異法人の夜-Foreigners night-

-日常編-
走り屋、三嶋一族の娘
 秋風市は東西に広がっている。
 三嶋教習所は自然に囲まれた東側の外れに存在しており、歩いていくには時間がかかる。
 そのため遥と天夜は、二回目以降は自転車でやって来ている。
 遥は午前の教習を終えて、休憩室で休んでいた。
 そこに、やや疲れたような顔の天夜が入ってきた。
「お疲れ様、天夜君。はい、これ梢君が作ってくれたお弁当」
「……どうも」
 男が作った弁当と考えると心なしか虚しくなる天夜だった。
 そのくせ味付けや健康バランスはよく考えられているようである。
 彩りも鮮やかで、かと言って豪華すぎるわけでもない。
 丁重に作られた、弁当の中の弁当という感じなのだ。
 味には五月蝿い天夜も、梢の弁当には文句のつけようがない。
 ありがたく頂くことにした。
「調子はどうだった?」
「そのにこやかな笑顔を見る限り、遥さんは大分良い感じみたいだな」
「あ、あはは。うん、走九郎おじさんに褒めてもらえたんだ」
 三嶋走九郎は、この教習所の代表取締役社長。
 つまり教習所のトップに立つ人間なのだが、よくコースにも顔を出す。
「で、今日はちょっと時間あるからって見てもらえたの。ちょっと、その……凄かったけど」
「ああ、あれは確かに凄い……」
 走九郎はなぜか上半身を剥き出しにしていることが多い。
 熱いのか、鍛え抜かれた筋肉を見せびらかせたいのかは不明だが、遥には少々刺激が強かったらしい。
 おまけにニオイもきついとくれば、遥の苦笑も頷けるというものだ。
「あれ、セクハラで訴えれば勝てると思うぞ」
「で、でも……悪意でやってるわけじゃないと思うよ?」
「自覚なしってのが一番厄介だと思うんだが……それで、その状況下でどうなったんだ?」
「どうにかミスしないで、綺麗に試し走行出来たの。次回はもう少しスピード出して、坂道もやっていこうって言ってもらえたんだ」
「俺だったら集中力欠いてミスりそうだな」
「あはは、天夜君もきっと大丈夫だよ」
 根拠のない意見だったが、遥が言うとまんざらでもない気がしてくるから不思議だ。
「ま、俺の方も順調だがな。練習自体は問題ない」
「……? 何か疲れてるみたいだけど、何かあったの?」
「いや、何と言うか……」
「遠慮しないで、お姉ちゃんに話して話して」
「その『お姉ちゃん』というのを止めてくれ。いろいろ複雑かつ嫌な思い出が」
 やけに強く拒絶する天夜。
 遥は少しだけ首を傾げたが、
「遠慮しないで、姉さんに」
「あんたは俺の姉じゃないだろう姉になるな姉にならないでくれ」
「むぅ」
 姉というキーワードはあまり触れてはいけないらしい。
 遥は表現の方法として用いただけであり、天夜もそれは分かっているのだが、承知はできないようだた。
「遠慮しないで、遥さんに話して話して」
「……ああ。なんだかすごく疲れたが、話して欲しそうだから話そう。実は――」
「オイコラ逃げてんじゃねえぇっ!」
 天夜が何かいいかけた途端、休憩室のドアを勢いよく開けて小柄な少女が飛び込んできた。
 今どき珍しい大きな眼鏡、やや乱暴な三つ編み。
 薄汚れた作業着らしきものを着込んだ、ヘッドホンの少女。
 三嶋走九郎の一人娘、三嶋詩巳だった。
「勝ち逃げなんざ許さないぞ!? つーか不戦敗だこの野郎! だから俺の勝ち! でも釈然としないから勝負しやがれ!」
 一気にまくしたてる詩巳。
 天夜はそれを鬱陶しそうに聞き流しながら、梢の作ったひじきの煮物を口にした。
「……美味い。素晴らしい。ひじきがここまで美味いとは」
「無視すんじゃねー!」
「遥さん、今日は午後ないんだろう? 一緒に榊原屋敷に行って、梢さんにこれの作り方教わりたいんだが」
「こらー!」
「――――」
 さすがに無視しきれなくなったのか、天夜はこめかみをひくつかせながら箸を握り締めている。
 どうにか抑えながら、天夜は最後まで残しておいた鮭に箸を伸ばした。
 梢の作る鮭は、何度か食した天夜にとってかなりのお気に入りだったのである。
 ……それを横から摘み取られた。
 信じられない、といった風に摘み取った相手を見る。
 それは、なぜか勝ち誇った顔で鮭を頬張る詩巳だった。
 天夜は我慢の限界だったらしい。
「――――おい詩巳。人の物を奪うとはどういう料簡だ?」
「無視するから天罰がくだされたんだよ」
「どう考えてもこれは人災だろうが」
「へっ、男のくせに細かいこと気にしてんじゃ……はへっ!?」
 詩巳が何か言いかけたところへ、天夜の手が伸びた。
 その動作はあまりに自然で、頬を摘まれた詩巳でさえ痛みがくるまで何をされたか分からなかったようだ。
 一気に天夜は詩巳の頬を左右に引っ張る。
「はっ、はひひひゃーう!?」
「さすがにこうすればやかましい口も防げるだろう。ったく、食事を邪魔するな」
「ひゃ、ひゃはふぃいはほ!」
「それでも五月蝿いのはある意味感心に値するぞ」
「ふはー!」
「はい。二人とも、そろそろ止めよっ」
 なおも争いを続けようとする二人を、遥が間に入って仲裁した。
 演劇部において、五樹と睦美、五樹と亨などの喧嘩を止めていた経験からか、遥はすっかり喧嘩の仲裁が慣れてしまっている様だった。
「まず詩巳ちゃん。人の物を取っちゃうのは駄目だよ!」
「うっ……」
「詩巳ちゃんだって、美味しいから揚げ取られたら怒るでしょ? 私も怒るよ」
「……ああ、悪かったよ」
「天夜君も、無視したり頬引っ張っちゃ駄目だよ」
「……すみませんでした」
「うん。で、天夜君も詩巳ちゃんも反省したところで……どうかしたの、詩巳ちゃん?」
 遥はあっさりと表情を和らげ、優しげな目で詩巳を見た。
 注意すべきところは一回だけ、はっきりと注意する。
 そして何度も繰り返さない。
 それが遥の特徴だった。
 故に、注意し終えるとあっさり元に戻る。
 これが案外効果的だったりするらしい。
「え、あー……つまり、勝負してたんだよ」
「勝負?」
「そ。天夜が結構調子良さそうだったから、ちょっと勝負を」
「遥さんの前だと急に大人しくなったな……『調子乗ってるじゃねぇか! 俺がコテンパンにしてやる!』とか言ってたくせに」
「う、うっさい!」
 詩巳は罰が悪そうな表情を浮かべ、入ってきたとき以上に慌しく休憩室から出て行った。
 遥はにっこりと笑った。
「あはは、天夜君が疲れてたのはそういうことだったんだね」
「ま、そういう感じで。何かある度に絡まれてるんで、正直疲れる」
「でもいいことだと思うな。多分詩巳ちゃん、天夜君に構って欲しいんだよ」
「は?」
 理解できない、という声をあげた天夜に、遥は諭すように言う。
「嫌いだったらね、あんな風に声をかけてこないよ」
「どうかな……俺がここに来る以上顔を見なきゃいけないから、苛々してるだけかもしれないぞ」
「天夜君には分からないかなぁ……詩巳ちゃん、楽しんでるんだよ?」
「俺にはよく分からん」
「そっか。でもね、いつかきっとそういうのが分かるようになるよ」
「そうか……?」
「うん。彼女とかが出来たら、天夜君結構気を使いそうだしね」
 変に確信めいた話し方をする遥に、天夜は特に反応を示さなかった。
 と言うより、どう反応していいのか分からなかったのだが。
「しかし、あいつ。なかなか良いテク持ってるのに、まだ免許持ってないのは不思議な話だ」
「詩巳ちゃんのこと? まだ持ってないんだ。天夜君と同い年だから、もう免許持てるよね?」
「そうらしい。俺の指導員も不思議がっていたが……途中、年配の指導員に何か言われていた」
「ふぅん? 何か、気になる話だね」
 天夜は適当に話を逸らそうとしてこの話題を持ち出した。
 だが遥は思いのほか興味を持ったらしい。
 弁当箱を片付けながら、しきりに首をかしげている。
 そこに、申し訳程度にランニングを着込んだ走九郎がやって来た。
 何日も剃っていないのだろう。
 伸び放題の髭がむさ苦しさをアップさせている。
 素晴らしき灼熱空間が生み出された。
「おう、遥に天夜。うちの詩巳、見かけなかったか?」
「詩巳ちゃんなら、さっきここから出て行ったけど……」
「三嶋さん。ちゃんと監督しといてください。あいつ、俺に何かと絡んでくるんですが」
「あんの馬鹿野郎、まだ天夜に絡んでたのか。悪ィな、なるべく口を改めるように言ってはいるんだがよ」
 見本となるべき大人は皆、走九郎のように粗野な言葉遣いなのである。
 そのため詩巳も、荒々しい男のような話し方をする。
 下手な男よりもよほど口調が荒いのだった。
「そういえば走九郎おじさん。今天夜君から聞いてたんだけど、詩巳ちゃんて二輪免許持ってないんですか?」
「ん、あ、ああ……」
 途端、走九郎の声が小さくなった。
 いつもは従業員たちに大きな声で指示をしたりしている走九郎である。
 自然、誰と話をしていても大声で話しているようになる。
 そんな走九郎が声を小さくしたのだから、遥も天夜もいぶかしんだ。
「……おじさん?」
「……」
「ごめんなさい。あんまり聞いちゃいけないことだったんですね?」
「いや、そうじゃねぇ。……詩巳と仲良くしてもらってんだ、お前ら二人には聞いておいてもらった方がいいのかもな」
 詩巳を探すというのは別に急ぎの用事ではないらしい。
 走九郎は遥と天夜の近くに座り、いつになく静かな口調で語り始めた。

「あいつはよ、矛盾した心ってのを持ってるのさ」
 三嶋詩巳。
 彼女は生まれた時から車やバイクに囲まれて育ってきた。
 排気音を聞かなかった日はないし、休日はいつも走九郎の運転する車に乗って出かけていた。
 その頃は教習所を設立した詩巳の祖父も健在で、走九郎は割と気ままに走り回ったりしていたらしい。
 当然、彼女は走る乗り物が好きだった。
 特に走九郎はバイクを好んだ。
 風を直に感じることが出来るというのが、特に好きだったらしい。
 だが、ある日。
「俺が、事故っちまったんだ」
 その日、走九郎は峠で他の走り屋たちとギリギリのレースを展開していた。
 常に限界に挑み続けるという、危険と隣り合わせのレース。
 そこで走九郎は一線を越えてしまい、デンジャーゾーンへ飛び込んでしまった。
 幼い詩巳には辛い出来事だっただろう。
 彼女は、無残に壊れたバイクと、大怪我をした父親を一度に見せ付けられた。
 まるでバイクと父親が一緒に壊れたかのように。
 それから、彼女はバイクを恐れるようになった。
 バイクが壊れれば、乗っている人も壊れる。
 バイクは便利で格好よくて、とても凄いもので――――とても、危ないもの。
 それを幼心に刻み付けられたのだ。
「あの頃の俺は馬鹿だった。走り屋家業なんざ、家族を持ったら止めちまえば良かったんだ。……気づくのは遅すぎた。今は趣味だったレースもやらねぇ。安全運転第一だ。だがよ、遅すぎた」
 既に詩巳は知ってしまった。
 バイクが恐ろしいものだということを。
「あいつ、あんまり速度出して走れないんだ。乗っていられる時間だって、せいぜい四、五分」
 それ以上のことをしようとすると、身体の方が拒絶してしまうらしい。
 恐怖感というものは、簡単には拭い去れない。
 詩巳の趣味は音楽鑑賞と――――バイクいじり。
 それは、少しでもバイクに手を加えることで、乗り手の安全性を得ようとする心の現われ。
 しかしいかに手を加えても、彼女は安心することはなかった。
 今も彼女は、バイクが大好きで……とても恐れている。

 走九郎が話し終えると、その場に沈黙が訪れた。
 それは決して心地よい沈黙ではない。
 誰が何を言って良いのか、それがまるで見えてこない類の沈黙だった。
「……勝負のとき、何か妙だとは思っていたが」
 沈黙に耐え切れず、天夜が声をあげた。
 遥は相変わらず黙ったままなので、自然と彼が話さなければならなくなる。
「年配の指導員が何か言っていたのも、それが原因か」
「ああ、長年務めてる人たちはこの話を知ってるからな」
 若い従業員たちはそれを知らない。
 変に勘ぐられないように、年配の指導員たちは常に気を使っているらしい。
 走り屋として勇名だった三嶋走九郎に憧れている従業員も少なくない。
 それだけに、この話はあまり表沙汰にしたくはないのだった。
「厄介なのはそこでな。俺はもう走り屋止めてるから気にしちゃいないが、『三嶋』の名は売れすぎちまった。俺が現役引退してることに疑問を持つ奴はいないが――――詩巳に期待する連中が多い」
「姓故、か」
「俺も俺の親父も、おまけに家内も走り屋として暴れすぎたからな。詩巳にゃ、そんなもん気にしないで育って欲しかったんだが……当の本人が一番気負いこんでんだよ」
 それは幼い頃からの環境のせいなのか、先天的なものなのか。
 詩巳は三嶋家という、ともすればなんでもないような家柄を重視しているらしい。
 だからか、三嶋の娘でありながらまともにバイクに乗れないことを酷く気にしているようだった。
 周囲からのプレッシャーならなんとでもなるが、詩巳自身が『三嶋』を気にしているとなると話は難しくなる。
 天夜が険しい顔つきで重い息を吐き出す。
 すると、今まで黙っていた遥がにっこりと微笑んだ。
「それなら、詩巳ちゃんを少しこの環境から離してみるのはどうかな?」
「離してみるって……」
 突然の提案に、走九郎は呆然と宙を眺める。
 やがて、どんな想像をしたのか、勢い良く立ち上がって遥の方へ身を乗り出す。
「ま、まさか詩巳をどこかに嫁に出せと!? そ、そいつぁ早すぎる! あいつぁまだ16だぞ!?」
「そ、そうじゃないよ走九郎おじさん……! もっと色んな環境に、物に触れさせてみたらどうかなって」
「……なるほど。そういうことか」
 発想が飛びすぎだった。
「確かに詩巳は、学校に行ってるとき以外はほとんどここで過ごしてるからな。染まるのも無理はねぇ」
「でしょ? だからもっとこう、色んな刺激を与えてあげればいいんじゃないかな」
「例えば? 友達とかはあまりいなさそうだから、その点は正直期待できねぇぞ」
 詩巳はあまり友達が多いほうではない。
 なにかと喧嘩腰になってしまうため、クラスなどでも恐れられているという。
 誤解されやすい、損な性格なのだ。
「それなら、バイトとかはどうかな」
「バイト?」
「うん。車やバイク以外の仕事。いい社会勉強になると思うの」
「そ、そうか。確かにそれはいいアイディアだっ。あいつも前々からバイトしたがってたしな」
 走九郎は何度も頷いて、少し怪訝そうな顔をした。
「しかし遥よ。いいバイト先はあるのか? あんましいかがわしい店とかだと困るぜ」
「……私っていかがわしいお店紹介する風に見られてるのかな?」
「俺に振るなよ」
 少し傷ついたような遥の視線を、天夜は軽く流した。
「そういえば幻の奴から聞いたぜ、遥もバイトしてんだってな。同じとこに詩巳をやるのはどうだ!?」
「私のところは、あんまり人手増やせないの。それよりも、もっといいところがあるんだよ」
「それはどこだ?」
「うん。秋風市朝月町にある、有名なお店。いろんな人が来るんだ」
「ってことは接客業か。詩巳に務まるか?」
「大丈夫だよ。詩巳ちゃんの仲良しさんがいるから、安心して任せられると思う」
 ほわほわっとした笑顔。
 それが自分に向けられていることに気づいて、天夜は嫌な予感がした。
「おい、遥さん。あんたまさか」
「店長(代理)さんも良い人だし、私の妹もいるんだ。だからきっと、楽しい職場になると思うな」
「そ、そうか。そこまで言うなら安心だぜ。そいつぁなんて店だ?」
 遥の笑顔は、見ている者をも笑顔にさせるほどの和み効果がある。
 しかし、このときだけは違った。
 少なくとも天夜はこの笑顔の中に、遥の悪戯心が多分に込められていることに気づいた。
 ――――止めろ、厄介ごとを俺に押し付けるな。
 そう心の中で叫ぶ天夜に対して、遥は笑顔のまま首を傾げてみせる。
 ――――天夜君なら、詩巳ちゃんを助けてあげられるよね? 頑張ってね!
 更に天夜が胸中で反論するよりも早く、遥はその名を告げた。
「夢里。秋風市で一番の喫茶店なんだよ」

「……というわけだ」
「なるほどー」
 喫茶店夢里。
 天夜のバイト先でもあり、今日から詩巳のバイト先でもある店だ。
 今もまた、店内で皿が割れる音が聞こえてきた。
「姉さんって、ただの天然に見えるけど案外やり手だからね。認識改めときなさい」
「言われなくてもそうするさ。味方にすれば心強いが、敵にはしたくないタイプだ」
 天夜は注文された料理を涼子に手渡すと、深い溜息をついた。
 途端、またどこかで皿が割れる音が聞こえる。
「せめてもの救いは、俺がキッチンスタッフであいつがフロアスタッフだということか」
「その分私たちが大変なんだけどね。さて、フォローに行ってきますか」
 トレイにケーキを乗せて涼子が駆け出していく。
 その背中を追ってみると、ガチガチになった詩巳がまたもやトレイをひっくり返しかけているのが見えた。
 しかも極力口を開こうとしない。
「三嶋さん、あの格好に慣れてないみたいなの」
「……店長、気配もなく背後に立たないでください」
「あ、ごめんごめん。梢君や美緒ちゃんの癖がうつっちゃって」
 癖なのか。
「バイトも初めてだって言うし、これから頑張れるかどうか、というところかな」
「さっさと止めさせた方がいいと思うんですが」
「そう? 喧嘩友達がいた方が、天夜君も活気が出るんじゃないかな、と思ったんだけど」
 どうやら遥から事情をきっちり聞いているらしい。
 山口ゆきね、諸事に抜かりはないようだ。
「喧嘩友達ねぇ……確かに、そんな感じかもしれませんが」
 などとぼやいていると、肩を怒らせた詩巳が天夜の元へやって来た。
「おい天夜! お前の料理重すぎて、トレイから落ちるぞ!」
「文句を言うなら俺じゃなくて、それだけの量を頼んだ客に言えよ」
「お客様に文句は駄目よ。あと三嶋さん、研修期間中だからあまり無理せず、リラックスしてやってね」
「う、うす!」
「それじゃ、涼子ちゃんが教育係だから。彼女の言うことに従ってね」
「わ、分かりました!」
 緊張気味に頷いてから、詩巳は涼子の方へと駆け出していった。
「……これで、何か変わるのかねぇ」
「ふふ、でも何もしないよりはいいんじゃない? 何か出来ることがあるなら、してみないと」
「その意見には同意しますけど、何もここじゃなくてもな」
「あらあら……あ、天夜君。次のオーダー」
「あ、はい。分かりました」
 厨房に戻りながら、天夜はふと思い返した。
 三嶋という姓によって、自分自身をも律している少女。
 その話を聞いた時、天夜は不快感を抱いた。
 遥が詩巳をこの店にやったのは、そんな天夜の心境を看破したからではないだろうか。
 彼女には人の内面を知ることが出来るチカラがある。
 だがそんなチカラを抜きにしても、彼女は人の心に敏感なところがあった。
「だから、俺なら大丈夫としたのか……?」
 そんな風に考えていると、またしても皿を割る音。
 涼子が慌てて客に謝る声が聞こえてきた。
 天夜は嘆息する。
「どっちみち、騒がしくて厄介なことに変わりはないか」
 そして、今の状況がさほど嫌ではないことも認めなければならない。
 遥さんはそこまで見抜いていたのかな、と思いながら、天夜は厨房から出て行った。
 混乱している様子の詩巳を発見。
 あたふたしている彼女も天夜を発見したらしい。
 詩巳が何かを言う前に、天夜は彼女の頭を軽く殴りつけた。
「って痛っ!?」
 いきなり殴られたからか、詩巳はいつものような調子で悲鳴をあげた。
 涙目になりながら、勢いに任せて天夜の胸倉を掴み上げる。
「おいコラ、何すんだよ!」
「ふん、あまりに不様なんで苛々したんだよ」
「なんだとおっ!?」
「悔しかったらまともに仕事出来るようになってみろ。今のお前には文句を言える立場じゃない」
「ぐっ……やってやる! やってやるさ!」
 ふん、と鼻を鳴らせて去っていく詩巳。
 その後姿を見てニヤリと笑う天夜。
 そんな彼を、涼子とゆきねがクスクス笑って見ていた。
「……なんですか、店長。それに涼子さん」
「いえ、なんだか彼女の扱い上手いなーって」
「妹みたいなもんだと思えば、あんなもんですよ。俺の妹はあんなんじゃないですが」
 ハッ、と鼻を鳴らせて厨房へ戻る。
 天夜の耳には、「やってやるー! 覚えてろー!」という詩巳の声が聞こえてきた。
「――――やれやれ。俺もあの人たちに付き合ってるうちに、お人好しになったもんだな」
 苦笑を漏らしながら、天夜は調理を再開した。
 不思議とその日は、時間が早く流れていく。
 春の陽射しが、ようやく暖かくなってきた日のことだった。