異法人の夜-Foreigners night-

-日常編-
もしも、全て埋まっていたら(後編)
 日常というものは、いかなるものか。
 それに対する回答、想念は人により様々だろう。
 例えば久坂零次、彼はこれまで多くの戦場を渡り歩いてきた。
 彼の日常は戦場であったのだ。
 今は平和な秋風市に定住することで、やや日常の形も変わってきている。
 日常とは不定のものであり、その形はそれこそ日々の中で変化する。
 去年と今年の日常は、決して同じではない。
 振り返るときは、今と過去の日常を混ぜ合わせて『自分の日常』として見る。
 だから、自分が思い描く通りの日常というのは実感しにくい。
 倉凪美緒も、そうなのかもしれなかった。
 その中に身を置いているうちは構わない。
 しかし、ふと振り返ってしまうと駄目になる。
 彼女が過ごす日常は平和そのものなのに。
 振り返れば、どうしようもない闇がある。
 それは誰にでもあるものだ。
 忘れたい過去、失くしたい記憶、やり直したい出来事。
 無論、過ぎたことに変更は利かないから、彼女にはどうしようもない。
 背負って生きていくしかない。
 日常をパズルに例えるなら。
 彼女のパズルは、決定的なピースが欠けていた。

 なけなしの金を奮発して改装した修羅堂。
 一回り大きくなった遊びの楽園で、店長と零次が向き合って話していた。
「美緒の様子がおかしい?」
 零次が疑わしげに呟いた。
 正面に座る店長は、いつもと比べるとどこか元気がない。
 単なる疲れとは違うようだったので、零次も真面目に対応した。
「それはどういうことでしょう、店長。美緒は相変わらず趣味に走り、亨をからかって自由気ままに過ごしているように見えますが」
「ん……まぁ、それが彼女の日常だからね。欠かすわけにはいかんのだろうさ」
「日常、ですか?」
 会話の中に入れるにしては、やや妙に思える単語だった。
 その違和感から、零次は尋ね返したのである。
 店長は頷いて、
「なんて言うかな、最近の美緒ちゃんは『やりたいからやる』んじゃなくて、『やらなきゃいけないからやる』って感じなんだよね」
「はぁ……遊んだり亨をからかったりが、ですか」
「じゃ、質問。君は美緒ちゃんが大人しく過ごすようになったらどうする?」
「……多分心配するかと。それは美緒らしくない」
「そうだね。それは美緒ちゃんの日常の中にはないから」
 また『日常』。
 まるで美緒が、日常を維持するために無理をしているようだった。
 とてもではないが、そんな風に見えない。
「まぁ普段はやりたいからやってるだけなんだろうけどさ。美緒ちゃんに限らず、自分というキャラクターの枠から外れたことってのは、なかなかしにくいよね」
「つまり、美緒は普段とは違うことをやりたい。しかし無理してそれを抑え込んでいる、と?」
「要約するとそういうことかな。僕は遊び仲間としてそれがちょっと気になった」
 先日、喫茶店『夢里』で美緒が見せた表情。
 店長の後ろにいる誰かを見ていたらしい彼女は、不意に不思議な表情を浮かべていた。
 まるで、手の届かない何かを羨むような――――。
「一応、美緒ちゃんのお兄さんにもそれとなく気にかけておくよう言っておいてくれないかな」
「自分で言いにいけばいいではないですか」
「僕、彼とはちょっと肌が合わないんだよ……なんだか会話が持たない」
 私生活の中に遊びがほとんどない梢が相手では、店長も話題に苦しむだろう。
 零次はそれとなく頷いて、カウンターへと戻っていった。

 零次がバイトから戻ると、梢が一人で晩御飯の支度をしていた。
 遥は帰り道、急に降ってきた雨に打たれて風呂に入っているらしい。
 頭をタオルで拭きながら、調理中の梢に店長の言葉を伝えた。
「美緒の様子、ねぇ」
 梢はキャベツを刻みながら、ぼんやりと答えた。
 一笑に付すわけでもなければ、なるほどと頷くわけでもない。
 梢もまた、はっきりとはしないものの、美緒の様子に違和感は覚えているようだった。
「誰かと喧嘩したということはないか?」
「そりゃ可能性薄いわ。あいつ小さな喧嘩はよくするけど、次の日には仲直りってパターンがほとんどだし」
「では受験生らしき悩みか?」
「朝月大学に進学する程度の学力はあるだろ? それすらない俺が言うのもなんだけどよ」
「む……では考えにくいが、異性関係か?」
「あー」
 梢は声を上げたが、言葉には繋がらなかった。
 フライパンに野菜を放り込みながら、唸り続けるのみである。
「なんだ、その反応。心当たりでもあるのか?」
「……あるにはある。けどなぁ、それだと……あいつ」
 梢の言葉は曖昧なものだった。
 零次には言いたくないことなのか、それとも梢自身でもはっきりとは分からないのか。
「久坂、もうすぐ七月だよな」
「ん? ああ、そうだな」
「もうそんな時期なんだよなぁ……」
 一人で得心した様子の梢。
 そんな彼を、零次は訝しげに見た。
 何があるのかと尋ねようとしたが、言ったところで梢は答えないだろう。
 零次は開きかけた口を閉じ、踵を返す。
 思い出したかのように、梢が口を開いた。
「美緒のことだったら俺がなんとかしとく」
 どことなく、寂しげな声だった。

 その日、夕食の後片付けを終えた梢は美緒の部屋に向かっていた。
 扉をノックすると、中から眠たげな声で返事があった。
「どうぞー」
「ああ、ちょっと邪魔するぞ」
 梢が美緒の部屋に入るのはそう珍しいことではない。
 美緒は整理整頓が出来ない性質らしく、定期的に梢が片付けなければとんでもないことになってしまうのだった。
 これは、この家に兄妹がやって来てからの習慣みたいなものである。
 だが、美緒と話をするために部屋まで来るのは珍しい。
 話すことがあるなら居間などで話せばいいことがほとんどだからだ。
「珍しいじゃん、お兄ちゃんが私んとこ来るなんて。何、恋の相談?」
 にやにや笑って怪しげな手帳を見せびらかす。
 いつもの美緒と変わらないように見えた。
 梢はそれには応じず、扉を閉めて入り口付近に腰を下ろした。
 なんとなく、出口を塞いだような形になる。
「どしたの、なんか恐い顔してるよ。いや、目つきはいつも恐いけどさ」
「悪かったな、どうせ俺は目つき悪いよ。それと恋の相談なんざはどうでもいい」
「ありゃ。そんなこと言ってていいのかにゃー、お兄ちゃんアレですよ? あんた久坂さんと並んでますよ?」
「何がだ」
 はぁ、と梢は溜息をついた。
 美緒の様子に呆れたこともあるし、これから切り出す話の重さもある。
 言い出しにくい話だが、下手に誤魔化しても仕方ない。
 梢は改めて美緒を見て、はっきりと言った。
「そろそろ一年経つ」
 言われて、美緒は微かに顔を強張らせた。
 だがすぐに笑みを浮かべて、
「な、なに? 久坂さんとヤザキンが来てから一年? でもあれは八月だよね。遥お義姉ちゃんが来たのは四月頃だし……」
「どっちでもねぇよ。まさか忘れたわけじゃないだろうな」
「……」
 美緒の笑みは、すぐに消えた。
 彼女にしては珍しく、眉が八の字になる。
 顔全体から力が抜け、両手がだらりと垂れ落ちた。
「……覚えてるよ。忘れるわけないじゃん」
 普段の彼女からは想像もつかないぐらい小さな声。
 まるで親に叱られた子供のようにしゅんとしている。
「――――――吉崎さんのこと、忘れるわけないじゃん」
 吉崎和弥。
 倉凪兄妹にとっては家族同然の存在だった人物だ。
 梢にとっては十年以上付き合いのあった親友でもあり、相棒。
 美緒にとっては兄貴分的存在であり、密かに好意を寄せていた人物でもあった。
 そう、美緒は吉崎が好きだった。
 何かあればよく一緒に行動した。
 家事のことに没頭するようになった梢よりも、ある意味では美緒の兄らしい人だった。
 一見軽い性格だったが、いざとなると誰よりも頑固なところもあった。
 だが、彼はもういない。
 一年前の今頃、その生涯を閉じた。
 梢が扉を閉めたのは、その話を他の住人に聞かせたくないからだ。
 遥や零次たちは皆、吉崎が死んだ事件に少なからず関わっていた。
 彼らの前でこの話題を振ることは、不要の負担を増やすだけ。
 だから、この家では吉崎のことはあまり口にしないのが暗黙の掟となっていた。
「明日、墓参りに行こうと思う」
「……」
「師匠には話してある。お前も来るか?」
「私はいいよ」
 柔らかだが、それは確かな拒絶だった。
「まだ墓参りする気にはならないか。一年経つし、そろそろ来ると思ったんだけどな」
「そうだね。私らしくもない。引きずっちゃってるみたいですなー」
「ま、別に墓参りは来なくてもいいんだけどな。最近お前の様子が妙なもんだから、皆心配してる」
「皆?」
「零次に修羅堂のオッサン、遥や涼子も訝しがってたし師匠もそれとなく気にしてるみたいだった」
「あちゃー、結構皆鋭いなぁ」
 困ったなぁ、と頭を掻く。
 自分で騒動を巻き起こすのは好きなくせに、自分のことで他人に迷惑をかけるのは好きではないらしい。
「……なんか思うところがあるなら聞くぞ?」
「お、久々に兄らしい発言ー」
「茶化して引き伸ばすつもりなら帰る」
「……んー」
 言うか言うまいか悩んでいるようだったが、やがて美緒は椅子から降りて梢の前に腰を下ろした。
 話をするつもりになったのだろう。
「先に言っておくけど、私は今のことに不満があるわけじゃないから」
 そう前置きして、美緒は最近胸の内に溜まっていたことを語り始めた。
「……最近さ、よく昔のことを思い出すんだ」
「昔?」
「うん、昔。私とお兄ちゃんとお義父さん――――それに、吉崎さんと直兄がいた頃のこと」
「懐かしいな。それ、もう随分前のことだろ」
「そうだね。ずっと前……でもあの頃は楽しかったなぁ」
 郷愁の念を口にし、美緒は珍しく弱々しい笑みを浮かべる。
 それはまるで、今とは比べようにならないくらい弱気だった昔の彼女みたいだった。
「なんだろうねぇ。一年も経つのに昔のことばっか考えて」
「別にいいんじゃないか、昔のことなら俺も思い出すことあるぞ」
「――――たまに、すごく物足りなくなる」
 ぼそりと、申し訳なさそうな顔で言った。
「もし吉崎さんや直兄が今もいたら、どんなことしてたのかなぁ……って。皆のこと見てると、たまにそんなこと思ったりする」
 藤田や雅のように、同じ大学で一緒に弁当を食べたり。
 由井子と藤田のように、ふざけあったりからかったり。
 零次や涼子たちのように、一緒に映画を観に行ったり。
 一戸やゆきねのように、喫茶店で一緒に食事したり。
 美緒と吉崎も、よくそうして遊んでいた。
 だから、そうした人々を見ているとつい思い出してしまう。
 だが、思い出から戻ってきたとき、相手はいない。
「なんで、今にいないのかなぁ……」
 当然のように今日まで来た人々がいる中で、吉崎や霧島だけは"今日"まで来れなかった。
 当たり前の日常に、彼らはいない。
 それを意識すると、少し寂しくなった。
 一旦意識すると、余計気になってきた。
 それは段々、美緒の中で大きくなっていく。
 美緒自身でさえ把握出来ないままに。
「こういう言い方したら吉崎さんや直兄に失礼かもしれないけど、要するにないものねだりなんだよね。二人がもう戻ってこないのは分かってるし、吉崎さんの敵討ちももう終わってるし。私が今更どう思っても、どうにもならないし」
 馬鹿みたいだ、と美緒は笑った。
 その話を、梢はずっと黙って聞いていた。
 余計な口を一切挟まず、あるがままの言葉を受け止めるために。
 やがて沈黙が訪れる。
 美緒は口を閉じ、僅かに目を伏せていた。
 梢はちらりとそれを見て、
「……話はそんなとこか?」
「うん、まぁ私がワガママってことなんだけど――」
「――――俺を怨んだりとかはしてないのか?」
 不意に、そんなことを言った。
 まさかそんな言葉が来るとは思っていなかったらしく、美緒は狼狽した。
「なっ、なんで?」
「兄貴はともかく、吉崎が死んだのは俺が遥を巡る騒動に首を突っ込んだからだ。俺が吉崎を巻き込んだ。俺が守り損ねた。……俺さえいなけりゃ、吉崎は無事だったかもしれないんだぜ?」
 悲観するような物言いではない。
 梢は落ち着いて話している。
 そのため美緒は、そんなことはないと安易に否定出来なかった。
 感情に引きずられて言っているのではなく、梢は吉崎のことを背負っている。
 彼の死は、自分に責任がある。
 吉崎が死んだ日以来、梢はずっとその現実を背負いながら進んできた。
「……ずるいよ、そんな言い方。改めて言うのもなんだけどさ、私お兄ちゃん好きなんだから。……怨めるわけ、ないじゃん」
「好きだったら怨まないのか、お前は」
「え?」
「好きな相手を怨むな、なんて法律はねぇぞ。家族だろうが親友だろうが、時と場合によっちゃ怨みぐらい抱くだろ」
「それは、そうかもしれないけど」
 言い淀む美緒の頭を、梢はポンポンと軽く叩いた。
 今日まで来れなかった彼らのことで嘆く少女は、しかし何もすることが出来なかった。
 吉崎を奪った相手はもうおらず、敵討ちや糾弾の機会も与えられないまま。
 吹っ切ることも出来ず、取り戻すことも出来ず、曖昧にさまようだけ。
 それはまるで、出口のない迷路のいるかのようだった。
「お前が言うように、吉崎の敵討ちはもう済んだ。だったらもう怨めるのは俺ぐらいだろ」
「……別に誰も怨みたくない」
「それならそれでいいんだけどな。なんでも一人で抱え込んで悩み溜めるよりかは、怨みや泣き言の一つぐらい言ってくれた方が俺は嬉しい」
 と、今度はくしゃくしゃと頭を撫でる。
「怨みたきゃ怨め。たった一人の血を分けた兄貴なんだ、それぐらい受け止めてやる。だから……一人で抱え込むんじゃねぇぞ」
 最後にまたポンポンと頭を叩き、梢は踵を返して部屋を出た。
 昔からなんとなく分かってしまうことなのだが、美緒が泣きそうな気がしたのだ。
 幼い頃と違って、美緒は自分が泣くところを見られるのは嫌がりそうだった。
 だから早々に退散する。
 少し歩いたところで、部屋から泣き声が聞こえてきたような気がした。

 階段のところに来ると、榊原が待っていた。
「どうだった?」
「……分かんねぇ。あいつもあれで、案外溜め込みやすいとこあるから」
「最後は自分で割り切らねばならん。誰の元からも、今ある日常はいずれ去るということを」
「美緒にとっては、吉崎と一緒に過ごした頃が楽しすぎたんだろ」
「だがそれもいつか風化していく。今は乗り越えられない壁かもしれんが、いつか朽ちて通り越せるようになる。……そのときまでは、良い相手が見つかるまではお前がしっかり面倒見てやれ」
「分かってるよ。親父や母さんから任されてる大事な妹だからな」
 そうか、と頷く榊原に、梢はふと尋ねた。
「師匠はどうだったんだ? 親父が死んだときは……」
「お前には分からん。逆にお前のことも、俺には分からん。それに言葉に出来る自信もない」
 榊原はそう言って廊下の方へと歩き出す。
 梢がその背中を目で追うと、
「今もあいつがいれば、と思ったことはある。……人生ってのはそのときそのときで良いことってのは違うもんだ。全部の"良いこと"を一度に集めるなんざ贅沢だってことなんだろうな」
 それは、決して埋まりきることのないパズルのように。
 決して完成はしなくとも、そこにはきっと良いことはあるはずだ。
 美緒も最初に言っていた。
 ――――先に言っておくけど、私は今のことに不満があるわけじゃないから。
 そう、悪いことばかりではない。
 吉崎がいない"不完全な日常"でも、それは現実であり、その中でも梢や美緒たちは良いことを見つけられるはずなのだから。

 特に意味はないが、墓参りは夜に行われた。
 その日は綺麗な満月が出ていて、墓地もほのかに明るい。
 榊原が水の代わりに酒をかけ、用意してきた花や線香を添える。
 そして、梢が軽く最近のことを報告した。
 それは時間にして僅か三分程度。
 その締めくくりに、梢は告げる。
「あ、そうそう。吉崎よ、美緒がお前に伝言あるってさ」
 もうじき夏になるという時期の夜、眼前の線香は花火を連想させる。
 梢の脳裏に一瞬、子供の頃吉崎や霧島を交えてやった花火が浮かび上がった。
 苦笑して、梢は続けた。
『私には夢があるんだ。何なのかは誰にも内緒。でもそれが叶ったら、とびっきり笑ってここに来れると思うんだ。そのときまで、待っていてください』
 それが出かける前に託された言葉。
 結局、美緒はまだ吹っ切ることは出来なかった。
 梢も完全に吹っ切れているわけではない。
 だがそれでも、想いはきっと吉崎に届いた。
 今をきちんと生きてるぞ、ということを伝えられた。
「さて、それじゃな吉崎。俺はもうしばらく日常に浸かるとするよ」
 それがいつまで続くのかは分からないけど。
 必死に生きることを続けてみようと思った。

 あとがき
 日常編にしては珍しく(?)シリアス路線。
 今ある日常ってのはなんなのかね、というお話。
 お馬鹿で人を騒動に巻き込んでばかりの美緒ですが、こういう面も持ち合わせてますよ、と。
 ちなみに彼女の夢についてはノーコメント。……か、考えてないわけじゃないですよ?
 後邪推されないように言っとくと、好きってのは家族としてです。や、マジで。
 今回みたく、特定のキャラを掘り下げるように書くのもいいかもしれないなぁ。
 書くとしたら次は多分亨か志乃辺り。
 でもその前にbbをさっさと書き終えないとっ……!