異法人の夜-Foreigners night-

-日常編-
もしも、全て埋まっていたら(前編)
 突然だが、美緒は情報収集のために動くことにした。
 相方は、少々頼りない熟成熟練熟年駄目人間の修羅堂の店長だ。
「美緒ちゃん、それはあんまりじゃないかな……」
「しくしく泣いても駄目。いい年こいたおじさんがそれやっても破壊力はないのだ!」
「ううー……どうせ僕はこんな役回りさ」
 店長は視界の隅に引っ込んだ。
 気を取り直して、美緒が修羅堂のカウンターにメモ帳を叩きつける。
 それには『名探偵美緒の恋愛調査票』と書かれていた。
 タイトルを見た途端、店長の顔がシリアスなものになる。
「やるのかい、美緒ちゃん」
「あたぼう! 生まれたときからスクープ追って三千里! シャッター音鳴らない掌サイズのカメラを久坂さんに作ってもらったし、これで作業効率は数倍に膨れ上がるのだッ……!」
「彼も妙な知識があるよねー」
 ちなみに、修羅堂に置いてある店長の私物は零次が改造したものが多い。
 店長が壊したりして修理を頼むことが何度かあったのだが、その都度変な新機能が搭載されていたりする。使いやすいものから使いにくいものまで様々あるが、共通して言えることは技術力の無駄遣い、ということだ。
「これさえあれば、お兄ちゃんとかお義父さんなんかもバッチシ調べられると思うのだ。あの二人はなかなか隙がないから厄介だったんだけど、これで新たなネタが入るかも」
「あはは、美緒ちゃんも好きだねぇ。そういうのって知って楽しいかなぁ」
「フ……交友関係をおざなりにしてると、そのうち引き篭もりになるよ?」
「余計なお世話さ!」
 痛いところを突かれたからか、店長はコミカルな動作でツッコミを入れてきた。
 見た目とは裏腹に動きが機敏だなぁと、美緒は妙なところで感心する。
「ともかく、これは必要事項でもあるの。周囲の人間関係を把握しておけば、何か問題が起きたときとかフォローしやすいでしょ?」
「うん。でも原動力の八割は興味だけで出来てるでしょ」
「まぁねー。恋愛に限らず、割と人間関係って混沌としてるし。見てるだけで飽きないのだ」
 ふふん、と本性をさらけ出してほくそ笑む美緒。
 赤信号、皆で渡れば恐くない――と言い出しそうな表情だった。
「ってなわけで早速調査。店長フォロー頼むよっ!」
「合点承知!」
 なんだかんだでノリノリな店長。
 結局この二人、良いコンビなのである。

 標的、藤田四郎の場合。
「藤田四郎、朝月大学一年。所属は野球部と郷土史研究同好会の二つ。美緒ちゃんからするとお兄さんの友達だね」
「うちの住人だと、今はお義姉ちゃんと久坂さんが仲良いかな。たまに休日にやって来てお兄ちゃんを引っ張りまわしたりもするみたいだけど」
「うちのお得意さんでもあるよ。何気に色々やってる少年だね」
 二人は今、朝月大学へやって来ていた。
 特に変装はしていないが、店長は少し身だしなみを整えてきている。
 誰かに尋ねられたら、学生と講師だと答えることにしていた。
「他に目を引くような人間関係はあるのかい?」
「あるある、そりゃもうゴシップ好きの私ゃ血が騒ぐね!」
 拳を握り締めて美緒が力説していると、二人が潜んでいる場所の正面にある建物から藤田が出てきた。
 一緒にいるのは背丈の高い女性――――高坂雅である。
 二人は親しげに会話をしているようであり、時折肩を叩いたり腹を抱えて笑ったりしている。
「……あれはそういうのじゃないんじゃない?」
 何とは言っていなかったが、美緒が二人をどういう風に見ているのかは察することが出来た。
 店長は首を捻りながら、
「どっちかっていうと友達感覚だと思うけど」
「ふふ、店長は甘い。結論を出すには早いよ……っと、ほら!」
 美緒に背中を突かれ、店長はこっそりと二人の後を尾行する。
 近づくにつれて、藤田たちの会話が耳に入るようになってきた。
「どうする高坂、いつもみたいに飯は夢里で食うか?」
「んー……それなんだけどさ」
「お、どっか別にいいところがあるとか?」
「まぁね。場所はまだ決まってないけど、質はいいと自負してるつもりさ」
 ひょい、と雅は鞄から弁当箱の包みを取り出す。
 それを見て、藤田は目をぱちくりさせていた。
 弁当箱と雅を交互に見て、次第に顔を赤らめていく。
「ま、まさか俺に? 高坂の手作りなのかっ!?」
「そんなに驚くことじゃないだろ? ほら、あんたこの前『女の子が作った弁当が食べたいなぁ』ってぼやいてたじゃん」
「そういえば言ったような……でもいいのか高坂、俺が貰って」
「って言うより受け取るのが常識ってもんだよ。ここでまさかいらないなんて言って、あたしに恥かかせる気じゃないよね?」
 雅はにやりと、悪戯っ子のような表情で藤田を見る。
 中性的な美人の雅がそうした表情を浮かべると、藤田はくすぐったそうに笑い返した。
 完全に藤田を自分のペースに巻き込んでいる。
「それともいらない? そっか、残念だな……なら自分の分と合わせてあたしが食べるか」
「それは駄目だ、そんなに食ったら……いや、うん。高坂ならそんな心配ないとは思うけど」
「はは、褒め言葉として頂戴するよ。で、どうする藤田」
「と、とりあえずだ。そうだな、人の少ないとこに行こう。ここじゃ人目が気になるっ!」
 そう言って、藤田はあたふたと雅を引っ張って行った。
 残された美緒たちは顔を見合わせて、
「どうよ、今のストロベリーっぷり」
「むう。……藤田君の曖昧な態度が気になるところだけど、順調のようだね」
「ところがこのままスムーズには行かないんだな……まぁこのままここにいても仕方ないし、続きは放課後」
 うっしっし、と笑いながら美緒は撤退していった。
 ちなみに本日平日、美緒は昼休みに抜け出して大学へ来ていたのである。
 そして店長はというと、修羅堂改装工事中につき暇人なのだった。

 放課後。
 再び美緒と合流した店長は、藤田の尾行を再開した。
 途中で雅と別れて一人になった藤田は、駅前である人影を見つけて駆け寄った。
「おーい、仲橋っ」
「わひゃっ!?」
 後ろから急に肩を叩かれ、仲橋由井子は奇声を上げてしまった。
 藤田はおかしそうに彼女の様子を眺めながら、
「疲れてるのかー? これぐらいで驚きすぎだぞ、お前」
「急に肩叩かれても困るッスよ!」
「むぅ……昔は全然平気だったのに」
 そんな二人を見ながら、美緒は力を込めて厳かに言う。
「店長。あれが、あれが俗に言う"幼馴染ぱわあ"というやつなのだ……!」
「な、なんと……! 僕にとっては未知の領域だ!」
「しかも仲っちは藤田さんの影響でソフトボール初めるぐらい、なんていうかもう慕ってるという……羨ましい、私も誰かに慕われたい!」
「それは無理なんじゃないかなぁ……げふぅっ!」
 無言で店長を静めつつ、美緒は藤田たちを眺める。
 藤田は由井子をからかいつつ、部活後で疲れているであろう彼女を気遣ってジュースを買ってあげたりしていた。
「さり気ない優しさ攻撃、由井子選手、35のダメージ!」
「の、ノリノリだねぇ……」
「ふふん、これで雅さんがここに来ればもっと面白いことになってたんだろうけどね。仲っちと雅さん、上手い具合に未遭遇なのだ」
「僕は修羅場はあんまり見たくないなぁ……心が痛むよ。なんていうかトラウマが……いやぁ、刃物はいやぁぁ!」
 何か良くないスイッチが入ってしまったらしい。
 間違っても店長自身が修羅場を迎えたことはないだろうから、ドラマか何かでショックを受けただけだろう。
 しかしここで騒がれてはバレてしまう。
 調査票には『現状維持』とだけ記し、その日は撤退することにした。

 土曜日。
 再び店長を引っ張り出した美緒は、ある人物を見張っていた。
 休日の駅前都市部。
 秋風市内でも例外的に賑わうこの場所で、その人物が困り果てている。
 原因は、彼を囲む二人の少女だった。
「派手なことになってるねぇ……」
「うむ、私が望んだような修羅場にはまだ遠いけどねー」
 美緒の視線の先。
 そこにいるのは、困り果てた顔の久坂零次だった。
「――――二人とも。その辺にしておかないか?」
 諌める声は弱弱しい。
 普段の零次からすると想像しにくいが、彼を取り囲む事態を見れば無理もない。
 駅前の映画館前。
 訪れる家族、恋人たちで賑わう娯楽の地は。
「……絶対こっちのがいいと思うんですけど」
「冬ちゃんってそういうのが趣味なの? 辛気臭いんじゃないかなぁ」
 ――――二人の修羅によって、絶対零度の荒野と化していた!
「うわ、しばらく見ないうちにあの二人、ますます仲悪くなってるにゃー」
「う、うぅぅ」
「ほら店長しっかりする! 大丈夫、あんなもん序の口だから!」
 ガタガタ震えだした店長の背中をバシバシと叩く。
 しかし発言が逆効果だったのか、店長は余計青ざめてしまっていた。
 仕方ないので放置。
 今日の美緒はサングラスをかけ、多少髪型を変えて来ている。
 おまけに普段着ないような私服を用意してきたので、話しかけられない限りバレることはないだろう。
「さて、何であんないがみ合ってんのかな」
 冬塚涼子と水島沙耶、それが二人の少女の名だ。
 涼子は美緒の親友であり、零次とは奇妙な縁があった。
 本人も気づいていないし認めもしないだろうが、彼女が零次に好意を抱いているのは周囲の人間なら大抵は知っている。
 もう一人の水島沙耶は、店長にとっては『遊びの弟子』という、よく分からない縁である。
 零次にとっては同じ大学に通う良き友人でもあり、二人はよく町中で遊んだりしている。
 知識人の涼子と遊び人の沙耶は元々さほど気が合う方ではなかった。
 だが、それが表面化してきたのは零次が原因なのである。
「どうやら映画で揉めてるみたいだけど……」
 視線を上に向ける。
 現在上映中の映画は三本あった。
 どうやらそのうちのどれを見るかで揉めているらしい。
「っていうか、なんで久坂君は二人相手にデートしてるんだい?」
「立ち直り早いなー。あ、直視しないようにしてんの?」
「……拙者、何も見てませんから」
 零次たちがいる方向とは正反対の方を見ながら、店長は掠れた声を上げた。
 美緒は嘆息して、
「まず最初に言っておくと、久坂さんはデートだと思ってない。普通に遊びに来てるだけだと思ってるんだな。だから両方連れてきたというか」
「……それは僕から見ても愚行というか」
「久坂さん自身は『これを機に二人の仲が良くなればいいのだが』とか言ってたけどね。なんていうか、どこから突っ込めばいいのかまるで分かりません」
 むー、と二人で唸る。
 その間にも、女性二人の争いは進行していた。
「今どき恋愛ものなんて腐るほどあるし。テレビとかで散々見てるからいいじゃん。映画はやっぱり面白可笑しいものでないと!」
「笑えればいいってもんじゃないです。ま、水島さんには分からないかもしれませんけど」
「別に分からなくてもいいもーん。私は面白ければそれでいいし」
「そうですね、水島さんの意向は問題ではありません。……零次、こっちの映画見るよね?」
「いや、くさぴょんはこっちの方がいいよねっ!」
 闇の笑顔を浮かべた二人に迫られ、零次は困り果てているようだった。
 普段は仏頂面ばかり浮かべているからか、おろおろする姿は新鮮だった。
「二人とも、なぜそういがみ合うのだ。俺と倉凪でもここまで揉めたことはないぞ」
 零次が諌めようとすると、鋭い視線が彼に突き刺さる。
 なぜ二人がこうなってしまったのかが分からないため、零次にはどうすべきか見当がつかないのだった。
 美緒は看板を見上げた。
 そこに出ている三つの映画。
 一つ目は『Groy World』。間違った愛を盲信する男と女が、すれ違いながら大虐殺を巻き起こすバイオレンスラブロマンスものだとか。CMで流れた有名な台詞は『お前を殺して君も死ぬ!』。
 二つ目は『魔法使いの足袋V』。意志を持った足袋と、それを履く魔法使いとのコメディもので、なぜかシリーズ第五作目。今回のキャッチコピーは『俺の身体が臭う』。深刻だ。
 最後は『無為職人』。原始時代にタイムスリップした職人が冷蔵庫を作るも、原人たちに認められず苦悩する物語。クライマックスシーンは月で撮影されたという嘘くさい噂が話題になった。
 涼子が見ようとしているのは『Groy World』で、沙耶は『魔法使いの足袋V』だろう。
 とにかく面白いものが好きな沙耶には恋愛ものなど退屈だろうし、逆もまた然り。
 美緒と店長は、零次がどんな判断を下すのか固唾を呑んで見守っていた。
「くさぴょん、どっちがいい?」
「いつまでも揉めてるわけにもいかないし、零次が決めて」
「むぅ……それなら」
 涼子と沙耶ににじり寄られ、零次は一つの看板を指差した。

『どうして分からないんだ! 冷蔵庫さえあれば食糧保存が出来るんだぞ!?』
『ウボァ――――!』
『くっ、これだけ言って分からないなんて! この未開人めっ! こうなったら支配してやる! 貴様らを支配してやるぞォォー!』
『オッポレッ!?』
 嗚呼、何を為すのか職人よ。
 何も為さぬか職人よ。
 それは無為なり。
 それは虚無なり。
 それは自由なり。
 それは混沌なり。
『くそっ、奴は気づいてないのか!?』
『過去に干渉して英雄気取りか、寂しい人間だな!』
 職人が見落としている欠点。
 捕らえられた原人たちが反乱を巻き起こす中、未来からやって来た極大権限保有執行会のメンバー。
 彼らは果たして事態を収拾することが出来るのか?
 そして職人と名乗る男はどうなるのか。
 無駄に金をかけて使用されたハイクオリティなグラフィック!
 原人役には、全国の『あだ名がゴリラさん』を採用!
 脅威の物語が、今始まる――――。
『お前の技術は完璧だ。だが悲しい哉――――――ここには電力がないのだよ』

 映画館から出てくるなり、美緒は店長の肩を叩いた。
「どうよ」
「……金返せって感じだったね」
 美緒は深く頷いて同意する。
 これを見て喜ぶのは、よほどセンスの狂った人間だろう。
 例えば、
「なかなか良い映画だった。クライマックスは迫力満点だったな」
 美緒たちの前方を歩く三人組、その真ん中にいる男は珍しく嬉々とした様子である。
「電力の有無に気づかなかった職人は愚かとしか言いようがなかったが、あの狂いっぷりはむしろ好感を覚える。最後のスロット対決などは呼吸も忘れて見入ってしまった」
「そ、そう……」
「それは良かったね、くさぴょん……」
「うむ。ただ腑に落ちなかったのは、船やロケット、飛行機に戦車まで出しておきながらなぜ車を一台も出さなかったのか、というとことろだな。予算の都合かもしれんが、そこだけが気になってな」
「……」
「……」
「む、どうした二人とも。長時間座っていたから疲れたのか?」
「水島さん、お笑いっていいですよねー。近いうちにブーム起きそうな気がするんですよ」
「いやいや冬ちゃん、ラブロマンスもいいものだよ。人に愛は欠かせないんだよー」
 うつろな声でそんなことを言い合う二人。
 零次はというと、映画の出来に満足したのかすっかり上機嫌だった。

 三人が遠くへ立ち去っていくのを確認して、美緒は手帳に必要事項を書き加えた。
「なんだかんだでバランスは取れてる、と。これでさっちゃんが加わったら面白かったんだろうけど」
 さっちゃんとは、店長の一人娘である岡島沙希のことだ。
 零次とは何か気が合うらしく、いつのまにか義兄妹の契りを交わしていたりする。
 二人の間に恋愛感情らしきものは見えないのだが、義兄妹になるぐらいだから相当仲が良い。
 万が一恋愛感情が芽生えようものなら、一気に発展しかねない。
 それ故に、涼子や沙耶にとってはある意味一番恐い存在だったりする。
「沙希は今日バイトしてるって言ってたからね。多分来ないと思うよ」
「そっか。それじゃそのバイト先に行ってみよう」
「えっ!?」
 突然の提案に、店長は露骨な驚きを見せた。
 ちなみに店長はあまり沙希に好かれていない。
 否、大事にされてはいるのだろうが、少しも尊敬されていない。
 彼女が仕事をしている場所へノコノコと出て行けば、冷たい視線が飛んでくること間違いなしである。
「ぼ、僕遠慮していいかな?」
 ぎこちない笑顔で尋ねる店長。
 それに対し、美緒は悪人のような笑みを浮かべ、
「却下」

 からんころん、と音を立てて開く扉。
 休日の正午ということもあって賑わいを見せている喫茶店。 
 入ってきたのは、怪しげなサングラス少女とマスク男だった。
「……いらっしゃいませ」
 台詞が遅れたのはこの格好に驚いたからだろう。
 制服姿の岡島沙希は、きょとんとした様子でその二人を見ていた。
「えーと、美緒さんに……お父さん?」
「ノーノーレディ! ミーは通りすがりのミオレーネと言うものデース」
「マイネイムイズネームレス、よろしく!」
「……」
 こんな馬鹿な真似するのは貴方たちぐらいですよ、といった確信を込めた視線を返された。
 周囲の客の視線も痛い。
「……ゆきねさーん、営業妨がっ、もがっ!」
「ハイハーイ、ミス・オカジマ。少々静かにしていただけるとアリガターイです」
「――ぷはっ! び、びっくりした。もう……で、席に案内した方がいいですか?」
「ん、お願い」
 サングラスを外し、素に戻る美緒。
 二人は沙希に案内されて、壁側、一番奥の席へ通された。
 その間、店長には沙希からとびきり冷たい視線が送られたとか。
 メニューを確認した沙希が立ち去ると同時、店長が勢いよく机に倒れ伏した。
「うう、これでまた一週間は口利いてもらえなさそうだなぁ」
「大丈夫だよ、さっちゃん一部の例外を除いて皆に優しい子だし」
「その一部の例外って明らかに僕のことなんですが」
 と、そこで美緒は店長の向こう側に、あるものを見つけた。
 美緒たちと同じように、壁側の目立たない席に座っている二人の男女。
「あれ、一戸先生」
 そこにいたのは、美緒たちが通う朝月高校の教師、一戸伝六だった。
 堅物熱血教師というタイプの人で、生徒や職員仲間からは"旦那"と呼ばれている。
 と言ってもまだ三十代半ばの年齢で、そんなに老けているわけではない。
 浮いた話もなく、未だ独身である。
 そんな彼が、喫茶店の目立たぬ席で女性と座っている。
 美緒の好奇心が反応しないはずがない。
 しかも、一緒にいるのはこの店の店長代理を務めている山口ゆきねである。
 穏やかでしっかりした性格の持ち主。容姿も美人の部類に入るだろう。
 おっとりした美人さんで、この喫茶店『夢里』には彼女目当てで来る客もいるとかいないとか。
 一時期、美緒の兄である倉凪梢と何かあったらしいが、それ以外は全く恋愛話が見えなかった人だ。
 そんな二人が一緒にいる。
 それも、かなり親しげに。
「ゆきね、最近はどうだ。不埒な輩が出入りしたりはしていないか?」
「大丈夫。特別なことはないけど、落ち着いてるわ。ふふ、これはいいことなのかしら」
「さて、俺は余計な刺激は不要と考えているから……落ち着いている方が好きだがな」
「私もどちらかというと落ち着いてる方が好きかな。でも、賑やかなのもいいと思う。たまに皆で大騒ぎとかすると、嫌なこととか忘れられるもの」
 二人の会話からは親密さが溢れ出ている。
 だいたい、人一倍堅物な一戸が女性の名を呼び捨てにしている時点で只事ではない。
「その、なんだ。あの人の調子はどうだ」
「……うん、まだ駄目。精神的に不安定。私が行っても相手にしてもらえないことがある」
「すまん。俺も出来れば顔を出せればいいんだが……どうも、俺はあの人に嫌われているみたいだ」
「ごめんね。お母さんも、きちんと落ち着けば分かってくれると思うから」
 話の内容はあまり明るいものではない。
 だが会話から推測するに、二人の仲はかなり良さそうに見える。
「ときにこの羊羹は上手いな。例の少年が作ったのか?」
「そうだよー。天夜君が考案して、私と涼子ちゃんで手を加えたの」
「……俺も料理をしてみるかな。親父も俺も料理出来ないから、どうにも我が家の食卓が寂しい」
「だったら私が作りに行こうか?」
「そ、それは遠慮しておこう。……俺も自分のことは自分で出来るようになりたい」
「あらあら。それなら優れた師に教わらなくちゃ。ここでバイトでもしてみる?」
「魅力的な誘いだが、本職があるのでな」
 ふ、と一戸は柔らかな笑みを浮かべた。
 一部の生徒から『鬼の一戸』と呼ばれているとは思えない程の穏やかさだった。
「と、すまないがそろそろ時間だ。剣道教室で汗を流してくるとしよう」
「もうそんな時間? それなら……はい、これ」
 ゆきねは膝の上に乗せていた袋を手渡した。
 一戸はそれを受け取ると、顔前で手を垂直に立てながらお辞儀をした。
「いつもすまんな。子供たちが喜ぶ」
「いいのいいの、それじゃ頑張って来てね」
 笑顔のゆきねに見送られながら、一戸は竹刀袋などを手にして出て行った。
 残されたゆきねの元に沙希が駆け寄る。
「ゆきねさん……これなんですけど、どうしたらいいでしょうか?」
「んと、これはねー」
 沙希に何かを教えながら、ゆきねはカウンターの奥へと立ち去っていく。
 ――――なんとなく、店内全体が明るい雰囲気に包まれた気がした。
「……美緒ちゃん?」
「あ……どうかした?」
「いや、なんだか――――」
 店長はそこで言葉を切った。
 美緒は訝しげな視線を送るが、店長は曖昧な笑みを浮かべて誤魔化す。
「……それで、何かいいネタはあったのかな?」
「ん、まぁ微妙なとこ。厨房の中にまで潜入出来ればいいんだけど、それはさすがに無理だしね」
 たはは、といつものように笑う。
 それは、いつものような笑みだったが。
 その実、いつもと同じ笑みではなかった。

 店長と別れ、午後の町を一人散策する。
 仲の良さそうな一戸とゆきねを見たら、気分が冷めてしまった。
 今まで全力でジャンプしていたのに、いきなり天井が現れて頭を打ってしまったような感覚。
 あまり知られてはいないが、美緒は冷めるときは一気に冷める。
 何か熱中出来るものを見つければ人一倍燃えるくせに、終われば誰も見ていないところへ行く。
 賑やかなことや騒がしいことは大好きだが、それでも自然と冷めてしまうときがあった。
「ふぅ……ま、一応これは取っておこうかな。実際何かの役に立つかもしれないし」
 勢いだけで書き上げた手帳。
 振り返ってみれば馬鹿らしいものだが、こうした物でも役に立つことはある。
 何か問題が起きたとき、知っていなければ対応出来ないことはたくさんあるのだ。
 だから、出来る限り友人たちのことは知っておきたいと思った。
 この日常が、台無しにならないように。
「これ以上、何も欠けることがないように……ね」
 日々は緩やかに進んでいく。
 誰もがその一日を当然のように過ごしていく。
 幸せとか不幸せとか、そんなものは関係ない。それ以前の問題なのだ。
 そして、今の日常は平和そのものだ。
 そこそこ刺激はあるし、退屈ではない。
 断じて不幸せではない。
 だから、この形は崩れないで欲しい。
 しかし、どうしてか。
 美緒はずっと、この日常に何かが欠けているような気がした。