異法人の夜-Foreigners night-

-Border Breaks-
エピローグ「決着の先へ」
 ――――注意。読み終えた後、この手紙は焼却処分すること。
 活動について
 二〇〇三年八月××日を以って、異法隊日本支部の活動は停止とする。当地において協力関係にあった赤間カンパニーとは、当方で契約破棄を行うこととする。
 現時点では活動再開の見込みはなし。必要に応じて随時取り決める予定である。
 今後について
 各隊員の今後について、本部は諸君の要請通り指示を出さないこととする。
 各自、自己責任で今後の身の振り方を決めて欲しい。
 本部では諸君のために多少のサポート体制は整えているので、困ったときは頼るように。
 また、定時連絡は欠かさぬように。万一連絡が途絶えた場合、当方から捜査員を派遣することとする。
 現地で発生した事件について
 諸君の報告を元に判断した結果、本部では件の少女に一切介入しないこととする。
 また、事件の後始末に関しては当方で全て請け負うこととする。
 よって、諸君がこれに対し不必要に介入することは禁ずる。
 以上。
 共に輝ける未来を紡ぐ同志諸君へ。
 ――――――――――――――――――――二〇〇三年八月×日/異法隊本部長×××

 その日、涼子はリンゴの皮を剥いていた。
 隣には遥もいる。
 遥は涼子に教わりながらリンゴの皮剥きの練習をしていた。
 慣れない手つきで一生懸命皮を剥く様は、相手が姉だと分かっていても、どことなく可愛らしい気がしてしまう。
「むぅ……また切れちゃった」
 リンゴの皮が途中で切れてしまったらしい。
 遥はどことなく不満そうに、切れて落ちた皮をじーっと見ていた。
 今は夏休み。
 しかし、色々あって夏休み前から欠席が多かったため、今一つ夏休みになったという実感が沸かない。
 蝉の鳴き声が夏であることを証明しているのだが、それもどことなく「学校へ行け」と言われているような気がするのだ。
 あれから少し時間が流れた。
 既に八月に入ってから一週間以上が経とうとしている。
 事件終了直後は色々とゴタゴタしていたが、今は大分落ち着いてきている。
「ねぇ涼子ちゃん。どうしたら上手くなれるのかなぁ……」
 遥は泣きべそをかきながら呟いた。
 が、彼女は決して下手なわけではない。
 普通の人と比べても、上達は早い方だろう。
 ただ、遥は普通の基準が分からない。
 そのため、何かあるとすぐに『自分は駄目なんじゃないか』と不安になってしまうのである。
「大丈夫、上手くなってるって」
「そうかなぁ……」
「あとはそうだなぁ。ほら、包丁を動かさないで、リンゴの方を動かすことを意識して――――」
 ちなみにここは榊原邸。
 涼子は事件後のゴタゴタが落ち着いてからは、毎日のようにここを訪れていた。
 目的は当然遥だった。
 涼子と遥は、互いに唯一血を分けた家族だ。
 今まで一緒にいられなかった分を取り戻したい。
 どちらもそう思っていたから、こうして頻繁に会いに来ているのである。
 遥はもう"儀式"のときのような光を発さなくなっていた。
 幸町がその要因を取り除いてくれたのである。
 なんでも、あの光は遥の力の範囲を拡張していることの表れらしい。
 遥の力、リンク・トゥ・ハート。
 平時は触れた相手の考えを読む程度。
 少し意識して力を使えば、触れた相手と意思や魔力といった、不可視の要素を共有することが出来るようになる。
 しかしそれ以上に効果が広がると、自分と近しい人――――つまり精神的繋がりを感じやすい人と共有するようになる。
 更にそれが広がると、無関係な人々とも共有することになってしまう。
 その果てに行き着くのが、柿澤の"儀式"――――即ち、全人類の無意識への到達らしい。
 遥の力は基本的に意思の共有である。
 あまり使いすぎると、自己の崩壊に繋がる危険性もあった。
 そのため、幸町はこの力の効果範囲が広がることを危険視し、元に戻したのである。
 もっとも、そんなことに涼子はあまり関心がない。
 また遥が酷い目に合うのでなければ、それで良いと思っていた。
「……ん?」
 玄関でチャイムが鳴る音が聞こえた。
 皮剥きに熱中している遥は気づいていない。
 自分が出ようかと涼子が微かに足を動かす。
 と同時に、どたどたと廊下を走る賑やかな音が聞こえてきた。
「はいはいはいーっ!」
 美緒の声だ。
 どうやら、彼女が向かったらしい。
 誰が来たのだろうかと、涼子は意識をそちらに向けた。
 例の事件以降、何かと榊原邸には訪問者が訪れる。
 今回もそうした手合なのだろうか。
 しかし、玄関の方からは美緒の騒がしい声が聞こえてくる。
 おそらく知り合いが尋ねてきたのだろう。
 一分もしないうちに、複数に増えた足音が居間へと近づいてくる。
 やがて顔を出したのは、矢崎兄弟だった。
「あれ、お兄ちゃんかお義父さんいない?」
「サカさんは仕事でしょ。先輩は……そういえばさっきから姿見ないわね」
「呼んだか?」
 と、庭先の方から梢がやって来た。
 袖なしのシャツを着込んで、首にはタオルをかけている。
 汗だくになっているところから察するに、道場の方で稽古をしていたようだ。
 そんな梢の姿を見て、刃が気遣うように声をかける。
「……調子はどうだ」
「ん、右腕も大分調子良くなってきた。あんだけぶっ壊れてたのによく直せたよな、幸町の先生も」
 戦いの後、梢の右腕は酷いとしか言いようのない有様だった。
 相当頑丈にしたはずなんだけどなぁ、という幸町のぼやきが今でも耳に残っている。
 が、今ではほぼ完治している。傍から見ると普通の腕にしか見えない辺り、幸町の技術力には感心せざるを得ない。
「お、リンゴ。どれどれ」
 と、梢は自然な動作で涼子の剥いたリンゴに手を伸ばそうとした。
 そちらの方が綺麗に剥けてるからだろう。
 涼子はそんな彼を一睨みしながら、さり気なくその腕を押して遥のリンゴへと向かわせた。
 梢はきょとんとした表情で涼子を見たが、特に気にした風もなく遥のリンゴを口にする。
 遥はそれを不安そうな面持ちで見ていた。
「ど、どうかな」
「ん? ああ、美味いぞ」
「ほんと?」
「嘘言ってどうすんだよ」
 梢は苦笑して、居間のテーブルに腰を下ろした。
 それに合わせて刃たちも席につく。
 涼子たちも手を休めて側に座った。
「んで、それで今日はどうしたんだ?」
「ああ。我々の今後の身の振り方について話しておこうと思ってな」
「先日、本部の方から連絡がありまして」
 刃の言葉を引き継ぐようにして、亨が細々とした説明を述べた。
 梢は時折相槌を打ちながら話を聞いていた。
「――――要するに。定時連絡さえ欠かさなきゃ、後は好きにしろってことか」
「そういうことになりますね。日本支部を解散させるということで、今回の件を決着させようというつもりみたいです」
「しかし、お前らの話を聞いててふと思ったんだが……俺はどうなるんだ?」
 異法隊は異法人の保護を目的としている。
 そんな彼らが、梢に対しては一切言及していない。
 涼子から見ても、その点は少々不自然だった。
「ああ、それは適当にごまかしちゃいました。梢さんのことが知られると、あれこれと突っつかれて面倒臭そうですし」
「……いや、いいのかそれで」
「構わん。向こうも気付いていて黙認している節があるしな」
 今は本部の方でも色々と揉めているらしい。
 梢にいちいちちょっかいを出していられるほど、暇ではないのだろう。
「でも、皆さんはこれからどうするんですか?」
 遥が首を傾げる。
 異法隊は解散。
 定時連絡以外にすることはない。
 となれば、彼らはどうするのだろう。
「そこで、一つ頼みがあるのだ」
 刃は居住まいを正して、梢を真っ直ぐ見た。
「俺はここから離れ、各地の異法人の現状を把握しておきたい。……要するに旅に出たい」
「うん。そいつは良いことじゃねぇかな」
 梢は刃の意見に同意のようだった。
 涼子としても、それは悪いことではないと思う。
 各地にはまだまだ苦しんでいる異法人たちがいるかもしれない。
 逆に、異法人によって苦しめられている人々もいるだろう。
 そうした現状を把握し解決していくことは、とても大切なことだ。
「だが、その旅にこいつを連れて行くことは出来ない」
 と、刃は亨に視線を向けた。
 いきなり話を振られた亨は、戸惑いを表情に浮かべていた。
「え? に、兄さん? いきなり何言ってるのさ」
「お前は学校があるだろう」
「いや、別にそんなのいいってば。僕も兄さんの手伝いするよ」
「いらん。……それに、これは必要なことだ」
 と、刃は亨の頭をぐりぐりと撫でた。
「お前はそうやって、いつも俺の後に着いてきた。それが悪いとは言わん。だが、一度離れてみることも必要だとは思わんか」
「それは……そうかもしれないけど」
「お前も、そろそろ自分の意思で進むべき道を探してもいい頃だ。そのとき俺が側にいては邪魔になるだろう」
 そう言って、刃は再び梢の方に向き直った。
「……そこでだ。こいつを、しばらく預かってもらえないだろうか」
「俺は別にいいけど、それなら師匠に言ってくれよ。ここの家主は師匠だぞ?」
「榊原氏に伺ったところ、お前に一任すると言われた」
「……あー、なるほど」
 梢は苦笑して鼻先を掻いた。
 いい加減な人だなぁ、と小さく呟く。
「ま、それなら大丈夫だ。家でしっかりと預かろう」
「ああ。せいぜいしごいてやってくれ」
 刃の言葉に梢が快諾する。
 そんな二人の様子を見て、亨は不安そうにきょろきょろと視線を動かした。
 美緒がそんな彼をからかって、涼子や遥も思わず笑う。
 夏の陽射しが眩しい、平凡な日の午後のことだった。

 当日、民間人の被害者はおよそ十五人。
 うち軽傷が八人、重傷が七人。死者は零。
 あの状況を考えると、この数値は奇跡的なものとしか言いようがない。
 何人かに魔獣たちは目撃されてしまったようだが、可能な限り魔術同盟の者たちが記憶消去を行っている。
 無論消し損ねはあるだろうが、せいぜい奇妙な噂として流れる程度に収まるだろう。
 あの日、霧島がどこまで見越して彼らを秋風市の周囲に呼び寄せたかは分からない。
 しかし結果的に霧島の策略は、事件解決だけでなく事後処理においても非常に役立ってくれた。
 ザッハークの身柄については、各組織の間で相当揉めた。
 が、結局は異法隊本部が預かることになった。
 今頃は厳重に戒められ、幽閉されていることだろう。
 無論ザッハークの恐ろしさは本部も承知している。
 脱走されることのないよう、最大級の牢獄を用意しているに違いない。
 あるいは――――幽閉していると見せかけて、既に始末されたか。
 ザッハークは未だに目を覚ましていないという噂も聞く。
 無限の大蛇がどうなったのか、零次には正確な情報が一切入ってこない。
 故に、あれこれと悩んでも仕方がない。
 少なくとも、今の零次にとってザッハークのことは既に終わっていることなのだから。
「それで、零次はどうするんだい?」
 その声で、零次は思考を中断した。
 意識を現実に戻す。
 彼は今、市内の喫茶店にいた。
 正面に座っているのは、藤村亮介と赤根甲子郎。
「……すまん、考え事をしていた。何の話だったか」
「今後、零次はどうするのかって話だよ」
 藤村は特に呆れた様子もなく繰り返した。
 その隣にいる赤根は、若干居心地が悪そうな表情で外を見ている。
「藤村はどうするんだ?」
「俺は刃と同じかな。各地の状況を見て歩こうと思う。いつまた日本支部が活動を再開するか分からないし」
 藤村は、そう言って寂しげに笑ってみせた。
 事件が終わってから。
 藤村はしばらく、抜け殻のようになっていた。
 彼の口から様々な事情を聞かされたのはその頃である。
「……藤村。隊長のことは」
「大丈夫だよ。君だって立ち直ったんだ。俺がいつまでも落ち込んでるわけにもいかない」
 それに、と藤村は笑った。
 今度は、嬉しそうに。
「俺は今日まで来れたことを嬉しく思う。そして、明日を迎えることを希望する。それを思うと……過去に起きた悲しいことも、苦しいことも。力強く、俺の背中を支えてくれるような気がするから」
「……そうか」
 藤村は強い。
 人の都合で生み出され、誰かのために生きてきた。
 そんな彼が、自分の道を見つけ出したのだ。
 きっと彼は、もう生きることに絶望しない。
 明日に希望を見出すため、今日という日を懸命に生きる。
 その姿勢を忘れない限り、彼は大丈夫だろう。
 そんな風に、思った。
「赤根はどうするんだ」
「俺ァ……」
 赤根は不機嫌そうな顔で口ごもる。
 否、不機嫌そうに見えるのは上辺だけだろう。
 あの事件以降、零次にも赤根という男が少しは理解出来るようになっていた。
 彼は迷っている。
 それを人に知られまいとして、わざとあんな表情を浮かべているに過ぎない。
「……赤根。もし迷っているなら、俺たちを手伝ってくれないか?」
 赤根の不意を突くように、藤村が言った。
 突然の誘いに赤根は難色を示す。
「なんで俺が、お前らの手伝いしなきゃいけねーんだよ?」
「別にしろとは言ってないさ。ただ、赤根も手伝ってくれるなら心強い」
「うぐっ……」
 赤根は照れ臭いのか、余計わざとらしく顔をしかめ、窓の外を向いてしまった。
 が、悪い気はしていないらしい。特に反論しないのがその証拠と言える。
「……ケッ。わーったよ。他にすることもねぇしな」
 しばらく唸り声を上げた末に、赤根は渋々といった形で藤村の提案を承諾する。
 ……この程度のことも、以前の我々ではありえなかっただろうな。
 そう考えると。
 あの事件は、色々な悲劇を生んだが――――決してそれだけではなかった、と思える。
 異法隊日本支部はなくなったが、いつかまた再生するだろう。
 そのときはきっと、以前とは比べ物にならないくらい、良い形になっているに違いない。
「藤村」
「ん?」
「――――俺も、手伝おう」

 それを聞かされたとき、涼子は正直なところ、少し驚いた。
「俺も刃たちと同様、各地を渡り歩こうと思う」
 てっきり、零次はここに残るものだとばかり思っていた。
 彼にはまだ学校がある。それに、積極的に出ていくような姿勢は、それまで一度も見たことがなかった。
 ……違う。
 涼子は胸中で、その理屈を否定する。
 自分が驚いているのは、期待が外れたからだ。
 彼はここに残ってくれるんだと、勝手に期待していたからだ。
 その勝手な思いが現実とズレたことで、少し合わせるのに時間がかかっただけだ。
「そ……そうなんだ」
 ここは榊原邸の居間。
 夕食後に姿を現した零次は、旅立つ旨をその場にいる全員に告げた。
 涼子だけが、乾いた声で応えた。
「出発は、いつなの?」
「準備は既に整っているから、明日には出られるだろう」
「急なんだね」
「そうだな」
 零次も口数が少ない。
 自分の選択が、涼子を失望させたことに気付いているのだろう。
 申し訳なさそうな視線が、涼子には痛かった。
「じゃあ、頑張ってきて」
 だから、笑った。
 明るい声と笑顔。それで零次を見送らなければ、と思ったのだ。
「零次さんならきっと出来るよ。だから頑張って。私も……応援してるから」
 活気のある声は長続きしなかった。
 そんなことでは駄目だと思いつつ、中々上手く出来ない。
 場に沈黙が訪れた。
 涼子は、少しずつ顔を俯けていく。
 そのとき、遥が不意に涼子の肩に手を乗せた。
「涼子ちゃん、大丈夫? やっぱり熱あるんじゃないかな」
「え?」
「……あーそうだな。遥、あっちの部屋に救急箱あるから。熱計ってやってくれ。さっきから調子悪そうだったからな」
 と、梢が目線で出ていくように促す。
 梢も遥も、おそらく涼子の内情を察して気を利かせてくれたのだろう。
 こうして自分がこの場に残っていても、気まずくなる一方だ。
 それに、涼子自身、あまりここに残りたくはないと思っていた。
 遥と一緒に、静かに居間を後にする。
 心配そうにこちらを見る零次が見えた。
 大丈夫だと手を振ろうとしたが、上手く出来なかった。
 遥に連れられて、居間から離れた部屋に辿り着く。
「涼子ちゃん。……大丈夫?」
「うん。まあ、なんとか」
 零次と離れることで、少し気分を持ち直した。
 だが、心の底では、何か嫌なものが渦巻いているような気がした。
「何やってんだろ、私。……勝手に、これからは皆一緒なんだ、なんて思ってて。それがちょっとズレたぐらいで、どうしたんだか」
「……それはきっと、涼子ちゃんが久坂君のことを大事に思ってるからだよ」
 遥の言葉は、不思議と心の中に浸透する力を持っている。
 そして、それは決して不快なものではなく、むしろ温かみを感じさせるものだった。
「一緒にいたいと思う人が離れれば、寂しいと思う。それは当然のこと。……私だって、今涼子ちゃんや梢君がいなくなったら寂しいよ。だから、涼子ちゃんが寂しいと思うのは間違いじゃないと思う」
「でも、だからって零次さんの邪魔はしたくない」
 涼子がここで駄々をこねても、それはただのワガママだ。
 零次は違う。七年前と違い、黙って去ることをしなかった。
 そうした方が気は楽だっただろう。しかし、彼はきちんと涼子に自分の意思を告げた。
 逃げるのではなく、自分の意思で旅立つ。
 そんな彼に対し、ここに残って欲しいなどとは、言えない。
 遥も、涼子のそうした悩みは分かっているらしい。
 心配そうな顔をしながら、そっと側にい続けてくれた。

 遥は一人、縁側で夏の風を楽しんでいた。
 浴衣姿でうちわを手にし、静かに風鈴の音を楽しんでいる。
 ちりん、ちりん。
 蝉の鳴き声が聞こえてくる。
 それに交じって、こちらへと歩いてくる足音が一つ。
「遥。隣、いいか?」
「うん」
「サンキュ。……よっこらせっと」
 梢はエプロンを着けたまま、遥の隣に腰を下ろす。
「台所にいると暑くて敵わんな。ちょっと涼みたい気分だ」
「うん、そうだね。凄く暑いな」
 しばらくの間、二人は無言だった。
 風鈴だけが、ちりんちりんと音を立てる。
「……冬塚はどうだ?」
「今は気を持ち直したみたい。さっきは突然だったから、びっくりしちゃったんだと思う」
「そっか」
「でも、やっぱり寂しいんじゃないかな」
「……だろうなぁ」
 難しい問題だった。
 遥としては、涼子を悲しませたくない。
 彼女の望みは、決して贅沢なものではない。
 叶えてやりたいと思っている。
 しかし、零次の決断も間違ってはいない。
 彼は各地を見て回り、様々な問題と向き合おうとしている。
 それは立派なことだ。そうすることで、救われる人も出てくるだろう。
「どうしたらいいのかな。多分……私たちから久坂君にお願いしても、意味はないよね」
「ああ。一応俺と美緒で考え直すように言ったんだが、聞く耳持たない」
 どちらが間違っているわけでもない。
 ただ、どちらか片方の意思しか通らない。
 そして、涼子は零次のために自分の意思を抑えている。
 ……こういうとき、どうすればいいのかな。
 遥は深く溜息をついた。
 そこに、零次がやって来た。
 遥の姿を見つけると、何か尋ねたそうに口を開きかけた。
 が、すぐに視線を逸らす。
 彼も、涼子の様子が気になっていたのだろう。
「……遥。冬塚は、何か言っていたか?」
 ひどく歯切れが悪い。
 遥は頭を振り、
「涼子ちゃんは、多分何も言わない。そうしようと頑張ってるから」
「そう……か」
 零次の表情は暗い。
 なんとなく遥は、零次も本当は残りたいんじゃないか、と感じていた。
「なあ久坂。お前、本当に残るつもりはないのか?」
「……ない。さっきも言っただろう」
「その割には、未練たらたらに見えるぞ」
「…………」
 梢の指摘に、零次は押し黙った。
 図星らしい。
 立ったままでは疲れるだろうと思って、遥は隣に座るよう、零次に促した。
「残りたくないわけではない」
 零次は胸の奥から吐き出すように、そう言った。
「だが、俺はここで安穏とした日々を送る資格など持っていない」
「……おいおい、まさか、この期に及んでまだ異法人だからとか、自分の力は危険だからとか言うつもりか?」
 梢の声には、若干の険しさが含まれていた。
 だが零次は頭を振って、それを否定した。
「そうではない。……俺の罪は、そういうものではない」
 零次はちらりと、遥のことを見た。
 その眼差しは、まるで懺悔を求める咎人のよう。
「今回の事件。その原因の一つは――――俺だ」
 零次の言葉を、最初遥は理解出来なかった。
 今回の事件。
 引き起こしたのは、柿澤源次郎。そして、ザッハーク。
 柿澤源次郎は零次の父親だ。しかし、息子だからといって、零次に責任はない。
 彼は計画に加担していなかった。何も知らなかったのだ。
 罪など、どこにもない。
「久坂君は……別に悪くないと思うな」
「いや。俺がいなければ――――きっと父さんも、あんなことはしなかった」
 泣いているようなその声に、遥と梢は押し黙った。
「最初にいたのは俺だ。俺のせいで母と妹は死に、それがきっかけで父さんはあの"儀式"を完遂させるために、手段を選ばなくなったんだと思う。……冬塚のことも。遥のことも。冬塚夫妻、八島一家、それに霧島たちも。もしかしたら、ただ平穏に暮らせていたかもしれない」
「それは、お前の思い込みじゃねぇのか」
「かもしれない。だが、その考えが消えない。全部俺のせいなんだと思ってしまう」
 自分自身が定めた、己の罪。
 他の誰もがそれを無罪と言っても意味がない。
 零次自身が、自分を許さない限り。
「だから俺は、せめてもの罪滅ぼしをしたい」
「……それで、旅に出ようと思ったんだね。少しでも多くの人を助けようと」
 それはとても立派なこと。
 自らの罪を背負いながら、前へ前へと進んでいく。
 誰かに非難されるようなことではない。
 けれど。
 それは、とても辛いことだ。
「――――久坂君はそれでいいの?」
 遥は零次をじっと見ながら言った。
 あまり意識してはいなかったが、とても強い口調になってしまった。
「……どういう意味だ?」
「久坂君は自分で自分を許せない。だから、せめて納得出来るように罪滅ぼしをしようと、ここから離れようとしてるんだよね。でも、そしたら今度は、別のことで悔やむと思う」
 別のこと。
 それが何を指しているかは、零次も梢も分かっているようだった。
 涼子の元を、離れるということだ。
「久坂君は後悔するよ。涼子ちゃんを残していくことを。きっと、後悔する」
「……それは」
 零次は口を噤んだ。
 彼自身、少なからずそう思っていることの証拠だった。
 どちらを選んでも後悔するという予感。
 それが、この場において零次を苦悩させているのだ。
 それきり、場は再び沈黙に包まれる。
 ちりん、ちりん。
 夜風が温かい。
 少し、不快な温かさだった。
 ――――どれくらいの間、そうしていただろう。
 不意に、梢が腰を上げた。
「久坂。頭だけ使って悩んでも、解決しないことはある。……だったら、身体使って決めてみようぜ」
「何?」
 突然の梢の提案に、零次は不可解そうな表情を浮かべた。
 遥も同様だった。梢の突飛な言葉に、首を傾げてしまう。
「こうしてうだうだ悩んだってすっきりなんざしねぇだろ。どっちを選ぶにしてもな。だから、俺と一つ賭けでもして決めようじゃねぇか」
「賭けだと?」
「ああ。これから……そうだな、学校の校庭でいいだろ。そこで、俺とお前でガチンコ勝負をする。俺が負けたらお前はどこにでも行っていい。その代わり、俺が勝ったらお前はここに残れ」
 言って、梢は左右の拳を打ち合わせた。
 その表情は真剣そのもの。
 決してふざけているわけではない。
 思い付きを口にしただけではない。
 梢は――――本気だった。
「……何故俺とお前なのだ」
「他に適役いないだろ。まさか冬塚と戦いたいってのか?」
 梢の挑発に、零次は乗らない。
 ただ、黙り込んだまま動かなくなった。
 その横顔は、思案する人のもの。
 零次はやがて、面を上げた。
「ふん。適役? お前では役者不足だ」
 そう言いながら腰を上げる。
 遥を挟む形で梢と対峙し、零次は静かに言った。
「……が、その提案は面白い。乗るとしよう」
 そのときには、既に遥も気づいていた。
 何故梢がそのような提案をしたのか。
 それは、決着が必要だったからだ。
 事件そのものは既に決着している。
 後は、個々人の問題。
 零次は、まだ己の中での決着をつけていない。
 だから、梢はそのための舞台を用意したのだ。
 乱暴なやり方ではあるけれど、そこには梢なりの不器用な気遣いが込められている。
 それを察したから、零次も受けることにしたのだろう。
 そして――――終わりの先へ進むための戦いが、始まった。

 夏にしては珍しく、涼しい風が吹く夜だった。
 校庭にはいくつかの人影。
 中心にいるのは、舞台の主役である梢と零次。
 その周囲には、何人かの観客がいた。
 そこには、遥と一緒にやって来た涼子もいる。
 遥から事情を聞かされたのだろう。
 複雑そうな、そして不安そうな面持ちで、梢と零次を交互に見ている。
「いいか、勝っても負けても恨みっこなしだぞ」
「分かっている。どんな結末になろうと、俺は文句など言わん」
「そうかい。あと、先に言っとくぜ」
 梢は右腕を高く掲げる。
 そこに翠玉の光が集まっていき、やがて輝かしい篭手となった。
 その篭手は、身を守る防具であると同時に、相手を倒すための武器にもなる。
「……冬塚は俺にとっちゃ可愛い妹分なんでな。しょんぼりされると気になって仕方がねぇ。だから何が何でも勝たせてもらう。手加減なしだ」
「言ってろ。俺は俺で、戦うのみだ」
 零次の両腕が。
 身体が。
 足が。
 漆黒に、染まっていく。
 やがて――――黒き翼が背中から現れる。
 そして、二人は一斉に駆け出した。
 合図も何もない。
 そんなものはこれで充分だと言わんばかりに、高速のストレート同士が激突する。
 翠玉と漆黒がぶつかり合い、夜闇を照らす火花となった。

「ケッ、あいつらもよくやるぜ」
 高校の校舎。
 その屋上には、四つの人影があった。
 異法隊の面々である。
 この対決を知った亨の連絡により、丁度今到着したばかりだった。
 既に校庭では、二つの影が縦横無尽に飛び回っている。
 今のところ、どちらが有利というわけでもなさそうだった。
「乱暴だなぁ。……ま、零次にはこれぐらいが丁度いいのかもしれないけど」
 藤村は呑気だった。
 お互い相手を殺すつもりはない。これは命懸けの殺し合いではないのだ。
 決着をつけるため、全力を投じて戦う。それは、どこかスポーツのように感じられた。
「兄さん、どっちが勝つと思う?」
「……普通に考えれば、零次だ」
 梢はこの数ヶ月で格段に強くなった。
 元々身体能力は高かったし、戦闘経験もかなり積んだ。
 それでも、零次にはまだまだ及ばないだろう。
「だが、俺は倉凪に勝って欲しいと思っている」
「ケッ。そいつは同感だな」
「うん。俺もそう思う」
「……なんですか、皆して。まあ僕もですけど」
 亨は苦笑して、校庭を――――その隅にいる一人の少女を見た。
「ま、確かに……梢さんが勝った方が、ハッピーエンドっぽいですしね」

「あの馬鹿ども、何やってんだか」
 山の上にある墓地。
 その一角から、榊原は校庭の戦いを見下ろしていた。
 かなりの距離があるため正確なところは分からないが、大まかな状況は察することが出来る。
 時折校庭で飛び散る火花がいい目印だった。
「元気でいいじゃないですか」
 その隣には幸町の姿があった。
 彼は面白そうに校庭の戦いを眺め降ろしていた。
 そして、二人の脇。
 そこには真新しい墓が二つ並べられていた。
 そのすぐ隣には、とても見晴らしのいい場所に置かれた墓が一つ。
 三つ並んだ墓石は、町を見下ろせる場所に立っていた。
「誰かに見つかったらどうするつもりだ。こちとらまだ事後処理で色々揉めてるってのに」
「まあまあ。面倒臭い仕事は大人の義務ですよ。子供は……納得のいく終わりを迎え、また新たに進む方法を探してればいいんです」
「……場合によっては、お前の仕事が増えると思うが?」
「困ったものですねえ倉凪君たちも!」
 まったくだ。
 そんな声が、どこからか聞こえてきたような気がした。

「おー、わー!」
 美緒の騒がしい声をBGMにしながら、涼子は呆然と二人の戦いを見ていた。
 なんでこんなことをしているのか、よく分からない。
 ストレス解消か。
 それとも憂さ晴らしか。
 否。
 これは、そんなものではない。
 目にも止まらぬ速さで動く二人。
 時折彼らの表情が鼓膜に焼きついて残ることがある。
 そこに映る彼らの表情は、どこまでも真剣そのものだった。
「決めようとしてるんだよ。久坂君が、ここから進む道を」
 側にいた遥が、優しい声で言ってくれた。
 終わりの先にある、新たな一歩目。
 これは、それを得るための戦いなのだと。
 この戦いで求めるのは勝ち負けではない。
 誰もが持つであろう、先へ至る道。
 それを求めるのが、この戦いだった。
 だから涼子は祈った。
 この戦いが、少しでも良い形で終わるようにと。
 そして、力一杯叫んだ。
「いけ――――――――っ!」

 夏にしては肌寒い夜。
 その闇の中で、緑と黒の光が衝突した。
 互いに遠慮のない一撃。
 必殺の閃光が相殺し、彼らは同時に地へと降り立つ。
 彼らを照らすは月明かり一筋。
 聖光を身に受けながら、人にして人にあらざる者が向かい合う。
「――――貴様とは、これで何度目になるだろうな」
「いちいち数えたりしてねぇよ。そういう意味のない質問はなしにしようぜ」
「その通り、その通りだな倉凪梢」
 黒き影には翼がある。
 翼には膨大な魔力が詰め込まれており、器に収まりきらないのか外へと溢れ出ている。
 魔力の色さえも黒いためか、影の姿が魔力に包まれて見えなくなりつつある。
 その黒き翼と対峙するは緑の武装。
 エメラルドの輝きを放つ右腕が、夜の闇から浮き出ている。
 その輝きによって映し出された顔は、まだ少年のものだった。
「ならば問おう。貴様は自分が正しいと信じて俺の前に立ちはだかるのか」
「どっちが正しくてどっちが間違いか、なんてことは分かりはしねぇ。だが時には、自分の信じるもんのために人の思いを踏み越えなけりゃならんこともある」
「乱暴だな」
「多少は乱暴にならんと何も起こせないぜ、久坂零次」
 言葉と共に、緑の少年――――倉凪梢が地を駆ける。
 その速度はまさに閃光の如し。
 普通の人間では彼の動きを捉えることすら不可能であろう。
 それを黒の少年――――久坂零次は迎え撃つ。
 人からすれば一瞬、だが彼にしてみればゆっくりとした動きで迎撃態勢に入る。
 どちらの動きにも無駄はない。
 際どい程に純粋な動作によって、二人は何度目かの交錯を果たす。
 しかし浅い。
 久坂零次は己の立ち位置から動くことなく、ただ倉凪梢を見ている。
 倉凪梢は先ほどまでいた場所とはちょうど対極の位置にいた。
「どうした、魔力切れか? 今の一撃、避ける気も起きなかったぜ」
「貴様こそ息が切れているぞ。猿のように動き続けているからか?」
 軽口を叩きあいながらも、両者は内心悟っていた。
 ――――次が最後だと。
 既に体力、魔力ともに限界に達している。
 久坂零次を包む黒色の蒸気の濃度が薄れてきた。
 倉凪梢の右腕もまた、先ほどまでの輝きを失いつつある。
 先ほどまでに出来た損害も軽いものではなかった。
 だから次が最後。
 これ以上戦いを引き延ばしたところで綺麗に終わるはずはない。
 ならば、ここで最強の一撃を放つことで雌雄を決するしかなかった。
 月が雲に隠れた。
 静寂が訪れる。
 二人が対峙していることに変わりはない。
 違うのはただ一点、互いの右腕に凄まじいほどの魔力が現れたことだけ。
「――――倉凪梢。もう一つだけ問うことがある」
「なんだ、言ってみろよ」
「貴様とて全ての人間に受け入れられたわけではないだろう。拒絶されたこともあるはずだ……それでもなお、人と共にあろうとするのは何故だ」
「……ハッ、今更なこと聞くんじゃねぇ」
 構えを崩さぬよう、動かぬままで倉凪梢は笑った。
「――――信じてるし、信じられたいからだ」
 人にあらざる者から迷わず紡ぎだされた言葉。
 その言葉の重みは、同類である久坂零次だからこそ分かる。
「――――そうか」
 懺悔するように。
 後悔するように。
 黒き罪人はそれで迷いを断ち切った。
「確かにこの世界は我らには広すぎる。そして――――我らだけでは狭すぎる」
 今は静かな町。
 だが、立ち並ぶビルや家などを見ると、多くの人間がいることを実感させられる。
 その前では、人を超越した者の存在さえ小さく見えた。
 これだけ広い街に、どれだけの人がいるのだろうか。
 たった二人の異人は、そんなことを思った。
 ――――月が再び戦場を照らし出す。
「……終わりにしようや」
「いや、これが始まりだ」
 二人が月光に包まれたとき。
 ――――時が動き始めた。

 心地良い朝だった。
 遥はふらふらと目を覚まし、着替えて居間へと向かう。
 既に皆は起きていた。
 エプロン姿の梢が、食卓の準備を進めている。
 背広姿の榊原が、仏頂面で新聞紙を読み進めていた。
 美緒と亨が、朝っぱらからテレビのチャンネル争いを繰り広げている。
 その輪から少し離れたところで――――涼子と零次が、思い出話に華を咲かせていた。
 遥がやって来たことに気付くと、皆が挨拶した。
 おはよう、と。
 遠い日、夢にまで見た、当たり前の言葉。
 遥はそれに、満面の笑みで応える。
 そのまま彼女は庭先の方に向かった。
 朝日が気持ちいい。
 全身で日の光を浴びれることが、無性に嬉しかった。
 色々な境界線を乗り越え、時に壊し、時に守りながら、ここまで辿り着いた。
 彼女を縛っていた境界線はない。
 しかしこの広い世界にも、色々な境界がある。
 それはとてもややこしくて、時にがっかりすることもある。
 それでも――――その中で懸命に生き抜くことを知った。
「遥、何してんだー?」
 呼ばれて、遥は振り返る。
 そこにあるのは、平凡な日常の風景。
「空、見てたの」
 遥はにこやかに言った。
 あまりに幸せそうな表情を浮かべていたからか、皆が興味を示した。
 全員揃って庭に出て、真夏の空を見上げた。
「綺麗でしょ」
 遥の言葉に、皆はそれぞれ異なる表情を浮かべながら、しかし揃ってこう応えた。
「――――ああ。綺麗だ」
 夜の終わりを告げる朝の光。
 それが、彼らを一緒に包み込む。
 彼らがようやく掴んだ平凡な日常を、祝福するかのように――――――。