異法人の夜-Foreigners night-

-Border Breaks-
最終話(後編)「境界を越える」
 秋風市に隣接する都市郡。
 その一角にあるホテルの一室で、数人の男女が一斉に腰を浮かせた。
 先ほどから厳重に警戒していたポイントから、強力な魔力の波を感じたからだ。
「お嬢様……!」
 壮年の執事が、和服姿の女性に悲鳴のような声を放った。
 その表情には焦燥感が溢れている。
 何も言わないが、他の者たちも皆同じような表情を浮かべていた。
 和服の女性は静かに室内の者たちを見渡す。
 冷静そのものの表情だが、内心彼女も焦っていた。
「……貴方たちはここで待っていなさい。あちらへは私が向かいます」
「し、しかし……」
「後は任せましたよ」
 まだ何か言いたそうな執事の言葉を封じるように、女性は窓を一気に開け放つ。
 ここはホテルの六階。
 まともな人間なら、ここから飛び出そうと考えたりはしないだろう。
 だが女性は迷うことなく飛び降りた。
 風の壁を突き破りながら、一直線に落ちていく。
 そして、地面に激突する寸前、手にしていた鉄扇を振るう。
 瞬間、着地の衝撃を和らげるように、ふわりと風が女性の身体を覆う。
 そして、当然のように着地した女性は、そのまま通常では考えられないような速度で駆け出した。
 人々が何事かと振り返る。
 しかし、彼らの視界に女性の姿が映ることはなかった。
 町中を駆け抜け、郊外に出る。
 そこで一人の男性が、女性と同じように夜道を駆けていた。
「む、飛鳥井のお嬢か」
「……夜霧様」
 漆黒のコートを着込んだ、女性よりも若干年上の男だった。
 端正な顔立ちの内側からは、隠しようもない闘志を感じる。
「やはりお主も一人で参られたか。半端者どもでは奴に力を奪われて終わりだからな。役に立たぬどころか、奴に手を貸すような形になってしまう」
「相変わらず御口の悪い。私はただ、勝手に飛び出してきただけです」
「ふん。お主にとって、これは他人事ではないからな。気持ちは分かる」
「それを言うなら夜霧様とて同じこと。我らだけではなく、他の方々も変わりません」
 女性の言う通りだった。
 二人だけではない。
 既に秋風市の外側に待機していた様々な集団が動き始めている。
 あちこちで強力な力を持つ者たちの気配がした。
「最悪の事態は免れたようだが、まだまだ安心は出来ん。下手をすれば数百、数千――あるいはそれ以上の死者が出る」
「そうなる前に、どうにかせねばならんのう」
 疾走する二人に、小柄な老人が合流した。
 その見た目とは裏腹に、老人からは洗練された強大な魔力が溢れ出ている。
「もうすぐ大勢の同胞が合流するじゃろ。飛鳥井のお嬢、お前さんが指揮を執ってくれんか」
「……私がですか? 大御所様がおられるではありませんか」
「いや、爺よりはお主の方がいいだろう。肝心なときにボケられちゃたまらん」
「はっはっは。後で覚えてろよ夜霧の小童。……ま、ともかくワシはええ。お嬢、お前さんに一任する」
 両脇の二人に推され、女性は止むを得ず頷いた。
 そうしているうちに秋風市内に入る。
 ここから問題の現場に向かうまで、まだ時間がある。
 異常なまでに巨大な力は、まだ市の中心部にある。
 ……どうか無事で。
 渦中にある人々を思いながら、女性は強くそう祈った。

 屋上の破壊は一瞬だった。
 暴力的な力の波が、一気に屋上を喰らい尽くしたのだ。
 そのとき梢と零次が見せた反応は、およそ最高のものだった。
 それぞれ遥と涼子を抱きかかえながら、迷うことなく屋上から飛び降りたのである。
 コンマ一秒遅れていたら、おそらく無事では済まなかっただろう。それほど際どいタイミングだった。
「くっ……」
 宙に放り出された梢に、大蛇の片割れが迫り来る。
 図体に似合わぬ速さだった。
 ……まともに受けてられねぇ!
 おそらく、喰らえば梢も遥も無事では済まない。
 防御は意味がない。しかし、宙にいるため回避も出来ない。
「くそったれッ!」
 梢は左腕でしっかりと遥を抱きかかえながら、右腕に力を込めた。
 思いの力が右腕に流れ込んでいく。それはすぐに、太陽に似た輝きとなって現れた。
 その輝きは小さい。が、大蛇に負けないくらい力強かった。
「吼えろ、俺の 魔を払う光の大樹(ヘイムダル・グリーン) ――――!」
 輝きが漆黒の大蛇とぶつかりあう。
 右腕を通して、梢の全身に凄まじい衝撃が走った。
 刃とやり合ったときよりも激しい。胃に溜まっていたものが瞬時に逆流しそうになった。
 梢の右腕は大蛇を真っ二つに引き裂いた。
 魔力で構成された大蛇は、いかに強大であろうと梢の右腕には適わない。
 ただし、それは普通に考えたら、の話である。
「……洒落に、ならねぇなオイ」
 梢は自分の右腕をまじまじと見つめた。
 輝きは失せ、あちこちがズタズタに引き裂かれている。
 今のような真似を何度も続けることは出来なさそうだった。
 ……せいぜい残り二回が限界か。
 それ以上は、あの攻撃を受けられない。
 右腕は全壊し、それと同時に梢自身の身体もズタズタに食い裂かれるだろう。
 具現化した植物をクッションにして地面に着地すると、梢はすぐさま遥の安否を確かめた。
 彼女は梢の腕の中で、すやすやと静かに寝息を立てている。
「……大丈夫みたいだな」
「そちらも無事か」
 梢のすぐ側に、涼子を抱きかかえた零次が降り立った。
 片翼が半分以上欠けていた。痛みに若干顔をしかめている。
 おそらく梢たちと同様大蛇の攻撃を受け、それを回避しきれなかったのだろう。
 零次の腕から離れた涼子が、痛ましい表情でその翼をそっと撫でていた。
 梢は頭上に目を向けた。
 ビルの屋上からは煙が立ち込めている。
 その中に一点、黒い人影が映った。
「野郎……っ」
 ザッハークに違いない。
 梢は反射的にその人影を追おうとした。
 が、腕の中には遥がいる。
 そのことが、梢の身体を押し止めた。
 それに――――ザッハークは、梢が行ってどうにかなる相手でもなかった。
 ザッハークは重傷を負っている。
 それでもなお、梢などとは比べ物にならない程の力を持っている。
 追ったところで、返り討ちにあうのが関の山だろう。
 遥は手元に戻った。
 梢の果たすべき目的は、既に終わっている。
 ならば、このまま引き返し、彼女の目が覚めるのを待てばいいのではないか。
 それが、一番良い選択肢なのではないか。
 梢だけではなく、零次も同じようなことを考えているようだった。
 逃走するザッハークを睨みながらも、その身体は動こうとしない。
 その表情には、深い苦悩の色が表れている。
 もし追ったとして、そこで返り討ちになったら――――残された人々はどう思うか。
 さっき、美味しい食事を作ってやる、と約束したばかりの少女。
 目が覚めたとき、梢がいなかったら、彼女はどう思うだろうか。
 そんなことは、考えるまでもない。
 梢は逡巡した。
 ザッハークという大悪をこのままにしてはおけない、という思い。
 そして、遥と共にありふれた日常の元に戻らなければ、という思い。
 二つは梢の中で瞬間的に激しくぶつかり合い――――そして溶け合った。
「ふん」
 梢は自分自身を笑い飛ばすように鼻を鳴らす。
 そして、抱きかかえていた遥を零次に押し付けた。
「冬塚、久坂。遥を頼む」
「倉凪? 貴様、どういうつもりだ」
「どうもこうもねぇよ」
 梢は短く言い捨てて、大きく跳躍した。
 ザッハークが逃げていった方角目掛け、一直線に。
「俺は野郎を追う。だから、遥をどっか安全なところに連れて行ってやってくれ」
「なっ……!」
 零次が何か叫んでいるのが背中の方から聞こえてきた。
 だが梢はそれを聞き流した。
 早く追わねばザッハークを逃がしてしまうからだ。
 ザッハークを逃がしてしまえば、いつかどこかで、また同じことが繰り返されるかもしれない。
 遥のような犠牲者が、八島優香の身に起きたような悲劇が、再び出てくるかもしれない。
 なにより、再び遥が狙われる可能性だってある。
 ザッハークを、放ってはおけない。
 恐怖はある。
 勝ち目はほとんどない。
 無謀と言う他ない。
 それでも梢は走る。
 必ず彼女の元に帰るという、純然たる感情の決意を抱きながら。

 夜に消え行く梢の背中を見送りながら、涼子は不安を募らせていた。
 梢は強い。普通の人間である涼子とは比べ物にならない程の強さだ。
 だが、彼ではザッハークを倒せない。
 涼子には戦いのことなどまるで分からない。
 それでも、梢とザッハークの間に大きな実力差があることは分かる。
 ……先輩。
 このままでは、梢は殺される。
 確信めいた思いが胸中に湧き上がって来る。
「あの馬鹿が……! 単独で追うなど、無謀もいいところだぞ!」
 零次が苛立たしげに吐き捨てた。
 戦いの専門家である彼が言うのだから、それは間違いないのだろう。
「冬塚、すまんが彼女を預かってくれ」
 と、零次は遥の身体を涼子へと渡した。
 深い眠りについた、一人の少女。
 そして、自分の姉。
 彼女の身体をしっかりと抱き止めながら、涼子は零次に頷いてみせた。
「先輩をお願い」
「分かっている。腹立たしいが、奴はここで死なせていい男ではない。気に喰わんが、大した男だ。どうしようもない馬鹿だが……悪くない馬鹿だ。なにより、奴に死なれてお前たちに泣かれるのは、俺としても望むところではない」
 余程梢が気に入らないのか、それとも素直ではないだけなのか。
 零次はそんな弁解じみたことを言いながら、欠けた翼を大きく開いた。
 この翼は風を発生させるための装置に過ぎず、翼そのもので空を飛ぶわけではない。
 よって、一部欠けたという程度ならば、何の問題もない。
 ふわりと力強い風が零次を包み、空へと運ぶ。
「冬塚。お前は遥と共に他の連中と合流するんだ。いいか、決して無茶をするんじゃないぞ」
 そして零次は背を向けて、大きく宙へと舞い上がる。
 もはや涼子の方は振り返らずに。
 しかし、周囲に響き渡るような大声を残して。
「――――我が最愛の友! お前の日々を守るため、この身を今より剣とする!」

 カンパニー地下から出てくる二つの影があった。
 刃と亨だ。
 彼らの視線は、大きく飛翔する黒き軌跡を追っていた。
 次いで、同じようにその軌跡を見送る少女を見た。
 まだ終わっていない。
 戦いは続いている。
「亨」
「うん。分かってるよ、兄さん」
 兄弟は少女に声をかけず、そのまま左右に散った。
 この付近に密集しているビル郡を縦横無尽に飛び回りながら、黒き軌跡の後を追う。
 刃はほとんど魔力を使い果たしている。
 休憩で少しは回復したが、本調子には程遠い。
 亨は体力を大分消耗させていた。
 広大な地下通路にあるポッドを、一人で破壊し続けたのだ。
 疲労は当然大きい。
 それでも彼らは、残された力を振り絞り、戦うべき相手のところへと向かっている。
「亨!」
 刃が前方の異常に気付き、大きく吼えた。
 同時に、大きな鮫状の魔獣が飛びついてくる。
「ふん!」
 円を描くように拳を振るう。
 その一撃で、魔獣は粉々になった。
 亨の方も同様に、ゴリラ型の魔獣を槍で屠っていた。
「足止めってところでしょうかね」
「それで済めばいいがな」
 前方。
 夜の空一面に、無数の魔獣たちが現れ始めていた。

 漆黒の魔力で構成された魔獣は、夜の闇と同化しているようだった。
 おかげでひどく見づらい。一般人に見られたら大変な騒ぎになるので、ある意味助かる。
 しかし、放置することは出来ない。
 梢は市街地の外れにある小さなビルの屋上で、次々と襲い掛かってくる魔獣たちを討ち払っていた。
 多くの魔獣には翼が生えており、上空からの奇襲攻撃を繰り出してくる。
 周囲の気配に敏感な梢にとって、敵の姿が見づらいことは大した問題ではない。
 ただ、相手が一撃離脱を繰り返してくるのが厄介だった。
 空に逃げられては、翼なき梢では追撃が出来ない。
 そのため、敵が攻撃してくる瞬間を正確に捉え、カウンターの一撃で討つ必要がある。
 しかし、それは思った以上に難しかった。
 敵の数が多くて一斉に攻撃されるため、正確かつ強力なカウンターを放ちにくいのである。
 ……くそっ!
 第一、梢の目指す敵はこんな雑魚ではない。
 本来倒すべき相手は、こうしている間にも着々と遠くへ逃げているのだ。
 そして逃げ切った後、傷を癒し、いつかまたどこかで災厄を巻き起こすのだろう。
 自分たちがその災厄に巻き込まれないとも限らない。
 このまま逃がすわけにはいかない。
「邪魔だッ、どけぇッ!」
 梢の感情が昂るにつれて、右腕が再び輝きだす。
 魔力そのものを討ち払うことに特化した右腕が、夜の闇を照らし出す。
 梢の中で焦りが募っていく。
 この魔獣たちはさして強くない。
 しかし、この数は脅威だった。
 全て討ち滅ぼすまで、どれだけの時間がかかるのだろう。
 なにより恐いのは、魔獣たちが広範囲に散開していることだった。
 秋風市全体に、魔獣の群れが広がりつつある。
 あの"儀式"のために用いようとしていた、並の魔術師数千人分の魔力。
 それらは悪意となって、秋風市全体を包み込もうとしていた。
 市街地付近はザッハークの『人避けの結界』によって、ほとんどの人がいなくなっている。あるいは、家の中に入っている。
 しかしその結界も、"儀式"の失敗と同時に解かれているようだった。
 じきに、赤間カンパニービルの異変に気付いた人々が集まってくるだろう。
 そうした人々が魔獣に襲われる可能性は、極めて高い。
 さらに、住宅街や商店街付近などは、今の時間帯ならまだまだ人が外を歩いていてもおかしくない。
 魔獣たちはそちらの方にも向かっているようだった。
 放っておけば、確実に大惨事が起きてしまう。
 ……追わなきゃ奴が逃げる。だが、こいつらを放っておけば民間に被害が出ちまう……!
 どうすればいいか、決断出来ない。
 最善の選択肢が浮かばない。
 ならば、どちらかを諦めるしかないのか。
 そのとき、空を裂く音が聞こえた。
 上を見る。
 夜空に群がる無形の怪物たちが、一直線の軌道を描く形で、討ち滅ぼされていた。
 軌道の先端にあるのは、前進を黒色で彩った悪魔。
 何度も戦ったことのある相手。
 それだけに、心強い援軍だった。
「……こんなところで何を足踏みしている、倉凪梢」
「状況見て分からないのか? つーかお前こそ遥どうしたよ、久坂零次」
「冬塚に預けた。俺は適任ではない」
 言いながら、零次は翼から突風を繰り出し、空に跋扈していた魔獣たちを次々と薙ぎ払っていく。
 惚れ惚れするほど鮮やかな手並みだった。
 梢には届かない空の敵も、零次の前では無力な獣に過ぎない。
「それで、どうする。この状況を」
「……なんだよ、偉そうな態度の割にはお前も考えなしか」
「うるさい」
 零次の放つ鋭い風の刃が、梢のすぐ側に炸裂した。
 実際にはそこにいた魔獣を切り裂いたのだが、梢からすると、自分を狙ったように思えなくもない。
「危ねぇだろうが!」
「ふん。文句を言っている暇はないだろう? ぼけっと突っ立っている暇もな」
「ちっ……」
 憎まれ口を叩くためにここまでやって来たのか。
 梢は頭を掻き毟りながら、胸中で零次に毒づいた。
 だが、実際その通りだ。
 時間がない。このまま時が経てば経つほど、梢たちは確実に不利になっていく。
 ……どうする……?
 梢が苦渋に満ちた表情を浮かべた、まさにそのときだった。
 轟音。
 それも、周囲一帯に轟き渡るような、壮絶な破壊音がした。
 梢と零次が視線をそちらに向ける。
 その先――――別のビルの屋上。
 そこには、大きな両腕を振るい、次々と魔獣を屠る男の姿があった。
「刃!」
「僕もいますよっ」
 零次の声に呼応するように、刃がいるビルとは反対の方から、若々しい声が飛んできた。
 見れば、そこには宙を飛翔する少年の姿があった。
 足元には何かの金属で作られたボード。
 ボードは自らの主を乗せて、夜の空を自在に滑空する。
 亨は複数の金属を織り交ぜて創り上げた、奇槍を手にしていた。
 迫り来る魔獣の群れを、その槍でまとめて討ち払っていく。
「零次、梢さん。こいつらは僕らが引き受けますから、ザッハークを追ってください!」
「お前らだけで大丈夫なのかッ!?」
「どのみち奴を倒さねば、こいつらは次々に増え続けていくだろう。こういう手合はまともに相手をしても意味がない。王をまず狙うのが定石だ」
 自らの肩に噛み付いてきた獣を、刃は力任せに引きちぎる。
 噛まれた後からは痛々しい傷跡が見えたが、彼は平然と次の相手に立ち向かっていく。
「……行け!」
「そして、こんな一件をさっさと終わらせてきてください!」
 宙を疾走する亨も、あちこちを魔獣たちに切り裂かれているようだった。
 それに息が上がっている。体力があまり残っていないのだ。
 梢と零次は顔を見合わせた。
 お互い、寸分の迷うもなく頷き合う。
「頼んだぞ、二人とも!」
「無茶すんじゃねぇぞ!」
 零次は一気に急降下し、梢の真上に迫る。
 そして、左腕を差し出した。
 梢はそれを掴む。
 二人は同時に、魔獣の群れを切り裂くように天へと飛び出した。

 夜道を一台の車が走っている。
 運転しているのは幸町だ。
 助手席には榊原の姿もある。
「……町中の様子が変ですね」
 車から見える風景に、特別な変化はない。
 しかし違和感はある。
 それは視覚や聴覚から得られるものではない。
 第六感、直感が運び込むものである。
 榊原も幸町と同様、先ほどから違和感を抱いていた。
 その正体にも、薄々感づいている。
「どうやら、蛇が本気を出したようだな」
 榊原の視線は、赤間カンパニーのビルから立ち込める煙に向けられていた。
 ……ふん。依然、余談を許さん状況か。
 大規模な力の流れが途絶えたことから、ザッハークの暴挙自体は食い止めることに成功したのだろう。
 もっとも、その後どのような展開になるかは明白だった。
 詳しいことは連絡が取れないため分からない。
 が、この一連の騒動がまだ終わっていないということは分かる。
「お、お嬢さん方発見ですね」
 赤間カンパニーの近くまで来ると、ビルの前にいる涼子と遥の姿が見えた。
 ぐったりとした遥。そして、涼子はそんな遥を背負いながら走り続けている。
 なぜ、走り続けているのか。
 追われているからだ。黒色の怪物どもに。
「幸町」
「分かってます。……総員、衝撃に備えてください!」
 状況を把握すると、幸町は一気にアクセルを踏み込んだ。
 法定速度を一気にオーバーした車が、涼子たちと怪物の間に入り込む。
 その隙に榊原は車から飛び出し、涼子たちの前に立った。
「さ、サカさん!?」
 突然登場した榊原たちに、涼子は戸惑いの声を上げた。
 榊原はそんな彼女と、そして遥を交互に見た。
「遥は無事か」
「ええ、無事です……!」
 落ち着いた榊原の態度に、涼子も平常心を取り戻したのだろう。
 遥を背負いなおしながら、はっきりと頷いてみせた。
 そして気付く。
 榊原の背後から、自分たちを追っていた魔獣が飛び掛ろうとしていることに。
「サカさん、危――」
「ちんたらと話し込んでんじゃねぇっ!」
 涼子が叫ぶよりも早く。
 車の後部座席から飛び出した男が、魔獣に跳び膝蹴りを放った。
 榊原の頭に噛み付こうと、魔獣は大きく口を開いていた。
 その部分に蹴りが綺麗に入り、魔獣は口元から裂けて消滅した。
「――――ケッ、さっさと車に乗りやがれ。てめぇらがいると満足に暴れられねぇんだよ」
 そう言って、男――赤根甲子郎は、顎で後部座席を指し示した。
 涼子は赤根の姿を見て何か言いたそうにしていたが、すぐに後部座席へと乗り込んだ。
 榊原と幸町はそれを確認すると、互いに視線を交わし頷き合う。
 そして、榊原や赤根を回収することなく、車はそのまま発車した。
 残されたのは、集まりつつある魔獣たち。
 そして、榊原と赤根の二人だけ。
 相手は圧倒的に数で勝る。
 すぐに二人を取り囲み、逃げ場を封じてきた。
「ふん」
 そんな獣たちの行動を小馬鹿にするように、榊原は大きく鼻を鳴らした。
「獣風情が、馬鹿な真似を。そんなことしなくても、別に逃げるつもりなんざ毛頭ねぇってのにな」
「ケッ。おっさん、ただの人間だろ。いいのかよ、ここに残って」
 赤根が茶化すように言う。
 榊原はそんな彼の後頭部を、裏拳で殴りつけた。
「若造が生意気言ってんじゃねぇ。満身創痍のてめぇの方が足手まといだ」
「だったら連れてこなきゃいいだろうが。意識戻って即現場復帰だぁ? 隊長でもそんな鬼みてーな真似しなかったぜ」
「最後にもう一度見せ場貰えたんだ、むしろ感謝して欲しいもんだな」
 榊原はネクタイを放り捨てながら言った。
「それに、てめぇが役に立たないなら俺が一人でこいつらを片付ける。それだけのことだ」
「正気か、おっさん。こいつら確かに雑魚だが、ただの人間にゃ……」
 と、赤根が言っている間に榊原は動いていた。
 速い。
 そして無駄がない。
 電光石火の早業で、近くにいた魔獣を、あっという間に三体撃破する。
「ただの人間にゃ、なんだ? 若造」
「……前言撤回。あんた、ただの人間じゃねぇだろ」
「失礼な奴だな。俺は秋風署刑事課強行犯係榊原警部補。正真正銘ただの人間だ」
 そのただの人間に対し、魔獣たちは何を思ったのか。
 どこか怯えるように、一歩退いた。
 榊原は両の拳を打ち合わせると、赤根に一瞥を投げた。
 赤根は最初、どこか引きつったような笑みを浮かべていた。
 が、榊原の視線を受けて、それはすぐに獰猛な笑みへと変化する。
「……ケッ。面白いおっさんだぜ」
 そう言って、赤根は榊原に完全に背を向けた。
 魔獣たちは二人を取り囲んだままじっとしている。
 恐れているのか、それとも攻撃の機会をうかがっているのか。
 もし魔獣たちにしっかりとした思考があったならば、その行為に愚かさに気付いただろう。
 この二人に対して、待ちは全く意味がない。
 彼らを足止めしたところで、大局に変化はないからだ。
「来ないなら、こっちから行くぞ」
 口に咥えていた煙草を吐き捨てると同時、榊原が駆け出す。
 それに合わせたのか、赤根甲子郎の同時に飛び出した。
 相手の方から仕掛けてくるとは思っていなかったのだろう。
 魔獣たちの反応は実に鈍かった。
 赤間カンパニー前。
 そこで繰り広げられる戦いは、そのように終わりの始まりを迎えていた。

 幸町が運転する車は、市街地を抜けて北へ向かっていた。
 商店街を抜け、住宅街を抜け、やがて山道に入っていく。
「良かったんですか、サカさんとあの人置いていって」
 遥の身体を座席に合わせながら、涼子は運転席に声を投げかけた。
「あの二人なら大丈夫だよ。それに、降りてもらわないと定員オーバーだ」
「定員?」
「うん。この車、八人乗りが限界だから」
 八人。
 そんなに多く誰が乗り込むと言うのか。
 涼子がそんな疑問を浮かべている間に、車は朝月町の北にある山へと入っていった。
 道路はきちんと舗装されているが、次第に街灯の数が少なくなっていく。
 不意に、その闇の中に魔獣たちの群れが紛れ込んでいるような気がした。
「大丈夫。この辺りにはまだ安全だ」
 涼子の不安を看破したのか、幸町はそんなことを言った。
 だが、その言葉で安心出来るほど、現状は生易しいものではない。
 ザッハークの逃亡。
 それに伴い発生した大量の魔獣。
 梢たちがどれだけ頑張ろうと、数が違いすぎる。
 魔獣たちを全て倒すのは不可能だろう。おそらく、ほぼ確実に民間で被害が出る。
 事態は民間をも巻き込み、どんどん広がっていく。
 それは、平穏な日常を望む梢たちにとって、望ましい状況ではない。
「……どうにかする方法があれば」
「方法なら、あるよ」
 涼子の呟きに、幸町はやけに強い口調で応えた。
 断言するかのような響きに、涼子は目を丸くした。
 そんな彼女の反応をミラーで見たのだろう。
 幸町はかすかに笑みを浮かべて言った。
「今頃、皆市内に突入した頃だ」

 秋風市朝月町にある住宅街の一角。
 そこで、仕事帰りの若いサラリーマンがのんびりと歩いていた。
 彼は気付かない。
 自身の頭上に、物音を一切立てることなく、大きな牙を持つ魔獣たちが迫っていることを。
 魔獣は三体。
 それぞれ姿形は異なるが、目的は一つ。
 それは、この無防備な獲物を食い殺すこと。
 俯きがちのサラリーマン。その首に、真後ろから牙や爪が一斉に襲いかかる。
 しかし、魔獣の存在は彼に気づかれなかった。
 サラリーマンは何事もなかったかのように、そのままとぼとぼと歩いていく。
 一方、魔獣たちは。
「……ゴキブリ並だな、おい」
 サラリーマンに牙を突き立てる前に、無数の刃で串刺しにされていた。
 その刃もまた、魔獣たちと同じく、魔力によって創り上げられた幻想兵器。
 それを手にするのは、漆黒のコートを着込んだ男。
「夜霧、そっちはどうだ?」
 と、塀の上から声をかけられ、男は静かに嘆息をもらした。
「全然終わらん。いくら殺ってもキリがない。本体を直接叩いた方がいいんじゃないか?」
「だが俺たちがこうして動かねば、民間人たちの被害は甚大なものとなるだろう」
「……飛鳥井の嬢ちゃんに連絡頼む。増援要請した方がいいぞ、こいつは。連中、雑魚は雑魚だが数が多すぎて対応し切れん。秋風市に結界張ってる連中以外は総員導入すべきだ。実力は多少中途半端でも構わん」
「言われずとも、彼女は既に要請済みだ」
「ははぁ。思った以上に手際がいいな」
 話している間にも、再び近場で魔獣の気配がした。
 正確には、気配が濃くなったというべきか。
 そういうときは、決まって誰かが襲われそうになっている。
「やれやれ。俺がこんな面倒ごとをするハメになったとはな。蛇野郎を直接狩りに行きたいもんだが」
「仕方あるまい。日常と非日常の境目を守ること。それが、今の我らにとって最大の使命なのだから」
「わーってるよ。……そいじゃ、もうちょいと頑張るとしますかね」
 夜霧は跳躍し、民家の屋根に飛び移る。
 その間に、相手の方はもうどこかに姿を眩ましていた。
 ふと、上空を見る。
 遠方の空。
 市街地から秋風市東部へと向かう空に、一筋の空白が出来つつあった。
 空に群がる魔獣たちを蹴散らしながら、力強く滑空する影。
 それを見て、夜霧は苦々しい心で、しかし思い切り笑ってみせた。
「どこの誰だか知らねぇが。この俺が蛇野郎をぶちのめす役目を譲ってやるんだ。――しくじるんじゃねぇぞ!」

 負傷が思った以上に大きい。
 いつものような速度を出せない。
 そのことにザッハークは舌打ちし、同時に自分の限界を感じ始めていた。
「余計な連中が入り込んできおったわ」
 ザッハークは魔獣と感覚を共有しているわけではない。
 それでも、各地に散らばった魔獣たちが次々と駆逐されていることぐらいは分かる。
 梢たちだけではありえない。おそらく、秋風市を張っていた様々な組織が動き出したのだろう。
 魔術同盟、連盟、日本の退魔組織の代表――退魔九裁の連中。
 他にもザッハークの敵と言えそうな連中はゴロゴロいる。
 彼らはザッハークの実力を知っている。故に、相当の手練を送り込んできたはずだ。
 そのような連中が、一斉に秋風市内に突入してきた。
 ……ふん、半ば予想していた事態だったが……。
 腕の切断痕に目を向ける。
 この負傷は予想外だった。
 最初はあまり気にしていなかった。ザッハークは"儀式"を完遂し、それで死ぬつもりだったのだから。
 しかし今は違う。"儀式"が失敗した以上、こんなところでむざむざとやられるわけにはいかない。
 死は恐くないが、無意味に死ぬのはザッハークのプライドが許さなかった。
 そして、彼はここで死ぬことに特に意味を感じていない。
 必ず生き延びて、別の手段で世界に反逆する。
 それが、世界という『法』から弾き出された、真の異法人としての生き様である。
 ザッハークはそう信じて、今日まで生き続けて来た。
「無意味に命散らすは、凡夫どもの心意気よ。……私は、そのように阿呆な真似をするつもりはない」
 幸い、各組織の者たちは魔獣の掃討に追われているようだった。
 彼らにとっては、ザッハークを倒すことよりも、民間を守ることが大事なのだろう。
 幻想、神秘といった非日常の世界を、日常から隔離すること。
 それこそが、彼ら組織の根底にあるものだ。
 しかし、例外がいる。
 自分を一直線に追ってくる馬鹿どもがいる。
 空を裂き、実力差という境界線を無視し、無謀にも、大胆に迫ってくる愚か者たち。
 異法を身に宿しながら、法の中で生きようと不様にもがく阿呆者たち。
 魚が陸で生きていけるか。
 猿が海底で生きていけるか。
 それすらも分からないような――どうしようもない馬鹿者たちだ。
「……来たか」
 市街地から離れ、住宅街も抜け、郊外にある廃墟に辿り着いた。
 そこの屋上でザッハークは足を止め、ゆっくりと振り返る。
「――――来たか、我が敵よ!」

 挨拶はいらない。
 そんなものが必要な仲ではない。
 ただ、打ち倒さねばならない敵であるだけだ。
「おおおおッ!」
 掴んでいた左手を離す。
 下は廃屋。
 待ち受けるのは、無限の大蛇と恐れられる真性の化け物だ。
 だが恐れない。
 心は先へと走ることだけを考えている。
 脇目も振らず、この戦いのゴールに向かって走ることだけを――――!
「輝けぇぇッ!」
 吼える。
 感情が吼え猛る。
 それに呼応し、周囲一面を照らし出すほどの強い光が放たれた。
 ザッハークは逃げる事をやめ、こちらを迎撃する構えを取った。
 負傷しているザッハークと今の零次では、僅かながら零次の方が速い。
 無理に逃げるより、ここで撃退する方がいいと判断したのだろう。
 両目をカッと見開き、両肩からあの双頭の大蛇を繰り出す。
「身の程を知れいッ、小僧ッ!」
 大蛇たちが一斉に襲い掛かってくる。
 空中にいる梢に避ける術はない。
 右腕を繰り出す以外、方法はなかった。
魔を払う光の大樹(ヘイムダル・グリーン) ――――!」
 双頭の大蛇と梢の右腕が激突する。
 あまりの衝撃に、梢の視界が二重三重にぶれた。
 微かに圧される。
 が、引かない。
 右腕に全神経を集中させ、無理矢理圧し返す。
 大蛇の顎が裂け、やがて全身が真っ二つに割れていく。
 そして、梢はザッハークの眼前に着地した。
「よう。鬼ごっこはもう終わりだな」
「貴様が鬼か。似合いだな、連中は馬鹿揃いだ」
 話している間に、零次がザッハークの背後に着地する。
 二人でザッハークを挟むような形になった。
「……もう一度言う。大人しく投降しろ」
 零次は鋭い眼差しでザッハークに告げる。
 それは忠告でも警告でもない。
 宣戦布告に等しい。
 ザッハークが了承しなければ、即戦闘になる。
「ふん。分かりやすく力の差を教えてやったつもりだが……まだ分からぬか」
「いいや、分かってるぜ。俺たち二人じゃ、てめぇに勝つことは多分無理だってことはな」
「ならば何故追ってきた。貴様らには、あの場に残るという選択肢もあったはずだが」
 心底理解出来ない、といった様子で、ザッハークは顔をしかめた。
 梢は微かに表情を険しくして、言った。
「許せねぇからだよ」
「……何?」
「てめぇがこれまでしてきたこと。それに、これからおそらくするであろうこと。どっちも絶対、許せねぇ」
 梢は腰を低く落とす。
 左手を前に突き出し、右の拳を力強く握り締めた。
「貴様をここで逃せば、またどこかで同じような悲劇を起こすだろう。そんなことは許容出来ん」
 零次は翼を大きく広げ、全身から勢いよく魔力を放出する。
「ふん。常識――否、この世界に縛られた考え方だな。貴様らはそれ、この世界を間違いだと思わぬのか?」
「ああ、思わないね。そりゃ、この世界は窮屈だ。おかしいと思うこともあるし、納得いかないこともたくさんある。気に入らないことだって山ほどあるね」
 だが、と梢は頭を振った。
「そいつは決して、間違いなんかじゃない」
「同感だ」
 零次が同意を示し、一歩踏み出す。
「俺たちは確かに世界からはみだした者かもしれない。以前は俺も、世界全てを敵だと思っていた。こんな世界は間違っていると思っていた。だが――そうではなかった。俺は希望を見つけた」
 故に、と零次は叫ぶ。
 だから、と梢が吼える。
「――――それを壊そうとするお前は、ここで打ち倒す!」
 それが戦いの合図だった。
 梢と零次が一斉にザッハークに向かって駆け出す。
 零次の右ストレートが、ザッハークの首元に放たれる。
 ザッハークはそれを、微かに上体を傾けることで回避。
 そのまま突き出された零次の腕を逸らしつつ、左手で梢の肩を掴んで弾き飛ばす。
 ザッハークの右腕と左足は霧島に切断されているため、魔力の形を変えることで補っている。
 つまり、梢の右腕とは相性が悪い。
 それを見越して、梢はザッハークの義腕義足を攻める。
 ザッハークは当然、残された本物の腕や足でそれを弾く。
 しかし、零次がいる。
 彼は巧みにザッハークの隙を突きながら、攻撃の手を決して休めない。
 あの両肩の大蛇を出させないため、速攻に速攻を重ね合わせる。
「常識に惑わされた愚か者が! 己が己として生きることの出来ぬ場所に、何故そこまで固執する!」
 ザッハークの身体から、魔力で練られた微小な針が放出される。
 零次はそれに気付き素早く後退。
 梢は身体を大きく伏せてそれを回避。
 そのまま跳ね上げるように下から渾身のアッパーを放つ。
「愚かなのはてめぇだ蛇野郎!」
 アッパーが炸裂する。
 ザッハークの身体が微かに揺らぐ。
 霧島戦での負傷はやはり大きい。
 魔力量は相変わらず桁外れだが、格闘戦を挑み続ける分には梢たちの方が有利――!
「確かに俺たちは世界から見たら異物かもしれねぇ!」
 続けて放つ左エルボー。
 上体を捻って放たれた一撃は、しかしザッハークの手で止められた。
 梢とザッハークの視線が交わる。
「だけどな」
 掴まれた肘はそのままに。
 梢は全身をザッハークにぶつけた。
 肩から入る容赦ない体当たりに、ザッハークの動きが止まる。
「自分と違うから認められないってのは……それこそ愚かの極みだ!」
 その隙を逃さない。
 梢はすかさず右腕でザッハークの左足――魔力で創られた義足を打ち払う。
 片足を失ったザッハークはバランスを崩し、大きくよろめいた。
 梢は即座に飛び退く。
 それと入れ替わるようにして、零次が空中から一気に降下してきた。
「世界はただあるだけだ。そこには全て揃っている。――――正解も間違いも、その一部に過ぎん!」
 零次の蹴りが、綺麗にザッハークへと炸裂した。
 勢いに押され、ザッハークの身体は大きく吹き飛んでいく。
「ならば私はその全てを否定しよう!」
 吹き飛ばされながら、ザッハークが哄笑する。
 今、彼の身体は梢たちから離れていく。
 その両肩から、再び大蛇が飛び出してきた。
「正解が正解であることを、間違いが間違いであることを認められない異端の蛇として! 常識を打ち壊し、世界に反旗を翻す! そして変えてみせよう、我らが生きるべき世界へと!」
 梢の右腕は限界だった。
 もはや、あの大蛇を受ける余裕はほとんどない。
 後一回で、この右腕は砕かれる。
 ……避けきれるか!?
 全身をバネにして大きく跳ぶ。
 上にではなく、横に。
 地に足がつけば、その瞬間再び跳ぶ。
 それでも大蛇は食いついてくる。
 信じられないスピードで、一気に梢に追いついてくる。
 五メートル。
 三メートル。
 一メートル――――。
 後僅か。
 刹那、梢の身体が急に軽くなった。
 否、周囲の速度が遅くなった。
 梢の動きが、速くなった。
 大蛇の前で梢は立ち止まる。
 そして一気に引き返し、大蛇の脇を駆け始める。
 空で大蛇の攻撃を避け続けていた零次も、急に動きを速めた。
 先程までの倍以上の速度で、一気に大蛇を撒く。
 ……この感覚は。
 覚えている。
 まるで世界全てがスローモーションになったようなこの感覚を、梢は確かに覚えている。
 視線を動かす。
 ザッハークの遥か後方に、それはあった。
 轟音を撒き散らしながらこちらに迫る光。
 それは、一台のバイクだった。
 ザッハークも異変に気付き、振り返る。
 この世のものとは思えない速さで、一気にこちらに迫っている。
 デタラメもいいところだ。おそらく、時速四百キロ以上は出ているだろう。
 なにしろ、最高時速二百キロは出るであろう反則マシンを、あの男が運転しているのだから――――!
「貴様……!?」
 ザッハークが驚愕の声を発する。
 それを受けて、バイクの男は獰猛な笑みを浮かべてみせた。
 バイクは更に加速する。
 亡き主に応えるかのように、乗り手のために最高の速さで駆ける。
 乗り手の男は加速する。
 己の意思を貫き通すために。
 瞬間、バイクと男は光となった。
 ほぼ同時に、激しい破砕音。
 それは、遠方にあったはずのバイクがザッハークを跳ね飛ばした音だった。
 ザッハークの身体が凄まじい勢いで廃屋の壁に激突する。
 壁を突き破り、その身体は室内へ。
 更にもう一つ壁を突き破り、そのまま建物の向こう側まで吹き飛んでいく。
 バイクも無事ではなかった。
 フロント部分は全壊。タイヤはぐしゃぐしゃに潰れ、乗り手の男も宙に放り出された。
 その身体は、まるでぼろ雑巾のよう。全身から最後の力が失われ、屍と変わらないような有様だった。
 しかし。
 その意思は、なおも不滅。
「行け。梢、零次!」
 掠れた声で、霧島直人は告げる。
「――――終わらせろ!」
 その言葉に、梢と零次は行動で応えた。
 霧島の元に届くように、身体の内側に残された全ての力を一斉に放出する。
 ザッハークはすぐさま起き上がる。
 そして梢たちと同様、全身を高密度の魔力で覆った。
 梢が飛び出す。
 それに零次が続く。
 霧島のモルト・ヴィヴァーチェの効果はまだ続いている。
 速く動ける代わりに、身体にかかる負担も大きくなっていた。
 梢は元々重傷の状態から回復したばかりで、万全には程遠い。
 零次は柿澤戦でのダメージや疲労が確実に蓄積されている。
 どちらも限界が近い。
 決着の時だ。
「ザッハーク。てめぇは言ったな、世界を変えると!」
 梢の左腕が翠玉の光を放つ。
 そこには、かつて右腕に装着されていた武装があった。
 ザッハークの放つ蹴りを、それで受け流す。
 その間に、零次が脇からザッハークの腹を狙う。
 ザッハークはそれを左肘で弾き、そのままの体勢で魔力を放出。
 勢いに圧された梢たちの身体が、微かに一歩退く。
 しかし、梢も零次も、すぐさま一歩を踏み返す。
「だけどな、そんなの俺に言わせりゃ勘違いも甚だしいんだよ!」
 滑り込むようにして、梢はザッハークの懐に入り込む。
 それを察したザッハークは、梢の顎に的確な蹴りを喰らわせた。
 梢の身体の影から、零次が鋭い風の刃を放つ。
 ザッハークはそれをかろうじて回避。
 そこに、梢の後ろ回し蹴りが放たれる。
 その蹴りはザッハークの側頭部に入った。
 が、それでもなおザッハークは倒れない。
「何が勘違いだというのだ、小僧!」
 ザッハークが腕を振るう。
 その爪先に込められた魔力が変形。
 刃となり、梢の背中を切り裂いた。
 古傷に重なり、梢の表情が苦痛に染まる。
 しかし、梢は退かない。
 体勢を瞬時に立て直すと、零次と同時に左右から攻撃を仕掛ける。
「てめぇのは、ただのワガママだ!」
 零次の攻撃は、ザッハークの左腕によって防がれる。
 だが、梢の右腕はザッハークの防御を突き破り、脇腹に深々と入り込んだ。
「あんな"儀式"なんて横着な真似で変えられるわきゃねぇだろうが! 不平不満を旗にして暴れまわったって、どうにもならねぇんだよ! そんなに簡単に変えられるもんじゃねぇんだぞ、世界!」
 ザッハークは大きく後退。
 左手で脇腹を押さえながら、梢のことを凄まじい形相で睨みつけた。
「ならば貴様はどう変える。倉凪梢」
 見ているだけで心臓が止まりそうなくらい、恐ろしい双眸。
 それを真っ向から睨み返しながら、梢は口を開いた。
「世界なんて大規模なもん、俺一人で変えられるわけないだろうが。まずは周囲に認めてもらえるよう、自分から変わる。そして、どうしても納得いかねぇことがあるなら、賛同者を少しずつ集めていけばいい」
「……ふん。要するに数で攻めるということか」
 ザッハークは失望の眼差しを梢に向けた。
「多数が少数を圧殺する。それこそ私が嫌う道理の一つ。従うつもりはない」
「だったら試してみろよ。ワガママ言うだけのてめぇ一人で、何が出来るかを」
 梢が駆ける。
 身体中が悲鳴を上げている。
 全身が軋んでいるように感じられた。
 ……ここで決着をつける!
 手加減無用。
 余計な小細工をする力も残っていない。
 出来るのはただ一つ。
 全力で、相手に飛び掛ることのみ。
 ザッハークもこちらに向かってくる。
 双方の腕が、全く同時に突き出された。
 梢の右腕と、ザッハークの左腕。
 互いに拳と拳が激突する。
 限界寸前の右腕に、小さな亀裂が走る。
 その瞬間。
 梢の背中を飛び越えて、零次がザッハークに踊りかかった。
 当然、ザッハークはその程度見越している。
 すぐさま右腕で零次を迎え撃とうとし――――
「……ガッ!?」
 突如、その動きを止めた。
 それは、戦闘の最中にあって、不自然過ぎる停止だった。
 零次は無論、梢もこの機会を逃したりはしない。
 梢はザッハークの胸元へ。
 零次はザッハークの顔面へ。
「これが――」
「――共にあることの力だ!」
 梢と零次の渾身のストレートが、ザッハークに炸裂した。

 戦いの場から少し離れた場所。
 そこに、吉崎のバイクが転がっていた。
 そのすぐ近くには、幸町の車。
「……間に合った、か」
 荒い息でそう言ったのは、柿澤源次郎。
 その右腕は、ザッハーク目掛けて真っ直ぐ突き出されていた。
 傍らには藤村がいる。彼が肩を貸すことで、ようやく柿澤は立っていられた。
 そんな状態で――――最後の力を振り絞り、零次たちを助けたのだ。
「これで……良かったのですか?」
 あの庵で倒れている柿澤を最初に助けたのは藤村だった。
 そこに霧島が合流し、更に美緒がやって来た。
 彼女はすぐさま幸町に連絡をした。霧島と柿澤が一刻を争う状態だったからだ。
 やがて連絡を受けた藤田たちが先に到着し、その後すぐに治療のため幸町がやって来た。
 しかし、霧島も柿澤も治療を拒否した。
 やって来た幸町らに対し、二人が望んだことはただ一つ。
 決戦の場に、連れて行って欲しい。
 それだけだった。
「私は、自分の歩んできた道を否定出来ない」
 柿澤は藤村にではなく、すぐ側にいる少女――涼子に対して言った。
「それでも……我が子に希望の明日があるのなら。それを、祝福したい」
「……柿澤さん」
 涼子は複雑な面持ちで柿澤の横顔を見上げた。
 そして正面、零次たちのいる方に視線を移す。
 ザッハークは倒れ、二人の少年もその場に尻餅をついていた。
 激しい戦いの後に残る雰囲気のせいか、この場にいる全員が動けずにいる。
 そんな中、涼子は静かに言った。
「私は、貴方を認めることは出来ません」
「それでいい。それが、正しい姿勢だ」
「……でも、私は貴方を許します」
「――――」
 柿澤は瞠目した。
 涼子の言葉が意外だったらしい。
 しかし、涼子が真顔のままでいるのを見て、安らかな笑みを浮かべた。
 静かに目を閉じて、小さく口を動かす。
「……あの子を、頼む」
 それが――――最期の言葉だった。
 柿澤源次郎は。
 久坂源蔵は。
 長きに渡る孤独の戦いを終え、静かに眠りに落ちた。
「隊長……お疲れ様でした」
 藤村は労わるように、その身体をゆっくりと寝かせた。
 その側に、幸町に肩を貸してもらいながら、霧島がゆっくりと歩いてくる。
 彼は力ない表情で柿澤の死に顔を見つめていたが――やがて小さく頭を振った。
 言葉はなかった。
 きっと、何を言っても意味がないことを悟ったのだろう。
 霧島にとって、柿澤は上司であり、敵であり、そして同志だった。
 そんな相手に言葉は不要。ただ、静かに見送るだけでいいのだろう。
 周囲にいた美緒、藤田、斎藤らも、何も言わずにその最期を見届けていた。
 そのときだった。
「あれは……!」
 霧島が不意に声を上げた。
 涼子は彼の視線を追う。
 その先にあったのは、異変だった。
 梢と零次に倒されたはずのザッハーク。
 その身体から、どす黒い魔力が放出されていく。
 それだけではない。
 秋風市各地に散っていた魔獣たちも集結し、魔力の渦に飲み込まれていく。
「霧島さん、あれって……」
 それは次第に形作られていく。
 夜空を覆いつくす、雲のような――――三頭の大蛇に。

「ふん。まだ、やるつもりらしいな。……執念深いことだ」
 ふらふらと、頼りない様子で零次が起き上がる。
 その横では、梢もまたゆらりと腰を浮かせていた。
「野郎の執念、みたいなもんかねぇ。こいつを倒さなきゃ、まだ終わらんみてぇだな」
 だが、梢も零次も既に限界だった。
 体力、魔力は共に使い果たしている。
 戦闘によるダメージも、致命傷こそないが、決して軽いものではない。
 それでも。
 今更逃げるという選択肢など、どこにもなかった。
「やるしかねぇか。……おい久坂零次、手を貸せ」
「言われるまでもない。貴様こそ足を引っ張るなよ、倉凪梢」
 上空で形成されつつある大蛇は、静かに梢たちを見下ろしていた。
 目はない。それでも、大蛇たちが悪意を込めた視線を投げかけていることが、不思議と分かった。
 その大きさは、ザッハークの両肩から出ていた大蛇たちを雄に越している。
 あんなものが本格的に暴れだしたら手のつけようがない。
 梢の右腕は輝きを失い。
 零次の翼は風を失った。
 それでも彼らは、諦めない。
 残された力を足に込め、大蛇目掛けて跳躍しようと腰を落とす。
 そのとき、声が聞こえた。

 明日へ向かう意思がある。
 約束を果たそうとする意思がある。
 今ある居場所を守ろうとする意思がある。
 決着をつけようという、意思がある。
 それら全ての意思が、彼女の安らぎを妨げた。
 しかし不快感はない。
 むしろ、一緒に行こうと、誰かが笑顔で背中を押してくれているような心地よさがあった。
 大切な人が戦うと決めた。
 ならば、自分には何が出来るか。
 その答えを見つけ出し、彼女は目を覚ました。

「姉さん……」
 脳裏に遥の声が聞こえて、涼子は咄嗟に車を見た。
 丁度そのとき、扉が開いた。
 中から出てきたのは、微かな光を帯びた遥だった。
 引き締まった表情で周囲の皆を見渡す。
 涼子、霧島、幸町、藤村、藤田、斎藤、美緒。
 最後に梢と零次、そして三頭の大蛇。
 全てを確認し、遥は小さく頷いた。
 同時に、涼子の脳裏に遥の声が響く。
 ――――皆。
 梢と零次もこちらに気付いたらしい。
 光を放つ遥を。そして彼女を取り囲む人々のことを見ていた。
 皆の様子から、誰もが遥の声を聞いているのだと、涼子は確信した。
 胸の内側がひどく温かい。
 とても優しい気持ちになれたような気がする、そんな温かさだった。
 ――――力を。
 遥の真摯な声が、心に直接届けられる。
 涼子は、今彼女と繋がっていることを確信していた。

 突如撤退を始めた魔獣たちを追いながら、刃と亨は確かにその声を聞いていた。
 ほとんど聞いたことのない声を。
 ――――力を、貸してください。
 しかし、何故か二人には、この声の主が誰か分かっていた。
 伝わってくるのだ。
 彼女の思いが。
「行こう、兄さん」
「ああ」
 兄弟は駆ける。
 決戦の場に。
 仲間を助けるために。

 カンパニー前で戦闘を終えた榊原たちも、その声を聞いていた。
 ――――明日に、向かうために。
 幸せを知らなかった少女の声を。
 幸せを知ることの出来た少女の声を。
「行かなくていいのかよ、おっさん。愛娘のお呼びだぜ」
「さすがにこっからじゃ間に合わんだろ」
 煙草を吹かしながら、榊原は遠方を見た。
 そちらから声が聞こえてきたような気がしたからだ。
「……行け。その意思を、思う存分ぶちかませ」

「孝也、あれ出せ」
 遥の声を聞きながら、霧島は掠れた声で幸町に言った。
 幸町は頷くと、白衣の内側から紅色の魔銃を取り出した。
 魔銃ヴィリ。
 涼子が持つ水銃ヴェーと対を成す、幻想焼却の炎銃だ。
 梢の新たな右腕を創り上げるときの材料として、幸町がずっと預かっていたのである。
 霧島はそれを受け取ると、涼子の元に放り投げた。
 彼の考えていることが伝わってくる。
 涼子はヴィリを手にすると、遥の傍らに立った。
 遥は涼子を見て頷く。
 そして、ヴィリを握る涼子の手に自分の手を重ねた。

「こいつぁ……」
 梢は自分の右腕を見ていた。
 そこからは、先程までと比べ物にならないくらい、力強い光が溢れ出している。
 それは意思の力によって生まれる光。
 梢だけの意思ではない。皆の意思が、梢の右腕に集まっている。
 ぶわりと、力強い風が梢の髪を揺らした。
 零次の翼が生み出す、飛翔のための風である。
「いけそうか?」
「一度ならな」
「それで充分だ」
 梢と零次はお互い頷き合う。
 そして、銃を構える涼子たちを見た。
 彼女たちもまた、力強く頷いてみせた。
 遥の力によって、意思が集まる。
 霧島。
 幸町。
 藤田。
 斎藤。
 刃。
 亨。
 藤村。
 赤根。
 榊原。
 美緒。
 彼らの思いと力が、梢たち四人に集まってくる。
「どうだ、蛇野郎」
 梢はザッハークではなく、上空の大蛇に向かって笑いかけた。
「こんだけいる。最低でも、俺たちの味方はこんだけいるんだ」
 たった十人。
 それだけの人々の、なんと心強いことか。
「他にもまだまだいる。学校とか商店街とか、一緒に笑い合えるような奴らはまだまだいる。……そんだけいりゃあ、世界なんざ変えなくても、自分の望むものはいくらでも手に入るんだよ!」
 その叫びと全く同時に、後方から白き炎竜が飛び出した。
 黒き大蛇は初めて動く。
 迎撃するために、頭部を炎竜に向けた。
 しかし炎竜の方が速い。
 炎竜は凄まじい勢いで、三頭のうち一頭を食い千切る。
 大蛇も黙ってやられはしなかった。
 炎竜が一頭を食い千切っている隙を狙い、残り二頭が襲いかかった。
 このままでは炎竜は力負けして消えてしまう。
 そのときだった。
「おおおおおおッ!」
 夜空に咆哮が轟き渡る。
 炎竜に襲いかかろうとしている大蛇の一頭に、小さな影が躍りかかった。
 それは、鉄のボードで滑空する亨。
 そして、極大の力を右の拳に集中させた刃だった。
 亨のボードから刃が飛び降りる。
 落下の勢いに乗って、一直線に大蛇の元に向かう。
 刃は一撃の破壊力なら異法隊随一。
 それは、魔力で練られた大蛇に対しても例外ではない。
「ぬおおおおおおおおおぉぉぉぉぉッ!」
 咆哮が落下し、そのまま大蛇の一頭を粉々に砕いた。
 それを見届けると、零次は梢を抱えて宙へ舞う。
「しくじるなよ」
「分かってるっての」
 炎竜はついに力尽きて消えた。
 しかし三頭の大蛇も、今は残り一頭。
 対するこちらは、梢の右腕が最後の武器。
 大蛇はがその存在に気付き、声なき咆哮を上げて襲い掛かってくる。
 零次はそれを力一杯避け、天高く飛翔する。

 秋風市内戦の事後処理をしていた彼女は、それを見ていた。
 暗雲を切り裂き天へと至る、一筋の光を。
「飛鳥井のお嬢。あれは……」
「ええ、大御所様」
 彼女は微かに笑みを浮かべ、その光を見ながら言った。
「――――決着の光です」

 秋風市の全景が見渡せそうなくらい高い空。
 そこで梢は、静かに言った。
「ここでいい」
「大丈夫か?」
「ああ。……お前こそ、しくじるんじゃねぇぞ」
 言葉と同時に、梢は左手を離す。
 落ちる。
 その先にあるのは、大地ではなく大蛇。
 自分がいるべき大地への道を阻む、境界をうろつく化け物だ。
 ――――梢君!
 遥の声が聞こえる。
 ――――先輩っ。
 涼子の声も聞こえた。
 ――――梢。
 霧島の声も。
 ――――お兄ちゃん。梢。倉凪。倉凪。倉凪梢。倉凪さん。草野郎。倉凪梢。倉凪君。
 美緒の声も師の声も、藤田や斎藤の声も、異法隊の者たちの声も、幸町の声も聞こえる。
 皆が、あの大地で待っている。
 梢が。
 遥が。
 零次が望んだ、あの場所で。
 そこに帰ると約束した。
 そのためには――――
「てめぇを――――突破するッ!」
 迫り来る無限の大蛇。
 それは、世界を嫌う者の執念。
 対するは光輝く一本の腕。
 そこに宿るのは、世界を望む者の情念。
 両者は宙で激突した。
 それは、遠くにいる者たちには花火のように見えたことだろう。
「おおおおおおおぉぉ!」
 大蛇の頭は鋭い槍のようになっていた。
 それに押されて、梢の右腕には次々と亀裂が走っていく。
 そのとき。
 梢の背中を、誰かが押してくれたような気がした。
 ――――おら、さっさと皆のところに戻れよ。待ってるぞ、遥ちゃんたち。
 そんなことは言われなくても、
「――――分かってんだよ、相棒!」
 梢の拳が、少しずつ大蛇を押していく。
 少しずつ、大蛇の身体にも亀裂が走っていく。
 どちらが先に砕けるか。
 ――――大丈夫。砕けさせないよ。
 遥の声。
 と同時に、右腕は包む温かな光に包まれた。
 まるで、彼女に守られているかのように。
 直後、砕けた。
 無限の大蛇の果て無き執念が、砕けた。
 全身に亀裂を走らせ、跡形もなく粉々に砕け散った。
 そして、梢は宙に放り出され――――落下を再開した。

 それを――――零次が掴まえた。
 落ち行く梢の腕を掴み取り、ふわりと着地する。
 皆が、駆け寄ってきていた。
 まず、遥が梢の元に向かおうとしてこけた。
 それを倒れていた梢が受け止めて、お互い少し顔を赤くして離れた。
 そんな二人を皆で茶化した。
 終わったんだね、と涼子が言った。
 疲れきったような声だった。
 そんな彼女の肩を、零次が優しくポンと叩いた。

 彼らから少し離れた場所に、霧島は腰を降ろしていた。
 側には幸町が立ち、そしてザッハークが倒れている。
 ザッハークは死んではいない。
 つくづくしぶとい奴だ、と霧島は呆れ返っていた。
「……結局、こいつは最後まで自分の意見を曲げなかったな」
「そういう輩もいる。それは仕方ないよ」
 幸町は残念そうに言った。
 どんなに言葉を尽くしても。
 根源にある価値観を異とする相手には、伝わらないこともある。
 誰もが分かり合えるわけではない。
「……こいつほどぶっ飛んだのはそうそういないだろうが。似たような連中はまだまだいる。こんなことが、もう起きないとは言い切れない」
「かも、しれないね」
「あいつらも、まだまだ苦労しそうだな」
「でも、信じてるんだろ? きっと、上手くやっていくだろうって」
 幸町の指摘に、霧島は苦笑して応えた。
「人の生き様に上手いも下手もねぇよ。ただ、あいつらはあれでいい。俺は、そう思う」
 言いながら、霧島は少しずつ瞼を降ろしていく。
 気付けば、梢たちがすぐ側までやって来ていた。
「兄貴……」
「よう。お疲れさん」
 梢に手を上げて応えようとしたが、出来なかった。
「霧島さん」
「嬢ちゃんも、ホントにお疲れさん。……楽しかったぜ、お前さんとの漫才」
 からかうつもりで言ったのだが、誰も笑わなかった。
「霧島」
「零次。お前は、もう自分に負けるんじゃねぇぞ」
 厳しく言おうとしたが、声が掠れてしまった。
 そして。
 一人の少女が、霧島の前に膝をついた。
 もはやほとんど感覚のない手が、確かな温もりに包まれる。
「……霧島直人さん。本当に、ありがとうございます」
「……はは。助けるのが、大分遅れちまって、申し訳ない」
「ううん。貴方の心、とても強くて真っ直ぐで、頼もしかった。……本当に嬉しかったです」
「……そうか。そいつは、良かった」
 霞む視界に映る少女の顔。
 それはどこか、遠い昔に失った人に似ていた。
 最後の最後に、一つだけ、わがままを言ってみたくなった。
「なあ、遥。……おにーさん、わがまま言ってもいいかね?」
「ええ、いくらでも」
「…………なら。――――思い切り、笑ってくれないか」
 その願いは、叶えられた。
 遥は、とても優しい笑顔を見せてくれた。
 まるで、あの幸せだった日々に戻ったかのよう。
 いつも自分の傍らで笑っていてくれた彼女が、戻ってきてくれたようだった。
「……ありがとな」
 そうして霧島は、彼女の待つ場所へと旅立った。
 静かに。
 彼の魂を天へと運ぶように。
 この戦いの終わりを告げるかのように。
 温かな風が、吹いた。
 月が綺麗な夏の夜。
 それが――――長きに渡るこの事件の終幕だった。