異法人の夜-Foreigners night-

-日常編-
一戸家と山口家の事情(その3)
 間一髪の出来事だった。
 それが何であるかを認識するよりも早く、身体の方が本能的に動いていた。
 夜道、人気の少ない住宅街でのことだった。
 涼子を家まで送った後、彼女のことを色々と話していた。
 その場にいない人間の話題だったからか、結構盛り上がっていた。
 そんなときに、突然それは現れた。
 今でも、あのときの行動が正しかったのかどうかは分からない。
 他にもやりようはあっただろうが、自分にはあれが精一杯だったような気もする。
 しかし、そんな悩みは自分だけの問題だ。
 あの二人が抱えている苦しみに比べれば、些細なものだろう。
 ……やれやれ。悩んでたって仕方ないのにな。
 頭をぽりぽりと掻いて溜息をつく。
 そのとき、廊下の方で電話の鳴る音が聞こえてきた。
 他の面子は皆出かけているため、彼以外に出られる人間はいない。
「はいはい、今出ますよーっと」
 エプロンで手を拭きながら受話器を取る。
「はい、もしもし。こちら榊原ですが……」
 最初は愛想の良かった声が、すぐに低くなっていく。
 その後彼は何度か相槌を打ちながら、電話をかけてきた相手の話に耳を傾けていた。

「吉岡千恵さん……うーん、心当たりはないわね」
「そっか」
 鏡に映る自分たちの姿を見ながら、涼子は残念そうに呟いた。
 彼女の後ろには輪ゴムやブラシを手にしたゆきねが立っている。
 鏡に映る涼子の姿には、一つ普段と異なる部分があった。
 いつものポニーテールではなく、肩口から前に出す三つ編みになっているのである。
 夢里の休憩時間。
 ゆきねはよくこうして涼子の髪型を変えて遊んだりしている。
 涼子は昔からポニーテールで過ごしてきていたので、別の髪型をしている自分には違和感を抱いてしまうのだが。
「人探し?」
「うん。まあ、そんなとこ」
「そうなんだ。詳しく教えてくれれば、私の方でも探してみるけど」
「ああ、いいのいいの」
 なにせ特殊な事態だ。
 ゆきねを巻き込むのは避けたい。
「あら?」
 と、ゆきねが視線を動かした。
 涼子もつられて目を動かすと、そこには見覚えのある人影があった。
「……っ!?」
 突然のことに驚いて、涼子は素っ頓狂な声を上げてしまう。
 そこにいたのは、話題の主である吉岡千恵だった。
 改めて見るとやや気の弱そうな、普通の少女である。
 しかし最初に見たときの衝撃のせいか、涼子はまだ彼女という存在に慣れていなかった。
 物音一つ立てずに突然現れれば、当然驚く。
 ゆきねが側にいたので、喉から出そうになった声を慌てて飲み込む。
 だが、
「……もしかして吉岡千恵さんて、この子のこと?」
「うえ!?」
 当然のように千恵のことに気づいたゆきねを前に、つい素っ頓狂な声が出てしまった。
 そんな涼子の反応がおかしかったのか、ゆきねは手を当ててクスクスと笑っている。
 ……ぐ、なんであんたここに来たのよ!?
 涼子の恨みがましい視線を受けて、千恵はオロオロとしていた。
 一戸ならば彼女の言いたいことが分かるのだろうが、涼子には霊媒能力などないので分からない。
 千恵はあの後一戸に連れられて行った。
 それがここにいるということは、抜け出してきたのかもしれない。
「こらこら、そんなに恐い目で睨まない」
 ゆきねは涼子の肩をポンポンと叩きながら、千恵の方に向き直り、
「ごめんね。この子、年を重ねるごとに怒りやすくなっちゃって……」
「悪かったわね! っていうか年を重ねるって表現やめて!」
「はいはい」
 またもやおかしそうに笑うゆきね。
 普段は優しくて頼りになるのだが、時折こうして人をからかって遊ぶ癖があるのだ。
 困ったものだと以前梢に話したことがあるが、そのときは「お前も似たようなもんだろ」と返された。
「それで、どうしたのかしら」
 ゆきねは千恵を見て首を傾げる。
「うーん……私はその子と話せないから、事情は分からないけど」
「あらそうなの?」
「でも、話せる人……えと、一戸先生とかがいれば」
「ふうん、そうなんだ」
 事情が事情だけにぼそぼそと説明する涼子。
 しかし、そんな涼子に気づいていないのか、ゆきねは千恵に向かって何度も頷いていた。
「……ゆき姉、聞いてる?」
「涼子ちゃん。この子、暇だから散歩してたんだって」
「え?」
「その途中で知ってる気配を感じたから、来てみたんだらしいのよ。涼子ちゃんのことだったのかしらね」
 ゆきねはさらりと当り前のように話す。
「……もしかして、ゆき姉その子と話せるの?」
「うん、話せるよ」
「マジ!?」
 梢や零次でさえ千恵と会話することは出来なかった。
 それをいとも簡単にやってのけたゆきねが、なにやら今までとは少し違って見えてしまう。
「だってこの前も言ったじゃない。幽霊に会ったことあるって」
「偶然見かけたとか、そういう意味じゃなかったの?」
「んーん。子供の頃から、割としょっちゅう」
 そう言った瞬間、ゆきねの表情に微かな陰りが生じた。
 涼子はそれに気づいて、前面に出ていた驚愕の感情を奥に引っ込めた。
 梢や零次がそうだったように、ゆきねにもいろいろとあったのだろう。
 普通ではない力を持つということは、決して楽なことではない。
 そんなことも忘れていた自分に、涼子は心の中で喝を入れた。
 そんなゆきねの背中を、千恵がポンポンと叩いていた。
 涼子には千恵の声は聞こえないが、『まあ元気でも出して』と言いたそうな顔をしている。
 そのとき、休憩室に天夜が入ってきた。
「店長、一戸って人が来てますけど。少し時間取れるかって……」
 言葉を途中で止めて、天夜は眉間にしわを寄せた。
 その視線は千恵のいる辺りに集中している。
「店長。なんか店長の背中の辺り、妙なのがいる気がするんですが」
 千恵の存在感は大分増してきたらしい。
 天夜も彼女の存在をかなりはっきりと感じ取れるようになっているみたいだった。
 千恵はゆきねの背中から離れ、天夜の周囲をピョンピョン跳び始めた。
 自分がここにいるということをアピールしたいらしい。
 それに反応したのか、天夜の視線が徐々に鋭くなっていく。
 どことなく戦闘態勢に入っているようにも見える。
「ひ、緋河君? 一戸先生来てるの?」
「ん……ああ。やっぱ、例の件だろうか」
「そうじゃない?」
 涼子は天夜の意識を千恵から逸らしつつ、こっそりと千恵に『変なこと禁止!』とジェスチャーを送る。
 千恵はその意味を理解したのかしていないのか、あっさりとゆきねの元に戻っていった。
 どうやらそこが一番居心地がいいらしい。
「失礼するぞ」
 と、天夜の後ろから一戸が顔を覗かせる。
 ゆきねは彼の顔を見て、穏やかな笑みを浮かべた。
「どうしたの?」
「いや、そっちの家の電話番号を知らなくてな。直接用件を言いに来た。幸いここにいるのは当事者だけだから、このまま言っておこう」
 天夜は怪訝そうな顔を浮かべながら、一戸のために道を空けた。
「先生、それって」
「うむ。まあ、彼女のことについてだ」
 ちらりと千恵に視線を向けつつ、一戸はどこか悔やむように言った。
「明日、時間は空いてるか?」
「ごめん、明日はお店があるから……夜でいいなら、取れなくはないけど」
「夜は駄目だな。面会時間を過ぎてしまう」
 頭を振る一戸に対し、ゆきねは困った様子で「んー」と唸る。
「面会時間ってことは、病院に行くの?」
「ああ、そうだ。彼女はある人を探していてな。その探し人というのが……どうも、あの人らしい」
 一戸は苦しげな声を上げた。
 ……やっぱり、徳子さんのことだったんだ。
 一戸がわざわざここに来た時点で、涼子は薄々感づいていた。
 やはり千恵の探し人は、ゆきねの母・山口徳子で間違いないようだった。
 徳子は現在も精神状態が非常に不安定だという。
 そんな人に、千恵という訪問者は刺激が強過ぎる。
 一戸が苦い顔つきになるのも無理はない。
「とりあえず、俺とお前と……それから親父とで行く。まずは事情を説明して、それから会わせようと思うんだが」
「そっか……だったら今度の日曜じゃ駄目? それなら、病院に行く予定があるんだけど」
「ふむ……分かった、親父には言っておこう。一旦決めたことには五月蝿い爺だが、お前には弱いからな」
 一戸はどこかほっとしたように頷いた。
 二人の話が終わるのを待っていたのだろう。
 天夜はエプロンについた汚れを落としながら口を開いた。
「……よく分からないが、俺の部屋のことか?」
「ああ。君にはすまんが、少し時間をかけてしまう。が、何週間もかけるつもりはない。一週間前後でどうにかしよう」
「分かった。よろしく頼む」
「うむ」
 天夜に力強く応えると、一戸はそのまま出て行った。
 慌てて千恵がその後を追いかけていく。
「……なんだか今、すぐ側を妙な気配が駆け抜けていかなかったか?」
「気のせいでしょ」
 千恵が走り去った跡を見つめる天夜に、涼子は覇気のない返答をした。
 何か、心配になってくる。
 はたしてこの一件、きちんと解決するのかどうか。
 ……妙なことにならなきゃいいけど。
 ゆきねは笑顔のままでいる。
 しかし、その横顔はどこか寂しげに見えた。

 やがて、その日曜日がやって来た。
「で、なぜお前たちがここにいる?」
 一戸は押し殺した声で問いかける。
 問われているのは、なぜか病院の前に来ていた涼子と遥、それに零次だった。
「私が呼んだの」
 ゆきねが三人を擁護するように言った。
 事実、涼子たちはゆきねに誘われてやって来ているのである。
「おう遥ちゃんか。今日はわざわざすまんの」
「いえいえ。何かお役に立てたらいいんですけど」
 一戸の父、神主は特に気にしていないようだった。
 むしろ涼子たちの参加を歓迎しているようにも見える。
「……あまり大勢で押しかけられる相手ではないのだが」
「大丈夫ですよ先生、私たち病室の中にまでは入りませんって」
「なら何しに来たんだ、何しに」
「駄目だったときの予備よ」
 答えたのは涼子ではなくゆきねだった。
「もし私たちで話にならなかったら、代わりに涼子ちゃんたちにお願いしようと思って。お母さん、涼子ちゃんのことは可愛がってたから」
「……駄目だったら、か」
「そうなる可能性は、かなり高いと思う」
 話し合う二人の表情は、どちらも沈んでいた。
 二人の心境を映し出すかのように、今日は天候も曇っている。
「でもゆき姉、なんで先輩は駄目なの?」
 今日、涼子はゆきねから梢を連れて来ないよう言われていた。
 徳子は梢のことも気に入っていた。だから、涼子はそのことが腑に落ちない。
 なぜ自分は良くて梢は駄目なのか。
 ゆきねはその問いに頭を振ることで答えた。
「まあ、いいか。とりあえず入ろう。……親父」
「うむ。ま、やるだけやってみるかの」
 それっきり、六人は沈黙したまま病院の中を進んでいく。
 町外れの大きな病院は、休日ということもあってか人気があまりない。
 涼子たちのように、入院患者に面会する人が多少いるぐらいだった。
 やがて、一行は『山口徳子』と書かれた病室の前に辿り着いた。
「それじゃ、ゆき姉。私たちは外で待ってるから……」
「うん。あ、これでジュースでも買って飲んでて」
 と、ゆきねは涼子に小銭を渡す。
 そして、扉に控え目なノックをしてから、静かに入っていった。
 一戸と神主は、すぐには入っていかない。
 ゆきねが二人のことを告げてから入るのである。
「一戸教諭、大丈夫ですか」
 零次がやや驚いたように言う。
 見れば、一戸の顔色はかなり悪くなっていた。
「……ああ。何、いい年こいた男二人が尻込みしているに過ぎん。気にするな」
「そうじゃよ。すぐそこにラウンジがあるから、皆はそこで待ってなさい」
「ふむ……分かりました」
 三人はそれぞれ、どこか胸の内に奇妙な不安を抱きながらも、ラウンジの席に着いた。
 そして、零次が側にある自販機で飲み物を買っている間に一戸と神主の姿は消えていた。
 病室の中に入ったらしい。
「大丈夫かなぁ」
 遥が病室の方を見ながら呟く。
 病室からは何も物音が聞こえてこない。
 すぐ側だというのに、話し声一つ聞こえてこない。
 そのことが、逆に不安を煽る。
「今は、信じて待つしかあるま――――」
 零次が、そう言いかけた瞬間だった。
「……帰って!」
 甲高い女性の叫び声が聞こえてきた。
 病室からだ。
 その声に、涼子は聞き覚えがある。
「徳子さんの声だわ」
 その呟きも、病室からの声で掻き消されてしまう。
「何よ、今更! 全部、全部、全部……何なのよ! 貴方はいつもそうやって! ええ、誰のせいで、誰の……!」
 静寂な病院に響き渡るからこそ、その声は空恐ろしく感じた。
 知っている声なのに、まるで別物に感じる。
 少なくとも、涼子の知っている山口徳子は、こんな声を出したりしない。
 病室の異変に気づいたのか、ナースセンターから看護士たちが出てきた。
 扉を叩きながら、山口さん、と何度も呼びかける。
 すぐに扉は開いた。
 開けたのは一戸だった。
 それに続いて神主も姿を見せる。
 二人は申し訳なさそうに看護士に頭を下げると、ラウンジの方にやって来た。
 入れ替わりに看護士が二人、中に入っていく。
「帰って! あんたたちみたいな化け物――――」
「お母さんやめて!」
 扉が開いたことで、中の声がより大きく外に飛び出してきた。
 それに看護士たちが気づき、慌てて扉を閉めようとする。
 そのとき、涼子の耳に悲痛な声が飛び込んできた。
「――――お父さんと兄さんをそんな風に言わないで!」
 そこでピシャリと、扉は閉ざされた。
 残されたのは、疲れきった様子の一戸と神主。
 そして、呆然とする涼子たちだった。