異法人の夜-Foreigners night-

-日常編-
一戸家と山口家の事情(その1)
「あれ?」
 喫茶『夢里』でバイト中、涼子は意外な客の姿を見つけた。
 あまりこういった雰囲気の店には似合わなさそうな男。
 涼子が通う高校の名物教師、一戸伝六だった。
「先生じゃないですか。どうしたんです、今日は」
「ん、冬塚か……」
 一戸は一人で席に着き、そわそわと視線を巡らせていた。
「誰かと待ち合わせですか?」
「いや、そういうわけではない。っと、コーヒーを一杯頼む」
「分かりました」
 伝票に注文を書き、涼子は踵を返す。
 その背中に、一戸の控え目な声がかけられた。
「……その。店長代理はいるだろうか」
「ゆき姉……ゆきねさんですか? 今日はお母さんの病院に行くそうなので、お休みですけど」
「店長代理なしで大丈夫なのか、ここは……」
「そりゃ、スタッフ一同で頑張ってますから」
 涼子は景気のいい笑みで応えた。
 が、一戸はそれに気づかない様子で、どこか落ち着きなく窓の外を眺めている。
 そんな彼に、涼子は小さく首を傾げるのだった。

 その日、もう一つ奇妙なことがあった。
 バイト帰り、一緒に歩いていた天夜が浮かない顔でこんなことを言い出したのである。
「……最近、夜に妙な物音聞こえないか?」
 普段の彼からは想像もつかないくらい、曖昧な声だった。
 眉を潜めながら、神妙な面持ちで正面を見ている。
「私は聞かないけど。工事とかもないし、静かなものよ?」
「んー」
 天夜はどこか納得しかねているようだった。
 気になった涼子が問い質すと、彼はその物音について話した。
「最近、寝る頃になると変な音が聞こえるんだよ。なんか風のような、獣の遠吠えのような。五月蝿くはないんだが、妙に気になる音で」
「それは、部屋の外から?」
「分からん。音の発生源が気になって調べてみたんだが、どうにもはっきりしない」
「うーん……もしかして、何かの能力者ってことないの?」
「かもしれないな」
 天夜は実家に追われている身だと聞いている。
 詳しい事情は知らないが、天夜のような特殊能力を持った人間が追跡者として現れてもおかしくはない。
 妙な音というのが、何かの前兆だとしたら、あまり良い状況とは言えない。
「……あ」
 そこまで考えて、涼子はもう一つの可能性に思い立った。
「あー、でも」
「どうしたんだ、冬塚さん」
「いや、ちょっと……くだらないこと思いついたって言うか」
 前々から噂にはなっていたのだ。
 すぐ隣の部屋だったから、涼子も一時期気にしていたことがある。
 だが、あまりにも馬鹿馬鹿しい、現実離れした噂だ。
 天夜のいう音との関連性は、ないと考えた方がいいような気もする。
「一応言ってくれ」
「……本当にくだらないわよ? 私もこりゃないな、とか思ってるし」
「それでもいい。出来るだけ多くの可能性を想定しておく方が無難だ」
 そう言われて、涼子は少し罰が悪そうな顔をして答えた。
「ほら、緋河君も入室する前に聞かなかった? あの部屋、出るんだって話……」

 その翌日、涼子は榊原邸にやって来ていた。
 特に用件があって来たわけではない。
 遥や美緒と世間話をする程度のつもりだった。
「そういえば、昨日一戸先生が店に来てたのよ」
 ふと昨日のことを思い出し、涼子は遥たちにそのことを話した。
「あ、私もこの前夢里で見たよ。ゆきねさんと話してるの」
「私は夢里じゃないけど……神社とかで、二人が話してるの見たことあるな」
「二人とも?」
 意外な返答に、涼子は少なからず驚いた。
「昨日も、なんだかゆき姉に話があるみたいだったのよ」
「あの二人、どういう関係なんだろうにゃぁ」
 邪悪な笑みを浮かべて美緒が言った。
 遥も気になるらしく、真剣な顔つきで唸っている。
「あれは、恋人同士だと私は見てるけどね!」
「許婚とか?」
「あー、それありそう。見合いで知り合った、とかかなぁ。一戸先生はそういうの似合いそうだよね」
「でもゆき姉が見合いした、なんて話は聞いたことないけど」
 偶然噛み合った話題で盛り上がる涼子と美緒。
 遥は推測中なのか、うんうん唸るばかりだった。
 そのとき、三人のいる部屋にお菓子を持って梢がやって来た。
「あ、お兄ちゃん。お兄ちゃんはどう思う?」
「何がだ」
 お菓子やコーヒーを配る梢に、美緒は一戸とゆきねの話をしてみせた。
 部屋の隅に座り込んだ梢は、話を聞き終えると大きく溜息をついた。
「アホくせぇ。俺はそういうの興味ねぇな」
「えー、ホントにぃ?」
「なんだよ」
 梢はこの話に乗り気ではないようだった。
 そんな彼の態度に、涼子はふと昔を思い出す。
「そういえば、先輩って昔、ゆき姉にベタ惚れでしたよね。もしかして、今も……」
「なっ……!」
 からかうような涼子の言葉に、梢と遥が一斉に反応した。
 梢は顔を真っ赤にしてうろたえ、遥は顔を真っ青にして動揺する。
「ばっ、んな訳あるか! ゆき姉はゆき姉だぞ!?」
「先輩、何が言いたいのかよく分かりませんよー?」
「いや、だからだな……!」
 梢はあれこれと言葉を重ねるが、それは明らかに逆効果だった。
 普段、梢は恋愛方面にやたらと鈍い。
 そんな彼がここまで動揺するのは、それなりに訳があるに違いなかった。
 しかし。
「お兄ちゃんは気にならないのかなー? 先生とゆきねさんの仲」
「あ? それは別に気にならねえよ」
 美緒の言葉に、梢は素っ気無く言い返した。
 先ほどの慌てぶりからすると、意外な態度である。
「え、なんで?」
 美緒がきょとんとした様子で尋ねる。
 梢は真顔で、さも当然と言った風に答えた。
「――――だって俺、知ってるし」
「……へ?」
 数秒間、沈黙が訪れた。
 やがて、
「な、なにぃー!?」
 涼子と美緒が揃って声をあげる。
 遥は取り残されたように、ぽつんと座っているだけだった。
「知ってるの? あの二人の関係!」
「やっぱり婚約者とか、そういうのなんですか?」
「だあっ、うるっせぇ! 迫ってくるなアホ!」
 ずい、と顔を近づけてくる二人を、梢は迷惑そうに押し返す。
「教えてくださいよ、先輩~」
「そうだよ。お兄ちゃんだけ知ってるなんて、ずるいじゃん」
「……あのな。俺が知ったのは偶然なんだって」
 肩を竦めて梢は言った。
「それに、あまり他言しないでくれって二人にも頼まれてる。俺の口からは言えん。どうしても知りたきゃ、本人たちに聞いてみろよ」
「む……確かにその方が筋は通ってますね」
 梢の言葉に涼子は引き下がる。
 兄妹ゆえの遠慮のなさか、美緒はまだ梢から聞きだそうとしつこく絡んでいたが。
「あ、そうだ先輩」
「ん?」
 スリーパーホールドを仕掛ける美緒に悪戦苦闘する梢に、涼子は昨日あったもう一つの話をしてみせた。
 天夜が夜中に聞くという、謎の物音のことを。
「私も気になったんで、昨夜は耳を澄ましながら横になってたんですよ。でも物音は全然しなくて」
「ふぅむ。……今日は天夜に話を聞いたのか?」
「ええ。そしたら、やっぱり昨日の変な音が聞こえたって。しかも、日に日に音は大きくなってきてるらしくて」
「そいつは、ちっとばかし気になるな」
 梢は険しい顔つきで立ち上がった。
「緋河に電話してくる。これからあいつの部屋に行って、様子を見てみよう」

 天夜に招き入れられて、梢は彼の部屋に上がりこんだ。
 ちなみに今は一人である。
 他の面子は、危険性があると判断して置いてきた。
「うーん、特に魔力とかは感じないな」
「魔力なら俺だって気づく。近くに変な気配とかはしないのか?」
 梢は部屋の壁に視線を巡らせていたが、やがて頭を振った。
「今の時点じゃ不審な気配はねぇなぁ。何か仕掛けがあるような感じでもないし……日中にその物音聞いたことは?」
「ないな」
「んじゃ、夜になるのを待ってみるしかないな。実際その物音っていうのを聞いてみれば、何か分かるかもしれん」
 実際に物音がしているときに、その発生源を押さえる。
 それが一番確実なやり方だった。
「今日、家の方に泊まれるか?」
「榊原さん家にか? 別にいいが……」
「で、俺がここに泊まる。それでもそっちに物音がいくようなら、ほぼ確実にお前個人を狙った何かだ、って判断出来る」
「……もしそうじゃないなら?」
 天夜の追っ手なら、彼がどこに行こうとそちらを狙うだろう。
 しかし、それでもこの場所で物音が聞こえたならば、その音は一体何なのか。
 梢は肩を竦めながら答えた。
「さぁてな。……自縛霊の類じゃねぇか?」
 そのとき。
 窓も開いていないのに、室内に冷たい風が吹いた。

 榊原邸からバイト先へ出向いた涼子は、制服姿のゆきねと遭遇した。
 店内はそこそこ賑わっている。
 ゆきねに軽く会釈をして、涼子はすぐさま制服に着替えた。
「昨日はごめんね、面倒かけちゃって」
 着替え終わった涼子を待っていたのは、申し訳なさそうに手を合わせるゆきねだった。
「ああ、いいっていいって。それより、ゆき姉の方はどうだったの?」
「母さんは……まだちょっと、かかりそうかな」
 ゆきねの母――山口徳子とは、涼子も以前よく顔をあわせていた。
 しかし、涼子が高校に入学する頃、精神的な病によって入院してしまった。
 夢里の店長は徳子なのだが、彼女がそんな状態なので、現在はゆきねが代理として切り盛りしているのである。
 涼子は詳しくは知らないのだが、なんでもある事件によって徳子は心に深い傷を負ってしまったのだという。
「徳子さん、早く戻ってこれるといいですね」
「うん。ありがとう」
 そんな会話をした後だからか、一戸との関係を尋ねてみるような気にはならなかった。
 ……どういう関係なんだろう。
 涼子はゆきねとも一戸ともそれなりに長い付き合いをしている。
 一戸は生徒会関係でよく世話になったし、ゆきねは昔からプライベートの面でも親しくしてきた。
 だからか、かえって二人の接点というものがよく分からなかった。
 ……やっぱ、美緒ちゃんの言うように恋人同士、とか?
 それが一番無難な気もする。
 しかし、どこかで引っかかりを感じるのもまた事実だった。
 何か、噛み合わない気がするのである。
「うーん……」
「涼子ちゃん?」
「うわっ!?」
 突然後ろから肩を叩かれて、涼子は変な声をあげてしまった。
 振り返ると、こちらも驚いたような顔のゆきねが立っている。
「あ、ご、ごめん……どうかした、ゆき姉?」
「ええと……緋河君のことなんだけど」
「緋河君?」
「ええ。なんでも、最近妙な物音に悩まされてるって、唐沢さんから聞いたの」
 天夜は唐沢さんにも例の件を話していたらしい。
 ゆきねは心配そうな面持ちで、小さく溜息をついた。
「今日も体調不良でお休みの連絡もらったし……大丈夫なのかと思って」
「ああ、ほとんど寝てないみたいだったよ」
 朝。
 涼子は昨日の話を気にして、天夜の部屋を訪ねた。
 そのとき、天夜は目の下に隈を作っていた。
 欠伸を噛み殺す彼から事情を聞き、その後に榊原邸へ行ったのである。
「緋河君の部屋って、幽霊とか出るって話もあったんじゃなかった?」
「ゆき姉、よく覚えてるね……。でも、それはないんじゃない?」
 涼子も『普通ではないこと』はよく知っている。
 異法人、魔術師なども、当たり前のこととして受け入れている。
 それでも、さすがに幽霊は信じていなかった。
 以前、試しに零次に聞いてみたことがある。
『零次さ、幽霊っていると思う?』
『……いたら面白いとは思うが。俺は一度も見たことがないな』
 また、昨日の天夜にしてもそうだった。
『俺の部屋に出る? ああ、幽霊とかか。さすがにそれはないだろう』
 異法人、異端者の両名が「それはない」と言っているのだ。
 それが不在の証明になるわけではないが、涼子としてはやはり、幽霊の存在を信じる気にはなれない。
 だが、ゆきねは真剣な眼差しで頭を振った。
「涼子ちゃん、幽霊っていないと思う?」
「え……そりゃ、いないんじゃない?」
「そうかな。本当にいないかな」
 ゆきねの口調はいつになく硬かった。
「私はいると思うけど」
「……そうなの?」
「ええ、だって……」
 ゆきねは言おうか言うまいか、若干迷う素振りを見せた。
 しかし、やがて小さく息を吸うと、他の人には聞こえないよう、涼子のすぐ側で囁いた。
「私――――会ったこと、あるから」
 言われた瞬間、涼子の思考が止まった。
 ゆきねの表情は真剣そのもので、冗談を言っているようには見えない。
「だから、心配なのよ。……緋河君、大丈夫だといいんだけど」
 憂いの声は純粋なものだった。
 だからこそ、涼子は余計に分からなくなる。
 ゆきねと幽霊。
 まるで分からない組み合わせだった。
 ゆきねは、どちらかといえば迷信の類は信じない方だと思っていた。
 真っ向から否定することはしないだろうが、軽く笑って流すだろう……そんな印象を抱いていた。
 だから、今のゆきねの態度は意外だった。
 ……幽霊って、まさか本当にいるの?
 信じられないものが実在する。
 その前例があるからか、涼子は自分の認識に、強い不安を持ち始めていた。

 夜、バイトから帰ってきた涼子は天夜の部屋を訪ねてみた。
 ゆきねの言動がどうしても気になったからかもしれない。
 そこにいたのは、天夜ではなく梢だったのだが。
「ゆき姉がねぇ」
 涼子から話を聞き、梢は曖昧な態度で頷いた。
「先輩は幽霊って、いると思います?」
「いてもおかしくはないだろ。俺たちみたいなのだっているんだし」
「で、でも……幽霊なんてさすがに規格外ですよ。死んだ人がこの世に残るなんて……」
「誰でも残るわけじゃないだろ。強い後悔とか執念とか、そういうのを持つ奴が残るんじゃないのか?」
「いや、そういう問題じゃなくて……」
 うまく言葉には出来ないが、何かが腑に落ちないのだ。
 それは、まだ涼子が自分の眼で幽霊というものを見たことがないからなのだろう。
「先輩は……幽霊、見たことあるんですか?」
「んー」
 梢は涼子から視線を逸らし、言葉を濁らせた。
 いつもの梢らしくない。まるで、何か隠し事をしているかのようだった。
「まぁ、あるっちゃあるが……あれって幽霊だったのかな、って感じだ。夢だったかもしれねえ」
「むー……」
 不鮮明な物言いに涼子は唇を尖らせた。
 が、ここで梢を問い詰めても仕方がない。
「……分かりました。ところで先輩、今日は私もこっちで休ませてもらっていいですか?」
「は?」
 梢が怪訝そうな表情を浮かべる。
 そんな彼に、涼子は済ました顔で言った。
「私も気になるんです。自分とこのすぐ隣ですし、ゆき姉も本気で心配してましたし」
「いや、だからってまずいだろう。お前も一応年頃の……」
「一応?」
「い、いや……ほら、色々と対外的にもまずいだろ?」
「それなら、こうしましょう」

「で、俺たちが呼ばれたわけか」
 三十分後。
 部屋には涼子と梢、そして零次と遥の姿があった。
「でも、確かに気になる話だよね。幽霊、私はまだ見たことないけど……いるとしたら、どんなのなんだろ」
「怨霊とか、かねぇ。昔この部屋で何か事件でもあったって話はないのか?」
「そんなの私は聞いたことありませんよ。このマンション建てられたの、私が入居するちょっと前ですからね。何か事件が起きたって言うなら、まず聞き逃したりしません」
 涼子が知っているのは、あの部屋に住む住人がいずれも短期間のうちに出て行ってしまう、ということぐらいだ。
 入居者が死に至ったことはないし、何か怪我をした人がいるわけでもない。
 ただ、なぜか皆早々と去ってしまう。
 その理由までは分からないが、この部屋は入居者が去る度に値が下がっていった。
 そこから、近隣の住人たちが『何か出るのではないか』という噂をするようになっていったのである。
 当然と言うべきか、この件に関して管理人はノーコメント。
 そのことが、ますます人々の想像力をかき立てることになった。
「だから、実態はよく分からないのよ」
「ま、だからこそ今夜調べるわけだけどな」
「とりあえず、役割分担をしておくか」
 そして話し合いの結果、部屋の中を涼子と遥が。
 玄関口付近を零次が。
 そして、ベランダから周囲一帯を梢が見張ることになった。
「幽霊かどうかはともかく、緋河が怪異に悩まされているのは事実だ。その要因を突き止める必要性はある」
「ええ、何事もなければいいんだけど」
 四人は幾分か緊張感を漂わせながら、夜が更けるのを待った。
 やがて……。

 ……あれ?
 気づけば、涼子は仰向けになって眠ってしまっていたようだった。
 電気は既に消されており、他の三人も眠りについているようだった。
 近くから小さな寝息が二つ、大きな寝息が一つ聞こえてくる。
 ……いかんいかん、ちゃんと起きてないと。
 ここに来た意味がない、と涼子が起き上がろうとした瞬間だった。
 ……?
 何か、聞こえた。
 どこから聞こえてきたのかは、よく分からない。
 だが、はっきりと聞こえた。
 とても小さな音だが、良く聞こえた。
 それは、遠くから吹き込んでくる風のような音。
 ……これが、その音?
 トンネルの中で聞く音のように、何重にも響き渡る。
 少しずつ、その音は大きくなっていく。
 否、近づいてきていると言った方がいいかもしれない。
 なぜか、背筋が凍えるような感覚に襲われた。
 恐い。
 漠然とそんなことを思い、涼子は他の三人を起こそうとした。
 ……あれ!?
 しかし、身体が動かない。
 自分のものではなくなってしまったかのように、ぴくりとも反応しない。
 音は確実に近づきつつある。
 何か、とても危険な気がした。
 このままではまずい。
 本能が全身から警鐘を発している。
 それでも、身動き一つ取ることが出来ない。
 意識はこんなにもはっきりとしているのに……。
 ――――おおおぉぉぉ。
 そして、気づいた。
 その音は、風の音などでは決してない。
 それは、物悲しげな女の悲鳴だった。
 悲鳴は、僅かな瞬間も絶えることなく続いている。
 続きながら、近づいてきている。
 ……くっ!
 意識がいかに動けと命じても、身体は全く動かない。
 やがて、涼子の視界に恐るべきものが入ってきた。
 ――――壁を這う、女。
 海から肩と顔だけを出しているようだった。
 他の部分は全て隠れていて、見えない。
 海を泳ぐように、女はゆっくりと壁を這う。
 女の身体は、まずベランダ付近の梢に近づいた。
 しかし、微かに頭を振ると今度は遥へ向かう。
 だが、そこでも女は頭を振る。
 そして。
 女は、涼子の元へとやって来た。
 ……っ。
 女はほとんど髪の毛しか見えない。
 少しだけ顔や肩口が覗ける程度だった。
 そんな気味の悪い女が、涼子の真上にやって来る。
 下を見下ろす女と、仰向けに寝たまま動けない涼子は、自然と目が合った。
 女は口元から微かに悲鳴を漏らしながら、じっと涼子を見つめている。
 涼子は気が張り裂けそうだった。
 ……うぅ。
 涼子は既に確信していた。
 やはり幽霊はいたのだ。
 そして、この女がそれに違いないのだと。
 女は、やがて、静かに身を下ろしてきた。
 涼子の身体が自由に動いていたら、迷わず逃げ出していただろう。
 しかし今は全く動くことが出来ない。
 女は少しずつ涼子の元へとやって来て、小さく笑った。
 そのとき。
「――――待て」
 部屋の外、扉の向こうから声が聞こえてきた。
 ……え?
 聞き覚えのある声だった。
 だが、この場に現れるにしては妙な人物の声である。
 女は声に反応して、そのまま動きを止めた。
 涼子としては、助かったと思う反面、その位置で停止されていると非常に恐い。
 やがて扉が開き、そこから一人の男が悠然と上がりこんできた。
「夜分遅くに失礼するぞ、四人とも」
 それは――――私服姿の一戸伝六だった。