界。
 それだけの速さである。霧島自身にかかる負担は、これまでの比ではない。
 故に、霧島は勝負を急ぐ。
 次いでザッハークの右腕を肩から完全に切断し、次いで腹部を大きく切り裂く。
 飛び散る血さえもが、ほとんど動かない。
 ザッハークの魔力は、鎧としてほとんど機能しなかった。
 超速で迫る霧島の勢いに負けて、紙くずのように破かれている。
 ……次で終わらせる!
 七年前。
 優香を見失った日から始まった、終わりの見えない戦い。
 それに終止符を打つため、霧島は 折れぬ心(ストレイト・ハート) をザッハーク目掛けて振り下ろした。
 しかし。
 ――どくん。
 ナイフを振り下ろしながら、霧島は自分の心臓が大きく跳ね上がる音を聞いた気がした。
 それはまるで、終わりのときを告げる鐘の音のようだった。
 身体を構成する上でもっとも大切な部分のネジが、次々と弾け跳んでいくような感覚。
 ……くっ!
 後少しでいい。
 ほんの僅かな時間、刹那の間だけでも動ければそれでいいのだ。
「おおおおおおぉぉぉぉッ!」
 身体を鼓舞するように、霧島は渾身の力で吼える。
 ――――そして霧島の、七年間戦い続けた身体は、ついに、その終焉を迎えた。

 柿澤は信じられなかった。
 目の前の光景が。
 自分に向かって来る、漆黒の悪魔が。
 その瞳に、意志を宿らせていることに。
「馬鹿な……!」
 零次は全ての力を解放していた。
 にも関わらず、正気を保っている。
 冬塚涼子を救い出し、柿澤の力を突破しようとしてくる。
 豪風と共に繰り出される拳が、柿澤の頬を切り裂く。
 柿澤が引力で動きを封じようとすると、いち早くそれを察し、その場を離脱する。
 敵を打ち砕く拳。
 大地を駆ける足。
 戦い抜くための身体。
 全てを見聞きする頭部。
 大空を翔るための黒翼。
 そして――――大切なものを守ろうとする意思。
 それら全てを得た零次は、もはや自分の意思に負けた子供ではない。
 柿澤と対等の力、そして意思を持った相手である。
 零次の動きは無駄がなく、速く、そして力強い。
 次第に柿澤は、それに翻弄されつつあった。
 ……なぜだ。
 柿澤は戸惑いを隠せなかった。
 確かに零次は強い。今の零次は、これまでにない実力を持っている。
 しかし、それでも柿澤には及ばない。
 零次の実力が柿澤に追いつくには、まだ最低でも数年は必要だろう。
 ……では、なぜ私が押されている!?
 零次が発生させた突風を避けながら、柿澤は自身に問いかけた。
 柿澤は気付いていない。
 彼が押されているのは、零次の実力によって、ではない。
 零次の、かつてないほどの強き意思。
 そして、それと共に柿澤に立ちはだかる涼子の意思。
 その二つこそが、柿澤を無意識のうちに戸惑わせているものの正体である。
「ぬううぅん!」
 戸惑いを無理矢理振り払うように、柿澤は零次を後方へと"引いた"。
 後方からの力に負けた零次は木に激突する。
 その間に、柿澤は素早く庵の屋上に飛び移った。
 ……戦闘続行は下策だ。
 このまま戦い続けていては、どんな不測の事態が起きるか分からない。
 それに、今の零次が相手では、最悪の場合敗北することもありえる。
 そんな結末は、柿澤の許容出来るものではない。
 彼は"儀式"を完遂するためだけに生きてきた。
 失敗は許されない。犠牲にしてきた者たちのためにも。
 その中には、かつて失われた自身の家族や、七年前その手にかけた冬塚夫妻。
 そして、八島優香も含まれている。
 柿澤は遥の正面に立つと、早口で詠唱を再開した。
 停止していた魔方陣が、再び動き始める。
「――――させるかッ!」
 ただ暴れるだけではない。
 確かな意思の込められた声が、柿澤の耳に届く。
 柿澤は詠唱を止めず、視線だけで零次を捕捉すると、再び後方へと押し返した。
 しかし、それに負けじと再び零次は柿澤の元へ向かってくる。
 柿澤は詠唱を進める。
 魔方陣は上下五段に分離し、それぞれが異なる速度で回転を始める。
 その都度、遥の唇から零れる苦悶の声は大きくなっていく。
 そして、その都度零次の抵抗は凄まじいものになっていった。
「ぐ……!」
 儀式に集中力を割かねばならない分、零次に対して全力を出すことが出来ない。
 そのせいか、零次が 不可視の引き手(インビシブル・プレッシャー) を突破する気配が現れ始めた。
 片方に集中することは出来ない。そのことが、柿澤の精神を磨耗させていく。
 ……ここで諦めることは、出来ん!
 柿澤の唱えた一節に反応して、魔方陣が大きく輝きだした。
 同時に、遥の身体も淡く光りだす。
「深淵の水源、混沌の落ちし場所、霊長の起源、三番目の起源――――我、ここに道を開く」
 詠唱も終わりに近づきつつあった。
 あと二節。それさえ唱えれば、"儀式"は発動する。
 ……もう少しだ……!
 七年間。
 様々な者を利用し、犠牲にしてきた。
 皆殺しにした機関の者たち。
 犠牲となった八島家の人々。
 冬塚夫妻と、冬塚涼子。
 霧島直人と、八島優香。
 零次や藤村、それに異法隊の者たち。
 そして、倉凪梢に遥。
 他にも――――本当に大勢の人々。
 彼らは決して柿澤の行動を認めないだろう。
 許しもしないだろう。
 それでも構わない。
 誰かに認められたくてこんなことをしたわけではない。
 ただ、この現状を変えたかった。
 救えなかった人々を想う度に、それより多くの誰かを救いたいと切望した。
 例え無間地獄に落ちるとしても。
 例え我が子に憎悪されようとも。
 我が子に救いをもたらした少女を泣かせようとも。
 それでも――――彼は止まれない。
「今、我が意志を以って世界に挑む」
 詠唱が、残り一節になる。
 その瞬間。
 柿澤が気を抜いたからか、零次が死に物狂いの力を出したからか。
 ついに零次が、 不可視の引き手(インビシブル・プレッシャー) を突破した。
 ……だが、こちらが速い!
「おおおぉぉぉぉぉっ!」
 決死の表情でこちらに迫り来る零次を見て、柿澤はふと穏やかな感情を抱いた。
 良い顔をするようになった、と思う。
 同時に、屋根に手をかけて顔を出した少女の顔も見えた。
 本当に申し訳ない、と思う。
 不意に浮かんだ二つの感情。
 それを瞬時に消し去り、柿澤は最後の節を唱えようとした。
 刹那。
 柿澤は背後から、巨大な薄紫の爪によって貫かれた。

 腹が痛むのを抑え、どうにか屋根によじ登る。
 その直後、涼子は柿澤が串刺しにされた瞬間を目撃した。
 眼前で血が飛び散り、涼子の顔にもぴしゃりとかかった。
 涼子は動けなかった。
 落ちないよう、屋根にしがみつくのがやっとだった。
 柿澤は何が起きたか分からないようだった。
 しばらく呆然と虚空を眺めていた。
 が、やがて視線を自分の腹部に下ろす。
 自身の身体を貫く爪。
 そして、そこから流れ落ちるどす黒い血。
 確かめるように腹部をさすると、手にもべったりと血が付着した。
 それを凝視すると、柿澤は始めて言葉を発した。
「……なぜだ」
 声には、理不尽に対する怒り、純粋な疑問――そして、打ちひしがれた老人の如き絶望の色が込められていた。
「どういうつもりだ、ザッハーク……!」
 柿澤は振り返り、そこに立っている男を凝視する。
 その目が、驚愕で一瞬大きく見開かれた。
 ザッハークもまた、柿澤と同等の傷を負っていたのだ。
 四肢の半分を損失している上に、胸からは血が滲み出ている。
 それでもなお、ザッハークはそこに立ち、柿澤源次郎を背後から串刺しにしていた。
「当然のことだ」
 ザッハークはにこりともせず、冷たく言い放つ。
「貴様は、我ら異法人と人間どもの争いを鎮めるためにこの"儀式"を行おうとした。――――そんな貴様が、私の存在を容認しておくとは思えん」
「……っ!」
 柿澤の顔に、苦々しげなものが表れた。
「貴様は誰にも言わなかったようだが……」
 と、ザッハークは涼子や零次の方をちらりと見た。
 涼子は屋根にしがみついたまま動けない。
 零次もまた、突然の事態に戸惑い、空中で止まっていた。
「"儀式"において、貴様は二つのことを実行するつもりだったのだろう? 一つは、人間どもと異法人の間にある争いの根を取り払うこと。そしてもう一つは――――私のような、両者の争いの種となる者の処理」
 柿澤は肯定も否定もしなかった。
 口惜しげに表情を歪ませ、ザッハークを睨みつけている。
「そうでなければ、例え"儀式"が成功したとしても意味はない。私のような存在を放逐しておけば、同じことの繰り返し。貴様がそれに気付かぬはずがない」
「……貴様、全てを承知で」
「ああ。貴様の狙いを看破し、その上で付き合ってやった。それが私の"契約"だ」
 ザッハークは柿澤から爪を引き抜くと、そのまま左腕で遥を抱き上げる。
 ぐったりとした少女は、抵抗する気配もない。
「全ては私が"儀式"を行うためのもの。ここから先は、私とこの女がいれば充分だ」
「ザッハーク……貴様、"儀式"で何をするつもりだ」
 爪を引き抜かれたからか、柿澤は地に膝をついていた。
 それでも面を上げ、ザッハークを正面から睨み据えている。
「知れたこと」
 ザッハークは吐き捨てるように言った。
「人間どもとの講和など一時的なものに過ぎん。そんなものは真の解決とは言えぬ。私が真に望むのは、そんなものではない」
「……まさか」
 柿澤には思い当たることがあるらしい。
 ザッハークに向ける眼差しに、戦慄の色が表れていた。
「そう。我はくだらぬ境界を破壊する。異法人どもを常識という鎖から解き放つ。虐げられてきた異能の者たちを蜂起させる」
 そうすることで何が起きるのか。
 涼子にも、おぼろげながら理解出来た。
「人間どもに合わせる必要はない。無能な大衆に従う道理はない。力を持つ者は力を振るう。弱い癖に吼える犬をのさばらせておく必要はない。世界は、有能なる者が支配する。……それが進化というものだ」
 そして、ザッハークは高らかに宣言した。
「我が望むのは――――全面戦争の幕開けだ」
 ザッハークは。
 あの蛇は、人間の世の終わりを宣告した。
 今の世界を支配する人を滅ぼすと、本気で言い放った。
 それは決して夢物語ではないだろう。
 異法人。それに、他の異能の者たち。
 彼らの中で、現状を憂いている者は大勢いるだろう。
 憤懣を抱く者も沢山いるはずである。
 彼らが結託し、一斉に蜂起すれば、どうなるのか。
 最後にどちらが勝つかは分からない。
 それでも、相当数の人々が犠牲になるのは容易に想像がつく。
「世界を悪意で満たすつもりか。正気の沙汰ではない……!」
 柿澤が呻いた。
 確かにザッハークの言葉は狂気に満ち溢れている。
 正気など欠片も見当たらない。
 しかし。
 この蛇は――――元々そういうものだった。
「正気など、とうに捨てたわ」
 そう言うと、ザッハークはその身をふわりと宙に浮かばせた。
「さらばだ、愚かな契約者よ。我が契約はここに破棄する。そこで大人しく"儀式"の完成を見届けよ」
 無情な言葉を残し、ザッハークは遥を抱きかかえたまま飛翔した。
 大怪我を負っているにも関わらず、その速さは尋常なものではない。
 涼子はそれを呆然と見送ることしか出来なかった。
 しばらくの間、思考が停止していた。
「う……」
 目の前で柿澤の身体が崩れ落ちる。
 それを見て、涼子は正気を取り戻した。
 慌てて屋根を上ろうとする彼女を、零次がそっと抱きかかえた。
 二人一緒に屋根の上に降り立ち、柿澤の元に駆け寄る。
「……父さん」
 零次が柿澤の身体をそっと抱える。
 柿澤の怪我は酷いものだった。
 腹に三つの大穴が開いている。
 幸い心臓は避けたみたいだが、到底助かる見込みはなかった。
 涼子にとって、柿澤は敵と言う他ない相手だった。
 恨みはある。深い憎しみも抱いている。
 それでも、完全には憎みきれなかった。
 柿澤の表情は枯れていた。
 全てを投げ捨ててでも、成し遂げようとしていたこと。
 それを、後一歩のところでしくじった。
 涼子には理解出来ないほどの、深い嘆きが胸中にあるに違いなかった。
 だが、そんな柿澤が二人に言った言葉は、微塵もそれを感じさせないものだった。
「行け」
 掠れた声で、短くそれだけを告げる。
「……お前たちの道は、途絶えていない。途絶えさせたくなければ、すぐに奴を追え」
「でも、父さん……!」
 零次は泣きそうな顔だった。
 無理もない。
 涼子にとって、遥が最後の肉親であるように。
 零次にとっては、柿澤が最後の肉親なのだ。
 放っていくことなど出来ないのだろう。
 そんな息子を突き放すように、柿澤は冷たく言った。
「既に、私の手によって、リンクは起動可能状態にある。……後は大量の魔力、それに増幅器があれば、ザッハーク一人でも"儀式"を行える状態だ。……時間がない。行くがいい」
 そう言って、柿澤は静かに目を閉じた。
 もはやこれ以外に話すことなど何もない、と言いたげな態度だった。
 そんな父を前にし、零次は逡巡していた。
 涼子は黙っていた。
 彼女としては、一刻も早くザッハークを追って、遥を助けたかった。
 しかし、そのためには零次の力がいる。
 魔力をほとんど使い果たした彼女には、もう戦う力がない。
 ザッハークの相手は無理だった。
 だからと言って、零次の気持ちを無視することは出来なかった。
 やっと父子として再会出来た二人。
 その最後の瞬間を引き裂くことなど、誰にも許されはしない。
 零次は、柿澤と涼子の顔を見比べた。
 そして、そっと涼子に向かって頷きかけた。
「……いいの?」
「ああ」
 零次は涼子を抱きかかえると、少しだけ柿澤の方を振り返った。
「父さん」
「……」
「郁奈は、眠るように息を引き取ったよ。その前の晩、『生まれ変われたら、今度は皆幸せになれるかな』と言っていた。それが、最後の言葉だった。……母さんは最後にこう言ってた。俺には『生きなさい』と。そして、父さんに会ったら『ごめんなさい』と伝えておいてくれと」
「……そうか」
 柿澤は小さく頷いた。
 それだけだった。
 零次は静かに黒翼をはためかせ、庵の上空に飛び立った。
 ザッハークがいなくなった影響か、毒々しい空気は薄れつつある。
 涼子はふと、霧島のことが気になって、視線を下に下ろした。
 しかし、どこにも彼の姿は見当たらなかった。
 今は探している時間もない。
「冬塚」
「ん……」
 確かめるように名前を呼ぶ零次に、涼子はそっと頷いた。
 山奥の、人から忘れ去られた小さな庵。
 そこから離れることに、後ろめたいものを感じながら。
「……行こう」
「ええ。行きましょう」
 二人は、ザッハークの気配を追って飛翔した。

 多くの心が胸の内に広がっていく。
 歪な争いに挟まれ、行き場を失くした奇形の心。
 全てを投げ捨て、悲願を果たそうとするも、適わなかった男の心。
 大きな悲しみを胸に秘めつつ、まだ立ち向かう意志を捨てない二人の心。
 何も持たない身であるからこそ、必死に生きようとする男の心。
 守り続けてきた者との別離と、新たな決意を抱き始めた男の心。
 自分で動くことを決意し、そのため懸命に暗き通路を走り続ける心。
 意味なき生に意味を見出し、間違っていると思いつつも主に仕え続けた矛盾の心。
 大切な者との約束を果たそうと、一人奮闘し続けた気高き心。
 誰もが必死だった。
 必死に、自らが入り込んだ迷路の出口を探し求めている。
 今、自分が何をすべきなのか。それを必死に考え続けている。
 すぐ側には、破滅を望む異端の心があった。
 終わりの見えない狂気は循環する度に濃度を増していく。
 それは、『世界の敵』と呼ばれるべき心だった。
 空っぽの心は、それら全てを受け入れる。
 拒む理由はない。心が空なのだから、何とも思わない。
 しかし、空っぽなはずの心の片隅には、少しだけ染みがついていた。
 幾多の苦しみと辱め、そして痛みから逃れるために、全てを捨て去ったはずの心。
 その中にぽつんと、ほんの僅かに残っていた染みがあった。
 それは希望。
 かつて一人の少年から与えられ、次いで一人の少年によって形を成したもの。
 その希望は、とても大きく、そして力強い心と繋がろうとしている。
 しかし、すぐ側にある破滅の心はそれを許さない。
 空っぽの心に一つだけある『希望』の染み。
 それは、容赦なく塗り潰されようとしていた。

 誰かの助けを呼ぶ声が聞こえた。
 そして、梢は目覚めた。
 幸町診療所のベッドの上。
 そこに寝かされていたらしい。
 外を見ると、既に周囲は暗くなろうとしていた。
 部屋の壁にかけてあった時計を見る。時刻は午後八時を回っていた。
 梢は上半身を起こすと、自分の右腕を見た。
 幸町によって取り付けられた、新たな腕。
 かつて霧島が使っていたという義腕。
 試しに拳を握ってみる。
 驚くべきことに、本物と同じような感覚で握ることが出来た。
 若干、細かい部分で違和感を抱いたが、実戦で使う分には問題ない。
 それだけ分かれば充分だった。
 すぐさまベッドから跳ね起き、簡単な身支度を済ませると部屋から出る。
 出口に向かう通路には、幸町、藤田、斎藤の三人がいた。
「調子は?」
「万全だ」
 幸町の問いに、梢は右腕を掲げて答える。
「行くか」
「ああ」
 藤田と斎藤の問いに、梢は頷いて答える。
「さっき美緒ちゃんから連絡があった」
「残る敵はザッハークだけ。重傷を負いながらも遥を連れ去り、今はカンパニーの屋上にいる」
「そうか。なら、俺がやることは簡単だな」
 梢は幸町診療所を出ると、カンパニーがある方角に鋭い視線を向けた。
 強く拳を握り締めながら、助けたいと願う少女の姿を思い浮かべる。
 誰からも、何も与えられなかった少女。
 些細な自由も許されなかった少女。
 全てを奪われた少女。
 いい加減、そんな悲劇は終わらせたい。
 そして、またあの家で、彼女の笑顔を見たい。
 それは、どんな大義名分にも変えがたい、幸せのための最初の一歩。
 梢はそれを勝ち取るために行く。
 抗うことさえ許されない彼女のために、代わりに存分に抗い尽くす。
「――――行くぜ。あの蛇野郎をぶちのめして、遥を取り返すッ!」
 長い夜を終わらせるため。
 最後の一人が、動き出した。