異法人の夜-Foreigners night-

-Border Breaks-
最終話(前編)「彼女の望む明日」
 ようやく、終わろうとしていた。

 梢は、今でもたまに思い悩むことがある。
 自分の力のこと。
 今の生活のこと。
 周りにいる人々のこと。
 なぜ、自分はこんな力を持って生まれてきたのか。
 明確な答えはない。自分で適当な結論を出すしかない。
 今まで自分がどうしてきたか。その道を振り返ることで、自分なりの解答を見出すしかない。
 たまに、この力が恐くなることがある。
 人に知られたくないと思うこともある。
 忌むべきものだと思うこともある。
 しかし、そんなときに思い出す。
 自分がこれまで歩んできた道のりを。
 化け物だと罵られ、虐待を受けたこともあった。
 気味の悪い子供だと言われたこともあった。
 異様な力を持ってしまったがために、いらぬ苦痛を味わってきた。
 だが、笑って過ごせた時もあった。
 人の常識から外れた存在。
 そんな自分でも、普通に笑って過ごせる時間があった。
 普通とは違う――――それは決して悪いことではない。
 間違ったことではない。
 許されないことなどでは、断じてない。
 本当に間違っているのは、相手をきちんと見ず、理解しようともしない心なのだろう。
 異法人の力ばかりを恐れ、その力を持っているのがどういう者かを理解しようとしなかった機関の人間。
 自身の力のことに気を取られ、相手と正面から向き合うことを避け続けてきた異法人。
 そういった両者の弱さが、見えない境界線を創り出した。
 様々な悲劇を生むきっかけになってしまった。
 その果てに――――今、一人の少女の命が奪われようとしている。
 力を持っているという、それだけの理由で、今まで何も与えられなかった少女。
 そんな彼女の笑顔を見たいと思った。多くのものを見せてやりたいと思った。
 世界はいろいろなものに満ち溢れている。
 中には辛いものや醜いものも沢山ある。
 それでも、きっとどこかには笑顔を浮かべられるものがある。
 それを梢は知っていたから。
 理不尽な目に合っている彼女を、放ってはおけなかった。
 なぜなら。
 あの短い日々の中で彼女が浮かべた笑顔は――――間違いなく本物だったのだから。
『大切なものを守るために、その力を振るえ』
 遠い昔、大きな背中を見上げながらその言葉を聞いた。
 その言葉を信じて、これまで生きてきた。
 自分の力では守れなかったものもあった。
 しかし、守ることが出来たものもある。
 何もかも上手くいったわけではないけれど。
 それでも、今まで歩んできた道、そしてこれから歩み始める道は――――信じるに足るものだ。
 ……だから、その道を一緒に行こう。
 カンパニーが見えてきた。
 梢は民家や企業ビルの屋根の上を駆け抜けている。
 眼下には、吉崎の愛車を借りて走る友人たちの姿があった。
 途中、榊原が運転する車とすれ違った。
 運転席から一瞬だけこちらを見た榊原は、小さく鼻を鳴らして笑っていた。
 ――さっさと終わらせて来い。
 榊原の目はそう語りかけていた。
 梢は走る。
 暗くなった夏の夜を。
 また彼女が笑って過ごせる日を取り戻すために。

 市街地は異様な雰囲気に包まれていた。
 人の姿が見当たらない。
 普段、この時間帯ならまだまだ人はいるはずである。
 だが、カンパニーに近づけば近づくほど人影が少なくなっていく。
 それに比例するようにして、気持ち悪さが増していく。
「こりゃ、一体なんだ……?」
 カンパニー前にやって来た梢は、そのビルを見て怖気を感じていた。
 ここには何度か訪れたことがあるが、以前とは明らかに空気が違う。
 ――どくん。
 異法人同士の共鳴。
 久々に感じた鼓動は、これまでになく強い。
「倉凪、こいつは……」
 一緒にやって来た藤田と斎藤も異変を感じ取っているらしい。
 顔色はすっかり青ざめており、立っているのがやっとのように見える。
 梢もこの現象がどういったものかは知らない。
 ……ただ、間違いなくこいつは野郎の仕業だろうがな。
 ザッハーク。
 異法の中の異端、終わりなき無限の蛇。
 地獄の中の地獄を求め、極楽浄土を喰らいつくす最厄の魔物。
 吉崎を殺し、八島優香を殺し、涼子を殺そうとし、今度は遥の命を奪い、世界までも壊そうとしている。
 罪状は多すぎて数え切れない。しかも、当人はそれらを罪とは感じていない。
 ザッハークは異法人なのだ。その名が示すように、彼の法は現世の法とは異なる。
 かの咎人を裁けるのは、同じ異法を背負いし者。
 ……決着をつけるか、糞蛇野郎。
 新たな右腕に力を込める。
 神経は正常に繋がっているらしい。
 義腕なのに、以前とほとんど変わらない感覚がある。
「よし、いけるか」
「倉凪、俺たちはどうすればいい?」
「お前らはここに残ってろ。……いや、ここも危ないかもしれないから、このビルが見えるギリギリのところまで離れててくれ。美緒や師匠たちとの連絡を頼む」
「分かった。無理するなよ」
 藤田がそう言い、斎藤は黙って梢と拳を打ち合った。
「……ありがとな」
 梢は淡い笑みを浮かべながら、真心を込めて感謝の言葉を送った。
 梢が普通の人間ではないと知りながらも、こうして共に戦ってくれる友人たち。
 彼らがいなければ。あるいは彼らに拒絶されていたら――自分はこうして、この場に立っていられなかったかもしれない。
 支えてくれる友人たちがいるからこそ、梢はこの先に進むことが出来る。
 藤田と斎藤は照れ臭そうに頬や頭を掻き、
「ま、この借りはいつか返してもらう予定だからな」
 そんな憎まれ口を叩きながら、去っていった。

 二人が去るのとほぼ同時に、ふわりと風が吹いた。
 それに少し遅れて、梢のすぐ側に零次が舞い降りた。
「……お前か」
 零次の顔を見るなり、梢は苦い顔つきになった。
 零次も零次で、梢の姿を確認したときから面白くなさそうな表情を浮かべている。
 だが、今は口喧嘩をしていられるような状況ではない。
 二人は不服そうな表情のまま、現状の確認に入った。
「ザッハークは霧島との戦いで四肢を半分失っている。魔力を変形させて臨時の義腕義足にしているようだが、戦闘能力は大分落ちているだろう
「だが、奴の持ってる魔力量は半端じゃねぇな。この間やり合ったときより増えてる感じだ」
「ああ。どこで調達したのかは知らんが……奴は今、その魔力を使って結界を張っている。ここの屋上にいるのは分かっているが、結界を破って突入することが出来ん。おそらく今は治療と"儀式"再開の準備に専念しているのだろう」
 零次はそう言って焼け焦げた腕を見せた。
 鉄壁の防御力を誇る零次の腕には、痛々しい損傷が見受けられた。
 二人が話していると、ビルの横手から涼子が走ってきた。
「零次さん、それに先輩も」
 涼子は二人の元に駆け寄ってくると、息を切らしながら大きく頭を振った。
「駄目です。やっぱり、周囲に人影は見当たりませんでした」
「余計な邪魔が入らないように、奴が何か細工したってことか」
 この辺りは住宅街と違い、夜も比較的賑わっている。
 だというのに、今日は人影が全くない。
 街灯と信号機を除けば、光も全く見当たらない。
 まるで、町中が死んでしまったかのようだった。
「……好都合じゃねぇか」
 だが。
 梢はそれを笑い飛ばした。
「だったらこっちも遠慮する必要はないってことだろ。……全力を以って挑むことが出来るってことだ」
 その言葉に涼子と零次は、一瞬驚きを表情に浮かべた。
 が、すぐに納得したのだろう。揃って「なるほど」と頷いてみせた。
 余計な邪魔は入らない。
 それは、何もザッハークにだけ都合のいいことではない。
 梢や零次も、その点では同じなのだ。
 違うのは、何のためにその力を振るうのか、ということだけ。
 三人はそれぞれ顔を見合わせた。
 ここに立つその理由は、同じようでいてそれぞれ異なる。
 梢と零次は敵対していた。
 梢と涼子は別々の問題に向き合っていた。
 涼子と零次はそれぞれ隔たりを感じていた。
 しかし、今はこうして同じ場所に立っている。
 胸に抱えているものは異なれど、共に進むべき方向は同じ。
 全力で向かうことを阻むものは、何もない。
「行くぜ。――――野郎の結界、ぶち破る方法がある」
 そう言って梢は、高々と新たな右腕を掲げてみせた。

 どこを探しても『自由』が見つからない。
 誰もが解放されることなく、何かに封印されたまま生き続けている。
 これはしてはいけない。
 あれは駄目。
 それは悪いことだ。
 一体どれだけのしがらみがあるのだろう。
 中にはまるで筋の通っていない理屈で『禁止』されているものもあった。
 世界には、越えてはならない境界線がいくつも存在している。
 誰もがそれに触れないようにして生きている。
 それが社会の掟。世界の掟――――法だから。
 たったそれだけの理由で。
 それが肯定されるに足る理由を明快に説明出来る者がどれだけいるというのか。
 物事を突き詰めて考えれば、そこには善も悪もありはしない。
 大昔から今日に至るまで、人間が勝手に良し悪しを定めてきただけのこと。
 その価値基準こそが、人間最大の傲慢ともいえる。
 今現在、この世界で正しいとされていることは、本当に正しいことなのだろうか。
 その疑問を、無限の蛇はずっと抱き続けてきている。
 答えは否だった。
 人間は根底のところで、自分たちに都合のいいようにしか物事を考えない。
 同じ人間同士ならそれでもいいだろう。
 だが、蛇はそれでは納得しなかった。
 彼は人間ではなかったからである。
 生粋の異法人。
 人間とは別個の精神を抱いた、真性の怪物。
 それこそが、無限の蛇――――ザッハーク。
 悪神に創られた最大の悪竜として、千年もの間、人々を恐怖で支配した王の名である。
 だが、その実態はどうだったのだろうか。
 彼は本当に邪竜と称され、暴君として忌み嫌われるほどの人物だったのか。
 彼をそのようにしたのは、一体何なのか。
 悪魔によって二頭の竜を寄生させられた、哀れな若者。
 解決出来ぬ不安と恐怖に終始襲われ続け、やがて皆に見捨てられた弱き王。
 彼は、善ではなかったかもしれない。
 しかし、悪と断じることも出来ないだろう。
 悪に侵され、善に滅ぼされた三頭の邪王。
 あらゆる境界線に押し込められ、追い詰められていった彼は。
 彼はただ――――孤独なだけだったのかもしれない。
 そんな、夢を見た。
「……む」
 薄暗い夢から覚め、彼は周囲を見渡した。
 柿澤を裏切り、彼はリンクを連れ去ってここまでやって来た。
 この秋風市の中心たる市街地。その中で、もっとも薄汚い欲望が渦巻くこのビルの上に。
 市街地全体に人避けの結界を張って一時間ほど。
 眠りにつく前は人影がまだ残っていたが、今はほとんど気配を感じない。
 このビルに張った結界もまだ無事残っている。空中から奇襲される心配はない。
 そして、階下には大きな気配が二つ。
「来たか」
 どちらの気配にも覚えがある。
 片方は久坂零次。有り余るほどの強大な力をひしひしと感じる。
 もう片方は倉凪梢。忌々しいまでに清々しい気配だった。
 二人と共に駆け寄ってくる脆弱な気配は、おそらく冬塚涼子のものだろう。
 ビルの結界はザッハークから離れるほど希薄化していく。
 屋上付近は鉄壁だが、ビルの入り口付近ならば苦もなく侵入出来る。
 おそらく三人は、そこから内部に突入したのだろう。
「……ふん。奇妙なものだ」
 ザッハークは、すぐ側で倒れている少女を見た。
 人間としての意識はほぼ破壊されている。抵抗される心配もないので、ここに着くなり放り捨てておいた。
 柿澤が"儀式"のための詠唱をほぼ終えていたため、その身体は淡い光を放っていた。
 人生の大半を孤独に過ごしてきた少女。
 助けてくれる者など誰もおらず、自身もまた助けを求める術を持たなかった。
 世界から切り離され、人の手によって異端に堕とされた少女。
 そんな独りぼっちの少女を助けようと、何人もの連中が必死になっている。
「だが、無駄だ」
 屋上の周囲を囲んでいる結界は、ザッハークが割ける魔力を全て使って創り上げたものである。
 いつぞや使われた炎銃ヴィリでも、そう簡単には破壊出来ないだろう。
 もっとも、この状況は楽観視していられるものでもない。
 ダメージの大きさから止むを得ず休息を取ったが、これ以上は不要だろう。
 わざわざ敵が妨害しに来るのを待つ道理はない。
 万全の状態なら相手をしてやるのも一興だが、今はそんな余裕もない。
 ……クク、この私が追い詰められているか。
 だが、この緊張感は嫌いではない。
 物事を突き詰めていけば、くだらない理屈は消滅する。
 極限の状態に近づけば近づくほど、ザッハークが求めるものが近づいてくるのだ。
「さて、始めるか。……起きろ」
 長い髪を掴み、無理矢理少女の身体を起こす。
 全身から力が抜けているためやや重かったが、ザッハークにとっては些細なことだった。
 人形のように感情の失せた顔と向き合いながら、ザッハークは静かに"儀式"を再開した。
 細かい術式は、既に柿澤の手で少女の中に埋め込まれている。
 また、元々はここで"儀式"を行うつもりだったため、このビルの内部には予め柿澤が用意しておいた仕掛けも隠されている。
 後は"儀式"のために必要な魔力を練り上げるだけでいい。
 作業は、およそ五分程度で終わるだろう。
 その間に、並の魔術師何千人分もの魔力を"儀式"に合った形にする。
 魔力そのものを自在に駆使することの出来る、ザッハークだからこそ出来る技である。
「ククク……さあ、来るがいい。狂夜の幕が開くぞ……!」
 ザッハークの狂気を恐れたか、月は雲の向こう側に隠れた。
 真の闇夜の只中で、孤高の蛇は一人哄笑した。

 周囲の空気が突如重くなった。
 無人のビルを駆け上がる三人は、瞬時にその異変を肌で感じ取り、足を止めた。
 カンパニーのエレベーターは止まっている。
 そのため彼らは、手っ取り早く非常階段を走っている途中だった。
「何か、嫌な気配だな……」
 零次が周囲を険しい目で見つめる。
 まるでこのビルそのものが、巨大な魔物と化したかのような雰囲気だった。
 無機質なコンクリートの壁が、いやに生々しく感じられる。
「零次さん、先輩!」
 階段の上を見上げながら、涼子が大きく声を張り上げた。
 屋上に至るまでの長い道のり。
 その行く手を阻むかのように、無数の魔獣たちが蠢いていた。
 狼、熊、獅子、鰐、他にも様々な形の獣がいる。
「素直に行かせるつもりはない、ってことか……!」
 理性なき魔獣たちは、不可視の瞳で侵入者を見つけたらしい。
 聞こえるはずのない歓喜の声が、梢たちには確かに聞こえた。
「ふん、どうやら獲物を見つけたと思い込んでいるらしい」
 零次が鼻を鳴らすのと同時に、三体の魔獣が降ってきた。
 狼は零次の喉元を食い千切ろうと。
 獅子は涼子の腸を引き裂こうと。
 鰐は梢の上半身を喰らいつくそうとする。
 しかし、獣たちは知らない。
 自分たちが襲いかかろうとしているのが、獲物などではなく――――
「身の程知らずの相手をしているほど……」
「俺たちは、暇じゃねぇ」
 ――――狩人だということに。
 狼は零次の拳でビルの外側に叩き落され。
 獅子は涼子の元に辿り着くことなく、零次と梢の蹴りで粉砕され。
 鰐は、梢の拳で上空に叩き返された。
 鰐の巨体が非常階段の一角を破壊する。
 それに巻き込まれた魔獣たちが数体、足場を失って地上に落下していく。
 獣たちから、歓喜の声が消えた。
 次いでその場を支配したのは、一片の侮りもない敵意。
 敵が自分たちより強いことを理解し、それでも先へは進ませまいとする意思。
「ハッ」
 それを受けて、梢は強く息を吐いた。
 苛立たしげに眉を潜めて魔獣の群れを睨み据える。
「こちとら寝坊して家族の迎えに遅刻寸前なんだ。赤信号だろうとなんだろうと、ちんたらしてるわけにはいかねぇんだよ……!」

 いろいろな思いが入り込んでくる。
 その重さは、まともな思考の持ち主ならとうに発狂している程のものだった。
 苦しそうなほどの苦悩。
 忌避したくなるほどの強欲。
 眩しすぎて直視出来ないほどの理想。
 全ての思考を放棄し、彼女はただあるがままに受け入れていた。
 そのはずだった。
 …………?
 声がした。
 とても優しく、懐かしく、力強く、何より温かな木漏れ日を感じさせてくれるような声。
 全てを捨てたはずの心。そこにほんの少しだけ残っていた思い出の声。
 それは、すぐ近くから聞こえてきた。
 ――――遥!
 聞こえてくる。
 誰かの名前を呼ぶ声が。
 だが、それは一体誰の名前なのか。
 聞き覚えはある。
 しかし、その名前に意味などあっただろうか。
 聞こえる声は、それだけではない。
 先ほどから絶え間なく、いろいろな声が入り込んでくる。
 思いが『声』という形になって、次々と少女の心を侵していく。
 ――――救えない。憤慨。死ね。くたばれ。うざい。最高。きもい。最悪。グズ。ボケ。素敵。動揺。放っておいてくれ。下衆。愚鈍な。馬鹿。素晴らしい。憂鬱。いらない。いたくない。消失。嫌だ。訳分かんない。自分勝手。阿呆。愉快。こんなの違う。誰も理解してくれない。嘘だ。ド低脳。カス。クサレ脳味噌。生意気。ブス。面白い。不満。退屈。落ち着かない。イライラ。溜息。どうしよう。暴走。ふざけんな。だから殺す。俺は悪くない。陰謀。あんな風になりたい。こっち来るな。なんで。
 ただ、受け入れて。
 ――――遥……!
 そのことに。
 少し、違和感が生じた。
 ……あ。
 違和感と共に、少女は『自分』を思い出した。
 混沌に染められた少女の心。
 その中で、たった一つ、混沌に染まらなかった小さな染み。
 とても儚くて、すぐにでも消えてしまいそうだったその染みに――――はっきりとした形が出来た。
 少女は、思考を取り戻した。
 自分。
 空っぽではない自分。
 他ではない、自分という存在。
 それは、どんな意味合いを持っていたのか。
 そして、少女は地獄を思い出した。
 道具として扱われるだけの自分。
 痛くて苦しくて気持ち悪くて、そんなことがずっと続く日々。
 それを辛いと思ったことはない。
 それ以外を知らなかったから。
 少女にとって、それが全てだったから。
 しかし、そんな日々を思い返す今の少女は、それを辛いと思っている。
 思い出すだけで身を裂かれそうな気持ちになる。
 なぜか。
 それは、何も知らなかった昔とは違うから。
 痛みや苦しみとは違う――温かさを知ったからだ。
 ――――遥ッ!
 渦巻く混沌の声。
 希望、欲望、願望、絶望、切望、渇望――――何かを望む、多くの声。
 その中にあって、誰かの名を呼ぶその声だけは、はっきりと聞こえていた。
 自分という殻。
 自分を形作る境界線。
 その内側に向かって呼びかける、たった一つの声。
 ……遥?
 その名前は、誰を指しているのだろう。
 自分に向かって呼びかけてくる、たった一つの声。
 それが呼んでいるのは、誰のことなのだろう。
 知っている。
 その答えは、最初から少女の内にある。
 ……私だ。
 遥。
 見知らぬ実の両親から与えられた名前。
 それは他の誰でもない、少女自身のこと。
 ――――少女は、名前を取り戻した。
 そして、その中に込められた思い出を取り戻した。
 その名で呼んでくれた人々のことを思い出した。
 遥として過ごした時間を、取り戻した。
 ……私は、遥。
 最後に少女は、その名を呼ぶ声の主を思い出した。
 遥としての彼女を受け入れ、共に楽しい日々を過ごした少年。
 自分に温かさ、優しさ、楽しさ、いろいろなことを教えてくれた少年。
 リンクという道具でしかなかった少女に、人としての時間を与えてくれた少年。
 彼女が『遥』であることを、誰よりも認めてくれた少年。
 昔、少女は施設の実験で外に連れ出された。
 ずっと施設の中で過ごさせるより、外に出して刺激を与えた方がいい、と研究者たちは判断したのだろう。
 無論、外に出たといっても彼女に自由はなかった。
 研究者たちの監視の中、狭い小屋で過ごす日々があるだけだった。
 そこに、一人の少年が迷い込んできた。
 少女が『遥』になったのは、そのときからだったのかもしれない。
 道具としての自分と、施設だけの世界。それを打ち破り、少年は少女の名に意味を与えた。
 最後は悲しい別れだったけど――――その出会いは、決して無駄ではなかった。
 それからの日々は辛かった。
 何もなかった頃とは違う。『自分』を得たことで、彼女は痛みや苦しみを知ったのだ。
 抗うことも覚えた。だが、非力な少女一人では、多数の大人に歯向かっても適わなかった。
 抗えば抗うほど、より大きな苦しみが待っていた。
 それでも少女は希望を捨てなかった。
 非力な自分でも、希望を守り続けることは出来る。
 そう信じて、たった一人で何年も戦い続けてきた。
 やがて。
 長い年月が過ぎ去った、月の綺麗な晩。
『――――大丈夫か?』
『……うん』
 あのときと同じように――――少年は少女を助け出してくれた。
 ……倉凪君。
 少女が『遥』でいられる、希望の象徴。 
 彼が、すぐそこまでやって来ている。
 押し寄せる混沌の波に呑まれそうになりながら、少女はその希望にしがみついていた。
 目覚めた『遥』を必死に守りながら、掛け替えのない少年を待つ。
 ……倉凪君……!
 身体は動かない。
 それでも、心だけは自由だったから。
 少女は――――『遥』は、心でその名を呼び求めた。

 今、確かに聞こえた。
「……遥!」
 迫り来る魔獣の群れに拳撃を放ちながら、梢は足を休めることなく進めていく。
 少しでも早く彼女の元に辿り着けるように。
 彼女が守り続けてきた希望を途絶えさせないために。
 梢は右腕を後ろに構えた。
 身体中が熱い。全身が燃え上がっているようだった。そう、血の一滴に至るまで。
 梢の全身を覆う魔力も、主の心に呼応し猛り出す。
 高鳴る心を表すように、力強さを増していく。
 大気中に漂う魔力の源が、次々と梢の中に取り込まれ、その力になっていく。
 その中で、梢の右腕が輝きを放ち始めた。
 全身を覆う緑の輝きとは異なる光。
 それは、どこか太陽の輝きと似ていた。
 思いの力は光になる。
 その光は、梢の中で輝きを増し、戦う力となる。
 不安はない。
 恐れもない。
 ただ、必死に。
 ……必死になるしか、ねぇだろうが――――!

「……これは」
 零次が驚愕の眼差しを梢に向けた。
 彼は柿澤との戦闘もあって、多くの力を消費していた。
 鉄の意志によってどうにか正気を保ちながら戦っていたが、限界も近い状態だった。
 だというのに、梢の側で戦っていると、失われた力が戻ってくるようだった。
 思考が鮮明になっていき、身体の感覚は指先までしっかりとしたものになっていく。
 それは涼子も同じようだった。見る見るうちに、顔から疲労の色が消えていく。
 まるで、梢から力を分け与えられているようだった。
 無論、魔力をそのまま他人に譲渡することなど不可能である。
 魔力は個体毎に性質がまるで異なる。
 そのため、自分以外の魔力というのは基本的に無価値なのだ。
 いくつかのややこしいプロセスを経て受け渡しをすることは出来る。
 だが、今起きている現象はそんなものでは説明がつかない。
 ザッハークのように、魔力そのものを自在に変化させることが出来るというなら、話は別だが。
「――――見えたッ!」
 零次たちの疑問を吹き飛ばすように、梢は叫んだ。
 頭上に待ち構える魔獣たちの群れ。
 その向こう側に、屋上への入り口が姿を現していた。
 涼子と零次の思考から、余計な疑問は抜け落ちた。
 今は細かいことを気にしている場合ではない。
 戦う力があるならば、徹底的に戦い続けるだけだ。
 終わりは近い。
 人と異能の者との対立。
 そこから生まれた、久坂源蔵の悲願。
 母と妹を失った久坂零次。
 幼年期、虐待される日々を送った倉凪梢。
 柿澤の悲願のため、その生涯を狂わされた八島優香と霧島直人。
 突如家族を奪われた、冬塚涼子。
 そして、遥。
 他にも、沢山のことがあった。
 その全てに決着がつくわけではないけれど。
 そろそろ、悲劇にも休息が必要な頃合だろう。
「待ってて、遥さん……!」
 残された家族を想いながら、涼子は蒼き銃を握り締めた。

「一言で言ってしまえば、光合成のようなものです」
 榊原によって運び込まれた赤根の治療をしながら、幸町は簡単に説明した。
「ヴィリの力は"幻想を燃やし尽くす炎"。これを倉凪君が使いこなすのはまず無理です」
「だから"炎"ではなく"光"を……というわけか」
 榊原は得心したように頷いた。
 炎銃ヴィリは、白く輝く炎を持つ。
 輝きによって魔力を無色透明の状態――――即ち、いかなる性質からも除外されたものにする。
 その後、炎の力によって、抵抗力を失った魔力を粉々に分解する。
 それが炎銃ヴィリの力だ。
 幸町は、その二つの力のうち、一つだけを梢の右腕に組み込んだ。
 輝きの力。
 あらゆる魔力の性質を打ち消す、清浄なる白の力。
「その輝きを纏った腕を振るえば、あらゆる魔力を打ち滅ぼすことが出来る、というわけか」
「それだけではありません」
「……そういえば、さっき光合成のようなものだとか言ってたな」
「ええ。幻想を打ち滅ぼす力は、あの腕さえあれば誰だって得られます。負担は大きいですけどね。……しかし、こちらは倉凪君でなければ出来ない力です」
 幸町は赤根の身体に包帯を巻きながら、
「彼は植物の性質を持っています」
 まるで、病名を告げるかのような口調で言った。
「ヴィリを使った後の彼は酷いものだった。幻想しか焼き払わないヴィリによって、あそこまで酷い状態になる。それは」
「あいつ自身が、幻想の植物とも言える性質の持ち主だからか」
「ええ。だから僕は試してみました。幻想の炎に焼かれるなら、幻想の光を与えれば……どうなるのか」
 その結果、
「ヴィリの光を受けた彼は――――自身の魔力を無色透明な状態にし、周囲に分け与え始めたんです」

 残り一分を切った。
 もうすぐ"儀式"の準備は、完全に終わりを迎える。
 そのとき、世界は変わる。
 くだらない境界線を気にすることはない。
 他者の作り上げた幻想の中に、自分を埋もれさせ続けることはない。
 誰もが皆、あるがままに、自由に振舞う世界がやって来る。
 だというのに。
 ……これは、どういうことだ。
 抵抗の意志を感じて、ザッハークは顔をしかめた。
 その意志は眼下にいる三人のものではない。
 完全に人形と化したはずの、眼前の少女の意志である。
 人として生きる意味を奪われた、その少女が。
 強く、生きたいと願っている。
「まだ、くだらぬ希望を持ち続けていたか」
 厄介だった。
 今は急いで"儀式"を完成させなければならない。
 再び少女の心を壊しているような時間はなかった。
 ……ふん、それならば。
 ザッハークは練り上げていた魔力の一部を右手に移し、そのまま少女の頭を掴んだ。
 そして、一気に魔力を流し込む。
 宙に吊り上げられた少女の身体が、大きく震えた。
 心の内部に入り込んでいる暇はない。
 ならば、外部から強い衝撃を与えればいい。
「……っ、あっ……」
 少女が苦しさに声を漏らす。
 ザッハークはその間、何度も少女の頭に魔力を流し込んだ。
 少女は今、常人なら数秒で発狂するほどの頭痛を感じているはずである。
 開かれた口からは、苦悶の声が断続的に漏れている。
 あまりの痛みに、虚ろな両目からは大粒の涙が零れ落ちた。
 にも関わらず。
 少女の中には、変わらぬ抵抗の意志があった。
「ちぃっ……道具風情が……!」
 そのときだった。
 感情の消えていた少女の瞳が、不意にザッハークのことを見下ろしたのである。
 そこには、先ほどまでにはなかった強い意志が現れていた。
「……道具じゃ、ないもん……」
「――――貴様」
 ザッハークは瞠目した。
 今、少女は源泉に繋がりかけている。
 世界中の人間が、心の奥底で眠らせている意志と繋がっている。
 その全てを撥ね退けて、少女は人としての言葉を発したのだ。
「私は、っ……道具、なんかじゃ、ない……!」
 痛みに顔をしかめ、涙や鼻水を流しながらも、少女は精一杯の言葉を紡ぐ。
「黙れ、貴様はリンク。この"儀式"を遂行するための道具でしかない」
 ザッハークは先程よりも強く魔力を流し込む。
 しかし、少女はそれにも耐え抜いた。
「私は……リンクじゃ、ない! 私の名前は……遥、なんだから……!」
「そんな名前に、意味などない!」
「あるよ!」
 ザッハークの咆哮に、少女は――――遥は真っ向から立ち向かう。
 この名前には意味があると。
 遥としての自分には、生きる意味があると。
「私を――――その名前で呼んでくれる人が、いるから……!」

 待っている人がいる。
 そのことが、何よりも嬉しい。
 忌み嫌われた異常な力。
 それを認めてくれた人々がいるから、今こうして走ることが出来る。
 太陽の如く光り輝く右腕は、薄紫の魔獣を紙屑のように蹴散らしていく。
 残った魔獣たちは、後ろに続く悪魔が仕留めてくれる。
 駆けて、駆けて、また駆けて。
 そうして、梢は屋上への入り口に達し、
「オオオオオオオオオッ!」
 吼える。
 自分がここにいる証を立てるかのように、全身全霊の力を込めて吼え猛る。
 眼前には不可視の壁。
 近づくだけで吐き気がするくらい、強固で醜悪な壁。
 その向こうに、いた。
 遥だ。
 ザッハークに頭を掴まれ、宙にぶら下げられている。
 全身が淡い光に包まれている。
 それは、優しすぎて不吉な光だった。
「先輩!」
 眼下で涼子が叫んだ。
 走りながら、息を切らしながら、腹の底から精一杯の声で。
「――――行って!」
 言われるまでもない。
 助けたいと願っていた人が目の前にいる。
 今更足踏みするつもりなど、毛頭ない。
 こんな、見えない壁などに足止めされるつもりもない。
「ああ。こんな壁なんざ……」
 梢は跳躍する。
 そして、落下と同時に右腕を大きく動かし、
「――――突破してやらぁ!」
 大きく腕を振り下ろす。
 刹那、破砕音が鳴り響く。
 結界が破壊されたのだ。
 そして、梢は降り立った。
 救いを求める少女が待つ、この場所に。
 ザッハークが驚愕の眼差しを向けてくる。
 後ろから、零次と涼子の足音が追いついてくる。
 そして、遥は涙で瞳を潤ませていた。
「倉凪、君……」
「……悪い、待たせた」
 息を切らしながらも、梢は遥に向かって似合わない笑顔を向けた。
 たった一人で孤独な戦いを続けてきた少女を、少しでも安心させてやりたかったから。
 もう一人ではないということを、少しでも多く伝えたかったから。
 梢はゆっくりと身体を伸ばし、言った。
「――――迎えに来たぞ、遥」

 屋上には沈黙が訪れていた。
 その原因は、当然ザッハークにある。
 彼は遥の頭を掴んだまま、ずっと俯いている。
 微動だにせず、静かにその場に立っていた。
 否。
 肩だけが、小さく動いている。
 そのことに涼子が気付くと同時、ザッハークはいきなり面を上げてこちらを見た。
 笑ってはいない。
 怒ってもいない。
 ただ、呆けているような表情だった。
 まるで、大きな仕事を終えた人間が浮かべるような――――。
 その表情を見た瞬間、涼子の胸中にぞわりと悪寒が走った。
 何かよくないことが起きると、直感が告げている。
「……少しだけ、遅かったな」
「何?」
 梢が鋭い眼差しをザッハークに向ける。
 そのとき。
 突如、ビル全体が大きく揺れ動いた。
「倉、凪……君」
 遥が力なき声を上げる。
 と同時に、彼女はザッハークによって地に叩きつけられた。
「てめぇッ!」
「激昂するな、小僧」
 ザッハークは静かに言った。
「この短時間で貴様らがここまで到達したことは、感嘆に値する。また、この女の強き意志も、賞賛してもよいであろう」
 しかし、とザッハークは皮肉げな笑みを浮かべて言った。
「しかし――――そんなものに、意味などありはしなかったのだ」
「ハッ……!」
 梢が鼻を鳴らし、零次が静かに拳を構える。
「分かったような口を――」
「――利くんじゃねぇッ!」
 言葉と同時に、二人は一斉にザッハークへ飛び掛る。
 迷いのない高速の攻撃。
 しかし、ザッハークは一歩も動かずそれを撃退した。
 梢と零次の首に、それぞれ巨大な蛇が噛み付いていた。
 ザッハークの両肩から生えてきた、双頭の蛇である。
 無論、本物ではなく、ザッハークの魔力で創られた魔獣の類だ。
 双頭の蛇は、梢たちを屋上のフェンスへと叩きつけた。
 その間、ビルの揺れはますます大きくなっていく。
「"儀式"は始まった。もはや、これで終わりだ」
「あ、ああ……」
 遥の身体が、より強く輝き出した。
 輝きが増すほど、遥の苦悶の声も大きくなっていく。
「あ、あぐ、うう……ああ、あああああああああああ……!」
「遥!」
 梢はフェンスから飛び出し、遥の元へ駆け寄ろうとする。
 が、その身体は大蛇によって再び跳ね飛ばされた。
「くっ……!」
 涼子は水銃ヴェーを構えた。
 狙いは無論ザッハークである。
「無駄だ」
 ザッハークの言葉と共に、もう一体の大蛇が涼子に襲い掛かってきた。
 咄嗟に涼子は横に転がり、大蛇の猛攻を避ける。
 しかし完全には避けきれない。
 大蛇の牙が肩に突き立てられ、涼子はフェンスの外に放り捨てられた。
 慌てて零次が彼女を抱きとめた。
「今更足掻いたところで遅いわ」
 ザッハークの嘲笑が三人の心に突き刺さる。
「さあ始まるぞ。混沌の時代が。世界が進化するときが……!」
 ザッハークの全身から放出される、禍々しい魔力。
 もはやそれ自体が、一つの巨大な悪魔となっていた。
 涼子にも感じる。
 全人類の無意識。それが、遥という媒介を通してこの場に現れ始めている。
 彼女のすぐ側にいるザッハークは、その影響を強く受けていた。
 一定の距離を置いている涼子でさえ、凄まじい怖気を感じる。
 人々の無意識の中に眠る様々な意識が、『自分』を侵そうと押し寄せてくる。
 しかも性質の悪いことに――――そうした意識は、ほとんどが悪意だった。
 人類の無意識というのが悪意ばかりなのか、それとも呼び出したのがザッハークだからか。
 呼び出された悪意は方向性も持たず、周囲にいる者たちの中に、手当たり次第入り込んでくる。
「う……」
 零次もその影響を受けたからか、涼子を慌てて屋上に降ろすと、すぐに悪魔の力を引っ込めた。
「零次さん、大丈夫!?」
「……今は、な」
 頭を抱えながら零次が呻く。
 必死に理性を保とうとしているのだろう。
 零次の場合、少しでも気を緩めれば、また理性を失くして暴走する恐れがあった。
 だから慌てて悪魔の力を元に戻したのだ。
 梢の方も苦しそうだった。
 右腕の輝きはすっかり消え失せ、顔は苦痛に歪んでいる。
「ああああああっ!」
 遥の悲鳴が屋上に響き渡る。
 薄汚れた空気の中、彼女の身体だけが輝いている。
 その輝きには、神秘性の欠片もなかった。
「遥……!」
「遥、さん」
 梢が彼女を救おうと前進する。
 涼子も必死に名前を呼ぶ。
 それでも、押し寄せる悪意の波には適わない。
 ……こんなものを相手に、遥さんはずっと耐え続けてきたっていうの……!?
 その事実を思い出し、涼子は驚愕と悔恨の念を抱いた。
 自分が全てを忘れ、安穏とした日常を送っていたことが、悔しくてならない。
 今更そんなことを思っても仕方がないのは分かっている。
 それでも、思わずにはいられない。
 もはや、立っているのはザッハークだけだった。
 左腕を大きく広げ、高らかに哄笑している。
 異端の蛇だけが、笑っている。
「……遥さん!」
 必死にその名を呼ぶ。
 悔恨と謝罪、そして切望の念を抱いて、
「遥――――姉さん!」
 ただ一人残った、家族を呼んだ。 

 その言葉の意味を、遥は最初理解出来なかった。
 言葉としては理解出来る。
 美緒に教えてもらったのだ。
 それは、家族に対する呼び名だと。
 羨ましいと思った。
 なぜなら、自分には家族がいないから。
 誰からも、そう呼ばれることはないのだと。
 そう、思っていた。
 しかし今、自分のことをそう呼ぶ人がいた。
 覚えている。
 美緒の友達。
 梢の後輩。
 料理を教えてくれた子。
 冬塚、涼子。
 しかし、彼女がなぜ。
 ……違う。
 分かっている。
 答えは分かっている。
 少し前、彼女と繋がったとき、そのことを知った。
 彼女が背負うものを知った。
 なぜ彼女がここにいるのか、その理由も知っている。
 一人じゃなかった。
 ……私は、一人じゃない。
 梢、涼子、美緒、吉崎、榊原――――それに、他にもいろいろな人がいる。
 そのことが、彼女を少し勇気付けた。
 ここには、共に戦ってくれる人たちがいる。
 それならば。
 こんな見も知らぬ者達の悪意などに、屈する理由はない。
 広がる。
 彼女の中にあった、小さな小さな希望という名の染み。
 それが、少しずつ広がっていく。
 抗うために。
 そして、彼らと明日を迎えるために。

 カンパニー地下。
 長く暗い通路を駆け回りながら、亨は手当たり次第にポッドを破壊していた。
 ポッドの動力源が見つからなかったからだ。
 全部をまとめて始末する方法はない。
 そう判断すると、亨は即座に破壊活動に移った。
 こんなことをしても、意味はないかもしれない。
 数千、下手をすれば数万。それだけあるものを一つ一つ破壊しても、効果などほとんどないだろう。
 それでも、何もしないよりは何倍もましだと思った。
「諦めてなるもんか……!」
 四つの金属球を遠隔操作しながら、亨は銀の槍を大きく振り回す。
 まとめて五つのポッドを破壊すると、休む間もなく次へと進む。
 もうどれだけ壊したか分からない。
 だが、亨の視界にはまだまだ無数のポッドが陳列していた。
「くそっ、くそっ!」
 先ほどからビル全体に異変が起きているのは、亨も肌で感じ取っていた。
 もうあまり時間がないということも。
 だというのに、眼前にはまだ無数の敵がいる。
 亨の努力をせせら笑うかのように。
「うおおおっ!」
 五つの金属をデタラメに組み合わせた武骨な大剣。
 それを思い切り振り回し、周囲のポッドを破壊していく。
 そのときだった。
 不意に――――残ったポッドが一斉に光を放ち始めたのである。
「なんだ、これ……?」
 亨は驚き、咄嗟に周囲に視線を巡らせた。
 すると後方、つまり今まで自分が散々破壊してきた方から、微かな光が見えた。
「まだ、残ってたのか?」
 そんなはずはない。
 細心の注意を払い、壊し損ねがないように気をつけていたはずだ。
 それに、光は通路の中心部から放たれているように見える。
「まさか……」
 亨はある可能性を思い立ち、真っ直ぐに光の元へと駆け出した。
 幸い、その場所はさほど離れていなかった。
 亨はそこに辿り着くと、その光を凝視した。
 光は地下から漏れている。
「……黄金の槌よ!」
 亨は迷うことなく、光を放つ地面を槌で叩いた。
 一度目で若干へこみ、二度目でより形が歪んだ。
 そして、三度目でついに地面が開いた。
 その下にあったのは、小さな部屋。
 地下深くにあるこの異質な通路。
 更に、そこに隠された地下室。
「まったく……隊長らしい。随分と手の込んだことするなぁ」
 そしてその部屋には、一際大きいポッドがあった。
 中には人間の脳が五つほど浮かんでいる。
「多分、こいつが中枢部か」
 亨は銀の槍を構え、穂先をそのポッドに向けた。
 若干、思うところもある。
 あの薄気味悪いポッドだらけの通路、そしてこの部屋。
 それは柿澤源次郎の悲願の象徴。そして、異法隊の行いの結末だった。
 柿澤の計画が完遂すれば、そのことで救われる者たちも大勢いるかもしれない。
「……でも、ごめん」
 亨は小さく呟くと、
「――――僕は、そんなの望んでないんだ」
 一気に、槍を叩き込んだ。

 それに呼応するように、屋上で遥がゆっくりと立ち上がった。
 彼女を包む光はますます強くなっていく。
 だが、その輝きは先ほどまでのものとは違っていた。
「ぬ……?」
 異変に気づき、ザッハークが振り返る。
 その瞬間。
 遥の輝きが、一気に極限まで高まった。
 神聖な輝きではない。
 歪んだ輝きでもない。
 それは、ただ真っ直ぐだった。
 真っ直ぐな思いで明日を望む、そんな人間だけが持つ輝きだった。
「私は」
 弱く、一人では何も出来なかった少女。
 希望を守り続けることしか出来なかった少女は、今、誰もが恐れる異端の蛇と向き合っていた。
「貴様……」
「私は、ただ」
 驚愕するザッハークに向けて、引かぬ意志を宿した眼差しを送る。
 信じられる人たちがいるから。
 一人ではないから。
 ……そして、私が『遥』でいられるから。
 だから彼女は、宣言した。
「私はただ――――大切な人たちと明日を生きたい! 今はそれ以外、何もいらない!」
 そして、遥の言葉と共に、周囲は眩い光に包まれた。

 どれぐらいの間、光に包まれていただろう。
 一瞬か、それとも数秒か。
 梢が再び目を開けたとき、そこにもう悪意の波はなかった。
 膝をつきながらも顔を上げている涼子。
 そんな彼女を懸命に守ろうと、青白い顔で立っている零次。
 そして、ゆっくりと崩れ落ちていく遥の身体。
「遥!」
 遥が完全に崩れ落ちる前に、梢は彼女の元に駆け寄り、その身を抱きかかえた。
「……梢、君?」
 疲れきったからか、遥は眠そうな顔をしていた。
 梢は安心した。彼女の表情からは、もう苦しみや悲しみは見受けられない。
 ほんの少しだけ幸せそうに、口元が笑みを形作っていた。
「名前で呼ぶなって言っただろうが」
「駄目……?」
「……いや、別に駄目じゃねぇけど」
 梢は苦笑いを浮かべた。
 名前で呼ぶなと言っているのは、照れ臭いからだ。
 しかし、それを口に出して説明するのはもっと恥ずかしかった。
「お家帰ったら、また梢君の、ご飯……食べて、いい……?」
「ああ。好きなだけ食え。たんと食え。お前が食いたいもん、俺がいくらでも作ってやる」
「うん……楽しみに、してるね」
 そして遥は、梢の肩越しに涼子を見た。
 涼子も、どこかぼんやりとした表情で遥を見ていた。
 互いに言葉はない。
 何を話せばいいのかよく分からないのだ。
 涼子は口を開きかけてはまた閉じて、おろおろした様子で零次や梢のことをちらちらと見ている。
 遥はそんな彼女を、愛しそうに眺めながら、
「……ありがとう、涼子ちゃん」
 笑みを深くして、そう言った。
 以前とは違う呼び名。
 それが、自分のことを姉と呼んでくれた少女に対する、遥なりの答えだった。
 戸惑っていた涼子も、その言葉を聞いてはっと動きを止めた。
 そして、普段の彼女からは想像出来ないくらい弱気な声で、
「……うん」
 小さく、頷いた。
 それを見届け、遥は再び梢の方に顔を向ける。
「ごめんね。……疲れたから、少しだけ休んでも、いいかな……?」
「ああ。後は俺たちに任せて、お前はゆっくり休みな」
「うん……おやすみ、なさい」
 そう言って、孤独な戦いを終えた少女は、静かに目を閉じた。
 長い間求めていた、優しい人の腕の中で。

「……ク」
 遥が眠りに落ちた屋上。
 禍々しき悪意は消え去り、満天の星空が広がるその下で。
 蛇は一人、口元を引きつらせていた。
「ここに来て、このような結末か……」
 蛇の表情に浮かぶ歪みは、段々と深みを増していく。
 それが表すのは、喜悦か憤怒か、あるいは別の何かなのか。
 おぉん――と、どこからか獣が鳴くような声が聞こえてきた。
「補助装置の中枢がやられたか……フリークめ、しくじりおって」
 屋上の外から、どす黒い何かが這い上がってきた。
 その正体に気付き、梢たちは揃って顔をしかめた。
 それは魔力だった。
 まるで帰巣本能に従う蟲の集団のように、薄紫から漆黒になった魔力が、ビルの側面を這い上がってくる。
「そして、その女」
 ザハークはぎょろりと遥を睨み据えた。
 目玉が飛び出しそうなくらい、大きく見開いている。
 その全身は、泥のような魔力に埋もれつつある。
 正直、見ているだけで吐き気がしてくる。
 先ほど感じた『悪意』に比べれば、ザッハークから感じる嫌悪感は少ない。
 しかし、あの『悪意』が方向性を持たなかったのに比べ、ザッハークは確固たる意志を持っている。
 こちらに、明確な悪意を抱いている。
「自力で源泉からの流れを押し返すとはな。……全く、想定外であったわ」
 そう言って、ザッハークは梢、涼子、零次を順に見た。
「この女に余計なものを与えた小僧、全てにおいて目障りな小娘、強き力に強き意志を得た小童……。貴様らを――――もう少し、重要視すべきであったか」
 おぉん、と獣が鳴く声が聞こえてきた。
「……ザッハーク。貴様の計画は失敗に終わった」
 涼子を庇いながら、零次は前に一歩踏み出した。
「貴様は負けたのだ。さあ、大人しく観念するがいい」
「……クク」
 零次の勧告に、ザッハークは肩を揺らすことで答えた。
「ククク……確かに私は負けた。そこの小さく弱き女に。そして貴様らに。……その弱さ故の強固な意志に、私は敗北を喫した。それは認めよう」
 だが、とザッハークは頭を振る。
「大人しくする道理はない。観念する道理もない。ここは大人しく引き下がるとしよう」
「……正気か? 貴様は霧島との戦いで重傷を負っている。俺たちを相手に、逃げ切れると思っているのか?」
 確かに片腕片足を失った。
 多くの血を流したせいか、顔色も青ざめている。
 普通に考えれば、梢や零次を相手に戦えるような状態ではない。
 だが、この蛇は異端の中に生きる者。
 そのような常識は、当てはまらない。
「ク……ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ――――!」
 零次の常識論に、異端の蛇は嘲笑を返答とした。
 誰もその笑いを止められない。
 涼子も、零次も、そして梢も。
 目の前にいる怪物に、恐怖していた。
「――――戯け。その台詞、そっくり返すぞ半端者ども」
 その瞬間、ビルの下から一斉に力の奔流が発生した。
 まるで空へと落ちる滝のように、どす黒い魔力が次々と上空に密集していく。
 おおぉん、と獣が咆哮する。
 その声は、ザッハークの両肩から聞こえてきていた。
 ザッハークは背中に魔力で構成された翼を生やす。
 そして、宙で形成されつつある魔力の塊の前にふわりと浮かび上がった。
 屋上にいる梢たち三人を見下ろしながら、
「貴様ら如きが、このザッハークをどうにか出来ると――――本気で、そう思っているのか?」
 刹那、ザッハークの両肩から双頭の大蛇が現れる。
 しかし、大きさは桁違いだった。
 当然である。
 もはや"儀式"は失敗に終わった。
 つまり、ザッハークはもはや余分なことに魔力を割く必要がなくなったのだ。
 ……つまり、これがあの野郎の本気か……!
 凄まじいプレッシャーに、全身のあらゆる器官が悲鳴を上げたような錯覚を抱いた。
 あれは危険すぎる。まともに相手をしていては、命がいくつ合っても足りない。
 恐怖からか、梢はごくりと唾を飲み込んだ。
 刹那。
「――――消えろ」
 双頭の大蛇によって、ビルの屋上が粉砕された。