異法人の夜-Foreigners night-

-日常編-
遥と老人、フルケンと
 それは遥たちが朝月大学へ進学したばかりの頃だった。
 まだ慣れぬ地へ遥が足を踏み入れた途端、あちこちから人が現れた。
 にこやかな笑顔の裏に何かを期待しながら彼女に近寄り、
「どうも、新入生の方ですかーっ!?」
「あ、」
「はいそれではどうぞ、是非我がラクロス部へ! 楽しいですし、アットホームな雰囲気が自慢なんですよっ」
 と、ラクロス部の人が用意したのであろう、案内の紙を渡される。
 そこには可愛らしいイラストと、わずかな説明文が記されていた。
 遥がぼーっとそれを見ていると、新たな人影が迫る。
「どうも、新入生の方ですね!?」
「あ、は……」
「では是非! 是非我が茶道部にいらっしゃいませ! 落ち着いてまったり出来るのが自慢なんですよっ」
「は、はぁ」
 半ば無理矢理手に紙を渡される。
 そこには繊細なタッチで描かれた絵と、ビシッと筆で書かれた『茶道部歓迎!』の文字があった。
 遥は少し歩きながらそれを見て、最初に貰ったものと見比べていた。
(……最初の方がイラストは可愛いなぁ。でもラクロスって何するんだろ?)
 小首を傾げていると、またしても人影が現れた。
「どうも、新入生の方!」
「あ、はい……って断定ですかっ」
「細かいことは気にしない! それより、我が西洋魔術研究会に来ないかッ!? 君はどことなく……そう! マジカルな匂いを感じる!」
「そ、そんな匂いしますか?」
 慌てて自分の匂いを嗅いでみるが、特に不審な点はなかった。
 しかし、自分の匂いに対して人はあまり気づかないという話を聞いたことがある。
 もしかしたら少し臭いのかもしれない。
「い、嫌だな……」
「そんなに毛嫌いしなくともいいじゃありませんか! さぁ、共に素晴らしき理想郷を目指しましょう!」
「うぅ、でも臭ってるなら……」
「に、臭う!?」
 勧誘していた西洋魔術研究会の部員はショックを露わにした。
 ちなみに彼、あまり見た目はよろしくない。
 昔から女の子に『臭う』だの『臭い』だの『キモイ』だの『オタッキー』だのと言われてきたのがトラウマになっている……そういう男だった。
「く、くそぅ! そんなことを言われたのは五分振りさ! いつか必ず君を魔女っ娘にしてやるからなぁぁ!」
 そんな意味不明の台詞を残して彼は走り去った。
 最後まで走り去りきることなく、また手近な女性に声をかけている辺りはタフさを伺わせる。
 もっとも遥は訳が分からず、自分の匂いを何度も再確認するばかりだった。
 自分の腕の匂いを嗅ぎ終え、改めて周囲を見回す。
 あちこちに新入生に自らのサークルをアピールする人々がいた。
 今日はサークルオリエンテーションが行われる日なのだが、遥は見事にそれを忘れていたのである。
 入学式の方ばかりに気を向けていたため、その後のことが頭に入っていないのだった。
「……あれ?」
 多くの人々が勧誘し、勧誘される中。
 キャンパス内の隅にある目立たないベンチ。
 そこに、一人の老人が座り込んでいた。
 熱気漂う雰囲気にあって、その老人の周囲だけが薄ら寒かった。
(なんだろう?)
 何度も溜息をつく老人を見て、遥は少し不安になった。
 もしあの老人が高い場所や廃墟内にいた場合、即差に自殺しそうな程に寒い気配がする。
 しかも、ただ項垂れているわけではなく――ちらちらと、勧誘行事を見ては溜息をついているのだった。
 偶然、その老人と目が合った。
 普通は咄嗟に視線を避けるところだが、遥はそのまま動かなかった。
(……?)
 疑問に思いながら、とりあえずこんにちはという意味の笑みを浮かべる。
 すると老人は目を一回り大きくぎょろりと開き、ベンチから立ち上がって遥の方へやって来た。
 どことなく仙人のような容貌を持つ老人である。
 今どき着るには古めかしい着物を着込んでおり、なんだか武術でもやっていそうな雰囲気。
 ホワチャーとか言い出さないかどうか心配だった。
「お嬢さんは、この大学の学生さんかね」
「はい。まだ入ったばかりなんですけど」
「そうかそうか。ところで一つ聞いていいかの。……この秋風市は好きかね?」
「え?」
 突然の質問に遥は悩んだ。
 秋風市という場所に対する思い入れは……別に薄くはないと思う。
 かと言って大好き、というわけでもない。
 要するに、
「……人並には」
 ということになる。
 老人はそれでも満足したのだろう。
「嫌いではないのじゃな。んむ」
 何度も頷き、
「お嬢さんには見所がある。どうじゃな、フルケンをここに復興させてみては!」
「ふ、ふるけん……?」
「左様。郷土史研究同好会、愛称はふるさとけんきゅーかい、ということでフルケンじゃ」
 古臭そうな名前だった。
 あるいは誰かのあだ名っぽくもある。
「わしはそこの顧問じゃったんじゃがのぅ。定年を迎えて何年にもなる。。フルケンは潰れてしまい……今ではもうフルケンを知る学生などいなくなってしまった」
「……そうなんですか」
「うむ。もはや顧問を務めることすら出来んのじゃが、こうしてここに来ると……なんだか懐かしくてなぁ」
 ……懐かしい、か。
 そんな風に思える老人が、遥は少し羨ましかった。
 遥にとって懐かしいと言えるような思い出は、七年前――否、今となっては八年前の思い出くらいだけ。
 去年からいろいろあって普通の人と同じように生活を始めた遥だったが、彼女には『過去』というものがとても希薄だった。
 演劇部に参加した経験はあるが、短い期間だったので、思い出と言うには少し物足りない。
「……すまん、少し気が昂っていたようじゃ。考えてみれば、お嬢さんには何も関係ない。爺の戯言だと思ってくれて構わんよ」
 見ると、老人の表情は落ち着きを取り戻していた。
 というよりは、再び沈んだものになったと言うべきか。
 軽く頭を下げて再びベンチへと戻っていく。
 おそらく遥の沈黙が、老人の熱を冷ましてしまったのだろう。
 そう考えると、やや申し訳ない気がした。
「あの、お爺さん」
「……ん?」
 かすかに首を動かし、遥の方へ振り返る。
「フルケンって、やってて楽しかったですかっ?」
 その問いかけに、老人はしばし動きを止めた。
 ふむ、と顎に手をやり、しばし空を見上げる。
 そして一際強い風が吹いたとき、穏やかな笑みを浮かべた。
「そうじゃな。お嬢さんにとってどうかは分からんが……わしは楽しかったよ」

 その日の昼。
 四つある食堂の中でも比較的大規模なところに、遥たちは集合していた。
「うわー、人多いねこりゃ」
 遥の向かい側に座る雅が、頭をぺちぺちと叩きながら言った。
 かなり辟易としているようだ。
 あまり人込みは得意ではないのかもしれない。
 雅以上にうんざりしているのは零次だった。
 彼はどちらかというと、縁側でのんびりする方が好みなのだ。
 こうした場所は苦手なのだろう。
「……高坂に同感だ。今後は夢里辺りで食べないか?」
「そうだねぇ。味もさほどのもんでもないし。ボリュームあり過ぎてあたしにゃキツイわ」
 眼前のAランチを見て雅が溜息をつく。
 まだ少し残っているが、これ以上食べるのは無理のようだ。
「そういやさ、皆はサークルとか決めたのか?」
 一人ガツガツと食事に専念していた藤田が問いかけた。
 彼は迷わず野球部に向かった。
 高校の時の先輩なども何人かいるらしく、すぐに入部届けを出してきたらしい。
「あたしゃまだだね。沙耶は?」
「私もまだだよ。青春謳歌のために何かに入ろうとは思ってるんだけどねっ」
「俺もまだ決めていない。修羅堂のバイトや講義なども気がかりだ。……遥はどうだ」
「私は……」
 そこで遥は今朝のことを話した。
 かつてこの大学に勤めていた老人に会ったこと。
 今は既に消えてしまった郷土史研究同好会――――フルケンのこと。
「ほう、郷土史か。なかなか面白そうだな」
 と、意外にも反応を示したのは零次だった。
「久坂君はそういうのに興味あったっけ?」
「ああ。各地の文化などを調べることは任務遂行の役にも立ったし、個人的にも面白いものがあった。歴史はいいものだぞ、一見関係なさそうなことが、実は今の我々の生活に関わっていることもある」
 そういうものかもしれないな、と遥は納得した。
 彼女自身歴史小説などを読むことはある。
 熱狂的というほどではないが、それなりに面白かった。
「そういや、昔は爺ちゃん婆ちゃんにいろんな逸話を教えてもらったっけ」
 雅は懐かしそうに呟く。
 今はもう亡くなっているそうだが、彼女の祖父や祖母は秋風市に伝わる様々な話を教えてくれたらしい。
 なかなか楽しかったよ、と雅は笑った。
「遥さ、そのフルケンってのもう一度作ってみたらどうだい? 面白そうじゃないか」
「うむ。その際には俺も加わらせてもらおう」
 零次と雅は乗り気みたいだった。
 それに便乗するように沙耶も手を挙げる。
「はいはいはい! 私もフルケンやるやるっ」
「あんたは私たちと一緒ならなんでもいいんじゃないのー?」
「そ、そんなことないよ? 私は純粋に日本の歴史を……ほら、織田信長とか坂本龍馬とかっ!」
「水島、日本の歴史ではなく郷土の歴史だ」
「うぐ……わ、私の故郷は日本だもん! だから日本の歴史でいいんだもん!」
「範囲広すぎるぞ……?」
 零次と雅は沙耶をからかって遊んでいるようだった。
 遥は二人をなだめながら、藤田の方を向いた。
「藤田君は、どうかな」
「確か運動サークルと文化サークルは掛け持ちOKなんだっけ?」
「うん。大丈夫って手帳に書いてあるよ」
「んじゃ、俺も加わろうかな。野球優先になるからあんまり顔出せないと思うけど」
「ありがとっ」
 こうして、フルケン復興計画がスタートしたのだった。

 滑り出しは順調のようだったが、その後すぐに詰まった。
 同好会を新たに設立したい場合、条件がいくつかある。
 そのうち二つが問題となっていた。
 専任教師の顧問を用意すること。
 そして、六名以上の会員を集めること。
「私に久坂君、雅ちゃんに沙耶ちゃん、藤田君……後一人、どうしよう」
 夢里に集合した五人は、食事を終えてから条件クリアのために話し合いをしていた。
 まず一つ、どうやって残り一名の会員を集めるか。
 そして、顧問を誰に頼むか。
「顧問はアドバイザーのアナスタシア先生にでも頼もうと思ってんだけど」
「……が、外人さんか」
 雅が告げた名前に藤田が冷や汗をかいた。
 外国人との面識などまるでなかった藤田からすれば、そうした人が顧問になるのは緊張するらしい。
 だが雅は首を振った。
「緊張しなさんな。アナスタシアさん、日本に来てから長いらしいから日本語ペラペラだし」
「そうなのか……」
「それに美人さんだったよね」
「そうなのか!」
 反応の違いが非常に分かりやすかった。
 ちなみにアナスタシア女史は遥、雅のアドバイザーである。
 現在二十代後半とのことで、大学の教員としてはかなり若い方だった。
「おお……な、なんか楽しみだな」
「藤田君は野球部優先だから、あんまり会えないね?」
「うぐおおぁぁぁっ!」
 本気で苦しんでいた。
 ちなみに大学野球部はほとんど女っ気がない。
 マネージャーの女子が一人いるが、現在のキャプテンと結婚を前提としたお付き合いをしているらしい。
 というわけで、ある意味完全なゼロよりも辛い現状なのだった。
「く、くっそぅ! 汗と涙に青春をかけるか、花と共に青春を歩むべきか……!」
「お前の基準はそれだけか」
 半眼で零次がツッコミを入れたとき、ちょうどゆきねがトレイを持って現れた。
 皿を片付けに来たらしい。
「随分話が盛り上がってるみたいね。どうしたの?」
「実は……」
 遥は手短にこれまでの経緯を語った。
 話を聞き終えたゆきねは何度か相槌を打って、
「そっか。フルケンを復活させるんだ……」
 さも懐かしそうに言うのだった。
「ゆきねさん、フルケン知ってるんですか?」
「知ってるわよー。だって私も所属してたから。二年になる頃になくなっちゃったから五年前になるのかぁ……」
 五年も経てば、今の大学では知る者などいないだろう。
 あの老人の言葉を思い出して、遥は頷いた。
「無事復活出来たら、今度いらっしゃい。ここを部室代わりと思ってくれていいからね」
「はい、どうもありがとうございます」
 にこやかに手を振りながら、ゆきねはカウンターへと戻っていく。
「なんだか身近なところに接点があるって嬉しいね」
「郷土史を研究する際も似たような感覚があるぞ。例えば俺の前住んでいた地だが――――」
 結局、その日は具体的な解決案は浮かばず。
 零次の体験談や、雅の祖父母の話などを聞いて過ごしたのだった。

 そして、四月二十九日木曜日。
 再び夢里に集まった一同を前に、遥は切り出しにくそうに告げた。
「あのね……もう時間がないの」
 突然の言葉に、他の四人はきょとんとした顔を浮かべる。
 大学生活にも少しずつ慣れてきて、こうして夢里に来るのも日課となりつつあった。
 フルケンをいかにして復活させるかを話し合い、段々脱線していくのも……悪くない。
 誰もがそんな風に思っていた矢先のことだった。
「もう一度同好会設立についてよく見てみたの。そしたら、締め切りがあって……」
「し、締め切り!?」
 雅が驚愕の声をあげる。
 零次たちも緊張の面持ちとなっていた。
「それはつまり、えっとさ。締め切り以内に申請しないと」
「……駄目ってことみたい」
「ちなみにそれいつ?」
「明日」
「うあ。しまったなー……!」
 一ヶ月近くのんびりとやり過ぎた。
 まずは設立して、それからのんびりと活動していれば良かったのだ。
 半端に動いて締め切りに気づかなかったのは、五人全員の失態だった。
「それで、アナスタシアさんにはもう顧問の了承取っておいてもらったの。でも……」
「残りの一人が問題だね。藤田、あんた顔広いんだからどうにかならない?」
「無理。大学進学で大分知り合いも外行っちまったし……倉凪や斎藤がいい例だろ? 大学の知り合いはサークルダルイ派とバイトで忙しい派、もう入っちゃってます派の三つに分かれるからな」
「ダルイ派の連中をどうにか説得してみて。幽霊部員でもいいから、この際」
「了解。とりあえず携帯で片っ端から当たってみる」
 遥たちからやや距離を置いてあちこちにメールを打ち始める。
 それを確認すると、遥は続けた。
「明日の五時までにどうにかしないといけない。私の方は全滅だったから、これからチラシ配りでもしてみようと思ってる」
 知り合いなど数えるほどしかいない遥では、友人を誘うというのは期待できない。
 零次も同様ではあるが、雅や沙耶も大差はなかった。
「友人路線で当たるのは藤田に任せるしかあるまい。チラシ配りも止めておけ、この時期だと学校側にあまり良い印象を与えないぞ」
「でも……」
「同好会承認を得るためには学校側に好印象を与えるべきだ。あまり波風立てるものではない」
「くさぴょんの言うとおりだと思うよ。ここで揉め事起きたらそれこそ取り返しつかない」
 零次と沙耶はチラシ配りに反対。
 確かに勧誘はオリエンテーションの時以外は行われていない。
 大々的に勧誘できる時期は決まっているのだった。
「それじゃ、どうしよう……」
 良い案が浮かばず、遥の表情は次第に暗くなっていく。
 藤田の方を皆が見るが、あまり成果は期待できそうになかった。

 四月三十日。
 朝早くから遥は大学へ来ていた。
 誰か、誰か入ってくれそうな人はいないか……と期待しながら。
 すると、あの日のベンチに人影が見えた。
 それは小柄で、今どき着るにはやや古めかしい着物姿の老人。
 あのとき、遥にフルケンのことを語った老人だった。
「……お嬢さんか」
 相手は遥のことを覚えていたらしく、にこやかに笑いかけてきた。
 朝の光に照らされて、老人がどことなく神々しく見える。
「なんでも、フルケン再興に向けて頑張ってくれているそうじゃな」
「……知ってたんですか?」
「わしの耳にはよく噂が流れ着くのでな」
 嬉しそうに笑う老人に対し、遥の表情は浮かないものだった。
 結局藤田の方も全滅し、今日中に残りの一人を得られなければ――――フルケンの復活は、来年まで待たねばならない。
「ごめんなさい」
「……ほっほ。なぜ謝るのかな」
「私たちがもっとしっかりしてれば、ちゃんと再興させられたと思ったんです。でも……今年はもう無理かもしれない」
「ならば来年また頑張ってみてはどうじゃな。……焦ることはないと、思うぞい」
「でも、それまでの一年――――私はずっと後悔するような気がするんです」
 人の人生は有限である。
 時間は放っておいても流れるし、無為に過ごせば過ごすほど可能性はなくなっていく。
 一度フルケン再興をしようと決めながら、それが失敗に終われば。
 遥はこの一年、そのことを引きずってしまいそうだった。
 少しでも良い思い出が欲しいのに、とても勿体ないことになってしまいそうな気がした。
「私は……ずっと思い出がない生活を送っていたんです。だから、少しでも記憶に残るような思い出が欲しい。そう思って、フルケンを再興したいって思ってました。……でも、駄目でした。締め切りのことなんか忘れて……駄目です、全然駄目です」
 そんな遥の肩を、老人は軽く叩いた。
「なあに、フルケンじゃなけりゃ駄目ということはあるまい。お嬢さんは他にいくらでも思い出を作れるじゃろ」
「でも、折角皆でやってたのに……」
「確かに成功に越したことはない。じゃが、失敗もまた良い思い出になることはある」
 老人は諭すように言った。
「なるようになる。大切なのは、その中で自分がどうしたか。そして、それをどう受け止めるか……そういうもんじゃと思うぞ」
「……」
「ま、秋風市のことに興味を持ってくれるなら……同好会でなくとも、友人同士で集まってやってみるのも、面白いと思うぞい」
 老人の姿が、少しずつ薄れていく。
 朝の光に溶け込むように、淡く儚くなっていく。
 その光景を前に、遥は立ち尽くしていた。
「……お爺さん?」
「さて、お嬢さん。爺からの問題じゃ。わしは一体何者なのか……ちょっと前の出来事じゃ。調べてごらん」
「え……?」
「歴史というほど大したことではない、些細な出来事じゃ。でも、それを知ってもらえれば……わしが今何を思ってるか、分かるはずじゃ」
 そう言って。
 穏やかに笑いながら、老人は朝の光に消えた。
 学生の姿すらないキャンパスの中で、遥は一人立ち尽くす。
 どこからか、鳥の声が聞こえてきた。

「お爺さん?」
 昼休み。
 未だに最後の一人が見つからないまま、遥たちは今日も夢里へ来ていた。
 そこで遥は、あの老人のことを尋ねてみた。
 分かっているのは、彼がフルケンの顧問だったことだけ。
 それ以外は何も知らない。
 かつてフルケンに在籍していたゆきねなら知っているかもしれないと、尋ねてみたのだった。
「それって、ひょっとして古めかしい着物のお爺さん? 仙人みたいな感じの」
 どこか面白そうにゆきねは言った。
 しかし、
「はい。知ってるんですか?」
「……」
 遥が肯定すると、途端に難しい顔つきになる。
 その表情の変わりように、遥は首を傾げた。
「どうかしたんですか?」
「……いえ、遥ちゃん。本当に見たの?」
「はい。お話もしました。昔フルケンの顧問だったってことと、定年退職したってことと」
「定年退職じゃないわ」
 ゆきねはゆっくりと、だが何度も頭を振る。
「その人はね、最後のフルケン顧問。私もあまり親しくしてた訳じゃないけど……朝月大学でも有名な先生でね。古めかしいところが多々あって、変わり者扱いされてた」
「そうなんですか」
「あの冬までは、ね」
 と、どこか寂しい笑みを浮かべる。
「先生はね――――亡くなられたの。五年前の冬休み、突然発作が起きたらしくて」
「……亡くなった?」
「ええ。だから私、遥ちゃんが先生に会ったっていうのが……正直、半信半疑なの」
「それはいいんですけど……」
 自分でも信じられない。
 確かにあの老人は普通ではない雰囲気を持っていたが、死者だとは思わなかった。
「……先生ね。息子さんにも先立たれて、奥さんとも離別して。一人きりで、商店街の奥地に住んでたわ」
「一人きり……?」
「ええ。そんな状態が何年も続いてたの。……でも先生楽しそうだった。フルケンをやってて、皆に囲まれてるときの先生はとても嬉しそうに笑ってた」
 遥は老人のことを思い出す。
 確かにフルケンのことを、なによりも大切に思っているようだった。
「そのときの口癖がね。『わしゃ家族には恵まれなかったが……本当に、良い思い出を沢山貰えたわ』って」
「――――――」
 それは。
 最後に会ったとき、彼女が諭されたことに似ていた。
 ――――ありがとうな。
 どこからかそんな声が聞こえたとき、遥は既に立ち上がっていた。
 周りで話を聞いていた零次たちは驚いて彼女を見る。
 その表情には、何か……決意のようなものが宿っていた。
「残り四時間半くらい……私、頑張ってみる!」
 そのまま駆け足で夢里を飛び出していく。
 ゆきねや零次たちは、それを黙って見送るだけだった。

 四時半。
 通りかかる学生に声をかけたりして、さり気なく勧誘を行う。
 あまり人目につかないように気を配りながらも、勧誘自体には全く手を抜かなかった。
 それでも時間は流れる。
 大勢の人々がいるのに、たった一人が見つからない。
 そのことに遥は軽い絶望感を覚え始めていた。
 それでも諦めない。
 誰か一人くらいは、良いと言ってくれるかもしれない。
「あの、すみませんっ」
 あまり柄の良くなさそうな相手にも声をかける。
 それだけ遥は必死だった。
「郷土史研究同好会を作ろうと思ってるんです。秋風市のこと、一緒に調べてみませんか?」
「……はぁ? キョードシ? 何それ」
「それより彼女、どっか遊びに行かね? 俺ら講義休講になって暇なんだけどさ」
「お、いいねぇ! キョードシなんぞよりもっと楽しいぜ」
「そうそう。……あ、もしかして最初から逆ナンのつもりだった?」
「そうなん? それじゃちょうどいいや。行こう行こう!」
 いつのまにか周囲を四人の男に囲まれていた。
 周囲に人の姿がないのをいいことに、彼らは更に調子付く。
 事態に気づいた遥が逃げようとしても、手首を掴んで離さない。
「おいおい、どこ行くんだよ」
「誘ってきたのそっちだろ?」
「違います……! 離してください!」
「そんなこと言わないでさぁ。俺らもちょっと女の子と遊びたい時期なのよ」
「ヘッ、お前は年中発情期だろうが!」
「違いねぇ。ハハハハハッ!」
 馬鹿笑いをする男たちに囲まれ、遥は身を縮こまらせた。
 だが、視界の中に時計が飛び込んで――――残り時間が少ないことを思い出す。
「……本当に離してください。時間がないんです」
 精一杯気迫を込めて言う。
 だが、男たちはまるで意に介さぬ様子だった。
 強気で押し切ればどうにかなると踏んでいるのだろう。
 あくまでも遥を離すつもりはないようだった。
 ……が。
「どいてください」
 遥は何度も繰り返す。
 最初のうちはふざけているだけだった男たちも、次第に眼前の少女が普通ではないことに気づいた。
 気迫が尋常ではないのだ。
「お願いします。どいてください」
 言葉遣いは丁寧だが、そこに譲歩を与える余地はなかった。
 限りなく命令に誓い頼み。
 相手一人一人の眼を見て、遥は何度も繰り返す。
「時間がないんです。本当にお願いですから、どいてください」
 男たちの中で上がっていた熱が次第に冷めていく。
 やがて遥の手首を掴んでいた男が、彼女を離す。
 遥は何をするよりも先に、足を動かした。
 一歩ずつ進む。
 その都度、男たちが彼女への包囲を解く。
 やがて遥は別の場所へと移る。
 もう男たちの姿は見えなかった。
「……頑張ろう」
 うん、と気合を入れてガッツポーズ。
 けれど。
 時間はいつだって有限で。
 流れるときは、あっさり流れてしまうものだった。
「――――――あ」
 五時を告げるチャイムがどこからか聞こえてくる。
 書類は彼女の鞄の中。
 ……間に合わなかった。
「……駄目だった?」
 夕方、チャイムの音を聞きながら。
 遥はその場でへたり込んでしまった。
 悲しかった。
 一生懸命やろうとしたことが、ここまではっきりとした形で『失敗』したのは始めてのような気がした。
「……駄目だったんだ」

 そんな彼女を遠目に見る姿があった。
 一人はゆきね。
 もう一人は……朝月高校の教師、一戸。
 最後の一人は、大学の学長である本多だった。
「珍しいな、あそこまで何かに向かって頑張る学生というのも」
「はい。榊原や、彼女の周囲にいる連中は……なかなか見所がありますよ」
 一戸は、かつての恩師を説くように言った。
 本多は「ううむ」と唸り声を上げる。
「だが、特例として五人で同好会の設立を認めるというには……今一つ、足りん」
「そうでしょうか?」
 同じように、本多の教え子だったゆきねは別の一点を指し示した。
 その先には、遥と同じように項垂れる久坂零次の姿があった。
 さらに別の方では、高坂雅が頭に手をあてて失敗を悔いている。
 水島沙耶はまだ諦めず、あちこちの人に声をかけていた。
 藤田四郎は野球の練習の傍ら、見物人やチームメイトにフルケンを勧めていた。
「あの子たちは、仲間が頑張るなら一緒に頑張ろうって考えることが出来る子たちです」
「……」
 本多はしばらくの間黙っていた。
 どうするべきか、悩んでいるようだった。
 そこに、どこからともなく声が聞こえてくる。
 ――――本多よ。わしからも、頼めんかな。……フルケン、復活させてやってくれ。
 それは、現実の声か、幻の声か。
「酒井め……相変わらず我がままだのう」
 仮に幻だとしても……本多を動かすには充分だった。
 長年一緒だった親友の声なのだから、仕方がない。
 本多は苦笑して踵を返す。
「教え子二人に親友、そして頑張っている彼女たちに免じて……特別許可を出そう。フルケン設立を認める」
 その言葉を告げたとき……本多は自分が笑っていることに気づいていたのだろうか。

 特例許可が降りて、フルケンは設立を認められた。
 無論同好会なのだから部室などはなく。
 ほとんど自分たちでどうにかしなければならない。
 それでも良かった。
 きっと、少しずつ良い思い出が出来るかもしれないから。
「……ありがとう、お爺さん」
 墓地に一束の花を供えて、遥は深く頭を下げた。