異法人の夜-Foreigners night-

-日常編-
一戸家と山口家の事情(その6)
 一戸と徳子は、朝月学園の前で待ち合わせた。
 徳子はまだ入院中の身だから、ゆきねが付き添っている。
 ゆきねと徳子は校門の前に立っていた。
 通り過ぎていく生徒たちが訝しげに二人を見る。
 彼らに対しゆきねは愛想のいい笑みで応じたが、徳子はさして気にした様子もなく、ただじっと校舎を眺めていた。
 そこに、背広姿の一戸がやって来た。
 姿勢を正しくし、硬い表情で徳子の前に立つ。
「……」
「……」
 二人は挨拶を交わすわけでもなく、罵倒し合うわけでもなく、静かに向き合った。
 これまでの徳子は、一戸の顔を見るとすぐに甲高い声を上げて追い払うか、無視するかしていた。
 しかし今は、しっかりと向き合っている。
 親子の対面にしては緊迫した雰囲気だが、この二人の場合、格段の進歩というべきだろう。
「……ここも、随分と変わったわね」
「ああ。俺が学生だった頃と比べても随分と違う。貴方が通っていた頃と比べれば、ほとんど別物だろう」
「貴方も、随分と変わった」
「……」
「それに、私も」
 徳子は虚ろな眼差しを閉じて、かすかに肩を落とした。
「ごめんなさい、と言うのはもう少し待たせてもらえないかしら。……もう少し、心の整理がついてから」
「……別にそれは、俺がどうこう言うことではない。好きにしてくれ」
 一戸の口振りは素っ気無い。
 無理もない。
 この親子は、これまでにほとんど親子らしいやり取りをしたことがなかった。
 むしろ、互いに忌避しあっていた。
 一朝一夕に仲直りなど、出来るはずがない。
 それでも。
「……では、落ち着ける場所へ行こう。この季節、ここで立ち話をしていては身体に悪い」
「ええ……」
 こうして、言葉を交わすことは出来るようになった。
 そんな二人の後ろに立ちながら、ゆきねはかすかに安堵の表情を浮かべた。

「大丈夫かな、先生たち」
 学校からの帰り道。
 涼子は大学の方に顔を出し、遥たちと一緒にお茶を飲んでいた。
 涼子はしきりに、一戸たちのことを案じていた。
 徳子のことを思うと、どうしても不安になってしまうのである。
 遥もそれは同じようだった。
 一人、零次だけが落ち着き払っている。
「ここから先は、他人が入るべきではなかろう。家族の問題というのは、きっとそういうものだ」
「そういうものなの?」
「……多分」
 零次は若干声を濁した。
 家族の問題、と言われても、この三人にはそういったものがよく分からないのである。
「だが、家族同士で向き合おうとしているときに、邪魔が入ってはまずいだろう。……と思うのだが」
「まあ、そうかもしれないけど。気になるのよ、やっぱ」
「ならばこっそり様子を見に行くか?」
 零次の試すような問いかけに、涼子は頭を振った。
「行きたいってのが本音だけど……」
「やめておくか」
「そうしとく。私たちに出来ることは、今のところなさそうだし」
「というか、結局あんまり役に立てなかったけどね」
 遥が苦笑をこぼす。
 確かに今回、三人はあまり役に立てなかった。
 徳子の説得に当たったのは天夜だし、千恵については一戸らがいなければどうにもならなかった。
 結局、右往左往するばかりだった。
「まあ、家族の問題にしろ幽霊問題にしろ我々の専門外だったからな。仕方あるまい」
 零次や遥も普通の人間にはない力を持っているが、幽霊に関しては全くの無知だった。
 同じ"異質"でも、方向性が違うのである。
「そういえば、あの子の様子はどう?」
「千恵か」
「ええ。彼女、そっちによく出入りしてるんでしょ?」
「うむ。倉凪のことが気に入ったらしい。遥は気が気でないようだが……」
「ち、違うよ!? 久坂君、いい加減なこと言うの禁止!」
「ククク、それは失礼。――――まあ実際、問題はなさそうだな」
 零次は底意地の悪い笑みを浮かべながら言った。
 それを聞いて、涼子は少しだけ安心する。
 ここまできて千恵に何かあったら――悪霊にでもなられたら――救いがない。
「そういや先輩はどんな感じ?」
「ふむ。千恵とは実に仲睦まじき様子で……」
「えっ!?」
「というのは冗談だが」
「……久坂君ー!」
「いや、まあ冗談として。……倉凪が、どうかしたのか?」
 遥を宥めながら問いかける零次に、涼子は「んー」と言葉を濁した。
「なんとなく、先輩も何か一枚噛んでる気がして。徳子さんが数年前、悪霊に襲われたでしょ。それと同時期に、先輩も夢里に寄り付かなくなったのよ」
「そうなの?」
「うん。急にバイトも辞めちゃって。ゆき姉と喧嘩でもしたのかと思って、二人にそれとなく尋ねたりもしてみたんだけど、曖昧な返事ばっかりされてたわ」
「なるほど。冬塚が今回の件をいろいろと気にしていたのは、そういうことがあったからか」
「まあね。ゆき姉に徳子さん、先輩。皆仲良さそうだったのに、急にバラバラになって……凄く寂しい気がしたから」
 涼子たちは、一戸や梢たちから、数年前の事件で梢が関与していたことを聞かされていない。
 かろうじて涼子が、何かある、ということを察している程度だった。
 三人は知らないことだが、これには一応理由がある。
 事件後、梢と一戸らは互いの"普通ではない部分"を知った。
 そして彼らは、そのことを誰にも口外しない、と約束し合ったのである。
 一戸たちは、零次たちの事情――彼らも梢と同質の存在であること――を知らない。
 だから、梢の異能と、それに関わる事件の真相については語らなかった。
「……人と異能の付き合いは、やはり難しいものだな」
 零次はそのことで家族を失った。
 否、零次だけではない。
 涼子や遥、亨も同じである。
 最近日常に溶け込んでいたので、その難しさを失念していた。
「でも、それだけかな」
 零次の言葉に、遥が疑問の声を上げた。
 涼子と零次の視線が、一斉に遥へと向けられる。
「普通とか異能とか、そういうのだけじゃなくて……もっと別のところに、問題があったんじゃないかな」
「神主さんが徳子さんに何も言わなかったこととか?」
「それもあるし……徳子さんも、先生たちからずっと逃げ続けてきたわけでしょ」
「でも、それは無理もないと私は思うけどな」
「うん。私もそう思う。でも、徳子さんがそこで踏ん張っていれば、もっと良い道を選べたかもしれない」
「まあ確かに……。ゆき姉や一戸先生のことでは、徳子さんにも問題はあった、かな」
 神主と徳子の関係だけを見れば、徳子に何も話さなかった神主に問題があるだろう。
 しかし、その後の徳子に関しては、少なくとも一戸に対する扱いという点では、弁護しにくい。
 家族なのに、互いに支えあうことが出来ず、それぞれが一人で立とうとしていた。
 それでしっかりと立っていれば問題はなかった。が、徳子が立てなくなった。
 誰も、彼女を支える力にはならなかった。
 むしろ、傷つけてしまった。
「家族って、恐いね」
 物憂げな表情で、遥がぽつりと言った。
「とても近くにいるから、一番支え合うことが出来るかもしれない。でも……近くにいるからこそ、一番傷つけ合うことにもなるかもしれない」
 風が冷たい。
 秋の陽射しが、そろそろ沈む時間になっていた。

「そうか、会えることになったのか」
 翌日。
 梢は、榊原家を尋ねてきたゆきねの口から、昨日の首尾を聞かされた。
 話すゆきねも、聞いている梢も、隣にいた千恵も、皆ほっと一息ついた。
 が、ゆきねはすぐに表情を引き締めて、梢を正面から見据える。
「梢君は、どうする?」
「……俺?」
 突然の問いかけに、梢は戸惑いの表情を浮かべた。
 千恵の方に視線を移すが、彼女の方も、ゆきねと同じような表情を浮かべ、梢のことをじっと見ている。
「お母さんと、会ってみるつもりはない?」
 補足するように、ゆきねが言った。
 それを聞いて梢は得心し、即座に頭を振った。
「やめとくよ」
「……そう」
 ゆきねもこの答えは半ば予想していたらしい。
 残念そうに頷いて、それきり口を閉じた。
 代わりに千恵が、なんで、と言いたげな視線をぶつけてくる。
 梢は肩を竦めて苦笑した。
「徳子さんは、ありったけの勇気でお前と会うんだ。多分、そのことで必死だろ。俺なんかが出て行ったら、徳子さんとお前の対面が失敗する可能性が高いんだよ」
「……」
「気にするなって。元々今回のことはお前が発端なんだ。心残りなくして成仏出来るよう、頑張れよ」
 そう言って、梢は千恵の頭をポンポンと叩こうとする。
 が、彼女には実体がないため、当然触れることは出来ない。
 スカスカとその手が通り抜けるのを見て、ゆきねがおかしそうに笑った。
「ちぇっ、笑わなくてもいいだろーがよ」
「ごめんごめん」
 梢は気恥ずかしそうにそっぽを向く。
 ゆきねと千恵は、声を殺して笑い合った。
「でも、梢君は変わらないわね。ちょっと、安心したかな」
「……いや、変わったさ」
 そっぽを向いたまま、はっきりと梢が答えた。
 その声は重く遠い。長い旅路を終えた者が持つような、そんな声色である。
「俺だけじゃない。時間が経てば、誰だって変わる。俺も、徳子さんもな」
 梢は千恵の方を振り返って、言った。
「だから、これからお前が会う徳子さんは、お前が知ってる徳子さんじゃないように見えるはずだ。……でも、それでも徳子さんは徳子さんなんだ。このこと、覚えておいてくれ」
「……」
 梢に、千恵の言葉は聞こえない。
 それでも、彼女が『分かった』と返答したのが、不思議と理解できた。

 場所は、あの大きな木の下。
 そこを指定したのは、徳子の方だった。
 立ち会うのは一戸とゆきね、それに涼子に零次、遥と天夜である。
 梢と神主は、徳子の感情などの問題から、この場にはいない。
 時刻は夜の零時。
 これを指定したのは一戸の方である。
 涼子たちにはよく分からないのだが、この時間帯の方が、千恵の状態が安定していて危険性が下がるらしい。
 無論徳子は入院中のため、本当はこんな時間に外出など認められていない。
 涼子たちの手引きで、こっそりと抜け出してきたのだ。
 そして今、一同は大樹の下に集まった。
 対面した徳子と、千恵。
 二人は互いに正面から向き合ったまま、何を語るわけでもなく、沈黙していた。
 それを少し離れた場所から取り囲んでいる一戸や涼子たちも、じっとその様子を見守っている。
 最初はおぼろげにしか見えていなかったのだろう。
 徳子は何度か目をこすり、千恵のことを注視していた。
 その手が震えているのは、幽霊という存在に対する恐怖心か、それとも別の何かなのか。
「……千恵、さん」
 千恵が両目を大きく開き、怯えるような声を上げた。
 無理もない。
 半世紀以上前に死んだ人物が、そのままの姿で目の前に立っているのだ。
 対する千恵の方も、徳子のことをじっと見つめていた。
 その表情には戸惑いがあることに気づき、涼子は一戸に小声で問いかけた。
「先生。あの子は、まだ思い出せてないの……?」
 生前の記憶を、である。
 千恵は自分が死ぬ前のことをほとんど覚えていない。
 徳子のことも、具体的に覚えていたわけではなかった。
 だから、今もあんな風に戸惑いの表情を見せている――涼子はそう考えていた。
 しかし一戸は、険しい表情で二人の方を向いたまま黙っていた。
 涼子には一瞥もくれない。
 無視しているわけではなさそうだった。
 一戸からは、余裕が感じられない。
 こうした問題のプロである一戸にこんな顔をされると、涼子まで不安になってくる。
 何か懸念材料でもあるのだろうか、と。
 そのとき――――千恵の身体が、大きく揺れ動いた。
 ふらついた、などという程度ではない。
 千恵の身体そのものが、まるで雲のように形を崩したのである。
 それは、例えるなら消えてしまう蜃気楼のようでもある。
「何……!?」
 全員が同時に異変を察した。
 が、即座に動いたのは一戸一人だった。
 彼は徳子と千恵の間に素早く入り込み、
「早く逃げるんだ!」
「え……?」
「離れろと言っている! ゆきね、この人を連れてさっさと逃げろ!」
 二人に叫びつつ、一戸は涼子たちの方にも視線を向けた。
 その目は、さっさと逃げろと物語っている。
「どういうことだ」
 怪訝そうな表情で天夜が一戸に詰問する。
 そうしている間にも、千恵の姿はどんどん崩れていく。
 人間らしき形は、かろうじて取り留めている。
 彼女は俯き、両手で頭を押さえながら、何か呻いているようだった。
 いやいやするように、身体全体を振り回す。
 その度に、あちこちが形を失っていく。
「霊魂というのは不安定だから、元々生前の記憶なんかは薄れがちだ。だが、彼女にはもう一つ、生前のことを忘れている理由があった」
「何……?」
「最初に言ったろう。彼女は、いじめにあって自殺したのだ、と」
「それが、どう関係がある」
「彼女は今、自殺するほどのいじめにあったことを思い出したんだ。おそらく、この再会で記憶が揺さぶられたからだろう」
 徳子が生前の千恵をいじめていたわけではない。
 しかし、千恵の生前に関わっていたという点では、いじめの記憶も、徳子との思い出も等しい力を持っている。
 徳子との再会によって、千恵は過去を思い出してしまったのだ。思い出さなくてもいい部分まで、一緒に。
「霊魂の安定・不安定は心の強さに影響している。今の彼女は不安定極まりない。……このままだと悪霊に転化してしまう!」
「な、ならどうするの!?」
「――――滅するしかあるまい」
 恐ろしいくらい冷徹な声で、一戸は懐から数枚の札を取り出した。
 一戸自身は、悪霊の相手はあまりしたことはない。悪霊退治の専門家は別にいるからだ。
 しかし、この場では一戸以外に悪霊と戦える者はいなかった。
「止めることは出来ないのですか」
 零次の言葉に、一戸は首を振った。
「彼女自身が耐え切れなくなったら、俺たちにはどうしようもない……!」
 千恵の身体に、更なる変化が訪れた。
 色が、少しずつ黒くなってきているのである。
 ここまで来ると、一戸の説明がなくとも、千恵が悪霊になりかけていることが誰の眼にも明らかだった。
「千恵、さん……」
 ゆきねに腕を掴まれながらも、徳子は逃げていない。
 崩れつつある千恵の姿を、怯えながら凝視していた。
 
 痛い。
 とてもずきずきする。
 頭はもうないはずなのに、何か頭が痛いような気がする。
 千恵は錯乱状態にある。
 一気に押し寄せてきた生前の記憶に、溺れかけているのだ。
 周囲から受けた、凄惨としか言いようのないいじめ。
 そのときに感じた痛みや絶望感が、一斉に襲い掛かってきている。
 目の前にいる女性――――徳子を見た瞬間から。
 なぜ、彼女を見てこんなことを思い出したのか。
 千恵には、あまり豊かな発想力は残されていない。
 だから、単純に考えた。
 ……こいつが私をいじめていたのだ、と。
 一旦そう思い始めると、他の選択肢は消えてしまう。
 千恵は徳子のことをはっきりと思い出す前に、『いじめの主犯』と断定し、そのようにしか彼女を見ることが出来なくなっていた。
 なら、自分はなぜ彼女に会おうとしていたのか。
 これもまた、単純に考えられた。
 つまり、復讐である。
 許せない。
 殺してやる。
 そんな声が、千恵の内側から聞こえてきた。
 憎悪の感情が、次第に大きく膨らんでいく。
 千恵の足が崩れた。
 その代わり、肩が肥大化し、人間場慣れした形になる。
 次に変化したのは腕だった。
 倍近くの長さとなり、爪も禍々しく伸びていく。
 これなら、目の前の相手を殺すことができる。
 千恵は、その腕を振り上げた。

 人間としての形を失いつつあった千恵が、徳子目掛けて巨大な腕を振り下ろした。
 徳子は呆然としたまま立ち尽くしている。
 危うく切り裂かれるところだったが、そうはならなかった。
 零次が横から飛び込み、徳子とゆきねを突き飛ばしたからだ。
 千恵の爪は零次の肩を軽く裂く。零次は顔をしかめながらも、千恵を正面から見据えた。
 それを見て、一戸が千恵の腕に札を放った。
 どういう効果があるのか、札が触れた瞬間、千恵は声なき悲鳴を上げた。
「や、やめて!」
 と、零次の後ろにいる徳子が叫んだ。
「その人を、どうするの!?」
「先ほども言った。こうなったら滅する他ない」
「……っ」
 徳子は息を呑んだ。
 否、零次や、おそらくゆきねもそうだろう。
 千恵を滅ぼすと宣言した一戸の気迫は、歴戦の勇士である零次をも凍りつかせる程のものだった。
「こうなってしまっては、もう駄目だ。周囲に害が広がる前に討つ」
「で、でもそうなったら千恵さんは……」
「このまま野放しには出来ん。それとも貴方は彼女を、悪霊として未来永劫彷徨わせたいのか」
 徳子は何も言い返せなかった。
 突然の事態に混乱しているのだろう。
 それは零次たちとて同じだった。
 千恵は札を貼り付けられた腕を振り回し、もがき苦しんでいる。
 既に人間の形を留めていないから、表情は分からない。
 しかし、その光景は――――悲惨としか言いようがなかった。
「千恵さん……」
 ゆきねに支えられながら、徳子は悲しそうにその名前を呼んだ。

 誰も助けてはくれなかった。
 いじめにあったとき、彼女は一人ぼっちだった。
 両親や兄弟は相手にしてくれず、友人たちも皆知らん顔をしていた。
 頼れる者は誰一人としていなかった。
 支えてくれる人は、いなかったのだ。
 だから彼女は自殺をした。
 死ぬとき、これで楽になるのだ、これまでのことを忘れられると、そう安堵しつつ。
 しかし、そのとき、自分はたった一つだけ心残りがあったのではないか……?
 そんな疑問が、千恵の中に湧き上がって来た。
 それもまた、徳子のことを見ているうちに思い浮かんだことである。
 殺してやるという憎悪の念と、そうしてはならないという戸惑いの念。
 それらは混同し、千恵の心を大きく乱しつつあった。
「千恵さん……」
 目の前にいる女性が、何度目かの呟きを漏らした。
 この声に、千恵は懐かしさを感じない。
 彼女の顔にも見覚えはない。
 なのに、彼女を見ると昔のことを考えてしまう。
 苦しい。
 とても苦しくて、どうすればいいのか分からない。
 そのとき、ふと千恵の脳裏にある言葉が浮かび上がってきた。
『だから、これからお前が会う徳子さんは、お前が知ってる徳子さんじゃないように見えるはずだ。……でも、それでも徳子さんは徳子さんなんだ。このこと、覚えておいてくれ』
 あの寂しそうな少年が、そんなことを言っていた。
 人は変わる。けれど、変わらない部分も持ち合わせている。
 ……山口、徳子。
 昔と変わらぬ、その名前を口にしてみる。
 千恵の声は一戸やゆきねにしか届いていないだろう。
 徳子には、伝わっていないはずだ。
 それでも、千恵は気づいた。
 徳子の名前を口にしながら面を上げ、徳子と目があった。
 その眼差しには、確かに見覚えがある。
「千恵姉さん……」
 そして、徳子がそう言った瞬間――――千恵は、全てを思い出した。

 徳子は父子家庭で育った。
 母親を早くに亡くし、仕事に勤しむ父の元で暮らしていたため、日中徳子はいつも一人ぼっちだった。
 そんなとき、徳子の家族代わりになってくれたのは、近所に住む少し年上のお姉さんだった。
 あまり人の面倒を見るようなタイプではなかった。
 鈍臭かったし、泣き虫だったし、成績だって悪かった。
 徳子の方も生意気盛りで、よく彼女に反抗的な態度を取ったりもした。
 嫌われてもおかしくないようなこともした。
 それでも彼女は――――千恵は、一人ぼっちの徳子のことを、いつも気にかけていてくれた。
 徳子にとっては、確かな支えだった。
 だから、彼女がいじめによって自殺したと聞かされたとき、徳子はその事実が嘘のように思えた。
 徳子の前で、千恵はそんな素振りを一度も見せたことはない。
 いつも穏やかに笑って、時々徳子に説教をしていた。
 そんな彼女が、想像を絶するほどのいじめにあって、それを苦に自殺をした。
 徳子の前から、永遠に姿を消してしまった。
 そのことを、徳子は強く後悔した。
 支えられてばかりで、千恵の支えになってやれなかった自分を。
 そして誓ったはずだった。
 いつか、自分も誰かを支えられるような人間になりたい、と。
 それを――――いつしか忘れてしまっていた。
「千恵姉さん……」
 徳子は一戸の傍らに立ち、動きを止めた千恵に語りかけた。
 千恵は少し落ち着いたらしい。元の形に戻ったわけではないが、徳子を襲おうというつもりではなくなったらしい。
『……徳子ちゃん』
 返ってきた言葉は、紛れもなく、懐かしい彼女の声だった。
 はっきりとした千恵の言葉を聞き、警戒していた一戸の表情に驚きが浮かぶ。
『ごめんね。私、うっかり者だから……今まで、徳子ちゃんのこと、忘れてた』
「……それでも、会いに来てくれたんでしょう?」
『うん。どうしても、心残りだったんだ』
 千恵の顔が少し元の形に戻った。
 彼女は照れ笑いをしながら、周囲を見渡した。
『でも、心配なんかする必要なかったね』
「え?」
『私が心配してたのは、私がいなくなって、徳子ちゃんが一人ぼっちになってないかって……そのことだったの』
 でも、と千恵は頭を振った。
『大丈夫、だね。こうして、貴方のことを思ってくれる人たちがいるんだもの』
 気づけば。
 涼子も、遥も、天夜も、皆徳子を守ろうと、千恵の側に立っていた。
 千恵からすれば、取り囲まれたような形である。
 そのことが、逆に嬉しかった。
 皆は徳子のことを守ろうとして、そうしたのだから。
『徳子ちゃんのことを支えてくれる人が、こんなにいる。もう……一人ぼっちじゃないね』
「……」
『ごめんね。昔から余計なおせっかいばっかりで。沢山の人に、面倒かけて』
「そんなこと、ない」
 徳子は大きく頭を振って、千恵のすぐ前までやって来た。
「千恵さんには、本当に感謝してる。あの頃は素直に言えなかったけど……確かに私は、貴方に救われていた」
『……なんだか、照れるな』
「それと、ごめんなさい」
『え?』
「私は……貴方にずっと助けられてたのに。貴方を助けることができなかった。そのことを、ずっと謝りたかった」
 深々と頭を下げる徳子に、千恵は押し黙った。
 徳子はなかなか頭を上げない。
 そのうち、千恵の方が根を上げた。
『謝らなくてもいいよ。私の方も徳子ちゃんに助けを求めなかったし。そのことで謝られると、私としても少し心苦しいかな』
「でも……」
『まあ、ちょっと羨ましくはあるけどね』
 千恵の身体は、少しずつ人間の形に戻りつつあった。
 そんなことは滅多にないケースなのか、一戸は驚愕の色を隠せずにいる。
 やがて人に戻った千恵は、ゆっくりと周囲の人々を見回した。
 そして最後に、徳子の方を向いて笑った。
『だから、徳子ちゃん。支えてくれる人がいるってこと、忘れないで。それを大切にして、幸せに生きて欲しいな』
「……千恵姉さん」
 徳子の声は震えていた。
 そんな彼女のことを最後に抱き締めながら――――千恵の姿は、夜空に溶け込むように、消えていった。

 人はいつでも支えあえるわけではない。
 むしろ、一方的に支えてもらったり、支えなければならなかったりすることの方が多い。
 それを負担と感じることもあるだろうし、不足とすることもある。
 常に満足し合える関係など、この世にはない。
 例え家族同士だろうと、恋人同士だろうと、親友同士だろうと。
 だからこそ、誰かを支えようとする心は尊い。
 だからこそ、誰かに支えてもらえる瞬間は尊い。
 今は、自分が一人ぼっちだと思っていても。
 それがずっと続くなどということは、ない。
 少なくとも、自分が一人であることを拒み続けるならば。
 誰かに救いを求め続けるのならば。
 どこを見渡しても救いがない、という状況でも。
 次の瞬間、何か良いことが起きる可能性はある。

 ある日、珍しく梢は夢里にやって来た。
 普段はあまりここに来ることはないのだが、今日は涼子から呼び出しを受けていたのである。
「で、どうしたんだよ今日は」
 席に着いた梢は、訝しげに隣の席を見ながら愚痴るように言った。
 なぜかそこには、神社の神主がいたのである。
「なんで一戸の爺さんと相席?」
「そりゃこっちの台詞じゃ。なんで倉凪の小僧と相席なんじゃい」
 二人揃って戸惑いの声を上げる。
 確かに、この組み合わせは妙だった。
 呼び出した涼子は、彼らの疑問には答えず、含み笑いを残して去って行った。
「な、なんだったんだ……?」
「お前さん、あのお嬢ちゃんを怒らすような真似でもしたんじゃないのか?」
 そんなことを言い合っているうちに、二人の前に洋菓子が運ばれてきた。
 運んできたのは、ゆきねである。
「なんだこれ?」
「わしら、特に注文はしとらんぞい」
「いいのよ。まあ、食べてみて」
 新しいケーキの試食か何かだろうか、と思いながら二人はそれを口にする。
 ゆきねが勧める料理にまずいものはないというのが、彼らの共通認識だった。
「うむ。上手いのう……クリームの量が程よい。しつこくない甘さじゃ」
「だな、美味しい。でもこれ、新作料理なのか? どっかで食ったことある気がするんだが」
「ほう、お前さんもか。わしも、随分前にどこぞで食ったことある気がするのう」
 言いながら、二人はパクパクとケーキを食べる。
 そんな彼らを、ゆきねは微笑ましげに見ていた。