異法人の夜-Foreigners night-

-日常編-
一戸家と山口家の事情(その5)
 すがすがしい空が広がっている。
 人間のちっぽけな悩みなど消してしまえそうな蒼天。
 そして、眼下に広がるのは豊かな町並。
 都会というには程遠いが、人々の活気に満ち溢れている町だ。
 そんな見晴らしのいい丘には、一本の木がぽつんと立っていた。
 まるで、町を見守っているかのように。
「……久しぶりだわ。ここに来るの」
「前にも来たこと、あるんですか?」
「ええ。……ずっと、ずっと昔に」
 涼子に連れられて来た徳子は、青白い顔にか細い笑みを浮かべた。
 無論、病院の中ではないので普段着である。
 徳子は退院したわけではない。
 涼子の提案で、町を軽く歩いてみよう、ということになったのだ。
 当然病院の先生たちの許可は取ってある。
 涼子は交渉が難渋すると思っていたが、先生たちは割合あっさりと許可を出してくれた。
『山口さんはずっと病室に篭もりきりだったからね。身体の方は健康だから、どこか落ち着ける場所を歩いて回るといい。ただし誰か同伴することが条件だ』
 そして当然のことだが、歩いていける範囲内で行動すること。
 その条件の下で、徳子は涼子と一緒に散歩をしていた。
 この丘は病院から、歩いて十分くらいの距離にある。
 広がる田園風景と、町の中心部とを両方見渡せる場所だ。
 ここに行こうと言い出したのは涼子である。
 彼女は事前にゆきねや一戸、神主からあれこれと聞き出し、ここが徳子にとって特別な意味のある場所だということを突き止めていた。
「この木も、まだあったのね……」
「おっきいですよね。何年くらいここに立ってるんでしょう」
「千年、という話を聞いたことがあるわ。本当かどうかは分からないけれど」
「へぇ……それじゃ、何か曰くとかありそうですよね」
「あるわよ」
 徳子は木をそっと撫でながら言った。
「ここで結ばれた二人は、とても大きな幸せを掴める。……ふふ、涼子さんたちくらいの世代になると、こんな話は信じないのかしら」
「いえ、素敵だと思いますよ」
 ただ涼子は、自分がここで告白されるようなことはまずないだろう、とも思った。
 なにせ相手があの朴念仁である。こうしたロマンチックな話など意にも介すまい。
 遥も似たようなものだろう。梢では零次以上に期待出来ない。
 無論、涼子はこの話も既に知っている。
 知っていて、この場所を選んだ。
 おそらく徳子にとって一番落ち着けるであろう、この場所を。
 時間が流れていく。
 とても穏やかに。
 最初はあれこれと二人で雑談をしていたが、そのうち言葉が尽きた。
 静かな中、風が吹いていく。
 秋の、風が。
「……私、ちょっと飲み物買ってきますね」
 頃合を見計らって、涼子が立ち上がった。
 徳子は木の下に座りながら、首を傾げた。
「この辺りに、買えるところあったかしら」
「さっき途中で自動販売機見かけましたから。ちょっと行って来ますんで、徳子さんはここで待っててください」
「ええ、分かったわ」
「あ、飲み物は何がいいですか?」
「そうね……お茶系をお願いしてもいいかしら」
「分かりましたっ!」
 涼子は景気の良い声を上げて駆け出した。
 ここに戻ってくるのが少し恐いな、と思いつつ。

 元気に走り出す涼子を見送って、徳子はほんの少し、羨望の念を抱いていた。
 涼子は家族を失い、孤独を味わいながらもそれを乗り越えた。
 今はあんなに元気そうにしている。
 それが、羨ましかった。
「ここは……変わらないのに」
 木に背中を預け、秋の町並を見つめながら、徳子は深い溜息をついた。
「――――互いに、随分と変わっちまったな」
 不意に。
 後ろから、声が投げかけられた。
 驚いた徳子が振り返る。
 木を挟んだ反対側に、小柄な人影があった。
 かつての面影はすっかり薄れてしまった、その薄い髪。
 たくましかった身体つきも、すっかり老いてしまっている。
 それは、かつて徳子がもっとも愛した男の、変わり果てた姿だった。
 穏やかだった心が、突如波打つのを感じた。
「……何の用?」
「話をしに来た」
「話すことなんて、何もないわ」
「こっちにゃある」
「聞きたくないっ!」
 拒絶の意思が口から飛び出した。
 かなり大きい声を上げてしまったが、周囲に人はいないので、人目を引くということはない。
「貴方はいつもそう! 自分の言いたいことばかり言って、私が答えて欲しいことには答えてくれない! 自分勝手よ、いつもいつもいつもいつもいつも……!」
「否定はせんさ。お前にゃ何回謝ってもキリがない」
「だったら消えて! その顔、その声……何もかもが嫌なのよ!」
「嫌で結構。俺一人のことなら、それで引き下がるがね」
 相手は嫌味なくらい淡々としていた。
 こちらへ来るつもりはないらしく、徳子と同じように大樹に背中を預けて座り込んでいるようだった。
「だがなぁ……伝六に罪はない。あいつくらいは、許してやってくれんか。そうしないと、ゆきねも気の毒だ」
「嫌よ! あの子も貴方と同じでしょ!? あの子がいるから、変なのが寄ってくるのよ! あんな化け――――」
「――――それ以上は言わん方がいい。あいつだけじゃない、ゆきねや……お前自身も傷つく」
 静かだが、有無を言わせない口調だった。
 その圧力に負けて、徳子は口をつぐむ。
「先日な。子供たち……涼子ちゃんや遥ちゃんから怒られたよ」
「……?」
 突然話題が変わった。
 徳子はそのことに戸惑いつつ、口をきつく結んだ。
 何かを叫びだしたいような衝動は絶えずある。
 しかし、一方で話を聞いてみようという気も少しだけ起きてきていた。
 それは、きっとこの場所だからだろう。
 相手は続ける。
「神主さんがきちんと徳子さんに向き合ってれば、あんなに徳子さんが傷つくこともなかったんじゃないですか、ってな。まあ、言われなくても自覚はあったが……他人に言われると、ちときついものがあるわい」
「……」
「これも良い機会だしの。……徳子。わしに、お前と向き合う時間をくれんか。寄りを戻そうなんて都合のいい話はせん。ただ、ほんの少しの時間でいい」
「………………」
 徳子の沈黙は長かった。
 しかし、相手の覚悟は重かった。
 おそらく、徳子が頷くまでそこを動かないつもりなのだろう。
「……なんで、今更なのよ」
「包み隠さず答えると、人助けのためだ」
「どういうこと?」
「お前に会いたがってる子がおる。ただし、今のお前じゃその子とは会えん」
「なんでよ」
「その子が幽霊だからじゃ」
「……」
 徳子は、一戸家のことをよく知らない。
 相手がそのことをひたすらに隠し続けていたからだ。
 しかし、何年も一緒にいればさすがに察しはつく。
 数年前の奇怪な化け物と、それを退治した一戸伝六。
 あのとき、徳子の中にあった懸念は事実となった。
「やっぱり……そういうのと縁があったのね」
「隠していてすまん。そのことで、お前に嫌われるのが恐かった」
「…………本当に貴方は自分勝手」
 深い溜息が零れ落ちる。
 相手はそれに応えない。
 昔のように慰めてはくれない。
 それだけ、時間が流れてしまった。
「――私は嫌」
 徳子は、そう言って静かに頭を振った。
「もう幽霊だなんだって、そんなことには関わりたくないの。貴方のことも、許せない。伝六のことは、考えておく。それが、私に出来る最大の譲歩」
「……駄目か」
「嫌よ」
 きっぱりとした拒絶だった。
 結局、相手は何も分かっていない。
 日に日に良く聞こえるようになってくる奇妙な物音。
 次第に近づいてくるような、不気味な気配。
 それに対し、徳子はたった一人で戦い続けてきた。
 側で支えてくれると信じていた相手は、しかし曖昧な言葉しか寄越さなかった。
 そして、数年前のあの事件。
 あのときは、実際に殺されるところだった。
 訳の分からない、人知を超えた出来事。
 今でも夢に見るくらい、とても恐ろしい光景だった。
 あんなものには二度と関わりたくない。
 関われない。
 支えてくれる者もなく、たった一人で耐え続けてきたのだ。
 もういいだろうと、思う。
「話が終わったなら、帰って」
「……」
「帰って」
「……分かった」
 どっこいせ、と声を上げて、相手はゆっくりと立ち上がり、そのまま去って行った。
 徳子は、また一人になった。

 同日の夕方。
 涼子は徳子を病院まで送った後、住宅街にある公園にやって来ていた。
 そこには零次や遥、天夜の姿がある。
「一朝一夕で上手く事が運ぶとは思っていない。そう気を落とすな」
 あまり事態が好転しなかったことを告げ、涼子は肩を落とした。
 零次はそんな彼女の頭をポンポンと叩きながら、慰めの言葉をかける。
「俺たちには考えられないくらい、長い時間をかけて作られてきた溝だ。部外者が簡単に修復出来るものではないし、酷なことを言ってしまえば俺たちの目的はそこにはない」
「……そうね。私たちに出来るのは、あの子を徳子さんにきちんと会わせてあげること」
「その通りだ。あの家族の決着はあの家族にしか出来ん。俺たちは、俺たちに出来ることをすべきだ」
 育った環境の違いからか、零次は割り切ることに長けている。
 目的を見失わず、そのために何が出来るかを考える力を持っているのだ。
 涼子は頭の回転こそ非常に速いが、その中に情が入ることも多い。
 余分なものを切って捨てることは、あまり得意ではなかった。
「でも、そうなると他に何が出来るかな……」
「そういや、一つ気になってたんだが」
 と、ベンチの脇に立った天夜が手を上げた。
「あの幽霊……吉岡千恵だったか。あいつはなんであの人に会いたがってるんだ?」
「それが、よく分からなくて……本人も、その理由は忘れちゃってるみたいなの。一戸先生が言うには、そういうことも珍しくないんだって」
「そうか。そっちの線から何か出来れば、と思ったんだが……」
 天夜は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。
 すっきりとしないのだろう、この状況が。
 その思いは、涼子たちも抱いている。
 だが、妙案は思い浮かばない。
 結局は徳子の心次第なのだ。
 しかし彼女は一人、心の中に閉じこもっている。
 それを開かせることは、簡単に出来ることではない。
「……おそらく彼女が求めているのは、支えなのだろう」
 誰にともなく、零次が呟いた。
「しかしその支えを見失っている。否……見つけてはいるが、それが支えてくれるかどうかの自信を持てずにいるのだ。俺は丁度逆の立場だったが……彼女の気持ちも、分からなくはない」
「逆?」
「……八年前のことだ」
 言われて、涼子は気づいた。
 零次が言っているのは、八年前――――涼子が災厄に巻き込まれたときのことなのだと。
 確かに、あのときの涼子と零次、そして今の徳子と神主の状況は似ていると言えなくもない。
「神主さんは、もう徳子さんと向き合う姿勢を持とうとしてる。後は、徳子さんがそれに応えてくれれば……きっと、千恵ちゃんとも向き合えるようになる」
 遥の言葉に、零次が頷いた。
「支えがなければ、彼女はまともに千恵と顔を合わせられまい。やはりここは、神主殿にもう一度……」
「いや、ゴリ押しで行っても無駄だろ」
「しかし緋河……」
「俺が行く」
 零次の言葉を断ち切るように、天夜は一歩前に出た。
「当事者同士で向き合い続けても、ああいう手合は頑なになるのがオチだ。それなら部外者が手を貸した方がいい」
「……それなら私が」
「駄目だ。冬塚さん、あんたはあの人に遠慮がある。遥さんも性格的に向いてないだろう。となると、俺か久坂さんになるわけだが」
「俺は不向きだ。繊細な人物の相手は、昔からなぜか上手くいかん」
「なら、俺だな。俺ならいずれこの町を離れるし、後腐れもない」
 そう言って天夜は歩き出した。
「ちょ、ちょっと待って! 今から行くの!?」
「こういうのは間を置かない方がいいもんだ。ま、やれるだけやってみるさ。何かあったら、電話で連絡する」
 手をひらひらと振りながら、天夜は病院の方へと姿を消した。
 残された涼子は今一つ不安そうな表情を浮かべている。
 そんな彼女の両肩に、遥が後ろから手を乗せた。
「大丈夫だよ。信じて、待とう?」
「……うん」
 遥の言葉に、涼子は頷くしかなかった。

「そういや、お前と徳子さんはどんな関係だったのか、少しは思い出せたか?」
 夕方。
 洗濯物を取り込みながら、梢は縁側に腰掛けている千恵に尋ねた。
 千恵はふるふると頭を振る。
「あー、そっか。半世紀近く前となると、簡単には調べられないだろうしなぁ……早く思い出せるといいんだけどな」
「そうね……」
「ん? ……ってゆき姉か」
 いつのまにか、千恵の隣にはゆきねが座っていた。
 気配に鋭い梢が、彼女に気づかなかったのは珍しい。
「美緒ちゃんに入れてもらったの。千恵ちゃんどうしてるか気になったから」
「いちいち断わりをいれなくてもいいよ。ゆき姉は俺たちの家族同然。好きなときに入ってくれればいいさ」
「ありがとう。……でも、ここを訪れるのも久しぶりね」
 以前は、ゆきねもよく榊原家に出入りしていた。
 料理や家事の小技など、いろいろなことをここで教えてもらっていた。
 それが急に途絶えたのは、あの事件が起きてからである。
「早くこの子を、お母さんに会わせてあげられたらいいんだけど……」
「その件は冬塚たちが一生懸命やってる。あいつらならきっと上手くやれるだろ」
 洗濯物を詰め込んだかごを置いて、梢も縁側に腰を下ろした。
「ま、今回俺は何も出来ないのが残念だがな」
「それは私も同じよ。何も出来てない。全部、任せっきり」
「ゆき姉は頑張ってるだろ、いろんなこと。皆、分かってるさ」
 そこで、会話は途絶えた。
 梢は洗濯物をてきぱきとたたみ、ゆきねは沈み行く茜空を見つめている。
 そのとき、間に入っていた千恵が、首を傾げた。
「……二人は姉弟かって? いや、ちょっと違うな。血の繋がりはない」
「でも、私は弟同然だと思ってるわよ」
「それを言うなら、俺だってそうだ。さっき言ったろ、ゆき姉は家族同然だって」
 なぜか少しムキになって言う梢と、くすくすと微笑ましげに笑うゆきね。
 そんな二人を交互に見つつ、千恵は小さく口を動かした。
 肉声は出ない。しかし、梢とゆきねには、彼女の声がはっきりと聞こえた。
 ――――私にも、そんな相手がいた気がする。
 千恵は、あまり自信なさそうに、そう言ったのである。

 天夜が病室に入ったとき、徳子はベッドで窓の外を見ていた。
 こちらを向こうとはしない。明らかに、来訪者を歓迎していない様子である。
 天夜はベッドの脇にある椅子に腰を下ろし、しばらく沈黙していた。
 徳子も口を開くことなく、ただ窓の外を見ている。
 否、本当は何も見てなどいない。ただ、いろいろなものが煩わしくて、それらのことから目を背けようとしているのだ。
 その沈黙は、一時間にも及んだ。
 日が暮れつつある頃。
 面会時間も残り僅かというときになって、ようやく徳子は口を開いた。
「……何か用かしら、緋河君」
「ああ、ちょっとな。見てられないんで、お節介だとは思ったんだが」
「そうね。いらぬお節介。出来れば帰ってくれないかしら。今は、一人になりたいの」
「断わる」
 天夜はきっぱりと、徳子の要求を突っ撥ねた。
「見てられないってのは、別にあんたのことじゃない。冬塚さんだとか、店長だとか。俺たちも困ってるんだよ。あの二人が店の中心だから、今みたいな状況が続くとどんよりして仕方がない」
「……」
「分かるか? その原因は、あんたにある」
「私のせいに、しないで欲しいわ」
「全部あんたのせいとは言わない。同情する点も多々あるし、根本的に悪いのはあの神主のおっさんだろう。でも、言わせてもらう。あんたにだって、責任はある」
 天夜の言葉は厳しいものだった。
 だが、徳子は反論せずに口をつぐむ。
「あのおっさんはあんたと向き合う覚悟を決めた」
「私がそれに付き合う義理はないわ」
「そうだな。だが、このまま引き篭もってても仕方ない」
 何かを確信しているような言葉。
 それに、徳子は身を強張らせた。
「……貴方に何が分かるの?」
「あんたらの事情は、まあ話に聞いた程度だからな。あまり詳しくは分からない」
「だったら――」
「けど、あんたは後悔するぞ」
 開いた窓から風が吹き込んでくる。
 カーテンが大きく揺らめき、紅葉が病室に舞い込んできた。
「――――私はずっと一人だった」
 風から顔を守るように、徳子は俯いた。
「訳の分からないものがずっと近くにあった。誰に言っても『気のせいだ』としか言ってくれない。あまりしつこく言うと変人扱いされて……それでも、あの人は私を支えてはくれなかった。何度も期待して、何度も裏切られた。既に私は沢山の後悔を積み重ねてきてる。今度も……きっと同じ。だから私は、もう関わりたくない」
「だったら、あのおっさんとは関わらなくてもいい」
「え……?」
「嫌なものを無理矢理押し付けたって意味ないだろうからな。そんなに嫌なら、関わらなければいい」
 ただし、と天夜は言った。
「一つ訂正すべきだな。あんたは一人じゃない。それくらい、付き合いの浅い俺でも分かる」
「……どういうこと?」
「分からないのか? あんたを支えようとしてる人間が身近にいるってこと」
「…………」
「個人名を挙げるなら、山口ゆきね、一戸伝六、冬塚涼子。少なくともこの三人は、本気であんたを心配してる。あんたの支えになろうとしてると、思うがね」
「それは……」
「そいつらと向き合うくらいはしたらどうだ? 俺から言えるのは、それくらいだな」
 面会時間が終わろうとしている。
 天夜は時計を見て、さっと立ち上がった。
 そして最後に、
「ああ、そうそう。あんたに会いたがってる幽霊ってのは、吉岡千恵って名前だ。既に聞いてるかもしれないが、一応言っておく」
「吉岡、千恵……!?」
 徳子はそこで、はじめて大きく表情を動かした。
「そんな、でも……なんで今更」
「気になるんだったら、本人に会って聞いてみてくれ」
 そう言い残して、天夜は病室を出た。
 残された徳子は、一人ベッドの上で呆然とするのみだった。

 病室の側にある待合室で、零次が待っていた。
「すまんな、面倒なことを押し付けてしまった」
「気にするな。あの夫婦には一言ガツンと言っておきたかった。それだけだ」
 二人は並んで歩き出す。
 病院から出ると、秋の冷たい夜風が身体を冷やした。
「俺の立場は、一戸教諭の親父殿と似ていてな」
 突然、零次はそんなことを言い出した。
 天夜は特に口を挟むことなく、耳を傾けている。
「今から八年前、冬塚が厄介ごとに巻き込まれた。まあ、"こちら側"の事件だ」
「……ふむ」
「その事件で冬塚は姉を連れ攫われ、両親を殺された。やったのは俺と同じ異法人だ」
「…………」
「その現場で、俺はそれまで隠していた自分の力を使って彼女を助けようとした。が、救えなかった。……そして恐れた。化け物としての正体を現した俺に、彼女が嫌悪の視線を向けてくるであろうことを」
「それで?」
「彼女の、事件に関する記憶。それを全て封じ込めた。事件後、彼女が目覚める前にだ」
 吐く息が白い。
 今日は、一段とよく冷える。
「だから俺には、自分の特異さをひたすら隠し通そうとした神主殿の気持ちも分かる。一方で、徳子さんの気持ちも痛いほどによく分かる」
「……俺も、分からなくはない」
 秋は暮れるのが早い。
 既に陽は完全に落ち、周囲は夜の闇に包まれている。
「だからこそ、ああやっていつまでもうじうじやられるのは嫌なんだよ。迷ってばかりいるうちにいつか手遅れになって、あのときああしておけばよかった、と後悔することになる。それが自分だけで済むことならいいが、大抵は他の誰かが巻き添えになる。それは、気に入らない」
「……同感だ」
 零次はかすかに笑って頷いた。
「しかし、お前の強さが羨ましいな」
「……は?」
「お前は迷うことなく自分の決めた道を進んでいく。並大抵のことでは出来ん」
「む……それは褒められてると解釈していいのか?」
「当然だ。俺は世辞など言わんよ」
 そう言って、零次は病院の方を振り返る。
「――――そんなお前の言葉だ。徳子さんを突き動かす力になれば、いいのだが」
 心というものほど、推し量るのが難しいものはない。
 今はただ、期待するしかなかった。

 榊原家の屋根の上で、千恵は一人星空を見上げていた。
 この日は、不思議と星が良く見えた。
 暇潰しに、星座を探している。
 千恵は生前のことをあまり覚えていない。
 ごっそり抜け落ちているのではなく、ひどく曖昧なのだ。
 それでも、星座は分かった。
 おそらく生きていた頃、星座のことが好きだったのだろう。
 そういえば、誰かに教えてあげた記憶もある気がする。
 なかなか、目的は果たせない。
 そもそもなぜ山口徳子という人に会いたいのか、千恵自身もはっきりとは思い出せないのである。
 ただ漠然と、会わなければ、と思い続けてきたのだ。
 しかし、その欲求は少しずつ薄れてきている。
 一戸の言うところの悪玉になりかけているのかもしれない。
 自分のことを省みて、千恵はその不安を抱くようになった。
 千恵の霊魂は不安定な状態らしく、いつどうなるか、一戸にも神主にも分からない状態である。
 だから、早く目的を果たさなければならない。
 しかし、そのことで多くの人に迷惑をかけているのも申し訳ないような気がした。
 この家の人々、あの部屋の人、神社の人、お店の人――分かっているだけでも、これだけの人々に迷惑をかけている。
 ただ、申し訳なく思う反面、嬉しくもあった。こうして多くの人が力を貸してくれるなど、生前にはおそらくなかったことだから。
 そして、それとは別の嬉しさもある。
 こちらの感情については、千恵自身もよく分かっていないのだが。
 夕方の会話を思い出す。
 梢とゆきねは、血の繋がりこそないが、家族同然の仲だという。
 その後に知ったのだが、この家に住んでいる人々は、ほとんど血の繋がりを持っていないらしい。
 それでも皆、楽しくやっている。
 逆に、血の繋がりを持っていても、上手くいかない場合もある。
 難しいな、と千恵が思った瞬間。
 流れ星が一筋、夜空で輝いた。

 翌日。
 徳子からゆきねに電話があった。
 一戸と話をしたい、という内容だった。